永遠が見える島
健太が駄菓子屋から帰って来ると、奥の六畳の部屋で姉の美月がテーブルに図面を広げて、なにやら工作をしていた。
彼女は細い木で出来た長方形の型枠に和紙を張っている。
健太は銀玉ピストルで 美月の腕を狙って撃った。
粘土で出来た小さな銀玉が 美月の腕に弾けた。
「何すんの、この子は」美月がにらむ。
「えへへ……」健太は笑ってごまかした。
「冷蔵庫に冷えたラムネがあるよ、のどが渇いていたら、飲んどき」
美月はまた、工作に打ち込む。
健太は急いで冷蔵庫まで行き、ラムネを取り出した。栓抜きで、シュポンとビーダマを抜き、細かい泡がパチパチとはじけるのを見ながら飲んだ。
ラムネを飲みながら、再び美月のところに戻った。
「それなんや」と、訊ねた。
「回り灯籠や。中の蝋燭に火をつけると、内枠が炎のぬくもりで回って外枠に影絵が映るのや」
「なんや、意味がようわからんわ」
「わからんかてええ、あとで、見せたるさかい、夏休みの宿題でもしとき」
そう美月は言ったきり、黙ってしまった。
小学六年生にもなると、難しい工作が出来るようになるのだなと健太は感心した。まだ二年生の自分から見れば、姉の美月は大人のように思えた。だからつい甘えてしまい、駄菓子屋で手に入れた銀玉ピストルを試したくなったのだ。
健太は所在なさそうに、しばらくは美月の器用な手先を見ていたが、やがて子供部屋に行き、夏休みの宿題をし始めた。
窓枠に吊るした、風鈴が涼しげな音を鳴らした――。
朝顔のつるが、窓枠に立てかけた竹の棒に絡みついて上に登っている。
健太は夏休みの宿題を机の上に広げてはいたが、鉛筆を鼻の下に挟んでぼんやりとしており、さっぱりやる気がない。
「夕食の買い物に行ってくるさかい、留守番頼むよ」
美月の声が聞こえた。
窓枠の朝顔の隙間から、美月がすたすたと歩く姿が見えたので、銀玉ピストルでパンパン撃った。すると 美月は振り向くとアカンベーをした。
健太は鼻の下に鉛筆を挟んでいたので、アカンベーをしそこなった。
それから美月が何を作っていたのか興味がわき、六畳の部屋に行った。回り灯籠が完成してあった。
健太はしばらく回り灯籠を見ていたが、要領がわかったのか中の蝋燭に火をつけてみた。すると、中枠が回転しだして影絵が動き出した。健太はそれを持って押入れに入った。
押入れの中は、樟脳の匂いがする。障子を閉めると、むんとする空気のよどみが肌にまとわりついてきた。回り灯籠を見ると、中枠がゆっくりと回転しており、外枠の和紙に影絵がぼんやりと映っていた。それは、線香花火をしている、家族の影絵らしかった。父親と母親それに子供が二人……。姉と弟らしかった。
幻想のような世界に、「おかあちゃん……」と、健太は思わずつぶやいていた。
健太の母親は彼を交通事故から守ろうとして亡くなったのだ。
回り灯籠はぼんやりとした明かりの中で、幸せそうな四人家族を映し出して、回転していた。
その夜、健太は美月とふたりで遅い夕飯を食べていた。
父親の直樹は妻が亡くなってから、帰りが遅くなっていた。いつも飲み屋で酔っ払って、帰ってくる。
美月はそれをわかっていたが、父親の食卓には料理をおいていた。母親がいなくなってから、彼女の作っていた手作りのレシピを見て、美月は料理を作った。父親の食卓には子供たちが食べる料理のほかに一品よけいに刺身が添えられていた。それは美月が、母親のいつもしていたのを覚えていたからだった。
健太は銀玉ピストルをいじりながら食事をしている。
「あんた、ええオモチャ手に入れたな。よう、そんなもの買うお金があったな」
「こうたんちゃう、これ、もろたんや」
「もろた?」美月が訊ねた。
「駄菓子屋のおばちゃんや」
「なんで、くれるんや?」
「戦争で死んだと思っていた息子さんが帰ってきたとか言うてたで。そのお祝いらしい」
「ああ、そうか、あのおばちゃん、息子さんが南方で亡くなったと役所から連絡があっても、嘘やとか言うて、神社でお百度参りしていたな。そしたら、帰ってきたとか言うて大騒ぎになった」
「ぼくらのお母ちゃんも、お百度参りしたら帰ってけえへんかな」
「お母ちゃんは、うちらの目の前で死んだからな……」
美月はそういって、父親の料理を二人でわけた。いつものことで、直樹は飲み屋で夕食も済ましてくるのだろうと思った。
しばらくすると、電話がかかった。
飲み屋からだった。そこのママが電話をかけてきたのだ。父親を、迎えに来てほしいとのことであった。もう何回も、迎えにいったことがある。
その瓢箪(ひょうたん)という店に行くには、神社の横を通り抜けていかねばならなかった。
神社の通りには露店が並んでいた。いっぱいの人たちの中を二人で手をつないで、かいくぐるように歩いた。
