ディープウォーター・ホライズン(深海の夜明け)
1
【親愛なるお父さんへ
ジョディとの仲を許して下さい。
ぼくは心から真剣です、本気です。
ぼくの年齢にありがちな気の迷いや、生理的なもので目をふさがれているわけではありません。
これが愛なら、神が与えたもうた最高の賜物です。
ジョディのことを思うと、幸福感でめまいがし、ドキドキして声が震えます。
愛しくて、会いたくて、彼女を身近に感じていたくて、気が狂いそうになります。
でも、ぼくはだからと言って、勉学やクラブをおろそかにする気はありません。
今まで通り、いや、更に努力します。
お父さんを失望させないように、ぼくは自分を鞭打つことができます。
これは約束します。
ですから、どうかジョディと離れろと言わないでください。
あなたの息子ディックより】
「ったく」
ブライアン・スミスは眉をしかめで耳の後ろをガリガリとかいた。
主任技師で、この4人部屋の室長だ。
「なになに?、手紙(私用メール)のやり取り?」
ラリー・ジェフリーが操業日報そっちのけで、興味ありげに覗きこんでくる。
若輩者で経験も浅いが、仕事に対する意欲は高い。
ブライアンは内心、こいつはモノになりそうだと思っている。
「うん。息子なんだ。高1でさ、難しい年頃。スカイプじゃ言えないようなことは手紙(私用メ-ル)に書いてくる」
「恋か?」一番年長のマイケル・スタッフォードがニヤリとする。「思春期の熱病だな」
「そんなところだ」
「もちろん、応援してあげてるんでしょ?」
年の近いラリーは息子のディックの味方だ。
「いや、ちょっとレベルの高いガッコに入れたんでさ、今から女の子にイレ込まれちゃたまらんよ。おれは働きながら技師免許を取ったんで、息子にはそんな思いをさせたくない。親の愛情さ」
「そうそう。地獄の沙汰も免許次第だ。給与もね」
始業前のメールチェックをしていたイサオ・タカノが振り向いた。
小柄で敏捷な日本人だ。
「そういうこと。さ、ビュッフェに行こう。悪いが朝飯は急いで食ってくれ、今日は忙しいぞ」
2
この「ディープウォーター・ホライズン(深海の夜明け)石油掘削基地」は、ルイジアナ州に面したメキシコ湾上約80キロの海上に、半潜水式(セミサブマースブル)で浮かんでいる。
台船をリモート・コントロールで操り、海面下1,522メートルの海底を探って、自動で油脈を探し出す器用さを持っていた。
リグと呼ばれる海洋掘削装置乗員126人は、4週間勤務・4週間休暇のローティーションで1日12時間(6:00~18:00)勤務をこなす。
彼らの技能は大体「電気系」「機械系」「生産系」に分かれるが、ともに危険・きつい・恐怖の3kだ。
恐怖というのは、トランス・オーシャン社のこの施設は、関係するエンジニアの間ではすでに「悪夢」と呼ばれていたからだ。
親会社はかつてのイギリス国営企業「ブリティッシュ・ペトロリアム社(BP)」だが、民営化の今は、かの「東インド会社」なみの冷酷な貪欲さを隠さない。
削減に次ぐ削減の経費は、BP幹部の楽観とは裏腹に、この基地を針金のように脆いものに仕上げていた。
「ったく、ここの建造はコーリアだって言うぜ。作れば事故のオンパレード。おれたち、墓標の中で働いてるのか?」
マイケル・スタッフォードがぼやく。
この業界が長い彼は、めったなことではグチは言わないが、一旦言うとそれは不吉な予言になる。
「え?怖っ、ホントっすか?」
初めて聞く話にラリー・ジェフリーが、あっという間に及び腰になる。
新米だけに、まだ、度胸がすわっていないのだ。
「ああ、現代重工業だ。受注にワイロ出す分、手抜きをする。だから、目のある企業は相手にしない。あ~あ、日本製だったらなぁ。イサオ、なんとかしてくれ」
話を振られて、イサオ・タカノが如才なく、人のいい顔をほころばす。
「う~ん、おれが総理大臣だったら、こんなの軽くプレゼントしちゃうんだけどね。ここの生活物資といっしょにさぁ」
「そりゃ、いい。ジンを10年分たのむワ」
「あはっ。ぼくにはいい子を。まだ、彼女いないんだ」
他愛のない冗談に場がなごんだ。
3
マイケルはこのところ、いつも浮かない顔をしている。
「ど~した?奥さんにいよいよ離婚宣言されたか?その年で独り身に逆戻りってんじゃツライよな」
