笑ってる場合ですよ
食堂の片側は一面全て窓で、太陽の光がたくさん入ってくるからだんだん冬になろうというこんな季節でも暖かい。暖かさとは優しさだ。絶対的に素晴らしい。
工場の昼休みは二つの組に分けられていて、私の所属する製造二部は十二時から十三時が昼休みの時間だった。もうすぐ十二時半から十三時半休みの後半組がやってくるので、私達前半組はまだ半分休み時間は残っているのだが、食堂のキャパの問題で食後は速やかに席を空けるのが暗黙のルールになっていた。
今日の日替わり弁当は好物のエビフライとハンバーグだったので、残すことなく全部食べられた。少し誇らしい気持ちで空になった弁当箱を回収トレーに返しに行くと、同じ部署の松永さん一派とタイミングが合ってしまった。お互い食堂の出口の方へ進むので、どうしても歩調が合ってしまう。別に仲が悪いわけではないのだが、良いというわけでもなくて、場合によってはそれくらいの距離感が一番やりずらい。
「藤森さん、業績の話聞いた?」
沈黙が気持ち悪かったのだろう。珍しく松永さんが私に話しかけてきた。松永さんはおそらく私より二十歳くらい歳上で、その年齢層のパートさん達のリーダー的存在だった。何かあったら相手が誰でもはっきり物を言うタイプで、はっきり物を言わない私みたいなタイプは内心好きではないだろうなぁ、と思うのだが、別に直接揉めたことはない。高校生と中学生の娘がいるらしく、どんな子達なのか、私は松永さん本人よりもどちらかというとそちらの方が興味を持てた。
「いえ、何も聞いてませんけど」
「聞いてるっていうか、藤森さんは社員だから全体の通達メールで来てるんじゃないの?」
松永さんの隣にいたパートさんが言った。二ヶ月ほど前に新しく入った人で、私は名前も覚えていなかったのだが、もう松永さん一派に入ったのか。彼女の方は私の名前を覚えていて、少し驚いた。
「そうなんですか。私、メール全然見ないんですよ」
私がそう言うと、松永さんと取り巻きの何人かが笑った。別にウケを狙ったわけではなかったのだが、ウケたならそれはそれで良かったと私も合わせて笑った。
「リアルにだいぶやばいらしいよ」
「そうなんですか?」
「ほら、もうコロナ需要が終わりかけてきてるから」
「あぁ」
私が勤めるのは郊外にある印刷会社の工場で、確かに少し前まではものすごい数のコロナウイルスワクチンの接種券を作っていた。それで、ヘルプだの休日出勤だので皆バタバタしていたのだが、最近はそんなこともなく、食堂に降り注ぐあの陽光のようにぼのぼのとした毎日が続いていた。私としては無理して働きたくもなかったし、ようやく落ちついて良かった、くらいに思っていたのだが、確かにあの量の仕事がなくなるのであれば会社の業績には大打撃だろう。
パート切りとか言い出したら訴えてやろうかな、なんて言って、一派は笑いながら喫煙所の方へ消えて行った。私は煙草は吸わないので喫煙所には行かず、一人作業場に戻った。節電で暗い作業場の中、作業台に丸まって授業中みたいな格好で眠った。
業績がやばい、なんて話を聞いたからといって、昼からの私の仕事ぶりやスタンスが変わるわけではなかった。私は午前中と変わらず封筒に詰められた何だか分からない通知物を順番に箱に入れてラベルを貼る。最近の印刷会社は印刷だけでは食べていけなくて、作った印刷物に個人情報を印字して封筒に入れ封を閉じ、それを郵便局や宅配業者に引き渡すところまでやる。二十分くらいの昼寝では眠気は殺しきれず、今日もまた眠くなる。追い焚き中のお風呂みたいにぼんやりした意識を抱え、とりあえず手だけは動かしてやらなければならない仕事をただやった。
十五時頃に製造部の課長と普段は滅多に現れない部長が作業場に来た。苦い顔をして課長のデスクにあるパソコン画面を覗き込んでいるのを見て、何か問題があったのだとすぐに分かった。だからと言って、どうしたんですか? なんて私から聞くことはないのだが、作業を続けていたら逆に二人から、ちょっといい? と声を掛けられた。はぁ、と言って手を止めると、ここじゃアレだから、と別室に呼ばれた。嫌な予感がした。二人と一緒に作業場を出る時、同じように作業をしていた松永さん達の視線をはっきりと背中に感じた。目を見なくてもそれが好奇の目であることくらいは分かる。溜息が出そうになったが、溜息を吐くと幸せが逃げると聞いたことがあるから我慢した。
小さな工場でも応接室の机と椅子は立派で、これ、私なんかが座っていいのでしょうか? と一瞬躊躇うも、二人は座って私だけ立っているという構図も変なので結局座る。役職的には、部課長と私の間にはチームリーダーの安原さんがいるので、普段は二人と直接話すことは無いのだが、タイミングが悪く今日は安原さんはお休みだった。偉い人は向かい合うだけで気持ちが重たくなる。藤森さん、これね、と課長がパソコンを開いて見せてくれたのは数日前の作業場の様子が映された監視カメラの動画で、そこには今日と同じ作業をする数日前の私がいた。おそらく何か問題がある動画なのだろうという疑いの目を持って見ると、すぐにミスに気付いた。一度だけ、ラベルを貼る順番を間違えていた。ラベルを貼り間違えると送り先と送りたい製品が合わなくなり、誤送が発生する。つまり、A社に送るべき製品をB社に、B社に送るべき製品をA社に送ってしまったということだ。個人情報の流出にもなり非常に良くない。
貼り間違えてるよねぇ、と課長が溜息を吐いて言う。間違えてますね、としか言えなかった。二人も私がそうとしか言えないことは分かっていたが、一応、何でなの? と、理由を聞いてきた。でももちろん理由なんて無い。わざとやった訳でもないただのミスなのでその旨を伝えると、二人は更に落胆した顔を見せて、もう戻りなさいと言った。
すみません、と頭を下げて応接室を出ようとした時、今まで黙っていた部長に、これ、品質事故だからね、と釘を刺された。すみません、と私は再度謝った。
そのまま作業場に戻る気にはなれなくて、別に行きたかったわけでもないのにトイレに寄って用を足した。洗面台で手を洗っていると、大きな鏡に私が映っていた。私以上でも以下でもないありのままの私と目が合う。品質事故、と声に出して言ってみる。そしてすぐに心の中でwを足す。
品質事故w
うん、大丈夫。面白い。笑いにできたら全てが馬鹿らしくて、正当化できる。こんなこと何でもない。大したことではない。ラベルの貼り間違えって何だよw、違う製品が届くって何だよw。鏡の中の私も私と一緒に笑った。品質事故w、もう一回言ってみる。やはり情け無くて面白い。笑いに変えられるうちは私はちゃんと大丈夫なのだ。
どんなに嫌なことがあっても、辛いことがあっても、悲しいことがあっても、それを笑えるのであれば無敵だ。
私がそれに気付いたのは大学受験の時だった。寒さが厳しかったあの十八歳の冬、私は親の望む志望校を受験し、そしてことごとく落ちた。元々成績が良い方ではなかった。模試の結果も合格圏内には程遠く、厳しいことは分かっていたが、もしかしたら一つくらいは、という淡い期待を抱いてもいた。だが、それもあっさりと砕けた。受験に絶対は無いと言いつつも、学力に比例した合格率というものは当たり前だが確かにある。
うちはお父さんは弁護士で、お母さんは大学教授で、勉強のできる人達で、ちょっとエリート思考の強い家だった。お母さんは私の受験結果に文字通り怒り狂った。生活習慣だったり、勉強のやり方だったり、友達との関係性までボコボコに言われた。数時間説教をくらった後にベランダに立たされたり、私の分だけ食事が出て来なかったり、今思えばあれはもう虐待に近いものがあった。怒られているというより、ただただ感情をぶつけられているという感じだった。出て行きなさいとも言われた。さすがにそれはお父さんが止めたが、お父さんもお父さんで、それ以降は見限ったような目で私のことを見るようになった。まだ中学生だった弟の雄司もそれにつられて何となく私と話すのを避け始めた。
お母さんもショックだったのは分かるが、さすがに受験に失敗した娘に対して言って良いことと悪いことがある。怒ってもいいところだったよなぁ、と今となっては思うのだが、十八歳の私はただただ沈むしかなかった。自分はダメな人間だと心から思った。枕に顔を埋めて声を殺して泣いた。落ち込んで眠れない日が続いた。それはまるで底の無い奈落で、着地点というものが無く、私の精神は果てしなく落ち続けた。大きく進路を変更して受けた福祉関係の専門学校に合格した後も、私の心は浮かんでは来なかった(お母さんは私に国公立か有名私立大学の法学部に進学してほしかったので、まったく納得してはいなかった)。どんな生き方をしても私はダメで、この先何も上手くいくことは無いと思った。
二月の終わりの朝だった。その日もほとんど眠れないまま朝を迎え、薄い光にカーテンを開けるとはらはらと雪が降っていて、私は誘われるように外に出た。早朝の街は氷のようで、白くて、誰もいなかった。私はパジャマの上にユニクロのダウンジャケットを羽織り、傘も差さずに一人歩いた。
いつから雪が降っていたのか、道には六枚切りの食パンほどの雪が積もっていて、踏むと、くしゃっくしゃっと、可愛らしい音を立てて潰れた。
このままどこかずっと遠いところへ行ってしまいたいと思った。私のことなんて誰も知らない遠いところへ。それで私が変われるのかどうかは分からないが、ここにいるよりはましだろうと思った。
そんな想いを抱えて歩いても、住み慣れた街の知っている景色をなかなか抜けることができなかった。もどかしい気持ちのまま歩いていると、中学の同級生の優捺ちゃんのお母さんと会った。
あらぁ、有希ちゃん、と優捺ちゃんのお母さんの声が澄んだ朝の街に通る。久しぶりに誰かに下の名前で呼ばれて、あぁ、そういうえば私の名前は有希だったなと思い出した。家では、受験で失敗してからお母さんはあなたとかあんたとかだし、お父さんは有希と呼ぶが、最近はほとんど顔を合わせていなかった。学校ではだいたい苗字で(名前で呼び合うほど親しい友達もいなかった)、下の名前で呼ばれるのは本当に久しぶりだった。
優捺ちゃんのお母さんは上下共にadidasのジャージで、ニューバランスの運動靴を履いていた。ウォーキングですか? と聞いたら、耳に付けていたイヤホンを外して、最近ちょっと太っちゃったから、と恥ずかしそうに笑った。
「有希ちゃんは散歩?」
「まぁ、あの。雪が降ってたんで」
しどろもどろの回答になっていた。確かにこの辺りでは珍しいわよね、と優捺ちゃんのお母さんは少し息を切らして笑っていた。冷静に考えたら、こんな朝から傘も差さずに散歩なんておかしいのに、早朝の運動で少しハイになっているのかもしれない。
「有希ちゃんも受験は終わったの?」
「あ、はい」
福祉関係の専門学校に行きます、と言った。家族以外に進路を話すのは初めてだった。
「そっか。うちの優捺は附属の大学にそのまま進学なんだけど、バイトばっかりで全然勉強してないわ。入学してから受験組に付いていけるのかが心配」
そう言われて、優捺ちゃんは有名私立大学の附属高校に進学していたことを思い出した。中学時代から優捺ちゃんはよくできる子だった。同じ吹奏楽部だったのだが、ドラムがすごく上手で、リズム良くスネアやシンバルを叩く背中がかっこよかった。三年間頑張っても、まともにトロンボーンを吹くことができなかった私とは大違いだった。
大丈夫、優捺ちゃんならきっと大学に進学してもちゃんとやる。そもそも、大学が決まって入学までの間にも真面目に勉強している子なんてほとんどいないだろう。優捺ちゃんのお母さんだって本当はそれくらい分かっているはずだ。分かったうえで謙遜しているのだということが透けて見えた。心の中、底知れない嫌悪感が、私が落ち続けた底の無い穴を満たしていくのが分かった。
雪道、滑ったらいけないのでウォーキング気をつけてくださいね、と何とか言葉を絞り出す。優捺ちゃんのお母さんは、走るわけじゃないから大丈夫よ、と笑顔で言って、雪道をまた歩いて行った。もしかしたら今世界で一番出会いたくなかった人だったかもしれない。私は再び一人になった。早く誰もいない遠くへ行きたいと思い、雪道を駆け出した。
全力で走るのは去年の体育祭以来だから、多分十カ月ぶりだった。上手く走れなくて足がもつれる。それでも私は走った。私は、優捺ちゃんや他のみんなみたいに上手くできない。お母さんやお父さんの望むような子供にはなれない。福祉の専門学校に進学したところでどうせ私は何も学ばないだろう。何故なら私は福祉になんて興味が無いからだ。ただ、タイミングよく合格することができたから進学するだけで、所詮は行き当たりばったりの選択なのだ。どうせまた失敗する。上手くはいかない。学校を卒業してからもまた上手くはいかないだろう。失敗に失敗を重ねて上手くいくわけがない。けっきょく私の人生はミスの上塗りでしかない。
その時、不意に踏み締めた感覚が雪ではなく氷になった。あっ、と思うまでもなく、踏ん張りの効かなくなった身体はそのまま前方に投げ出され、雪のアスファルトの上を転がった。
転んだ拍子に地面に顔を打ち付けた。痛い、と言うより冷たい、という感覚だった。本当に激痛だとそういう感覚になるのか、それとも雪道に打ち付けられたからなのかは分からないが、とにかく冷たくて、私は雪のアスファルトの上にへたりこんでしまった。足も擦りむいていて、パジャマの膝に血が染みていた。すぐにお尻も雪で濡れて、どうしようもなく惨めな気持ちになった。
やはり顔が冷たくて、どうなっているのか、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出してインカメラで見てみる。そこには、漫画みたいに両方の鼻から鼻血を流した私が映っていた。酷い顔だった。上口唇から下顎にまっすぐ刷毛でなぞったようにべっとりと鼻血で染まっていた。頬は寒さでピンク、目は涙目で、髪には薄っすらと雪が積もっていた。笑ってしまった。
私の人生には絶望しかない。今現在、身体もぼろぼろで、鼻血まみれの情け無い顔をしている。でも笑えたら少し気が楽になった。そこで気付いた。どんなに人生に絶望しかなくとも、それを笑うことができるのであれば、絶望ではなくなる。笑えるならば、全てのマイナスを帳消しにすることができる。
