秋、飽き、空き
不思議と休み続けていることに罪悪感はない。子供の頃から、熱が出ると、それは三十八度を超えている時に限るのだが、責任感や罪悪感から解き放たれる。熱があるんだから仕方ないじゃないかと。宿題などが後回しになることも、仕方ないの一言で片付けられた。さすがに大人になってからは、三十八度の熱が出るくらいで、仕事に穴を開けることはなくなったが、やはり、家の中では(家事や子供に関するイベント)仕方ないで済ませていた。それは昔から持ち合わせている逃避癖のようなものかもしれない。
今回の休みは長い。もう少しで丸一年を迎えようとしている。最初の一ヶ月くらいは、罪悪感もあったと思う。思うと表してしまうのは、いまの記憶では断定はできないからだ。もしかすると、はじめから仕方ないと思っていたのかもしれない。しかし自分の性格からすると、罪悪感はあったはずだと思っている。上限一杯に繰り越していた有給休暇や諸制度を使い終えると、休み続けるに当たって診断書が必要になった。通っているメンタルクリニックで診断書をもらった時は、初めて免許証を受け取ったときや、パスポートを作ったときの感覚と似ていた。免許証やパスポートが、何かができる許可証であるのと違って、診断書は、働いてはならないという不許可証である。言い方を変えれば、働かなくていいという許可証、いわば免罪符のようなものだ。ともすると、仕事は罰で、それを休むということが罪。診断書は、無罪とならなくとも、執行猶予は与えてくれる魔法の紙だ。
私小説は糞だと思っていた。ナルシシズムの境地だとも。書いているいまもなお、そう思っている節はある。自分を掘り下げても、玉ねぎと同じで、皮しかないし、自分というものを知ってどうするのか?そこには情けなさや後悔、さもなくば、死にたくなるしかない気がしていた。私小説ではなく、フィクションを書いているときは、想像力を総動員して、他人の行動や感情の移ろいを描けばいいし、ユーモアもたっぷり入れることができる。自分の人生より他人の人生の方が、興味深いし、得るものも多い気がしている。何も私小説がノンフィクションである必要はないのだが、自分がいまから行おうとしているのは、限りなくリアリズムに則ったものではなければならない。皮をめくるのではなく、根っこを、いいや、根っこの先にある土壌を捕まえようとしているのだから。ここで疑問が発生する。土壌を知れば自分を知ることができるのか?土壌の先にはプレートがあり、マントルが対流していて、その奥には核があるらしい。核を知れば、自分を知ったことになるのか?過去の偉人も作家も、自分を捕まえることはできたのだろうか?ここでいう自分というのは、感情の源泉のようなものだ。感情さえコントールできれば、自分という器をうまく乗りこなすことができるだろうと思っている。無論、いまはまるでコントロールできていない。
休み始めたきっかけの話をしよう。瑣末で下らないものだが、そうしないと話が進まない。
私は、日本で最も有名な企業のひとつであるインフラ事業者の代理店で働いている。役職名は店長だった。いまは休職が長引いた結果、その任を解かれ、本社所属の課長だ。遠からず復職するはずだが、(そうしないと生活できないのだから)なんの仕事をするのかはわからない。
その最も有名な企業の社員四名だが、五名だかに囲まれ、店の運営体制に対して、叱責を受けた。私には罵声にしか聞こえなかったのだが、相手からすると叱咤激励のつもりであったのかもしれないし、その上の役職者から、あいつは気に入らないから、とっちめて来いと言われていたのかもしれない。その四名だか五名は、突然店に現れ、抜き打ち監査ですと叫んだ。その階に私は居なかったから、部下から内線電話によって、連絡を受けた。店長歴八年の内、初めての事態で、理解するのに時間を要した。部下の手前、表情はポーカーフェイスを装い続けていたと思うが、多少は引き攣っていたかもしれない。
その階に顔を出すと、挨拶も何もなく、私としても抜き打ち監査ご苦労様ですと言うわけにもいかず、書庫を全部開けてください、余計な動きはしないでください、と言われるがまま、身を任せるより他なかった。接客フロアや事務所内をくまなく、捜査された。ゴミ箱の中まで。
抜き打ちでない監査は定期的に行われている。大々的なものは年一回、小規模のものは四半期に一回。この店の店長になってから二年目であったが、一度も引っ掛かったことはなかった。対策もしていたし、うまく喋りですり抜けてきたというのが正解かもしれないが。今回ばかりは趣旨もわからないし、挨拶さえさせて貰えないのだから、正にまな板の上の鯉、そんなに立派じゃないから、鰯とか、プレパラート上のミジンコの方が正しいかもしれない。
小一時間ばかりその捜査は続いたのだが、段々冷静になってきて、なぜこのタイミングで、という疑問は、答えに行き着いた。数日前に、私の部下と、この四人だか、五人だかの内のひとりが、事務処理ミスの多さについて、打ち合わせをしていた。それは指摘をするというのではなく、あくまで打ち合わせで、これからどうして行こうかというものだったと私は報告を受けていた。私の店は巨大で、その地区では、他店を寄せ付けない顧客数と販売数があった。全国でも指折りの店と言ってもいい。これは自慢しているわけではない。私はむしろ、そんな店の店長なんてしたくなかった。既に周りから、凄いと思われている店を任せられるのは、私の好みではなかった。頂点を極めているお店は、あとは下るのが、当たり前だ。落ちていくとわかっている店を任せられて、嬉しいわけがない。無論、私をそこの店長に任命した上司たちは、期待して任せたのだろうし、キャリアパスのつもりで、次の役職に進むための通過儀礼でもあったのだろう。
話を元に戻そう。私の部下とそのひとりとの打ち合わせの中で、何かがあったのだという答えに行き着いた。事務処理ミスの多さに店長が、なんの対策もフォローもしていないというような話に落ち着いたのだろうと。これは部下の裏切りや能力不足を糾弾しているわけではない。部下との信頼関係もその有名な会社との関係構築も店長である私の仕事だ。それが出来ていなかったから、こういう目にあったのだ。
捜査が一通り終わると、私はその内のひとりに声を掛けられ、ゆっくり話がしたいと言われた。会議室が空いていることを確認し、その四人だか五人を案内した。副店長のひとりが、私も行きましょうか?と声を掛けてくれたが、いい、店を守っていてくれと、申し出を断った。ひどい目にあうのは予想出来ていたし、この人たちの用事は、私をとっちめることにあるのは、わかっていた。副店長に、その姿を見せるのが嫌だったのではなく、なぜかひとりで受け止めるのが当然だと思ったのだった。人材育成の観点からすれば、その姿をも見せるのが、良い経験になっただろうなと、事が終わったあとには思った。
そこから先の記憶の順番は曖昧だ。覚えているのは、机をバンと叩かれ、今日、なんで、監査に入ったかわかりますか?こんな抜き打ち監査なんか前代未聞ですよ!店長として、どう考えているのですか?これからどうすんですか?とか、この署名はどう見ても店長の直筆ではないですよね?部下に代筆させるように指示を出しているんですか?などど大声で怒鳴られ続けたことだ。その四人だか五人だかの中には、一度も話したことも、名刺交換もしたことがないひとが二人は居た。初対面と言っていい。全員が感情的で、味方らしい人物はひとりも見当たらなかったが、ひとり真ん中に座っているのが事務処理担当の課長であった。大した話もしたことはないが、最後は大人の対応で、このひとが話をまとめてくれるのではないかと薄い(淡いよりもっと薄い)期待をしていた。全員から攻撃にあっている間、ここで攻撃と表しているのは、私の主観的事実であり、客観的事実としては、当然のただの指摘だったのかもしれない。ここから先は主観的な事実を軸に書いていくので、読み手の方々は不快に思うかもしれない。仕事ってそういうもんでしょ?とか、自分が仕事できないのを棚に上げてとか、そういった議論は、この私小説的なものの目的とは別なので、一旦棚上げさせて頂くことを了承して貰いたい。そうしないと、話が進まないのだから。
その淡いよりもっと薄い期待をしていた課長から発せられた言葉は、このことは部長にもしっかり報告させて貰います、だった。攻撃にあっていた時間は、おそらく二十分程度。会議室は従業員休憩室とパーテーション一枚で隔てられているだけなので、そこに居た従業員には、完全に漏れ聞こえていただろう。部屋選びに失敗したなと思った。応接室なら、少しは音漏れを防止出来たかもしれない。私は指摘された事項のメモを取り、いつまでにどうやって改善するのか、約束をした。その場で決められないことは、別途報告することになった。会議室を出るとき、もっとも怒鳴っていたひとから、店長にだから、このお店の店長だから、◯◯店長だから厳しく言ったんですよ。期待しているんですよ。販売も凄いし、うちの地区を代表する店舗なんだからと言われ、私はたたただ頭を垂れた。馬鹿みたいに、御礼の言葉も口にしたかもしれない。指摘して頂いてありがとうございます。お手間をとらせて申し訳ございませんとか。ここでいうのもあれなのだが、私は前日から体調を崩していた、三十八度から三十九度の間を行ったり来たりしている状態だった。大人になってからは滅多なことで発熱することはなかった。三年前にウイルス性の肺炎になって以来だった。弱り目に祟り目。普段なら、もっといい切り返しも出来たのになとか、その四人だか五人を見送りながら、頭を垂れたまま、そんなことを考えていた。
さあ、困ったぞとなった。事業者と代理店の立場は圧倒的に事業者が強い。事業者に睨まれていいことはひとつもないし、店長になってから八年間、結構うまくやり抜いてきたので、ここまでコテンパンにやられた経験値もなかった。取り敢えず、上司には報告をする必要がある。一般的な役職名で言えば、スーパーバイザーのようなものだ。その地区の数店舗を一括して担当している。上司に連絡したまでは、覚えているのだが、何を話したかは、まるで覚えていない。怒られることはなかったが、慰められることもなかった。この上司にはいい思いをさせてあげたことがない。着任は私と同じ、二年前で、そこから事故が続発した。新聞で取り上げられるような事故ではなく、あくまでこの業界内では事故として扱われる類のものだ。私の店はこれまで幸いに、事故は起こしたことがなかった。発生したとしても、自店舗内で鎮火させていた。普段の力が発揮できていれば、私はいつもそのように振舞ってきた。他の数店舗で連続的に発生していて、事業者からは問題のある代理店として睨まれていた。その最中で、ついに自店舗でも発生だ。事故ではないが、睨まれたことには変わりはない。上司には、ただただ申し訳ない気持ちで一杯だった。
