おしまい
*
妻「空、高くなったね」
僕「だね」
――うろこ雲。
飛行機雲を見なくなって久しい。
マンションの最上階。
眼下に町なみ、遠くに山なみ。頭上に広がる青い空。
西向きの大きな窓に向かって並んで座っている。
目の前にどっしりとしたコーヒーテーブル。
座っているソファはふかふかだ。
妻「お腹すいた?」
僕「そうでもない。でも、ナッツでもつまんで、ビールでも飲むかな」
妻「まずくないの? 冷えてないビールって」
僕「まずくないよ。ベルギービールだから――。シメイの青は常温でもおいしい」
妻「備蓄、まだぜんぜんあるんだよね?」
僕「うん。死ぬまでのぶんがあるよ」
そう言ってから立ち上がり、キッチンに歩んだ。
スクールモン修道院で醸造されたビールを、丸いグラスに注ぎ、ミックスナッツの袋を開けて、中身を皿に盛った。
僕「君は? 何かつまむ?」
リビングに向かって尋ねた。
妻「いらない」
僕「飲み物は?」
妻「よく冷えた麦茶が飲みたい」
僕「そんなものはない」
ビールとナッツを手にソファに戻った。
妻の横に座り、また外を眺めた。
妻「スクールモン修道院のことだけど……」
シメイのグラスを見ながら妻が言った。
僕「修道院」
妻「まだやってるのかな?」
僕「やってる?」
妻「うん」
僕「何を?」
グラスを傾けながら尋ねた。
甘い香りが広がる。花が咲いたみたいだ、と思う。
妻「……祈ったり、あと、掃除したり――。あ、聖書読んだり、してるのかな?」
僕「どうなんだろね?」
妻「今さら、だよね。だけど……」
僕「だけど?」
妻「神に仕えるお仕事なんだからさ」
僕「ん」
妻「こんなときこそ祈ってくれなきゃ」
僕「祈ってたんじゃないかな? ――半年くらい前までは」
烏がなん羽か、なかよくつるんで西へ帰っていった。
僕「陽が傾いてきたね」
妻「また、真っ暗な夜が来るんだね」
僕「電池もたんまり、死ぬまでのぶんがあるよ」
そう言って僕は、乾電池式のランタンのスイッチを押した――。
*
巨大隕石は恐竜を絶滅させた。6500万年ほど前のことだ。
今度は人類を滅亡させようとしている。
軌道が急に変わった――との報道があった。航空宇宙局は前から知っていた――との噂も立った。
今となってはどちらでもいい。
確かなことは「不可避である」こと。
人類は滅亡する。
この地域は直撃ゾーンとされている。
一瞬で消える。
――逃げる?
――どこへ?
――逃げ場はない。
地球の裏側に行って、直撃を免れたところで死滅は免れ得ない。
苦しんで死ぬことになる。それだけだ。
だから、国を出ようとする人間はほとんどいなかった。
どうせ死ぬなら生まれ故郷で死にたいのかもしれない。
妻「お墓のこと、考えなくてよくなっちゃったね」
僕「そうだね。宗派についても、戒名についても、墓石についても――、なあんにも考えなくてよくなった」
僕も妻も、親の墓に入るつもりはなかった。どこかに死に場所を定めなくてはいけない――と漠然と考えていた。
が、衝突後の地球は地形を留めまい。
墓のことは考えなくてよくなった。
子供のいない僕らだから、家を遺すだの、その他の財産を遺すだの、そんなことはもとより考えないで済んでいたわけだが、こうなるともう、DNAはおろか、名前も、骨さえも遺さないわけで、きれいさっぱりただナッシングになるだけだ。
妻「思い出話も話しつくしちゃったしなあ――」
ランタンが、斜めから妻を照らし出している。
そうだ。僕は妻の、幼少期から僕に出会うまでの日々を、まるで我が事のように知っている。繰り返し聞かされてきたので。
そして妻も、僕の歴史をつぶさに知っている。何度も話して聞かせてきたから。
そんなことして何になる? ――とは思う。
僕だって妻だって消えちゃうんだから。
でも話しておきたかったのだ。生きてきた道筋を。
ナッシングになってしまうからこそ。
聞かせながら反芻していたのだ、人生を。まだ消えてはいない今のために。
ムダであったと、すべてがムダであったと思いたくないんだと思う。
*
隕石衝突の発表があったのは1年前――。
まだスーパーに普通に品物が並んでいた。通販サイトも物流も機能していた。
備蓄を心掛けた。
