霧中の撤退作戦
【アッツ島 玉砕】
「キスカ島に取り残された日本兵5,000人を救出せよ」
それが、第一水雷戦隊に与えられた命令だった。
昭和十七年、日本軍はアメリカ合衆国の領土の一部であるアリューシャン列島の西の端、アッツ島とキスカ島を占領した。米ソの連絡を遮断し、アラスカ攻略の足がかりとするためである。
昭和十八年、米軍は国家の威信をかけて、領土(アッツ島とキスカ島)を奪還をねらった。
位置的には、アッツ島よりもキスカ島の方がアメリカ本土に近いため、米軍はまず、キスカ島に上陸してくるものと想定し、大日本帝国の陸海軍、合わせて5,000人以上の守備隊がキスカ島に配置されていた。
しかし、米軍は意外にも、先にアッツ島に上陸してきたのだった。
アッツ島の日本軍守備隊兵力は、キスカ島の半分以下である2,400人。
5月12日。
米軍11,000人がアリューシャン列島で頻繁に発生する霧に紛れ、アッツ島に上陸。
日本軍守備隊との激しい戦いが繰り広げられた。
アッツ島に米軍上陸との報を受けた日本陸軍司令部は、アッツ島守備隊に向けて、以下の内容を無線で伝えた。
「全力をもって敵を撃退すべし。隊長以下の健闘を切に祈念す。海軍に対しては直ちに出動し、敵艦隊を撃滅するよう要求中」
アッツ島守備隊は善戦した。
しかし、多勢に無勢、米軍兵力は日本軍の4倍以上であった。
日本軍アッツ島守備隊は、山の上へと後退を余儀なくされる。
隊長は北方軍司令部に、武器弾薬の補給、及び一個大隊の増援を要求した。
5月20日。
大本営は北方軍司令部に対し、アッツ島増援計画の中止を決定。
つまり、アッツ島の日本軍守備隊は見捨てられることとなったのである。
理由は以下の通り。
「北方軍への増援は必要とは感じるが、海軍の協力が必要である。現在、海軍は太平洋南東方面に戦力を割いており、北方の反撃に協力することができない」
参謀次長自身が、東京の大本営から札幌の北方軍司令部を直々に訪れての通達であった。
それを受け、札幌の北方軍司令部長官は、アッツ島守備隊に向けて以下の内容を打電した。
「大本営の決定により、本官の切望していた救援作戦は不可能となった。本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、深く陳謝す」
大本営の命令で北極に近いアリューシャン列島まで進駐したというのに、今や、その大本営から見捨てられたのであった。
アッツ島守備隊隊長は次のように返信した。
「戦闘方針を持久戦から決戦へと転換し、なし得る限りの損害を米軍に与える。将兵一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」
北方軍司令部では、その悲痛な電文に皆、涙した。
そして、次のように返信した。
「アッツ島守備隊総員の力をもって、敵兵員の撃滅を図り、最期に至らば潔く玉砕し、皇軍軍人精神の精華を発揮する覚悟を望む」
大日本帝国史上、初の「玉砕」命令であった。
見捨てられたアッツ島での激戦は続いた。
米軍の砲爆撃は極めて正確であり、日本軍の陣地すべてが破壊された。
5月29日。
アッツ島日本軍守備隊は、最期の突撃準備に入った。
隊長は東京の大本営に宛て、最後の電報を打つ。
内容は以下の通り。
「我が部隊はほぼ壊滅。生存者150名。陣地の大部分を喪失せり。これより、敵に最後の鉄槌を下し、これを殲滅し、皇軍の真価を発揮する。野戦病院に収容中の負傷者については、軽症者は自らを処理させる。重傷者は軍医をもって処理させる。非戦闘員は武装し後方から支援させる。生きて捕虜となることのないよう覚悟させた。この後、無線機と暗号書を焼却す」
今夜もこの地域ならではの深い霧が発生している。
最期の突撃だ。
命令に従い、玉砕を敢行。
弾薬を使い切っていた兵士も多い。夜霧に紛れての銃剣突撃である。
隊長は右手に軍刀、左手に国旗を持ち、先頭に立った。
「突撃!」
皆、どこかしらを負傷しており、足を引きずりながら、膝をつきながらの突撃となった。
青ざめた表情の日本兵たちが、集団で向かってきていることに気付いた米兵。
