水面に浮かぶ死体
俺はどこまでもダイブし続けている。三次元的な世界で俺は二次元を思い浮かべながら一次元的に沈んでいる。浮上することはない水死体である。息なんてしていない。呼吸器はどこかに置き忘れてしまった。ここには生命なんて存在していない。あるのは一次元で生み出された妄想だけである。
どこまでもどこまでも溺れ続けている。記憶がミキサーで回されたかのように混濁している。俺という名前以外は正しいのかと疑ってしまっている。すべてを壊してしまってゼロから再スタートしたい。やり直せるリセットボタンはどこにもありはしない。あるのは止まることのない秒針だけである。時は刻み続けて一次元という壮大で薄いなかで溺れ続けている。それを必死にもがき続けて俺は呼吸器を取り戻そうとする。
「お前のような人間には無理だ。諦めろ」
そんな言葉が重りになってしまい俺の浮上を拒み続ける。
また良くない方向へと考えてしまっている。悪循環になる前に俺はストッパーを降ろした。だがその判断は明らかに遅く隙間から次々と溢れ出していく。頭が沸騰し始めている。身体中に巡っていた血液が矮小な脳に集結し始めている。その勢いを止めることができずに堰止めしていたはずの門は簡単に開いてしまう。救いの手はどこかにないのかと記憶の海のなかで必死に探そうとする。だけども語るのも躊躇ってしまうほどのロクでもないものしかここには残っていなかった。少しでも連続性があれば俺は俺自身を認めることが出来てこの状況から抜け出すための糸口を見つけられるはずなのに。
誰か俺を一度壊してくれ。そして俺という世界をすべて再構築する。こんなフリーハンドで描いたような歪な方をした世界ではなく正しく成形されたツールを使ったような世界を創り上げる。そんなことは不可能に近いであろう。それでも足掻き続ける。無駄になってしまったとしても俺はダイブし続ける。途方もない三次元と勘違いして二次元を望んだ一次元な世界のなかで拳を掲げ続ける。
「ピンポーン」
溺れた世界から俺は別のところで目覚める。現実とは程遠い場所からチャイムの音が聞こえてくる。俺を呼んでいるのであろう。音が俺をどこかへ引っ張ろうとする。浮上なんてのはせずに横移動をしているだけである。だがそこは俺が最初にいた海とは違う。この感触は川であろう。俺は海から川へと引っ張られていたのだ。
俺の価値観が崩れ始めている。俺の中で別のどす黒い何かが蠢いている。この感覚は何であるのかが俺には分からない。ただ漠然と俺は海を失ってしまっていた。
「ぜはあぜはあぜはあ」
呼吸器を取り戻すかのように川のなかで思いっきり空気を吸い込んだ。俺は現状把握するために辺りを見回した。そこにあるのは机やクローゼットやベッドと言った家具類と片付けられていない弁当箱の空やビールの空き缶といったゴミ類が散乱していた。ここは誰かが生活しているような部屋だった。まさしく俺の部屋なのであろうが俺にはその実感がまったくない。知りもしない他人の部屋ですと言ったほうがしっくりとくる。だがこの部屋は俺の部屋ですと認めなければならない。それは現実であり真理である。いやそれは正確ではないかもしれない。海のなかにいた俺は無理矢理川のなかに連れ込まれた。つまりここは海のなかにいた俺とは無関係なのである。ここはあくまでも川のなかの俺の部屋である。そもそも海とか川とか混乱を招くような表現するのは間違っているかもしれない。それでも俺はその表現が正しいように思えた。どちらも同じ水という大きな枠に入っているが性質上まったく違うものである。ふたつの世界が存在していることを表現するのには適しているであろう。
「ピンポーン」
もう一度チャイムの音が鳴り響く。また海のなかへと戻るのかと思ったがそうではない。海のなかでチャイムはなっておらず川のなかでしかこのチャイムは鳴らないらしい。つまりは海のなかへ帰る手段がないということだ。俺は川のなかの住人として余生を過ごさなければならない。海のなかでも生きることが困難であったのにますます人生ハードモードになってしまっている。何も知らない川のなかで俺は浮上を試みるしかないのであろう。ある意味では何も知らないことはチャンスであるかもしれない。俺が望んだリスタートができる。知らない景色と人間しかいないのであれば俺はまだ自分の色を知っていない。今であればどんな色にだって染まることができる。
「ピンポーン」
まただ。
これで三度目である。そろそろ俺の堪忍袋の緒が切れそうになる。出来ることならば居留守を使っておきたかった。ただチャイムを鳴らしているのは川のなかにいる俺の知り合いの可能性が非常に高かった。宅配の可能性がないとも言い切れないが三度もチャイムを鳴らすのは少し異常である。知り合いであれば川のなかにいる俺という人間の性質を知っているであろう。この部屋を見る限りでは俺は無職で引きこもりをしているのであろう。外に出る人間というのであれば服ぐらい洗って畳むだろう。だから居留守を使っても知り合いからすればそんな嘘はすべてお見通しというわけである。
玄関の鍵を開ける音が聞こえる。それはつまり鍵を渡すほどの仲であり友達や恋人がいなさそうな川のなかの俺には家族しかいなかった。