私は笑った。肩を震わして笑った。大丈夫、私の人生にはまだ救いがある。笑いを追求するようになったのはそれからだった。
夕方、仕事終わりに外に出たら雨が降っていた。自転車通勤の私にとって雨は大敵だった。一応、緊急用の雨合羽も鞄に入れてはいるのだが、着るのも脱ぐのも面倒なので極力使いたくなかった。傘を差して帰れるくらいならば良かったのだが、手のひらを当ててみると思ったよりも雨足が強かった。
仕方がないから雨合羽を着るか、と思っていたところに同期入社の美羽ちゃんがちょうど車で通りかかった。藤森、乗ってく? と、窓を開けて声を掛けてくれた。それで私はありがたく助手席に乗せてもらった。
「今日、雨の予報だったっけ?」
美羽ちゃんはゆっくりと車を発進させ、欠伸をしながら言った。美羽ちゃんの車は黒のダイハツの軽自動車で、一年程前に中古で買ったと言っていた。ダッシュボードにはミッキーマウスとミニーマウスのぬいぐるみが飾られているとも置き忘れられているとも見える感じで立て掛けてあり、最近ネットニュースで紅白内定と言われていたバンドの音楽が、カーステレオではなくスタンドに取り付けられたiPhoneから流れていた。
「そんな予報じゃなかった気がする。ごめん、助かったよ」
「ちょうどいいタイミングだったから良かった」
工場の敷地を出ると雨は更に強まり、美羽ちゃんはワイパーの強さを一つ上げた。打ち付ける雨音に、私は酷い雨、と無意識のうちに呟いていた。
「藤森も車買ったらいいじゃん。実家暮らしだからお金溜まってるでしょ」
「うーん。あったら便利だけど、お母さんが普段使いしてる車があるから停めるところないし」
「そんなのその辺の駐車場借りちゃえばいいのよ」
「あぁ、まぁね」
美羽ちゃんは相変わらず賢いなぁと思った。別に駐車場を借りるだなんて、考えたこともなかった。
最初は五人いた同期入社も、転職やら結婚やらで、今や残っているのは美羽ちゃんと私だけだった。美羽ちゃんはシステム関係の部署に所属していた。専門知識も無いのに何でシステム? と、最初は文句を言っていたが、それでもそこからもう三年は頑張っている。頭の良い人なのだ。保育関係の専門学校を出ているのだが、まったく関係の無い印刷会社に就職した。私は保育士には向いてなかったね、とはっきり言っていた。ちょっとだけ聞いたことがあるのだが、どうも専門学校時代の実習で嫌なことがあったらしい。私も同じく専門学校を出ても福祉関係の道には進まなかったので(その選択のせいでお母さんとの溝は更に深まった)、ある意味共通点があって、入社当初からよく話した。
有希って名前、ぱっと思い出しただけで友達に五人はいるんだよね、と言って、美羽ちゃんは私のことを藤森と呼ぶ。でもそれは過去のクラスメイト達がそう呼ぶ以外無いから仕方なく苗字で呼んでいたのとは違って、何だか暖かくて私は好きだった。美羽ちゃんは明るくて、友達もたくさんいて、何より面白い人だった。
「てか、業績の話聞いた?」
「うん。今日パートさんから聞いた」
「マジ終わってるよね」
と言って美羽ちゃんは笑った。業績悪化w。うん、面白い。さすが美羽ちゃん。笑いのポイントをちゃんと分かっている。いくら業績が悪化しても大したことではないように思えた。
「うちの課、最近めちゃくちゃ暇だよ。ほとんどの時間ぼーっとしてて、たまにお客さんからデータが送られてきたら処理して次の部署までUSBに入れて持ってくの。今日なんて、暇過ぎてみんなでSwitchでも買おうかって話してたわ。通信対戦やろうって」
通信対戦wwと私はw二個分くらい笑う。
「藤森の部署は?」
「一時期に比べたらかなり暇だよ。だから眠い。毎日とにかく眠い」
それで品質事故を起こしちゃったんだけど、とまでは言わない。眠いくらいが一番美羽ちゃんは笑ってくれるんじゃないかな、と思ってのことだった。狙い通り美羽ちゃんは笑ってくれて、私も嬉しい。笑うと私の仕事は楽しいものなのだと思えた。
家の前に着いた時には雨は少し弱まっていたが、雨雲レーダーではあと三時間は止まない予報になっていた。美羽ちゃんにお礼を言って別れる。走り去る車が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
家に入りリビングに行くと、ちょうどお母さんが夕飯の支度を終え、エプロンを外しているところだった。食卓には三人分の食事が用意されていて、席の並びからお父さんだけまだ帰っていないのだと分かった。お母さんは私を見ると、部屋から雄司を呼んできて、と言った。おかえりとか、お疲れ様とか、そんな言葉を掛けられないことには慣れていた。分かった、と言って二階の雄司の部屋まで行く。ノックをすると、はい、と雄司の声がして、ご飯だよ、と言うと、私だと気付き、あぁ、と声色がちょっと変わった。
リビングに戻ると、あんた手洗ったの? と、いきなりお母さんからきつい声で言われる。帰ってきてすぐに雄司を呼んで来いって言われたから、と思うも、言い訳をしたら更にきついことを言われるので、ごめんなさい、と謝って大人しく洗面所に手を洗いに行く。しっかり洗わないとまた何か言われるので、指の間まで丁寧に洗って戻ると、お母さんと雄司はもう食卓に座って夕飯を食べ始めていた。
夕飯はハヤシライスとサラダだった。ハヤシライスには私の嫌いなブロッコリーがたくさん入っていた。私は嫌いだが雄司は好きなので、うちのご飯にはブロッコリーの登場率が高い。まったく食べないと怒られるので、あの手この手で頑張って流し込む。だから昔より少しは食べられるようになった。
食卓の話題は雄司の大学での話が中心だった。とは言ってもその会話に私は入っていなかった。お母さんと雄司はまるで私などいないかのように話すのが上手い。パントマイムの見えない壁のようなものが二人と私の間にはっきりと見えた。
四つ歳下の雄司は大学の二回生になっていた。国公立大学の法学部に現役で進学して、弁護士を目指している。大学までは少し遠いが、一人暮らしはせずに実家から通っていた。このまま法科大学院に進むことはほぼ確定路線で、そうなると最低でもまだあと四年は家にいる。私とは違いしっかりと親の期待に応える弟だった。それを本人も分かっていて、年々私のことを見下す傾向が強くなっていた。
ブロッコリーを小さく潰し、他のものに混ぜて何とかハヤシライスを完食する頃には、二人はもう食事を終えてソファでテレビを観ていた。夕飯の洗い物は私の担当で、シンクに置き離された二人の食器と私の食器を合わせて洗った。
洗い物が終わり、二人はまだテレビを観ていたので先にお風呂に入ることにした。脱衣所まで来てズボンを脱いだところにお母さんが来た。雨が降ってるからお父さんを駅まで迎えに行ってきて、と言われた。それは選択肢の無い、有無を言わさぬ言い方だった。別にわざわざそんな言い方をしなくても断るつもりはないのに。私はもう一度脱いだズボンを履き、車のキーを持って外に出る。雨はまた強くなっていた。
家の車はカローラで、美羽ちゃんの車に乗った後に乗るとずいぶん大きく感じた。このカローラが美羽ちゃんに話していた、お母さんが普段使いしている車だ。暗がりでも掃除が行き届いていることが分かるくらいに綺麗だった。だから汚さないようにいつも気を遣う。
最寄りの駅までは歩いたら十五分、車だと五分だった。駅前ロータリーは混んでいた。雨が強いので、同じように家族を迎えに来ている人が多いのだろう。
五分後にお父さんが来た。ありがとう、と小さく言って後部座席に座った。お父さんは一年中、必ず上下スーツを着て、きちんとネクタイも締めていた。物静かで、堅くて、我が父ながら威厳の塊のような人だった。家に着くまでの間、お互い一言も話さなかった。駐車場に車を停めると、お父さんはまた、ありがとう、とだけ言って先にさっさと降りて行った。エンジンを切ると底が抜けたみたいな沈黙が車内を包んだ。ちょっと疲れて、中途半端に柔らかいハンドルに額を付ける。
召使いみたいだなぁ、と思うも、召使いという言葉は暗くて、面白くなくて、シンデレラみたいだなぁ、に訂正した。それで、ちょっとはポップになった。カボチャの馬車じゃなくてカローラじゃん、と呟く。これはちょっと面白い。カローラw。すぐにwを足す。でもw二個は無理だった。頑張って一個だった。
こんなんじゃダメだ。もっともっと笑えるようにならないといけないと思った。まだまだ足りない。私が私を肯定するためにはまだまだ笑いが足りない。
私が起こした品質事故は、どうもクライアントが怒っているようで、社内でも大きな問題になりつつあった。
事故が発覚した二日後、品質保証部がわざわざ本社から工場に来ることになった。事故対策に向けた現場視察と聞き取り調査を行うのだ。これは重大事故が発生した時の会社の動きだった。つまり今回の事故は重大事故として位置付けられたのだ。当然、当事者の私への聞き取りもあり、午後の作業の途中、チームリーダーの安原さんと共に応接室に呼ばれた。
「気にしなくていいからな」
応接室へ向かう途中、安原さんから言われた。あ、はい、すみません、と私は反射的に謝った。眠気が抜けない顔が落ち込んでいるような顔に見えたのだろうか。また笑いに変えればいいと思っていたので、私は聞き取り調査に対してもそんなに気にはしていなかった。
安原さんは三十手前くらいの先輩社員で、優しい人だった。サッカー日本代表にいそうな感じのいわゆるイケメンで、パートさんからの人気も高かった。ちょっと前に、美羽ちゃんと付き合っていると噂になったこともあったのだが、真偽のほどは確かではなかった。少なくとも私は二人が話しているところすら見たことがなかったので、いったいどこからそんな話になったのだろうと思っていた。
「聞き取り調査なんて言いつつあれは完全な尋問だからな。品質保証部の連中は分かってない。作業者まで呼ぶ必要ないんだよ。俺と課長だけで十分なのに」
これは、どういうリアクションをするのが正解なのだろうと迷ったが、けっきょく中途半端に相槌を打って苦笑いをした。我ながら無難な反応だと思った。私のことを気遣ってくれているのが伝われば伝わるほど何も気にしていない自分が申し訳なくなる。
応接室に入ると、もうすでに品質保証部の丸山部長と鈴木課長が席に付いていて、向かいの席に安原さんと私が座った。じゃあ始めますか、と丸山部長が話し出した時、過剰な尋問はやめてくださいよ、と安原さんが先に釘を刺した。安原さんはそもそも前から品質保証部のことが嫌いだった。
「尋問なんて人聞きが悪い。ただ簡単な質問をするだけですよ」
と言って、丸山部長は笑いながら短く刈り込んだ頭を掻いた。五十代という年齢の割に体型も崩れておらず、ぱっと見た感じは品質保証部というより体育教師のような人だった。じゃあ、と言って聞き取りが始まる。もう一人の鈴木課長はパソコンを開いていて、おそらく今回も書記に専念するのだろう。基本的に質問をするのは丸山部長だけだ。事故後の聞き取りは今回が初めてではないので、何となくの流れは分かっていた。
「作業フローを理解したうえで作業をしていましたか?」
「作業フローに対して疑問はありませんでしたか?」
「作業に対する振り返りは行っていましたか?」
「異常時の対応についても理解をしていましたか?」
「他の作業者や上司とのコミュニケーションに問題はありませんでしたか?」
「作業に対する教育は十分でしたか?」
「特に注意しなければならない部分については重点的に教育をされましたか?」
他にも幾つか質問があったが、私はその全てに「はい」と答えた。これもいつものことだった。鈴木課長は時折私の方を見ながら、熱心にパソコンに文字を打ち込んでいた。その様子はどこか滑稽で、笑いそうになった。
だいたいは分かりました、と丸山部長が言って、聞き取りは終わった。何が分かったのかよく分からなかったが、とりあえず分かってもらえたのなら良かった。気付いたら応接室に入ってからもう一時間が経っていた。
また作業場に戻るの嫌だな、と思いながら応接室を出ると、ごめんなぁ藤森、と安原さんに謝られた。
「いやいや、私が起こした事故ですから」
「けっきょく尋問だったからさ。やっぱあの聞き取りは良くないよ」
ですね、と話を合わせたが、私はやはり何も気にしていなかった。むしろ作業から抜けられてラッキーというくらいだった。
「お前、聞き取り何回目よ?」
「三回目です」
答えた後に、もしかすると四回目だったかもしれないと思った。
「あまり気にするなよ。頑張ってるのは分かってるから。人間が作業している以上ミスは必ず起こるんだ。ロボットじゃないんだから」
「すみません」
私の事故回数は他の作業者と比べても格段に多い。その分安原さんにも迷惑を掛けていた。
作業に戻るとまた瞼の辺りがほんのり温かくなってきて眠気が襲ってくる。ちゃんと夜に寝ていない訳でもないのだが、作業をしているとどうしても眠くなる。特に午後の時間が危なかった。
何とか定時を乗り切って業務を終了した。それでもまだ眠くて、欠伸をしつつ外に出ると、おーい、と駐車場から声を掛けられた。丸山部長だった。何となくそうかなと思っていたのであまり驚きはなかった。丸山部長の車はブルーのフォルクスワーゲンだった。私はその助手席に乗り込む。
「今日は悪かったね」
車を発進させながら丸山部長が言う。皆が私に謝る。私は何とも思ってないのに。というか悪いことをしたのは私の方なのに。
「ちょっと疲れた?」
「まぁ、はい」
「気にすることないよ」
「すみません」
最近、謝罪の言葉が反射的に出る。気持ちの入っていない言葉は、先へ進むために読み飛ばしてチェックする同意欄と同じだ。
車は流れるように夕暮れの街を抜け、大きな川のような国道に出る。行き先はファミレスかホテルのどちらかだということは分かっていた。どっちでもいいな、と思っていたら、車はホテルの駐車場に入って行った。部屋に入ると丸山部長はクローゼットに上着を掛け、何か食べたい? と聞いた。そこまでお腹は減っていなかったし家に帰ったら夕飯もあるので、大丈夫ですと言うと、じゃ、先シャワー浴びる? と聞かれて、じゃあ、と言ってバスルームへ向かった。
