下天の夢 Ⅳ 我、大六天魔王とらならん
父・信秀の死の時期とその前後の状況が大きく違っていたが、その後十数年の信長を巡る歴史は、我々の良く知る歴史と真人《まひと》の住む世界に伝わる歴史に大きな違いは無かった。
だが、宗教勢力との対立が始まると、微妙にズレが起き始めたのだ。
「叡山を焼き払い、僧俗ことごとく撫で斬りに致せ」
信長からそう命じられた時、明智光秀は一瞬言葉を失った。彼は普通にこの時代の価値観を持った男である。我々の時代の人間でも 、”罰《ばち》が当たる“ とされる行為をやれと言われたら、多かれ少なかれ、ためらいを感じるだろう。仏の存在も地獄も本気で信じていた時代のことなのだ。
まして光秀は、どちらかと言えば保守的な考えの強い人間であった。家系は美濃の守護・土岐氏に連なる一族であり、源氏の血に誇りを持っている男だ。だから、始めは室町幕府の再興を目指して動いていた。朝倉氏に飼い殺しになっていた足利義昭を将軍の地位に就けるため頼ったのが、信長との出会いである。義昭の臣下となり、信長との調整役を担っていたが、信長と義昭との確執が激しくなり、光秀の才を見込んだ信長の強い誘いも有って、義昭から離れ信長の家臣となっていた。
今更、信長の命《めい》に反し不興を買う選択肢は選べなかった。才を買ってくれている信長に運命をゆだねるしかないと腹を決めた。意見がましい事を言えば怒りを買うだけと分かっている。
「ははっ。かしこまりました」
光秀はそう返事した。
「嫌嫌と言ったツラじゃのう。嫌なら無理せんでも良いぞ。サルにでもやらせる」
「いえ、嫌だなどと思うておりません。喜んでやらせて頂きます」
若い頃考えていた、源氏の血を引く者として足利将軍家を支え、要職に就いて諸大名を従わせると言う夢は、義昭に対する失望、そして、それに続く足利幕府の滅亡によってとっくに消えている。自分は、主《あるじ》として信長を選んだ時点で、目の前に有る現実的な立身出世を目指そうと心を決めたのだ。今、本気で信長に逆らうと言うことは、再び夢を捨てることになる。決別し信長の元を去った先に他の可能性が有るとは、光秀には思えなかった。仏罰への恐怖を越えて腹を括るしか無いと覚悟したのだ。
「浅井・朝倉勢を匿い、わしに公然と逆らう者共を許してはおけぬ。甘い顔を見せれば、本願寺・一向宗の者共も勢いを得てわしに歯向かって来るであろう」
信長は光秀に向かって静かにそう言った。
「仰せの通りに御座います」
と光秀が答えると、
「ならば何故、先程、あのような顔をした」
そう突いて来た。
「いえ、そのようなことは御座いません」
と否定する。
「わしの目を節穴と思うてか?」
「いえ、そんなことは御座いません」
と、光秀は必死で否定した。
「隠すな。仏罰を恐れたのであろう。だがな、あの者共は仏を奉じては居るが、その陰に隠れて腐りきった者達だ。仮に、わしの名を借りて民に狼藉を働く兵達がおれば、ためらいなく斬り捨てる。それと同じ事。仏に代わって、腐りきった者達に仏罰を与えると思え。分かったか?」
『信長公記』では「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」としている。
これは、信長方の見方であるが、『多聞院日記』にも「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されている。
焼き討ち当時の比叡山は世間の見方としても、堕落していたことがしばしば指摘されていたのだ。
但し、これは我々の歴史である。真人《まひと》の居た世界での歴史では、信長は魔王とはならず、宗教勢力との妥協を繰り返して行くのだ。
宗教と権力の結び付きは古今東西に渡って語られるところである。我々の今居る時代でも、イランなどは、大統領の上に宗教指導者が存在する。イスラム圏に於いては、コーランが法を超える存在であり、法そのものがコーランの価値観に従って定められている。
