下天の夢 Ⅱ
翌年、平手政秀の骨折りで話が纏まっていた、斉藤道三の娘・帰蝶が輿入れして来た。
「どうせ、親父と蝮の妥協の産物として輿入れして来た女だ。わしがどうであろうと関係あるまい」
そう思って信長は、袖を切った湯帷子《ゆかたびら》に腰に縄を巻いたいつもの姿で美濃から来た姫を迎えた。
家老達は何れも苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、信長が独裁宣言をしてしまったので、叱責するような真似は出来なくなってしまっていた。
既に述べた通り、それでも我慢が出来なければ、古渡城へ出向いて信秀に泣き付くしか無い。しかし、それは取りも直さず、己の無能さを認めることになってしまうので、出来なかった。
傅役《もりやく》となっている平手政秀だけは、悔しさをにじませながら信長に説教した。
「姫が呆れたり、殿を嫌うだけならまだしも、美濃に逃げ帰って、怒った道三殿が戦を仕掛けて来たらどうなさるおつもりですか? 必死で和議に漕ぎ着けたことをお考え下さい」
「蝮の娘は逃げ帰ったりはせぬ。考えてみよ。親父殿が負けた戦の和議に、何故、娘を人質同然に差し出すのか? 逆であろう。理由は、そのほうらも申した通り、わしが噂通りのうつけかどうか見極め、攻め滅ぼせるかどうかの情報を取らせる為に寄越したのであろう。すぐに逃げ帰ったりはせぬ」
「そこまで分かっていながら、何故?」
と政秀が問い返す。
「わしはな、もっと遠いところを見ておる。つべこべ言わず従っておれば良い」
「勝手になされ!」
平手政秀は、鼻から強く息を吐いて下がって行った。
輿入れの日。
「美濃の姫様御一行が到着されました」
との報告を聞くと、信長は、そのままの格好で小部屋に移った。
この部屋で、式三献《しきさんこん》と呼ばれる結婚の儀式が行われる。と言っても至って簡素な式で、父・信秀を始め、親族も参列する分けでは無い。信長が正面に席を取りあぐらをかいて鼻毛を抜いていると、侍女一人を伴って、白の衣装に同じく白い被衣《かつぎ》で頭部を覆った女が礼をして入って来た。
女は被衣を取り、脇に置くと、敷居手前で侍女共々信長に礼をし、
「斉藤道三の娘・帰蝶に御座います」
と挨拶した。信長は帰蝶をねめるように見据え、無作法にも、
「蝮に何を命じられて来た?」
と聞いた。帰蝶に従って来た侍女の顔がこわばるのが分かったが、帰蝶はにっこり笑って、
「三国一の婿ゆえ、必ず添い遂げよと命じられて参りました」
と返した。
「よう申すわ。うつけかどうか見極め、噂通りのうつけなら、攻め滅ぼす段取り致せとでも命じられて来たのではないか?」
と突っ込む。帰蝶は顔を上げ、
「その時は、父の手を借りるまでもなく、この手で刺し殺す覚悟で御座いましたが、どうやら、その必要は無いかと思います」
と落ち着いて答えた。
「面白いことを言いおる。この格好を見てうつけと思わぬとは、そなたの両の目は節穴と見える」
「そうで御座いましょうか?」
と、帰蝶は笑みを湛えたまま平然としている。信長もニヤリとした。そして、
「面白きおなごじゃな。此れへ参れ」
と脇の席を示して言った。礼をすると、帰蝶は部屋の奥に進み、向き直って信長の右隣に座った。
式三献は、花嫁が輿から降りた後、花嫁道具や警護の者達は別室に進み、花嫁と侍女だけが花婿の待つ部屋に通り、花婿と花嫁、侍女だけの部屋で行われる儀式である。花嫁が酒に口をつけ、次に花婿が飲み干し、これを3回繰り返して、帰蝶と信長の縁組の儀式は、至極簡単に終わった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
信長が上座に座り、その前に四人の家老達が左右二人づつに分かれて座って、信長の面前で領地支配の様々な問題に付いて話し合う。分からないこと気になる事が有れば、信長が質問し家老達の誰かが答える。そして、最後に筆頭家老の林秀貞が意見を纏め、信長に報告し承認を得る。従来政務は、そんな形で進められていた。