前にも来たことのあるホテルだったので、バスタオルの位置など何となく勝手が分かった。海賊をモチーフにしたホテルで、室内には海賊船のような装飾が施されていた。でも鏡の真ん中に映る私はいつもの私で、どう見ても海賊の世界からは浮いていた。別にコスプレがしたい訳ではないが、どうせ世界観を強要してくるなら、衣装も貸してくれたらそれなりに雰囲気が出るのにと思った。服を脱いでその上にバスタオルを置き、シャワーを浴びる。バスルームの内装は普通で、ちょっと現実に戻る。
丸山部長とこのような関係になったのは二回目の品質事故の聞き取りの後だった。聞き取り後、今日と同じように声を掛けられファミレスでご飯を食べた。
丸山部長はお酒を飲んでいるわけでもないのに饒舌で、事故が起こる原因や、それは個人ではなく仕組みの問題だという話をした。私のことを励ましてくれているようだった。その気持ちは嬉しかったが、正直言って私としては事故の理論などどうでもいいことだったので(笑いに変えれば終わる話なので)、あまり気の利いたコメントも返せず、そうですね、と俯いてご飯を小盛りで頼んだハンバーグプレートを食べていた。
私はそれまで丸山部長に対してあまり良い印象を持っていなかった。聞き取り以外でちゃんと話したことはなかったのだが、安原さんを含め部署内の人達はみんな丸山部長を嫌っていたし、何となくそれに引っ張られていた。
でも二人で話すと印象が違った。話し方は優しいし、仕事中のちょっと嫌味な感じも無い。顔だって悪くはないので、嫌な気はしなかった。そんな心の隙を突かれて、そのままさらっとホテルに誘われ、さらっと付いて行ってしまった。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、丸山部長はベッドに腰掛けて煙草を吸っていた。これはいつものことだった。私が戻って来たのを確認するとシャツを脱いで上裸になる。引き締まっている、と言っていいくらいの身体で、おそらく本人的には自慢なのだと思う。この場で見ると、ちょっと海賊っぽい身体で、部屋の雰囲気に合って見えた。眼帯とベストがあればキャプテンにもなり得るな、なんて考え、それは少し面白かった。バスローブの身体で隣に座ると、そのままベッドに押し倒された。
ずっと恋愛なんてものとは無縁だった私にとって、丸山部長は初めての人だった。でも別に好きだとかそういう感情は無かった。丸山部長は結婚して子供もいるし(もう大学生だと言っていた)、都合良く扱われているのだろうな、ということも分かっていた。でも別にそれで良かった。傷つくとかも無かったし、流れに身を任せたという感じだった。
丸山部長がシャワーを浴びる音が防音の効いたバスルームの中から微かに聞こえる。しわくちゃになったシーツの上で寝転がった視線の先に、空になったコンドームの包みが二つ落ちているのが見えた。二回の行為と前後のシャワーを三時間の休憩時間中にきっちり収めるそのスケジュール管理能力に毎回感心する。さすがは品質管理部だと思いながら欠伸をする。また眠たくなってきた。
面白くないから眠くなるのだと、最近気付いた。別に、楽しいことだらけの人生なんて望んではいない。ただ、辛いことに耐えられればそれでいいのだ。多くを望みなどしない。だから私にも多くを望まないでほしい。少しだけ目を瞑る。どれくらいの時間が経ったのかは分からないが、そろそろ帰ろうか、と丸山部長に言われて目を開けた。
今日の日替わり弁当は鯖の煮付けとグリンピースの入ったマカロニグラタン、そしてブロッコリーとツナのサラダで、私の嫌いなものばかりだった。何故世界には私の嫌いなものがこんなに溢れているのだろうと思った。
頑張ったが半分くらいで気分が悪くなってきて、もうこれ以上食べるのは無理だと思った。夜は嫌いでも食べないと怒られるから何とか頑張るが、昼まで頑張る気力はなかった。そうなると残すしかないのだが、残した食べ物は生ゴミに捨ててから弁当箱を返さなければならなくて、食べ残しを捨てているところを周りに見られるのは少し抵抗があった。前に某有名お笑い芸人が、貧しくて食べられない子供たちだって腹いっぱいになったら残すわ! みたいなことを言っていたが、満腹どうこうは置いておいて、そういう子供達は多分好き嫌いはしないのだろうなぁ、と思った。ブロッコリーもちゃんと食べるのだろう。
タイミングを見て人が少なくなった時に行こう、と思っていたら、後半組が来る時間になってしまった。製造一部の新崎君が食堂に入ってくるのが見えた。彼はいつも後半組で一番に食堂に入ってくる。怖い顔をして、いかにも面白くなさそうにお弁当を取って一人で端の方に座った。
新崎君は私より二つ年次が下の後輩だった。と、言っても面識は無い。私が一方的に知っているだけで、向こうはおそらく私のことなど知らないはずだ。小柄で、いわゆる眼鏡君な感じで大人しそうなのだが、意外と頑固な性格で、加えて少し捻くれていた。そのせいで彼は工場内ではちょっとした有名人だった。
コロナウイルスが流行った時、どういう考え方なのかは知らないが、彼は断固としてマスクを着けなかった。当時は先行きが分からずかなり緊迫していて、そういう個人の思想が許される状況ではなかった。当然注意された。かなり揉めていた。でも彼は折れず、けっきょく一度もマスクを着けることはなかった。
誰が見つけたのかは知らないが、工場内では彼のSNSのアカウントが出回っていた。このSNSというのがまた過激で、基本的に彼は政治や社会に対して怒っていて、その中でも特にコロナ禍でマスク着用が半ば義務になっている状況に対して激しい怒りを抱いていた。外出が自粛されていた時期にも関わらず、様々な観光スポットを巡り、マスクを外した自撮り写真をアップしていた。そのほとんどの投稿に#マスクいらんやろ、とハッシュタグが付けられていたので、皆それを面白がってマスクいらんやろー、何て言って裏で馬鹿にしていた。工場内でマスクを着用しないことが認められないことに対しても、上司や同僚の実名を混えてかなり激しい言葉で書いていた。だから多分彼は自分のアカウントが皆に知られていることは知らない。
コロナが収まって皆マスクを着けなくなった今もその頃の気持ちの悪さは残っていて、工場内で彼は何となく奇異な存在になっていた。
私は彼を最高に面白いと思っていた。抗っても勝てないものに対して怒るのは何故か? 笑っていればいいのに。そこを怒ることで昇華させるなんて最高に笑える。現実、新崎君のおかげであの苦しかったコロナ禍に工場内で笑いが生まれた。笑えるということは絶対に正だ。不幸なことがない。笑いとは許容である。許容できるギリギリの行動が一番インパクトがあって面白い。だから新崎君はセンスがある。
今日もまた美味しいとか不味いとかの感情が読めない顔で一人お弁当を食べている。実につまらなさそうで、見ているだけで少し笑えた。
「何ニヤニヤしてんの」
不意に声を掛けられてドキっとした。美羽ちゃんだった。美羽ちゃんは後半組だったので、今から昼食だった。私の向かいの席に座ってお弁当箱を開けた。
「藤森、何か事故大変らしいじゃない」
「あぁ、うん」
今わざわざ話題に出すということは、この前は本当に知らなかったのだろう。
「まぁ、やってしまったことは仕方ない。てか、あんな退屈な作業ずっとやってたらミスも起きるわ。私だったらもっと事故ってる」
事故ってる、と事故を動詞にしてしまうあたりさすが美羽ちゃんだなぁ、と感心した。やっぱり美羽ちゃんはすごい。
「Switch買った?」
「まだ」
と美羽ちゃんは笑う。早く買わなきゃだね、と私も笑う。本当に早く買ってほしかった。それでまた面白い話を聞かせてほしいと思った。
その日の午後、部長に呼ばれて部署異動を命じられた。異動する先は生産管理課と言って、倉庫の入出庫管理を担当する部署だった。別にどこの部署が偉いとかは無いのだが、実作業からは外されたことになる。時期的にも、この前の事故が影響した異動だということは誰の目から見ても明らかだった。
夕方、松永さんが一派を引き連れて私のところに来た。おおよそ見当は付いていたが、異動のこと聞いたわよぉ、と声を掛けられ、さすが耳が早いなと感心した。
「事故なんて、藤森さんのせいじゃないのにね」
と言った松永さんの顔には、だけどお前は馬鹿だけどな、とはっきり書いてあった。正解、と両手指ピストルで差したくなる。見下されているのはずっと知っていた。
「いろいろ迷惑掛けました」
「迷惑なんてないわよぉ。寂しくなるわね」
全然寂しく無さそうな顔で言うので笑いそうになる。
「丸山が悪いのよ。あいつ、本当に陰湿な性格だから」
そうよねぇ、と取り巻きのパートさん達も顔を顰めた。これは本物の嫌悪感だった。丸山部長、嫌われてるなぁ、と思った。夜の方は陰湿ではないですよ、とフォローしようかと思ったが、それは多分笑いの許容範囲を超えているから止めた。そもそも夜の陰湿って何だ。
今日は金曜日で、週明け月曜日から異動と言われたので、彼女等と同じ部署で働くのは今日が最後だった。入社以来約三年この部署にいたことになるのだが、驚くほど何とも思わなかった。眠たかった思い出しかなかった。
「本当に気にしちゃダメよ。藤森さんは良い子なんだから。新しい部署でも頑張ってね」
松永さんの言葉に取り巻き達も頷く。
やっと分かった。その優しさは見限りだ。私の工場内での「怒られるうちが花」はもうとっくに枯れていた。気遣いは、風船を空に放つような柔らかいさよならだ。求められることは煩わしいと思っていたが、いざ一人空に消えるとなるとやはり寂しかった。
ありがとうございます、と頭を下げる。何に対してのありがとうございますなのか、自分でもよく分からなかった。笑いの要素が見つからなかった。そうなると胸がきゅっとして、心臓が六分の一くらいの大きさになったような感覚を覚える。ダメだダメだ。心の中で迷路を辿った。
土曜日、朝から授業がある雄司を駅まで送って家に戻り、洗濯を干した後、今度は友達とランチに行くお母さんを送った。
学生時代の友達との集まりらしかった。言われた角を曲がると、お母さんと同じくらいの年代の女の人が三人、ちょっと高そうなフランス料理店の前に立っているのが見えた。
「あの、ちょっと手前のとこ。そう、あそこ。軽く寄せるだけでいいから。下手なんだから無理して縦列とかしなくていいから。そう。ここ。あ、ちょっと。軽くって言ったけど、もうちょっと寄せなさいよ。それじゃ後ろから来た車が通れないじゃない。何してるのよ、下がっても意味無いでしょ。いや、もう降りるわよ。もういい。さっと降りるからさっと行って」
車を停めるたった数秒の間に矢継ぎに怒られる。言葉を受け止めるより先に次の言葉が来るので理解が追いつかなかった。じゃ、二時間後くらいにまた迎えよろしくね、と言ってお母さんは降りて行った。言われた通りさっと車を出して立ち去る時、友達と合流して笑い合うお母さんが見えた。私には見せない笑顔だった。
二時間というのは実に中途半端な時間だった。行きは三十分くらいで着けたが、帰りは道が混むので四十五分はかかるだろう。となると一旦帰ってもまたすぐ出ることになるので面倒くさかった。時間的に私もお昼ご飯を食べたい。
近場のコンビニに行って菓子パンとコーヒーを買う。レジで合計金額を見ると思っていたよりも高くて、そういえば最近物価が高騰しているとニュースで言っていたのを思い出した。普段は家と工場の往復だけなので実感することがなかった。
菓子パンはすぐに食べてしまい、コーヒーは甘くて、半分くらいで要らなくなった。時間はまだまだ余っていた。コンビニの駐車場でシートを倒して楽な体制になる。空は雲一つなく、水色をぎりぎりまで薄めたような快晴だった。鳥達が飛ぶ。その軌道は自由で、羨ましかった。私もあんなふうに自由に生きたいと思った。
手持ち無沙汰でSNSを開いてみるも、電波が悪いのか途中からページを更新できなくなった。数ヶ月前にキャリアを格安スマホに変えてから度々そういうことがある。ネットに繋がりにくくなるのは嫌だったので、キャリア変更の時に電波は問題無いかわざわざ聞いていたのに。
ネットに繋がらないとスマホも一気につまらなくなる。世界に繋がらない閉鎖的な場所で面白いことなどあまりない。暇なのでインカメラで自分の顔を映した。唇をすぼめた顔で写真を撮る。変な顔で、ちょっと面白かったがすぐに消した。面白くとも記録に残したくないこともある。笑いにも羞恥がある。本当の笑いは清々しいものであるべきだ。
また眠くなってきた。面白くないのもあるが、今朝はちょっと起きるのも早かった。睡眠が足りていなかった。しかし、誰に気兼ねをすることもなく眠れるということは素晴らしいことだ。この世には眠ってはいけない理由が多すぎる。眠っている時だけは笑わなくても安心できる。誰からも咎められたりもしない。目を瞑って暗闇の世界に降りた。
雨音が車を打つ音で目が覚めた。いつの間にか雨が降っていたようだった。慣れないところで寝たせいか、起きたらここがどこか分からず一瞬混乱した。スマホが震えていた。お母さんからの電話だった。時間を見ると約束の時間を既に三十分も過ぎていて青ざめた。電話に出ると即座にお母さんの怒号が飛び込んできて、私は謝りながらエンジンをかけた。馬鹿さ加減に笑ってしまった。オッケー。まだいける。
予定通り翌週月曜日から生産管理課に異動した。いつもの作業場ではなく事務所が職場となり、驚くことに私にも自分のデスクが与えられた。事務所には工場長や製造部長のような偉い人もいて、何となく緊張感があり居心地が悪かった。これは眠い時辛いだろうなぁ、と思っていたら、じゃ倉庫行くわよ、と生産管理課の先輩の大塚さんに声を掛けられた。大塚さんは前から顔は知っていたが話をするのは今日が初めてだった。見た目は三十手前くらいに見えるのだが、落ち着きがあるからもしかしたらもう少し上なのかもしれない。
倉庫にはたくさんの印刷物がダンボールに入れて置かれていた。これらを指示された通りにお客さんに発送したり、作業場に運んだりするのが今日からの私の仕事らしかった。加えてデスクワークもあって、納品書を出力したり週次で営業さんに在庫表を提出したりもするようだった。大塚さんの説明を聞きながら、もうすでに眠くなりつつある自分がいた。
初日は大塚さんに付いて回り、倉庫内で在庫品の数量確認をした。製品毎にダンボールの数を数え、製品ナンバーと箱数をノートにメモする。後で事務所に戻り、メモをした内容をエクセルの表に記入して、在庫表を営業さんにメールするのだ。ある程度予想はしていたが、やはり昼過ぎは強烈に眠かった。ダンボールを数えるのが、羊を数えているような気持ちになり眠気を助長した。