歴史的には、中世ヨーロッパではカトリックが力を持っており、王の統治権は人民の委託ではなく、神の特別な恩寵に基づくと考えられており、宗教権力が王権の上に存在した。
我々の国に於いても、古代から宗教は政治と深く関わっていた。仏教渡来後、初期の奈良仏教界は謂わば研究機関であった。渡来僧や大陸で学んだ帰国僧を師とし、様々な経典を等しく学んでいた。
当時、仏教の目的は国家鎮護であり、研究者である学僧と王侯貴族が国家の安寧と併せて自らの栄華と死後を願って寄進や寺院建立を行うだけで、庶民とは無縁な存在であった。
だが、帝《みかど》の引き立てなどで徐々に権力を持つ者が現れ、弓削道鏡兄弟を始め、僧の中に政権中枢に上り詰める者が現れる。
この天武系皇統が独身女帝の死によって終わり、奈良時代が終わった。そして、天智系皇統が復活し、光仁天皇の子・桓武天皇は、政治的に影響力を強めた奈良仏教界と決別する為に平安遷都を行ったのだ。
その時点では確かにそうだった。桓武天皇は政治に口出しする奈良仏教界を排除して、最澄を留学させ支援し、天智系四代目に当たる嵯峨天皇は空海を支援した。
最澄が興した天台宗の比叡山と空海が興した真言宗の高野山は新しい仏教の二大拠点となった。
しかし時代が下ると、鎌倉時代に比叡山で学んだ何人もの僧が新しい宗派を立ち上げ、無知な庶民にも分かる平易な教えを広めることで信者を増やし、その一方で平安時代には、本山である比叡山延暦寺は権力者の子弟が天台座主となるなど、権力者との結び付きを強めて行った。
戦国時代となると、修行など忘れたかの如く、僧達は小僧、稚児相手の男色は元より女まで引き入れての酒色に耽《ふけ》る毎日だったと言う。
その一方で、武器を携えた僧兵と称する者達を多く抱えて、その勢力は大大名ほどになって居たのだ。
寺社勢力は朝廷や幕府に自らの要求を飲ませるため、武装した衆徒(僧兵など)や神人《しんじん》を集団で向かわせる実力行使を度々行っていた。
平安時代。特に「南都北嶺《なんとほくれい》」と並び称された奈良の興福寺と比叡山延暦寺は強訴《ごうそ》の常連で、興福寺は春日大社の神木《しんぼく》(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿《しんよ》などの「神威」をかざして洛中内裏《らくちゅうだいり》に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出、度々朝廷に要求を呑ませたりしていた。
白河法皇は、思い通りにならぬこととして、賀茂川の水、双六《すごろく》の賽《さい》、と並べて山法師を挙げている。
双六の賽の目は当然のこととして、鴨川はしばしば洪水を起こす川で、為政者としての白河法皇は水害に悩まされていた。また、比叡山延暦寺の僧兵は徒党を組んで京の町を暴れまわり無理難題を吹っかけて来る者達として、白河法皇のみならず、社会不安を煽る要素ともなっていた。
『寺社の勢力を削がない限り天下布武など絵空事となる』
信長は強くそう思い、真人《まひと》としての意識は、ここで中途半端に妥協すれば、この国は宗教の支配する国となり信仰を強制される社会となってしまうと危機感を感じていた。
真人の居た世界の歴史では、宗教各派の争いが激しくなり、宗派ごとにそれぞれ戦国大名達と結び付くことにより、戦国時代は宗教戦国時代となって行くのだ。それは、我々の歴史の中の山門寺門の血で血を洗う闘争など比べものにならないほど激しいものであった。
比叡山延暦寺の宗派は天台法華である。だが、鎌倉時代になると、この山で学んだ者達の中から浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などを立ち上げる者達が現れた。そして、王侯貴族が帰依していた仏教を庶民のレベルにまで引き下げることによって爆発的に信者を増やした。
