下天の夢 Ⅲ
世間からは蝮と呼ばれる斉藤道三。うつけと評判の織田信長に娘を嫁がせたのも、隙を見て弾正忠家《だんじょうのちゅうけ》を乗っ取ろうと図っているのだろうというのが、世間の噂であった。
ところが道三は、娘婿・信長を宜しく頼むと各方面に働き掛けていた。それは、娘・帰蝶が、“信長は決してうつけなどではない” と再三知らせて来ていたからである。道三も人の子の親であったと言うことか。
ところが、長年争って来た相手ではあるが、その力を認めていた信秀が急死した。急に後ろ盾を失った信長が、果たして弾正忠家を纏めて行けるのかと言う不安が生じた。
帰蝶は、信長は先を見通す目を持っていると言って来ていたが、うつけであると言う評判は広まっている。ひょっとして、帰蝶の見る目が狂って来ているのではないかと言う疑いを持った。しっかりした娘ではあるが、男としての信長に惚れてしまい、見る目が曇ってしまったということも考えられる。
道三は、信長と言う男の実態を、己の目で確かめてみようと思い、早速、会見したい旨の書状を信長に送った。場所は、美濃、尾張の国境であるが、双方から税を免じられている謂わば中立地帯と言える富田に在る正徳寺を指定した。
会見当日、道三は正徳寺近くの藪に人数を隠し、例え姑に会う為と言えど、無防備にのこのこ出掛けて来るようなうつけなら、帰蝶がどう思っていようと討ってしまおうと思った。そして、帰蝶を強引にでも連れ戻そうと考えた。
もし、世間の言う通りのうつけなら、自分が討たずともいずれ誰かに討たれてしまう。そうなれば、帰蝶も巻き込まれて死ぬことになる。その前に信長を討って帰蝶を取り戻すことが最善の策であると思った。
早めに富田に着いた道三は、兵達を藪に隠した後、街道の見える場所に有る物置小屋のような場所に潜んで様子を見ることにした。様子を見るだけなら物見の者を配せば良いのだが、自分の目で信長と言う男を見極めた上で、討ってしまうかどうかを判断したかったのだ。その上で、討つと決心が着いたら、藪に潜んでいる兵達に伝令を出し、会見している間に寺を包囲するよう段取りするつもりだった。
約束の刻限が近付いた頃、尾張の方角から来る一団を見て、道三は驚愕した。
先頭の馬に乗る男は、確かに世間の噂通りの格好をしたうつけ信長に違いないのだが、その後に長々と続いているのは、朱の長槍を立てた数百の足軽隊。その後には、弓・鉄砲を持たせた足軽隊が、また長々と続いている。美濃と一戦をも交えられる数の軍団である。とても、道三が率いて来た手勢で討てる数ではない。逆に、信長がその気であれば、その率いて来た手勢を使って、道三を討ち取れる数ではないか。うつけは世間を謀る為の姿。先を見通せる男と言う帰蝶の報告に間違いはなかった。
道三が手勢を潜ませているだろうこと。信長を値踏みしようとしていることは、素破《すつぱ》からの報告により信長は把握していた。
彼の知る歴史とは違い、弾正忠家を掌握する前に信秀が急死してしまい窮地に陥っていた真人であるが、信秀の代わりに道三を後ろ盾とすることを考えた。その為には道三を驚愕させ、世間の噂に逆らっても信長を認め、そればかりではなく、美濃の安泰の為にも信長と組む必要が有るとまで思わせなければと考えた。
そして、真人が居た元の世界の史書に書かれていた、那古野城下での軍の行進を道三に見せ付けることを思い付いたのだ。
信長自身がうつけの姿のままだったのは、その姿が世間を欺く為のものであったと知らしめる為だ。
一瞬道三は、信長の方こそ、この機会に道三を討ってしまおうとして軍勢を率いて来たのかと思った。もしそうであるならば、手勢を纏めて、一刻も早く美濃に逃げ帰る必要が有る。
だが考えてみれば、今の信長は四面楚歌の状態にあるのだ。味方に取り込める可能性の有る相手は自分を置いて他に無いだろう。とすれば、信長が力を見せ付けようとするのは、組むに足る相手であることを道三に認めさせる為に違いないと思うに至った。
正徳寺での会見の席、信長は正装に身を正して道三と面会した。
道三は、信長が長槍、弓、鉄砲を持った八百ほどの足軽隊を含む軍勢を率いて来ていることを、納谷に隠れて見ていたのだが、何も知らない振りをして、悠然と上座に着いた。