ブライアン・スミスに肩を叩かれて、ビクッと反応した。
「えっ、あ?ああ、主任。ど~もヤな感じが…。この間のガス(炭化水素ガス)突出ね、センタリング装置(セントラライザー)をちゃんと定数設置してねえんじゃないかって」
「いや、それはないはずだ。危険だしリスクが多すぎだよ。センタリングを減らして、掘削鋼管(ドリル・パイプ)とケ-シング(掘削管を保護するための鋼管)の位置がずれると、補強のセメントにムラができて弱くなってしまう。その確認のために今日、セメントボンド検層員が来ることになってるだろ?」
「ええ。でもね、主任。…あの、ね。え~と、アポカリプティック・サウンドって知ってます?」
「終末音響だな。7人の天使が鳴らす、世界終焉のラッパだ。黙示録に記載があるけどなんで?」
マイケル・スタッフォードは重く声をひそめる。
「聞こえるんですよ。掘削管の中から。微かだけど、あんな音聞いたことねえ。おれはあちこち回ってるからわかるんです。まちがいなく第7の天使の吹き鳴らすラッパの音だ。ここはきっとおしまいだ」
信じがたい話に、ブライアンは少し笑う。
「まさか…。社内ミーティングには出したんだろ」
「ええ、いち度はね。でも、次からはBPのお偉いさんが、デンと上座に座りましたよ」
口封じのための無言の圧力は、ありそうなことだ。
「う~ん。だけどマイケル、頼むからラリーには言うな。あいつ、コリアン施工ってことでビビってる。ミスや手抜きがあったとしても、技術力でカバーできるんだ。疑心暗鬼が一番いけない。おれたち4人はチームだ。あんたの話は一応、おれからも報告しとく。だから、余計な心配はしないでくれ」
マイケル・スタッフォードがうなづき、少し元気になって持ち場に向かって去った。
ブライアンはセメントボンド検層員を迎えるために階上に上がる。
高さ40メートル、全長112メートルの甲板の片隅には、もう、ヘリが到着していた。
「やぁ、ご苦労さん。ブライアン・スミスです、よろしく。早速案内するよ」
なごやかに握手を交わして、ヘリ・ポートから基部に降りるエレベータに向かう。
が、なぜか数人の人影がある。
いやな予感がジンワリ広がった。
4
「おい。そこにいるのは検層員どもだな?」
横柄な物言いはBPからの目付役、ドナルド・キッシンジャーだ。
すべての技師を束ねる立場で、いわば雲の上の存在だ。
彼らは急いで笑顔を作り、慇懃に立ち止った。
「帰るんだ。おまえらは必要ない」
いきなり、耳を疑うご挨拶だ。
「なんですって?なにをいうんです?」
ブライアンは顔色を変え、検層員たちは世にも怪訝な顔をした。
「こまかなミスが重なって、操業が6週間も遅れとる。どれだけの損失と思う?」
「お言葉ですが、必要な検査です」
検層員の主任格が急いで反論する。
守銭奴BPの無理難題はいつものことだが、これでは事故を招きかねない。
「現在の工法は掘削鋼管に、つまり、ここにベンナイトやバライトによって比重や粘度を調節した『泥水』を循環させ、掘りクズを地上にまで上げるわけですが、その補強のためのセメンチングの出来不出来により、油井自体の強弱も決定されてしまうんです。地層だって安定しているとばかりは限らないですから。そして、もし…」
キッシンジャーが腰に手を当て、上体をそらしてさえぎる。
「ほう?わたしに説教する気かね。…猫ちゃんにネズミ取りを教える(釈迦に説法)おまえは、思うに利口ではないらしい」
ソフトだが、怒りを含んだ言葉とまなざしにねめつけられて、検層員はおどおどと口をつぐんだ。
「検査はたった1日です」
ブライアン・スミスが、かばうように身を乗り出す。
「音波によって膠着度合い見ます。それをセメント・ボンド・ロギングといいますが、それにより我々はケーシングと地層のセメント状態を知ることができるんです」
「たった1日だと?1日ごとに100万ドルの損失だぞ。セメントがおまえらの思い通りに膠着していなかったら、ど~する気だ?」
「もちろん、早急に是正します」
キッシンジャーは頭を振った。
処置なし、とその顔が言っている。
