輝ける時
ミケと出会ったのは、正月休みが過ぎた頃だったと記憶している。
その日は朝から粉雪が散らつき、郵便受けを見に行くのも億劫だったが、こんな私にも年賀状が来ているといけないと思い、寝巻き姿にジャンパーを羽織り、突っ掛けを履いて階段を降りていった。
久しぶりに郵便受けを開けると、職安からの手紙が埋もれていたが、封を開けて見ると、面接の日はもう過ぎていた。
そのとき、「みゃ……」と鳴き声が聞こえた。辺りを見渡すと、みかんの段ボール箱が駐輪場の隅に置いてあった。
そばに寄って上から覗くと、へその緒がついている子猫が私に向かって「みゃあ、みゃあ」と鳴いた。
「おいどうした? 捨てられたのか?」
団地の管理事務所に電話をして、里親が見つかるまで飼わせてほしいと頼むと、嘱託の爺さんが面倒臭そうに言った。
「どうでもいい。わしは忙しいんだ」
電話はガシャンと切れた。
それから十数年の歳月が過ぎ、ミケは人で言うなら八十を過ぎた。
秋が深まり、少し肌寒くなった頃、ミケは枕元に来て、「ニャア」といつになく大きな声で鳴いた。
窓を開けると曇り空が広がっていた。
「散歩に行きたいの?」
ミケは私を見つめ、ノドを鳴らした。
散歩のときは必ずリード(綱)をしていた。最期が交通事故だなんて、悲劇以外の何者でもない。最期は眠るように逝ってもらいたい。飼い主なら誰だってそう思っているに違いない。
近所の公園に行くときは、途中にあるコンビニに寄り、100円のカップコーヒーを買う。
「こんちは。ホットコーヒーのSください」
「あっ! ミケちゃんだ」
「ミケちゃん。またお散歩かな」
どの店員もミケを可愛がってくれて、今もレジにはミケの写真が貼ってある。
公園には誰もいなかった。考えてみたら、その日は平日だった。
みんな仕事をしているのに、猫と散歩だなんて、いい気なもんだと思われるかもしれないが、わずかな貯金と失業手当で暮らす私には、それが唯一の気晴らしだった。
ベンチに座ってコーヒーを飲みながら、落ち葉と戯れるミケを見ていた。
すると不思議なことが起こった。空から灰色のロープが降りて来て、公園の真ん中に着地したのだ。
なんだ、あれは?
それは太い竜巻に変わり、落ち葉や砂埃を巻き上げ、雹(ひょう)をぱらぱらと降らせた。曇り空に大きな穴が開き、星空が顔を見せていた。
超常現象ってやつか……
竜巻は瞬く間に消え去り、穏やかな曇り空に戻ったそのとき、「ドン!」と音が響いた。
全身から嫌な汗が吹き出し、恐る恐る振り返ると、道路にミケが横たわっていた。
「ミケ!」
慌てて駆けより、ミケを抱きしめて叫んだ。
「頼む! 死なないでくれ!」
リードを外したことを、悔やんでも悔やみきれない。
晴れの日ばかりか、雨の日まで公園に出掛けるようになった。ミケが公園にいるような気がしたからだ。
カップコーヒーを手に持ち、傘を差しながらずっとベンチに座っていた。
死を受け入れることが出来なかった私は、ある日、途方も無いことを考えながら歩いていた。
死んだら終わりなんてことはない。多くの賢人が、天国は存在すると言っているんだ。
ぶつぶつと独り言を言いながら歩いていると、死が私にも来てくれた。
高いマンションの前を歩いていたら、脳天でポカリと音がした。それで終わりだ。痛くもかゆくもない。
どうでも良いことだが、爺様が盆栽を落としたのだ。
ただ問題はここからだった。天国と地獄が本当にあったのだ。
駅の待合室で切符が配られるのを待っていると、キューピットが飛んで来て、天国行きの乗車券を差し出して微笑んだ。グリーン車ではなかったが、それは問題ではない。
天国号の中はすでに楽園で、女神のようなCAが配る飲み物は、信じられないほどの美味しさだった。
「これは何という飲み物ですか?」
「ソーマといいます」
「どこの製品ですか?」
「天国製ですよ。では、そろそろ昼食になりますので席について下さい」
窓の外を見ると、銀河を凌駕する壮大な星雲が渦巻いていた。
アンドロメダの道の駅で昼食を済ませて出発すると、車内にアナウンスが流れた。
「お待たせしました。間もなく天国に到着します。列車が揺れますのでベルトを締めて下さい」
車内は歓喜に包まれ、皆が喜びを分かち合った。
「悪いことをしなくて良かった」
「真面目に生きれば報われるんだ」
しかし列車から降りると、暗い空に稲光が走っていた。
天国でも空が荒れるのか……
シャトルバスが居住区に到着すると、不安が絶望に変わった。
立ち並ぶ家屋は、どれもトタン板で造られた廃墟同然のボロ屋で、それを雨が激しく打ちつけていたのだ。
さらに私を絶望の淵に追いやったのが部屋の同居人だ。顔に傷のあるヤクザ風のオッサンが、大手を広げて私を出迎えてくれた。
「ようこそ天国へ! わからないことは何でも聞いてくれや!」
「ここが天国とは信じられません。地獄の間違いでは?」
「ここは楽園だぜ! なんでもヤリ放題で食い放題! 永遠に健康で不老不死だ!」
「天国とは善人が来るところでは? 失礼ですが、あなたは……」
「おいおい俺は人は殺してないぜ。せいぜいタタキ(強盗)ぐらいだ」
神様は狂っていると思った。
「私はここで何をして暮らせば良いのですか?」