この店に着任するまでに二店舗で店長を経験していた。この業界に入ったのは十五年前で、派遣社員として港区内の店で勤務し始めた。その頃の業界は、古い言い回しだが、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。高卒、しかも商業高校卒の自分がスーツを着て働き始めることが出来るとは思っていなかった。実際、派遣会社には、工場勤務希望で、登録していたのだが、職場見学実施の前々日になって、他の人材で工場は決まってしまったと言われ、こっちの業界はどうですか?と提案され、慌てて初めてのスーツを買いに行ったのを覚えている。派遣社員というのは、建前上、派遣先での面接が禁止されている。派遣会社は派遣先からオーダーを受けた能力を持った人材を派遣し、派遣先は原則、紹介を受けた人材を面接したり、断ったりすることは出来ない。スキルシートと言って、実務能力や略歴の載っている書類が派遣会社から送られた段階までは、選考し断ることは出来るのだが、会ったら最後。断れないのだ。さっきも言ったが、これは建前だ。別に自業界を擁護するつもりはないのだが、実際、人物を見もしないで、仕事を任せることが出来るかと言えば、それは困難だろう。余程優秀な派遣会社の営業マンでない限り、紹介された人材を無条件で雇入れすることは、リスクが高過ぎる。法律と現実が乖離しすぎているのだ。というわけで、職場見学という名のもと、面接のような、面接でないようなものが行われることになっている。私は、その職場見学で落とされた。断り文句は、こうだった。直接聞いたのではない、派遣会社の営業マンを通して聞いたのだが、◯◯さんのような人材は、どこに行っても働いていけると思います、当店が求めているのは、この業界ではないと駄目なんだという人材なんですとのことだった。意味がまるでわからなかった。面接は禁止されているのに、二時間にわたって、数え切れない質問を受け、それへの回答をしたのに、なんだ、その断り文句はと、怒りが湧いてきた。まだ、この業界に向いていないとか、接客出来そうにないとか、言われたのならば、納得も出来たろう。この業界ではないと駄目な人材って、いったいなんだ?お笑い芸人でもなかろうし。
職場見学するまでは、工場勤務希望であったのだから、この職場にこだわる理由はどこにもなかった。駄目なら駄目で、別の職場を紹介して貰えば良かったのだ。しかしながら、すぐにでも働かないとならない程、生活は切迫していたし、何より断り文句が気に入らなかった。営業マンに、私は嫌だ、と言った。どうしても、あそこで働きたいと。あの店長が気に入らない、頑張って、もっと押してくれと、懇願したというよりも、脅した。面接しちゃ駄目なんですよね?あれ、面接ですよね?と。
そうして、この業界に入ることになった。営業マンと店長の間で、どういう話し合いが持たれたのかは知らない。何年も経ってから、その店長に、その逸話を問い詰めると、◯◯はそう言って来ると思ったんだよ、根性があるか試したんだと答えた。そんなはずはなかろうに。普通は、断られたら、それまでだ。私の店長歴八年の間でも、断って、入りたいと言ってきた人物はひとりもいない。だから、その言葉を私はこれっぽっちも信じていない。その店長と飲む機会があると、よくその逸話を問い詰めることがあった。もはや、ネタ化しているところもあったのだが。そんなこと言ってないよとか、真面目な顔をして、私が嘘を付いているかのように振る舞うこともある。私はその店長を信じていない。でも、嫌いではない。結局は、雇って貰ったという恩義を感じているし、適当な性格も、上司に対しては失礼な言葉だが、愛らしいと思っているところがある。
入ったのは二十五歳だった。上り調子の業界は適当なものだ。入店して一ヶ月経ったか経たないかのうちに、私は法人営業をやりたいと、店長に上申した。オフィス街でもあり、店頭に立って、待ちの営業をするより、自分から攻めていく方が性に合っていたのだ。その申し出は、すぐに受け入れられ、知識もないのに、外回りを始めた。初めは、先輩の(といっても、法人営業にはひとりしかいなかった)顧客の納品の手伝いをしていた。何時にどこと言われれば、そこに出向き、初めましての名刺交換をし、商談があると付いて行き、横に座り、知識を吸収していった。それも数ヶ月もすると飽きがくるものだ。自分の顧客が欲しいと思い始める。納品があると、次からは私が担当になりますと、勝手に言い回り始めた。その先輩はとても大らかで怒りはしなかった。大らかすぎて、顧客を怒らせることは多々あったが。
そこから法人営業を五年近く経験し、派遣社員ながら副店長まで昇格した。その後、正社員に登用された。会社の売上、利益は伸び続け、東証一部にも上場し、流れを同じくし、当店法人営業も当初わたしを含め二名だったのに、この時は二十名を超える大所帯になっていた。この当時の自分のモチベーションは「なのに」をつけることによって語ることが出来る。商業高校卒なのに、派遣社員採用なのに、中途採用なのに、ここまで来たんだと。駄目な自分に社会性のようなものが備わってきたような気がした。正社員登用された際に、もっとも嬉しかったのは、社会保険証を受け取ったことだった。派遣社員時代も派遣組合の社会保険には加入していたが、今度はそれとは、まるで感覚が違う。一部上場企業の名前が入った社会保険証なのだ。学歴コンプレックスも有ったと思う。そんなに強い方ではないが、若干は有ったことはしかと認めよう。自分の部下に大卒が居ることが誇らしくもあった。
正社員登用されてから一年経たずして、他店舗へ店頭の副店長として異動となった。その店舗に居たのは、たった一年であったが、経験値は格段に上がった。店長の裁量というか、器というか、気質というか、業務全般の統括を、私に任せてくれた。事業者接待やら、上司との飲み方やら、業務以外のことも、多く学んだ。それらの経験は、私の名前を会社の幹部に知らしめることになった。そういう意味では、その店長は名プロデューサーと言えるだろう。性格は、柔らかい言い方をすれば、もの凄く特徴があり、率直に言えば、とても面倒臭い人だった。この人のことを語り出すと、この私小説的なものの本筋を外すので、割愛させて頂く。ただし、一言だけ記しておこう。感謝もしているし、恨みもしている。
そのお店にいる間に店長に必要なライセンス試験を受けることになった。感謝もしているし、恨みもしているその店長なくしては、ここまで来れなかったことは間違いない。一度目の試験で合格し、翌年には他店舗へ異動し店長となった。三十一歳になる直前だった。
ここまで家族について語って来なかったが、この会社に入る前から、妻と子二人が居る。厳密に言えば二人目はお腹の中にいた。結婚した当初は、アルバイトや妻の実家からの助けによって、息も絶え絶え暮らしていた。生活が安定し始めたのは、この会社に入ってからだ。収入は安定したが、家族を顧みない仕事のやり方にもなっていった。派遣社員時代は、月の残業は百時間を超え、休日出勤も当たり前だった。店長になってから、家に居ない時間が加速度的に増していった。勤務時間は大したことない、副店長時代よりは下がっていった。その分、飲みに行く機会が増えた。それは接待の場合もあれば、部下との付き合いや、店長同士の意見交換の場でもあった。得意ではないが、ゴルフも覚えた。次第に家に帰らなくなっていった。毎日帰らないのではない、週に何度かは帰る。それ以外は、店に泊まったり、ネットカフェ、個室ビデオ、サウナに泊まる生活になっていった。当然のように妻との関係は冷え切り、たまに帰っても喧嘩することが多かったように思う。成長過程にある子供たちの教育にも、ほとんど携わることなく、妻任せになっていった。それでも子供二人は、グレることもなく、すくすく育った。妻には本当に迷惑を掛けっぱなしだが、子供たち二人は、私をきちんと父親扱いしてくれるし、それは妻の教育の賜物以外のなにものでもないと感謝している。妻は多少エキセントリックな性格を持っているので、叫ぶ、喚くはあるが、音量を別にすれば、害はない。子供たちの教育にも熱心だ。塾にも行かせず習い事もさせずして二人ともに国立大学付属の小学校に合格させた。(次男は、その合格後の抽選によって入学には至らなかった。抽選に立ち会ったのは私で、長男の際は合格を引き、次男の際は不合格を引いた…)
家に帰らなくなったのは、仕事の忙しさは言い訳に過ぎず、原因は別のところにある。上昇志向の強い私と、現状維持の幸福を求める妻との間に、一緒に解決すべき共通の課題や話題が見つからなくなったのだ。私の課題はいつも仕事の中にあり、仕事というと聞こえがいい、自分の功名心や探究心の中にだけあったという方が近いか。妻の課題や興味は子供と私たち夫婦の将来や何気ない日常の中にあった。話題はバラバラであり、妻の話を聞くのも、自分の置かれている状況や目標について語るのも話が通じず、億劫になってきて、帰るのが面倒になってきたのだ。ひとりで居れば、好きなだけ仕事のことを考え、自身の探究心を満たすことができる。そうしているうちに、妻は精神のバランスを崩し始めた。元々エキセントリックな性格な上に、家族を顧みない私との関係悪化が影響を及ぼし始めた。泣く、喚く、叫ぶは当然として、持病の喘息の悪化。精神科に通い始めると、境界性人格障害の疑いがあると言われた。仕事中に何度も携帯が鳴り始め、電話の先では、泣き、叫んでいる妻の声が響いていた。次第に、電話にもほとんど出なくなった。帰らなくなる頻度も増していった。たまに帰っても喧嘩しかしなくなり、お前のせいで私は帰りたくないんだよと思っていたし、実際口にも出していた。
初めて店長になった店舗では、従業員に舐められまいと、店長に登用した幹部たちにも、自分の実力を認めさせようと、やっきになっていた。仕事の出来ない役職者は、ポジションを外し、出来る従業員を登用していった。部下の出来ない仕事は、全部自分でやった。害にしかならない従業員は、辞める方向に誘っていった。不思議と自分と合わない従業員は、一年くらいで一掃された。退職させるときは一層の注意を払った。仕事へのマイナス発言を連発し始めたり、会社批判をし始めると、他従業員のモチベーションを低下させる恐れがあるからだ。なので、辞めると言い始めた従業員のことは、ほぼ全員引き止めた。引き止めると考え始める。そんなに悪い職場ではないかもと。そこで持ち直す従業員は、後々活躍し始めることも少なくなかったし、辞める従業員にも、引き止めて貰えたという、幾許かの会社への恩義を植えつけることが出来る。こういう書き方をしていると計算高いように思われるかもしれないが、実際は、そうとも限らない。人生相談に本気で乗ったり、辞めようとしている従業員を私ひとりでは引き止まらない場合は、部下に協力を依頼したり、場合によっては、このお店(私)が気に入らないなら、他店舗への異動の道を探ったり、その従業員の人生と、会社としての有益性の両方を考えながら、行動していた。まあ、それを計算高いと言うのかもしれないが_…
二年半務めた一店舗目では誇れる程の実績を残したわけではないが、それなりの立て直しに成功した。というのも、その当時の評価指標からすると、最下位で引き継いだのだ。中の上ぐらいまでは、持ち上げられたのだから、まずまずと、自分の中では思っていた。
二店舗目は、一店舗目より規模の小さいお店だった。会社の私への評価は高くなかったと言える。他店長との相対評価なので、絶対的に低いわけではないと、その時は自分を慰めた。
この店は高級住宅街に有り、商圏は広く競合店舗は存在せず、黙っていてもある程度は、儲かるようになっていた。オフィス街や下町の場合は、そうもいかないのだ。商圏は狭くて競合店舗も多い。
しかし致命的な問題も持っていた。まるで街と調和しな古い建物、来客数の割に店が狭すぎること、従業員が少なすぎること、組織機能がほぼないこと(副店長は存在しているものの、それ以下の役職者が、居るには居るが名ばかりで機能していない)課題は明確であったから、取り組みやすくはあった。ちょうど街は再開発の真っ最中であり、店舗移転させるには、持ってこいのタイミングだったし、この時の上司も私と同じものを問題点として認識していたから、仕事が進めやすかった。着任してすぐに組織体制を見直し、移転物件を探し始めた。前店舗は、会社に対して批判的な従業員が多かったが、このお店にはそういう従業員は、ほとんどいなかったことも好材料だった。日銭を稼ぐことに集中せずともよく、将来必要なことへの労力を払いやすい環境だった。店長としては二店舗目だが、勤務するのは四店舗目だった。この経験から気付いたことがある。当たり前といえば当たり前なのだが、従業員の雰囲気は、街の雰囲気に似ている。オフィス街はオフィス街らしくビジネスライクな、下町は下町らしく義理人情を重んじる。高級住宅街は表面上、紳士淑女的で、肚の中では何を考えているかわからない。言葉を変えると、街の雰囲気に店は勝てない。その街の色に染まる。