「また、生産が遅れるということだな、クズが。大丈夫。膠着状態は良好だよ。地層も安定している。もし、不具合が生じるなら、おまえらの技術不足ということになる。まさか、いいかげんな作業をしていたとは言わんだろ~な?あ?ブライアン・スミス技術主任!」
「作業は責任を持って終えました。技術としては完璧でしょう。しかしながら、相手は自然です。人類が長いこと手をつけられなかった海底層です」
「だから、なんだ?たかだか、海面下5,500メートルで深海層か?今は10,700メートルを掘る時代だ。いいか、セメントボンド検層は行わなくていい。完成度はたった今、おまえらが保証したんだからな。なにかあったら、おまえらの責任だ。ちっ、自然なんかのせいにしおって!消えろ」
吐き捨ててドナルド・キッシンジャーは、イライラと去って行った。
取り巻きたちもそれに従う。
残されたのは重苦しい沈黙だった。
だれもがコストパフォ-マンスばかり気にして、安全性をおろそかにしているのだ。
セメントボンド検層員が消え入りそうな声で謝罪する。
「あ…あの、すみません。…お力になれなくて」
「いや、いいんだ。あれ以上言ってたら、きみは職場を失っていた。大丈夫。おれたちは技術者集団だ。困難を克服するのは慣れている。じゃじゃ馬馴らしはお手の物さ」
5
【最愛の我が息子ディックへ
おまえのジョディへの気持はよくわかる。
だが、お父さんもお母さんも、おまえに勉学に励んでもらいたいと思っている。
勉強というものは、やらなくてはいけない時期があるんだ。
もし、怠けてしまって後から取り戻そうとしても、それは大きな困難が伴うし、なによりも効率的でない。
おまえがジョディと付き合うことによって、おしゃべりだ、プレゼントだ、デートだと、子供がおもちゃに執着するように、かまけてしまわないかと心配しているんだよ。
髪型や服、持ち物に時間をかけたり、気を配りすぎたり、浪費したりすることも価値的でない。
それはわかるね?
だが、まぁ、そうは言うものの、たしかにおまえは考え深い子だ。
それで妥協案を考えた。
妥協というのはお互いの主張の良いところを持ち寄って、さらに良い結論を見出す行為だ。
お父さんは2週間後に家に帰るから、ジョディに会ってみたいと思っている。
おまえが神に感謝するほどホレた女の子なら、おまえをさらなる高みに押し上げてくれるかも知れない。
ダンテのヴェアトリーチェのようにね。
ジョディとよく話して、早めにスケジュールを伝えておくれ。
頼んだよ。
お父さんより】
息子のディックが狂喜して彼女に連絡する姿が浮かんで、ブライアン・スミスは深い息をついた。
思えば、妻セシルに出合った時の自分も、今のディックそのままだった気がする。
マイケル・スタッフォードの言うところの熱病だ。
大学を卒業して社会人になったばかりのころだったが、週末が楽しみで楽しみで、月曜ほど呪わしい曜日はなかった。
清潔に気を配り、髪型、服装、立ち居振る舞いも男らしく洗練されて見えるように励んだものだ。
ある意味、大いに成長した部分もあるが、滑稽で無駄な努力も多くした気がする。
その自分が今は父親になり、恋をした息子にあれこれ注文を付けているとは…。
「マイケル、昔を覚えているかい?おれの息子や、ラリーぐらいだったころのこと」
すでにベッドにもぐりこんでいた彼が振り向く。
「いや、おれは忘れちまいましたよ。でも、そういや、気の合う女の子ともずいぶん付き合ったな。みんないい子だった。おれぐらいの年になると、過去はみんな美しい」
「へ~、意外とロマンティストなんですね」
ラリーがクスクスと笑う。
マイケルが飛び起きて、ゲンコツを食らわす。
「おめえも本にばっかしがみついていねえで、恋でもしろ、バカ。リコウになる一番の近道だ」
ラリー・ジェフリーは台船の操船免許を取りたくて、このところ参考書を手放さない。
若いなりに、自分の可能性を追求しているようだ。
内心、マイケルはそんな彼がかわいくてたまらないらしい。
「ラリー。マイケルオジさんの意見は良く聞いとけよ。少年老い易く、恋成り難しだ」
ブライアンの言葉にマイケルは大げさに仏頂面をする。
「マイケルお兄さんと言って欲しいですね。よけいフケこんじまう」
6
家庭のことは、まぁ、順調に推移しそうだが、この「ディープウォーター・ホライズン」はどうなるのだろう?
