栞紐
新城の友達と周りから呼ばれていた。彼の印象が濃い分、ただでさえ印象の薄い僕の名前を積極的に覚えようとするものは居なかった。
彼は言った。
「人はいろんなものを溜め込んでいく。それの出し方がわからない。それはストレスとか、そういうものではないんだ。病院で薬を処方されても、なんの解決にもならない。賞味期限が過ぎたジュースの底に沈んだ澱のようなものだ。もしくは嘘。一生抱え込んでいく嘘のひとつやふたつ誰もが持っている。それがないなんていう奴は、薄っぺらい人生を送っている」
実際はひとつやふたつの嘘じゃ済まない。むしろ彼の発言は、本当のことの方が少ないと思えた。
彼に言った。
「君の発言のほとんどは本当のことではない」
彼は言った。
「本当のことも本当ではないことも、本音ではある」
「本音の対義語は嘘ではないと思うんだが」
「建前と嘘は類義語ではある」
新城と友達になったのは新歓コンパの折り、たまたま最初の席が隣になってケータイの番号を交換したことがきっかけだった。コンパの間中、彼は忙しくいろんな席を回り続け、僕は同じ位置からまったく動かなかった。
このサークルに入ったのは、文学を真面目に語り合う集まりと聞いたからだったが、実際のところコンパの始めから、それは疑わしいものだと感じ始めていた。新城は女子全ての席をまわりケータイ番号の交換をし、その他の新入生男子も彼の行動に触発されてか、同じような動きをしていた。文学について語っている席は見当たらなかった。
頃合いを見計らって中座しようと思っていた。幹事が席替えを宣言したタイミングで、トイレに立って一緒に荷物を持つと、新城がそばに寄ってきて耳元で囁いた。
「まともなのはお前しかいない。帰りたいんだろうが帰ってもすることはない。最後までつきあうのも社会勉強のひとつだ」
「読みかけの小説があるんだ」
「お前には飲みかけのビールもある」
「ビールは注がれただけで飲んでいない。僕らは未成年だ」
「じゃあ、違うものを頼むといい。俺が頼んできてやる。ウーロン茶か?」
「今度にするよ」
「今度は建前だ。そういうのを嘘吐きと言う。俺のために今日はつきあってくれ」
俺のためが、なにを指すのかよくわからなかったが、これ以上のやり取りは不毛に思えたし、小説はいつでも読める。新歓コンパは一度しかない。このサークルに居続けるかどうかは別にして、と無理やり自分を納得させたというよりも諦めさせた。彼にはパワーがある。僕には断るパワーがない。それだけのことだ。
彼に言われるがまま着席したのは女子が三人固まっている場所だった。彼が先ほど最も長居していた場所でもある。彼が僕の紹介をした。女子三人は彼を見て頷くだけで、僕のことは視界に入っていないようだった。あるいは入れないようにしていた。
こういうことには慣れている。十八年生きてきた訳で自分の立ち位置は理解している。高校までもクラスの中心からは、はるか彼方の冥王星あたりに存在し、冥王星ほど神秘的ではなく、調査の手が入ることもなかった。
彼は満遍なく三人と話しているが、視線は主に鈴華と呼ばれている子に向けられていた。鈴華は、笑みが絶えることのない社交的な幼さを感じさせる顔立ちをしている。派手さはなく、肌を極端に露出しているわけでもなく、男子に媚びた印象はまるでなかった。とりわけ綺麗な姿勢をしていた。
一方の新城は、話題に欠くことなく弁が立ち、どの角度から見ても男前と呼べる風貌をしている。少なくとも僕を友達にするわけのない人物で高校では当然のようにクラスの中心に居ただろうと思えた。太陽は自身の力で冥王星を引きつけていることを知っているのだろうか。
程なく新城と鈴華はつきあうようになり、なぜか二人のデートに僕はよく連れ出されることになった。彼には二人で会えばいいと幾度か言ったが無意味だった。僕は引力から逃れる術を知らないのだから。
はじめは週末の_度に、次第に毎日のように二人と過ごした。新宿、渋谷、池袋、上野、浅草、吉祥寺などの街を、太陽の自転作用で冥王星が公転するように見て回った。
そのお陰で、田舎から出て来たばかりの僕は宇宙がどこに行っても宇宙であるように、東京がどこに行っても東京だと知ることができた。公転は大学二年の夏で終わった。
新城はとても回りくどい言い方をした。別れた、という一般的な言葉は遣わなかったので、意味を汲み取るのに時間が掛かった。
理由は尋ねなかった。尋ねたとしてもまともな答えが彼から返ってくると思えなかったからだ。
件の嘘のひとつやふたつ_、という比喩とも格言ともとれる発言は、その回りくどい言い方のごく一部で、それがなにを意味するのか、なにも意味しないのかは、わからなかった。
二人が別れてから新城の引力は鳴りを潜めた。三人で集まることはなくなって当然としても、僕らは会話すらなくなった。元々、僕から声を掛けることはなかったし、新城と鈴華にとって必要だった役割を(どんな役割だったのか、わからないが)終えたのだろうと思っていた。そういう風であったから、三年生になる直前、彼が長い間休んでいることにクラスメイトからの指摘によって、ようやく気づいたくらいだった。
普段、事務的な会話以外で僕に話し掛けるものは_誰も居なかった。しかし、この一時に限っては新城はどうしたのかと、わざわざ訪ねて来るものが幾人も居た。その度にわからないと答えていると、その人物たちは一様に損をしたような表情を見せた。慣れていることとはいえ、傷つかなかったわけじゃない。
春休みに入り、新城から連絡があった。
電話に出るなり、なんの挨拶も脈絡もなく、大学辞めるよ、と切り出された。彼は、おはようとか、久しぶりとか、折り入って相談があるんだとか、誰もが口にするフレーズを不要と考えている節がある。
無駄と思ったが、社交辞令的になんで辞めるのか?と尋ねた。
「逆にお前はなんで、大学に行き続けているんだ?」
「卒業するために入ったのも理由のひとつだからだと思う」
「俺は卒業するために入った訳じゃない」
「なんのために入ったんだ?」
「わからないから辞めるんだ」
やはり質問は無駄だったし、言い返す言葉は見つからなかった。
彼は、最後にと、
「鈴華と三人でもう一度会って欲しい」と言った。
井の頭公園の入り口で待ち合わせした。僕より前に鈴華が到着していた。やあとか、久しぶりとか簡単な挨拶を交わし、新城の到着を待っている間に今日の趣旨というか、彼女がなんと言われて誘われたのか尋ねた。
「大学を辞めるから三人で会いたいって言われただけよ」と彼女は答えた。
「僕と同じだ」と応じ
「他に考えられることは?」と尋ねた。
「ありすぎて、わからないわ」
僕らはおとなしく新城の到着を待った。
彼は現れなかった。ケータイは留守番電話サービスに接続しますと告げ、待ち合わせ場所を間違えたのかと思い、覚えのあるいくつかの入り口を探したが、見当たらなかった。