直垂《ひたたれ》姿で背筋を伸ばし正面を見据えて座していた信長は、道三が入って来ると折り目正しく頭を下げて礼をする。
「始めてお目に掛かります。弾正忠・織田三郎信長に御座います」
と挨拶する信長に、
「斎藤山城じゃ。婿殿、良う参られた」
と道三が返す。
「義父上《ちちうえ》にはご挨拶が遅くなり申し訳無いと思うておりましたところ、図らずも書状を頂き早速参上致しました。帰蝶もつつがなく過ごしております」
「そうか。それは何より。信秀殿、急な事であったな。立派な男であった。長く争った相手ではあるが、何故か友を亡くしたかのような気分になっておる」
「恐れ入ります。かつては相争った間柄とは言え、帰蝶を妻に迎えた今は身内に御座います。父亡き今、道三様を父と思い、孝行させて頂きたいと思うております」
納谷から軍勢を目にしていた道三は、無言の圧力を掛けながら、下手に出て同盟を持ち掛けている信長の策士としての器量を見せ付けられた想いがした。我が子達が到底太刀打ち出来る相手では無いと思った。
信長に取って、尾張国内を平定する為に道三と組むことは必須の事なのであろうが、信長にこれほどの器量が有るなら、美濃に取っても自分に取っても、損な同盟では無いと認識した。
道三との会見を終え戻る時信長は、もはや奇矯な風体には戻らず、直垂のまま、威儀を正した姿で軍を率いて那古野城下に入った。
うつけの殿が、いきなり軍勢を催して出陣した時、突然何処を攻めるつもりかと民達は驚き、もし負けて逃げ帰って来るようなことが有ったら大変なことになると案じていた。
信長が凛々しく変身したことに何よりも驚いたのだが、同時に、無傷の軍を従えて入城して行く隊列を見てほっと胸を撫で下ろしたのだ。
驚きが収まると、何が有ったのか当て推量、憶測のたぐいが飛び交う。
たまたま、美濃方面に出掛けていた者が軍勢を見たと言いふらす。そして、美濃の斎藤道三と会ったのではないかと言う噂が飛び交う。しかし、何故、武装した数百の兵を引き連れて行ったのかと言う詳しい事情に付いては、暫く判明しなかった。やがて、信長がうつけではなく、敵を謀る為にやっていた策であったと言う噂は、あっという間に城下に広まった。
旅の商人だと言う口の達者な男が居た。若いくせにひたいに皺の多い男で、猿のような顔をしていた。
「袖なし湯帷子《ゆかたびら》、半袴《はんばかま》に荒縄の帯を巻いた姿。みんなそれが誰か知ってるだろう。ところが、衝立の陰で直垂姿に着替えた殿様は、柱に寄りかかって道三を待っていたんだ。そこへ道三が入って来る。殿様は、慌てる事なく下座に座って丁寧に礼をした。そんな殿様を見て、道三は驚いた。なんでだと思う。うつけの格好のまま馬に乗っている殿様を、道三は陰に隠れて見ていたんだよ。そんで、策を考えたんだ。その格好が無礼だと言い掛かりを付けて、殿様を討ってしまおうと思ったんだな。だから、直垂姿で座っている殿様を見た時、びっくりしたって分けよ。だってこれでは、無礼ととがめる訳にはいかねえからな。な、そうだろう」
そんな風に滑舌良く語る物売りの男の周りに集まった民達は、道三を手玉に取る信長の姿に胸すく想いとなり、大笑いし拍手を送った。
これは、うつけ信長の評判を払拭し、新しい信長の姿を臣下たちや民達に知らしめる為に取られた策だった。
信長の筆頭家老・林秀貞の与力に前田利昌と言う男が居た。その子・孫四郎は派手な格好をして歩くのが好きな暴れ者だと聞いた信長は、その若者が気に入って直臣とした。そして、犬千代の名を与えて小姓としていた。
これを機会にうつけの噂を払拭し、新たな信長像を作り上げようとしていた信長が、小姓達に妙案は無いかと尋ねたところ、この犬千代が、
「それなら、使える男を知っております。口先三寸で生まれて来たような男で、人たらしに掛けては天下一ではないかと思われる男です。この男に噂を流させましょう」
「そうか。では、やらせてみよ。働きに寄っては小者として使ってやると餌を投げておけ」
「ははっ。お任せ下さい」