この界隈で祭りが行われていたのだ。裸電球に照らされて、金魚すくいや射的、綿菓子と店が並んでいる。りんご飴を売っているのを見て「お姉ちゃん、あれおいしそうやで」健太は言ってみた。しかし、美月は返事をしなかった。弟の手をしっかり握って、先を急いでいた。
神社の前まで来た。
「ちょっと、よっていこ」美月が言った。
姉に手を引かれて、神社に入った。美月は賽銭箱の前まで来ると、小銭を中に放り込んで、拍手を打った。健太はお稲荷さんと目が合って、あわてて目をそらした。姉の横顔をみて、母親を思い出した。
「おかあちゃん帰ってけえへんかな……」健太はつぶやいていた。
母親が死んでしばらくは彼女に似た人が、この神社の付近をふわふわと歩いていたと、近所のおばさんが言っていたのを思い出した。きっと幼い子ども達を残して死んだのが心残りだったので、成仏出来ないでこの界隈をさまよっていたのだろうという話が誠しなやかに流れた。
美月は合掌していたが、「お母さんきっと幸せすぎたんや」といった。
「幸せすぎたから、お稲荷さんに召されたんや」
健太はそんな姉の横顔をじっと見た。
飲み屋に着くと、父親は酔って寝ていた。
「ごめんね、こんなに飲ませて」
ママが申し訳なさそうに言った。
「お父ちゃん帰えろ」
美月が父親の背中をなでた。
「ああ、お前らか、迎えに来てくれたんか」
直樹はうれしそうに言った。赤い顔をしていたが、酔いつぶれてはいなかった。
店を出ようとすると、ママが西瓜を持っていきといって、大きな西瓜を持ってきた。
直樹が毎日のようにこの店に来ているので、子供たちに悪いと思ったのだろう。
店を出ると、直樹は工場までの通勤に使っている自転車の荷台に西瓜をくくりつけた。直樹が自転車を押し、子供たちが並んで帰り道を歩く。
りんご飴を売っている露店の所まで来ると直樹が健太の視線に気づいて、りんご飴を買ってくれた。
「ふたつください」直樹が言うと、うちいらんわと美月が言った。
美月は直樹の前で自分は子どもではないと言うことを、アピールしたかったのかも知れない。
「なんでや、けったいなやつやな」
直樹は笑った。
「お姉ちゃんがいらんねんやったら、僕が二つ食べるわ」
「あほ」美月に笑われた。
直樹も笑って意味がわからないのは、健太だけとなった。
「そうや河童の腕でも見ていこか」直樹が言った。
「河童の腕って?」
「神社の裏で見せ物小屋をやっているやろ、あそこでな、いろいろとけったいな物を見せ物にしているんや。その中に河童の腕があるのや」
飲み屋で聞いた話を、直樹は子ども達に話した。
「わあ、うち見たいわ」
美月が、直樹に甘えるように歓声を上げた。健太は美月が喜ぶ顔を見るのは久しぶりだった。健太は河童の腕と聞くだけでなんか気持ちが悪くなったので、本当は見たくなかったが、姉の喜ぶ顔を見ていやだとは言えなかった。
神社の裏に行くと、紫色の大きなテントが一張りあった。
テントの前の看板には『本物の河童の腕・展示』とあり、極彩色に彩られた地獄絵図に河童と鬼、伸ばした口髭を固めて左右を上へ跳ね上げて逆"へ"の字にしたカイゼル髭の男との壮絶なる捕り物劇が描かれていた。
料金を払って中にはいると、赤い電球のついた通路が続いていた。見る物すべてを赤いセロハンを通して見ているようで不気味だった。健太には、直樹も美月もまるで知らない人に見えた。通路の途中にへこんだ場所があり、そこには鯰(なまず)女がいた。しばらく行くと、サソリ男がいたが、それらは人間が着ぐるみを着た物だということがわかる、ちゃちな代物だった。
「子供だましだね、あの、なまず女とサソリ男は」
美月が笑いながら言ったが、結構気に入っているようだった。それは健太にとっても同じだった。人間が着ぐるみを着ているのがすぐにわかったが、どことなく滑稽だったからである。愛嬌があった。
通路を通り抜けると小さな舞台が設えてあり、燕尾服を着たカイゼル髭の香具師が水槽の横に立っていた。水槽は薄紫色の光でライトアップされており、その中には人間の腕よりも遥かに大きな化け物の腕があった。全体が緑色をしており、見るからにヌルヌルとしている。掌はグローブの様に大きくて、指は間接が太くごつごつしていた。爪は刃物のように尖っていた。健太はそれを見てごくりと生つばを飲み込んだ。
『三途の川の河童の腕』と書いて、展示してある。
「お客さんこれは本物だよ。正真正銘の河童の腕だ。それも三途の川にいた河童だ」
カイゼル髭が自慢げに言った。
たしかに良くできた腕だった。なまず女やサソリ男のような、ええ加減な作り物ではなくて凄くリアルに出来ていた。それに指先が時々ぴくぴくと動いているように思えた。
カイゼル髭は、ここぞと、地獄での捕り物劇を講談師のごとく熱弁をふるった。寝ていると賽の河原の夢を見て、そこで傍若無人に暴れ回る河童を見つけ、獄卒(地獄にいる鬼)の協力を得て河童を捕らえたが、河童はトカゲのように腕を切り離して逃げたというのだった。河童を退治するのに協力したということで、お礼に腕をもらった。夢から覚めてみると枕元に河童の腕があったという。