探すのを諦めた後、解散することも考えたが、なんとなく気まずいというか聞くべき話がある気がして七分咲き程度の桜を眺めながら歩き始めた。僕らはずっと口を閉ざしていた。僕から話すべきことはなかったし、彼女がなにかを言おうと考えている様子があったからだ。五分か十分経つと鈴華が口を開いた。
「なにも聞いていないの?」
「君たちのことについて?」
「そう」
「なにも聞いていない」
「興味がないの?」
「そういうわけじゃない。新城に聞いたとしても、まともな答えが返ってくるとは思えなかったから」
彼女は少しだけ納得したように、ふっと息を吐いた。
「いろいろあったのよ」
「そうだろうね。君たちはとても仲が良かった」
「三人でよくこうやって、なにをする訳でもなく歩いたわね」
「そうだね。でも、なんで三人だったんだろうか。僕は新城に二人で会えばいいと何度か伝えたことがある」
「あなたはなにも知らないのね」
「繰り返しになるけど、新城に質問しても意味がないことは君にもわかるだろう」
鈴華は何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「僕に関係することなの?」
「やはり新城くんに聞くべきことよ。わたしから話すことじゃないわ」
僕に何の関係があるのか。話すべき言葉もなく沈黙が訪れた。自然と、駅に近い公園の出口に向かっていると視界の端、人混みの陰に新城が居た。新城は振り返り走って公園の出口に向かった。僕は追い掛ける。彼は走る。僕も走る。日曜日の昼下がりの公園は花見客で混んでいて、まっすぐ進めない。程なくして彼を見失った。諦めて元の場所に戻ると鈴華は居なくなっていた。
僕がこの大学を選んだのは身の丈にあっていたことと、大きな図書館があることが理由だった。数ある学部の中でも文学部を選んだのは、学生の間にやるべきことを考えた折りに、未知の学問へ挑戦するのが妥当だと思ったからだった。
未知の学問と言えば法律学も、経済学も、あるいは生物学も同様だが、興味をまるで持てなかった。将来を、就職を考えていたかというと、なにも考えていなかった。国語の先生になりたい訳でもなく、モノ書きになりたい訳でもないのだから。ただただ、長い長い小説をたくさん読むことが唯一の目標だった。
高校三年の志望校決定のときから、長い小説を読むようになった。短い小説には、あまり興味を持てなかった。読まなかった訳ではなく、好きになった作家の短編は読んだ。しかし、物足りなさを感じ、世界の広がりを、居心地のよさを感じることが出来なかった。長い小説の中には自由を感じ、例え難解な文章や物語であったとしても作者の人と為りを垣間見るような気がした。なにより長い時間、その世界に居られることが大切だった。
同級生がひとつでも上のランクの大学に入ろうと受験勉強に精を出す中、背伸びしなかった僕は、ずっと小説を読み続けた。親からは特になにも言われることなく、実際、昔もいまも放任だ。志望校を、学部を告げた際も、そうか、の一言だけだった。
そうしてこの大学に入り、同じ学部、同じサークルの新城と鈴華に出会った。他にも出会った人物は居たが、この物語にはあまり影響がないし、僕も彼らの人生にはほとんど影響を及ぼしていないだろう。三十代を前にしたいまも、あの頃のことは鮮明に覚えている。いつか記憶を形にして残そうと思いながら多くの時間が過ぎた。時間がとれるいまだから記憶が薄れる前に、こうして纏めておこうと思った。
どれくらいの時間が掛かるのかはわからないし、
でき上がるのかも自信がない。
それでも筆を、入力を進めることを諦めないと決めている。
新城と鈴華を見失ってから、特段変化のない日が続いた。大学構内で鈴華を見掛けることはあったが、どちらからも話し掛けはしなかった。彼女の言う通り、新城に聞くべきことなんだろうと思った。
幾度か新城のケータイを鳴らした。先日と同様で留守番電話に繋がるだけだった。伝言を残したこともあった。
電話する以外にやれることは他になかった。彼はメールをひどく嫌っていて、その契約をしていなかった。なぜ嫌いなのか尋ねると、メールってのは日本語で言うと手紙だろ?友達や家族に手紙を送るなんて、そんな恥ずかしい真似はできないし、俺は文章を書くのが嫌いなんだと恥ずかし気もなく言った。文学部に入った理由がまるでわからなかった。
家に行ってみようかとも思った。それはルール違反のような気がして最後にとっておくことにした。最後というのは、生存確認が必要になった場合だ。自らの意思で僕と連絡を取ることを拒んでいるのだから、彼が動き始めるのを辛抱強く待つしかないように思えた。僕は待つことが苦手ではない。待っている間に長い小説を読めばいい。小説の世界に居る間は待ち時間ではなくなる。
実家暮らしのときは家庭科の授業以外で包丁を握ることはなかったが、食費を切り詰めるため、できる限り外食を避けて自炊した。バイトをすれば生活が楽になることはわかっていたが、その時間は小説を読むことに充てたかった。
節約することは苦ではなかった。小説を読む体力を支える栄養が摂れてさえいれば、問題はまったくなかったし、料理を始めてみると自分に向いていることがわかった。
新城と鈴華は僕の作る料理を好んで食べた。三人で会った日の帰りに僕の家に立ち寄り、夕食を共にするのが恒例の締めくくりだった。食材が新城の実家から直接送られてくることもあった。春にはたらの芽やたけのこ。秋には栗が送られてきた。それらの食材を僕が調理し、それをつまみに新城と鈴華はビールを飲んだ。
新城の実家からは、あれから随分経ったいまでも時々季節の便りとともに食材が送られてくる。
新城からの連絡を待っている間、小説を読んでいる以外は料理のレパートリーを増やすことに時間を使った。新城と鈴華が好んで食べたパスタに和える具や野菜の煮物を食材を変え、調味料を変え、いろいろ試した。食べきれない分は冷凍して保存した。
三年生になり梅雨入り宣言のあった日の夜、新城から連絡があった。
「今日はなんの日か知っているか?」
「梅雨入りの日かな」
「そうじゃない。俺とお前と鈴華がはじめて、三人で出掛けた日だ」
「そうなのか。よく覚えているな」
「お前には記念日という概念がないんだな」
「自分の誕生日も忘れるくらいだから、そうかもしれない」
「留守番電話に残されていた、お前の、あれはなんだ?淡々としすぎいて心配されている気がまったくしなかったぞ」
「機械相手に話すのは得意じゃないんだ」
「得手、不得手の問題じゃない。気持ちの問題だ」
「久しぶりに連絡してきたと思ったら、説教がしたいのか?」
「そうじゃない。時候の挨拶やプロローグみたいなものは必要だろう」
「時効?何か罪でも犯していたのか?」
「鈴華から聞いただろう?」
「鈴華は新城から聞くべきと言っていた。なんの罪を犯したんだ」
「ときにそうろうと書いて時候だ」
「ときに早漏は罪なのか?」
「お前は小説の読みすぎで、実際の世界を知らないな」
「それは否定できない」
「お前と噛み合わない会話をするために、連絡したわけじゃない」