身の毛がよだつ思いで米兵は隊長を狙撃する。しかし、何度も立ち上がり這うようにこちらに向かってくる。
米兵は、拡声器を用いて
「コーサンセイ! コーサンセイ!」
と呼びかけるも、日本兵たちに降参する様子は見られなかった。
米兵は機関銃を掃射。
日本兵は次々に倒れていった。
アッツ島守備隊は大本営からの命令通り、玉砕したのであった。
5月30日。
大本営発表。
「アッツ島守備隊は、極めて困難なる状況下において、一兵の増援も要求せず、一発の弾薬の補給をも願わず、優勢なる敵兵に対して皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。通信は途絶。全員玉砕せるものと認む。傷病にて攻撃参加し得ざる者は、これに先立ち自決せり」
大本営発表にて、初めて「玉砕」という表現が使われた。
なお、玉砕をより美化するために、守備隊は援軍の要請をしなかったことにされたのであった。
* * * * * * *
【キスカ島 撤退作戦】
6月11日。
アッツ島が陥落したため、隣のキスカ島にも米軍が上陸してくるのは明らかであった。
キスカ島の日本軍守備隊は、5,000人以上いるとはいえ、補給や援軍なしではアッツ島の二の舞になるのは必至である。
海軍軍令部は考えた。
アッツ島を見捨ててしまったこともあり、キスカ島の日本兵は何とか助け出したい。
海軍には敵を撃滅するだけの艦隊を派遣する余力はなかったが、守備隊の救出だけであれば協力可能かも知れない。
こうして、日本海軍は名誉をかけてキスカ島撤退作戦を行うことを決定した。
キスカ島の隣のアッツ島は、すでに米軍に占領されている。
近づけば容易に発見され、攻撃を受けてしまうだろう。
まずはキスカ島に第一潜水戦隊の潜水艦を近づけ、夜間に救出を行うこととなった。
負傷兵を中心に、800人の救出に成功するも、米軍の艦艇やレーダーに発見されて攻撃を受け、日本軍は潜水艦3隻を失った。
敵に制海権が握られている中の潜水艦作戦では被害が大きくなってしまう。
この方法では日本軍の潜水艦の方が先に全滅してしまうだろう。
そこで、駆逐艦などの高速艦艇を用いた救出作戦が立案された。
この海域は頻繁に霧が発生しているので、それを活用し、濃霧に紛れて救出作戦を行うというものであった。
これまでの日本軍は、敵から逃げることを恥としていた。
しかし、アッツ島では仲間を見殺しにしてしまっている。
なんとか、キスカ島の仲間たちは助け出したい。
アッツ島を守ることができなかった後ろめたさもあり、キスカ島の撤退作戦は日本海軍の名にかけて、絶対に成功させたいと考えていた。
かくして、キスカ島からの霧中の撤退作戦は、着々と進められた。
霧の中の航海では、味方の艦同士での衝突事故が起こりやすい。
また、当時の日本海軍の巡洋艦や駆逐艦には、レーダーが付いていない艦がほとんどであった。
有視界航行、つまりは肉眼で確認しながらの航海しか方法がなかったのである。
しかし、最新の駆逐艦「島風」には、レーダーが搭載されていた。
これを艦隊に加えることで、濃霧の中の艦隊航行を行える見込みが立った。
では、レーダーがない他の艦艇は、どうすれば衝突せずに濃霧を航行できるだろうか。
各艦艇は、水に浮かぶ目印を艦尾から引きながら航海することとした。
後ろの艦艇は、前の艦艇が引く目印を見失わないように航海することで、はぐれたり衝突したりせずに、一定の間隔で縦列航海ができるというわけだ。
万が一、米軍に発見された場合に備え、煙突の偽装も行うこととした。
日本軍の駆逐艦は煙突が3本立っている。
一方、米軍の駆逐艦の煙突は2本である。
出撃する日本軍の駆逐艦は、煙突のうち1本を白く塗り、霧に紛れて見えなくなるようにした。
こうすることで、煙突が2本の米軍駆逐艦だと敵に誤認させることができるかもしれない。
この作戦は、キスカ島周辺に濃霧が発生していることが条件となる。
キスカ島周辺の天候調査を行うための潜水艦隊が出航。
続いて、千島列島の北の端近くにある幌筵島から、救出作戦を行う第一水雷戦隊が出航した。
7月12日。
Xデー。作戦決行日である。
なんと、キスカ島周辺の海域は晴れているではないか!