大量の水。缶詰。常温保存が可能なレトルト食品。栄養ゼリー。電池。カセットガス。体を清潔に保つための除菌タオル――。
災害に備えるのと同じ。
いや、違う。災害はいつ起こるかわからない。でも衝突は、正確な日時がわかっていた。
備蓄すべき分量を、あらかじめ知ることができた。
すなわち、死ぬまでに必要なぶんだけ。
簡易トイレも用意したし、川の水を浄化できる装置も手に入れた。
夏に停電したら――。エアコンのない暮らしは堪え難いであろうと思われた。ソーラー発電できる扇風機も準備した。
――秋には終わりが来るという。
でも、だからといって熱中症に苦しみたくはない。
そんなふうに思っていた。
*
山に陽は沈んだ。けれどもまだ微妙に明るい。隕石の影響もあるのかもしれない。
電気が止まってかれこれなので、家の中は暗い。電池式のランタンがぼうっと灯っているだけだ。
コーヒーテーブルの端にあった双眼鏡を掴む。
僕「見る?」
妻は首を横に振る。
双眼鏡で、夕暮れの町をパトロールする。
妻「見たってしょうがないでしょ?」
妻の言うとおり。
見えるものといったらいつものとおり、死体。少し数が増えている。形を崩した残骸も増えている。
僕「誰も片付けなくなったから――」
妻「独り言?」
僕「あ、うん、ごめん。聞きたくないよね――って、あ、あれれ??」
妻「どうしたの?」
僕「女の人が……」
妻「――襲われてるの?」
僕「ん……助けなきゃ」
妻「間に合わないよ」
僕「でも……」
妻「外歩くだなんて、殺してくれって言ってるようなもんだよ」
僕「ん」
妻「感染もしちゃうだろうのに――」
毒性の高い感染症が蔓延していた。
*
当初は、仲間と飲み明かしていた。人類さよならの宴、だなんて銘打って。
正常性バイアスというのだろうか。滅亡する――ということが理解できていなかった。
桜が散るころ、みな気が付き始めた。――本当に滅びてしまうのだ、と。
略奪や暴動の火の手が上がる一方で、仲間たちとの宴にも熱がこもった。
でも、感染症が流行って――。
集まれなくなった。
いや、集まる連中もいた。
高熱にうなされながらパーティーを続けて、そして旅立っていった。
妻「急がなくてもいいのにね」
僕「どうせ死ぬから、だからこそ自由に生きたいんだろう。つまり、自由に死にたいんだろう」
誰も出社しなくなり、登校もしなくなった。
社会的な機能が急速に失われた。
そんな様子を報道していたテレビも、ラジオも、やがて沈黙した。
ライフラインがストップ――。電気が止まると、外との連絡手段もなくなった。
*
妻「町なんて見ちゃ駄目だよ。あれを見なよ」
妻の視線に促されて双眼鏡を向けた。
斜め向かいのマンションのアンテナに、鳥が2羽。
丸い視野の中で毛繕いをしている。
僕「野鳥だ。ツグミじゃないかな?」
その瞳を見つめた。
妻「あのコたちは知らないんだね、終わるって」
僕「そうだね。だから通常運転」
人間だけだ。起きてもいないことにやられて自滅するのは――。
双眼鏡の角度を変えると――、輝く光が見えた。
僕「いちばん星だ」
妻「ほんと」
僕「明るいなあ」
妻「輝き続けるんだね、地球がなくなってからも――」
地球がなくなってからも?
そうか。なくなるのか、地球。
46億年の歴史が終わるのだ――。
歴史。
そうだ。1年前の秋に発表があり、みなと同じように呆然として、でも冬に、いくらか元気を取り戻してから僕がしたこと――、それは世界史の教科書を読み直すことだった。
山川書院の青い教科書。高校時代に使っていたものだ。
人類の歴史が終わる――、そう思ったらもう一度丁寧に読み直してみたくなった。
*
受験のために嫌々学んでいたのが歴史だった。
物理は好きだった。未知を開くための手段に思えたから。物理の教科書には未来が詰まっていたのだ。
でも歴史は苦手だった。終わったことを振り返って何になる?――と、そう感じていたのだと思う。消化試合には興味が持てなかった。
だけど今――。
未来がない。
この秋より先にもう未来はないのだ。
過去しかない。
だから過去を慈しんだ。
人類の歴史をなめるように読んだ。
僕らはいた。い続けた。成果も出した。未来を作り続けてきた――!