「そうだろうな」
「そろそろはっきりしたらどうだ?」
「なにをはっきりするんだ?」先程から新城が何を言いたいのか、まるでわからない。
「お似合いだったぞ」
「君の話は、遠回りすぎてわからない。前から気になっていたんだが、事実をストレートに話すことはできないのか?」
「なにがストレートで、なにが消える魔球なのか、それは人それぞれのポリシーによるんだ。会話にルールはない」
僕は、あえて聞こえるようにため息をついた。
「会話の最中にため息をつくのはルール違反だ」
「ルールはなかったんじゃないのか?」
「マナーってものはあるだろう」
「そろそろいい加減にしないか?結論を話してくれ」
「結論を話して欲しいのは俺の方だ」
「埒があきそうにない。会って話さないか?」
「それはできない」
「では、どうすればいい?」
「素直になればいい」
「意外だ。君の口から素直という言葉が出てくるのは」
「俺は素直だぞ。言いたかったのはそれだけだ。あとは鈴華が話すべきだ」と言って彼は時候の挨拶もなく電話を切った。
こういうのをたらい回しと言うのだろうと思った。
しばらくケータイを眺めてから鈴華に電話すると話し中だった。着信通知は残るから、その内折り返しがくるだろうと思い、ケータイを置き、床に寝転がって天井を眺めながら考えた。彼が言っていた、お似合いと素直になれという言葉について。恐らくお似合いは、鈴華と僕のことを言っているのだろう。それぐらいは僕にもわかる。しかし、素直になれは、僕が彼女のことを好きだと思われているということだろうか。そんなことは考えもしなかったし、友達の彼女だった人物だ。三人で会っている間中、彼は僕に気を遣っていたということか。それは考えづらいことだった。
彼は鈴華との初体験について克明にというか、かなりの脚色もあったと思うが、僕に話して聞かせた。彼の緊張や鈴華の照れや、どんな反応だったかまで。そういう話を聞くのは好きじゃないと伝えた。彼は嬉しくて誰かに話さないと興奮して寝られそうにないと言って、深夜まで電話につきあったこともある。気を遣うべき相手に、そういう話をするだろうか?彼ならではの牽制球だった可能性もある。
考えながらいつの間にか寝てしまっていたようで、ケータイの時計を見ると二時間が経過していた。鈴華からの着信はまだなかった。深夜に差し掛かってきているから、恐らく明日だろうと諦め、お風呂に湯を張り、ゆっくり浸かった。湯船で歯磨きをしながら、また新城の素直になれについて考えた。僕のために身を引いた?それはおかしい。本人になんの意思確認もないまま、そんなことをするだろうか。お風呂から出て髪を乾かし、綿棒で耳掃除をしていると、彼女から着信があった。
「まだ起きてた?」
「お風呂に入ったところだよ。まだ寝ていない」
「新城くんから電話あったでしょう」
「あったよ。たらい回しにされたところなんだ」
「そう」
そうの後に言葉は、続いてすぐは出てこなかった。
電話の先で、話す順番を考えている彼女が想像できた。
「なにも聞かないのね」
「僕から尋ねていいのなら、そうするよ」
「事実をストレートに話せばいいのね?」
「そうだね。もうたらい回しにされるのは望んでいない」
「なんで二人で会わずに三人で会っていたのか話すわ」彼女の声には張りがない。なにかを諦めているような言い方だった。
「わたしは、あれが好きじゃないのよ」
「あれって、男女のあれのこと?」
「そう。新城くんのことは好きだったわよ。でも、あれをするのは好きじゃなかったの」
「そのために、僕が必要だったということだね」
「好きあった同士が抱き合うのは自然なことだと思うわ。でも、それは一般論であって、わたしには当てはまらなかったみたい。違和感というか、してはいけないことをしているような感じになるのよ」
「したくないことはしなくていい。そのために僕が必要だったのなら、それはそれで構わない」
「あなたには悪いことをしたかもしれない」
「そんなことはない。三人で会うのは不思議だったけど、僕は僕で楽しんでいた。僕もしたくないことはしたくないんだ」
「そう言われると救われるわ」と言って、彼女は深いため息とともに続けた。
「さっき電話をくれたとき、新城くんと話していたの」
「そうかもしれないと思っていた」
「あなたは新城くんに何を言われたの?」
「お似合いだったぞと素直になれと言われた」
「どう思うの?」
「お似合いは君とのことを言っているのだろうと思った。素直になれは、君への思いに素直になれということかと思ったけど、違うかもしれない」
「で、どうなの?」
「考えたことがなかったから、少し混乱しているんだ。もちろん君のことは好きだ。でもその感情は恋愛とは違う場所に置いてあるものなんだ。それを恋愛の場所に置き換えて考えたことはないから、正直わからない」
「ねえ、わたしは疲れているの。とてもね。それはあなたにはわからないし、わかる必要もない。でも配慮はして欲しいのよ。わたしから言わせないで欲しいの」
「君は疲れている。僕は素直にならなきゃいけない」
「その通り」と言って、少し力を込めた声で、
「ごめんなさい」と彼女は言った。
「突然、どうしたの?」
「本当にひどく疲れているの。あなたも混乱しているし、わたしも混乱しているの」と言って、この辺で止めとくわ、今日の話は忘れて貰っても構わないと、おやすみの一言が付け加えられ、電話は終了した。
彼女の声は、確かにひどく疲れているようだった。新城との電話の内容が気になったが、それは彼女が話せる状況にあるときに尋ねればいい。話してわかったのは、あの様子だと単純に彼女が僕に好意を寄せているわけではないということだった。やはり新城に直接会って話を聞く必要があると思った。
次の日は午後から授業だった。午前中、新城に電話すると予想通り留守番電話だった。伝言は残さず電話を切った後、母の日以降、実家に連絡していなかったことに思い立ち、電話を掛けた。
すぐに母が出た。
「どうしたんな?」
「随分連絡してなかったけえな。元気にしとん?」
「こっちゃー変わりゃーせんわ。あんたは元気にやっとんか?」
「まずまず、健康にはなんの問題もねえわ」
「まだ、なげえ本を読んどるんか?」
「うん、読んどる」
「就職のことも考えーよ」
「じきに考え始めるわ。父さんは変わらんの?」
「そりゃ相変わらずじゃ。変わるわきゃなかろーが。あがーなんでも父親なんじゃけえ、たまにゃーあんたが電話してみー」
父と僕は一緒に暮らしたことがない。僕が生まれたときから父は別の場所に暮らしていた。正月とお盆だけ家族と過ごすと決めていたのだろう、そのときだけはやってきて、墓参りやら親戚への挨拶回りをした。幼稚園に上がる前、今度はいつ来るん?と尋ねると、来るんじゃねー、帰って来るんじゃと、ひどく叱られたことを覚えている。