同じ作業をしているのに、大塚さんはまったく眠そうな様子もなく、淡々と箱数を確認していた。そっちどう? と声を掛けられ、今の進捗状況を伝えると、思っていた以上に進みが遅かったようで、まぁ初日だからね、と大塚さんは自分に言い聞かせるように呟いた。大塚さんはどれくらい進みました? と聞くと、今で半分くらいかなぁ、と私の三倍近くは進んでいた。
その時、向こうの方で製品を台車に乗せている二人組がこちらを見て笑っているのに気付いた。同じ生産管理課の木下さんと堤さんだった。
彼女等は私の一つ下の年次の高卒社員で、明るい髪色のちょっとヤンキーっぽい見た目の二人だった。私が昔から苦手とするタイプなので逆に名前を覚えていた。視線からして私を見て笑っているのは間違いなかった。あまりにもあからさまだったので、これは何か言った方がいいのかと思い、何ですか? と声を掛けると、二人は意外にも意外そうな顔をした。話し掛けられるとは思っていなかったようだった。
気持ち悪いんだよ、と木下さんが小声で言って、さすがに、え? と聞き返す。すると二人は目を合わせて笑った。
「何なの?」
「うっさい、能無し」
と今度は堤さんがはっきりした声で言って、そのまま二人は去って行った。あまりに唐突なことで私は唖然とした。眠気も覚めた。気にしなくていいよ、と大塚さんが私の肩に手を置いた。
「藤森さん、変な時期の異動だからね。みんな事故のことも知ってるし、何よりあいつ等バカだから」
私に気を遣ってか、大塚さんは言葉少なに話したが、自分が今工場内でどういう目で見られているのかは分かった。
のうなし、と頭の中で言葉をなぞってみる。脳。いや、脳はある。馬鹿だけど一応ある。って、あぁ、違う。能か。能無しって、そっちの能だわ。能は無いね、残念ながら。でもさすがに気分が悪かった。私は確かに能無しかもしれないが、大して面識もない人に面と向かって言われる筋合いは無い。
その日以降も木下さんと堤さんはずっとそんな感じだった。近付き過ぎたら話し掛けられると思っているのか、一定の距離を取って私のことを馬鹿にしていた。一応ちゃんとした会社なのでそんなイジメのようなことは認められないはずなのだが、二人はまだ若いからと思っているのか、誰も注意をしなかった。大塚さんも何も言わなかった。前に何かあったのか、大塚さんとあの二人はお互い何となく避け合っているようにも見えた。
前の部署の方がまだマシだと思った。少なくともここまで陰湿な人間関係は無かった。なかなか笑いにできない日々が続いた。
それで私もいろいろ考えた。どうすればもっと笑えるのか。どんなことでも笑いに変えられるようになるのか。結論、私はお笑い芸人になろうと思った。
私は私に起こったことを笑いたい。面白い話に変えたい。それならばそれを自己完結するのではなく、周りに展開をして笑ってもらい、相乗効果で私も更に笑えれば素晴らしいと思ったのだ。また、自分の中では笑いに変えられなかったことも、アウトプットの仕方次第では人を笑わせることができ、結果私も笑うことができるのではないかと思った。
しかしそれを展開できる友達や家族なんて私にはほとんどいない。それに同じ環境下、例えば工場での笑いを工場の人に展開するとなると、どうしても許容範囲が狭まるし、また変な印象を植え付けてしまうかもしれない。
で、あればいっそ全然知らない人に向けて展開する方がやりやすく、そうなるとお笑い芸人になるのがベストだと思ったのだ。どんなに家が貧乏でも、理不尽なことをされても芸人さんはそれを笑いに変える。私が目指すのはそこだと思った。
ただ、いきなり仕事を辞めて芸人になるというのは、私でも分かるくらいに無理があった。今度こそ本当に家から放り出されるだろう。だからとりあえずは今の仕事を続けつつ芸人になる必要があった。調べてみると、社会人向けに夜間でやっているお笑い養成所というものがあった。これだと思った。
すぐに申し込みのページへ進んだが、そこで手が止まった。冷静に考えたら、何の取り柄もコミュニケーション能力も無い私が、養成所の中で一人でやっていけるのだろうか? と不安になった。それはどう考えても無理だった。自分の内にある笑いを上手くアウトプットできるかも不安だった。失敗したら、いわゆる「スベる」という状態になり、なおも悪いことになってしまうのだ。
相方が必要だと思った。それもとびきり面白い相方が。私には私の笑いを上手く変換してくれる強力な武器が必要だ。
仕事を十五分だけ早退して、十八時には工場の門のところで待機した。彼はほぼ毎日、終業と同時に帰る。早めに来て待ち伏せておかないと逃がしてしまうと思ったのだ。
思っていた通り、新崎君は作業着のまま十八時二分には入り口から出てきた。着替えもしないのか、とちょっと笑いそうになった。つかつかと歩いて駐輪場で原付に跨る。遠目でも不機嫌そうなのが分かって、やはり新崎君は面白いなぁ、と思った。私の相方は彼しかいないと思った。
私は、原付で走り去ろうとする彼の前に両手を広げて立ち塞がった。わっ、と新崎君は驚いて急ブレーキを踏んだ。何が起こったのか分からない様子だった。
「話があるんだけど」
本当は話があるんですけど、と言うつもりだったのだが、一応後輩だったことを思い出し、直前で話があるんだけど、に変えたのだ。
「新崎君、私とお笑いやらない?」
「はぁ?」新崎君は不信感満載な顔だった。まぁ、そりゃそうだと思う。
当たり前だが、簡単に、じゃあそうしましょう、とはならなかった。門のところだと他の社員達も通るので人目が気になった。それで不信がる新崎君を連れて近くの公園まで移動した。
用意していた缶コーヒーを渡すも、新崎君は、何なんですか? と不機嫌そうだった。そうだ、思えば新崎君は私のことを知らないのだ。これは失礼した、と思い、生産管理課の藤森です、と名乗ったが、新崎君は変わらず訝しげな目で私を見ていた。
「さっき、お笑いとか言ってなかったですか?」
「そう、お笑い。新崎君、私と一緒に芸人にならない? コンビを組んでほしいの」
「いや、何なんですか急に」
嫌そうな顔をする新崎君を見て嬉しくなる。そう、その不機嫌な感じこそが新崎君だ。その怒りで私の笑いを包んで昇華してほしい。
「あなたは面白い。絶対上手くいくよ」
「意味分かんないです」
新崎君はまだ飲みかけであろう缶コーヒーを地面に置いて原付に跨った。黒のビーノだった。昔美羽ちゃんがこれのピンクに乗っていたなぁ、と思った。
「なんで? やろうよ」
「嫌です」
新崎君は冷たく言い放ち、いよいよキーを回してエンジンをかけた。逃したらダメだ、と私は焦った。それで、SNSのこと知ってるよ、と囁くと、彼の表情が少し変わった。
「何のことですか?」
「マスクいらんやろ、でしょ」
事前にフォローしておいた新崎君のSNSのページを見せる。新崎君の顔は完全に強張っていた。一気に畳み掛けるべきだと思った。
「ハッシュタグはまぁ、いいけどさ。新崎君、会社の悪口もけっこう書いてるでしょ。ちょいちょい実名も出してたよね」
「だからなんですか」
「あんなの会社にバレたらヤバいんじゃないの? 確か新崎君、お母さんと二人暮らしだよね。今会社クビになるのはマズいんじゃない?」
事前に調べておいたことが生きた。脅すつもりですか? と、新崎君は怒りと不安の入り混じったものすごい目で私を見た。恨みがあるわけでもないので、内心ごめん、とは思っていたが、私としてもここで引くわけには行かなかった。
「私とコンビ組んでくれたら黙っててあげるよ」
本当はみんな新崎君のSNSのことを知っている。工場の偉い人達も知っている。そのうえで、あいつは仕方ないなぁ、程度で流していた。別に大企業なわけでもないので、コンプライアンスやらなんやらにそこまでうるさくないのだ。でも新崎君はそのことを知らない。原付のエンジンを切って考えていた。
「分かりましたよ」
しばらく経った後、新崎君は観念したように言った。私は心の中でガッツポーズをした。その場で二人分の入所申し込みをした。
翌日、養成所から電話が掛かってきて、明後日から来れますか? と聞かれた。もちろん行きますと伝え、新崎君にもそれを伝える。まだ乗り気ではなかったが、それでも初日の講習に彼はちゃんと来た。
養成所は工場から電車で二十分くらい行ったところにある繁華街の駅前ビルの三階にあった。養成所と言っても大手芸能プロダクションが経営しているようなものではないので、小ぢんまりした、普通の会社のオフィスのようだった。新崎君を連れて受付へ行くと、あらかじめ用意されていた二人分の生徒証を渡された(生徒証と言っても、色紙に名前と生徒番号が書かれただけの簡単なものだった。私の生徒番号は五十一番で、新崎君が五十二番だった)。
事務所の奥に会議室があった。事務員の女性に連れられて入ると、もうすでに十人くらいの人が集まっていた。部屋にテーブルと椅子は無く、みんな地べたに座っていた。同じく芸人志望の人達なのだろう。ほとんどが男の人で、二人だけ女の人がいた。二人とも私より少し若く見えた。しばらく待つと、講師っぽい男の人が部屋に入ってきた。
「えっと、皆さん入所ありがとうございます。とりあえず今日はピンでやるか、ここにいるメンバー内でコンビを組んでやるかを決めていただけますか? で、それぞれ次週には軽くでいいのでネタを持ってきてほしいです。よろしくお願いします」
あまりの雑さに会議室内がどよめいた。私は新崎君を連れて来ていたから良かったが、そうでない人には中々の無茶振りだ。だが、そこはさすが芸人志望なのか、皆すぐに適当な相手とコンビを組むか、ピンでやるかの覚悟を決めていた。確かにこの無茶振りも、笑いにしてしまえば面白い。いや、これマジなんですよ、マジな話なんですよ、なんていつか話せたら何と素晴らしいことか。私はこの時初めて「おいしい」という感覚を覚えた。
養成所の講習は基本的に週一であり、毎週順番に各々ネタを披露してそれを評価し合うというものだった。正直、これを講習と呼んでいいのか? と、思うところはあった。養成所側は場所を提供するだけで、ほとんど何の指導もしなかった。受講料をぼったくられているような気がした。まぁ、しかしお笑い芸人を志す人達が集まって、皆でお笑いをできているのは事実だからか、誰も何の文句も言わなかった。もしかしたら皆それぞれ心の中で「おいしい」と思っていたのかもしれない。
ネタは私が考えた。ネタと言ってもそんな大それたものでなく、私が私の話をして、新崎君がそれに対してコメントするというものだった。話の詳細まで詰めるわけでもなく、ざっくりとした大筋だけ決めておいて、あとはほとんどフリートークだった。
「仕事でミスして部署異動になったんですよ」
「そうなんですか。まぁ、仕方ないんじゃないですか。ミスしちゃったなら」
「それで、あることないこと職場で噂されて」
「噂は噂でしょ。関係ない」
「うん。で、今ヤンキーの後輩達にイジめられてるんです」
「え、なんで?」
何人かが笑った。別に普通の会話と言えば会話なのだが、新崎君の冷めた言い方が絶妙に面白い。
「何か遠くから私のこと見てくすくす笑ってて」
「はぁ?」
「まったく、困ったもので」
「困ったものでって、あなたねぇ、それくらいビシッと言いなさいよ。しかも後輩なんでしょ? くだらないことするな! って怒りなさいよ。なんでそれが言えないの?」
「すみません」
「いや、もうイライラするなぁ。典型的な意見を言えない日本人だわ」
だんだん新崎君が苛立ってくる。それに比例して会議室内に笑いが広がる。嬉しい。笑ってもらえたら工場での陰湿なイジメも昇華できた。大丈夫だと思えた。
私の起こした事故以外にも細々とした監査なんかがあるようで、丸山部長はちょくちょく工場に来ていた。帰りに誘われることもあったが、私も養成所関係のこともあり忙しかった。タイミングが合わず断っていたのだが、今夜はちょうど予定が空いていて、久しぶりに食事に行った。国道沿いのおなじみのファミレスだった。
二人とも目玉焼きハンバーグのプレートを食べた。丸山部長は体格の割に意外と少食で、その筋肉はどうやって作られているのだろう? といつも思う。二人でどこかに行く時はいつも車なので、お酒を飲めるのかどうかは知らない。飲めても飲めなくても別にイメージ通りだった。今日も饒舌に、最近対応している監査の話をしていた。これ以上は無いのではないかと思うくらい興味を持てなかった。
二人で会う時は、いつもだいたい丸山部長の話を聞いていた。私の話はほとんどしないのだが(取り立てて話すほどの話が無かったというのもあるが)、ふと今日は最近お笑いの養成所に通っているという話をした。
「お笑い?」
丸山部長は驚いていた。確かに普段の私とお笑い芸人とを結びつけるのはなかなか難しい。
「そうです。工場の新崎君と一緒に通ってるんです」
「新崎と? また何で?」
「いや、お笑い芸人をやりたくて」
「それはまぁ、そうなんだろうけど。何で新崎と?」
「だって、新崎君面白いですから」
「面白い?」
丸山部長は納得していない顔で食後のコーヒーに口をつけた。まぁ、確かに新崎君の面白さはよく噛んでみないと分からない。
「何でまたお笑い芸人になりたいの?」
「自分が笑うために周りを笑わせたいって思ったからです」
「笑うため?」
「そうです」
丸山部長は理解していない顔をしていた。
「何で? 別に、笑いたくても、笑わせなくてよくない? 自分だけ笑うことを考えたらよくない?」
ええー、と驚きの声を上げる。でも丸山部長ってそういう人だな、とも思った。
けっきょくその後、ホテルに行った。前の海賊船のホテルとは違って、今日は普通のホテルだった。裸になった私に、新崎と何かあるの? と丸山部長は聞いた。その「何か」が恋愛的な何かを指していることは察しがついて、そんなものは無いです、と少しムキになって否定した。本当のことだ。私は新崎君のことをそんな目で見たことは無い。丸山部長がそんなことを気にしたことは少し驚いた。そうか、と丸山部長は安心したように頷いて、私の上に覆い被さってきた。