けれども――、と思う。地球の、46億年の蓄積が、おそらくは完膚なきまでに粉砕されるのだ。人類の、たかだか数万年の歴史を盾に文句を言ったってどうにもならない。
*
金星を見ていたら、泣けてきた。
僕らは終わる。人類の主観はなくなる。でも宇宙は終わらない。客観世界は存続し続ける。
腑に落ちた。
よかろう。足掻いても足掻ききれないのなら受け入れよう。これが僕らのさだめだ。
*
双眼鏡を置いた。
コーヒーテーブルの下から黒いケースを引きずり出し、開けて、中からウクレレを取り出した。
鳴らした。
平和な音が響いた。
妻「すごいね、ウクレレって」
僕「すごい?」
妻「電気もいらないし」
僕「人力だからね」
妻「単純だね」
僕「うん。物理的な形があるだけ。それが振動して音になり、響く――」
妻「音」
僕「ん。音には形がないね。それに鳴ってもすぐに消えちゃうし」
妻「はかないね」
僕「だね。でも無意味じゃない。この音に僕らがどれほど癒されてるか――」
ウクレレを弾いた。
伴奏に合わせて歌も唄った。
*
ふと気が付いて手を止めた。
僕「なんの歌にしよっか……」
妻「なんの、ってなんのこと?」
僕「いや、ほら、隕石がぶつかったときにさ、なんの歌唄ってよっかなって――」
妻「あれえ?」
僕「なに?」
妻「最後の瞬間はエッチしながら迎えようって言ってなかったっけ?」
僕「――ん。まあ、そう思ってたんだけどさ、エッチはいっぱいやってるじゃん。それに――」
妻「それに?」
僕「ここにこうして座ってさ、見つめてやろうかなって。夕焼け空を見つめるみたいに。最後のありさまってやつをさ」
妻「ウクレレ弾きながら?」
僕「そう。なんなら歌も唄っちゃいながら」
妻「いいんじゃない?」
僕「エッチじゃなくてもいい?」
妻「エッチのあとで唄いなよ」
僕「じゃ、そうしよう。問題は――」
妻「なに?」
僕「最期に何を唄うか、だよ」
妻「最後の晩餐、みたいね?」
僕「うん。――やっぱ、あれかな」
妻「どれかな?」
僕「讃美歌とか」
妻は笑った。
僕「なぜ笑う? 君はクリスチャンではなかったか?」
妻「いかにも私はクリスチャンでござい。でも、最期の歌が讃美歌って生真面目すぎない?」
死ぬときくらいは真面目に死にたく――ん? ないのかな?
僕「まあきーびーとー、ひーつーうじをーぅ……」
妻「イエスの誕生を、ベツレヘムの星が知らせる歌だね」
僕「ベツレヘムの星?」
妻「ツリーのてっぺんの星」
僕「へえ。まだ知らないことがいっぱいあるんだな、僕には」
知らないままに消えてゆく――。
妻「あれはどう? ちょっと前によく唄ってたじゃん?」
僕「どれ?」
妻「愛は歌、あなたは歌い手――」
僕「ラーヴ、イーズアソーング、エンユーアー、アシンガー……」
妻「それそれ。それ聴いてるとわたし眠くなるんだよね」
僕「ふむ」
妻「最期のときに聴いたら安眠できそう」
僕「なるほど」
子守唄みたいな歌を唄いながら、か。
僕「――にしても、あれだね、最期の1曲を選ぶって、大変だ」
妻「そう?」
僕「選んでるうちに最期の日になっちゃいそう」
妻「そんなもんでしょ?」
僕「かな?」
妻「それが人生、なんじゃない?」
僕「せらび(C'est la vie.)」
――そんなふうにして僕らは、最期の刻(とき)に向けての日々を、ひっそりと、むつまじく過ごした。
*
僕「いろいろ迷ったんだけど――」
妻「なに?」
僕「最期の歌」
妻「あ。――何にしたの?」
僕「杉の子幼稚園で唄ったのにしよっかな」
妻「どんな歌?」
僕「あのね、あきちにあーめがふりましてー、どんどんどんどんふりましてー、まあるいおいけができましたー……」
妻「あひるはあめのこ」
僕「そう。あひるはあめのこ」
妻「――いいんじゃない?」
僕「いいかな?」
妻「いいと思うよ」
僕「――いっしょに唄ってくれる?」
妻「うん。いいよ」
*
――ナッシングになる僕ら。
でも、秋の空は高くて、うろこ雲はぽこぽこしていて、そんな空に消えゆく響きはころころしていて――、
僕らは今、そう、ここにいる――。
おしまい。
執筆の狙い
おしまいについての思考実験です。あなたなら最期に何を唄いますか?