感心して男をよく見ると彼は義足をしていた。男は健太が義足に気が付いたことを知り、これは河童に喰われたのではない。私はそんなへまはしない、と自嘲気味に言った。そして、いかに自分が勇敢であったかを付け加えた。
健太はその男の良く動く赤い唇を見ていた。
青白い満月に照らされて、虫が鳴く、夜の底のような帰り道を歩く。遠くに祭り囃子が聞こえていた。
美月がぽつりと言った。
「お母さんもあの河童のいた三途の川をわたったんだ。怖くなかったのかしら……」
「あほやな……、あれは作り話だよ。河童の腕も作り物」
直樹が美月に、そういって笑った。
「でも、良くできていたよ」
「たしかに」と直樹は言ったきり、黙ってしまった。妻のことを思い出したのかも知れない。
健太は河童の指先がぴくぴく動いていたのを思い出して、夢に出て来ないだろうなぁと心配していた。
自宅に着くと縁側に腰を下ろし、西瓜を切って食べた。
直樹を挟んで庭木に飛び交う蛍を見ていると、美月が、回り灯籠を持ってきた。
「どないしたんや、それ」
直樹が訊ねた。
「うちがこさえたんや」
美月が回り灯籠の蝋燭に火をつけた。ゆっくり、影絵が回りだした。
家族四人が幸せそうに線香花火をしている、影絵。
直樹がそれをじっと見ていると。
「あのひときっと幸せすぎたんや」美月が言う。
直樹はそれには答えず、子供たち二人を抱きしめた。
あまりにも強く抱きしめられたので、健太は痛かったが、痛いとはいってはいけないような気がした。あのとき自分が、子犬を見て道路に飛び出さなければ、お母ちゃんは車にはねられて亡くならなかった。
どこかの子犬が足がすくんだのか、道路で動けなくなっていたので健太は助けようとして自分が車にはねられそうになり、母親に助けられたのだ。母親はその犠牲になった。健太は自分にも責任があるような気がして、それが心にわだかまりとして残っていた。
健太は、明日は朝早くに起きてお稲荷さんに、お母ちゃんを返してもらうようにお祈りをしに行こうと思った。
死んだ母親が戻ってくるわけでもなかったが、健太はなぜか母親が生き返っても不思議ではないような気がした。亡くなったと通知があった駄菓子屋の息子が戦地から帰ってきたのは、お稲荷さんの神通力かもしれない。それに「あのひときっと幸せすぎたんや」と、姉が言うように、幸せすぎたから死んだという、死に方があまりにも理不尽だったからかも知れない。
朝靄のなかで、健太は石畳の上を何度も往復した。
ラジオドラマで、主人公の女の子が願いを叶えるため、神社の石畳を何度も往復していたのを思い出したからだった。
賽銭箱の前まで行くと、昨日美月がやっていたように目を閉じて手を合わせた。
「お母ちゃんが帰ってきますように、お母ちゃんが帰ってきますように……」
そう祈ると健太は心が安まるのだった。
そんな早朝のお祈りが、五日、六日、そして七日続いた。
糸のような雨に境内の玉砂利も濡れて辺りは深閑としていた。健太は傘もささずに石畳の上を往復していた。
いつものように賽銭箱の前で何度目かの手を合わせたときだった。
かたりという音が聞こえて、音のしたほうを見ると狐がいた。いや、狐の面をした健太と同じ年ぐらいの少女と目があった。
「おまえ真面目じゃのう。毎日願掛けか。きょうで七日目じゃ」
健太は急に恥ずかしくなった。毎日の願掛けが人に見られていたと思ったからだ。
「ああ、心配するな。うちは人間ではない。この稲荷神社の主の娘じゃ。あまりにもおまえが真面目だから願い事を叶えてやろうと思って出てきたのじゃ」
少女はそういうとへらへらと笑った。
彼女は芒(すすき)の柄をあしらった薄紫の浴衣を着ていた。
じゃりじゃりと雨に濡れた玉砂利を赤い鼻緒の下駄を鳴らして近づいてきた。
「ほんまか、ほんまに願い事を叶えてくれるのか?」
健太の目の前までやってきて、顔と顔がぶつかりそうになった。おしろいの匂いが少女からした。
「おまえ、今朝はまだ、歯を磨いていないだろう。口臭がするわ」
だが、健太はそんなことにはおかまいなしに少女に訊ねた。
「お母ちゃんいつ、返してくれるんや」
「盂蘭盆(うらぼん)の夜に灯籠流しをしたら、すぐに返したる」
「うらぼん?」
「今夜や。今夜が盂蘭盆と言って、死んだ人が帰ってくる日や。その日に三途の川で灯籠を流すのじゃ」
「さんずの、かわ……?」
健太は何やら不吉な物を感じた。
「死者の霊魂が渡る川じゃ」
「じゃあ、ぼく死んじゃうの?」
「死ぬもんか、うちが着いておるからの」
「よかった、ぼく死ななきゃならないのかと思った」
健太が一安心して笑顔を浮かべると、「その代わり……」と、少女は言った。
「灯籠が必要じゃ」