そんな経緯つが有って、見て来たような噂を振りまいているのが、この物売りに扮した男・藤吉郎だった。
当時の信長を巡る尾張国の状況は複雑で分かりにくい。わずらわしいと感じるかも知れないが、簡単に背景を述べておこう。
室町中期までに、幕府における守護大名の権能が肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになった。
守護大名とは幕府の守護職から発しているものだから、幕府の要職と言う事で、当主は京に滞在することが多くなる。その為、守護代を置いて地元の経営を行わせるようになったのだが、やがてその守護代の中から、守護の権力を凌ぐ力を持つ者が現れて来る。更に、配下の国人領主の中から、守護代の権力を分割行使する者も現われ、権力の構造が多層化して行き、主家の権力を奪う形で戦国大名と言う存在が生まれて来たのだ。
尾張国の守護は斯波氏である。織田氏はその守護代として実力を持つようになる。ところが応仁の乱の発生で守護代・織田家は二つに分裂する。戦後、東軍についた大和守家(清洲織田氏)と西軍についた伊勢守家(岩倉織田氏)が尾張支配を巡って抗争状態となった。
守護である斯波氏は両者を巧みに操って権力を維持しようとしたのだが、やがて実力を失った。
織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の1つで、分家の家系となる織田弾正忠家の当主。勝幡城城主・織田信定は、中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎を築いた。
そんな中、駿府の今川氏が東尾張に侵攻し、那古野城は今川家の保有となった。
信定の跡を継いだ信秀は、今川氏から那古野城を取り戻し、信長を城主に据えていた。これが、当時の信長を巡る周辺状況と経緯である。
うつけの皮を脱いだ信長は家中の引き締めに掛かっていたが、既にほころびが始まっていた。信秀に従っていた鳴海城主山口教継・教吉父子が駿河の今川義元に寝返ったのだ。
報せを受けた信長は早速に兵800余りを率いて出陣した。もちろん、その姿はうつけではなく若く凛々しい武将のそれである。そして、800の兵と言うのは、道三との会見の時に引き連れて行った兵達である。
うつけの振りをして、敵をあざむきながら長槍や鉄砲などの軍備を揃えていた信長だが、同時に人も集めていたのだ。
野駆けと称して、小姓達のみを連れて城を出た信長は、武家・農家を問わず、次男坊以下の若者達を狩り集めていた。犬千代に目を着けたのもそんな中での事であったが、信長は、彼らに禄を与える事を約束して、親衛隊と少数ながら常備軍をも作り上げていた。
後に信長軍が始めてとされる兵農分離の常備軍の萌芽がここに既に表れていたのだ。戦うと決まってから農民を徴発して足軽隊を作るのが普通だった時代に、農家の次男三男を集めて日頃から訓練しているので、すぐに出陣出来たのだ。
真人の発想が、この時代の人の考えを超えていた結果だ。
赤塚の合戦と呼ばれるこの戦いは信長が将として指揮を執った最初の戦いである。
敵となった山口勢は兵力約1,500人、対する信長勢は約800人ほどで人数は半分ほどでしかなかった。にも関わらず、従来の家臣団とは別に急遽作られたばかりの信長軍は、負けなかっただけでなく僅か30人ほどの死者を出しただけで、1500人の敵と引き分けたのだ。
その後、教継は織田方の大高城、沓掛城を調略を用いて奪い取るなど反信長の姿勢を貫いていたが、突然、駿河へ呼び寄せられて、親子共ども切腹させられてしまった。信長を見限って今川に寝返った親子の末路は悲惨であった。頼った今川に詰め腹を切らされたと言うことなのだ。
既に述べた通り、戦国時代の権力の構造は重層的であり複雑であり、且つ、刻々と変わる。
守護・斯波氏の代理である守護代の織田氏も伊勢織田家と清洲織田家に分かれて争っている。弾正忠家の主筋となる清洲織田家も当主は織田信友なのだが、代理の更に代理と言う立場の坂井大膳らに実権を握られてしまっていた。