電鉄会社の取り仕切る再開発事業であったので、その本丸にアポイントを取る必要があった。上司が既に面通しを行ってくれていたので、そのハードルはすぐにクリア出来た。しかし、当店を、新しく作る商業施設に機能のひとつとして、必要としている感じは当初受けなかった。相手からすると、もういいよというくらい、同じような提案を受けており、ひとつひとつにいい顔をしていられないのだったとも思う。
同時にその街に古くからある百貨店の方への移転も検討していた。運営会社にアポを取って、挨拶にも行ったのだが、前者と比較すると、まるで手応えを感じなかった。控えめに言って、かなり上から話す担当者だったことを覚えている。ただ、繋がりだけは消さないように、適宜連絡を取ることは欠かさなかった。
電鉄系会社に出店提案してから一年近く経った頃、相手から、当店を候補に入れていると連絡を貰った。当店のようなインフラ事業は、ある程度毎月安定した来客者数を見込めるのが、プラスの判断材料になったようだ。我々も、そこを最もアピールしていた。
そこからは、今までに増して集中力と執着心を注ぎ込み、移転物件確保、社内稟議突破、事業者からの承認取り付けに向けて、家庭を顧みることなく仕事に没頭した。妻からの電話は相変わらず、鳴り続け、たまにしか出ることはなかった。喘息がひどく、救急車で搬送されたこともあったようだ。それを聞いても、構われたがりで、煩わしいとさえ思っていた。自分が良き夫でも良き父でもないことは自覚していたし、家庭と仕事を天秤に掛けても、完全に仕事の方が重かった。ワークライフバランスのかけらも感じないし、必要とも思っていなかった。
方々の協力を得て、無事移転が決まった。店舗面積は現物件より三倍に広がり、家賃も三倍にとはならず、今より下がることになった。いいこと付く目で、移転しない手はなかった。商業施設開業まで、あと一年を残していた。時間はたっぷりあったので、店舗設計にも、随分とこだわることが出来た。事業者ルール上認められていなかった壁紙、什器の色や客席の素材も、街の雰囲気に合わせたくて、なんとか承認を取り付けた。移転日は二〇一一年三月一四日と決まった。三月一二日に現店舗を閉鎖し、中一日で移転開業となるタイトなスケジュールであったが、なんとかなるだろうと思っていた。
閉鎖の前日、三月一一日は現店舗二階の事務所で、パソコンに向かって、何かをしていた。おそらく移転の準備だったのだろう。あるいは、パソコンは見ているだけで、気分の高揚を抑えるのに必死だったのかもしれない。揺れを感じた。大きく下から突き上げるような感じだったと思う。何かが違う気がした。何が違うのかはわからない。一階へ階段を急いで駆け下りた。一階のバックヤードに着くなり、一度目よりはるかに大きな揺れが、やってきた。あのときを思い出しこうやって書きながら、嫌な気分にしかならない。気分ではない。不安だ。不安は不安定だから不安なのだ。地面が不安定であることが、こんなにも自身を、根拠のない自信を揺るがすものとなるとは、考えも用意もなかった。一階バックヤードには副店長と事業者の担当者が居た。副店長に声を掛けて、客席の方に向かう。揺れはひどく長く感じた。客席は櫓で囲まれている。櫓が一メートルくらい横揺れを起こしていた。力一杯身体を突っ張らせ、抑えた。副店長の名を叫び、抑えろと指示を出した。小学校の時に習った机の下に隠れろは、何の役にも立たなかった。机の下には二十センチ程度の余裕しかない。客へも他の従業員へも、何の誘導も指示も出せなかった。ただ、揺れる櫓を抑え続け、二度目の揺れが収まったときに、ようやく全員を店外に誘導した。揺れは、その後も続き、目の前の百貨店、ガラス張りのエレベーターの箱は左右の壁にぶつかり続けていた。道路は、避難した人々で溢れていた。従業員の一人は過呼吸の発作を起こしていた。事業者の担当者は呆然として、言葉を失っていた。私も何を言えばいいのか、わからず、とにかく避難場所に移動することを考えた。その前に何が起きているのか、確認する必要を感じ、テレビを見た。最初に目に入ったのは、何だったのかは覚えていない。記憶に残っているのは、自衛隊の基地が浸水していく様子だった。液状化?津波?現実感がまるでなかった。アナウンサーは、津波です、と言っている。津波って、サーファーが乗る波の大きいやつじゃないの?すごい高さから浜辺や港を襲うやつじゃないの?こんなに、のんびりと土地を飲み込んでいくものなの?疑問は絶えなかった。わかったのは震源地は、どうやら東北であること。妻の実家は宮城県石巻市。
店の前にビッグスクーターへ二人乗りで、客がやってきた。今から契約できますか?と。あのー地震の影響で出来るかどうか、約束できないんですよ。えっ、地震?さっきの地震なんだーと間の抜けた声で答えられた。契約の件はわかりました、ちょっとテレビだけ見せてもらえますか?どうぞ、と店へ案内した。ひどいことなってるなーわかりました、帰ります、と言って、二人はバイクに乗った。明日はできますか?やっぱり約束はできませんね。そうですか、また来ますと、二人は去っていた。
手続き途中であった最後の客が帰ってから、従業員全員と事業者の担当者とともに、避難場所へ移動した。道中、妻の携帯に電話すると、一回で繋がった。自宅は大丈夫であること、子供たちは学校だから、様子はわからないこと、実家には連絡しても繋がらないことを確認した。電話を一旦切り、上司へ連絡した。これも一回で繋がった。従業員たちも、自分の携帯で自宅やら、彼氏や彼女に連絡を試みているが、ほとんどが繋がっていなかった。この辺でようやく気付いた。自分の携帯電話が災害時有線電話であることに。上司に怪我人はいないことを報告し、適宜連絡を取り合おうということになって、一旦電話を切り、従業員に私の携帯電話は、繋がりやすいことを説明し、貸した。避難場所の小学校に到着すると、誰も避難してきている人は居なかった。従業員の人数確認をしていると、事業者の担当者が居ないことに気付いた。暫くすると、メールで、電車は止まっているので、歩いて事務所に帰りますとのことだった。歩いて?おそらく、二~三時間は掛かる。ふと思い出した。彼は、関西出身で、阪神淡路大震災を経験していることに。呆然としていたこと、歩いて帰ること、なんとなく合点がいった。
小学校前に暫く居たが、誰も来ないので、また店に戻った。閉店するか、営業再開するか判断する為に、店の中に入った。一階には異常なかった。二階にあがると、天井の梁全てに無数のひび割れが起きていた。すぐにどうこうなるレベルのものでもないだろうが、責任者として、最優先すべきなのは、従業員の安全確保だ。営業再開しないことに決め、上司へ一報を入れた。
移転閉店が一日早く訪れた。帰られる従業員は帰し、帰られない従業員は、新店舗で待機することにした。新店舗の工事は全て終わっていたので、数名の従業員とともに、断続的にくる余震に襲われながら、テレビを見たり、簡単な作業をしながら時間を過ごした。夕方を過ぎても電車が動きだす気配はなかった。大船渡出身の従業員がひとりいた。私の携帯を貸しても、実家へ連絡は取れなかった。実家にはお母さんがひとりで居るらしいのだが、携帯電話は持っていないようで固定電話に連絡を取り続けたが、繋がらなかった。おそらく停電しているのだろうと思った。私もその従業員も不安な時間を、テレビを見ながら過ごした。悪い知らせはあっても、いい知らせは、何も映していなかった。
妻に電話すると、長男を迎えに行くと言っていた。実家には変わらず、連絡がついてないということだった。次男は近所の公立小学校から、すぐ帰ってきたようだった。長男の大学付属の小学校からは、親が迎えに来るように連絡があったそうだ。私は迎えに行くことに反対した。テレビで見る限り、街は交通手段が確保できない人々で溢れていた。二次災害も十分に考えられるし、迎えに行けたとしても、何時に到着出来るのかわからない。妻はパニック状態だったし、その時の夫婦関係も相まって、私の話に聞く耳を持っていなかった。もう、家を出ている。とにかく心配だから迎えに行くと言った。
余震には、不思議と慣れてきていた。大船渡出身の従業員は、ずっとテレビを見ていた。何度か私の携帯を貸したが、結果は変わらなかった。従業員の為にコンビニに買い出しに行った。いろんなものが品切れになっていて、大したものは揃えられなかったが、食事を摂ることはできた。
深夜に差し掛かってきた頃、電車が動きだした。数名は帰り、私を含め数名は、店に残った。大船渡出身の従業員は、帰られるには帰られたが、家に戻っても、ひとりで不安になるより皆と居た方がいいと言って、店に残った。
妻の実家には私からも何度か電話したが、混み合っているとガイダンスが流れるか、繋がらないかどちらかだった。
部門の上層部からは何の連絡もなかった。連絡が取れるのは、直属の上司だけで、その上司に尋ねても、会社からは何の指示も来ていないということだった。後日、聞いた話だが、上層部三名は、その日ゴルフに行っていたそうだ。帰り頃、震災に合い、近くを通り掛かった多摩地区の店舗に立ち寄り、そこで_夜が開けるまで、呑んでいた。誰にも、何の指示も出さずに。誰の安否確認もせずに。
四日経ってから、妻の実家は、全員無事だという知らせが入った。妻の弟が出張先の山形から車を乗り継いで帰ると、実家の祖母、父、母は、おにぎりを食べていたそうだ。電気、水道は止まっていたが、給水車によって、水は確保出来ていて、ガス釜を使って、お米を炊いたそうだ。家屋は瓦屋根が数枚落ちたくらいで、損傷と言えるものはなかった。実家の三名は情報が遮断されている為、自分たちに何が起きているのか、よくわかっていなかったようだ。遠くに居る我々は状況を知り、震源地近くの人々は、自分たちの置かれている状況がわからない。皮肉なものだ。妻の弟は、携帯の電波が届く範囲にまで移動して電話をくれた。充電の問題もあるから、次はいつ電話できるかわからないと言った。
新店舗のオープンは五日遅れた。商業施設としては大々的なオープンイベントを考えていたようだが、自粛し告知もまったくせずに、十九日にオープンした。大船渡出身の従業員は、まだ実家と連絡が取れていなかった。存命を確認するまでに二週間掛かった。私も従業員も、いろんな不安を抱えたまま、オープン日を迎えた。
華々しく、混雑するオープンを考えていたので全員出勤日に設定していた。震災によって、それは脆く崩れ去ったのだが、二、三名を除き、念のため残りは当初予定通り出勤させていた。
開店と同時に大量の客が流れ込んできた。計画停電や節電の影響もあって、通常よりは三時間早い閉店となったのだが、店舗史上最高の販売台数を記録した。開店日の朝礼に参加した事業者も当社幹部も喜んでいたが、私は不満だった。従業員の働きには十分満足していたし、こんな精神状況の中、よくやってくれたと思った。中には何も考えずに我武者羅に働いていた方がマシだという考え方もあったと思うが。不満だったのは当社幹部から、自分たちが何の手助けも、判断もしなかったことに詫びの言葉も、この日を迎える従業員への労いも何もなかったからだ。冷静に考えれば、何百店舗も運営しているのだ、当店だけに特別な対応はできないことはわかっている。それでも、それでも、なのだ。いいや、間違っているのは、期待をする自分なのだろうか?文句のひとつも言えない自分に問題があるのだろうか?