しかし、最近は様相が変わって来ている。特に重要でも無いことに付いては、信長は扇で首のあたりを叩いたりあくびをしながら、家老達の話を聞いているだけなのだが、家老達の意見が分かれて容易に結論が出ない様相を帯びて来ると、突然、かんだかい声で結論を指示する。信長の支配欲が近頃強くなって来ていると家老達も感じているので、意見を押さえられた者は一瞬ムッとするのだが、反論が出来ない雰囲気になってしまっている。しかし、冷静になって考えてみると、信長の指示は的確である事が多いし、後になって正しかったと分かる事も度々有る。家老達の心の内にも、奇行に対する懸念は別として、信長の力量を認める気持ちも出て来ていた。
信長は精力的に動いている。退屈そうに家老達の話を聞いているように見える時も、実は、様々な事に思索を働かせている。だから、堂々巡りの議論になると、ずばりと釘を刺す事が出来る。
政務の他に弓、鉄砲の稽古の時は休まず動くし、兵法の講義を受ける時に居眠りすることなど無い。そして、小姓達を連れての野駆け、鷹狩と精力的に動き回るのだが、広間や居室に居る時は、眠そうにあくびをしたり、ボーッとしているように見えることが多い。
そんな時、例えば道三からの使いの者が目通りしたとすれば、その服装と態度を見て、
『信長と言う男、手前の見たところ、間違いなくうつけの上に腑抜けに御座います』
と報告するに違いない。意識して ”うつけ“ との評判を立て、それを楽しんでいるかのようである。
これは真人の賭けである。何処かで子供扱いして来る家老達を黙らせ、ある意味独裁を確立しなければ歴史を変えることなど出来ないとの考えから必死で努力しているのだ。
しかし、これは、ある意味賭けである。建前上、例え不満でも、主《あるじ》の命《めい》には従わなければならないのだが、時は戦国、下克上の時代なのだ。頼りにならない主とみれば、倒して取って代わるなど、世に溢れている。現に、帰蝶の父や祖父はそうして伸し上がって来ているのだ。
「お濃、膝をかせ」
帰蝶が嫁いで来て後は、そう言って信長は、帰蝶の膝枕をすることが多くなった。
“お濃“ と言う呼び掛けは、美濃から嫁いで来た姫と言う意味である。
「こうしているときの殿は、まるで赤子のようで御座いますね」
帰蝶はそう言って笑う。
「難なくひねり潰せると蝮に報告するか?」
目を閉じたまま、信長がそう言う。
「まだ父を死なせたくは御座いませんので、世の噂に惑わされませぬようにと報せます」
「もしそれがまことであれば、まだ、一部を領有しているに過ぎぬ尾張の平定に、安心して臨めるということじゃな」
帰蝶は少し微笑んで、
「信じるか信じないかは、殿次第。わらわが蝮の娘であることを、お忘れなさいますな」
「ふっ、ふあっはっは。そうであったな。蝮の子は、母の腹を食い破って生まれると申すから、油断はならぬのう」
そう言って起き上がると、信長は帰蝶に抱き付き押し倒した。
織田信秀は、天文9年に安祥城を攻略して支配下に置き、長男(庶子)の織田信広を城主として置いていた。
信長が帰蝶を娶った年の翌月、信秀の勢力を三河より駆逐しようとしていた今川義元は、織田方の西三河支配の牙城となっていたこの安祥城に対し、太原雪斎を主将とする一万の軍を派遣し、攻撃を加えて来た。
この時は織田信広が奮戦して一旦は今川軍を撃退したのだが九月に再び攻撃を受け、戦況は厳しいものとなっていた。
父信秀は四方に敵を抱え、この頃窮地に陥っていたと言って良い。自ら救援に向かうことが難しかった信秀から、平手政秀に手勢を付けて安祥城の救援に向かわせるよう命《めい》が届いた。
「兄上の救援にはわし自ら出向く」
使いの者に信長がそう言ったが、
「なりません。殿が我等の言葉をお聞きにならぬのは仕方有りませんが、これは、大殿の命《めい》に御座いますゆえ、従って頂きます」
平手政秀はそう強く反論した。
「ならば、火急のことゆえ、平手、兵を率いてそのほうはすぐに出立致せ。わしは父上のお許しを得た上、後を追う」
「なりません。大殿の命《めい》に従い、この城においで下さい!」
「うるさい爺じゃのう」
と信長は背を向ける。
「殿!」
と聞いていた帰蝶が声を上げた。
「殿みずから出向かれて、兄上様と殿のお二人ともに、万一のことが有ったら困るとお考えなのでは御座いませんか?」