これ以上近づくと、敵の航空機に発見され、空襲を受けてしまう。
第一水雷戦隊の司令はこれまでの戦いで、艦隊は空からの攻撃に弱いことを十分すぎるほど知っていた。
救出作戦は翌日に延期となった。
7月13日。
霧は発生しなかった。
このまま突入するか、それとも、いったん下がって霧の発生を待つか。
決断しなくてはいけない。
司令は、翌日への延期を決定した。
7月14日。
やはり、霧が発生しない。
またもキスカ島への突入を中止する。
7月15日。
霧が多いはずのアリューシャン列島に、どういうわけだか霧が発生しない。
さすがに艦隊の燃料の不安も出てきた。
霧がないまま救出作戦を行うのか、それとも、千島列島まで引き返すのか。
第一水雷戦隊司令官は決断した。
「帰ればまた来られるからな」
艦隊はキスカ島救出作戦を行わず、千島列島の幌筵島へと帰投した。
大本営は激怒した。
「なぜ突入しなかった! 今からでもキスカ島に突入せよ!」
その頃、激戦地であった南太平洋では、第二水雷戦隊と第三水雷戦隊が、それぞれ敵に突撃し、旗艦もろとも沈没、司令官は戦死していた。
それに比べて、第一水雷戦隊の司令官はやる気がないと非難された。
また、8月になれば霧の発生確率が下がり、米軍がキスカ島に上陸してくることが予想された。
米軍が上陸してしまえば、守備隊の救出は絶望的になる。
なんとしても7月中に実行しなくてはいけない。
しかし、第一水雷戦隊の司令はそんな批判を気にすることなく、艦の舷側から釣り糸を垂らし、キスカ島周辺での濃霧の天気予報が出るのを待ち続けた。
千島列島、幌筵島の気象台は、7月25日以降、キスカ島周辺で濃霧が発生するとの予報を出した。
第一水雷戦隊は再び、キスカ島に向けて出航。
ただし、旗艦には第5艦隊司令部の将校たちも同乗した。
第一水雷戦隊の司令が再び突入中止を行うかもしれないため、その場合の督戦のためである。
アリューシャン列島に近づくにつれ、霧はどんどん濃くなっていった。
霧中標的すら見えないくらいの濃霧だ。
ついに、衝突事故が起きてしまう。
損傷がひどい艦艇が数隻、引き返すこととなった。
7月26日。
濃霧の中、米軍の戦艦のレーダーが、キスカ島周辺で日本軍の艦艇を捕捉。
米軍は攻撃を開始。
米軍の戦艦や巡洋艦は、レーダーで捕捉した日本艦艇に向けて、36cm砲弾118発、20cm砲弾487発を発射。
レーダーからは日本軍艦艇の反応が消えた。
米軍の提督は、日本艦隊を撃滅したものと判断、キスカ島周辺で警戒に当たっていた全艦艇を、燃料や弾薬の補給のために、一時撤退させた。
日本軍は、この時の米軍の無線を傍受していたが、同士討ちをやっているのだろう、と思っていた。
米軍がレーダーで捕捉したものは誤認であった。つまり、そこに日本軍はいなかったのである。
米軍は、大量の弾薬を無駄遣いしたとも知らず、勝利したと確信し、海域から離れたのであった。
一方、日本軍の方では、Xデーは7月29日に決められた。
しかし、前日の28日に、またも霧が晴れてしまう。
司令官は決断を迫られる。
艦隊の燃料の問題もあり、延期することはできない。
予定通り、7月29日にキスカ湾に突入することとなった。
7月29日正午。
艦隊はキスカ湾に突入。
運よく、濃霧が発生。
旗艦は湾内に米軍艦艇を発見、濃霧の中、魚雷を発射した。
魚雷は全弾命中。
しかし、後になって分かったことだが、湾内に米軍艦艇は1隻もいなかった。
日本軍は霧の中の小島を敵艦だと誤認し、魚雷攻撃を行っていたのだった。
午後1時。
霧はだんだんと薄くなり、視界が開けてきた。
この機会を逃してはいけない。