「とうろうって、あの回り灯籠のこと?」
「そうだ、このあいだ庭でスイカを食べながら、回り灯籠を見ていただろう。家族四人が幸せそうに線香花火をしている回り灯籠だ」
「えっ? どうしてそんな事まで知っているの?」
「おまえ達の周りに蛍が飛んでいただろう」
そういって、少女はくすくすと笑った。
健太が驚いて、少女を見ていると、彼女は「あと、一つ必要な物がある」と、言った。
「なに?」
「写真が必要だ。亡くなった人が大事に思っている人の写真だ……」
「じゃあ、僕か、お姉ちゃんか、お父ちゃんの写真だ」
「うん、どれでもいいが、おまえは幼いから姉か父親の写真がいいかな」
狐の面をかぶった少女とも年齢は変わらず、その彼女から幼いと言われてむっとしたのが顔に出たが、相手は気にしていないようだった。
「どうして写真がいるの?」
「亡くなった人を迎えに行く使者が必要だろう。写真の人はその役目をする」
写真の人は使者の役目をするのか、自分は幼すぎるので、それは無理だろうと健太は思った。
「今夜ここで待っている、灯籠と写真を持ってくるように」と少女は言った。
健太は大きくうなずいた。
少女は「こんこん」と、狐のように啼くと雨の中に溶けるように消えたかと思うと、その空間に一匹の蛍が現れた。蛍は小雨のなかで光っているようには見えなかったが、ゆるゆると神社の陰に飛んでいくと、ぼんやりと黄色く発光しているのがわかった。
やがて蛍は神社の裏に入り見えなくなった。
庭の方にある裏の戸を開けて健太は部屋に戻った。
タオルで体を拭きもせずに寝床に潜り込み、稲荷神社の少女の言った事を考えていた。いつもなら神社から戻って布団の中にはいると眠くなり寝てしまうのに、今朝は目がさえて眠くはならなかった。
台所の方で人の気配がして、忙しげに働く音が聞こえた。美月が朝食の準備をしているのだ。健太はその音をずっと聞いていた。
健太が茶碗をテーブルに置いた。
「どうしたん、もう、いらんのか?」
美月が心配そうに訊ねた。
直樹も健太の顔を覗き込む。
「うん、ちょっとしんどい」
「どれどれ……」直樹が健太の額に手を置いた。
「ちょっと熱があるみたいやな」
「夏風邪か……、日頃悪さばかりしているさかい、お稲荷さんが怒ったのかも知れんな」美月が難しい顔をして言う。
「そらいえるな」直樹が笑った。
食事が終わった後、健太は庭が見える風通しの良い部屋で神妙に寝ていた。
洗面器に水を入れて美月がやってくると、タオルを濡らして絞り健太の額に置いた。
団扇を持つとゆっくりと健太を仰ぎながら言う。
「この間の河童の腕、あれほんま物やと思うか?」
「さあ、わからへん」
「うちな、あれほんま物やと思う」
「どうして?」
健太の問いに、美月は何かしゃべりそうなそぶりを見せたが、黙り込んだまま、「なんでかわからん」と言った。
「ぼくな、もうすぐ死ぬような気がするわ……」
唐突に言った健太の言葉に、美月は団扇を仰ぐ手を止めて健太の顔を覗き込んだ。
「なんでや?」
「なんでかわからん」と、健太は言った。
「調子にのんな!」
美月は先ほどの自分が言った言葉をそのまま健太がまねをしたと解釈したので、団扇で健太の顔をはたいた。健太は美月に顔をはたかれなぜかうれしかった。美月も健太の気持ちがわかっているのか、にやにやしながら、「死ぬんならもっと早いとこ死に。あんたのおかげでお母ちゃんが死んだんやで」と言った。もちろんこれは美月の冗談だったのだが、健太の顔色が変わった。しかし美月はそれには気が付かずに立ち上がって庭に出ると「雨が上がったな」と、空を仰いだ。
健太は美月の後ろ姿を見ていた。
「あれっ、朝からこんな所で蛍がいるわ。健太蛍がいるよ」と、美月は鬼灯(ほおづき)の方を指さした。
夕方になると健太の熱は下がっていた。健太が仏壇の置いてある部屋に行くと、胡瓜にわりばしで四肢を造り馬の形にした物と、茄子も同じようにして牛を造り、仏壇の所に置いてあった。
「熱下がったんか?」直樹が聞いてきた。
健太が「うん、下がった」と言うと、直樹は見ていた夕刊を手元に置いて、健太の額に手をおいて「下がったな……」と独り言のようにつぶやいた。
健太は胡瓜の馬と茄子の牛を見て、「お父ちゃんこれ何や」と訊ねた。直樹はお盆の日に亡くなった人が、胡瓜の馬に乗って冥界から早く帰ってこられるように、仏壇に祀てあると言った。茄子の牛はこちらに来た人が、冥界に帰るときに乗る。牛は歩くのが遅いので、帰ってきた人が少しでも長くこちらの世界に居れる、という意味だと説明した。
健太が胡瓜の馬と茄子の牛を見ていると、直樹に「ビールを持ってきて」と言われた。
台所に行くと美月がビールのあてを作っていた。
健太は冷蔵庫から瓶ビールを取り出した。
「お父ちゃんビールすきやな」健太が言うと、「外で飲むよりはましや」と、美月が笑った。