その日も丸山部長は限られた休憩時間をぎりぎりまで上手に使った。部屋を出ると真冬のように寒くて、暖冬だったから忘れていたが、暦の上ではもう真冬なのだと思い出した。時計を見ると二十三時で、ファミレスに行っていた分いつもより時間が遅かった。家には夕飯は要らないと伝えてあるが、帰って洗い物だけはやらなければならない。
エレベーターを降りると、丸山部長は大きな欠伸をした。少し眠いのか、コーヒー買うけど要る? と私に聞いた。私もコーヒーを飲みたかったのでお願いすると、丸山部長はまた欠伸をしてフロントにある自動販売機の方へ歩いて行った。
その時、入り口のドアが開きカップルが入ってきた。見覚えがあるなぁ、と思って女の顔を見ていたら、なんと松永さんだった。向こうもすぐに私に気付いた。私も驚いたが、松永さんはもっと驚いていた。それはおそらく、私と一緒にいるのが丸山部長だったからだろう。
すれ違う時、お互い何も言わなかった。松永さんと一緒にいる男の人は、松永さんより十歳は若く見えた。どう見ても旦那さんには見えなくて、不倫なのだろうと思った。
松永さんはそのまま男の人とエレベーターに消えていった。丸山部長は松永さんには気付いていなかったようで、買ってきたコーヒーを私に渡し、何も無かった顔で、帰ろうかと言った。
見られてしまったな、と思ったが、部署異動をしてからは仕事上で松永さんと関わることは無いし、昼休憩の組も違うので顔を合わせることすら稀だった。だから、今更私が何をしていようと、もうどうでもいいのではないか、と思った。部署内で暇つぶし程度のネタにされるくらいのことではないか。
放っておいて大丈夫だろうと思い、丸山部長にも何も言わなかった。しかし、結果的には何も大丈夫ではなかった。全然大丈夫ではなかった。
ある日の養成所終わり、君達ちょっと残ってくれる? と、講師の田上さんに声を掛けられ、私達とあともう二組が会議室に残された。
会議室には相変わらず机も椅子も無く、皆地べたに座って田上さんが戻って来るのを待った。何だか難民のようだなと思った。十分後くらいに田上さんが戻ってきて、君達、ライブに出てみない? と、言った。
ライブ。私の中でぱっと華々しい道が開いた。ついに私の笑いを広く展開できるのだ。ここで笑ってもらえれば私の人生はもう大丈夫だ。
にやにやしてしまっていたのか、新崎君は私の肩を叩き、そんな大それたライブではないと思いますよ、と水を差した。相変わらずネガティブな奴だと思った。私としては規模は別に問題ではない。目の前に何となくたくさん人がいて、私の話を笑ってくれるのであればそれでいいのだ。私はそれで大丈夫で嬉しい。テレビに出たいわけでもないし、賞を取りたいわけでもない。顔も見えずに、本当に笑っているのかどうかも分からない笑いの展開なんて私にとっては何の価値も無かった。
当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、出演を断る人は誰もいなかった。田上さんもそれは分かっていて、ライブは再来週なんだけど、事前に告知も打つから準備よろしくね、と淡々と話を進めた。
話の後、私達だけ更に呼び止められた。
「君達だけコンビ名が無いんだよ」
「コンビ名」
私は反復した。今まで考えもしなかったが、確かにコンビでやるのであれば名前は必要だと思った。
「ライブのフライヤー作るから、今決めてよ」
「え、今ですか?」
「うん、そう。ぱっと考えてよ」
ぱっとって、この養成所はいつも何かと急なのだ。いきなりコンビ名など思い付くはずがない。仕方がないから「新崎と藤森」でいこうかと思っていたら、「ダイバーシティ」でお願いします、と新崎君が言った。
ダイバーシティ? えらく洒落たコンビ名だと思った。そんな言葉を新崎君から聞いたのは初めてだった。お台場にそんな名前の場所があるのだろうか? よく分からないが、とりあえず私達はダイバーシティとなった。
新崎君はこの頃にはもう、自分からコンビ名を出してくるくらいにお笑いに前のめりになっていた。私が見込んだ通り、やはり新崎君は面白く、養成所の中でも一目置かれていた。笑いは人を変える。最初のうちはまったく乗り気でなかった新崎君だが、笑いが取れると自信に繋がり、だんだんやる気になっていた。
最近では、私のネタ話に対しても口を出してくるようになった。ここはこういう話にした方がいいだとか、それはこっちの方が面白いだとか言って、事実を歪曲しようとしてくる。それは私としては本意ではない。私は私の話を笑いに変えたいのだ。フィクションの小話で笑いを取ったって何の意味も無い。だから、そこだけは譲らず、私は私の話を事実のまま話した。
ライブの日は仕事を早退して十七時に会場入りした。ライブの開演は十八時半だが、それでも私達が一番遅かった。今日のライブには私達を含めて四組のコンビと一人のピン芸人が出る。そのうち一組のコンビとピン芸人の人は初めて見る顔だった。養成所の先輩なのか、それとも別の事務所の人なのか、気にはなったが何となく話しかけづらくて聞けなかった。
ライブ会場は高校の教室くらいの広さで、客席側に出演者でパイプ椅子を並べた。三十席ほど並び終えた後、ピン芸人の人が、どうせこんなに来ないけどなぁ、と自虐的に笑った。入り口の扉には事前に作っていたフライヤーが貼られていた。フライヤーはA4サイズだったので、扉の面積の中ではインパクトに欠けた。もっと大きなポスターならば良い感じになるのだが、別途そんなものを作る余裕は無かったのだろう。
フライヤーには全出演者がこちらを向いてファイティングポーズをしている写真が載っていた。これは某有名漫才大会を真似てのことだった。「ダイバーシティ」と太ゴシックで書かれた上に、ファイティングポーズをした私と新崎君がいる。割とそれっぽい顔をしていて少し笑えた。
開演の十五分前頃からぽつぽつ人が入ってきた。初めてのお客さんに感動したが、その流れは続かず、けっきょく用意した席の三分の一が埋まったか埋まらないかというくらいで開演時間を迎えた。あのピン芸人の人の言う通りだった。私は心のどこかで満席になった会場をイメージしていた。人数ではない、と思ってはいても少しガッカリした。
一番手はあのピン芸人の人だった。いつの間に着替えたのかピエロの格好をしていて、ピロピロ笛を吹きながら舞台に上がって行った。拍手が鳴り止むと彼は、ちょっと聞いてくださいよぉ、とピエロっぽい弱々しい声を出した。面白い声色で少し笑いが起きた。
「ちょっと今電話いい? って、絶対悪い話だよねぇ」
あぁ、あるあるネタなんだな、と私もおそらく会場の人達も皆思った。別にあるあるネタが悪いわけではないのだが、その後はネタを放り込むごとにだんだんと笑いの量が減っていた。ちょっと聞いてくださいよぉ、もウケたのは最初だけだった。あの人、フライヤーの写真では普通のジャージ姿だった。いつもピエロなわけではないのだろう。模索中なのだなと思った。いろいろ考えながら舞台袖から彼の芸を見ていると、ちょっと藤森さん準備、と新崎君に声を掛けられ、続く二番手が私達だということを思い出した。
私達は二人とも何の衣装も無く普段着だった。周りを見ると、コンビで衣装を揃えている人達もいた。衣装を用意するなんて考えもしなかった。少し不安になり、え、服このままいくよね? と新崎君に聞く。当たり前でしょう、と新崎君は呆れたような顔をした。そうか、もうやるしかないのだ、という気持ちになった。
次はダイバーシティです、と司会(出演者の一人なのだが)に振られ、どうもーと、新崎君の背中に続いて明るい舞台に出る。コテコテだなと思いつつ、少しテンションが上がる。人前で話をするなんて本当に苦手なのに、不思議と緊張は無かった。むしろ、解放されるような気持ちになった。
「まま母でもないのにこき使われてるんですよ。シンデレラみたいに。家族の送り迎えを命じられるんです。平日も休日もアッシーなんですよ。洗い物は何時になっても私の仕事なんですよ」
「アッシーなんて、令和では言わないよ。死語だよ。その言葉、もうとっくの昔に死んでるよ」
新崎君の淡白な言葉にやや笑いが起きる。それで私も許されたような気持ちになる。もっと笑ってほしくなる。
「言葉は死んでるかもだけど私は生きてる! アッシーって言葉が死んでも、ひたすら家族の送り迎えをする私は何なのさ」
「何なのさって何だよ。そんなに嫌なら断ればいいだろ」
「断れる雰囲気じゃないんだよ。ちくしょう。皿でも洗っとけ!」
テンションが上がって暴走気味になっていた。酔っ払うほどお酒を飲んだことはないが、きっと酔っ払うというのはこういう感じなのだろうなと思った。もはや予定していたネタからもかなりズレていた。新崎君がそれに苛立っているのも分かった。でもウケていた。会場にぽつぽつとwが咲いていた。笑ってもらえて、今日また帰って洗い物をしてもきっとそれを肯定できると心に思った。
久しぶりに工場内がバタバタしていた。どうもスポットで大口の仕事が入ったらしい。のんびりしていた時期が嘘だったかのように皆慌ただしく働いていたが、私の仕事は普段とあまり変わりなかった。いつも通り在庫数を数えたり、現場に製品を運んだりしていた。普段通り定時には上がっていた。
木下さんと堤さんは相変わらず遠巻きから私のことを馬鹿にしていた。だけどもうそこは笑いに変えたから何も気にはならなかった。うるさい小蝿が飛んでいるな、くらいの感覚だった。
ある日、朝工場に行くと大塚さんに呼ばれた。
「藤森さん、申し訳ないんだけど、今日から一週間製造部のヘルプに入ってもらえる? だいぶバタバタしてて人手が足りてないみたい」
「あぁ、はい」
「ありがとう、助かる。元々藤森さんがやってたラインだから仕事は大丈夫だと思うわ」
大丈夫ではなかったから異動したのだと思ったが、それは言わなかった。
正直言って、ヘルプに入るのはあまり気が進まなかった。松永さんと顔を合わせたくなかったのだ。しかし、あの時の状況はお互い様だったし、松永さんとしても自分の不貞行為の話はよろしくないだろう。だからまぁ、大丈夫かなぁ、なんて思って作業場へ向かった。
久しぶりの作業場は異動する前と何も変わりなかった。独特な乾いた空気は眠かったあの頃の記憶を蘇らせる(今の仕事も眠いが)。松永さんや取り巻きはもう席に着いて作業に入っていた。一応、よろしくお願いします、と挨拶をしたのだが、皆私のことなど忘れてしまったかのようによそよそしかった。元々仲が良かったわけではないのだが、魚の骨が喉に刺さったような気持ち悪さがあった。
久々の作業もやはり眠かった。苦痛だった。しかしそれでも迷惑を掛けてはいけないという気持ちはあった。頑張って、何とかその日の作業を終えた。あと一週間これをやるのは嫌だなと思ったが、断れるものではないということは分かっていた。私だって一応社会人なのである。
業務終了後に作業場の掃除をしている時、すれ違い様に、死ねばいいのに、と言われた。取り巻きの一人の声だった。最初は他の言葉を聞き間違えたのではないかと思ったが、間違いなく、死ねばいいのに、と私は言われた。振り返ると、松永さんと取り巻き達がにやにやと私のことを見ていた。
しかし私は黙って掃除を続けた。みんな知っているのだ。何か言いたかったが言葉が出なかった。理由がはっきりと分かっているから、何ですか? というのもおかしかった。怒るのも何か違うと思った。
作業台を拭いていると、いつの間にか一枚の写真が置かれているのに気付いた。私と丸山部長の写真だった。この前のホテルのフロントで、また分かりやすく部屋選択のパネルの前に立っていた。一目でラブホテルでの密会だということが分かった。間違いなく松永さんが撮ったものだ。写真を撮られていたなんてまったく気がつかなかった。
松永さんと取り巻き達は、私が写真を見つけたのを見てまたくすくすと笑った。さすがに腹が立った。データが残っているからそんなことをしても何も変わらないのかもしれないが、写真をびりびりと破ってゴミ箱に捨てた。それで笑いのトーンは少し下がったが、今度はじっとりとした嫌悪感が部屋の中に漂った。
「最低だね」
松永さんの声だった。汚いものでも見るような目で私のことを見ていた。自分だって不倫をしていたのに、何故私のことをそんな目で見れるのだろうと思った。相手が丸山部長だからだろうか? まぁ、確かに丸山部長は嫌われていた。でもそんなことは私には関係ないのではないか。
死ねばいいのに、とさっきとは違う声の誰かが言った。それでまたみんなくすくすと笑う。これはなかなか笑いにし甲斐があるな、と思い、私は大きく息を吐いた。死ねばいいのに、でその笑いなら、本当に死んだら爆笑喝采だろう。違うか。
仕事はどうであれ、お笑い芸人の方は忙しかった。週一の養成所に加え、二週に一回はライブに出ていた。自ずと帰りが遅くなる日も増え、お母さんは今まで以上に私に冷たく当たるようになった。最近では食事も用意されなくなったし、日によっては私の分だけ洗濯をしてくれない日もあった。あれ以上冷たくすることができるのだな、とそれは少し驚いた。でも、空いている時間や休日等でアッシー業もきちんとこなした。お皿もちゃんと毎日洗った。
ライブにたくさん出ていると言っても、それはもちろん売れ出したからというわけではない。むしろやればやるほど金銭面は苦しくなっていた。
初回の時は知らなかったのだが、何もタダでライブができるわけではないのだ。会場費や広告費等の諸経費は養成所を通じて出演者に請求される。その分はチケットの売上から払うのだが、相変わらず客席はガラガラなので、まったく賄いきれていなかった。けっきょく足りない分を出演者が自腹で払うから、回を重ねるごとに財布が傷んだ。あくまで自己満足の域を超えない活動だった。それでも笑ってもらえるのであれば私は別に構わなかった。
ライブはウケる日とウケない日の差が激しかった。同じことを話していてもお客さんのタイプやちょっとした間や言い方の違いで反応は全然変わってくる。万人に笑ってもらえることなどなかなか無い。笑いとは難しいものだなと思った。
新崎君はそのウケたウケなかったの思いつく要因を何やらノートにいろいろ書いて研究していた。出番が終わると彼はいつもそのノートにメモを取ってぶつぶつと独り言を言っていた。その様子は少し怖くもあった。一度、何を書いているのか見せてほしいと言ったことがあるのだが、藤森さんが見たって無駄だよ、と言われた。あれはどういう意味だったのか、未だによく分かっていない。