ブライアンの気がかりも、結局そこに落ち着く。
ここで一番年長のマイケルが、その経験によりすでに警鐘を鳴らしている。
加えて、BPのドナルド・キッシンジャーの、あの態度だ。
「主任。今ここの構造図を見ていたんですがね」
なにやら頭を抱えて机に向かっていたイサオ・タカノが声をかけて来た。
「お習(さら)いですけど、ここは掘削鋼管(ドリル・パイプ)の先っちょに切削ツール(ドリル・ビット)がくっついて、ビットから噴出する流体で掘削クズを回収するマリン・ライザー式掘削ですよね?」
「うん、そうだよ」
「甲板上にはロードワークス(巻き上げ機)が鎮座してて、櫓にはトップドライブシステム(ドリル・ビット回転機構)がある。すぐ下には泥水循環のマッドポンプがあって、坑井壁の崩壊や、石油や天然ガスの爆発的流出(キック)を防いでいますよね?」
「そういうことだ」
「で、ケーシングとセメントの状態確認もしないこの基地は、最終的セーフティの油井上部(ウエルヘッド)の噴出防止装置(BOP)は完全なんでしょうかね?だって、これもウワサなんですが、どうも最深部はプロダクション・ケーシング(採油管として入れる最終のもの)を1本入れたらしい。でも、単管だ。普通は二重管でしょ。主任」
ちょっと返事に詰まる。
「え?いや、それはなんとも言えないな。単体の工法もあるからね。ただ、それじゃ軽くて浮き上がってしまう可能性があるから重い金属蓋(ロックダウン・スリーブ)を油井口のシールに着けるかするんだ」
「そう。それなんですが、妙な話、その金属蓋が未だについていないって」
考えられないことだ。
それでは噴出防止装置の意味をなさない。
「いや、めったなことは言うなよ。おれたちは建設時の作業工程をすべて目にできる立場じゃないからね。未着装は上層部の指示待ちってこともある。方針がコロコロ変わったから」
「でも、主任。それだけじゃないんです。他のチームが言ってるんですが、運び込まれたセンタリング設定装置(セントラライザー)の数が、半分、あるいはそれ以下じゃないかって…」
ブライアンは今度こそ冷や汗の出る気がした。
経験豊富なマイケル・スタッフォードも同じことを指摘したのだ。
掘削管とケーシングを確実に位置設定するためには、少なくとも21機が必要になる。
それが半分以下…?
イサオ・タカノは人好きのするタイプで、あちこちに交友も多い。
表面に出にくい情報も小耳にはさむことができるのだ。
「ね?おれの言った通りでしょ。悪くしたら、ここはソドムとゴモラみたいに焼きつくされちまう…」
マイケルの言葉が最後のダメ出しだ。
それでも、こうした話は尾ひれがついて一人歩きしがちだ。
楽観に流れたくはないが、枯れ尾花におびえるのは馬鹿げている。
とにかくブライアンは立場上、みんなの不安を解消しなくてはいけない。
ことによったらBPにお伺いを立てるのだ。
だが、あのドナルド・キッシンジャーが、素直に現状をしゃべるとは思えない。
「じゃあ、時間をとって、掘削管の不審な音を確認に行こう。今日が4月18日だから、2日後だ。イサオやマイケルの言うようなことが事実だとしたら、現実問題として悪魔の哄笑を聞くことになる。石油や天然ガスの突出はさけられないだろう。地上暴噴(サーフェスブローアウト)確実だ」
7
4月20日、彼らは12時間勤務の後に食事を済ませてから、25層の甲板下にある基部に降りて行った。
ここでは海底に伸びる掘削鋼管を目視できるのだ。
24時間操業だから、作業員たちが忙しく立ち働いている。
「やぁ、マイク。邪魔してすまないね」
気さくに声をかけながら、4人が掘削管に近づく。
顔の効く古参のマイケルを見て、マイク・ティーガンがどうぞどうぞ、という身振りをする。
「ほら、主任。やっぱり音がしている」
