羽
祖母に顔を見せるため、とにかく暑い中、久しぶりに実家へ帰る道すがらのことだった。
くたびれた半袖のシャツに、ベージュのハーフパンツを履いた六十代くらいの男性が、喫茶店の席に座ってゆで卵の殻を剥いている。そして数片の卵の殻が、日焼けの跡のない生白い太腿へ落ち、何の逡巡もなく床へ払いのけられたのをガラス越しに見たとき、私はふと痒みを覚えて、ひだりの腿のあたりをスカート越しに触った。ざらざらと鱗のような肌触りがあったが、その場でふくらはぎの半分くらいの丈があるスカートをたくし上げて直に触るわけにもいかず、気味が悪いと思ったまま、とりあえずなるべく近いコンビニのトイレを目指すことにした。
幸い、私の今の視界を一枚の絵画としたときの消失点のあたりに、コンビニが見えていて、そこへ向かって早足で歩く。歩いているうちに、汗が滲んでくるが、ハンカチを取り出して拭くよりも、早く自分に起こった異変を確かめる気持ちが勝って、そのままコンビニまで一目散に向かう。
コンビニの入店音と、店員のあいさつを背に、トイレの個室へ入り、スカートをめくると、先程布越しに触れたひだりの腿に卵の殻がいくつか付いていて、背筋が冷たくなるのを感じた。すると、殻がもぞもぞと動き出し、思わず指で摘んでみると、それは柔らかく白い羽だった。そのまま羽は面積を少しずつ増やして、左の腿全体が白い羽で包まれていき、やがて羽の増殖は反対の脚にもひろがっていった。
募金活動で渡される、色の着いた羽を身体に貼って遊んでいた幼い頃の記憶が無限に再生され、ついでに当時、一億円を一円ずつ募金すれば、身体中に羽を貼り付けて、鳥になれると私が言ったのを聞いて、夢がある、と母と笑っていた、それからすぐに亡くなる祖父の笑顔を思い出した。祖父が亡くなったあと、棺に白い花を親戚たちでたくさん入れたとき、祖父が鳥になったように見えた、幼い頃のあの別れの直前の光景を幻視した後に、カッカと熱かった頭がスッと急に冷たくなって、眠りに近い深い感覚に襲われた。奇妙に思ったが、これを救いの手と捉えて、苦し紛れに、おじいちゃん、と私は呼びかけた。私には祖父の他には祈る相手のツテもなく、そのまま、おじいちゃん助けて、おじいちゃん助けて、と藁にもすがる気持ちで祈り、目を閉じると、そのまま目が開かなくなった。そうしているうちに、どこか知らない場所で、私と同じくらいの深刻さで両手の指先を組み、唸る老人の姿が見えた。それが祖父なのかは、ぼやけていてわからないが、祖父は信心深いひとであったことには違いないので、私は、おじいちゃん助けて、おじいちゃん助けて、とその後も繰り返す。そして、両手の指先を組んで、一心不乱に何事かを口にしているその老人のリズムに合わせて、私もトイレの冷たい床に横たわって両手を擦り合わせて祈った。
どれくらいの時間が経ったのかはわからないが、トイレのドアをノックして、入ってきたコンビニ店員の中年の女性は、トイレの床に寝転んで汗だらけの私の姿を見て、えらく心配しているが、そんなことより、私はめくれていたスカートから覗く両脚を見て驚いた。両腿の羽は、いつのまにか消えていた。私は、ほーっと息をついた。それからスカートを元に戻し、服の表面をパンパンと払い、そしてハンカチで汗をできるだけ拭いて、個室を出た。それから、その間も心配しきりの店員に礼を言った。店員は、私に半ばもたれかかるくらいの勢いでこちらの背中をさすりながら言った。
「あんた娘によう似とるわ、しばらく会うてないで、娘が偶然来たんか思てな。そんで、入ってきたときからえらい顔色が悪いで、心配してたんや。タクシーほんまに呼ばんでええか? これ持っていき、ポカリ」
私は初め遠慮をした。しかし、一歩も引かない店員の親切に最後には礼を言い、ペットボトルを受け取って、今度また来ます、ありがとう、と言って店を出た。
外に出た途端、蝉の鳴く声が耳に入ってくる。おじいちゃんありがとう。おじいちゃんありがとう、と思わず小さく呟き、私はそのまま実家へ向かった。
チャイムを押し、母に迎えられ、洗面所で手を洗って、両手を使ってうがいをした後、台所を覗くと、母がお茶の準備をしてくれていた。ありがとう、と声をかけると、祖母はいつもはしない昼寝から先程起きたばかりだという。仏壇の部屋に先に行こうか、悩んでいると奥の部屋から祖母が出てくる。
また綺麗なったねえ、ほんまにべっぴんさんやねえと私に言った祖母は、昔から少しも変わらないままの笑顔だった。ほんまによう来てくれたねえ、後であいさつがてら仏壇にも手合わしたってな。きっとおじいさんも会いたがってるわ。うん、もちろん。と返事をしたあと、私は祖母や母に今日のことを話そうかと思ったが、笑われて終わりかもしれないと様子を見ることにした。
母に手土産の鳩サブレーを渡し、祖母と二人で、母の出してくれたよく冷えたお茶を飲みながら、いくつか世間話をした。会話が途切れたので、祖父の話をしようか迷ったが、私同様、さほど信心深い人でない祖母に話すかを悩んでいると、向こうが先に口を開いた。
「そや、あんな、さっき寝てたら、おじいさんが夢にでてきてな、さきちゃんを頼むて。もうさきちゃんも、立派な大人になったんに。おじいさんも心配性やねえ。あたしの心配をせんかい、と思たわ」
私が何も言えないでいる一方で、祖母は、言いたいことを言ってすっきりしたのか、菓子盆からとった鳩サブレーの粉をぼろぼろとこぼしながら食べている。そしてそれに対して母が、「もう、もっとゆっくり食べて」と呆れている。それを見るにつけ、生きている人間とは、こうやって同じものを食べることも、会話も出来るのに、死んだ人とは、もう何もできないのだということをふと寂しく思った。互いに何を思っていようと、もう私たちは、祈りを通してしか繋がることができない。無数の羽のようなもので、私たちは隔てられてしまっている。私はキッチンに行き、皿を取り、黄色い缶から鳩サブレーを数枚取り出すと、皿に乗せ、せめてもと、仏壇のある部屋へと向かった。
執筆の狙い
"私"という主人公をキャラクターとして立てないようにすること。そうすることで、起承の部分の展開の不可解さに注目してもらえるかと思いました。最初は散文詩として書いています。