二人して部屋に戻ると直樹は横になって寝ていた。
「ビールもってきたで」
健太が直樹を起こそうとすると美月が「寝かしといたり」と言ってとめた。
ヒュ――と音が鳴り、見ると、神社の方で花火が次々と打ち上げられていた。個人が打ち上げている花火らしく小さな華しか咲かないが、健太は心が締め付けられそうな気がした。それはわずかな時間しか命を持たない花火と、自分たちの運命を重ねたのかも知れなかった。
「花火って綺麗けど、はかないね……」美月がつぶやくのが聞こえた。
深夜になり、健太は自分の部屋で回り灯籠を見ていた。仏壇の所に置いてあったのだが、夜自分の部屋で見たいからと言って持ってきておいたのだ。台所に行って、備え付けの懐中電灯をもってきた段階で、健太は自分がへまをしていたことに気が付いた。アルバムが直樹のいる部屋の袋戸棚にあることを思い出したのだ。アルバムから写真を一葉取り出すのは直樹の部屋に行って、直樹に袋戸棚からアルバムを取ってもらわなければならない。子どもの健太では一人で戸棚から取るのは不可能に近かった。健太はどうしょうかと考えた。そして自分の勉強机の引き出しに美月と一緒に写っている写真があることに気が付いた。健太は引き出しを開けると美月と自分が写っている写真を見つけて、ほっとした。写真を段取りすると、ポケットに入れた。
回り灯籠と写真、そして懐中電灯を持つと、健太は裏の戸を開けて稲荷神社へ向かった。
神社では祭りごとが終わっており、夜道は深閑としていた。聞こえるのは虫の音だけである。健太の持つ懐中電灯の明かりが暗い夜道をぼんやりと照らしていた。
神社に着き、狐の面をした少女を捜していると、石畳に下駄の音が聞こえた。音のする方を見ると、今朝の少女が小さな灯籠舟を持って近づいてきた。
「約束を守ったな」
「うん……」健太はうなずいた。
「じゃあ、三途の川に案内するぞ」
健太がもう一度うなずくと、少女はへらへらと笑った。
「うちに着いておいで」
そういうと少女は神社の裏に向かって歩き始めた。
少女の後を着いていくと、神社の裏には石で出来た、苔むした古い井戸があった。
「ここが、冥土の世界につながっている」
少女は竹で出来た井戸の蓋を取ると、中にはいるように勧めた。健太が渋っていると「こわいんか、おまえ弱虫だな」と、笑った。
「怖いことなんかない、ここから飛び降りたら、灯籠が壊れてしまうと思っていたんや」
「ゆっくりと落ちるから大丈夫や、灯籠は壊れないからここから飛び降りろ」
健太はそういわれて、井戸の中を覗き込んでいると、少女に背中を押された。
不思議な感覚で健太は井戸の中を落ちていった。
ゆっくりと闇の底に魂が沈んでいくような重い気持ちがした。
目の前には異様な光景が広がっていた。
乾ききった砂と小石の河原があり、その前には暗く沈んだ黄色の水面が果てしなく広がっていた。湾曲して膨らんだ深い紫の空。これらの風景はまるで健太の心を投影しているかのようだった。
そして河原にはぽつぽつと人が出ており、灯籠を小さな舟に乗せて流していた。
健太が少女と河原に降りていくと、老人が灯籠舟に写真を載せているところだった。少女が小舟を賽の河原に置くと、健太は小舟の中央に灯籠を載せた。
老人は灯籠舟を流すと手を合わせた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。健太が気になって老人の顔を見ていると、相手も気が付いたのか、健太の方を見た。
「孫が死んだので、生き返らせようと思ってここに来たのです」
健太はどういって良いのやらわからなかったので、老人の顔を見ていた。
「私は老人でこれから生きても長くはないので、私の代わりに孫が生き返るのなら、私にはこれ以上の幸せはありません……」
健太は老人が言っている意味がもう一つわからないので、老人の顔を見て首をかしげていた。老人は健太の持っている写真を見て少し驚いた表情をした。
「あなたは誰を生き返らせるのですか?」
「お母さんです」
「そうですか、しかしお母さんは悲しむかも知れませんね。だってお母さんが生き返っても、あなたがいないとお母さん寂しいと思いますよ。おまけにあなた一人と違って、その写真にはもう一人写っているではありませんか」
健太は自分が持っている写真を改めてみた。確かに自分と姉の美月が写真にある。それが何か問題なんだろうか。健太がそんなことを思っていると、老人が言葉を紡ぐのを忘れたかのようにぼんやりと自分が流した灯籠舟を眺めた。
少女は健太に舟へ写真を載せるように言った。健太は灯籠舟の先端に写真を載せた。
「早く灯籠舟をおしなよ」少女が促した。
健太はうなずくと舟を指先で押した。
灯籠舟はゆっくりと黄色い川面に流れ出した。
そのとき健太は周りの様子がおかしいことに気が付いた。