僕の田舎は高度経済成長の時分、デニム産業で栄えていたそうだ。いまはその名残りというか、しるしのようなものだけ残っている。少年時代を過ごしていた頃、人口の割に喫茶店とスナック、美容院が異常に多いなと思っていた。大人になってから知ったことだが、この三つは密接な関係にあった。産業が隆盛を極めた時期、役所は法人税で潤い、公共事業をたくさん発注していた。接待にスナックは使われ、スナックで働く女性たちは、朝は喫茶店でモーニングを食べ、夕方になると美容院に出かけた。母も夜働く女性だった。僕が大学を卒業すると同時に引退した。
ここから出て東京に行こうと思ったのは小学校のときだった。テレビで見る高層ビル群に憧れ、高校のときには、はっきりと出て行こうと決心していた。田舎なので行ける大学にも限りがあったし、このままここに居続けると窒息してしまいそうな閉塞感があった。
当時は憧れや閉塞感という言葉で片付けていたが、いまはただ家族から逃げたかったのだとわかる。子供のときには自分で解決できないことがあまりに多い。東京に出れば、一旦リセットされ、自分のことを誰も知らない土地だから_ゼロから始められる。少なくともマイナスではないと思っていたのだ。
出て行きたくて仕方なかった田舎でも好きなところがある。実家の近くを走る畳の幅ほどの細い用水路だ。田畑に水を供給しているのか、生活排水が流れているのか、どこが始点で終点なのかもわからない。雨の日は当然だが、晴れが続いた日も枯れはしないし、流れが滞ることもない。傾斜がついているようには見えず、流れが続く仕組みもわからない。そんなわからないことだらけの用水路の流れを眺めるのが好きだ。水は飲めそうなほど澄んでいる(実際子供のときに飲んだことがある、お腹を壊したりはしなかった)。いまの用水路には蓋がしてあるのが安全上当然だと思うが、時折落ちて怪我をする人が居るにも関わらず、昔もいまも蓋はされていない。夏になると裸足で用水路を歩き、ザリガニを捕ったり、どこかから迷い込んだフナと遊んだ。いまも実家に帰ると、滅多に帰らないのだが、用水路の流れを眺めている、あるいは用水路沿いに散歩をするのが常になっている。
昔は子供がたくさん居た街だった。いまは外で遊ぶ子供達を見る機会はほとんどない。歩いている人も居ない。商店街は夏になれば夜市を開催し、川では花火大会をしていた。いまもあるのだろうか。一般的な人が帰省するお盆に帰ったことがないので、はっきりとしたことはわからない。僕がわかっているのは、俗に言うシャッター商店街になっていることだけだ。
母から父に電話してみたらと言われても、こちらから連絡を取ることはない。もう僕も大人だし、子供時分に寂しい思いをさせられたことを恨んでいるわけでもない。ただ、話すべきことが見つからないだけだ。意地を張っているわけでもない。母には考えてみるよとだけ伝えた。
「次はいつ帰って来るんな?」
「いつになるんかな。バイトでもしてりゃーな、交通費は賄えるんじゃけど、しとらんけーな」
「夏にゃー帰ってきいや。電車賃ぐれえ出すで」
「学費と仕送りだけでも無理させとんじゃけえ、これ以上の贅沢は言えんわ。少しずつ貯金しとるけえ、半年後くれえかな」と言葉を濁らせて伝えた。
実家に帰る分の貯金はとうにあった。帰る気が起きないのは帰省するたび、東京に戻る僕を寂しそうに見送る母の姿を見るのが切ないからだ。
身体に気をつけー、就職を考えーよ、と念押しされて、電話を切った。
午後になり授業へ出た。
文学部というのは一風変わっている。授業が変わっている訳ではなく、学生の見た目が変わっている。長髪にヒゲは当たり前で、ずっとマスクをつけていて目から下を見たことない者や、季節に関わりなく下駄を履いている者、学生服を着ている者。変わった者をあげていけば枚挙に暇がない。周りからすれば、積極的に友達を作ろうとしない僕も変わり者だと思われていただろう。同じゼミに所属する鈴華は休んでいるようだった。前日に言っていた疲れがたたっているのかもしれない。
授業が終わると図書館に向かった。
読みかけの小説があって、それはどうしても借りる気が起きないものだった。図書館で読むべき本というものが存在するのだ。そして、それはいつも静かに同じ場所に、誰の手垢もつかず書架に収められている。今日も僕が挟んだ栞紐は同じ頁にあった。ゆっくり開き、小説の世界に入っていこうとする。いつもは大体一頁を読み終わらないうちに周囲の音は聞こえなくなり、その世界の住人たちの一挙手一投足に集中し始めるのだが、今日は数頁読んでも、その世界に入っていくことができなかった。諦めて栞紐を挟み元の場所に本を戻し図書館を後にした。
新城に電話を掛けた。相変わらず留守番電話にしか繋がらなかった。今度は伝言を残した。会いたいので連絡が欲しいと。
アパートに戻り、夕食の準備を始めた。
冷蔵庫の残り物を集めサンドウィッチを作った。食べ終わるとやることもなく、また天井を眺めながら、新城に言われた素直になれについて考えていると、ベランダで影が動いた。僕はアパートの一階に住んでいる。時々、どこからともなく猫が訪ねて来る。毎日のように来ることもあれば、一週間顔を見ないこともある。カーテンと引き戸を開けると、白に黒斑の猫は、自分の家のように部屋に入ってきた。今日は夕食は済ませたんだと言って、食べるものはないことを伝えた後に、戸棚に鰹節があったことを思い出し、専用の皿によそって与えた。食べる姿を眺め、食べ終えると背中をさすり、少し汚れた毛を整えた。しばらく僕の膝の上で落ち着いてから引き戸の方に向かったので、開けてやった。ベランダの匂いを一通り嗅いで周ってから、飛んで柵に飛び乗る。またね、と声を掛けると、飛び降りた。
お風呂に入り、綿棒で耳掃除をしてから、ケータイを見ると十二時を回ったところだったので、ベッドに入った。
鈴華は裸だった。素直になってと言い、僕に覆いかぶさってきた。したくないんじゃないの?と尋ねると、あなたは配慮がないのよ、と鈴華は言った。金縛りにあったように身体が動かず、いつの間にか僕も裸になっていた。性器はこれ以上膨れることのできない程、勃起し、それを鈴華に見られるのが恥ずかしかった。
鈴華は僕の首から下に向かって、ゆっくりと愛撫した。舌は黒斑の猫のようにザラザラで刺激が強かった。視線を感じ横を見ると、そこには新城が居て、素直になれと言っていた。
鈴華の口に性器が含まれたとき、身体を大きく揺さぶられた。目を開けると、ベッドサイドになにかが居た。
瞼をこすり、暗闇の中、目を凝らした。
「不用心だな」と新城は言い、
「ベランダの戸の鍵が開いていたぞ」と続けた。
「どうしたんだ、こんな時間に」と僕は言った。
「お前、いやらしい夢でも見てたんじゃないか?はあはあ言ってたぞ」
僕は落ち着こうと、深呼吸してから、身体を起こした。
「何度もインターホンを鳴らしたんだけどさ、お前が起きないからベランダからお邪魔させてもらった」
「非常識だ」
「お前が会いたいって言うから、わざわざ来たんだよ。それはないだろう」
「マナーってものがあるだろう」
