「好き」と「愛」の駆け落ち
昨晩じっくり時間をかけて書いた手紙を読み返してみたら、「好き」と「愛」が失踪していた。
その他の言葉たちは無事で、消えたのはその二つだけ。手紙の冒頭は「あなたが です」、締めの部分は「 しています」といった風に、誰かが消しゴムをかけたみたいに空白になっていた。いや、消しゴムならわずかな痕跡は残るはずだ。たとえば、手紙を贈る相手への想いが乗ったペンの筆圧とかぐらいは。それすらもきれいに無くなっているから、まさに失踪という言葉がピッタリだった。「し」とか「す」とか、取り残された文字は申し訳なさそうに身を縮めている。
まだ近くに隠れているかもしれないから、霞さんから借りた昔の小説や、夏休み初日から出しっぱなしの高校の教科書をパラパラ捲ってみる。しかし、長年見慣れた右肩上がりの跳ねるような癖字は発見できなかった。
仕方が無いので手紙の空白部分に、もう一度「好き」「愛」を書いてみる。しかしどうにもおさまりが悪い。昨晩の情熱はなりを潜め、「好き」的な何かにゲシュタルト崩壊していた。これでは恋文の役割を果たしてはくれないだろう。霞さんはそうした違和感をきっと見逃してはくれない。このままでは埒が明かないので、仕方なく彼女がアルバイトをしている古書店へ向かうことにした。
「結論からいえば、好きと愛の駆け落ちだね」
脚立を使って棚の最上段に本を仕舞っていた霞さんが振り返ると、まとめた黒髪がふうわり揺れる。身体全体は細いのに、半袖のシャツから覗く二の腕だけは筋肉質だ。
「駆け落ち? 言葉同士が?」
「好きなら言葉だって駆け落ちぐらいするさ」
「でも好きと愛って近しい言葉でしょ。駆け落ちする必要なんてなさそうなのに」
出来損ないの生徒に教えるように、彼女はやんわりと諭す。
「君は私が好きなのだろう? いや、そんなに赤面しなくていい。しかし、愛していると断言できるかい?」
「それは……」
僕が言葉に詰まると、霞さんは満足そうに頷いた。
「安っぽい連中は同列に語りがたるけれど、好きと愛とは結ばれない。好きが進化すれば愛になるし、愛が終われば好きに戻ることも稀にある。つまり両者は決して交わらない運命なんだ」
なんだか禅問答みたいだ。このままでは彼女に置いてけぼりにされるので、自分なりに考察してみた。きっと「好き」は「愛」に憧れ、「愛」は「好き」の情熱にほだされたのだろう。でも「好き」と「愛」の熱量の違いはやがて温度差になり、片方が冷めてしまうに違いない。その運命を知っているからこそ、二人で駆け落ちしたのだと思う。
「それに近すぎるというのも問題だね。近親相姦的なタブーでもある」
交わらないのに近親というのも変な話だ。その疑問をぶつけたら「愛を知っている両親と、好きしか知らない君との関係みたいなものだよ」と返された。
「なんだか喉が渇いたね」
そう言うと彼女は店の裏からサイダーを持ってきて、氷が入った二つのグラスに勢いよく注ぐ。緩やかな曲線を描くグラスの縁の上では、炭酸の粒が跳ね踊る。狂騒に惹かれた氷塊は、カコンという音を引き連れ底から浮かびあがってきた。
「うーん、何か物足りないなぁ」
霞さんは顔をしかめながら、冷凍庫から業務用のバニラアイスを取り出し、一掬いをサイダーの上に乗せた。真っ白なアイスはあっという間に入道雲へと変化し、炭酸水は夏空になる。
「本当はブルーハワイのかき氷シロップを数滴垂らすといいのだけれど、これも悪くはないね」
満足そうに小鼻をむふぅと拡げている霞さんは、その刹那少女に返った。ずっと眺めていたいけれど、そうも言っていられない。二人はグラスに飛び込み、サイダーの泡に溶ける。駆け落ちした言葉を探しに行くために。
「でもどうやって逃げ出したのかな」
「それは紙魚の仕業だね。紙を主食にする困った奴だ」
「紙を食べるんですか?」
「そう、大半は直接食べて本に穴を開けるが、言葉の脱走を仲介する亜種もいる。今回のはきっとそれ」
「でもなんでそんなことを?」
「インクのソースが無い紙の方が好みとか、人が困る表情をスパイスにしているとか、幾つかの仮説は立てられるよ。でもそれを得意げに披露するのはフェアじゃない」
霞さんは古い書物を取り出し、紙魚に食われた頁を見るよう手招きした。近づくと彼女が発する夏の濃くて甘い匂いが鼻腔をくすぐる。霞さんの華奢な背中に飛びつきたくなる衝動も、愛と呼んではくれないだろうか。
「二人はどこに逃げたのかな?」
「それはきっと、責任から解放された、自分が何者でもない場所だろうね」
霞さんの声のトーンが一段低くなる。
「思えば私たちは、この二つの言葉を軽く扱い過ぎたのだよ。数多のラブソングや映画、恋愛小説で無責任に多用されて。恋の成就という大役を担うことにも、失敗の瞬間に立ち会うことにも、失恋の緩衝材にされることにも、疲れ果てたんじゃないかな」
思えば僕自身も、深く考えることなく「好き」と「愛」を手紙にしたためてしまった。もちろん彼女への想いは込めたつもりだ。しかし、言葉に対する思慮の浅さ、安直さがあった点は正直否めない。大いに反省すべき点だが、それだけでは「好き」と「愛」が戻ってくることはないのだろう。困り果てた僕の肩を優しく撫でながら、「方法は二つあるよ」と霞さんは言った。