耳を近づけると微かだが、きしむような、引きつるような、確かにヘタくそなラッパのような音が断続的に伝わって来る。
それをアポカリプティック・サウンド(終末音響)とは言いたくないが、かなり薄気味の悪い音だ。
「おれの長い経験で知る限り、こんな音のする管はない。どう考えても掘削管と保護管(ケーシング)がずれてるんだ」
「……」
ブライアンもとっさに言葉が出ない。
イサオは唖然と突っ立ったままだし、ラリーは女のように口を押さえている。
事態は予想以上に深刻かもしれない。
このぶんでは恐らく、セメンチングは上手くいっていないか、失敗だ。
こうした場合、通常はケーシングに穴を開け、再びセメントを流し込む作業が必須なのだ。
もちろん、掘削鋼管とのズレも解消しなくてはいけない。
「明日、一番でBPに報告する。こんな時間にメールしても、どうせ酒びたりで見もしないだろうからな。マイク、ありがとう。ちょっと放置できない状況だよ」
「あ、それなら、主任」
手招きしたマイク・ティーガンが声をひそめる。
「これ緘口令なんスけど、汚泥にガスが含まれていないかを調べるボトムズアップ・テストね。アレ、9~12時間かかるんだけど、30分しかやってねえんです。しかも昨日(4月19日)のことなんですよぉ。おまけにその前にゃ、油井口の噴出防止装置(BOP)に油泥もれでさ」
「なんだよ、そりゃあ?」
マイケルの顔がゆがむ。
「油泥もれって…。ったく。それ、上申したのかよ?」
「もちろんだよ」
マイクが気弱な笑顔を向ける。
「でも、多分どっかで消えた。上のヤツらはだれもBPにニラまれたくないんだ」
噴出防止装置(BOP)から流体がもれるということは、海底の圧力によりガス(炭化水素ガス)や油が、すでに掘削鋼菅に侵入しているということになる。
サァ~ッと血の気が引く気がする。
「わかった。できるだけBPを刺激しないように上手く書くさ。とにかく、ありがとう」
早々に部屋に引き揚げる。
「ああ…もう、21時35分か。一杯飲るか?極上のブランディーを開けるぞ。いい酒でも飲まんと今夜は寝られないよ」
「主任~。ここはどうなっちゃうんでしょうねぇ?」
ラリー・ジェフリーは半泣きだ。
「最初のガス突出の時に、抜本的な対策を取るべきだったんですよ。だけど、コスト削減で見過ごされてしまった。どうも、悪い方向に転がり始めているなぁ。だって、イギリスは1988年7月に167名も犠牲になる事故起こしてますからね。それにコーリアがからんでちゃ、おれたち完全死亡フラグ。いやぁ、すごいトコに来ちゃったなぁ…」
イサオの言葉はすでに感慨に近い。
重苦しい事実にハインリッヒの法則が浮かぶ。
一つの重大事故の陰には29の小事故があり、その背後には300の異常が潜んでいる、というあれだ。
「うん、事態は楽観できないね。だが、冷静に対処しよう。自己保身でだれも本当のことを言わないから、BPは裸の王様になってる。それを是正しなければいけない。大丈夫。ディープウォーター・ホライズンを事故で失いたいと思っているバカなんか、だれもいないんだから」
「そう願いたいですよ。おれはもう、年だ。そろそろ足を洗いたい。微々たる退職金だけが希望さ」
マイケルが気弱なことを言って笑った。
その弱気がなんとなく不吉な予感をかきたてる。
「お、そういや、チーズがあったな。ビュッフェからかすめて来たんだ」
ワザと明るく言って、ブライアン・スミスは奥の戸棚に立って行った。
8
奇妙な振動がブランディー・グラスを揺らし始めた。
「地震?」
「いや、津波か?」
ガクンと跳ねあがるような衝撃が来て、壁の時計が落ちた。
21時57分をさしている。
「突出だっ、でかいぞっ」
マイケルの声が裏返った。
床がガクガクと連続的に痙攣し、それを突き上げる上下動が混じる。
ラリーはカエルのように両腕を広げてバランスを取りながら放心状態だ。