「いやあこんにちは」
チャイムを鳴らし続けた人間の正体は俺の兄であった。正確に言えば川のなかにいる俺の兄である。川のなかにいる俺を深く知っているため海のなかにいた俺はもう川のなかにいる俺へと色が染まり始めた。そうなってしまったら俺はもうゼロからスタートすることが出来ない。川のなかにいる俺として進み始めることになる。こんなことになるのであれば海のなかへと帰りたい。
「海のなかとかは分からないが現実に戻る方法なら知っているぞ」
それはつまり海のなかへと戻るということであろうか。きっとそうではないのであろう。兄が言っている現実はきっと陸のことであろう。海のなかで浮上すれば辿り着く場所。それは川のなかであっても同じであろう。顔を上げれば映る景色。それは俺が必死になって探し求めていたものである。
少し違う。陸は俺が妥協して選んだものだ。本当に望んでいるのは空である。どこまでも広がり続けておりどんな可能性もそこにはある。陸は三次元空は二次元海と川は一次元。それがここにあるすべての回答だった。兄は三次元の生き方を知っている。それは兄がどちらにも存在しているからであろう。俺は海もしくは川のなかにいる。つまり俺は一次元にしかいない。人は次元を超えることが出来ない。兄だってそうであろう。三次元にいる兄と一次元にいる兄が同一人物であるから可能だと断言出来ているのであろう。それを不可能だと感じている俺は三次元にはいない。だからどう足掻いても陸へ浮き上がることはない。
「もしかして疑っているのか?俺は嘘つかないぜ。試したことなんてないが確実に現実へと向かうことが出来る。次元だって超えられる。その方法は崖から飛び降りることだ」
浮上を試みているのに飛び降りると言うのは理解出来なかった。陸に行くことが出来ないのに陸へ行けと言う。さらに陸から海へと戻ろうとするなんて無茶苦茶だ。そんなことはどう考えても不可能だった。陸へ行く方法すら知らないのにどうやって陸から海へと飛び降りると言うのだ。
「違う考え方が間違っている。今ここにいる場所を現実と捉えろ。そして海をこの世界と認識しろ。現実とこの世界を重ねるんだ。そうして崖から飛び込んだ先にあるのは現実だ」
俺は海のなかで崖を探した。
違うそうではない。ここは現実である。そして崖の下に見えるのは海のなかである。すべてをリンクさせるんだ。景色を同一と認識するんだ。俺は現実に存在している。だってここが現実なのだから。そして崖の下は海のなかなのだから。そう呟きながら俺は崖の場所へと辿り着いた。崖から海を見下ろした。そこにあるのは暗闇である。俺は意を決して崖から飛び降りた。
確かに俺は川のなかにいる兄の言う現実へ向かうことが出来た。だがそこに俺の求めているものはどこにもありはしなかった。表現することも出来ない。それは海のなかから来てしまったことによる弊害である。きっとそれは川のなかであっても同じことであろう。言うなればそこに陸なんてものはありはしなかった。あるのはどこまでも暗闇である。海にあったものが何もないのである。そして陸と呼んでいた現実を捉えるためのツールが海のなかにも川のなかにもなかった。
俺は浮上してはいけない人間だった。いつまでもダイブし続けることで俺という存在は保つことが出来る。三次元として見てはいけない。二次元を求めてはいけない。ここは一次元であることを認識しなければならない。俺という存在はあくまでも俺に過ぎない。それ以上でも以下でもない。頭でそう理解しても最後まで足掻きたい。だから最後の悪あがきとして俺はこの次元から飛び降りる。
俺
崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
俺 崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
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俺 崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖崖
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俺 崖崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖崖
崖崖崖崖崖崖崖
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俺 崖崖崖崖崖
崖崖崖崖
崖崖崖
崖崖
崖
海海海海海海海海海海海海海海海海海海海俺海海海海海海海海海海海海海海海海海海海海
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執筆の狙い
いつも自分が描く物語は窮屈に感じておりました。もっと自由で夢のあるようなものを描きたかった。それなのにいつも下ばかり落ち続けっている。ずっと自分を縛り続けている。この物語はそんな自分を否定するために創り上げたものでしょう。