この坂井大膳らは、信秀の生前、信秀が美濃攻めをしている留守を突いて古渡城を攻撃して来たりしていたのだが、平手政秀が交渉を繰り返し、和睦にこぎ着けていた。
平手政秀が自刃し信秀も死に信長が跡を継ぐと、この坂井大膳も和睦を破棄し、信長の配下となっている松葉城の織田伊賀守と深田城主である信長の叔父・織田信次を人質に取って反旗を翻した。
この報せを聞いた信長は、8月16日早朝に那古野城を出陣すると、庄内川付近で、守山城から駆けつけて来た信次の兄・織田信光と合流。兵を分け信長自らは、叔父・信光と共に庄内川を越し萱津へと移動した。
信長の側には、小姓になったばかりの14歳の前田犬千代が着いていた。派手な格好をして街をほっつき歩き、喧嘩ばかりしている傾奇者で、親も手を焼いていたのだが、その噂を聞いた信長が面白がって、陪臣の子ながら召し出して直臣とし、小姓に取り立てていた。
「初陣だな。怖くはないか?」
と信長が聞く。
「喧嘩だって、一つ間違えば死ぬことは有ります。死ぬのが怖くては、喧嘩も出来ませんよ」
恐れ気も無く犬千代はそう答えた。
「口の減らぬ奴め。ならば、先陣に混じって行って来い。運が悪くとも、一度死ねば二度とは死なぬ。安心せよ」
「なんですか? それ。死にはしませんよ。敵の首取って帰って来ます。褒美でも考えといて下さい」
信長にこんな口を効く者は他にいない。辰の刻(午前8時ごろ)に戦端が切られた。
「行けー!」
と言う信長の号令と共に、先鋒が押し出し、その中に混じって、犬千代も駆け出して行った。
数刻交戦の末に信長方は、坂井甚介を討ち取った他、清洲方の50の首を取って勝利した。前田犬千代は、髷《まげ》を掴んで敵将の一人の首をぶら下げて戻って来た。
手を分けた他の隊も圧勝し、信長は余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払った。
しかし、敗北し坂井甚介亡き後も、清洲方は信長への敵対関係を解くことはなかった。
信長の苦境はまだまだ続いた。織田方だった寺本城が今川方に寝返り、その軍勢が信長の居城・那古野城と緒川城の間の道を塞いだのだ。
信長は寺本城を避け船で渡海して、今川方が築いた村木砦を背後から攻撃しようと考えた。
ただ、清洲方との争いも終わってはいない今、信長の留守中に那古野城が攻撃されることが予想された。
「今、城を留守にするのは危のう御座います。寺本城を攻めるのは、今少し様子を見られてからにした方が宜しゅう御座います」
林秀貞らは、信長にそう進言した。
「いや、すぐに対応する必要が有る。まだまだ様子見をしている者は他にもおるに違いない。わしがすぐに手を打てぬと見れば、寄らば大樹の陰とばかりに、今川方に寝返る者が続出することになる。わしを裏切れば報いを受ける事を骨の髄まで分からせねばならん」
信長は不退転の決意を示した。しかし家老達は、
「清須に隙を見せては、逆に我等が滅ぶことにもなりかねませんぞ。ここは、どうぞお止まり下さい」
と反対した。
「留守に城を守る者はおる」
信長は平然とそう言う。
「えっ、何処に?」
林秀貞が聞く。
「美濃のおやじ殿に兵を貸してもらう」
と信長が答えると、家老達は一樣に驚き、
「そんな無茶な……。お方様の父上とは言え、相手は、美濃一国を乗っ取った蝮の道三ですぞ。美濃の兵をこの城に入れたりすれば、これ幸いとばかり乗っ取られるに違いありません。それは、余りに危ういお考えです」
と必死で止めに掛かった。
村木砦を攻めるに際して、留守となる那古野城を守る為に、美濃の斎藤道三の兵を城に入れようと考えていると信長が言い出した時、重臣達は一樣にとんでもないと思った。
斎藤道三と言えば、長年の宿敵であり、同時に最も油断のならない相手であるというのが、彼らの共通の認識であったのだから無理も無い。
しかし、信長の道三に対する見方は正徳寺の会見以来変わっていたのだ。
『父亡き今、道三様を父と思い、孝行させて頂きたいと思うております』
と言ったのは、お世辞でも油断させる為の甘言でもなかった。相対した時、道三が信長を見込んだと同時に、信長の方にも道三を信じようと言う気持ちが湧いていたのだ。