「お方様の仰せの通りに御座います」
そう言うと、政秀は、
「出会え!」
と声を上げ、出陣の準備に取り掛かった。
平手政秀の援軍も虚しく安翔城は落城する。そして、安翔城攻略戦の際に織田信広は捕らわれてしまうことになる。真人にはそれが分かっていた。
何処から歴史を変えなければならないのかは分からなかったが、ここが分岐の一つのポイントとなるかも知れないと言う想いが芽生えた。
一旦主張を引っ込め、信長は居室に引っ込み、帰蝶にまた膝枕をさせた上で、ふて寝でもするように目を閉じていた。
準備が整うと、平手政秀は兵を率いて、安祥城の救援の為に出発した。
見送りもせず、帰蝶の膝枕で横になっていた信長だったが、突然立ち上がり、
「馬を引け!」
と命じた。
帰蝶は何も言わなかった。信長は父・信秀の居る末森城に向かった。信秀は古渡城を捨て、前年に末森城に移っていた。
袖を切った湯帷子に荒縄を巻き、その縄にガラクタをいくつもぶら下げた、異様な風体のまま馬で駆け込んで来た信長を、末森城の門番も怪しい者として止めるようなことは無かった。足軽、小者に至るまで信長のうつけ振りは耳にしているから、『ああ、那古野のうつけ殿か』と思って、そのまま通したのである。
案内もこわずズカズカと、信長は城内に入って行った。出くわした者達は慌てて通り道を避け礼をするのだが、殆どの者の目にはあざけりの色が読み取れる。
「親父殿、親父殿はいずれじゃ」
そう叫びながら廊下を足早に歩く。角を曲がったところで、年増の侍女が立ちはだかった。
「どけ! 親父殿はいずれじゃ」
信長がそう言うと、侍女は丁寧に頭を下げてから左手の平を上に向けて横の部屋を差した。
開け放たれた部屋の奥に女が一人座していて、こちらを見据えている。侍女数人が侍っているが、奥の女の脇には、若武者が一人。
信長の実母である土田御前と弟の勘十郎・信行に違いないと真人は思った。
子を見る母の眼差しではなかった。部屋の奥正面から信長を見る土田御前の眼差しからは、不快さが溢れている。
「お入りなされ」
母は硬い響きを持つ声で、そう言った。信長は軽く頭を下げてから部屋に入り、あぐらをかくと両の拳を床に着け改めて頭を下げる。
「母上、お久しゅう御座います」
土田御前は返事をせず、しばらく無言で信長を見ている。
「父上は何処ですか?」
と信長が聞く。それには答えず、土田御前は、
「前触れも無く来て、何を騒がせているのですか? ご自分が皆にどう思われているか、分かっておいでなのか?」
そう聞いて来た。
「安祥城への援軍の派遣に付いて、父上と急ぎお話しなければならないのです」
「兄上、まだ、援軍を出していないと言うことでしょうか?」
勘十郎が横からそう口を出した。
「平手に兵を着けて、既に出した」
「ならば良いではありませんか。父上になんの御用がお有りですか?」
土田御前がそう突いて来た。
「父上は何処においでですか?」
信長も母の問いには答えず、信秀の居所を重ねて尋ねる。
「奥の間においでです」
土田御前が答え、信長はそのまま立ち上がり、軽く礼をして、部屋を出た。
部屋を出て行く信長の背を、母と弟は無表情で見送っている。
母の部屋を後にして奥の間に向かっている信長。意識は真人の筈なのだが、何故か信長としての感情が湧き上がって来ているのを感じた。うつけの真似をしていることが原因なのだが、産みの母にうとまれている悲しみを感じた。勘十郎とて異母弟ではなく同母弟である。幼い頃、遊びながら面倒を見た記憶も蘇って来る。母の言い付けを良く守る大人しい弟であった。
再び真人の意識が信長の意識を上回って来ると、感傷よりも安祥城の救援に行かなければと言う想いの方が強くなって来た。
一時は日の出の勢いで勢力を拡大していた信秀も、美濃攻めに失敗した上で道三と和睦し、東の三河に進出した勢いも衰え、今川の攻勢にこのところ防戦一方である。そして、尾張の内にも多くの問題を抱えていた。その上、隠しているが、体調もすぐれない。安祥城の防衛に自ら飛んで行きたい気持ちは有ったが、何処から攻め込まれるか分からない状況で、城を留守にする訳にも行かなかった。
柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門らの重臣を集めて、今後の対策を話し合っているところだった。
人には見せないが、信秀は近頃体調の不安を感じると共に、今後の体制に付いても色々考えを巡らすようになって来た。
安祥城に信広、那古野城に信長を置き、末森城は勘十郎信行に任せるつもりであった。その鼎《かなえ》の一角である安祥城が危機に晒されている。自分が動けない以上、那古野城の手勢を動かすしか無いのだが、万一、信広、信長の二人が揃って討ち死にするようなことになっては、弾正忠家《だんじょうのちゅうけ》が滅ぶ可能性すら出て来る。そう思って、平手政秀に兵を率いて救援に向かうようし指示たのだ。
だが、柴田、佐久間らはそうは取っていなかった。やはり、信秀は信長を信用していないのだと、この命令の意味を取っていた。
「父上、信長参上致しました」
信長は、襖の外から、そう声を掛けた。
「では、そのように致せ」
談じていた案件に丁度結論が出たところだったので、信秀は家老達にそう指示してから、
「入れ!」
と信長に返事した。信長が襖を開けたのを期に、家老達は信長に軽く頭をさげてから、下がって行った。
母の嫌悪感をむき出しにした眼差しとは対照的に、父・信秀は面白いモノでも見るような目で信長を見た。
「入れ。文句を言いに参ったのか?」
信秀はそう言った。
「安祥城に行く。止められても行くつもりだが、ひと言断っておこうと思って参りました」
信長は、そう言葉を返した。
「突っ立ってモノを言うな。ま、座れ」
そう言われて、信長は父の前に座り、一応、頭を下げた。
「平手を信用しておらんのか? 平手は経験も実績も有る男だ。お前が行った方が勝てると思う理由は何か? 家臣達も、うつけのお前の命《めい》よりは平手の方を信頼して従うのではないかな」
そう言われて、信長には返す言葉が無かった。
「うつけの真似はなんの為だ。敵にはあなど》られ、家中では嘲られ、なんの得が有る?」
そう詰められた。
「袖は邪魔なだけだから取りました。半袴は動きやすい。腰にぶら下げた物は、山中に一人取り残されても生きるのに役立つモノばかりです。こんなモノをぶら下げるには、帯などより荒縄の方が似合っておりましょう」
殆ど屁理屈でしかない。
「城主が浮浪人のまねをして、何が得られる? 失うものが多いとは思わぬのか?」
信秀は信長の本音を引き出そうとしている。道三は、今は攻めては来ぬでしょう。美濃の中も決して平穏ではありません。蝮に取っても、父上との和議は助けになっていると思います。そして、東には兄上がいらっしゃるから、那古野がいきなり攻められることは無い。そう踏んでおりました。
今の世、各大名とも誰が敵であるかいつ攻められるか分からない状況です。ですから、四方八方に素破《すっぱ》を放ち、常にその動向を探っております。しかし、その人数にも限りが有りますから、当然、重点的に探らせる相手とさほど気にせずとも良い相手を分けるでしょう。うつけの動向を必死に探ろうとは致しませんでしょう」
信秀はニヤリとした。
「そうやって四方を油断させておいて何をやっておった」
と聞く。
「弓、鉄砲を数多く揃えようと考え、密かに調達の段取りを整えております」
「鉄砲など、金が掛かるばかりでろくに当たらん。いくさの役には立つまい」
信秀は鼻で笑った。
「数を揃えれば、騎馬の突進を防げると思います。要は使い方です。それに、槍を長くしようと思っており、どれほどの長さが良いか試しております」
「長槍? そんな長槍を振り回せる者が何人居るのだ?」
「武者の使う槍ではありません。先鋒の足軽共に持たせる槍です」
「農夫共に長槍など扱えると思っているのか?」
「ご承知の通り、足軽は槍を振り回して戦う訳ではありません。先鋒は槍衾《やりぶすま》です。穂先を揃えて敵の先鋒と対峙した時、長い方が絶対有利です」
信秀は頷いた。
「ぼんくら、うつけと敵を油断させておいて、その間に強力な軍を作り上げる準備をしていたと言う訳か、なるほどな。だが、家臣共にうつけと思われていて家中を纏められるのか?」