震災から二ヶ月弱たって、妻と子供と現地の親族の元を訪れ、車で被災地を回りながら、瓦礫はだいぶ減ったと聞いた。テレビで切り取られた映像を見るのと、自分の目で見る実体は、まるで別のものだった。津波の直撃や火災により倒壊した家屋、元は何かの工場だった建物、道路に乗り上げた漁船は、大掛かりな戦争映画のセットを見ているようだった。車の窓を開けると、港は潮の香りではなく、魚の腐肉臭で満ち、フィクションの世界に居るようで、現実感は、まるでなかった。震災直後、停電により情報を得る手段がなかった現地の人々は、自分たちの街が、どういう風になっているのか、知る由なかったそうだ。すごく揺れた。電気も電話も止まった。津波が来るかもしれない。農業用水路の門を念のため閉めておこう。それぐらいのもので、東京で私たちが見ている映像は、彼らには届いていない。遠くに居る私たちは、何が起きているのかを知り、現地の人々は、目の前の事しかわからない。連絡が取れていたら、門を閉めに行っては駄目だと伝えられた。その親族は、数分の差で一命を取りとめた。
閉門後しばらくして、耐え得る量を超えた津波によって、門は決壊した。自宅から一キロも離れていない場所まで、津波は押し寄せ、親族は、そのことをだいぶ経ってから、知った。ぎりぎりだったなと言っていたけれど、他人事のようで、関心を持っているようには見えなかった。これは生命力かもしれない。
一通り被災地を回った後に、幾棟かの仮設住宅が横に立っているショッピングモールへ立ち寄った。モールの真ん中には、絆の文字が書かれた懸垂幕があり、建物内の広場では、被災地慰問的な芸能人の歌謡ショーが行われていた。被災者は仮設住宅に住む方や、病院で過ごさざるを得ない方で、モールで買い物できる人は、被災地に関わる人ではあっても、被災者自身ではない。現に、その場に居た私たち数名は被災者ではないし、その場に居た他の方々も、苦しんでいる人々ではなかった。本当に苦しいときは歌を聞いて、どうにかなるものじゃない。被災者が、本当に必要なのは、暖かい寝る場所や、暖かいご飯であり、芸能人のショーではなかったはずだ。
その芸能人の大ファンで、この地震のお陰で会うことが出来たという気持ち的に余裕のあった方も中には居たのかもしれないので、一概には否定できないのだが。
仮設住宅が行き渡らず、体育館や公民館を仮の住まいにしていた人々も居た。そこへ、芸能人が現れ、ギター一本で弾き語り。好きな方は感動したのだろうけれど、一方では静かに寝かせておいて欲しかった方も居たのではないだろうか。元気な人は情報を発信できる。いまはSNSもあるし、自身の意見は述べられる。でも、元気ならだ。批判にも耐えられる精神力と体力があれば、それもできるだろう。体力が落ちて、静かにしておいて欲しかった方々の声は、発信されることはない。
被災者の方々に対して、私がしたことは、コンビニの募金箱に、自分の生活が苦しまない程度のお金を入れることくらいだった。それ以外に何が出来たか。__四年以上経ったいまでも、答えは出ていない。同じようなことが起きたとしても、また募金箱にお金を入れるだろう。自身に直接的に起きた出来事でしか、自分は変われないのかもしれない。
事業者の発案により、新店舗のコンペが開催されることになった。私の店舗から二駅離れた場所に新店舗をつくる。このコンペには複数の代理店に声が掛かっていたが、出来レースの呼び声も高かった。もう事業者の腹積りは、某代理店で決まっていて、商圏が被っているから、当社にも声が掛かっているだけだと。同時期に複数の場所で、新店舗コンペが開催されることになっていて、いくつかは当社が最優先で、いくつかは他社が最優先で、と本当か嘘かわからない噂が飛び交った。噂は噂でしかないと思い。本気で物件を探し回った。一件見つけ、安堵していると、その物件に他代理店も加わってきた。オーナーに真意を尋ねると、どちらがコンペに勝ってもいいようにしていると答えが返ってきた。当然だなと思った。ただ、残念ながら両代理店とも本命代理店ではない。オーナーには言わなかった。
その駅近辺の絶好の場所は、コンビニだった。二番手はバーガーショップ。三番手は一階がチェーンレストラン、二階が同系列の居酒屋。その居酒屋は、少し前の総理大臣がアメリカ大統領を接待したことでも有名だった。コンビニとバーガーショップは繁盛しているし、情報を集めても動く気配を微塵も感じなかった。レストランと居酒屋にターゲットを絞り、運営会社の業績を調べた。決して良くない。数期連続して赤字を出し、多額の負債も背負っていた。株主総会の動画を見ると、株主に相当やり込められている社長の姿があった。好立地にある店舗は、売ることも検討していると言及していた。その社長は業界では有名なカリスマだった。優秀な人材を輩出し、独立した従業員には成功している方々も少なくなかった。
当社のコネクションを利用し、メインバンクに話を持ちかけた。商談までにそうは時間が掛からなかった。商談にカリスマ社長が同席するのではと想像し、言葉遣いを間違えたり、礼を失すれば、叱責されるのではと緊張するのと同時に高揚もしていた。カリスマ社長は接客に尋常ではない拘りがあることで有名だった。同じ接客業として、会ってみたい人のひとりでもあった。同席はなかった。商談の反応は悪くないものだった。我々の条件次第では、受け渡す意思表示をもらえた。帰り際、失礼しようと会議室を出ると老齢の男性とすれ違った。薄手のカーディガンを纏った、その姿は間違いなくカリスマ社長だった。挨拶だけでもしたいと願ったが、自分勝手な想像とは違いオーラは感じず、ただのおじいちゃんに見えたことで、少し気分は萎えた。でも挨拶くらいはと思っていたが、足は自動的に出口に向かった。
二つの物件を抑えるには抑えたが、まだ安心は出来ず、いくつかの物件を当たり続けた。ひとつは建築途中で、事業者から示されている開店期限に間に合わない。ひとつは狭すぎる。ひとつは他代理店が抑えている。そうこうしているうちにコンペ日が近づいてきた。プレゼン資料は、当初、広告代理店に作成依頼をしていたのだが、納品されたものは、幹部の納得のいくものではなかった。百万近く使ったのだが、無駄に終わった。結局、自分たちで作ることになった。幹となるフォーマットは私が作り、枝葉の部分は、多種多様な方(まったく関係のない人も巻き込んで)の力を借りて、作り上げた。完成したのはプレゼン当日の朝だった。プレゼンは私の上司が行った。
数週間後に結果発表があった。当初の噂通り、腹積り通りの代理店が勝ち取った。私は物件確保やプレゼン資料作成に半年掛けた。全てが無駄だったとは思わないが、結果、敗北に変わりはない。自分の努力が足りなかった。もっと事業者と太いパイプを作っていれば、違ったのでは、もっといい物件なら、違ったのではと、一時期自分を呪った。しかし、勝者代理店の物件は、決して好立地ではなかった。むしろ悪い。これに負けたかと思うと、やりきれない。いや、でも、だからこそ、太いパイプや信頼関係を築けていれば、と悔やまれた。と思いは逡巡した。まだ、やれることはあったのだ、という事実に苦しめさせられた。最終的には、悔し紛れに、いい勉強になりましたと、自分を納得させた。
家族との関係は相変わらずだった。妻は、何かを割り切ったように、すっきりしていた。私に期待することを諦め、子供達の為だけに生きようと決心しているように見えた。
課長試験にノミネートされた。中途入社なので、同期というのも変だが、同年代の中では最速だった。しかし、店長経験歴や年齢を考えると、順当とも言えた。幹部としては、取り敢えず受ける権利だけは与えようとしたのかもしれない。
管理職適性試験が最初の関門で、ここで足切りにあって、次に進めない者も毎年居ることは聞いている。私はこれをトップに近い順位で通過した。トップでなかったことは、聞いているが、具体的な順番は知らない。次は、労務や財務など、マネジメントに必要な要件を満たす為の五科目の試験がある。これを通過すると、最終的に、役員の前で、課長になって自分が行う課題解決のプレゼンへと進む。これが一連の課長試験の流れだ。全部問題なく通過した。プレゼンの評価は一番だったと、周囲から聞かされた。プレゼンは普段から行っている自分の行動を、ビジュアルで説明しただけだ。評価は嬉しくもあったが、拍子抜けでもあった。あんな子供騙しのプレゼンが評価されるなんてと。
自分の店の運営には携わらなくなっていた。移転や新店舗物件確保や課長試験などイベント続きであったのは言い訳だが、優秀かつ信用もできる副店長が居て、ほとんど全てを彼に任せていた。私はそれをチェックしているだけだ。実績全てが優良だったわけでなく、もっとやるべきことはあったように思うが、そろそろこのお店からも異動だろうと覚悟していたので、体制整備や負の遺産整理の方に力量は向いていた。副店長もそれは同じで、彼も同時に異動することを考えさせ、部下に仕事を振るように仕向けていた。
その年の三月末に異動の内示を受けた。内示の電話を掛けてきたのは、部門の担当役員で、震災の日に何の判断もしなかった幹部のひとりだった。電話に出るなり、お疲れ様の挨拶もなく、異動先の部署名と店舗名を告げ、以上と言い、私が、はいと応じると、電話を切った。冒頭で語った私が行きたくなかった店舗だ。副店長は他店舗へ店長として昇格異動することになった。大変に嬉しいことだった。
四月一日、着任挨拶の為、内示を受けた店舗に向かった。朝礼に参加後、前任店長から引き継ぎを受けた。成績は同地区の他代理店と比較すると、申し分ないものだったが、社内予算は二期連続で落としていた。立て直しは決して楽な作業ではない。前任店長は、店内情勢、主に従業員同士の関係、誰が誰と相性が良くないとか、付き合っているとか、そういうことは、把握していないようだった。マネジメントを行う上で、こういう情報は、かなり重要だと思っている。知らないまま舵取りを行うと、まったく違う方向に進むということが、少なくない。主にそういう情報は副店長から情報収集した。人間関係は複雑そうだった。街の雰囲気に店は勝てないと言ったが、先入観からか、東京都下の雑多な街であったので、雑多な雰囲気になるのだろうと思った。高級住宅街であった前任店舗の真逆の街だなと思った。
傘下に子店を三つ抱える母店でもあった。その三名の店長にも、その日の内に挨拶を済ませた。八十名、私の部下の数。二倍に増えた。顔と名前を覚えるのにも、最初は苦労するだろうなと思ったし、その為にも早めに全員と個別面談しようと決めた。
個別面談を全員分終わらすのに、二ヶ月を要した。短くて二十分、長いと一時間くらい話した。私も探り探り話すし、相手もそれは同じだったと思うが、顔と名前は一致した。それだけでも、随分と違うものだ。次に会ったときには名前で呼びかけられる。人は、自分も含めてだが、名前を覚えてもらうということは、悪くはないものだ。わずかだが、その面談で人間関係が見えてきた。子店の従業員は母店をよく思っていない。母店で使えないと判断した従業員を子店舗に異動させる流れが出来上がっていた。新人教育はすべて母店で行い、そこで零れ落ちると、子店に異動させる。子店の店長のモチベーションが上がるわけがない。母店、子店の関係上、支配下に置かれるのは仕方ないが、独立心や、従業員への愛着心が生まれない。母店の体制整備を行いながら、子店で不足している従業員数は、私とその店長とで派遣社員やら、直接雇用の契約社員やらの面談を行った。母店で教育するのは止めて、子店に任せることにした。サイズの大小はあれど、同じ立場の店長だ。同じ目線で話すことを心掛けた。
母店も子店も勤怠が良くなかった。毎日のように四、五人が休んでいた。子店からはヘルプ依頼が来て、母店はそれを受け入れたり、受け入れなかったり。こんな状態で店が安定運営できるわけがない。休むのは悪だということを、宣言した。これだけで一ヶ月くらいは、休む人数が減った。その間に休みがちな従業員の現状把握、なんで休むのか、その本質について、聞いて回った。繰り返していると、辞める人間は辞め、残る人間は休まなくなった。