チケットを売らないと自己負担が嵩むばかりなので、出演者各自、毎回誰か二人は知り合いを連れて来るというノルマを課した。出演者は多少のチェンジはありつつも基本的には最初に出た時から同じで、回を重ねる毎に変な団結力が生まれていた(ピン芸人の人は新井さんと言って、養成所の先輩だった。最近はピエロをやめて、シマウマの被り物をしてあるあるネタをやっていた。日中は牛丼屋でバイトをしているらしい)。
このノルマは友達の少ない私と新崎君にとっては地獄だった。みんな自分の友達や恋人を連れて来るのだが、私達はそもそも声を掛ける相手すらいなかった。
結果的にチケット代を払ってもらうことになるので抵抗はあったが、ぎりぎり美羽ちゃんにだけ声を掛けた。美羽ちゃんは快くオーケーしてくれた。むしろ、藤森が漫才してるの見てみたいわ、と言ってくれた。嬉しかった。それと同じくらいほっとした。コンビ揃って毎回誰も誘えないというのはやっぱり辛い(新崎君は本当に誘える友達がいないようだった)。
しかしチケットを買った日のライブに美羽ちゃんは来なかった。舞台袖から客席を見て、美羽ちゃんがいないことには出番前から気づいていた。何故だろうと気になり、この日のライブは集中力に欠けていた。ウケもいまいちだった。
終わった後「大丈夫? 何かあった?」とLINEを入れると電話が掛かってきた。ごめん、体調が悪くて行けなかった、と美羽ちゃんは謝った。あぁ、別にいいよ、ライブはまたやるから、また来てよ、と美羽ちゃんが本当に申し訳なさそうだったので私の方が逆に気を遣った。まぁ、実際ライブはまた近いうちにやるのだ。来れるタイミングで来てくれたらいいと思った。でもけっきょく、美羽ちゃんが私のライブに来ることはなかった。
笑わせよう、笑おう、笑わせよう、笑おう、の繰り返しの日々だった。
ヘルプ期間はすぐに終わって、私はまた生産管理課の仕事に戻った。再び松永さん達と顔を合わせることもなくなり、平穏な日々を過ごしていた(小蝿の木下さんと堤さんはいるが)。いずれ笑いに変えるにせよ、不要なストレスを抱え込む必要は無い。いつの間にか冬のピークも過ぎ、最近は少しずつ暖かくなっていた。春がまた来るのだなと思った。
そんなある日、いつものように倉庫で在庫数を数えていると、そういえばさぁ、と一緒に作業をしていた大塚さんに声を掛けられた。私は例によって眠気と戦ってうつらうつらしていたのだが、品質保証の丸山部長が謹慎になってるらしいよ、という大塚さんの言葉で一気に目が覚めた。
「謹慎ですか」
「うん。らしいね。先週からみたい」
「何でなんですか?」
「理由までは知らないけど」
そうですか、と言いつつ、これは私とのことが原因での謹慎なのではないかと思った。私達のことは松永さん達にバレている。証拠の写真も残っている。あの写真を会社に出されたら、謹慎になることもあり得るのではないかと思った。そうなると、身から出た錆とは言え私としても責任に感じるところはあった。
真偽のほどを確かめるために、私は総務部の事務さんに事実確認をした。
やっぱり大塚さんの言う通り、丸山部長は先週から謹慎になっていた。何で謹慎なんですか? と、一応聞いてみたが、もちろんそんなことは知っていたとしても教えてくれるはずがなかった。しかし、私とのことが原因で謹慎になったのならば、何故私は謹慎にならないのだろう? とも思った。
「そう言えば、同期の浅井さんもずっと休んでるよ」
事務さんはパソコン画面の勤怠表を見ながら言った。浅井さんとは美羽ちゃんのことだ。そうなんですか? と驚いた。確かに最近見かけない。
「体調不良みたいだけど、大丈夫なのかしら。長引いてるね、もう二週間になる。何か聞いてない?」
「いえ、何も」
そう言えば、ライブに来れなかった日に体調が悪いと言っていた。あれが長引いているのだろうか? いずれにせよ詳しいことは何も聞いていなかった。心配だった。
しかしまた、笑わせよう、笑おう、笑わせよう、笑おう、を繰り返す。それしかないのだ。それしか私が私を肯定する術はないのた。
そんなある日、ライブ終わりに片付けをしていたら、新崎君に話があると呼ばれた。
「コンビを解散したい」
最初は上手く言葉の意味が入って来なかった。どういうこと? と弱々しく言葉を吐くのがぎりぎりだった。
「本気でお笑いをやりたいんだ。仕事も辞めようと思う」
「どういうこと?」今度ははっきりと声になった。
「言葉の通りだよ。もっと本気でお笑いをやってみたい」
「私だって本気だよ」
「藤森さんのは本気って言わないよ」
「何で?」
「だって、藤森さんは笑わせようとしてるんじゃないから。笑ってもらえるかどうかだけだから」
「そんなことないよ。私だって笑ってもらえるための努力はする」
「しないよ。だって、永遠に自分の話しかないじゃん。それ以上でも以下でもなくて、それが笑ってもらえるかどうかだけだろ。そんなの芸とは言わないよ」
芸、と呟いていた。芸。確かに私は芸がしたいわけでは無い。私の話を笑ってほしくて、そのための伝え方は考えるが、それを芸だとは思わなかった。大事なのは「笑わせるための何か」ではなく「何かを笑ってもらう」なのだ。確かに新崎君の言う通りだった。
「ライブのウケも悪くないじゃない」
私はコンビを解散したくなかった。経験は無いが、別れを受け入れられない恋人とはこんな感じなのだろうなと思った。
「でも僕は満足してない。もっと面白いことができる」
「あのさ、さっき仕事も辞めるとか言ってなかった? 辞めて暮らしていけるの?」
「そりゃもちろんきついけど、今は芸人に集中したい」
「じゃ、それでもいいけど、でもコンビを解散する必要はないじゃん」
話していてだんだん涙が溢れてきた。
「別に組みたい人がいる」
「は?」
自分じゃないような声が出た。それはちょっと考えもしなかったことだった。一瞬の苛立ちの後、首筋から背中にかけてが氷に当てられたようにヒヤッとした。心臓の鼓動が早い。
「誰?」
「いや、藤森さんが知らない人。別の養成所を出て、今はフリーでやってる人だよ」
何で新崎君がそんな人を知っているのだろう? と思った。私の知らないところでいつの間にか新崎君の世界は広がっていたのだ。相方として、悔しいとは思わなかったが悲しいとは思った。
「ずるいよ」
何がずるいのか自分でもよく分からなかった。でも口から出た言葉は「ずるい」だった。これは良くなかった。その一言で新崎君が苛立ったのがすぐに分かった。やっぱり新崎君は導火線が短い。すぐに怒る。でもさすがに今はそれを面白いとは思えなかった。
「藤森さん、面白くないんだもん」
新崎君がぽつりと言った。ずっと我慢していた感情を堪え切れずに吐き出すような言い方だった。私が必死で取り繕ってきた何かが音を立てて崩れていくのが分かった。
「正直、笑いにできない話もいっぱいあったよ」
そこから先の記憶がすっぽり抜けていた。どう話が終わって、何をどうしてそうなったのか分からないが、気がついたら私は二つ隣の駅にあるマクドナルドに一人でいた。店内には私以外に大学生集団が一組いるだけだった。男女二対二で、楽しそうに談笑していた。それは私が忘れかけていた何の損得も無い純粋な笑いだった。
時計を見るともう二十三時半だった。最寄駅まで帰る電車はもう終わっていた。何も注文しないままずっと座っていたようで、さすがにそれは良くないと思いモバイルオーダーでコーヒーを注文した。クーポンがあったのでMサイズにしたのだが、実際運ばれてきたらどう考えても飲み切れないだろうというくらいに大きかった。じゃ、Lってどんだけ大きいんだよ、と思う後ろにwを求めたが、無理だった。心は乾いた大地のようにひび割れていた。乾きとは虚しさだ。水分が欲しい。どうせ飲み切れないのだから、いっそ頭からこのコーヒーMをかぶってみたらどうだろうか? 急に私がそんなことをしたら、あの大学生達は笑ってくれるだろうか?
いや、多分笑わない。普通に考えてそんなことをする人がいたら気持ち悪いと思うし、怖い。奇跡的に笑ってもらえたとしても、そんな強引な笑いに何の意味も無い。
しばらくそのまま座っていると、すみません、0時に閉店となりますので、と店員さんに声を掛けられた。悪いことをしていたわけでもないのに、私はまた反射的に謝っていた。店員さんは同じように大学生集団にも声を掛けていた。彼等も同じように謝って、じゃ誰々の家行く? なんて笑いながら店を出て行った。最後まで楽しそうな集団だった。私も店を出ようと思った。コーヒーMはけっきょく三分の一くらいしか飲めなかった。
その時、ポケットでスマホが震えた。時間も遅いし、お母さんからだと思ったのだが、美羽ちゃんからの電話だった。
「ごめん。まだ起きてた?」
「うん。まだ外だよ」
「あ、そうなんだ。遅いね」
「今日ライブだったから」
「そっか」
美羽ちゃんらしくない暗い声だった。どうしたの? と聞くと、私、妊娠したみたいなんだ、と美羽ちゃんは言った。
「妊娠? 子供?」
「うん」
多分、それ以外の妊娠など無いのだが、頭の中で言葉と意味が上手く結び付かなかった。
「彼氏? あ、結婚するとかってこと?」
それがね、と美羽ちゃんの声はやはり暗い。私はさっきの言葉を後悔した。幸せな話であればこんなに暗いわけがないのだから、それくらい察するべきだった。
「彼氏じゃないっぽいんだ。タイミング的に」
「うそ」
「うん」
もちろん嘘では無いという意味の「うん」だ。美羽ちゃんは相当参っているようだった。
「誰の子供なの?」
美羽ちゃんはすぐに答えなかった。重苦しい沈黙が電波を通じて伝わり、耐え切れず、ごめん、言い難いよね、と私の方から謝った。
丸山部長。
美羽ちゃんは確かにそう言った。何故そこで丸山部長の名前が出てくるのか分からなかったのだが、一瞬の後理解して青ざめた。丸山部長の子供。え、と地の果てまで引いてしまったような声が出る。
「多分だけどね、タイミング的にはおそらく」
「……何で丸山部長なの?」
「前に食事に誘われて、いつの間にかそういう関係になってた。何かちょっと、付き合ってる的な」
「嘘でしょ」
自分の感情が今どこにあるかが分からなかった。モスクワくらいまで飛んで行ってしまったような気もするし、私の中にあるままな気もする。私は今何に引っ掛かっているのだろうか。問題が多過ぎる告白だった。
「どうするの?」
「分かんない。まだ全然いろいろなことが整理できてなくて」
堕す、と即断しないところに美羽ちゃんの気持ちを感じた。それは私には無い気持ちだと思っていたのだが、今何故かピリピリと心が痛い。
「正直辛いね」搾り出すような声で美羽ちゃんは言った。
ダメだ。いけない。美羽ちゃんのそんな声なんて聞きたくない。美羽ちゃんには常に面白い美羽ちゃんでいてほしかった。
「美羽ちゃんさ」
「うん」
「Switch、買った?」
何それ、と電話の向こうで美羽ちゃんが少しだけ笑った。呆れるような笑い方だった。私の求めるそれでは無かった。
「買うわけないじゃん」
すみません、もう閉店時間を超えましたので、と店員さんにもう一度声を掛けられた。私は電話口のまま頭を下げて謝った。
果てしない孤独が私を包んだ。何をどう頑張っても、笑いの欠片も見出せなかった。
しばらくは考えがまとまらなかった。新崎君のことも、美羽ちゃんのことも、丸山部長のことも、宙に浮いたまま手で掴むことはできなかった。
こうなってしまうと逆に眠くもならなかった。気持ちに行き場が無かったから眠くなっていたのだと、今ならはっきりと分かる。辿り着けなくとも行き場があるのであれば思考は働くのだ。夜もいまいち上手く眠れなかった。こんなことは私としては珍しかった。
本人達と連絡を取ろうとは思わなかった。本人の口から何かを聞くのは怖かった。しかし一定の事実は知りたくて、それを知っているのはやはり総務部の事務さんだった。
「丸山部長の謹慎解除はまだ未定。浅井さんは長期休暇の申請を出してる。新崎君は今月末退職で、今は有給期間に入ってるね」
事務さんは私が知りたかったことを手短かにまとめて教えてくれた。嘘だと思いたかった話はやっぱり全部本当だった。そうですか、としか言えなかった。
空っぽの気持ちのまま倉庫に戻って在庫品の出荷手配をする。管理システムから出る指示書に記載された製品を運送会社に渡すのだ。生産管理の仕事にもだいぶ慣れた。大塚さんがきっちり目を光らせてくれているからか、ここまで大きなミスも無かった。
運送会社の人ともだんだん顔馴染みになっていた。中には親し気に話し掛けてくれる人もいた。製品を渡し終えて空を見ると、積雲が散らばっていて春を感じた。今日はカーディガンのまま外に出られるくらいに暖かい。
「藤森」
事務所へ戻ろうとしていた時に声を掛けられた。安原さんだった。部署異動をしてから安原さんと話をするのは初めてだった。この前のヘルプの時も安原さんは忙しそうで、話すことはなかった。ちょっといいか? と言われて倉庫の隅まで移動する。人に聞かれたら困る話なのだろうか。心当たりは無かったが、とりあえずついて行った。
「美羽のこと聞いてるんだろ?」
美羽、と私は反復していた。何故そんなことを聞かれるのか分からなかった。そもそも安原さんが美羽ちゃんのことを美羽と呼ぶことにも違和感があった。
「あいつ、藤森にだけ話したって言ってたから」
「あいつ」
その時、いろいろなことが繋がった。安原さんと美羽ちゃんが付き合っている。あの噂は本当だったのだ。
「全部聞いたよ。美羽と丸山とのこと」
「そうですか」どういう顔をすればいいのか分からなかった。
「浮気されたことは、まぁ、仕方ないと思ってる。男女の話だし、俺だって仕事が忙しくて全然相手できてなかったし、悪いところはあった」
「はい」
「でも、妊娠っていうのは許せなかった。相手は既婚者だし、やっていいことと悪いことがある。この先どうなるかは分からないけど、多分俺はそのことに関しては美羽のことをずっと許せないと思う」
安原さんの言葉に私はとりあえず頷いた。話がデリケート過ぎて頭が追いつかない。言葉一つ間違えてもいけないという気持ちから一言も言葉が出て来なかった。ただ、丸山の事も許せない、と安原さんの顔が急に険しくなった。