「その辺は心得ている。靴はちゃんと脱いでから入ったぞ」
「そういう_ことじゃない」
「じゃあ、どういうことだ」
もういいと僕は言って、部屋の灯りを点けてくれと彼に頼んだ。
灯りが眩しくて、瞼を一旦閉じてから、ゆっくり開けると、彼はパジャマ姿だった。
「なんだ、その格好は?」
「お前だって似たようなもんだろ」
この時間帯に彼と会話するのは疲れる。
「で、僕が会いたいと言うから、わざわざ忍び込んでくれたんだな」
「言葉には気をつけてくれ。戸締りを確認したら開いていたから、裏口から失礼しただけだ」
「それは、どっちでも構わない」
「いずれにしても、呼ばれたから来ただけだ」
無駄なやりとりは諦め、なにか飲むかと尋ねた。
ビールと彼は言った。
僕はビールを飲まないが、新城の実家から数ヶ月前に送られてきた缶ビールが冷蔵庫にあったことを思い出し、手渡した。
彼は缶の底を眺め、舌打ちした。
「賞味期限が切れているじゃないか」
「そうなのか。じゃあ別のものにすればいい」
「俺はビールが飲みたいんだ」と言って、プルタブを開け、口をつけた。
「うまい。まずい」と彼は言った。
「どっちなんだ」
「うまいし、まずいんだよ」
面倒臭くなって僕は黙った。しばらく彼は苦い顔を、決して美味しそうな顔ではなく、ビールを飲み続けた。
「煙草吸っていいか?」と尋ねられたので、
「灰皿がないことは知っているだろう。換気扇の下で、いつも通りに」と答えた。
「灰皿買って、お前の家に置いておこうって何度も言ってたのに、結局買わずじまいだったな」と言いながら、彼は換気扇の下に向かい、煙草に火を点け、大きく吸い込み、白い煙を吐き出した。灰はシンクに落とされる。
彼は、それでと言って
「なんで会いたかったんだ」と続けた。
「君たちの謎かけに疲れたからだ。お陰で小説も読めなくなってしまった」
「小説はいつでも読める。素直になるのは、いましかない」
「素直というのは、僕が鈴華のことを好きということか?」
「そうだ」
「なんで、そう思うんだ。君の彼女だった人物だぞ。そういう風に考えたことはない」
「意外だな」
「意外じゃない。これが普通の考え方だ」
「恋愛に考え方は必要じゃない。どんな風に感じるかだ」
「それはそうかもしれないが、君がそれを積極的に斡旋する理由がわからない」
「俺には時間がない。もうそろそろ戻らないとまずいんだ。お前の大好きなストレートな話をしよう。鈴華はお前のことが好きだ。お前も鈴華のことを好きだ。だからだ」
「鈴華がそう言っていたのか?」
「そうは言っていないな。でもわかるんだよ」
「僕にはよくわからない」
「鈴華のことを抱けばわかる。どうせそういう夢をさっきも見てたんだろうから」
「話が飛躍しすぎている」
「いいんだ。言う通りにしていれば間違いない。抱けばわかる。俺には時間がない。もう戻る」
「どこに?」
「秘密基地だ」と言って、彼は引き戸を開け、靴と言っていたがスリッパを手に取り、玄関から帰っていった。
秘密基地は病院のことだろう。そうでなければ、パジャマ姿やスリッパの説明がつかない。恐らく鈴華はそのことを知っているはずだ。
翌日も午後から授業だった。
授業が終わると図書館に向かった。昨日読んだ箇所から読み直そうと、栞紐に指を掛け頁を開く。幾分か前から読み始め、物語の記憶を呼び覚ます。徐々に意識は周囲から切り離され、その世界の住人となる。そこには、過去もしがらみも解決すべき問題も持ち合わせない僕として存在している。視界はクリアであり、なにからも目を背ける必要はない。僕へ注目する人間も、無視する人間も居ない。ここで起きる出来事を、隣人の感情の移ろいを、只々見つめている。ときに、隣人へ助け舟を出したくなることがある。でもそれは許されていない。しかし感情は出していい。泣いてもいいし、笑ってもいい。怒りを覚えたときは叫んでもいい。誰も咎めはしない。おやっと思うことがあれば、巻き戻すこともできる。早送りもできるのだろうが、それは好みじゃない。物語が終盤に近づいたことに頁をめくる僕の指が気づいてしまう。この世界から引っ張り出されそうになるが、そのときはスローダウンすればいい。時間の流れを管理しているのは僕なのだから。
いつもの分量を読み終え、ゆっくり伸びをしたり首や手首を回し、こっちの世界に身体を慣れさせる。窓の外を眺め、壁に掛かった時計を見て、経過した時間を知る。今日は二時間程、あっちの世界に居たようだ。栞紐を挟み書架に戻した。
図書館を出ると玄関の階段に、いつもの綺麗な姿勢で鈴華が腰掛けていた。
「今日の読書はどうだったかしら?」
「まずまずだね」
「それはよかった」
「僕のことを待っていたの?」
「そうよ。この時間は図書館だろうと思って」と言う彼女の表情には、いつもの笑顔もなく疲れが色濃く見て取れた。
「僕も聞きたいことがあったんだ」
「新城くんの病気のことでしょう」
「そう」
「なんか。原因不明の病気らしいわ。心臓がだいぶ弱っているみたい」
「この前公園で走っていたのに、心臓なの?」
「馬鹿よね」
「君と別れたことや、大学を辞めると言い始めたこと、僕と君をつきあわそうとしていること、その病気が原因なんだろうか?」
「これもまた馬鹿げているわよね。本人は、もう長くないと思っているみたい」
「そんなにひどいの?」
「よくはないわね。ただ新城くんの言うことだから、あてにはならないけど」
「君はひどく疲れている」
「そうね。昨日も遅くまで新城くんと電話で話していたから」
「うちに来たよ」
「聞いたわ。その後ね、わたしに電話を寄こしたのは。あなたの家への潜入の仕方を大袈裟に話していたわよ」
「新城は僕のことを逐一、君に連絡しているんだね」
「そう。面倒臭いったらないわ」
「でも、心配だ」
「だからやっかいなのよ」
「君はなにを新城から聞かされているというか、言われているんだろう?」
「あなたと一緒だと思うわ」
「僕に抱かれろと?」
「本当に馬鹿げているわよね」
「そうだね」
「でも、そうしようかと思っているの」
「久しぶりだけど、なにも変わらないわね」と彼女は僕の部屋を一通り眺めてから言った。
「何も変わっていないよ。今日は新城が居ないことくらい」
彼女はベッドに姿勢よく腰掛け、スカートの皺を整えた。新城が居ないだけで、こんなにも風景が変わるものかと思った。
「なにか飲む?」
「ビールはある?」
「あるけど、賞味期限が切れているらしい」
「らしいって、どういうこと」
「昨日、新城が言っていたから。新しいのを買って来るよ」
「いいわよ、そこまでしなくて。落ち着きたいだけだから」
「どうしてなんだろう」
「たぶん、新城くんが言わなくても、いずれこうなる流れだったのよ」
用水路の流れが頭をよぎった。どこから来て、どこへ行くのか。子供のときと、なにも変わっていない。僕は受け身のままだった。
彼女はシャワーを貸して欲しいと言った。
「いいけど、本当にするの?」
「あなたは配慮がないわね」
夢と同じだ。