着任して一年を迎える頃、大幅に人員を入れ替えることにした。母店と子店の人事交流。目的は従業員のキャリアパスと、子店の安定運営だった。子店が安定しないことに、母店の安定なしと考えた。子店に長く勤務している従業員は母店へ、母店で成長しつつある従業員は役職者として、子店へ配属させた。原案は子店の三店長に考えさせた。多少の質問や意見はしたが、原案通り異動させた。
こうして、書いていると、やる気満々で、新店舗でも店長業務を行っているように見えるだろう。実際にやっていることは、全て、前任店舗でやったのと同じ手法。焼き直しに過ぎない。前任店舗にも子店が一つだけだがあった。同じことを、またやっただけ。
子店は安定運営できるようになった。予算達成度も母店よりはるかに良くなった。しかし、私のモチベーションは下がる一方だった。母店の実績が上がっていないことも原因のひとつだったが、それ以上に、飽きが来ていた。お金を貰って仕事しているのに、飽きって_…それでも飽きは飽き。他店長に言わせると、燃え尽き症候群とも言われた。課長になって、やる気失ったんじゃないの?とも。いい気になってんじゃないの?とも。前述の通り、上昇志向は強い方だ。探究心も強い。しかし、同じ仕事の繰り返しは好まないし、何がなんでも一番になりたいという我の強さは、元より持ち合わせていない。実績はそこそこでいい。新しいことを、いつも求めていた。まあ、その、そこそこの実績ですら母店では出せていなかったのだが。
そんなこんなの状態で、数ヶ月を過ごしていると、部門役員のひとりが、店を訪ねてきた。異動を言い渡した人物ではない。もうひとりの役員だ。理由はすぐわかった。私の_活躍しない姿を見るに耐えかねて登場したのだ。夕方だったので、所用を手早く終わらせ、呑みに誘った。
いつも彼は自分から本題は話さない。だから、こちらから話さざるを得ない。生ビールを二、三杯煽ってから、勢いをつけて話し始めた。もう店長はやりたくない、自分よりできる店長はたくさんいるし、店長候補もいる、そういう人物に任せたらいい、自分は飽きているし、新しいことがやりたい。例えば?と質問が来たので、店舗開発と答えた。これは、前々から考えていたことで、毎年提出する将来の目標とかキャリアパスの欄には、書き続けていたことだった。それが無駄ということもわかっていた。店舗開発で何がしたいの?と質問された。もうやり込められるのは、わかっている。この後は想定問答集通りになるだろう。私もキャリアを積んでいる。上司としての振る舞い方を学んできたのだ。彼が何を言いたいのかはわかる。いろいろ話したが、結論。店舗開発で出来ることは限られている。余程店長の方が、自分の店を自由にできる。と締めくくられた。終了。自分が言われたいことは、そんなことではないのだ。言いたいことも、店舗開発がしたい、などではないこともわかっていた。暫く涙を堪えるのが精一杯だった。
自分のターンは終了したので、こちらから逆に質問した△△さんは、どこまで行くんですか?社長ですか?回答は、なろうと思ったらなれる、だった。社長になるのは手段ですよね?目標じゃないですよね?社長になって何をするんですか?目的はなんですか?と、若干、詰問めいた言い方になった。無言が訪れた。たしかに、なってどうするのかな?俺がお前に言いたくて、来たのに。俺が、お前に何かを言って欲しかったのかもしれないな、と彼は言った。
その後は部下も合流したので、瑣末なことを話して過ごした。深夜になり、解散した。
私のモチベーションは上がらないままだった。役員と呑んでから、一ヶ月程度だったと思う。例の抜き打ち監査にあった。
私の予定帳を見返すと、監査は九月十日だったはずだ。夏がまだ残っているが、秋の足音もそこまで、迫ってきていた。隣家の百日紅が、薄紅の花を咲かせていたのを、なんとなく覚えている。
午前中は、当社の監査役がやってきて、現場の課題や困っていることをヒアリングされた。課題を明確に理論的に話せて、立派だと褒めらたことを覚えている。発熱していた割には、まあまあの受け答えが出来たと、自分でも思っていた。冷静に考えれば、一般論を小難しく言っているだけで、内容は何もない。具体的に、どうやって、それをやるのか。いいや、情熱がもっとも大切だ。私にはその情熱が、もう枯れているのだ。だから、何を言っても空論にしか過ぎない。評論家だ。
午後を過ぎ、抜き打ち監査がやってきた。監査役の対応を終えたばかりだったので、また監査役が来たの?と混乱した。
実際は、前述の通り、事業者の抜き打ちで、酷評にあった。発熱した頭で、従業員向けのメールを打ったことを覚えている。深夜まで掛かって書いた。明日から変更する事務処理方法について。私が大声で叱責にあっていたのは、一部の従業員にはすぐに知れ渡った。役職者には私から直接伝えたし、叱責を受けていた会議室の隣の従業員休憩室に居た従業員には、やはり聞こえていた。店長、大丈夫ですか、と心配されもした。どう受け答えしたのかは、もう覚えていない。人間、自分を苦しめたことは、忘れるようになっているのだろう。叱責されたことよりも、心配されたことの方が、余程傷ついたのかもしれない。同様の事態が起こりかねないので、子店の三店長にも知らせた。
翌日、朝礼で事務処理方法の変更を周知した。私から?副店長から?覚えていない。一日何をして過ごしたのか。その日は、電車に乗って帰った。乗って、なせか上野辺りまで来た。個室ビデオに入った。眠った。翌朝、個室ビデオを出た。駅に向かった。改札前で、立ちすくんだ。踵を返し、今度はネットカフェに入った。調子が悪いので休むと店舗と上司に連絡した。ずっとYouTubeを見ていたと思う。玉置浩二の嘲笑という歌を繰り返し視聴していた。作詞北野武、作曲玉置浩二。何度聴いたか、わからないほど聴いた。
ネットカフェを出ると、何時間も歩き続けた。疲れると、またネットカフェか個室ビデオに入った。翌日も、休んだ。翌々日も、家にも帰ることなく休んだ。
幾日か経った頃、上司から電話が自宅に入った。何度も妻から電話が掛かってきていた。私は、業務用携帯電話の電源を、ずっと切っていた。朝と夜、休みの連絡をするときだけ、電源を入れた。着信履歴には、一緒に呑んだ役員の番号もあった。新着メールにはできる限り目を通さないようにした。妻に電話をした。この頃の妻は、私が連日帰らなくても、連絡をしてくることはなくなっていた。この履歴だけで、上司から連絡があったことは容易に想像できた。案の定だった。どこに居るの?帰ってきなさい。
世田谷の自宅に帰るにしても、電車に乗るのが辛かった。何駅か手前で降りた。歩いた。疲れたから、また電車に乗った。電車に乗っている人々は、ほとんどが勤め人だ。一生懸命働いて、家路に向かう人々だ。別世界の住人に感じた。最寄駅まで、戻ると妻が迎えに来ていた。子供達も何があったのか心配していると言われた。すぐに家に帰る気が起きず、飲みに行こうと誘った。妻は下戸だから、ジュース。私はきつい酒、ギムレットなどを煽り続けた。経緯を説明した。妻は黙って聞いていた。経緯はきっかけに過ぎないことを話した。原因はわからないとも。妻は慰めの言葉のひとつも言ってくれたと思うのだが、やはり覚えていない。
自宅に着くと、子供達は起きていた。お父さん大丈夫?と言われたと思う。なんて答えただろうか。強がっただろうか。泣きはしていないことは覚えている。
翌夜、事業者の近しい人から、連絡があった。たまたま業務用携帯電話の電源を入れたタイミングだった。事情は聞いています。弊社上、まずいことになっています。何を言ったかは、やはりほとんど覚えていない。この会話で明らかになったのは、私の推測通り、うちの従業員から、店長から事務処理に対して何のフォローもないと、事業者へ告げられたことだった。その従業員は店長も経験したことのある人物で、二人居る副店長のひとりでもあった。抜き打ち監査当日は休みだった。それを聞いても何も思わなかった。全ては自分の責任だ。私が発した言葉で唯一覚えているのは、人間て簡単に駄目になるんですね。簡単に壊れてしまうんですね。相手は、そんなこと言わないでくださいよ。うちの会社がおかしいのは、僕らもわかっているんです。一緒に頑張りましょうよとか、そういう励ましを言ったと思う。返事はできなかった。改めて謝罪して、電話を切った。事業者で私の店を直接担当している営業マンから、メールが来ていた。自分は抜き打ち監査をまったく把握できていなかった。自分の力が至らなかったから、こんなことが起きたのだ。責任を取って担当を外れるので、○○さん戻ってきてください。店舗の従業員はみんな、戻ってくるのを本音で待ってます。
心苦しかった。誰のメールにも返信していなかったが、これにだけは、返信する必要を感じた。__××さんのせいではないです。抜き打ち監査は、きっかけに過ぎません。なるべくして、こうなったのです。立場上、私の言えたことではありませんが、店舗のことを思っていただけるなら、これからも担当を続けてください。と返信した。○○さんに、そう言って頂いて正直救われました。少し休んだら、いつでも帰ってきてください。みんな待っています。と返信があった。それから、業務用携帯電話の電源を立ち上げることはなかった。
二週間、何もせずに過ごした。上司への言い訳は忘れた。何で許可を得たのかわからない。妻がパートに行く日だけ、掃除と洗濯をやった。あと、庭の花々への水やり。この期間は、朝起きるのが辛かった。子供の手前上、起きたかった。でも、起きられなかった。それで妻と口論になった。きっかけは朝起きられないことだったが、ひどい罵声を浴びせた。お前のせいで、こうなったんだよ。お前と結婚したことが、全部の原因だ。何の話しの経緯で、そんなことを言ったのかは覚えていない。なぜか妻は、それですっきりしたような感じになった。私が感情を露わにすることが、滅多にないからかもしれないし、本音で語れたと思ったのかもしれない。
地元のメンタルクリニックへ行った。その病院は九月に開設したばかりで、私の診察券の番号は二桁だった。五分程度で自分の状況を説明した。通勤できなくなったこと、電車が辛いこと、朝起きられないこと。経緯も説明したが、それが原因ではないと思うと。抜き打ち監査が、全ての原因なら、もっと早くにこうなっていただろう。接客業をやる以上、客から店長を指名されて、怒鳴られることは、しばしばあった。無論、一店員だったときにも経験している。そういうことを話し終えると、○○さんは、うつ病です。最近流行りの新型うつではありません、と断言された。私は自分が病気ならいいのにとは思っていた。昔から持ち合わせている逃避癖にとって都合の良い、言い訳になると。しかしながら簡単に、うつ病って、断言できるものじゃないことも、知っていた。その医師のことは信用しなかった。あんたは、さぼりだよって言われたら、その医師を信用しただろう。信用しなかったが、頼れる人は他に居なかった。一週間分の、抗うつ剤、安定剤、睡眠導入剤を処方されて帰った。
服用を始めてから、すぐに変化が現れはじめた。便通がなくなった。一週間経って、同じ処方に下剤を加えて貰った。抗うつ剤と安定剤の副作用で、朝起きられないは避けたかったので、服用時間を就寝前にしてもらった。便通は、数日に一回はあるようになった。数週間服用を続けていると、朝すんなり起きられるようになった。反動か、夕方になると憂うつな気分になった。薬の切れ際が一番辛い。
言葉で書くのは簡単だ。死にたくなる。それだけ。生まれてきたことを恨むとか、誰かのせいにしたくなるとかではない。死にたくなる。抗うつ剤のせいかもしれないとも思った。一晩、飲み忘れると、次の日は、ひどい目眩に襲われた。立ちくらみぐらいしか経験なかったので、これが目眩というものかと思った。それを離脱症状というらしい。薬なしでは、生活できなくなっていた。