「恋人に遊び感覚で手を出されたってのはある。やっぱり男としてそこは許せない。今あいつは会社に美羽とのことがバレて謹慎になってる。それでも俺はあいつを許せない」
謹慎は美羽ちゃんとのことが原因だったのか。自分が謹慎にならなかった理由が分かり、やっと一つ謎が解けたなと思った。なぁ、藤森、と安原さんは少し聞きづらそうに話を進めた。
「部署内で噂になってたけど、お前も丸山と何かあったんだろ? 写真も見た」
「ええ、まぁ……」
誤魔化すことはできないと思った。嘘は面白くないから極力つきたくない。そうかぁ、と安原さんは腕を組んで目を閉じた。安原さんは見たこともないくらい険しい顔をしていた。何を考えているのか怖かった。あの、安原さん、としどろもどろの声でフォローをしようとしたのだが、やはり言葉は出て来なかった。安原さんはしばらく考えた後、うん、やっぱり許せないわ、と呟いた。
「お前は許せんの?」
「え」
「丸山のこと」
「いや、まぁ、許せないです」
実際のところは分からないが、ここはそう答えた方がいいのかと思った。午後、半休できるか? と聞かれて、できます、と反射的に答えていた。じゃあ、十二時半に駐車場で、と言って安原さんは足早にその場を去って行った。
大塚さんに無理を言って、急遽午後半休を取らせてもらった。言われた通り十二時半に駐車場に行くと、背中にクラクションを鳴らされた。安原さんは既に車に乗って私を待っていた。声は聞こえないが、口の動きで運転席から「乗れ」と言っているのが分かった。
安原さんの車はうちのカローラと同じくらいの大きさだった。ホンダのマークが付いていたが、車種は分からなかった。助手席に乗ると、いつもは食堂で見ている昼のニュースがカーナビから流れていた。どこに行くんですか? と聞いてみたが、安原さんは何も言わずに車を出した。
車はやがて国道に出て、いつも丸山部長と行っていたファミレスやラブホテルを通り過ぎた。けっこうなスピードが出ていた。どこに行くんですか? と、もう一度聞いてみた。丸山のとこに決まってるだろ、と安原さんは当然のように言った。
「丸山部長は謹慎中じゃないですか」
「だから家まで行くんだよ」
「家まで?」私は驚いた。
「だって許せないだろ?」
「まぁ、それは……」
確かにそれはそう言った。今になって、大して考えもせずにその場のノリで言ってしまったことを後悔する。今更取り消しても無駄なことは明らかだった。
正直、行きたくないなと思った。家まで行って、何かを言いたいわけでもないし、多分また言葉が出ないだろう。何か言ってもいい立場な気はする。でもダメだろう。私はそういう人間だ。で、言葉が出ないと今度は安原さんに怒られそうだと思った。いずれにせよ、何かが上手く行く気はまったくしなかった。
というか、安原さんってこんな感情的な人だったんだなと思った。工場ではいつも優しいし、もっとクレバーな人だと思っていた。何気なく後部座席を見ると、職場用だと思われる鞄がシートに置いてあり、その横に木製のバットが立て掛けられているのが見えた。最悪のシナリオが過った。
「安原さん、野球するんですか?」
聞いてみたが返事は無かった。カーナビから流れる昼のニュースは、いつもに増して絶望的なくらいに面白くなかった。ダメだ。とにかく笑いが必要だと思った。安原さん、野球なんですね、サッカー日本代表にいそうな顔なのにね、と茶化してみたが、当然笑いにはならなかった。地球にかかる重力が倍くらいに増えたのではないかと思うくらいに重苦しい沈黙が車内の空気を押し潰した。ミスチルの深海のジャケットの椅子に座っているような気持ちになった。
しばらく行くと安原さんはカーナビに目的地の住所を入れた。丸山部長の家の住所なのだろう。なんで家の住所を知ってるんですか? と聞くと、工場長が年賀状のやり取りをしてたから教えてもらった、と言った。そういう個人情報は易々と教えてはいけないのに、と思った。カーナビは人の気も知らないで、目的地まであと十五分です、とクリアな声で言った。私はいよいよ覚悟を決めた。
丸山部長の家は立派な一軒家だった。「丸山」と書かれた石の表札を見て、本当に来てしまったのだなと思った。ガレージにはお馴染みのフォルクスワーゲンが停まっていた。安原さんはバットを手に車を降りた。止めようとしたが、横顔が怖くて何も言えなかった。野球をするのだ、これからみんなで野球をするのだ、と強く自分に言い聞かせた。すると本当に野球をするような気持ちになるから不思議だ。
安原さんは躊躇うこともなくインターホンを押した。はい、と出たのは女性の声だった。その時、私は初めて奥さんという存在を思い出した。冷静に考えたら家まで来ているのだから家族もいるという可能性は大いにあった。奥さんとなると私も気まずいし申し訳ない気持ちになる。丸山さん、丸山部長はいらっしゃいますか? と安原さんは詰め寄るような口調で言った。その感じが伝わったのか女性は、どちら様ですか? と若干引いた様子で言った。
「会社の同僚です」
「はぁ……少々お待ちください」
インターホンが切れると安原さんは勝手に門を開けてドアの前まで行った。バットを片手に、どう見てもカチ込みだった。私は野球、野球と唱えながらその背中に続いた。
ドアを開けて出てきたのは初老の女性だった。間違いなく丸山部長の奥さんだろう。奥さんは私達二人を見て驚いた顔をした。安原さんのバットを見て、何なんですか? と戸惑った様子で言った。
「丸山さんと話をしたい。旦那さんは私の恋人を妊娠させた。ちゃんと説明してもらわないと納得ができません」
「は? 妊娠?」
奥さんの顔が曇った。その様子からして、おそらく何も聞かされていなかったのだろう。
その時、どうしたんだ? と家の中から部屋着の丸山部長が出てきた。丸山部長は私達を見て、あっ、と声にならない悲鳴を上げた。久しぶりに見た丸山部長は少しだけ痩せたような気がした。
とりあえずここではアレだから、とリビングに移動する。テーブルに丸山夫妻と安原さん、私が向かい合う。バットは安原さんの隣に立て掛けていた。テレビボードには家族写真が並んでいた。丸山部長と奥さんと、お姉ちゃんと弟さん。みんな笑顔だった。弟もいたのかと初めて知った。あのお姉ちゃんが聞いていた大学生の娘さんなのだろう。あまり丸山部長には似ていなかったが、可愛い子だった。
当たり前と言えば当たり前だが、テーブルは案の定、地獄のような空気になった。お茶を出されたが誰も口を付けなかった。口火を切ったのはやはり安原さんだった。
「美羽と関係があったのは事実なんですね?」
核心を突いた質問に丸山部長が下を向く。何だかいつもより二回りほど小さく見えた。
「あなた、どういうことなの? ちゃんと説明して」
「妊娠させたんですよね?」
私はじっと黙っていた。多方面から責められる丸山部長を何だか不憫に感じた。まぁ、完全に身から出た錆なのだが。
分かったよ、認める、と丸山部長は小さく呟いた。
「どういうことなの!」
怒鳴ったのは奥さんだった。丸山部長は悪かった、悪かったと平謝りをしている。前に連ドラでこんなシーンを見たことがあったが、実際に目の当たりにすると、どんな気持ちで見ればいいのかよく分からなかった。一応、自分も関係者だから尚更だ。
「でもあれはちゃんと合意の上だった。お互い気持ちはあったし、変な言い方かもしれないが、ちゃんと交際をしていた」
何それ、何だそれ、と安原さんと奥さんは同時に怒鳴った。無理も無いと思った。私だって気持ち的には怒鳴りたかった。さすがにモラルに反し過ぎている。でもこの前美羽ちゃんと話した感じ、まんざら嘘ではないのだろうなとも思った。
「仕方ないだろ」
「は? 何開き直ってるんだよ」
安原さんは立ち上がって丸山部長の襟元を掴んだ。もう片方の手がバットに掛かり、さすがに私もちょっとちょっととなった。ふざけないで! と奥さんが丸山部長を殴った。平手と思いきやグーだった。殴られた丸山部長は痛みとかじゃなくて、すごく悲しそうな顔をした。でも奥さんの怒りはそれでは止まらなかった。だいたいあなたもね、とその矛先は私に向いた。
「結婚してることは知っていたんでしょう。あなただって悪いわ!」
奥さんはヒステリックに怒鳴った。確かに私も丸山部長が既婚者であることを知りながらあのような関係になっていたのは事実だ。だが、ちょっと待て。今の奥さんの感じ、完全に私のことを妊娠した彼女だと勘違いしている。
何か言いなさいよ! と奥さんが凄む。凄まれると尚更何も言えなかった。ちゃんと安原さんが否定してくれたら良かったのだが、安原さんは安原さんで丸山部長に凄んでいてそれどころではなかった。丸山部長もだんだん怒り出してきて、人の家まで来てなんなんだ! なんてある意味正論を振りかざして怒鳴っている。カオス状態だった。そうだ、野球をしようと思った。
とりあえず庭に出てプレイボールしましょうよ、とこれが私のこの家に入ってから初めての一言だった。は? 庭? と奥さんが怪訝そうな顔をした。丸山部長が何がプレイボールだ! と怒鳴って安原さんに蹴りを入れた。バランスを崩した安原さんがよろけて戸棚にぶつかる。衝撃で上に置いてあったウッドストックのぬいぐるみが落ちて、フローリングの上でぴょんと跳ねた。てめぇ、と安原さんの目は完全にキレていて、丸山部長と取っ組み合いになった。二人の体格は同じくらいで、おそらく互角の勝負になるのではないかと思った。
奥さんはヒステリックを起こしてテーブルを拳で何回も叩いていた。その度に上に置いてある四人分のお茶碗が衝撃で揺れる。相当悔しいのだろうなと思った。これは野球は無理だな。今更ながらに思った。私は立ち尽くしたままその混沌の全体像を見つめていた。
安原さんと丸山部長がもつれ合ったまま食器棚に突っ込んでいった。ガシャーンとすごい音がして扉のガラスが割れる。それでも二人は取っ組み合いをやめなかった。うわぁ、と思っていたら、突然口元に激しい痛みを感じた。しかも熱くて、訳が分からなかった。口元を抑えるとなかなかな量の血が出ていて、足元に割れたお茶碗の破片が散らばっていた。動転した心は十八歳のあの冬の朝を思い出す。目を開けて前を見ると、肩で息をしてこちらを見ている奥さんが見えた。それでやっとお茶の入ったお茶碗を投げつけられたのだと分かった。
どばどば血が流れ出るのだが、それがどこから出ているのか確かな場所が分からなかった。口の中に固いものがあった。お茶碗の破片だと思って吐き出すと、それは私の前歯だった。
血で真っ赤に染まった前歯は生まれたての新生児のようだった。不思議な感動を覚えたが、貧血気味なのか少し頭がくらくらした。その時、視界の端で安原さんがバットを振り下ろすのが見えた。私も奥さんもあっ、と短い声を上げたが、バットは止まることなく丸山部長の側頭部を打ち抜いた。
丸山部長は殴られたままうつ伏せに倒れ、ぴくりとも動かなかった。人殺し……と呟いたのは奥さんではなく安原さん自身だった。荒れ果てた部屋の中で三人とも立ち尽くした。
「死んでるの?」
奥さんが恐る恐る安原さんに聞いた。安原さんは丸山部長の心臓部に耳を当て、何も聞こえない、と言った。
「じゃ、死んでるってこと?」
「多分……そのはず」
奥さんは力無くその場に座り込んだ。私はというと、口元の血が止まらなくて困っていた。あの、ティッシュとかありますか? と聞くと、奥さんは黙ったままカウンターキッチンの端を指差した。
礼を言ってティッシュをもらい、口元の血を拭く。どうも破片で切った鼻の下と抜けた前歯の部分から血が出ているようだった。とりあえずティッシュで押さえて止血をした。その間、二人は黙って丸山部長の死体を見つめていた。
埋める? と言い出したのは奥さんだった。突然の提案に私も安原さんも、え? となった。
「だって、死んじゃったなら何とかしないと。これはもう、立派な殺人じゃない」
奥さんは無表情のまま言った。確かに殺人は殺人だが、だからと言って、殺したのは安原さんなのだから奥さんが死体を埋めることを提案をする必要は無いと思うのだが、そのことには誰もつっこまなかった。それしかないですね、と安原さんは覚悟を決めたように言った。
「手分けして動きましょう」
安原さんの作戦はこうだった。今の状況、まとまって動くのは危ない。だから二手に分かれて動く。安原さんは車でトランクに丸山部長の死体を乗せて移動し、私と奥さんは電車で移動する。途中、安原さんがホームセンターでスコップやらを購入して、どこか途中で私と奥さんを拾って三人で死体を埋める場所へ行こうというものだった。
正直言って、私はあまりこの作戦に納得していなかった。二手に分かれる意味があるのだろうか? 何故私と奥さんは電車移動なのだろうと思った。しかし何も言わなかった。二人がそれでいいなら従おうと思った。血痕が残るといけないからうちの車を使いましょう、と奥さんが言った。その意味もよく分からなかったが、それも無理矢理納得した。やっと血も止まってきた。丸山部長をフォルクスワーゲンのトランクに押し込むと、また連絡する、と言って安原さんは足早に車で行ってしまった。安原さんを見送ると、私達も行きましょう、と奥さんは私に言った。
地下鉄の駅は丸山部長の家から十分くらい歩いたところにあった。名前も聞いたことのない駅だった。路線のこともよく知らないので、奥さんに付いて、来た電車に乗った。中途半端な時間だからか車内は空いていた。二人で並んでシートに座った。窓の外は真っ暗で、これからまた絶望に向かうのだなぁ、と思うと心が暗くなった。笑いを搾り出す気力も無かった。
「美羽さんだっけ?」
不意に奥さんが話し出す。違います、と答えかけたが、ここはもう美羽さんのままいった方がいいと思い、そうです、と話を合わせた。これ以上話をややこしくしたくないと思った。
「妊娠何ヶ月なの?」
「えっと、今二ヶ月です」
「つわりとか大丈夫なの?」
「あ、まぁ、大丈夫です」
二ヶ月というのも適当に言ったので、本来の妊娠二ヶ月がどういう状態なのかもよく分かっていなかった。
「どうするつもりなのよ?」
「どうするって、何がですか?」
「いや、産むつもりなの? お腹の赤ちゃんよ」
「あぁ。そうですよね」
難しいことは聞かないでほしい。話せば話すほどボロが出る。
「言っておくけど、うち、お金無いわよ。あの人も死んじゃったし。生むか生まないか、よく考えた方がいいと思う」
「ですよねぇ」