「誰がぼんくらの役立たずか、誰が役に立つ者なのかを見極めるには、うつけの真似をしている方が良いのです」
信秀は苦笑した。
「そう思い通りに行くかな?」
と問う。
「いずれ本心を明かす時は来るでしょうが、今しばらく、敵の警戒を避けて事を進めたいのです。ですから、安祥城が落ちては困るのです」
「兄を心配してのことでは無いのか?」
信秀にそう聞かれて、信長は何もこたえなかった。
「母にうとまれるのは辛いか?」
信秀はそう聞いた。
「いえ。母に話せばもはや秘すことは出来なくなるでしょう。母には勘十郎がおりますので、不肖の息子のことを嘆き悲しんで暮らすことはありますまい。どうか、今のまま」
「分かった。分かったが、安祥城には行くな。良いな!」
全てを理解した上での父の判断である。従わざるを得ないと、信長は思った。
那古野城に戻った信長。自室に籠もった信長、即ち真人は考えていた。
平手政秀の奮戦も虚しく安祥城は落ち、兄・信広は敵に囚われ、大きな被害を受けた那古野勢と共に平手が戻って来る。どう迎えるべきか。これを期に軍事権を掌握しなければならないと思った。
何度か急使が入り戦況のきびしさを伝えて来たが、信長直々の出馬を乞うものではなかった。
やがて、ぼろぼろに打ち負かされた軍を率いて平手政秀が帰城した。
「まことに申し訳ありません。安祥城は敵の手に落ち、信広様は人質になってしまわれました。手前が至らぬばかりに、申し訳御座いません」
平手政秀は床に頭を付けたまま、そう詫びた。
「父の命《めい》とは言え、城主たるわしを無視して兵を動かした結果がこのザマか?」
真人は敢えて強い言葉を平手に掛けた。平手は答えなかった。と言うより答えるべき言葉がなかったのだ。
「良い。傷付いた者の手当、死んだ者の遺族への対応、抜かり無く致せ。下がって良い」
厳しいことは言ったが、くどくど責めることも無く、信長は平手を下がらせた。
その後、信長はもう一度父・信秀を尋ね、自分の頭越しに那古野城の兵を動かさないよう依頼し、信秀も承服した。この会見の時、信長は信秀の老いの影を強く感じていた。
「信広は妾腹。正嫡であるお前に家を継がそうと思っていたが、お前の評判は余りに悪い。そこでな、正直に言えば、信広、信長、信行の鼎立によって弾正の忠家を守らせようと言う考えに変わって来ていた。だが、この前の話でお前の本心が分かった。やはり、お前に全てを継がせよう。今川とは講和し、人質としている松平広忠の子・竹千代と交換ということで、信広は取り返す。その上で、お前の本心を家臣一同に明かし、弾正の忠家の意思を統一する。それらのめどが立てば、わしは隠居するつもりじゃ」
信秀はそう考えを明かした。家中殆どの者が信長をうつけ扱いする中で、父だけは実態を見る目を持っていてくれたと信長は感謝した。
信長は今川との和睦に反対であったが、織田の人質となっていた松平信忠の子・竹千代(後の家康)と兄・信広との交換と言う条件での和睦を渋々認めた。
信長の弾正忠家の家督継承は、信秀が主導して進めて行くことになったのだが、その矢先、天文21年(1552年)3月に父・信秀が急死してしまったのだ。
正室の子であり嫡男である信長が家を継ぐことに表向き反対する者は居なかったが、信秀による家臣の意思統一は全く進んでいなかったので、家臣達の信長に対する見方は冷ややかであった。
信秀の急死を受けて、早速、今川が動き出す気配を見せているばかりでなく、尾張内部でも、弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家も弾正忠家を潰そうと動き出し、弾正の忠家の内部にも弟・信行のほうが後継者としてふさわしいと考える者も多く居た。信秀の急死に寄って、信長は苦境に立たされたのだ。
信長は知らないことであったが、その頃、美濃の斉藤道三は周囲の領主に宛てて『信長と言う男、若造で至らない点も有るがご容赦を』との書状を出していた。
葬儀の段取りは、末森城の重臣達に寄って進められ、段取りが整った後、信長に知らされた。信長は、正装もせずいつもの格好のまま、末森城に単身馬で駆け付けた。見渡すと、喪主の席に母が座り、隣に勘十郎・信行が席を占めている。