何週間に一回か母親に電話するのが通例になっていた。いつも通り、電話すると、あんた、なんで携帯の電源切っとんじゃ、と言われた。あんた、仕事行きょーらんのじゃろーと。するどいなと思った。行っとらんと素直に応じた。なんで、行かんのじゃ?有給休暇もたくさんあるし、会社から長期休暇の許可を得ていると嘘のような、本当のようなことを言った。辞めちゃーいけんで。兄弟のなかで、あんただけが、まともな会社で働きょーるんじゃけー。子供もおるんじゃし。自分の父親と同じことをするんか?そんなことはせん、と返した。とにかく、すぐにでも、会社に行けーと言われ、約束はせず電話を切った。
父と生活をしたことがない。生まれたときには、別の場所に暮らしていた。盆暮れ正月以外に会うことはなかった。別の場所というより、母以外の別の女性のところと言った方が正しい気もする。その女性のところに、物心ついた頃には、その盆暮れ正月の墓参りやらのついでに連れて行かれた。ご飯も作って貰って一緒に食べていた。そのおばさんに呼び名はない。おばさんはおばさんだ。母はどんな思いで、私たち兄弟を、そのおばさんのところに向かわせたのだろう。父への諦めだったのだろうか。
私は四人兄弟の末っ子だ。兄とは六歳、次姉とは十一歳、長姉とは十三歳離れている。ここまで、離れていると兄弟という感じはしない。私が生まれたときには、次姉も長姉も思春期まっさかりだ。私に構っている余裕はなかったろう。唯一、兄とは同性ということもあって、幼稚園に入るまでは、遊んで貰った記憶がある。不思議だが、兄弟共通の問題である父について、話し合ったことがない。それもそのはずか、年令の差は大きい。私が大人の話を理解するようになった頃には、姉二人は結婚していたし、兄は家を出ていた。
父は借金を作るのが得意だった。自宅に、督促の電話が毎日のように掛かってきた。三、四歳になると、電話にも出るようになる。母からは、ここには居ませんと答えろと言われていた。居場所を聞かれたら、知らないと答えろと。
友達から、○○の父ちゃんは、どこに居るん?と聞かれることがあった。その度に、東京におるんじゃ、と嘘をついた。完全な嘘ではない。私が小学生の頃、一時期、東京で働いていたことがあった。それでも、嘘に変わりない。その頃は嘘をついているつもりはなかったように思う。何かを守らなくてはという責任感からだった。おそらく、母を守りたかったのだろう。ついでに、自分のことも。思春期を迎えると、自意識が強くなってくる。次第にその嘘は、自分のためだけにつかれるようになった。
幼稚園に入るまでは、母からの愛に守られている安心感があったように思う。十分だった。それだけで。入園すると、社会生活が始まる。母から離れて生活をする時間が始まるということだ。自分の身は自分で守らないといけない。学年主任のような先生に、○○くんとは、一度お話ししようと思っていたのと声を掛けられたことがあった。何の話だったかは、はっきりとは覚えていない。嫌なイメージだけが残っている。園費の未納とか、父とか母のことを聞かれたのだと思う。もちろん幼稚園の先生だ、直接的な言葉で、私に詰問するようなことはなかっただろう。遠回しであったとして、それが、自分に取って良いものか、悪いものか、園児であったとしてもわかる。守ってくれる人なのか、敵なのか、味方なのか。間違いなく敵だった。聞かれたくないこと、言われたくないことを言われた。
母は私が小学校の中学年になるまで、体調が優れず、寝ている日が多かった。近所付き合いもほとんどせず、地区のイベント、体育大会だったり、祭りだったり、参加したことがなかった。母が参加しないのだから、私も参加しない。毎日のようにお金の心配ばかりしていた気がする。倒れて、救急車で運ばれたこともある。ただの貧血だったのだが、母は大袈裟なので、もう死ぬと言っていた。たまたま、父と母と私の三人で、買い物に出かけているところだった。なんで、その三人だったのか、私はまだ、幼稚園にも行っていなかったように思う。倒れた先の近くの救急病院に運ばれた。病院の名前は覚えている。セントラル病院だ。いまもまだあるのだろうか。病室のベッドで、兄弟全員を呼んでと父に言っていた。私はもう死ぬんだから、最後に全員に会いたいと。兄弟が揃うと、私はもう死ぬと、また言っていた。私は、病室で卵ボーロを食べていた。その袋を逆さまに持ってしまい、床にすべての卵ボーロがこぼれた。落ちた卵ボーロを私は、フーフーして食べようとした。それを家族の誰かに止められた。落としたことを咎められた。自分で拾ったのだろうか、それとも兄弟が拾ってくれたのだろうか。ひどく、いけないことをした感じがしていた。母が死ぬと言っている横で卵ボーロはこぼしてはならないんだ。
母にも愛人がいた。おじさんと呼んでいた。時々、家にやってきた。どこで、どうやって知り合ったのか、わからない。少なくとも、私が生まれた後のことだったはずだ。突然現れたのを覚えているからだ。最初に会った日なのか、次の機会だったのか、おもちゃを買ってもらった。母と、そのおじさんの関係は小学二年生頃まで続いた。それと入れ替わりに新しいおじさんが現れた。古いおじさんは、母より年上だったと思う。新しいおじさんは、二十九歳だった。母より十五も年下だった。髪の毛は白髪だらけで、とても二十代には見えなかった。私は、新しいおじさんをオジンと呼んだ。オジンもやはり二回目に会ったときに、おもちゃを買ってくれた。西部警察に登場するマシンガン付きの車。ラジコンカーだった。いつの間にか、オジンはうちで生活するようになった。そのときはまだ実家には兄が居た。兄は中学生で、オジンに食って掛かった。いろんな汚い言葉を浴びせていたと思う。長姉も次姉も、オジンにあったときに、何かを言っていた。ラジコンカーを買ってくれる人でも、家にいちゃいけない人だってことは、わかってた。だから、黙っていた。
小学三年生か、四年生のときに、私もオジンに食って掛かったことがある。きっかけは覚えていないが、友達からあの人誰?って聞かれるたびに、親戚のおじさんって嘘をつくのが嫌になっていたのだ。いまは、愛人だよって、普通に、いや大人ぶって、答えてたら良かったのに、そしたら、オジンに食って掛かる必要もなかったのにと後悔している。オジンに、赤の他人なんだから、出て行け、すぐ出て行け、って泣きながら叫んだ。最後に顔にいっぱい唾を吐きかけた。母が何かを言った。自分が悪いんだからとか、この人が居るから生活できているとか、そういうことだったと思う。そんなこと関係ない出て行けって言って、家を飛び出したのは私の方だった。しばらく、どこかで、たぶん公園とか、そういうところで過ごし、行くところもなく、家に戻った。オジンは私に謝った。大人に謝られるのは初めてだった。ひどく、いけないことをした気がした。
オジンは大酒飲みだった。毎晩酔っ払って帰って来る。玄関で小便したり、吐いたり、押入れを便所と勘違いして用を足したり。その処理や介抱は、主に私がした。オジンと付き合うようになってから母は体調が良くなって、夜働きに出るようになっていた。その街では、最も高級そうなスナックで。兄も高校生で、まだ実家に居たと思うが、なせか、オジンの不始末は、私が処理していた。
その頃もいまも猫が好きだ。猫を飼っていた。ピコという名で、毛は真っ白、目はサファイヤブルーだった。ピコはたくさん子供を産んだ。たくさん死んだ。でも何匹かは生き残った。とても賢い猫で、母が夜遅く帰って来ると、遠くからでも気配でわかるのだろう。半分放し飼いだったから、母を家の前で出迎える。お腹が減っていても減っていなくても、毎日の常だった。一度、家出をしたことがある。子供を三匹連れて。正月に出て行って、翌年の正月に二匹になって戻って来た。なぜか毛並みが綺麗になっていた。誰かに飼われていたのかも知れない。ピコは私が中学三年生になるまで生きた。高校の合格発表の日、三月十四日、夜の仕事に出掛ける母とすれ違いで、合格通知を手に家に戻って来た私は、母の書き置きを見た。ピコが見当たらないから探しておいてと。ピコー、ピコーと外に向かって呼びかけた。いつもなら、すぐに帰って来る。家の周りを探した。家はパチンコ屋の駐車場に囲まれていて、その駐車場を探した。倒れていた。動かずに。鼻から血を出して。悲しいより、心配より、恐怖の方が強かった。死んでいるのは、もうわかった。いまから、ピコを運ばなきゃならない。死体に触るのが怖かった。それまでにも、猫の死は見てきた。でも、誰かと一緒だったし、主に小学校の低学年の頃だった。自意識がぼんやりとしか輪郭を持っていなかった時期だった。死についてもわかっていなかった。もう、死がなんなのかわかっていた。死んだら、固まるのだ。恐る恐る、ピコを指の先で触った。カチンコチンになっていた。ダンボールを用意した。ピコを直接触るのは怖かったから、タオルでピコを包み、ダンボールに移した。家に持って入った。玄関に安置した。ピコは次姉が連れてきた猫だったので、連絡して知らせた。次姉は明日行くわと言った。母の帰りを待つまで、ピコと二人きりでいるのが怖かった。オジンが先に帰ってきた。オジンは泣いていた。母も帰ってきて泣いた。翌日、家の横の空き地に、ピコを埋めた。穴はオジンと次姉の旦那さんが交代で掘った。ピコの上に土を掛けたとき、ピコが死んでから初めて涙が出た。
私が中学一年になると同時に、兄は高校を卒業し東京に出て行った。母は夜働き、オジンは毎日呑んでいたから、夜はひとりで過ごすことになった。部活を終え、家に帰ると千円札がテーブルの上に置いてある。それを元手に夜飯を食べる。コンビニやほか弁で買うこともあれば、近所の喫茶店や、小さな焼肉店で食べた。私のような年端もいかないようなものが、ひとりで食べているのは見かけたことがない。はじめは周りの目が気になった。そのうち、慣れてくる。慣れは恐ろしい。自分を嘘で固めるのが、常になってくるのだ。店員に話しかけられることはない。でも、いつ話しかけられたとしても、言い訳を話す準備は出来ていた。そんなことせずとも、周りの大人たちは優しく、私に理由を問い詰めることは、しなかっただろうと、いまならわかる。
中学二年生のいつか、季節は覚えていない。夏でなかったのは間違いない。四十度を超える発熱で、学校を休んでいた。この地方では、寝惚けるというのだが、一種の夢遊病だ。私と兄の共通点。夢遊病者。体調が優れないときに、発動する。ひとりで汗を掻きながら、寝ていた。病院には行っていない。健康保険に加入していないので、行けないのだ。全額自己負担できるほど、生活は潤っていない。突然起きた。家の中を走り始めた。三十インチくらいあるブラウン管テレビを持ち上げ、投げ飛ばした。仏壇の位牌を、いくつか掴み投げた。自分の部屋に走っていき、窓ガラスに飛び蹴りを食らわした。ガラスは割れ、飛び散った。玄関を飛び出し、裸足のまま、泣きながら家の前の空き地を走り回った。暫くすると現実の世界に戻ってくる。家に入り、位牌を元に戻し、仏壇に手を合わせ、謝った。テレビを元の位置に戻した。割れたガラスはそのままにしておいた。オジンが帰ってきた。寝惚けたんじゃな、仕方ねーわ。怪我がのーて良かったわ。と言った。母も帰ってきた。寂しかったんかな。どうなんかなと言った。寝惚けはそれ以来、起きていない。寝惚けている間中、頭に浮かんでいるのは飛行船だ。和式便所に座って飛行船を眺めている。これは兄にも確認したことがある。同じイメージだと言っていた。