灯籠舟を流した人たちが、次々と消えていくのだ。 健太がその不思議な光景に驚いていると、隣の老人も色彩が淡泊になり始めていた。
「ど、どうしたの? おじいちゃん」
健太は老人に呼びかけたが、彼は再びしゃべることはなかった。
「灯籠舟に乗せた写真は生き返らせる人の身代わりになり、この賽の河原の小石になる。それもおまえ達の運命だ」
少女が神妙な顔つきで言う。
健太が驚いたのは言うまでもない。まさかそんなことは信じられなかった。しかし周りの人々は灯籠舟を出した後に次々と消えている。小石になっているのかも知れないと健太は思った。
「おまえと美月は母親を生き返らせるための身代わりだ」
健太はそれを聞いて、あわてて舟に載っている写真を取り戻そうとして、三途の川に脚を踏み入れた。しかし、黄色い水に足を取られて前に進むことは出来なかった。黄色い水からいくつもの人の手のような物が生えてきて、その手に健太は脚を取られていたのだった。
灯籠と二人の写真を載せた舟が河原から離れて健太の手の届かない所まで出ると、水面から生えた手は姿を消した。健太はよろめきながら灯籠舟を見るしかなかった。
健太は狐の面をした少女につかみかかろうとしたが、頭がぼんやりしてきて出来なかった。
黄色い水面を灯籠舟は穏やかに進んでいた。
その舟の先端に一葉の写真がある。美月と健太の二人が神妙な顔つきで写っている写真だ。その写真が風もないのに動いた。写真の美月が、まわりの様子をうかがっている。そして腕を前に突き出した。すると腕が写真から飛び出した。そのまま写真を押さえた。すると上半身が写真から抜け出した。美月は両手で写真を踏ん張り、すらりとした脚も引っ張り出す。片っ方、そして両足を引っ張り出した。
立ち上がると大きく伸びをする。
彼女はまわりを見渡し紫の空に出ている月を見た。その隣に冷たく輝くもう一つの月があるのを見て顔をしかめた。そのとき、「姉ちゃん!」という声が聞こえ、写真から健太が抜け出そうとしているのに気が付いた。美月が手を貸して健太を引っ張り出す。
健太も写真から出るとまわりを見渡した。海原のように広い川面には灯籠を載せた小舟が沢山浮かんでいた。それぞれが明かりを灯しながら川面を進んでいく。
「河原があんなに遠くになったよ……」
美月は何もかも悟っているようだった。
美月の声を聞いて健太が振り返ると、先ほど出発した河原が離れていくのが見えた。そこには自分が立っていた。ぼんやりとしてこちらを見ている。まるで魂が抜けたようにこの灯籠舟を見ている。狐の面をした少女までがぼんやりとしているようだった。
やがてその姿も見えなくなった。河原も遠くかすんでいるだけだった。目の前にたくさんあった灯籠舟もちりぢりになり始めていた。この先僕たちはどこへ行くのだろうかと健太は思った。
「お父さん私たちいなくなって寂しがるかしら……。お母さんが帰ってくるから大丈夫だよね。お酒を沢山飲み過ぎたらお母さんが叱ってくれるよね」
美月はまるでこうなるのがわかっていたかのようなしゃべり方だった。家で寝ていて、何もかも悟った夢の中で、そのままこちらに来たのかも知れない。
健太は美月の事を考えようとしたが、いまはそのことを考えるのが怖かった。
「僕たちのことを忘れないでほしい……」
健太は美月の言葉に添えた。自然に出た言葉だった。
前方の灯籠舟の横の水面に波紋が出来て、何やら得体の知れない化け物が頭を出した。健太が驚いていると、その化け物は灯籠舟を次々と覗き込みながら、こちらに近づいてきた。
それは大きな河童だった。河童が灯籠舟を覗き込みながらこちらに近づいてくるのだ。
「何やろ……?」
「わからへん、でも、舟を沈めたりの悪さはしていないみたいやな」
泳いでくる河童を見て、片腕がないことに気が付いた。
「あの河童片腕がない」
美月が言っていることを聞いて、健太は祭りの夜に見せ物小屋で見た人間の腕よりも大きな河童の腕を見たのを思い出した。カイゼル髭に燕尾服を着た香具師がこの河童の腕は本物で、三途の川にいた河童と格闘の末持ち帰った物だと言っていた。
その河童がこちらに近づいてくる。河童は何をしているのだろうかと健太は思う。
穏やかな水面が、河童の泳ぐ波でふくらみ健太と美月が乗った小舟が揺れ始めた。健太と美月は舟から落ちないように縁に捕まった。
河童は小舟の横まで来ると上から灯籠舟の中を覗き込んだ。
「おまえ達二人だけか?」
「そうよ」
河童は舟の隅々まで見ると「そうか」と一言だけ言った。
「もしかしたら人捜しをしているの?」
美月が健気に河童を相手にしていた。
「そうだ、俺から腕を盗んだ奴を探している」
健太と美月は顔を見合わせた。
「おまえ達知っているのか?」
「見つけたらどうするつもり?」
「礼を言うつもりだ」
意外な答えに健太と美月は驚いた。
「自分の腕を取られたのに、礼を言うの?」
