かばん
通勤かばんのファスナーが壊れてしばらく経つ。
ごく普通のビジネス用のかばんで、メインの開口部をファスナーで開け閉めするタイプだ。その細かなギザギザの一部の区間が、糸がほつれてかばん本体から離れてしまい、不安定なうえに間隔も不均一になって、つまみのついたスライダーは毎回そこでひっかかる。何回かに一回は、ひっかかった場所から左右どちらにも動かせなくなり、無理やり引っ張るとしまいにはスライダー自体がかばんからとれてしまう。時間をかければどうにか元通りにはめることはできるが、これにもかなり骨が折れる。
特別たいせつにしている訳ではないし、ギザギザが浮いている範囲も徐々に広がっていて、思い切って捨ててしまったほうが良いのかもしれない。ただ、ぱっと見にはまだ壊れているのがわからないものだから、未だにその状態のまま持ち歩いている。
最近は気候の急変がつらい。週の半ばまでは季節外れの暑さだったのが、昨日からぐっと気温が下がって、今朝はベッドから出るのすら躊躇するほど寒い。
でも由貴が寝ていたはずの僕の隣は、既にもぬけの殻だ。夕べは帰りが遅い日だったのに、今日もいつも通りに一人で起き出して、キッチンで親子三人分の朝食をつくり、大人二人分の弁当をつめているはずだ。
暖かいベッドでもう少し寝ていたいけれど、気合を入れて毛布を跳ねのけると、まずは子ども部屋をのぞきに行く。剛士は壁のほうを向き口元まで毛布を引き上げて、まだすやすやと眠っている。その頭をそっとなでて部屋を出る。
一階に下り、ダイニングでいつも通りホットミルクを飲みながら、キッチンの由貴に話しかける。
「明け方になんか夢見てたんだよね。寒くて眠りが浅かったのかな」
彼女は何も言わずに洗い物を続ける。シンクから微かに湯気が立ち上っている。
「でも出だしだけしか覚えてなくて。感動的っていうか、すごく気持ちを動かされる内容だった気がするんだけど。なんかアニメの最終回とか見終えたときみたいな感覚っていうか」
「ふーん」
マグカップ三つに薬缶のお湯を注ぎながら、彼女はこちらを見ずに返事をする。
「そういえば明け方になんか寝言聞こえたよ。誰かに怒ってたみたい。なんでお前はそうなんだ、とか」
「ほんとう?」
自分が寝言を言うとは思ってもみなかった。それに、そんな夢だったかな。
「確か、由貴が犬を散歩させていて、それで帰ってきたら僕に腕時計を見せてさ。そのあと僕は、いったいどうして怒ったんだろう」
「そんなの聞かれてもわかんないよ。だいたいうちは犬なんて飼ってないでしょ」
彼女はそう言って少し笑うと、手早くカウンターにトーストとスープ、ヨーグルトを置いた。
「テーブルに並べて、それからたけしを起こしてきてくれる?」
「わかった」
そう答えて立ち上がったタイミングで、ちょうど剛士が階段を下りてくる足音がした。それで僕は朝食の皿をテーブルに並べつつ、再びさっきの続きをしゃべり出す。
「あと夢から覚める間際にさ、起きたら何かを確かめなくちゃってずっと思ってて、それで今朝は普段よりもちょっとだけ早く目が覚めたんだけど。でも気がついたら何を確認しなくちゃいけないのかもすでに覚えてなくて」
「おはよう、たけし」
由貴は僕の話を遮るように、一人で起きてきた剛士に声をかけてから、ぎょっとした表情をした。
「その顔、どうしたの?」
「どうもしてない」
「どうもしてないことないでしょう!」
朝から声が大きい。
「転んだだけ。学校から帰ってくるときに」
剛士は頬に手を当てる。その手の下の青黒いアザは、さっき子ども部屋で見たときよりも、明るいダイニングでのほうが目立つ。
「ちょっと見せてみて」
由貴はキッチンから出てくると、剛士の両腕をつかんでその前にしゃがむ。
「べつに痛くないから」
剛士は無表情でそう言うと、由貴の手を振りほどいてトイレに行きバタンとドアを閉めた。
「なにあれ、どういうこと?」
「さあ、別に本人の言った通りだろう」
僕は肩をすくめてみせた。
「医者には行かなかったの? 知ってたんでしょう?」
「見ての通り、そんな大騒ぎするほどじゃないよ。夕べよりはちょっとアザが濃くなったみたいだけれど」
まだ由貴は納得のいかない顔をしている。でもそれも仕方ない。昨晩は部署の飲み会で、剛士が寝るまでに帰ってこられなかったのは彼女の都合なのだから。
もちろん、たまに子どもの世話をするくらい、僕はまったく苦じゃないし、剛士と二人で過ごせる時間はむしろ楽しみですらあるから、彼女が仕事帰りに飲みに行ったって一向に構わない。ただ疲れて帰ってきて、朝から不機嫌になるのだけは勘弁してほしい。