祭壇の正面、離れたところで下馬し、信長は近付いて行った。折り目正しく着座している信行とうつけ丸出しの信長を見比べるように、家臣達の目が注がれている。
信長は祭壇に近付き、抹香《まっこう》を鷲掴みにし、それを祭壇に向かって投げ付けると、きびすを返して馬に乗り駆け去ってしまった。
真人の知っている歴史より、信長の父・信秀の死は一年以上早かった。
真人の知る史書では、信秀、信広、信行らのほか、重臣達の見守る中行われた、那古野城下での信長軍の行進の模様を伝えていた。
史書に曰く、柄三間半の朱槍500本、弓・鉄砲500挺を持たせた足軽隊を従えて、信長は、信秀らの見守る前を堂々と行進し、信秀が、信長の兄弟達や重臣達に、世間に秘して行っていた信長の準備の様子を説明し、うつけの真似をすることに寄って、美濃、三河、駿河、更には尾張の中の敵にも漏れぬようにしていたことを語った。
それが為、一同信長の家督相続に納得し、弾正忠家が一つになったとされていた。
それが行われる前に、信秀が急死してしまったということである。真人の知る歴史と全く違うことが、目の前で起こっている。周り中が信長を見下している中で、どう弾正忠家を纏め如何にして尾張を掌握した上で天下統一に向かって行けば良いのか。真人は暗澹たる気持ちになった。
そこへ葬儀の案内が来たのだ。しかも、信長抜きで準備が行われ、今日が葬儀の当日だと言うことで、身支度をする暇さえ無い。信長が末森城に着く頃には葬儀は始まっている筈なのだ。
頭に血が登った状態で駆け付け、居並ぶ母や信行、そして、父の重臣達を見た時、思わず抹香を祭壇に投げ付けていた。
事はそれだけで終わらなかった。父・信秀の葬儀から数日経った日。帰蝶をも遠ざけて一人想いにふけっていた信長の部屋に、林秀貞が入って来た。暗い顔をしている。
「お邪魔致します。宜しいでしょうか?」
チラリと視線を送った信長だが、渋い表情を見て、”葬儀の件で何か言いに来たのであろう“ と思った。
「なんの用だ」
こちらも不機嫌な表情で聞いた。
「五郎左がみずから命を絶ちました」
五郎左とは平手五郎左衛門政秀のことである。
信長は一瞬声を出せなかった。無言で林秀貞に鋭い視線を送った。
「腹を切りまして御座います」
“貴方のせいだ” と秀貞に責められているような気がした。
『何故だ』とは聞けなかった。
「爺は何処におる?」
と聞いた。
家老達のたまり部屋で、平手政秀は腹を切って死んでいた。突っ伏した姿そのままで、他の家老達、小姓達が周りを取り囲むように座しており、信長の見聞を待って遺体の収容を行おうとしているところだった。
「遺書は?」
と信長が聞いた。
「御座いません」
と小姓の一郎太が答える。安祥城を巡る戦いの敗戦の責任を取ったと言うことなのか、それとも、信長の傅役として、奇矯な振る舞いをいさめようとしてのことなのか。遺書が無い以上分からない。
ただ、いくさの勝敗は時の運。戦国時代の侍がそんな事でいちいち死ぬ訳は無い。そこに死ぬ理由を見付けるとすれば、”主であるわしを無視して出陣し、このザマか?“ と咎めた自分のひと言だろう。しかし、あれから日も経っている。今、突然にと考えるには無理が有る。とすれば、やはり父の葬儀での振る舞いを末森城の者達から責められて、わしをいさめる為に命を経ったと言うことなのか。家中の者達もそう取るに違いない。
信長、いや真人はそんな風に考えていた。
「どうか、五郎左の遺志お汲み取り下さい」
秀貞が、重々しい調子でそう言った。元の世界であったなら、父の死で感じるのは悲しみだけだろうし、平手政秀の死にはひどいショックを受けたことだろう。しかし、人の死と争い事が日常的な世界に放おり込まれたせいなのか、真人が感じたのは、不条理に対する怒りのみであった。
(つづく)
✣参考
https://novel.daysneo.com/sp/works/71081f864444e13ccb8493655504930c.html
執筆の狙い
◎お断り
この作品は、SF絡みの時代小説であり、歴史の流れを忠実に追った【歴史小説】ではありません。