理屈で言えば、道三も美濃国内に不安定要素を抱えていたし、信長に至っては内外共に敵ばかりであったから、お互いが結び付く利点は確かに有ったのだが、そうした不安定な利害以外に対面して見詰め合った時、強く感ずるモノが有ったと言うのが、正確なところだろう。
道三と言う男、単に相手が自分の力にすがって来ていると感じたら、騙して踏み潰してやろうと考える男だ。信長のモノを見る目、先を見る目を感じ取り認めた上の事であり、それを信長自身も感じたからこそ、道三を信じ、頼りにしようと思ったのだ。
これは、信長と道三の間に生まれた感覚であるから、当然、重臣達に理解出来るものでは無かった。
信長の要請に応えて、道三はすぐに西美濃三人衆の一人安藤守就に1000人の兵を付けて送って来た。
安藤は那古野城には入らず、那古野城の近く、志賀・田幡に布陣し、攻め寄せて来る敵がいれば、ここで防ぐと信長に伝えて来た。那古野城に入れば、信長はともかく家臣達の不安を招くだろうと考えた道三の配慮からであった。信長はすぐに陣に出向き、安藤に礼を述べた。
信長軍は翌日に出陣するはずだったが、林秀貞・通具の兄弟が不服を言い、帰ってしまった。道三を簡単に信じている信長に不安を持ったのだ。
一般に知られている信長の性格であればこんな態度を取られれば激昂し、下手をすれば成敗と言う事態に至ってもおかしくない。だが、この時代の信長の力はそんなに強くなかった。ここで内輪もめを起こしては、家中が割れる恐れがあった。
信長である真人は、林兄弟の造反を無視した。気にする様子も見せず、そのまま出陣したのだ。
1月21日、織田軍は熱田に至り宿泊した。翌日川を渡る予定であったが、非常な強風だったため船頭・水夫たちが船を出すことに反対した。
「船出すれば、必ず沈没するのか?」
信長は船頭にそう尋ねた。
「いえ、必ずひっくり返るっちゅう分けではありゃあしませんが、よほど腕の有る船頭でなければ危のう御座いますし、まあ、舟を出す者は居りませんでしょう」
「お前は腕が無いのか?」
と聞いた。
「いえ、そんなことはありませんが、女房、子供も居りますし……」
「三倍払おう。舟を出してくれ」
船頭は他の者達とコソコソと相談を始めた。
「大丈夫で御座いましょうか?」
と家臣の中に不安がる者も居たが、
「船頭がああ言うなら、敵は、我等が足止めを食っていると思うに違いない。沈まぬ運があれば、いくさにも勝てる。我等に運が無ければそれまでじゃ」
そう言って信長は、無理に船を出させた。村木砦は南に当たり、冬の強い北風に乗って舟は進む。岸や浅瀬に舟が当たらぬよう、また、転覆しないように、船頭達は必死で竿を刺して舟を操る。その結果、上流から下流への移動ということもあり、舟は20里(約80キロ)の道程を僅か一時《いっとき》(30分)で走り抜けた。
その晩は緒川城に泊まり、24日払暁、辰の刻(8時)から村木砦に攻撃を開始した。
砦には3つの狭間が有り、信長は鉄砲隊の者達にそれぞれ持ち場を割り振って担当させ、鉄砲を取り替えては撃たせて牽制しながら、手勢に堀の堤を登らせた。
織田軍が攻め続けたことで村木砦側は負傷者・死者が増え、ついに降伏したいと伝えて来た。
味方にも多数の死者が出ており、薄暗くなって来ていたので、信長は降伏を受け入れ、後の始末は水野忠分に任せて引き上げた。
勝ち戦とは言え、信長が常にそばに置いて近習として使っていた小姓達の中にも、何人もの死者を出してしまったことが悔いられた。
信長の小姓のうち、一郎太、世之介の二人が村木砦の攻撃の際に死んだ。いつも身近に侍らせて、鉄砲買い取りの手配なども密かにさせていた者達だ。父・信秀の死を聞いた時も平手政秀の自刃に際しても流さなかった涙が溢れた。
姿は織田信長であっても、意識の殆どの部分は織田真人である。時折、信長としての感情が肥大化して来ることは有るのだが、いつどんな時にそうなるのか、真人には分からないし、制御することも出来ない。
信秀や平手の死は、真人に取っては歴史的出来事であった。悲しみが湧き上がって来ることは無かった。
しかし、真人達の世界で記録されていた歴史より1年半も早く信秀が亡くなり、それが為に、信秀の生前にうつけの評判を消すことが出来なくなったことは真人を慌てさせた。