小学校から高校まで、ずっとオジンの存在は、親戚のおじさんで通した。高校になると、さすが友達たちも、何か違うことには気づいていたと思うし、隣人たちは、最初から愛人だとわかっていただろうと、私自身も考えるようになった。小学校の卒業文集に、東京で働くと書いた。もうこの街に居続けるのは、限界だと思っていたのだ。兄の影響もあったのもしれない。中学校の卒業文集のタイトルは、口先だけの三年間、だった。高校では何を書いたのか覚えていない。東京に出て行くと決めていたのは、変わらなかった。大学受験に失敗し、浪人することになった。母はなにも言わなかった。金が掛かると思ったのか、父は連絡すらしてこなくなった。予備校には通えないので、アルバイトをしながら、自宅で勉強することになった。実際は、なにも勉強していない。ただ、アルバイトしているだけだった。アルバイト先の雇われ店長夫婦が売上金を持って、夜逃げした。たった三ヶ月のバイト生活だった。
大阪に住む長姉から声が掛かった。長姉の旦那さんが雇われ店長をする新聞屋で働かないかと。長姉は、どうせなんもせんのんじゃったら、大阪で働きー、東京の学校に行くんなら、新聞奨学生の制度も使えるで、と言った。渡りに船だった。東京の前に大阪を経由するも悪くないと思った。実家を離れることになった。母を家に一人置いて(オジンがいるので正確には違うが)出るのは、気が引けたが、この街を脱出することの方をとった。
大阪で七月から翌三月まで働いた。朝刊は二時三十分起床、夕刊は三時配達開始。朝刊の時間に普通には起きられなかったので、すぐに昼夜の生活は逆転した。仕事はさほど辛くなかった。給料は配達だけなので、多い額ではなかったが、ひとりで暮らす分には困らなかった。大学受験に向けた勉強もするにはしていたが、まるで身には入っていなかった。どこの大学に行きたいわけでもなく、ただ漠然と東京に出るという意思しかなかった。はっきりと目的を、就職だったり、夢のようなものを持っていないと勉強はできないものだと、随分経ってから気付いた。勉強が嫌いなことにも。勉強は手段でしかなかった。
高校の同級生が、東京のジャーナリスト専門学校に通っていた。大阪に遊びに来た。友達は、音楽ジャーナリストになりたいんだと言った。仲は良かったが、そういう目標を持っていることは知らなかった。なぜか、私もその学校に行きたくなった。文章を書くのは昔から、嫌いじゃなかった。しかも、新聞奨学生が大量にいる学校だという。カリキュラムも新聞配達に支障が出ないように組まれているのだと。これも渡に船。その学校を受験することにした。試験は、小論文と言えるかどうかも怪しい作文のみ。主題は旅と、もうひとつあったと思うが、私は旅を選んで書いた。何を書いたのは覚えていないが、文章の締めくくりは、こうだった。この人生という旅の中で。くさい、くさ過ぎる。いまなら噴飯ものだ。でも、問題なく試験は合格し、進学することになった。当初の目標通り東京だ。
文章を書くことに抵抗がなくなったというか、目標になったので、そのついでと言ったら違うかもしれないが、父に手紙を書くことにした。話しても話しきれないことも文章なら伝えられると思ったのだ。子供の時、父が居なくて寂しかったこと、嘘をつくのが辛かったこと、もう自分も大人だから、これからいい親子関係を築いていきたいということを、便箋何枚かに綴った。父からの返事はなかった。変わりにやってきたのは、母からの知らせ。父の妹、私からすると叔母が実家の近くに住んでいる。叔母が母に言った。兄さんから聞いたんじゃけど、おかしな手紙を書いたんじゃって。兄さんは、○○が気が狂うたって、言おうたで。母から、あがーな人に期待しても、どうにもならんで、あんたそれぐらい、わかろーが。馬鹿じゃなー、と言われた。
東京デビュー。新生活は新宿一丁目から始まった。新宿御苑にほど近く、新宿駅までも十五分あれば、歩いていける距離。住むなら新宿と決めていた。高層ビル群に憧れがあった。ビルに上るのが好きなんじゃない。下から眺める。あるいは、離れた場所からたくさんのビルが並んでいるのを見る。
新宿一丁目に住むことになったのは、たまたまだった。新聞奨学生として配属されたのが、そこだったのだ。学校が高田馬場だったので、奨学会が近場を選択してくれたのであろう。私の受け持ち地区は、新宿五丁目と歌舞伎町二丁目だった。嬉しくて仕方なかった。新宿の中でも、特に新宿三丁目と歌舞伎町、西新宿が憧れだった。その区域のひとつを配達できるのは嬉しかった。
歌舞伎町のとあるマンションから眺める西新宿の高層ビル群は抜群だった。雨の日も、スモッグの日も、毎日違うのだ。特に好きだったのは、朝刊配達時の朝焼けに照らされたときと、冬の夕刊配達時の薄暮だった。薄暮は、ビルの窓の明かりが少しずつ目立つようになってくる。その時間が好きだった。
学校は半年で行かなくなった。この学校で習うことは何もないと思ったからだった。文章を書く授業は好きだったが、読書感想文を書く授業は嫌いだった。そんなものは批評家にでもなりたい者だけが、書けばいい。本は、小説は、面白いか、面白くないか、好きか、嫌いかしかない。感想なんて、どうでもいいし、作家からすると余計な御世話で、失礼だとさえ思っていた。その話を担当の先生にした。下らないので、書きたくないと。一度○○くんとは、ゆっくり話さなきゃねと、老齢の先生は言ったが、以降、授業には出なくなった。次第に、すべての授業に行かなくなった。
学校を辞めると、新聞奨学生も辞めなくてはならない。奨学金の一括返還が必要になる。残額は五十万円くらいだった。必然的にダブルワークとなった。半年で五十万円貯められる仕事を探した。高田馬場にあるレストランバーで、夕刊配達終わりから、朝刊配達までの間、働き始めた。十九時から二時までのシフトで、三十分休憩、労働時間六時間半。二十二時からは、時給が二十五%アップする。週四、五回の勤務で、奨学金の残りと、引っ越し代くらいは稼げそうだった。
また、昼夜逆転の生活に戻った。朝刊配達が終わると眠り、夕刊配達の時間になると起きる。五時間程度の睡眠時間以外は、全て仕事だったが充実していた。レストランバーとしては、初めての勤務シフトだったらしい。営業時間は十一時から四時までで、アルバイトはほとんどが学生だった。早稲田の学生が多かった。深夜帯に働きたがる者は少なくて、私は重宝された。特に全く休まないことを評価された。当然だ、お金が必要なのだから、休むわけにいかない。飲食業であったので、賄い飯があることも、財布が助かった。
レストランバーでの評価が上がるのに反比例し、新聞配達店での、評価は下がる一方だった。学校を辞めると言ったことが、最大の原因だったし、ダブルワークが禁止されているのに、それを隠して行っているのもバレバレだった。誰も真っ向から聞いては来なかったのだが、寮は、新聞店の上にある。朝刊配達時間になって毎日帰ってくるのだ。バレない筈がない。主任という役職の雇われ店長は、私の顔を見るたびに、苦々しい顔をした。私の同期で、長野出身の大学生が居た。同期は、初めから一年だけ、新聞奨学生をしようと決めていたそうだ。私とは違い、稼ぎのある両親のもとに生まれた彼は、一年は苦労したかったという一風変わった考え方で、新聞奨学生になった。普通はというか、契約上は卒業するまで働くことになっている。同時期に辞めると伝えたので、私の悪影響を受けて、同期が辞めると言い始めたのだと、決め付けられた。否定しなかった。何を言っても無駄だと思ったし、私に貼られたレッテルは、口答えをしても、剥がされるものではないと、わかっていたからだ。また、分が悪いことに、私の真似をして同期もダブルワークを始めたものだから、余計に何も言えなかった。
主任は、私の引越しを手伝ってくれた。自ら申し出てくれたのだ。理由はわからないが、有り難かった。引っ越し代が浮くのだから。それと同時に警戒もした。もう恩を売っても仕方ない相手だし、可愛くもない部下に、なんでそんなことを申し出てくれたのかと。当日、荷物のといっても、たいした量はない、三畳一間に住んでいたのだ、搬出をしていると、主任も手伝ってくれた。ずっと苦々しい顔をしたままで。新居は西新宿十二社の風呂なし六畳間だった。車の中でも、ずっと苦々しい顔をし、ひとつも有り難くない説教をされた。いま思えば、恐らくオーナーに言いつけられたのだろうと思う。引っ越しくらいは手伝ってやれよと。
新生活が始まった。望んだ通りの新宿。それも大好きな西新宿で。十二社は兄が初めて東京に住んだ街でもあった。一度、遊びに来たことがあったので、土地勘もあった。十二社と書いて、じゅうにそう、と読む。響きも好みだった。仕事は引き続き、レストランバーだった。もうどのシフトでも入れるので、より重宝された。
働くことが楽しかった。奨学金という借金もなくなったことも気を楽にさせた。レストランバーではランチタイムから通しで、ディナータイムまで働くこともあった。週五、六日の勤務で、稼ぎの多い月は、三十万くらいになった。賄い飯もあるので、お金の使う先もなく、すぐに貯金額は膨大になった。気が大きくなった私は散財した。音楽ステレオ、留守番電話、ポケットベル、バイク。次々に買った。それでも、貯金はまだ半年くらいは何もしなくて生きていけるくらいあった。バイト先では、バーテンダーを任せられるまでになっていた。二百席を超える巨大なレストランバーだったので、多い日は、三百杯以上の酒をひとりで作った。
当時の私は、いまもそうだが、愛想が悪かった。接客がなんなのか、わかっていなかった。毎日、混んでいるお店だったので、スピードが全てだと考えていた。評価されているのもスピードだった。顧客満足という言葉が出始めた当時で、みるみるうちに私への評価は下がっていった。店長が交代したことも相まって、顧客目線最重視になり、居心地が悪くなった。先輩、同僚たちからの評価は相変わらず高かった。私とコンビを組めば、楽だからだ。それでも、上司からの評価が低いことは、私のプライドを大いに傷つけた。勤めて一年半で辞めた。オウム心理教のサリン事件があった年だった。
それから、いくつかの飲食業で勤めたが、長続きしなかった。どこでも飲み込みの早さとスピードは褒められた。接客を褒められたことはない。職場で仲間が出来なかった。あのレストランバーでの経験が、スピード重視偏重のプライドとなり、顧客満足への反抗心が強くなった。次第に働かなくなり、貯金を食いつぶすようになった。半年も経つと、当時付き合っていた彼女に、半分食べさせて貰っているようになってきた。
また大阪の長姉から連絡があった。私が働いていないことを母から聞きつけて、電話してきのだ。旦那が独立して新聞店を開業したから、働いとらんのなら、手伝いに来んかと。数日考えたが、これも渡りに船と考え、話に乗ることにした。いまこうして、書きながら、初めて気づいた。長姉は末っ子の私に優しかった。いつでも気にかけてくれている。
大阪の堺で働くことになった。部屋はすでに用意されていた。築三十年くらいのマンションで、二部屋とキッチン、風呂もあった。十分過ぎた。はじめて自分の城を持った気がした。
段々と筆が重くなってきた。自分の記憶を呼び覚ますのが、辛くなってきた。捕まえようとしている土壌は、マントルは、核はここから先にあるのかもしれない。
小さな新聞店ではあったが、初めて正社員として雇用されることになった。社会保険も厚生年金も雇用保険もないのだが、時給ではなく、月給制だった。朝刊夕刊の配達に加え、集金、チラシの折り込み、拡張という呼び名の飛び込み営業が、主な業務だった。休みは月に一回の休刊日のみ。この勤務シフトは新聞屋の正社員、主に業界では専業と呼ばれている。専業にとっては当たり前だった。アルバイトの配達員に週休を与える為、専業は休めないのだ。
義兄はオーナーの立場で、実質の店長は別に居た。私と同じ地方の出身者だった。とても大人しいひとで、配達は誰よりも速く、チラシの折り込みは神業と呼べるスピードだった。はじめて仕事のスピードで敵わない相手だった。拡張はまるで、出来ないひとだった。人が良すぎるのだ。人が良い人に拡張は向かない。新聞屋の営業に良い人って居ないと思いませんか?面倒臭い奴ですよね?