本来仏教とは釈迦の思想である。思想であるから哲学的な面も持っており、何人もの弟子達によって書き残された仏典は、その解釈によって考え方が分かれて行く。
どの経典を根本的な解釈とするかによって宗派が生まれた。
それと同時に、単純化が進んで行く。学問とは無縁の庶民に、仏教の思想、観念など説いても分かる訳もないし、興味さえ呼び起こさない。
だが庶民は、戦乱の中で飢餓に苦しみ生きることの苦しさを味わっていた。すがるものを欲していたのだ。
仏教の教理を学ぶ必要も無いし、厳しい修行をする必要も無い。浄土宗は念仏、日蓮宗はお題目を唱えるだけ、浄土真宗に至っては阿弥陀如来にすがる気持ちを持てば良いとだけ説かれる。だからこそ庶民の心を掴む事が出来たし、そうでなければ、普及させることは出来なかった。
“信じる”と言うことは大事な事である。ただ。強く信じると言うことは、反面かたくなさをも生む。自分の解釈こそが正しいと思うことで他の解釈を拒む。そうして宗派が生まれる。
近親憎悪と言う言葉が有る。近ければ近いほど考え方の違いによりその溝は深くなる。
イスラム教のシーア派とスンニ派の争い、キリスト教のカソリックとプロテスタントの争い、そもそも、十字軍は長らくイスラムとの戦いを繰り返していたが、キリスト教もイスラム教も大元は同根なのである。
わが国に於いても、天文法華の乱、山門寺門《さんもんじもん》の争いなどの大規模な宗教紛争が起きている。
天文法華の乱とは室町時代に起きた紛争で、法華宗と延暦寺が争った紛争である。
これは天文5年(1536年)に、対立していた両者の訴訟に、幕府が法華宗に有利な判決を下した為に起きた争いである。6月1日、延暦寺は会議を開き、京都法華衆の撃滅を決議した。
戦いの経緯は省くが最終的に延暦寺方の六角軍が四条口より攻め入って火を放ち、法華宗の21ヶ所ある寺の内、本圀寺以外は焼け落ちた。そして、28日には本圀寺も焼失した。
この戦いで、法華宗側の戦死者は1万とも千人とも言われはっきりしない。
延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失した。この兵火による被害規模は、応仁の乱を上回るものだったと言う。
山門寺門の争いとは、天台宗自体が山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分裂し、長年にわたって行われた抗争のことである。
11世紀に、山門派が比叡山の戒壇から寺門派を排除すると両派の対立が決定的になり、互いに擁した僧兵による武力行使が繰り返し行われた。特に、圧倒的な人数を擁した山門派の山法師は園城寺を繰り返し焼討したのだ。
その後に両派の対立は、権門寺院の取り込みを図る武家の政権争いに巻き込まれ、平安末期には源氏と平氏に、中世には北朝と南朝に分かれて争うことになった長く続いた争いである。
真人《まひと》の居た世界の歴史では、これらの争い以上の争いが、戦国時代に再び繰り返されるこたになり、やがて、全ての者達が戦いに疲れ果てた頃、仏教全ての宗派のみでなく、耶蘇教(キリスト教)をも含めた統一普遍の真理を悟ったと豪語する者が現れたのだ。
信長の宗教勢力に対する姿勢の違いにより歴史は分かれた。真人《まひと》の意識をこの時代に送り込んだ機関の得た結論がそこに有った。
人の確認出来ない死後の世界を説く宗教と言うものに対抗しそれを打破し滅却しようとすれば、そこには、とんでもないストレスが掛かり、強い意志を継続する事が要求される。
信長である真人《まひと》は、改めて大六天魔王となってでも、権力として存在する宗教勢力を政治から排除し、信仰にのみ専念する存在に戻さなければならないとの決意を固めた。
執筆の狙い
諸事情により、今回、長さは半分ほどになります。
何度も問われ、ネタバレに繋がる“何故”をまがりなりにもここに示せたと思います。