間もなく、ドシン、ガシャンというような連続的な破壊音に、ドドドドという重低音が迫った。
「油とガスが来る」
電話に飛びついたブライアンの叫びがあたりをつんざく。
「コントロール・センターはメイン・エンジンの電源を切れっ」
その声で、ラリー・ジェフリーがはっと我に帰る。
「んなこと、するわけねえでしょっ。勝手に電源切っちゃいけねえ規則になってるっ」
言い捨てて、マイケル・スタッフォードは部屋を飛び出す。
力ずくで電源を落とすつもりだ。
「ぼくのほうが足が速いっ」
ラリーが彼を追い越した時だった。
あたりの空気が急激に膨張したようにふくらみ、空間がゆがんだ。
瞬間、彼らは吹っ飛んでいた。
石油を含んだ重い泥水が床を突き破って噴出する。
聞いたこともない、揺さぶるような轟音が五感を戦慄で叩きのめす。
25層下の基部では、マイク・ティーガンが仲間とともに、坑井口遮断のハンドルにしがみついていた。
すでに全員、血と油と泥にまみれ、床は比重の重い泥水の大洪水だ。
もう脱出は焦眉の急だった。
「だめだ、ちくしょう。やっぱウワサは本当だったんだ。金属蓋(ロックダウン・スリーブ)は多分、ついていねえ。30行程の閉めるべきところは全部閉めたが、肝心のものがねえとは…」
絶望的な事実だった。
すぐそばのコントロール室でも、係員が悲劇的な操作を繰り返していた。
強大な油圧式リモートコントロール・ロボットで掘削管を切断しようとしても、どうにも作動しない。
肝心な時の不作動とそれに付随する責任感は、彼らから逃げるチャンスを奪った。
最大の地上暴噴(サーフェスブローアウト)が襲った時、だれひとり持ち場を離れた者はいなかった。
食い止めようとする壮絶な努力のまま、彼らは自らの職務に殉じたのである。
9
非常ベルは鳴らず、基地内非常事態放送もなかった。
外部への救助要請すら出していない。
いや、要請しようとした者はいた。
だが、それはひと言で阻止されたのだ。
「きみには権限がない」
そのくせBPの脱出行動は早かった。
ドナルド・キッシンジャーは側近とともに、突出のまだ小さいうちに、すでにヘリ・ポートにいた。
そして22時05分、櫓の遥か上まで噴き上げた最大暴噴の時には、飛沫を浴びる程度で済み、やがて大爆発に至った時には、それを高みの見物できる位置にいたのだ。
ブライアン・スミスはコントロール・センターに向かい、イサオ・タカノは自発的に施設内放送スタジオを目指した。
大学時代の一時期、ラジオ局を志望したイサオは、アナウンスはお手の物だ。
日本人らしいしなやかな身のこなしの彼は、見る間に視界から消えた。
「ディープウォーター・ホライズン(深海の夜明け)石油採掘基地」内は、すでに人も機材も構造物も大混乱になっていた。
最大暴噴も時間の問題だ。
それでも自分のできることをするのだ。
センターにはもう人影はなく、メイン・エンジンは相変わらず作動したままた。
早急にキーをさし込み駆動を停止しなければ、ガスの引火は目に見えている。
壁のキー・ボックスに近づいた時だった。
耳が急激に圧迫され、息がつまった。
噴出する重い怒涛が真っ黒な壁となって空高く踊りあがった。
空気が咆哮し、風が錯乱し、基地全体が波間の芦のように震えた。
最大量の海底資源は掘削管を駆けあがり竜の如く天空を目指したのだ。、
数十秒ののち、飛沫が黒々した砲弾のように落下する。
あらゆるものを弾き飛ばし、かき乱し、粉砕し、叩きのめし、踏みにじった。
突出する激流と落下する奔流が空中で凶暴に交錯し咬み合い、複雑にもつれ盛り上がり、積乱雲のように真横に広がった。
最大暴噴の恐るべき噴出量は、それだけで最も近接する州の漁業に大打撃を与え、不毛化するに十分だった。
しかも流出は量を減らしたものの、9月19日まで延々と続いたのだ。
10
どれだけ時間がたったのだろう?