立ち上がった彼女は僕のそばに寄り首に手を回した。背中、腰に手は移り、抱きしめられた。僕は両手を背中に回すべきか考えたが、宙を空回りするだけだった。
「初めてでしょ」
俯くのが精一杯だった。
「シャワーを浴びて来るわ」と言って、バスルームに鈴華は消えた。
喉がカラカラだった。
冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲もうと思った。でも手は賞味期限切れのビールに伸ばされた。プルタブを開け、口をつけた。なにも味はしなかった。もう一口飲んだ。結果は変わらない。思い切って全部飲んだ。舌の奥に少しだけ鉄のような苦味が残った。シャワーの音が聞こえている。酔いが回ってくることを期待した。
なにも変化はなかった。もう一缶飲もうかと思っていると、シャワーの音が止まった。部屋の中を意味もなく歩き回った。バスタオルを巻いた彼女が出てきた。
「僕もシャワーを浴びるよ」と言い終わらない内に、抱きしめられた。
「いいのよ」
「でも」
「わたしに任せて」と言って、僕のシャツのボタンを外し始めた。
まだ喉は渇き、ビールの苦味が欲しかった。
ここから先は記憶が曖昧だ。
僕は寝転がっているだけで、全ては彼女によって、それは執り行われた。
一度目は、勃起しなかった。彼女はなにも言わなかった。抱き合う内、二度目で彼女の体内に僕は取り込まれた。
彼女が言っていた、してはいけないことをしている気になるという言葉が浮かび、気持ちがわかると思った。それでも、三度目も四度目も、この儀式のようなものは執り行われた。
翌日の昼頃、目が覚めると横に彼女は居た。今度は夢ではなかった。土曜日で授業はないから、彼女を起こす必要はない。僕も起きる必要もなかったし、まだ睡眠時間は足りていなかった。下半身に怠さを感じていたが、もう一度眠る気にはなれなかった。しばらく、眠る彼女を眺めていた。起きる様子はなかった。
食事の準備を始めた。ご飯を炊き、保存している出汁を使って味噌汁を作り、ハムエッグを焼いた。ご飯が炊きあがってからも、彼女は起きる気配がなかった。呼吸をしているか確認しにベッドに向かった。ハムエッグにラップをかけ、やることもなく天井を眺め、昨夜のことを考えた。
数時間前のことなのに、記憶は途切れ途切れで、うまく思い出せなかった。彼女のつるっとした肌や、反応はなんとなく記憶にあったが、どんなことをして、どんなことをされたのか、一昨日見た夢と現実が錯綜して、事実とは違う気がした。
ケータイを見ると二時を回ったところだった。まだ彼女は起きる気配がない。また呼吸をしているか確かめにベッドに近づくと、ベランダに黒斑が来ていた。そっと引き戸を開けた。いつも通り我が物顔で部屋に入って来た。彼女の匂いに気づいたのか、部屋の中を嗅ぎまわり始めた。何か違う匂いがする。でも、ベッドで眠る人物の発見には至らなかったようだ。食パンとハムを準備した。
黒斑はパンの白い部分より耳を好んで食べる。細かくする必要はない。食パンの一辺の耳をそのまま口の前に差し出すと、咥え、上手に咀嚼し、ゆっくり喉へ流し込んでいく。四辺を与え終わると、ハムをちぎって与えた。半分ほどを食べると満足したのか、毛づくろいを始めたので膝の上に乗せ、背中の汚れを撫でて、抜けた毛の処理をしながら、彼女は黒斑のことを知らないから、いま起きたら驚くだろうなと思っていた。
黒斑は急に耳をピンと立て、膝の上で鼻をひくつかせた。ベッドを見ると、彼女が寝返りをうち、目を開けたところだった。
「おはよう」と声を掛けた。
黒斑の緊張が膝を伝って感じられた。彼女は黒斑を目を凝らし見ている。
「猫だよね?」
「そう、近所の猫なんだ。時々遊びに来る」
「近づいても平気かしら」
「どうだろう。でも、挨拶はした方がいいと思う」
「こんにちは」と彼女は言った。
黒斑は皮膚を硬くしている。
彼女はベッドの中を移動して、黒斑のそばの布団から顔を出し舌をチチチと鳴らし、指を差し出すと黒斑は匂いを嗅ぎに、僕の膝の上から降りた。最初は距離を取り鼻をひくつかせ、ゆっくり何度か近づいたり少し距離を置いたりを繰り返す。
ハムの切れ端を彼女に渡した。
黒斑はゆっくりそれの匂いを嗅ぐ。咥え、上目遣いで、彼女を見ながら咀嚼しはじめた。
「もう大丈夫」と僕は言った。
咀嚼する黒斑の頭を彼女は指の先で撫でた。
「かわいいわね」
「もう友達だ」
彼女はゆっくり布団を剥ぎ、ベッドに裸のまま腰掛け、姿勢よく伸びをした。カーテンを通した陽が彼女を照らした。
目を逸らすことができなかった。この身体と交わったのだ。夢ではない。
「なにかないの?」
「綺麗だよ」
「ありがとう。でも、そうじゃないの。なにか着るもの」
ごめんと言って、クローゼットからTシャツとスウェットパンツを取り出し、渡した。
彼女が猫じゃらしないの?と言ったので、近くの公園へ走り二本拝借して持ち帰った。
しばらく彼女はそれを使って、黒斑とコミュニケーションを取った。黒斑は彼女を気に入ったようだった。ひとしきり遊ぶと黒斑が引き戸に向かったので、帰るみたいだよ、と彼女に声を掛けた。
バイバイ、またね、と彼女は言った。引き戸を開けると黒斑は振り返ることなく、いつも通り柵に乗り、すっと飛び降りた。
冷めたハムエッグと作り置きのかぼちゃの煮物をレンジで温めなおし、遅い昼食を二人で摂った。
「あなたの作る料理はなんでも美味しいわね」
「ハムエッグは誰が作っても、あまり変わらないよ」
「でも、なにかにこだわりはあるでしょう」
「こだわっているわけじゃないけど、ハムは焼かないようにしている。卵だけ焼いて、ハムの上に乗せるんだ。ハムを焼くと風味が損なわれる気がするから」
「うちのお母さんは、いつもハムごと焼いてるわ」彼女は実家に住んでいる。
「それぞれの好みがある」
「でも、こっちの方が美味しい」
「ありがとう」
「お米もなんか違う気がするんだけど」
「普通のスーパーに売っているものだよ」
「炊き方かしら」
「違うとすれば、研ぎ方かもしれない。水をたっぷり使って、一度目は研がず、流すだけ。二度目、三度目は濁りを確認しながら研いでいる。素早くやるのが大切なんだ」
「お母さんに教わったの?」
「いや、料理は自分で。実験みたいなものだよ。たくさん失敗もしたし」
「あなたの作るパスタは最高だったわ。その辺のイタリアンより、美味しい」
「新城は美味しいけど、味が薄いって言っていたよね」
「あなたは西の地方だから、薄味なんだよね」
「うん。こっちのイタリアンは塩っけが強くて、僕には合わないんだ」
「そう言えば、あなたの家族について、話を聞いたことないわね」
「僕らは会っている間中、新城の話を聞いていた。だから、お互いのことはあまり知らないんだ」
「たしかにそうね。新城くんが居ると、ずっと彼の話につきあわされるからね」
お互いに昨夜のことには触れることなく、違う話をした。僕は生い立ちを話し、彼女は自らの母の話をした。彼女のお母さんはお父さんの浮気が原因でお酒に溺れ、アルコール依存になっていた時期があると言った。