「あの腕は悪さをする腕でな。その腕を奴は取ってくれた。おかげで俺は悪さをしないですむようになった。あのまま放っておいたら、俺は地獄めぐりをしなければならないところだった」
「どんな悪さをしていたの?」
美月のその言葉に、河童はもう片一方の手を水面から出して見せた。やはりあの見せ物小屋で見た河童の腕と同じで、鬼の首でも一ひねりでへし折る迫力があった。
「この三途の川を渡る、亡くなった人の魂をあの右腕で捕まえて喰らっていた。あの腕を取られてから魂を喰らいたいとは思わなくなった」
それを聞いて健太は安心して、見せ物小屋で見た河童の腕のことを話した。すると河童はその男に間違いないと言って笑った。
「しかしおれも奴には悪いことしたよ。なにしろ腕を取られるときに奴の片足を食いちぎったのだからな」
河童は自嘲気味にいうと「ところでおまえ達はなぜ、こんな所にいるのだ? 灯籠舟に乗せられるような恨みでも受けたのか?」と訊ねた。
健太が事情を話すと、河童はうなずきながら稲荷狐に騙されたのか、とつぶやいた。
「それにしても変だな……稲荷神社の狐は人間を守るものだろう。なぜ、人間を不幸にするようなことをするのだ」
そういわれてみると確かにそうであった。あの狐の少女はどうして自分たちをこんなひどい目に遭わしたのだろう。健太は不思議だった。
「そうか、稲荷神社の狐と言っても、おまえの話だと相手も子供のお稲荷様だ。何か、失敗をやらかしたのかもしれんな……」
「失敗ですか?」
「失敗だとしたら、おまえ達は三途の川の夢を見ているだけではないのか?」
「夢? これが夢だというの?」
「そうだ、夢だ? 目覚めれば元の世界に戻れる」
「どうやったら目覚めるの?」
河童は紫色の空を仰ぎ見た。健太も美月も河童につられて空を見た。
「どうだ、死星は見えるか?」
「死星?」
「死星は普通の人間の目では見られない。それが見られるのは死んでいる人間だけだ。どうだ、この紫の空に冷たく輝いている死星は見られるか? もし見られたら、月の隣に出ているはずだ」
河童はそういって、空を指さした。
健太は河童の指先を見てみた。そこには月は出ていたが、死星は見られなかった。
「見えないよ、あるのはお月さんだけだ」
「そうか、だったら、これは夢だ。おまえが見ている夢だ。おまえはそのうちに目覚めるよ」
河童はそういって笑った。
「おまえの方はどうだ?」
河童は美月に訊ねた。
美月も空を見ていたが、「うちにも月が見えるだけや……」とつぶやいた。
「だったら、おまえ達二人は、そのうち目覚めるだろうよ」
河童はそういうとしばらく考えている風だった。
「どうしたの?」健太が訪ねた。
「いやぁ、俺の目的は達せられた。俺が探していた人物がどこにいるかがわかったからな」
「そうなんだ、よかったじゃない」
「うん、よかった……あとは永遠が見える島に行き着くだけだ」
「永遠が見える島?」美月が訪ねた。
「そうだ、この三途の川には永遠が見える島がある……」
「何なの、その永遠が見える島って?」
「ここから、帰れなくなった魂だけが行ける島なんだ」
「そんな島があるんだ、三途の川には?」
「いや、俺もあんまり詳しくはないんだがな。ただ、それまでの人生で一番楽しかった時を永遠に過ごせるらしい……」
河童はそういうと、健太達が乗っている灯籠舟から離れていった。水面が大きく揺らぎ、健太と美月は落とされないように舟縁をつかんだ。
「永遠が見える島か……」美月が何やら神妙に考え事をしている。
「僕たちには関係がないよ、だって、夢から目覚めると元の世界に帰れるんだから」
健太がいうと美月が憂いのある表情でうなずいた。
「どうしたん、姉ちゃん?」
だが、美月は返事をしなかった。そして、広々とした黄色い水面を見た。
空は紫色で湾曲している。
「いつ、僕たちは目覚めるんだろうね?」
灯籠舟はゆっくりとした流れに乗りどこかに流されていく。
時間の概念のない世界。
まるで時が止まっているようにも思える。
すでにほかの灯籠舟は見えなくなっていて、音もなく舟は流されていく。
「ぴちゃ――」
健太が音のする方を見ると美月が黄色い川面の水を手ですくっていた。
そして不思議なことを言った。
「手の中の水にお母さんの顔が見えた。」
健太も黄色い水を手にすくってみたが、母親の顔は見えなかった。
それからどれほどの時間が経ったかはわからない。
「あれ、なんやろ」という美月の声に気づいて指をさす方向を見ると、そこには何やらぼんやりとするものが浮かんでいた。
どうやら、灯籠舟はそちらの方に流されているらしい。
だんだんとぼんやりしていた物がはっきりとわかるようになってきた。
それは芒が見渡す限りに群生している島だった。
灯籠舟が島の入り江に入った。
なぎさに着き、二人が灯籠舟を降りると、風に乗り、どこからか歌声が聞こえてくる。