ブライアン・スミスはその記憶がない。
視界が白金にきらめき、天使のように自分が浮いた。
部屋中が束の間、ゼリー状に妙に柔らかく踊る。
機材機器や備品、床天井や壁が一定方向になぎ倒され、ケーブル類が空を飛ぶもののように吹っ飛んで、まるで別世界だ。
次いで実態のある巨大で重い大音響が、したたかに全身を叩きつける。
まだ点っていた明かりが一瞬にして消えた。
大爆発は上部の建造物を見事に吹き飛ばし、見る間に紅蓮の炎と黒煙の大旋風に変えていた。
刺激臭と有毒ガスが濃厚に渦巻きながら駆け抜ける。
本能的な脱出の意欲で、ブライアンは意識を取り戻した。
体の周りは檻を組んだように、よじれた鉄骨や壁の切れ端、複雑に絡み合った電線や頑丈な梁などが山積みになっている。
壊れた床の隙間から、わずかに40メートル下の海が見えていた。
あちこちに炎が見え、急速に燃え広がっているようだった。
コントロール・センターはその容積の1/5ほどに圧縮されていた。
よくつぶされなかったものだ。
だが、自分を点検してみてゾッとした。
右足だ。
肝心の脛から下が消えている。
恐らく粉砕され、千切れ飛んだのだ。
11
イサオ・タカノはスタジオに到着していた。
室内には館内放送のマイクを握ったままのだれかがいた。
幹部たちはみな逃げ、責任感のある彼だけが取り残されたようだった。
さっきの暴噴で室内は足の踏み場もない。
「大丈夫か?」
死に物狂いで近づくも、すでに返事はなかった。
脊椎と頸椎はきれいに分断されている。
天井から落ちたアンプの直撃だ。
マイクを取り、幸いにも無傷らしいモニターランプを確認する。
ここは緊急時、非常電源に切り替わる。
ざっと見たところ、施設内放送システムは生きているらしかった。
かなり遅きに失したが、なにもしないよりは遥かにいい。
『緊急放送・緊急放送。脱出スライドシュータを利用ください。エレべータはすでに停止か、停止する恐れがあります。速やかに脱出スライドに移動ください。本日は波静かで海に危険はありません。救助も間もなく到着するでしょう。落ちついて脱出をはかってください。緊急放送、緊急放送…』
昔取った杵柄だ。
難なくこなして、足早に部屋を出ようとした時だ。
彼がなにかの力で跳ねあがる。
天井が吹っ飛び、ガラスや機器が飛散し、ガラガラと床が崩れ落ちていく。
吹きつける炎まじりの熱風で、オーブンに入った気がした。
25層の建築物は貫通されたように大穴が開き、遥か下に海が見えていた。
黒々した波は炎と脱出ボートの明かりで、キラキラと招くように平穏だった。
(あの海に落ちれば助かる)
そんな希望がイサオ・タカノを支配していた。
だが、40メートル下の海は鋼鉄の堅さなのだ。
技術者らしい冷静さが、かろうじて押し留める。
それでも、もう猶予はなかった。
吹き出す炎に追われた彼が、まっしぐらにダイブする姿が影のように見えて、やがて消えた。
12
「ラリー、…おい、無事か?」
マイケルの声に、ラリー・ジェフリーが片手をあげて答える。
異常事態に気が動転するのを通り越して、かえってハイになっている。
無傷ではないが、体の被害は軽微だ。
安堵感がラリーを饒舌にさせる。
「うん、ぼく、若くて体柔軟だから。マイケルお兄さんは?だいぶ血が出てるよ」
「ちょっと引っかかれただけだ。足も動く、ラッキーだぜ」
『ビッ、緊急…イドシュータ…利…エレベ…停止か停……がありま』
轟音の交錯の中から、イサオ・タカノの館内放送が弱く聞こえ、すぐに途絶えた。
「イサオは無事だな」
「うん、シュータって言ってた。で、あの…」
その言葉がなにかに詰まったように途切れる。
真っ赤な爆風が邪悪な鉄槌の如く凶暴に蹂躙し、あらゆるものを虫けらのように吹き飛ばした。
重低音が暴噴の轟きと交錯して聴覚をマヒさせる。
彼らは紙人形のように翻弄されながらも、互いの手を握りあった。
「ここは天国か?…痛みも感じねえ。ラリー、おめえは抱っこするとけっこう重いな」
不死身のマイケルが、子供のようにしがみついている彼を揶揄する。
それでも上着は爆裂でふっ飛んで、上半身には穴のあいたランニングだけが、かろうじてまつわりつ
いている。
2人はゴミ処理場のゴミのようにガラクタだらけの廊下から、なんとか立ちあがった。
壁が長いひさしのように傾斜していて、彼らは噴出する油泥とガス爆発の直撃をまぬかれていたのだ
。
「行くぞ」