「アルコール依存の人は、お酒が切れると手が震えると言うでしょ。あれは本当でね。なにかを掴むのも困難なくらいになるのよ。パンを持つ手も震えるから、うまく口に運べないの。飲み物は全部ストローを使わないと、こぼしちゃって大変なことになるわ。治療して_お酒は断ったから、いまは症状はでなくなっているんだけどね。思い出すと嫌になる」
「お父さんは元気なの?」
「父はそれからも浮気を止めなかった。家に愛人が怒鳴り込んできたこともある。訴えてやるとか。もう死んでやるとか言ってね。いま思えば笑えるんだけど、子供のときだったから、怖くて仕方なかった。いまは浮気を止めたのかどうかも興味がないからわからないけど、元気に家にはちゃんと帰ってきてる。母がなんで離婚しないのか不思議だった。でもいまはなんとなくわかるの。結局父のことが好きなんだって」
「大人になってわかるものもあれば、わからないままのこともある。うちの父は嘘吐きでね。新城とは違って、平和な嘘じゃないんだ。誰かを傷つける嘘なんだ。特に母をね。家族はみんなわかっている。それが嘘だって。気づかれていることがわかっていないのは本人だけで、僕はどうして、それを続けられるのか未だにわからない」
「一度嘘を吐いて、周りがそれを許しちゃうと、何度でも嘘を吐くようになるものよ。嘘を撲滅するためには、許しては駄目なの」と鈴華は言って、
「でも、全部が本当の世界はつまらないわよ」と続けた。
「たしかに」と僕は応じた。
その日、夕方まで二人で過ごし、最寄りの駅まで彼女を送って行った。
バイバイ、またね、と彼女は言い、僕は手を振った。改札の奥に姿が消えるまで、背中を見ていた。
彼女の居なくなった後の部屋に戻ってから、昨夜の出来事を思い出した。ついさっきまで一緒に居たのに、全部が嘘だったのではないかという風に思えた。しかしベッドの上に置かれているTシャツとスウェットパンツは記憶の頼りだ。僕らは間違いなくしたんだ。朝まで何度も結ばれた。
翌日の日曜日も、天井を眺めながら、昨日の記憶を反芻した。
月曜日は午前中から授業があった。鈴華と同じゼミだ。本来なら新城もだが、彼はいま居ない。
教室で見かけた彼女は友達と普通に話していた。僕はいつもの席についた。それは誰もが好んで座ることのない最前列の席だ。授業が終わって荷物の整理を終え、振り返ると、もう彼女は居なかった。次の授業も、その次の授業も彼女と一緒ではない。
全ての授業を終え、図書館に行った。書架に向かうと目当ての本はなかった。違う段か他の棚にあるのかと思い探しても見つからなかった。
司書に尋ねると、貸し出されている履歴はない。この図書館にいる誰かが読んでいるのだろうとのことだった。
あの本を誰が好んでと思ったが、どんな人が読んでいるのかが気になり、広い図書館を歩いて回った。一番奥、隅の席に鈴華は居た。
「その本」と僕は言った。
「あなたのことを知りたくてね」と彼女は言った。
「僕がそれを読んでいたのを、どうして知っているの?」
「この前、図書館の階段であなたを待っていたでしょ。一度は中に入っていたのよ。そのときに」
「どう、面白い?」
「わたしには無理みたい」
「だろうね。大体の人が無理だと思うよ」と言うと、はい、と本を手渡された。
「邪魔はしないわ」
「この前のことを一昨日も昨日も考えていた」
「行為について?」
「そう」
「そこが男と女の違いね。わたしはあなたのことを考えていた。どんなことが好きで、どんなことが嫌いなのか。あなたがどんな人なのか」
「なんか、ごめん」
「責めているつもりはないのよ。当然のことだと思うの。男女の違いってやつよ」と言って彼女は笑った。
「どうぞ本を読んで。わたしは帰るから」
「たぶん、今日も同じことを考えてしまうと思う。本は頭に入らない」
「困ったわね。今日はしないわよ」
返す言葉が見つからなかったし、とても落胆していた。自分が読書以外の行為に、こんなに心を持っていかれたことは、経験がなかった。
「違うのよ。わたしもしたいんだけど、あの日なの」と彼女は言った。
「ごめん。言いたくないことを言わせて」と謝った。
「わたし、あなたのことを好きよ」
「僕もだ」
「あなたは、あの行為についてね」
「意地悪はよして欲しい」
「あなたは、わたしのことをなんにも知らないの。まだ時間が掛かるわ」今日は本を読みなさい、バイバイ、またね、と彼女は去っていった。
その日の夜は梅雨らしい土砂降りだった。インターフォンで起こされた。
ドアを開けると、この前と同じパジャマ姿の新城はスリッパ履きで泥だらけだった。周りを確認してから、部屋の中に静かに入ってきた。
「何を確認しているんだ」と尋ねると
「追っ手が来るかもしれない」
「秘密基地の?」
「そうだ」と彼は真顔だ。
バスタオルを渡すと、玄関で足の泥を払った。
「賞味期限の切れていないビールを用意してあるよ」
「気が回るな」
彼は一昨日鈴華が座っていたベッドの端に腰掛けた。
ビールを二缶用意すると
「一本でいい」と彼は言った。
「今日は僕も飲むんだ」
「童貞を卒業するとビールが飲めるようになるんだな。これは一大発見だ」と彼は言って、
「卒業に乾杯」と続けた。
軽く缶を合わせ乾杯してから、
「どうして童貞じゃなくなったと思うんだ。鈴華と話したのか?」
「話していない。卒業すると鼻の先が割れるんだよ」
「さずがの僕もそれは迷信だと知っている。鼻の先は昔から割れている」
「そっか」と、どうでもよさそうな反応を示した。
「身体、大丈夫なのか?」
「まだ改造人間にはされていない」
「いつされるんだ」
「明日」
「はっ?ビール飲んでいる場合じゃないだろう」
「ビールでも飲まなきゃ、やってられないだろう。それに一本くらいじゃ大した影響はない」
「何時から?」
「聞いてどうする。秘密基地にはパスポートがないと入れないぞ」僕が海外に行ったことがないと以前話した折り、パスポートを持っていないことを随分馬鹿にされたことがあった。
「その秘密基地の本人確認はパスポートじゃない。保険証だ」
「うまい切り返しだな」
「本当に何時からなんだ?」
「午後からだ」
ビールも午後には抜けているだろうと、少し安心した。
「聞いても無駄だと思うが、どんな改造なんだ?」
「変身できるようになるか、死ぬかどっちかだ」
「可能性は?」
「五分五分らしい」
「本当に?」
「いつでも成功か失敗しかない。可能性は五分五分だ」
彼とはまともな会話ができない。いつも比喩や、よくわからない格言を元に会話をすることになる。
「で、うまくいったのか?」と尋ねられた。
「想像に任せるよ」と応じた。
「よかったな」
「僕はなにも答えていない」
「それでも、よかったよ」
「だから、なにも言っていない」
「安心して明日を迎えられるよ」と言って、ビールを飲み干し、やっぱりもう一本貰っていいか?と尋ねられたので、駄目だと答えた。彼は諦め、帰ろうとした。