一つ目は、手紙を熟成させるというやり方だった。
哲学的に言えば「パンタ・レイ」、日本的に言えば「諸行無常」が、彼女の書物や手紙に対する美意識らしい。紙を親に持つあらゆる制作物は常に変化しており、一秒後には全くの別の物に流転している。物質的な劣化という意味でも、果たすべき責務という意味でも、読み手と出会うボーイミーツガール的な意味でもだ。
多くの人はそれを正確に認識できる感受性を持ち合わせてはいないと、霞さんは悔しそうに語る。毎日本に囲まれ、誰よりも言葉たちの近くにいる彼女には分かる。霞さんに言わせれば、本の海を泳ぐ紙魚すらも歴史を構成する必須条件であり、歓迎はしないが等しくその存在を認めるべきなのだそうだ。
「その考えだと、手紙も流転し続けるってことですか?」
「むしろパーソナリティが強い手紙こそ、その性質が強いのではないかしら。誰かの想いが込められた手紙は時を越え、場所を越え。思わぬ角度から誰かを救うこともあるのだよ」
まだ君にはちょっと難しいかな、そう呟く霞さんは果てしなく大人で、打ちのめされそうになる。
「いえ、分かります。たとえば、僕の恋文を今渡すのと、五年後に渡すのでは、運命は変わります。いや変わらないかもしれませんが、同じということは決してありません。それに、もし僕と霞さんが結婚して、十年後に万が一に仲違いをして。その時に改めてこの手紙を読み返したらどうなるでしょうか」
霞さんは賢くて鋭い人だから、仮定で逃げる僕の臆病さ(あるいは狡さと置き換えてもいい)には気づいているだろう。でも今の自分にはこれが精一杯だ。プロポーズまがいの告白までしちゃったのだから。
「さすがだね、真実を懸命に捉えようとする君の実直さは、今後の人生で大きな武器になるよ」
褒められたことは分かるが、果たして想いは受け入れてくれたのだろうか。戸惑う僕に構うことなく、霞さんは話を続ける。
「書かれてすぐの手紙は蒸留したてのウイスキーと一緒。樽の中でトロリとした琥珀の液体に熟成するように、時間をかけるほど味わい深くなるものなの」
手紙の熟成か、うん悪くない。でもその味わいが蠱惑的になるには、時間の経過だけでは不十分だ。僕自身が「好き」と「愛」にふさわしい人間にならなければ、戻ってきてはくれないだろう。
「好きや愛に代わる言葉を見つける、という手段もあるよ」
霞さんはそう言うと、夏目漱石がかつて「I love you」を「月がきれいですね」と訳したことを教えてくれた。彼女に愛を伝える言葉はなんだろうか。この本とても面白いですね? いや、それでは真似事だ。苦し紛れに店内を見渡す。触れると崩壊しそうな江戸時代の往復書簡、道端のゴミを撮った写真集、昔の文豪の初版本、不気味なテイストの海外の絵本……などが無秩序に並び、混沌を生み出している。なら、こんな言葉はどうだろう。
「あなたのためなら、借金をしてでもこの店の本を全てプレゼントします」
霞さんは一瞬ぽかんとした表情を見せたが、すぐに笑い出した。音叉に共鳴するかのように、身体の揺れに合わせ笑い声が波になる。普段は表情に乏しい(そこが魅力なのだけれど)彼女が見せるからりとした笑いは、クリームサイダーの夏空へと吸い込まれていった。
「うん、君はやっぱり良い奴だよ。でもね、私はどんな本でも好きになれる博愛主義者ではあるが、ここにある本を独り占めしたいと思うほど傲慢ではないよ」
霞さんは笑い涙を拭きながら、「それに、大切なことは手紙に残して伝えなきゃ」と僕の頭を撫でてくれた。それは異性的な衝動では無いかもしれないが、彼女の細い指を僕はきっと忘れないだろう。
「とにかく君は、一日一日きちんと大人になりなさい。私が感動するような告白の言葉が紡げるようになる頃には、きっと好きや愛に再会できるはずだよ」
なんだかはぐらかされた気もするけれど、まだ希望は残されているみたいだ。ポジティブに考えよう。
「明日もまた来ていいですか。一緒に好きと愛を探してくれませんか」
霞さんは少し考えた後、「夏休みの課題を済ませたらね」と微笑んでくれた。
「今日中にぜんぶ片付けます。徹夜してでもやります」
「なら、サイダーとアイスクリームも用意しておかなきゃね」
彼女にお礼を言い、勢いよく店を飛び出した。額の汗が目に入ってきたけど、構わず両足を動かし続けた。明日も能天気な夏空になりそうなのは、「好き」と「愛」が失踪したおかげかな。でも、霞さんに今度こそ手紙を渡す時が来たら、お前たちも一緒に居て欲しいな。そんなことを想い浮かべながら。
執筆の狙い
半年以上ぶりの投稿になります。今作は【GOAT×monogatary.com文学賞(テーマ:手紙の味、2000~4000字)】というコンテストの落選作です。ごはんに投稿するにあたり何箇所か調整しましたが、大枠は変わっていません。この後、肉付けをして1万文字ぐらいの短編にする予定なので、ご指摘やアドバイスを頂けると嬉しいです!