足を踏み出したマイケル・スタッフォードがギョッとする。
「人だ。生きてる。おれはこの人の上に落ちたんだ。痛くねぇわけだよ」
ラリーも覗きこむ。
事務職らしい白いシャツもズボンもぼろきれ並みに裂けやぶれ、胴体も手足も細かな傷だらけだ。
運悪く、爆風の吹き抜ける近くにいたのかも知れない。
頭に裂傷があって出血している。
マイケルが本人のシャツを引きちぎって縛った。
そのまま自分の腕の傷をものともしないでけが人を背負い、ラリーが気を配って行く手を選ぶ。
「滝修行だ。おれたち、神様になれるぜ」
油泥まみれの冗談も、豪雨のような泥流音に途切れがちだ。
飛沫の怒涛を、壊れた建材の陰をたどって避けながら、脱出スライドシュータへと向かう。
螺旋状のこれを降り切れば、救命ボートやイカダは数がそろっている。
互いに励まし合いながら、彼らは生存のための活路を慎重にたどって行った。
13
ブライアン・スミスはしばらくの間、虫のように這いずりながら脱出を図っていた。
右足全体が1本分、全く感覚がない。
もちろん自分の意志では動かせない。
うず高くねじれ曲った瓦礫の上に、押さえこむように重い天井が落ちていた。
部屋は爆風の圧縮で強く凝縮され、彼が這いだせるほどの隙間はなかった。
いや、たとえ脱出したとしても片足では、火の迫る焦熱地獄をどこまで逃れることが出来るだろう?
小さなフィルム・ケースほどのプラスティック容器がいくつも転がっている。
ブライアンは夢遊病のようにゆっくり動いて、密閉できるそれを拾い上げた。
あたりに大量に散らばるコピー用紙を手に取る。
指は胸ポケットを探って、ペンを取り出していた。
【最愛の我が息子ディックへ
悲しまないで聞いてくれ。
お父さんは暴噴爆発事故に巻きこまれてしまった。
「ディープウォーター・ホライズン」は多くの欠陥を持っていたんだ。
神に誓って言うが、お父さんと仲間たちはその解決に努力するはずだった。
でも、時は待ってはくれなかった。
今、吹き飛んだ建物のガレキに1人で閉じ込められている。
脱出は不可能だ。
運命を共にした素晴らしい仲間たち。
マイケル・スタッフォード、イサオ・タカノ、そしてラリー・ジェフリー。
彼らがどうか無事でありますよう。
我が息子ディック。
おまえは男の子だ。
お母さんを頼んだよ。
あの人を、セシルをどうか悲しませないよう、これからの人生を生きてくれ。
おまえの恋人ジョディとの仲を、お父さんは今、心から祝福している。
愛する者との未来は、おまえに多くの実りをもたらしてくれるだろう。
愛しいわが子。
おまえとお母さんの存在は、お父さんにとって最高の誇りであり、安らぎであり、恵みだった。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
悲しまないでおくれ。
お父さんは今、大いなる幸福のなかで神に召されることができる。
ああ、火が迫ってきた。
神様、どうか、このささやかな手紙が家族のもとに届きますように。
どうか、どうか、心より祈ります。
慈悲深き神の恵みを、この子羊(手紙)に。
さぁ、もう、言い置くことは何もない。
お別れだよ、ディック。
愛している。永遠に、だ】
万感の思いを込めた走り書きだった。
ブライアンは手紙を詰めたプラスティック・ケースを大切に隙間から落とした。
小さな塊はいち度だけ炎にきらめいて、そのまま溶け込むように見えなくなった。
14
悠久の闇にも見える黒い海面を救助の高速船が向かっていた。
消火機材を満載した大型船やマスコミのヘリも現場に急行しつつあった。
「ディープウォーター・ホライズン(深海の夜明け)石油掘削基地」は、11人の死者、17人の重軽傷者を出して2日後の22日、海中に没した。
だが、その後も3つに折れた鋼管から噴出した原油は過去最大の500万バレルにも達したのだ。
そしてブライアン・スミスの願いを託したプラスティック・ケースはその後も家族に届けられることはなかった。
千尋の波間に漂う彼の最期の手紙は、絶えて見出されることはなかったのだ。
だれもの心に浮かぶ想いを言葉にしてみたい。
神は盲目いたのだろうか…?
執筆の狙い
2017年、実際に起きた「メキシコ湾原油流出事故」が題材です。
この事故を扱った映画がありましたが、これは事実におれなりの考察を加えたオリジナルで、映画よりも現実に近いと自負しています。