妊娠なんてしていないのに、生むか生まないかちょっと悩んでいる自分がいた。
話している間に、すぐに安原さんと待ち合わせ予定の駅に着いた。様子を聞こうと安原さんに電話を掛けると、ガムテープだけ買っておいて、と言われた。死んでいるから暴れたりしないはずなのに、ガムテープなんて何に使うのだろうと思ったが、もちろん何も言わなかった。
「何て?」
「あ、なんかガムテープだけ買っておいてほしいって」
ふぅん、とこれには奥さんも落ちていない様子だった。二人で駅前商業ビルのロフトに行ってガムテープを買った。安原さんから、十七時に迎えに行く、とLINEが入る。時計を見るとまだ十六時前だった。
「あと一時間くらいありますけど、どうします?」
奥さんは少し考えた後、カラオケ行きましょうか、と言った。あ、カラオケ、と意外な回答に私は面食らった。それで私達は駅前にあるカラオケボックスに向かった。
何時間のご利用ですか? と聞く店員さんが妙な目で私のことを見ていた。それで初めて、自分の着ているパーカーが血でべっとり汚れていることに気付いた。これでは妙な目で見られるのも仕方がない。着替えたいと思ったが、もう部屋に案内されてしまった。ダメ元で奥さんに、着替えとか持ってないですよね? と聞くと、裏返して着たらいいじゃない、と言われた。確かにそうかもな、と思い服を脱いで裏返してみる。パーカーを裏返しで着るのはこれが初めてだったが、実に奇妙なものだった。裏地はやはり裏地でパサついているし、いつもはある場所にポケットも無い。でも血は何となく隠れたからそれで良しとした。
なんか歌いなさいよ、と言われたが、曲を入れる機械は奥さんがしっかりと握っていた。奥さんは一昔前のアイドルソングを連続で歌った。振り付けも入れて熱唱する様を見て、あ、この人もう壊れてるな、と思った。
私はドナドナを三倍速で歌った。これは、前に誰かがライブでやっていたネタだった。ウケ狙いのつもりだったが、奥さんはまったく笑わなかった。何でドナドナなの? と冷たく言って、また昔のアイドルソングを入れた。
奥さんの歌が続くからトイレに立った。手を洗っている時、そういえば今前歯が一本無いのだということを思い出した。若干スースーするが、意識しなければそこまでの違和感は無かった。鏡の前で笑顔を作ってみる。前歯の無い笑顔はどこか間抜けで面白くはあったが、不自然で、日常生活向きではないなと思った。
個室から人が出て来て、私の横で手を洗った。そろそろ戻ろうか、と思っていたら、あれ、有希ちゃん? と声を掛けられた。驚いて見ると、中学の同級生の優捺ちゃんだった。中学卒業以来なので、八、九年ぶりだろうか。年相応の化粧気と成長を見に纏っていたが、面影はしっかり残っていたのですぐに分かった。
「すごい偶然。ここよく来るの?」
お母さんに似た話し方があの頃のままだった。
「いや、全然。今日初めて来た」
「そっか。私は職場が近いからたまに来るんだ」
「そうなんだ」
「今日は昼から半休して同僚とカラオケ大会だったの」
「へぇ」
半休にもいろいろな使い方があるのだなと思った。カラオケ大会をする人もいれば殺人の隠蔽工作をする人もいる。
「有希ちゃんは友達と?」
「あ、私も職場の人と」
遠いが、丸山部長の奥さんなのだからぎりぎり職場関係の人だ。嘘ではない。
「そっか。有希ちゃん何の仕事してるの?」
「私はね、在庫管理とか。アレだね、そういうのしてる」
「在庫管理? 工場系?」
「そうそう。工場系」
「へぇ、何か意外だなぁ」
「あ、そう?」
「うん。何か、音楽教師とかになりそうな感じだった」
「音楽教師?」
大きな声が出るくらい驚いた。あんなに下手なトロンボーンを吹いていたのに、どこからそんな発想が出たのだろう。
「優捺ちゃんは何の仕事してるの?」
「私は保険の営業をしてるよ」
「保険の営業」
その方が意外だった。優捺ちゃんこそ音楽関係の仕事に就いているイメージだった。
「吹奏楽は今も続けてるの? ドラムすごく上手だったよね」
「全然。吹奏楽は高一の夏に辞めたよ」
と言って優捺ちゃんは笑った。あ、そうなんだ、そうだよねぇ、と私も合わせて笑う。
人は変わっていくものだなと思った。みんな歳を取り良いところも悪いところも変わっていく。保険の営業をやる優捺ちゃんなんて考えもしなかった。逆に私は優捺ちゃんの中ではずっと音楽教師だったのだ。ちょっと笑える。
「ところでさ」
「うん、何?」
「前歯一本無いよね」
私は、あー、と誤魔化したが、誤魔化しきれてはいなかった。優捺ちゃんは不思議そうな目で私を見ていた。
「あとさ、何でパーカー裏表逆なの?」
ははは。笑うしかなかった。笑おう。笑ってしまおう。そうだ、けっきょくはそれしかないのだと、ようやくいつもの気持ちが戻ってきた。
部屋に戻ると、十分前だって、と奥さんが言った。飲み物や料理を注文する機械の画面が爆発する前の爆弾のように赤く点滅していた。
「その後、何か連絡あった?」
言われてLINEを見たが安原さんからの連絡はなかった。その前の、ガムテープは買いましたよ、また連絡ください、という私のメッセージも既読になっていなかった。
「連絡無いですけど、そろそろ十七時ですから出ましょうか」
奥さんはちょっと延長したそうだったが、そうも言っていられないので部屋を出た。私はほとんど歌っていないが、お会計はきちんと割り勘だった。
明確な待ち合わせ場所を決めていなかったので、私達は駅前広場の噴水に腰掛けて安原さんを待った。噴水の水はメダカの水槽のように濁っていて、お世辞にも綺麗なモニュメントとは言えなかった。噴水は、清潔感の主張であることが絶対条件な存在だと私は思うのだが、別に誰も文句を言うこともなく前を通り過ぎて行った。
「そういえば、カラオケで中学の同級生と会ったんですよ」
沈黙が苦になって自分から話し出した。
「へぇ」
奥さんはたくさん歌って少し落ち着いたように見えた。
「仲良い友達だったの?」
「仲良かったのかはアレですけど、部活が同じでしたね。だからまぁ、普通には話した感じで」
「ふぅん。あなた、なんか友達少なそうよね」
「はぁ、まぁ、ですね。すみません」
言い当てられて何も言えない。それで再び沈黙が訪れた。駅前のロータリーに車が入って来る度に私と奥さんは目で追った。十七時半になっても安原さんは現れなかった。一度電話も入れてみたが出なかった。
もしかしたら安原さんはもうここには現れないのではないかと思った。冷静に考えたら丸山部長を殺したのは安原さんだし、私と奥さんがその隠蔽に協力する義理は無い。少し落ち着いてそのことに気付き、一人で死体を埋めに行ったのではないかと思った。安原さんは責任感の強い人だから十分にあり得る。そんなことを考えていると、丸山部長のフォルクスワーゲンがロータリーに現れた。
あっ、と二人とも打たれたように立ち上がった。ロータリーに車が停まる。しかし降りてきたのは安原さんではなく丸山部長だった。私も奥さんもすぐには状況が理解できなかった。丸山部長は私達を見つけ、つかつかとこちらに歩いてきた。うわっ、と声が出るくらいに怖かった。鬼気迫る表情で奥さんの腕を掴み、帰るぞ、と言った。
「あなた、生きてたの?」
「気を失ってただけだ」
丸山部長は顔を顰めて言った。まだ殴られたところが痛いのかもしれない。
「安原さんはどうしたんですか?」
「俺が生きてることが分かったら謝って帰って行ったよ。あの野郎、バットで思いっきり殴りやがって」
「そうなんですか」
いろいろなことが一周して現在位置がよく分からなかった。とりあえず帰るぞ、と丸山部長は奥さんの手を引いた。何か言わなければならないような気がして、どうもすみませんでした、と謝ると、丸山部長は振り返り、思いっきり私を殴った。
殴られた勢いで私はコンクリートの地べたに転がった。また歯が抜けたのではないかというくらい痛かった。痛みに鈍る視界の端に走り去るフォルクスワーゲンのお尻を見た。
通りすがりの女の人が、大丈夫ですか? と声を掛けてくれた。一部始終を見ていたのか、ドン引きした顔だった。あ、全然大丈夫です、と私は笑って言う。いろいろ読めない展開ではあったが、笑いに変えようという意思は死んではいなかった。女の人は、そうですか、とあまり関わりたくないという感じで去って行った。まったく笑っていなかった。
帰ろうと思った。ここがどこかははっきりと分からないが、乗り換え検索で調べれば帰り道は分かる。そう思ってスマホを見ると、いつの間にか三件も着信が入っていた。ピン芸人の新井さんからだった。それで今日がライブの日だったことを思い出した。
「お前今どこにいるんだよ?」
掛け直すと新井さんはすぐに出て、イメージしていた通りのことをイメージしていた通りの口調で言った。ライブは十八時からで、今もう十七時五十分だった。
「ちょっとよく分からないんですよ」
「分からないって何だよ」
「すみません。調べます」
待ち合わせ場所だったので奥さんとの会話の中で何度か駅名を口にしていたはずなのに何故か出てこない。とりあえず駅名が書いてある看板を見つけようと思ったのだが、改めて探すとなかなか見つからなかった。
「何してんだよ。新崎の奴も来ないしさぁ。今日のメンバー誰もあいつの連絡先知らなくて。で、藤森も電話出ねぇし」
「すみません。新崎君は多分来ないかと」
「は? 来ないってどういうこと?」
コンビ解散を告げられてから初めてのライブだった。だからまだみんな何も知らないのだ。そして新崎君はおそらくライブ会場には来ないだろう。彼はそういう人だ。
「また話します。とりあえず私は急いで行きます」
「急いでって、あと何分くらいで来れるんだよ?」
「三十分あれば行けると思います」
これは完全に適当だった。何の保証も無かった。後の方の出番にしておいてください、と言って電話を切り走った。
駅の入り口まで行くと、やっと駅名を確認することができた。すぐに検索をかけると、ちょうど三十分くらいでライブ会場の最寄駅に着くくらいだった。それで少し安心したのだが、ホームまで行くと、人身事故で電車が遅れていた。本当に何が起こるか分からない。上手くいかないことを前提として生きるべきではないかと思った。悪いことの最悪のケースを想定しておけば、現実は必ずその手前には落ちる。心に杖をついて歩くような生き方。でもそれって疲れそうだな。慎重に歩くというのもなかなか難しいことだ。基本的に人間は楽観的な生き物なのである。だから笑って失敗を誤魔化すのだ。
やがて電車は来たが会場まで三十分では着けそうもなかった。電車に揺られながら、新崎君にコンビ解散を告げられた日のことを思い出していた。あの日、気付いたらマクドナルドにいたのだが、今冷静になって考えると思い出すこともある。
ダイバーシティってコンビ名の意味分かってた? と新崎君に聞かれた。お台場にある商業施設か何かだと思ってたけど、と言うと、新崎君は呆れたような顔で、多様性だよ、と言った。今そのことを思い出した。多様性。多様性って何だ? 調べる。分からないことはだいたい何でもスマホが教えてくれる。多様性=集団の中に異なる特徴(特性)を持つ人がともに存在すること。はぁ。つまりはまぁ、いろんな人がいると言いたかったのだろうか。
多様性。確かに新崎君は集団の中では異なる特徴を持つ人だった。でもその特徴があったからこそ私は新崎君とコンビを組んだのだ。その特徴があったから彼は芸人の道で活路を見出した。様々な価値観を認めることは生きていく上で重要なことだ。それは笑いにも繋がる。笑いの許容範囲を広げることは価値観を認めることと同じな気がする。認めること、認められることができれば、人は絶対不幸にはならない。新崎君はそんなことを考えてコンビ名をダイバーシティにしたのだろうか。
そんなことを考えていたらライブ会場の最寄り駅に着いた。もうすでに新井さんの電話から五十分が経っていた。ライブはもう後半に差し掛かろうという頃だ。あと五分ほど歩けば会場に着くので、何とか講演には間に合うのだが、よく考えたら今日は新崎君無しで一人なのだ。そんなことは今まで一度も無かった。私が私の話をして、いつもみたいに冷たくつっこんでくれる人はいない。でも、まぁ、そうか。うん。それならばもう、純粋に私の話で笑ってもらえればそれでいいではないか。それで成り立つ。そもそも私は私のことを笑いたくて、そのためにみんなに笑ってほしかったのだ。心の底から笑って、嫌なこと全部を昇華したかったのだ。一人になって、それがシンプルになっただけだ。問題は無い。
みんなの前で今日の話をしよう。巻き込まれて不倫相手の家に乗り込んで、勘違いで前歯を折られた。カラオケをして、久しぶりに会う同級生に間抜けな様を見られて、何故か分からないが不倫相手にダメ押しで殴られた。最悪だった。本当に最悪な気持ちになった。明日からどうしたらいいのか分からないし、どうなるのかも分からない。こんなの笑うしかないじゃないか。笑ってくれ、みんなで笑おう。
裏口からライブ会場に入ると、バズ・ライトイヤーの格好をした新井さんと鉢合わせた。新井さんは前回のライブからまた方向性を変えていた。私はにっと笑って親指を立てる。
お前、歯、と新井さんは驚いていた。裏返しのパーカーか無くなった前歯か、どちらに先につっこむだろうと思っていたが、やはり歯の方がインパクトが強いようだ。私の出番は? と聞くと、ちょうど誰かの出番が終わる頃合いだったらしく舞台の方から拍手が聞こえた。パラパラと相変わらず寂しい拍手だった。今日もまたお客さんは少ないのだろう。上等。待ってろ、今行く。
「おい、藤森。ちょっと待て」
止めるバズ・ライトイヤーの新井さんを振り払って私は舞台に向かって歩いていく。もしかしたら次の出番を待っていた組があったのかもしれない。それでも私は止まらなかった。
そういえば丸山部長、美羽ちゃんとはお互い気持ちがあって、ちゃんと交際していたと言っていた。私にはそんなことは一言も言わなかった。となると私とは本当に遊びの遊びだったのだ。今になって胸が痛む。私はちょっと、丸山部長のことが好きだったのだ。構わない。これもちゃんと笑いにする。昇華する。昇華してやる。大丈夫。私は大丈夫。大丈夫、今日も舞台は明るい。
執筆の狙い
文藝賞ダメでした。多分、他の投稿作品より長いと思います。47,000文字くらいです。