キスカ島の日本軍守備隊全員が、湾岸に招集された。
日本兵は5,000人以上いる。
大発と呼ばれる小型の舟艇に、乗れるだけの兵士を乗せて、湾内にいる駆逐艦へとピストン輸送する。
兵士たちには、すべての武器を海中投棄するよう命令が出た。
兵士たちに動揺が起きる。
兵士にとって銃は、命も同然である。
兵士一人一人に与えられている三八式歩兵銃には菊の御紋が刻まれている。
銃は天皇陛下から賜ったものなのだ。
その銃を海中投棄するというのは帝国軍人としてなかなかできることではなかった。
しかし、守備隊の隊長は武器の投棄を厳命。
兵士たちはそれに従った。
こうして身軽になった守備隊は、短時間での移乗を行うことに成功。
5,000人以上いた兵士たちは、わずか55分で駆逐艦への移乗を完了したのである。
こうして、キスカ島は無人になった。
最後に、兵士の輸送に使った舟艇をどうするか、再び決断の時が来た。
この舟艇を引き上げて駆逐艦に乗せるとなると、それなりに時間がかかる。
今のところ、米軍には発見されていないが、いつまでも湾内にいれば、いずれは発見されてしまうだろう。
司令官は決断した。
兵士の移乗に使った舟艇すべてを海中投棄した。
ただちに、全艦艇が全速力にて湾外へと脱出。
同時に、深い霧が発生してきた。
なんという幸運であろう。
敵航空機に発見されることなく、濃霧に紛れて敵の哨戒圏から脱することに成功した。
艦隊には再び危機が迫る。
霧の中、至近距離で米軍の潜水艦と遭遇したのだ。
万事休す。
しかし、米軍潜水艦はそのまま素通りしていった。
偽装工作が成功したのであろう。
霧中の日本艦隊は攻撃されることはなかった。
7月30日。
米軍艦隊の方では、燃料や弾薬の補給を終え、再びキスカ島を包囲していた。
一方、日本軍の第一水雷戦隊はすでに守備隊全員を乗せ、キスカ島海域から既に離れていた。
米軍の偵察機がキスカ島上空を飛行。
米軍偵察機パイロットは次のように報告した。
「対空砲撃あり。通信所は移転。小兵力移動。」
キスカ島には誰もいないはずである。
米軍偵察機はいったい何を見たのであろうか。
これも、後日分かったことであるが、対空砲撃だと思ったものは、自分たちの空襲による爆炎であった。
通信所の移転は誤認であった。
小兵力はキツネであった。
米軍は、日本軍の完全撤退を、まったく気付いていなかったのである。
8月1日。
第一水雷戦隊は千島列島北部、幌筵島に帰港。
天候調査のために出ていた潜水艦隊も全艦帰港した。
こうして、日本軍第一水雷戦隊によるキスカ島撤退作戦は成功した。
8月15日。
米軍は、キスカ島への上陸を開始。
アッツ島よりも守備隊が多いと見た米軍は、34,000人もの兵員を上陸させた。
キスカ島の南から上陸すると見せかけ、日本軍を南に移動させた後、北から本隊が上陸するという作戦である。
戦艦3隻、巡洋艦2隻がキスカ島に向けて激しい艦砲射撃を行った。
しかし、キスカ島は無人。
誰一人として残っていない。
米兵は続々と上陸していく。
アッツ島では日本軍は激しい抵抗を見せた。
このキスカ島ではアッツ島以上の抵抗があるのではないかと米軍は予想していた。
しかし、上陸して、p日本兵の姿は見えず、攻撃もなかった。
米兵は一匹の軍用犬を発見。
この犬を追えば日本兵がいるかもしれない。
そう思って追跡すると、なんと、犬は地雷原へと入っていき、米兵もろとも爆死した。
他にも数頭の軍用犬は発見したが、日本兵の姿はまったく見えなかった。
米兵たちの緊張は極限まで達した。
どこかで大きな物音がし、激しい銃声が聞こえた。
ついに日本兵が現れた!