信秀の前で、親衛隊、常備軍の行軍を見せ、うつけの評判を払拭し、弾正の忠家を一つにし、周辺諸国に対する備えを完了することが出来るはずだった。信秀の死が、真人の知る歴史より、1年半も早かったことにより、うつけ評判のまま窮地に追い込まれることになったのだ。
信秀と言う後ろ盾を失った信長、いや、真人の心には、歴史とは違うことが起こった不条理に対する怒りが湧き上がっただけで、平手の自刃に心動かす余裕さえなかったのだ。
そもそもに戻ろう。織田真人の居た世界は、我々が今いる、この現代ではない。戦国時代から見れば別の未来である。だから、我々の歴史では、信秀が死んだ時、信長の評判はうつけのままだったのだが、真人の居た世界の歴史での信秀は、信長がうつけの振りをして密かに進めていた軍備の様子を家臣達や民達の前で披露することによって、完全にうつけという評判を払拭した後に病で死んだことになっていた。
歴史と違うことが起こっていることに真人は驚き、且つ慌てたのだ。
真人の居た世界。それは我々の世界より遥かに科学が進んだ世界である。しかし、不都合な現実を受け入れなければならない社会ともなっていたのだ。
その社会を支配する権力に抵抗する勢力も存在した。
その組織は秘密研究所を持ち、その研究所の主宰者は、表向きには政府のプロジェクトのアドバイザーともなっている、国立第一大学の橿原教授と幸田美幸助教だった。膨大な研究費を出す複数の事業家も存在した。
その世界は、民主的な方法や軍事的な方法で、支配している権力を倒すことが不可能な状態にあった。模索しながら辿り着いたのが、戦国時代に戻って、歴史を変えてしまうと言う方法だったのだ。
どうやってそれを可能にするか。それは、我々の今居る世界では単なる理論に留まっている超光速粒子「タキオン」で過去に情報を送ると言う方法だった。
戦国時代の人間にその世界の人間の意識を情報として送り、望ましい方向に歴史を変えようというのだ。
光速に近い速度で飛ぶ宇宙船に信号を送り、ウラシマ効果を利用して、織田真人の意識を信長に植え付ると言うことなのだ。
具体的には、地球から光速に近い速さで打ち上げた宇宙船にタキオンを使って情報を送ると、超光速で飛ぶタキオンは、すぐに宇宙船に追いつき、その情報が伝えられる。
このとき、宇宙船の中の時間は、情報を送った地球の時間よりも大きく遅れているため、送られた情報を送り返すと、打ち上げ前にその情報が地球に届くと言うことが起こる。宇宙船側からは、地球のほうが光速に近い速さで遠ざかっているように見えている。つまり宇宙船からすれば、地球のほうが時間の流れが遅くなっているのである。そして、宇宙船から地球に向けて、先程届いた情報をそのままタキオンで送り返すと、情報は、宇宙船の中の時間よりもさらに過去の地球に送られる。この繰り返しによって情報を持った光子が過去へ旅をするわけだが、残念ながら人そのものを送ることは出来ないので、電磁波として意識のみを送ったのだ。中継点となる多数の宇宙船が、シャトルとして、常に外辺惑星と地球を軸として回っていると言う環境が有った。
人の脳が発する脳波は微弱電波である。そして、電波と光は実は同一のものであり、周波数などによって区別されるだけで、実体は電磁波と呼ばれるものである。光であるから、タキロンによって過去に送れる。脳波を光として送るタキロンは遺伝子に影響を受けることが分かり、信長の遺伝子を持つ真人《まひと》の意識を信長の脳に送る実験が行われることになったと言う訳だ。
参考:タキロンとは
https://novel.daysneo.com/sp/works/episode/fe4ea1119462bda63a81df1e166bcfe4.html
執筆の狙い
真人の居た世界での歴史では、父・信秀や重臣達のまえで、親衛隊や常備軍、そしてその装備を披露した後に信秀が死んだ、事になっていた。うつけの振りをしていたのは、周辺の目を欺き、密かに軍備を整えていたから。そう知らしめる前に信秀が死んだ現実に、真人は慌てた。