トイレから戻ってきて自分の席に着いた剛士の顔を、由貴がテーブルの上に身を乗り出して丹念に眺める。
「どこで転んだの。帰り、りょうくんたちと一緒じゃなかったの?」
さすがに少ししつこいな。心配なのはわかるけれども。
「通学路にもなれてきたから、最近は一人で帰ってくることも多いみたいだよね」
つい無口な剛士に助け舟を出す。ちょうどそのとき、時計がわりに点けっぱなしのテレビでは、視聴者のペットを紹介するコーナーが始まった。目の悪い剛士はいつものように、イスから降りてテレビの前にしゃがみ込む。その動きを目で追っていると自然に由貴と目が合い、僕は微笑んでみせた。
それにしても、僕は若いころには自分がこんなにも子どもを大切に思うようになるなんて、考えてもみなかった。かつては小さい子どもに興味なんてなかったし、なんなら別世界の生き物くらいに考えていた。
それで最近つくづく思うのだけれども、あの子を深く愛そうという思いが僕のなかに芽生えたときに、周りからもそうあるように望まれていたということが、僕にとって重要だったのに違いない。あの子のことをずっと大好きでいて良いのだ。なぜなら自分の息子なのだから、それが僕の役割だし、なにより剛士や由貴もそれを望んでいるはずだ。
「まあ、いろいろ予想外なことが起こるのも、子育ての楽しみの一つだよね」
思わずそんな言葉を口にする。
「なにのんきなこと言ってるのよ」
由貴が咎める口調で言った。お気に入りのコーナーが終わり、自分の席に戻った剛士は、うつむいて黙々とトーストをかじっている。
「ああそうだ、明日は土曜日だけど仕事行くから」
「はいどうぞ」
由貴はこちらを見もせずに答える。勝手にすればと言わんばかりの口ぶりだが、明日は由貴が息子と二人の時間を楽しめばいい。夕べ僕が一人で剛士の面倒をみていたみたいに。
目が覚めると、昨日にも増して冷え込んでいる。まるでたった一日で、秋を飛ばしていきなり冬になったみたいだ。それでもまだ寝ている由貴を残してベッドから抜け出すと、一人でシリアルの朝食を済ませ、歯を磨いてスーツに着替えた。ちょうど家を出る直前に、剛士と由貴が起きてきた。
「いってらっしゃい」
玄関先まで見送りに来た由貴が言う。剛士はその横で、だまって眠そうに立っている。
「行ってくるね。剛士、おかしなことを言ってママをこまらせるなよ」
そう言って、軽く息子の肩に手を置く。ふいのことに驚いたのか、剛士は少し体をこわばらせる。あらためてその頭をなでてから家を出る。
駅に向かう途中、自販機でペットボトルの水を買おうとしたところで、また、かばんのファスナーが引っかかって動かなくなった。今日は弁当もないからほとんど空のかばんだけれど、このままじゃ財布を取り出すこともできやしない。
とりあえず川沿いの遊歩道で、木陰のベンチに腰をおろす。ちょうど駅のホームから見渡せる位置で、毎朝電車を待っている間にぼんやり眺めている辺りだ。別に急ぐ必要はなかった。今日の出社はただの思いつきで、片付けなければならない仕事がある訳でもない。
スポーティーな服装の女性が、目の前を大股に歩き過ぎる。少し遅れて小さな犬が、リードで引かれてついていく。木漏れ日の降り注ぐなか、かばんを膝に乗せ部品をかちゃかちゃといじっていて、急に思い出した。
昨日の明け方の夢のなかで、僕は帰ってきた由貴と交替に、犬を連れて散歩に出かけたのだ。それで道端の木にリードを結び付けると、そのまま犬を置いて家に帰ってしまった。理由はなにか忘れたけれど、きっと些細なことだったに違いない。由貴と剛士には、言うことをきかないから犬は捨ててしまったと伝えた。すると剛士が泣き出した。僕は彼を抱きしめて、気が付くと剛士と一緒になって泣いていた。
思い出してみれば、なんてことはない夢だ。目覚めたときにはきっと、ただ感傷的な気分が残っていただけなのだろう。いま考えると、感動するような要素はどこにも見当たらない。
うちには犬はいない。マンション暮らしの実家でも飼ったことはないから、そもそも犬と散歩をした経験すらない。それでもあんな夢を見た理由は見当がつく。剛士の好きな朝のテレビ番組のコーナーと、あとは前日の夜の記憶のせいだ。
飲み会だからと由貴の帰りが遅かったあの晩、僕は剛士の頬を張り倒していた。翌朝になってアザが残るくらいしたたかに。
由貴のいない日に限って、僕はあの子に手を挙げる。
おわり
執筆の狙い
今回は、できるだけ短くまとめようということと、書いていて自分が楽しくないお話しを書こうということを意識しました。
よろしくお願いします。