米兵たちは見えない敵への恐怖に襲われ、夢中で銃を乱射した。
しかし、倒れているのは仲間の米兵ばかりである。
いくら探しても日本兵の姿は見えない。
こうして、米軍は同士討ちで122人が死亡、191人が行方不明となった。
また、キスカ湾に仕掛けた機雷に米軍駆逐艦が接触し、大破した。
上陸した米兵は、地下に日本軍守備隊の司令部を発見。
しかし、そこにも誰もいなかった。
星条旗で作られた座布団が敷かれており、黒板には、
「おまえたちは大統領のバカげた命令に踊らされている」
と書かれていた。
米軍はやっと、キスカ島がもぬけの殻になっていることを理解した。
厳重に海上封鎖を行っていたにもかかわらず、いつ、日本軍が撤退したのか、まるで分からなかった。
その後もキスカ島の調査が続けられた。
ある建物の看板に書かれた日本語を解読した語学将校は、叫び声を上げる。
看板にはこう書いてあったからだ。
『ペスト患者収容所』
ペストは治療を行わなければ、60~90%の確率で死に至る伝染病。
上陸した米兵はパニックに陥った。
上陸部隊はサンフランシスコに向けて、大量のペスト用血清をキスカ島に送るよう緊急要請。
米兵たちは自分がペストに感染していないか、毎日脅えることとなった。
実はこの看板は、撤退する際に日本兵が書いたいたずらである。
ちなみに、これをいたずらと気づかずに翻訳して部隊をパニックに陥らせた将校は、戦後、日本文学を研究する教授となった。
キスカ島に残された軍用犬は、1匹は地雷によって死亡したが、生き残った犬たちはその後、米軍によって飼育され、子犬を産んだという。
戦後、米軍の軍事評論家はキスカ島上陸作戦を、皮肉を込めてこう評した。
「史上最大の最も実践的な上陸演習」
「米軍史上最悪の軍事訓練」
敵から「逃げる」ことを恥としていた大日本帝国ではあったが、キスカ島撤退作戦は、奇跡に恵まれ、無事に「逃げる」ことに成功した希少な作戦となった。
一回目の作戦で第一水雷戦隊司令が引き返しを決定した時、大本営は敵前逃亡であると激しく非難したが、あの時突入していれば付近に米軍の艦隊がいたため、日本艦隊は全滅していたものと思われる。
「逃げた」ことで、後の「逃げる」を成功させたとも言えるだろう。
この作戦に関わった将兵たちは戦後、このことを振り返り、運よく霧が発生し、兵員の移乗の時だけ霧が晴れたのは天佑神助としか思えなかった、と語っている。
アッツ島で玉砕していった英霊たちの加護があったのかもしれない。
< 了 >
執筆の狙い
約7200字のドキュメンタリーです。
アッツ島とキスカ島の位置については、ぜひGoogleマップなどで検索してみてください。
こんなところまで日本軍が侵攻していたということに驚きです。