「なにって、俺と麻雀でもして暮らしゃいいよ。楽しいぜ!」
私は声が震えた。
「いつまでですか?」
「いつまでって、五億年ぐらいやって、飽きたら花札でもしようぜ」
唖然とした。五億年って、恐竜が2回絶滅する期間だぞ。一体どこまでゲーム好きなんだ……
先輩は「はっはあ。そう来たか」と言ってニタリと笑い、「リーチ!」と叫ぶ。
私が手元の牌を捨てると、「ロン!」と叫び、「上達しねぇなあ」と言って大笑いをする。
そんなことに、私は五億年も耐えたのだ。
次は花札を五億年? 冗談じゃない。これじゃ地獄じゃないか……
私はソーマの生大を一気に飲み干すと、雀卓にジョッキを叩きつけた。
「滋養強壮はもう結構です! それより毒薬は無いのですか!」
「落ち着け。何がしたいんだ?」
「死にたいんです!」
「毒薬はあるけど、飲んでも少し下痢するだけだ」
ついに死の欲動が爆発した。
「もう天国なんて真っ平だ! 地獄で焼かれて死んだ方がいい!」
「そっか……じゃあ『地獄体験十億年の旅』ってのを試してみるか? 冷蔵庫の横の扉を開けて降りていけば、すぐに地獄だから」
扉を開けて階段を降りていくと、そこは真っ白で何もない冷たい死の世界だった。
無限に広がる無間地獄に愕然とし、私は膝から崩れ落ちた。
すると、小さな生き物が身をすりよせ、懐かしい声で鳴いたのだ。
「ニャ……」
「ミケ!」
ひしと抱きしめて頬擦りをした。
「さびしかったね。悪かったね。ごめんね」
ミケはごろごろとノドを鳴らした。
何億年という時を経ても、ミケは私を憶えていたのだ。
ああ神様。なぜミケが地獄にいるのですか? ミケに何の罪があるのですか? どうかミケを天国に……
私はミケに誓った。
「必ず天国に連れて行くから」
「ニャ……」
ミケと一緒なら、地獄さえ辛くなかった。
「ミケ。あと九億年だ。頑張ろうな」
「ニャア」
やがて九億年が過ぎ、目の前に四角い空間が開くと、あの先輩が顔を出して笑った。
「どうだった? 天国の方がいいだろ?」
「先輩、これを見て下さい。何の罪もない猫が地獄にいたのです。天国に入れてやりましょう」
「だめだ。その猫は地獄に置いていくしかない」
「どうしてですか!」
「天国と地獄の均衡が崩れるからだ。それは宇宙の絶対法則でな、神様しか変えることは出来ないんだ」
「なら私が地獄に残ります!」
「それもだめだ。もうすぐ天国会議があってな、全員参加なんだ」
「天国会議? なんですかそれ」
「天国の模様替えについて議論するんだ。もう意見は出尽くしているけどな」
私はミケに誓った。
「必ず救うから……」
ミケが「ニャ……」と鳴くと、扉は静かに固く閉ざされた。
宇宙空間に浮かぶ壮大なスタジアムが天国会議の会場だった。
高さ数千メートルもあるアルプススタンドが遥か先まで連なっており、望遠鏡で見渡すと、出席者のほとんどが居眠りをしていた。
私は思わず先輩に言った。
「この会議に何の意味があるのですか?」
「意味なんてないよ。永遠に繰り返す暇つぶしさ」
私は先輩に神様の席を聞いた。ミケを地獄に送った至高の存在を、この目で確かめたかったのだ。
先輩は「あれだよ」と言って、最前列の一番端を指差した。
望遠鏡をそちらに向けると、長筒を持つ手が震えた。神様はよだれを流し、酒瓶を枕にして眠っていたのだ。ただの酔っ払いじゃないか……
「本当にあれが神様なんですか!」
「そうだよ。神様はこの宇宙で一番のポンコツなんだ」
「どうしてですか!」
「でなきゃ神なんてやってられないぜ」
議長の声が響き渡った。
「それでは皆さん。天国の模様替えについて、順番に意見を述べてください」
出る意見は、すべて無限に繰り返されたものばかりだった。
楽園バージョン。月面バージョン。地獄バージョンまで出る有様だった。
じれったい。自分の番が来るまで100年かかる。
私は挙手をし、立ち上がって自分の意見を述べた。
「儚い無常の世界を愛しています。生と死のある世界を再現しましょう。すべては、あるがままに」
拍手喝采の嵐が起こった。
「それは凄い!」
「初めての試みだ!」
「神様、それでいいですか? 神様! 起きてください!」
神様は面倒臭そうに言った。
「どうでもいい。わしは忙しいんだ」
歓喜の嵐が沸き起こった。
「やったー!」
「儚い無常の世界!」
「初の試みだー!」
「すべては、あるがままに!」
「よし、それに決定!」
ふと気づくと、私はあの公園のベンチに座っており、コンビニで買ったコーヒーは、まだ湯気を立てていた。
風が木の葉を散らし、白い曇り空が広がっていた。
ミケは私の横で眠っていた。そっと頭に触れると、ミケは顔を上げて私を見つめた。
「お前も夢を見ていたのか?」
「ニャ……」
その数日後、ミケは眠るように逝った。
享年十七歳。
コンビニに寄って店員に訃報を伝えると、彼らはレジに貼ってあるミケの写真に手を合わせてくれた。
おわり
捨て猫の 短き命は儚くも いつしか星の 友となるらむ
すてねこの みじかきいのちははかなくも いつしかほしの ともとなるらむ
『慕尼黑歌集』より
執筆の狙い
400字詰め原稿用紙10枚半です。よろしくお願いします。