私は良い人ではないが、拡張は同じく苦手だった。なにせ愛想が悪い。ただ嗅覚だけはあった。出来立てのマンションや、引っ越してきたばかりの家を中心的に拡張した。それでも褒められた成績ではなかった。
第一期大阪、東京での新聞奨学生時代と違って、昼夜逆転の生活は出来なかった。昼間は昼間でチラシの折り込み作業や集金があるのだ。朝刊配達を終えると、正午まで眠る。正午に出勤し、折り込み作業などを行う。夕刊配達を終えると、集金と残りの折り込みチラシ作業。勤務終了は二十一時か二十二時。食事を終えたり、風呂に入っていると二十四時になる。朝刊配達開始の二時三十分まで眠る、という二度にわけた睡眠に慣れることが出来なかった。合計すれば、六時間睡眠くらいにはなっているのだろうが、まるで朝刊配達の時間に起きられなかった。店長は優しいので、何も言わない。義兄には何度も怒鳴られたし、蹴飛ばされたこともあるが、次の日も寝過ごすことになる。二年勤務したが、ちゃんと起きられた日の方が少ない。夕刊に遅刻することもしばしばあった。長姉からも説教されたし、モーニングコールもされたが、起きられなかった。
二年を過ぎたある日、夕刊配達時間に起きられなかった。何度も連続で起きられなかった日が続いていたときだった。もう、合わせる顔もないと思った。突発的だった。逃げようと思った。テーブルの上に、逃げる、とだけ書き置きを残し、貯金箱に入っていた二万円程度を手に、マンションの鍵は閉めず、走った。長姉が家に迎えにくる可能性があったので、マンションの裏手にある田んぼに向かった。田んぼから、長姉の車が見えた。腰を低くし、走った。何度も振り返りながら。最寄駅に到着すると、天王寺までのチケットを買った。天王寺に到着すると、もう夜だった。サウナに泊まった。電源を切っていた携帯電話の電源を入れると、留守番電話に義兄の怒号が録音されていた。ええ加減にせえ!殺すぞ!とか、そういうのだった。恐ろしくて、すぐ切った。
朝を迎えると、気持ちはもう東京に向かっていた。新幹線に乗るお金はない。鈍行列車で行けるところまで、行こうと思った。丸一日かけ、横浜までは行けた。その間も何度か留守番電話を聞いた。義兄は優しい声に変わっていた。心配やから、連絡だけはしてや。事務員さんからもオーナーが心配してるから、連絡ください。誰も怒りませんからと。気は重たかったが、もう戻れないところまできたのだ。もう振り返らないと決めた。横浜に着くと以前バイト先が一緒だった友達を頼った。携帯電話の電源を入れ、彼の自宅に電話をした。お母さんが出た。仕事から戻っていないということだった。折り返し電話がきた。事情を説明すると、笑いながら、相変わらず馬鹿だな、迎えに行くよと言われ、日吉まで東急線で移動した。日吉で会い、自宅に泊めてもらえることになった。
一晩を過ごしてから、車で都内まで送ってもらった。渋谷で降り、これからの金だと言われ、三万円を受け取った。この恩は忘れないとか、必ず返すとか言ったが、宛にしていないよと言われた。渋谷から新宿までは山手線で向かった。新宿で携帯電話を取り出し、電源を入れた。電池残量は、もう、ほとんどなかったように思う。うろ覚えしていた十二社のアパートの大家さんの自宅に電話を掛けた。一度で繋がった。私のことは覚えてくれていたようだった。事情を説明すると、二週間したら、部屋が空くからと言われた。敷金も礼金もいらないからと。家賃も払えるようになってからでいいと。
友達と大家さんに救われ、二週間を過ごした。最初はサウナに止まっていたのだが、一週間もしないうちに、財布の残額は心許なくなってきて、新宿中央公園やシティホテルのトイレで夜を明かすようになった。短期間ではあったが、ホームレスだった。
二週間後、入居し、住処が以前と同じになったと友達へ連絡した。友達は大いに安心してくれた。その友達に、未だに三万円を返していない。いつか、返そうと思いながら、ずっとそのままになっている。申し訳ないし、恥ずかしい。
日雇いのアルバイトを始めた。仕事のある日もあれば、ない日もあった。むしろない日の方が多かった。しばらくすると、母から大家さんに連絡があった。私の携帯電話は料金を滞納しており、強制解約になっていた。母は、私が頼るなら大家さんのところしかないだろうと見当をつけ、連絡してきたそうだ。いつも、母にはなんでも図星だった。生きてて良かったと言われた。実家から大量のインスタントラーメンが送られてきた。
家賃はまったく支払わなかった。住んでいたのは数ヶ月だけだったが、全額滞納していた。
専門学校のときの同級生と会った。なんで連絡したのか、わからないが、私から彼女に公衆電話から電話を掛けた。おそらく寂しかったのだろう。数日後から、同棲が始まった。東中野の彼女の家に転がり込んだ。これがいまの妻だ。日雇いバイトを続けていた。彼女はカメラマンのアシスタントをしていた。二人の給料を合わせても、普通に生きていくのがやっとだったが、十二社の大家さんのところに出向き、少しずつ滞納した家賃を払うようになった。それを何ヶ月か繰り返していると、大家さんに会えなくなった。電話も不在だった。留守番電話はないのでメッセージは残せなかった。次の月も、次の月も不在だった。メモ紙は置いてきたのだが、何の反応もなかった。八月に伺ったときは新宿中央公園で盆踊りをやっている日だったので、そっちに行っているのかと思い、向かった。大家さんは、踊りの先生で、毎年盆踊りに参加していることは、以前聞いたことがあった。そこでも見つけられなかったので、町内会の浴衣を着ているおばさんに声を掛け、大家さんの居所を尋ねた。倒れて入院して、もう退院して、息子さんの家で暮らしているとのことだった。それからも、近くに寄るたびに、アパートに向かうのだが、大家さんの気配は感じなかった。それ以来、会えていない。滞納した家賃を支払えていない。出会ったとき、わたしは二十歳だった。大家さんに年齢を聞くと、八十歳と答えた。二年ぶりに帰ってきたときも八十歳と答えられた。つい最近も近くを通ったので寄ったのだが、もうアパートには誰も住んでいないようだった。支払おうとすれば、支払えたはずだ。息子さんとコンタクトを取ろうとしなかったのだ。たかが残り一ヶ月分くらいだったと思う。家賃を踏み倒したのだ。これもまた申し訳ないし、恥ずかしい。
彼女と結婚しようという話になった。なったら、すぐに子供を授かった。経済力も何もないのに、勢い以外の何物でもなかったが、私は家族が欲しかった。自分の家族が欲しかった。
なんだか、薄ぺっらい話になってきた。こんなところに土壌はないだろう。ましてや核など。しかし、自分が父になった当初の頃は思い出し、記録しておきたい。
妻のお腹が大きくなるにつれ、自分の父性も大きくなったかというと、そう簡単にはいかなかった。そもそも父性とはなんなのか?母性は、直接的体内に自分の子供を宿すわけだから、わからないでもない。子の鼓動を感じ、胎動を感じ、成長を感じながら十ヶ月を過ごすのだ。父である私には、何の体調の変化も起きないのだ。なんとなくだ。エコー写真を見たり、お腹の大きくなるのを見ながら、ぼんやりと父になる自覚をしていく。
生まれてみると、父性というか、覚悟のようなものは出来ていた。父とは、どうあるべきかという、ロールモデルを持たない私は、自分の父を反面教師として、使うことにした。自分がされたかったこと、こういう風に接して欲しかったことを行い、されたくないことはしなかった。具体的にどうだったか、子供扱いはしないということを決めていた。例えば、おもちゃが欲しいと子供が、おもちゃ売り場で駄々をこねる。なんで欲しいのか尋ねる。駄々をこねても、買わないことを教える。似ているおもちゃを既に持っていることを教える。理由を尋ねるようにしていた。子供からすると扱いづらい父だとも言えるだろう。なだめる為に何かを与えるということは、決してしなかった。電車で落ち着かなくて、泣き始める。泣くことで何も解決しないことを教える。泣いたことで、周囲に迷惑が掛かっていることを考えさせる。ポイントは感情的にならないことだ。わたしの母が激情型で、いい思いをしなかったから。出来たことは褒める。出来ないことは支援するが、助けはしない。道路で転ぶ、泣く。自分で立ち上がらせる。そういうことだ。
私が無感情的であるのに対して、妻は感情的に子供に接した。嬉しいことがあれば大いに泣き、悲しいことがあれば、静かに涙を流した。感情的である分、怒りも感情的であるが、子供にとってはわかりやすい母であると言えるだろう。
前述しているが、私はいい父親ではない。いい父親とは、少なくとも家には帰る父親だ。家に居ないことで、辛い思いをさせられた私は、子供たちに同じことをしてしまったのだ。私の父と同じことをしてしまった。
休み始めた当初のことを書こう。投薬にも慣れてきた頃、小説を書き始めた。代理父の話だ。三ヶ月掛けて、原稿用紙四五〇枚を書いた。賞にも応募したが、二次審査で落ちた。講評をもらえたことは嬉しかった。着想は良いが、エンターテイメント性に欠ける。応募した時には、二〇〇枚しか出来上がっていなかった。それでも、どうしても賞に出したかった。自分の文章力、物語の作り方がどうなのか、第三者に評価してもらいたかったのだ。そういう意味で言えば、目的は達成できた。エンターテイメント性に欠けると言われたことで、私は、そっち側ではないということを知ったのだ。書こうと思えば書けるだろう。好みでないだけだ。
書き始めた動機は、専門学校に通い始めた頃から、小説を書きたいという欲求だけは持っていて、実現出来ていなかったからだし、現実世界から逃げ出すためでもあった。書き始めて気付いたことがある。虚構の世界の方が、自分を、他人を知ることができる場合もあること。全部が全部、そうではないとは思うが、嘘の中に誠がある場合もあるということ。
自分が、なんでこうなってしまったのか。それについて、できる限り考えないようにしてきた。考えると結論に至る前に、死にたくなり、思考が停止するからだ。小説を書くのに支障をきたすし、日常生活にも不便が出る。
ようやく復職のことも考えられるようになってきた。いまだなと思った。考えるなら、いまだなと。
私はいつの頃からか、無条件の愛を求めるようになっていた。何をしても、何もしなくても許してくれる大人を求めていた。父や母に求めるべきものを、赤の他人に求めるようになった。
会社での立場上、条件付きではあるが部下には、それを与え続けた。自分の愛情の器が空っぽなのに、与え続けた。与えられた本人達が、それをどう思っているのかは、わからないし、私のエゴであるのだから、感想はどうでもいい。したくてやっていたことなのだから。
私の矛先は、主に上司に向けられた。いい父親、いい母親を探していた。会社に愛を求めるなんて、どうかしていると思われるかもしれない。でも、ここに実際にいるのだ。そんな馬鹿が。
幾人かの上司に、それを求めた。叶えられることもあれば、叶えられないこともあった。感謝もしているし恨みもしている上司にも求めた。その上位上司にも求めた。一緒に呑んだ役員にも求めた。私は疲れていた。疲れていることに気付いてくれる親を求めていたのだ。手を差し伸べ、寄り添ってもらいたかったのだ。
それは叶わなかった。手を差し伸べられていることに気付かなっただけなのかもしれない。寄り添ってくれていることに、気付かなかっただけなのかもしれない。それを自分からシャットアウトしたのかもしれない。
限界だったのだ。もうこれ以上は、頑張れなかった。
私は、この小説に何を求めていたのか。ひとつは自分の整理整頓だし、ひとつは自分を捕まえることだった。治療の一環でもあった。成功したのだろうか。それはこれからの私の行動にかかっているのだろう。人生の秋の始まりに、生きることへの飽きがやってきた。ただひとつわかった。たぶんわかった。自分は空っぽだということ。まだ、何色にも、どんな花でも咲かせられる。淡くも、色濃くも、百日紅よりも。
執筆の狙い
中年の独り言です。
感想を頂ければ幸いです。