それも懐かしい歌声である……、それもそのはず、母親が歌っていたものだった。
二人は銀色に輝く芒をかき分けて歌声のする方に走った。
しばらく駆けると、芒が開けてそこに懐かしい我が家があった。
健太と美月が驚いた顔をしていると家の中から母親が出てきて、「どうしたん、そんな驚いた顔をして……」
二人は母親に抱きついた。
「あらあら、小さい子供に戻ったみたいやなぁ」
母親が笑いながら言った。しかし、母親は二人をしっかりと抱きしめた。
しばらくすると父親が自転車で戻ってきた。
「きょうは半ドン(半日仕事)やからな、仕事も楽や。明日は日曜日やし、みんなでどこかに行くか」
健太も美月も久しぶりに笑った。
ほんとうに、久しぶりに心の中から笑った気がした。
家族四人でゆっくりしていると時間が経つのが早かった。
夕食時には明日は動物園にいくかという話になった。
健太はうれしくて仕方がなかった、早く眠ると、次起きたときは明日になっている。そう思うと、風呂から出るともう、布団の中に潜り込んでいた。
目を閉じてじっとしていると本当に眠くなってきた。
隣の部屋では両親と美月の笑い声がしていた。
蝉が驟雨のように鳴き出した。
健太はその鳴き声に目を覚ました。朝が早いというのに蝉が活動に入ったみたいだ。庭を見るとヒマワリの大輪の周りに蜂が飛んでいたが、それが部屋に入ってきた。健太は蜂を手で追い払うと台所に行った。
そこには母親がいた。
「今朝は起きるのが早いね」
「うん、蝉がうるさくて」
「うふふ、毎日蝉に起こしてもらいたいわね」
テーブルには朝の食事が段取りしてあった。
「お父さんを起こしてきて」
「うん、わかった」
健太は直樹を起こしに行った。
父親を起こして台所に戻り再びテーブルに着き、健太は何かを忘れているような気がした。しかし何を忘れているのかがわからなかった。
直樹がテーブルに着いた。
家族三人で朝食を摂った。
「午前中に墓参りに行きましょうか」母親が言った。
「そうだな、あれから二年か、早いものだ……、子犬を助けようとして自分が車にはねられるとは」
「私の目の前ではねられて、なぜ私が身代わりにならなかったのかと悔やまれることがあるわ」
「いや、おれがもっと注意していれば、美月が車にはねられることは、なかっただろうに……」
「私美月が車にはねられた後も、死んだとは思えなかった。だって、体に傷一つなかったんだもの。顔も綺麗なままで……」
健太も美月が車にはねられたとき、その場にいた。
姉の美月が死んだとは信じられなかった。眠っているように見えた。
母親が花を持ち、父親が水桶をもって、前を歩いている。健太は墓石が並ぶ墓地の砂利を踏みしめながら歩いた。
美月が眠っている墓石を洗うと花を活けた。
両親が手を合わせているのを見て、健太も合掌した。
健太は何か心にわだかまりがある様な気がした。自分がここにいるのが不思議な気がした。
彼岸参りも終わり、ある夕方稲荷神社の近くを通りかかったところ、驟雨のような蜩(ヒグラシ)のなかを下駄の音が聞こえた気がした。健太は気になって、稲荷神社に寄ってみた。
するとそこには狐の面をした浴衣姿の少女が石像のお稲荷さんの陰に隠れて健太を見ていた。
健太は彼女をどこかで見たことがあるような気がした。
健太が近づくと少女は境内にかけて行った。健太も境内に入ると、さい銭箱の前で、手を合わせている女の子がいた。
振り向くと声をかけてきた。
「健太、こんなところで何しているの」
美月だった。
「姉ちゃん!」
「何、驚いてんの」と、笑う。
「いや、なんか、頭がぼんやりしていて」
「ぼんやりとしているのは、いつものことやろ」
健太は、苦笑いした。
「さあ、帰ろか、お母さんに頼まれたお肉や」
美月が肉屋の袋を突き出した。
「すき焼きかな」
「そうや、すき焼きや」
神社から自宅に続く芒が両端に群生している道を歩いた。
「姉ちゃん……」
「なんや?」
「手をつなご」
「子供か」
そういって美月が笑った。
「姉ちゃんも、子供やんか」
「そうやな、うちも子供や」美月が健太の手を握ってきた。
「河童の見世物やっているの知っているか?」と美月が訪ねた。
「河童?」
「そうや、そらぁ大きな河童でな、友達が観てきたとゆうとったけど、三途の河を渡る人の魂を喰らう河童やて。それを捕まえる捕り物劇やて。鬼なども出演しているらしいで。それにカイゼル髭の男が暴れる河童を取り押さえるところが面白いて」
「へぇ、お父ちゃんに頼んでみんなで観に行きたいな」
「そうやな、今夜すき焼きでお酒を飲んでいるときに頼んでみよ」
「うん、わかった」
二人は顔を合わせて笑った。
終わり
執筆の狙い
原稿用紙50枚の作品です。
むかしこちらのサイトに投稿しています。
夏向きの作品で、ほぼ完成作です。
昭和時代の幻灯機の世界に近い味付けです。