「お見舞いには行きたいんだが」
「そのときが来たら連絡するよ」と言って、ドアを開けると先程より雨足が強くなっていた。賞味期限切れの缶ビールの底を見たときと同じように、彼は空に向かって舌打ちをして帰って行った。
そのときは翌々日だった。
「成功だ。無事改造人間になれた」と連絡があった。
僕と鈴華は花束と花瓶を用意し、秘密基地に向かった。
ベッドに横たわる彼は、お母さんに世話を焼かれていた。僕らは大学の友達ですと挨拶し、いつも食材を送って貰っている御礼をした。お母さんは、あんなものでよければ、これからも送るからね、ごゆっくり、と言って席を外した。
「まだ、なにも食べられないんだろう?」
「そうだな」
「お花と花瓶を持ってきたわ」と彼女が言った。
「ありがとう」と彼は言った。
「御礼が言えるなんて、改造の甲斐があったな」と僕は言った。
「たしかに」と彼は笑いながら応じ、
「痛てて」と言った。
「痛みも感じるなんて」と言ったのは鈴華だ。
「いじめないでくださいよ」と彼は言った。
その後、どうでもいい会話を繰り返したり、改造された箇所を見せてもらったりした。包帯が巻かれているのでよくはわからなかったが、パジャマをはだけさした彼の胸や腹は、以前と比べると薄くなった気がした。随分前から調子を崩していたんだろう。何も気づけなかったことを申し訳なく思った。
「退院は?」
「退院じゃなくて、こういう場合はなんていうんだろう。出発?いや出動だな」
「なんでもいいけど、じゃあ出動の予定は?」
「来週の検査にパスすれば、再来週かな」
「わかった。また来るよ」と言って帰ろうとしたら、彼は僕だけを呼び、耳打ちした。
病院の外に出ると、束の間の晴れで陽の光が眩しかった。
「さっき、なにを言われていたの?」
「ナースステーションを見ていけってさ。綺麗な子が多いぞって」
「あっ、そう。もう大丈夫そうね」
「そうだね」
彼は一ヶ月ほどで復学して、昔ながらの三人でのデートも復活した。変わったのは、鈴華は泊まっていき、新城は渋々帰っていくようになったことだ。
僕と鈴華は大学四年生になった。新城は単位が取れていなかったから、一年留年することが決まった。
彼女は早々に就職を決めた。僕は自分がなにをするべきか、決めかねていた。就職活動もせずに居た僕に声を掛けてくれたのは、いつも最前列で授業を受けていたゼミの先生だった。よかったら院まで進んで、卒業後は大学で働かないかと。
そういう声掛けは異例のものだったので、とても有難く感じた。しかし経済事情を考えると、これ以上の負担を母に掛けることはできなかった。なかなか返事をしなかった僕の状況を察して先生は講師のアルバイトと奨学金、両方を紹介してくれた。
母には大学で勉強しながら働くことになったと伝えた。安心した声で、そりゃー良かったわ、と言われた。
鈴華は大手の出版社で小説担当の編集者になり、幾度か僕へ小説を書かないかと依頼してきた。あなたには才能があるからと。長い小説は読めても、自分が書く姿を想像できなかったが、いつか鈴華と新城の話は纏めようと考え始めた。
僕らは、毎日の出来事や過去のことを会えるときは直接、会えないときは電話で話した。そうやって彼女のことを少しずつ理解していった。彼女は外出するよりも、僕の家でビデオを見たり、一緒に昼寝することを好んだ。とても意外だった。社交的だから、てっきりアウトドアを好むのかと思っていた。それは僕の先入観であり偏見でしかなかった。サプライズや遊園地の絶叫系アトラクションが苦手で、犬や猫の映画を見ると必ず泣いた。なにより好きだったのは、星空を眺めることだった。星座に詳しいわけではなく、ただ眺めながら、なにかを考えたり、なにも考えなかったりするのが好きだと言った。僕は背筋をぴんと伸ばし夜空を見上げる彼女の横顔が好きだった。
一ヶ月ほど黒斑が顔を見せなくなった際に、一緒に探しに出かけたことがあった。半年くらい経って、黒斑はなに食わぬ顔でベランダに現れた。戻ってきたことを伝えると、彼女は、もう心配するのが嫌だから飼おうよ、と言った。しばらく家の中で飼ったが、出掛けたい衝動を抑えさせることはできず、やがて放し飼いになった。それでも、毎日夜には帰って来るようになり、ベッドで一緒に眠るようになった。
彼女の家に時折り顔を出した。初めてご両親に挨拶するとき、まともに自己紹介も出来ず固まっていた僕を見て彼女はなぜか嬉しそうに笑った。お母さんに
「誠実そうね」と言われ、お父さんには
「誠実だけのつまらない奴だな」と言われ、とにかく酒を飲めと、お酌され続けた。娘を持つ父親からの洗礼だと覚悟し、根を上げることなく、注がれた分は飲んだ。僕がお父さんのグラスに注ぐことは頑なに拒否された。次の日はひどい二日酔いだった。
二度目に顔を出したときには、キッチンを借りて僕が料理やつまみを作った。予め、彼女からお父さんの好物を聞いておいて、それにアレンジを加えた。お父さんは汚いものでも掴むかのように、嫌々な様子で口に運んだ。ふん、と鼻を鳴らし、空のグラスを僕の前に差し出した。
僕の実家にも幾度か行った。彼女は初めての時
「あなたがここで育ったのかと思うと、なんだかとっても感動する」と言って最寄りの駅に到着するなり、笑いながら泣き始めた。
僕にとっては、なんでもない風景でも東京生まれの彼女の目には、新鮮に映ったのだろう。ここはなに?とか、あっちへ行くとなにがあるの?とか、泣き止んだ後は興味津々だった。質問されるたびに、思い出とともに紹介して回った。用水路沿いを歩くと、あなたが気に入っているのがよくわかるわ、と言った。
食事は母の手料理と近くの食堂で摂った。母は関西出身で僕の作る料理より、はるかに薄味なのに彼女は美味しいと言って、母を喜ばせ、食堂で出される料理では、あなたが濃い味付けを避けるのが、よく分かったと言った。
泊まったのは二日間で両日とも彼女は、凄過ぎると言って、地面に寝転がって随分と長い間、飽きることなく星空を眺めていた。僕も同じようにしてみた。暮らしていたときには気づかなかった、というよりも、その星空が当たり前だった。実家からそう遠くない場所へ国立天文台の観測所があるのは、そういう訳だったのだと、彼女によって気づかされた。
社交的な彼女と、滅多なことで他人を受け入れることのない母は、すぐに意気投合した。母はことあるごとに
「あの人は変わっとるでー」
「ありゃー信用できん顔しとるけーなー」などとつきあいの有無に関わらず、他人のことを先入観たっぷりに表現する閉鎖的な性格を持っている。しかし彼女に限っては
「ええ、おなごんこじゃ。あんた、この子を失うたらいけんで」と言い、別れ際には涙を零しながら
「うちの息子を頼むな、お願いじゃけー頼むな」と両手できつく、彼女に握手を求めた。彼女はその勢いに怯むどころか、一緒になって泣き、最終的には抱き合っていた。
母は普段、完全な放任にも関わらず帰省のときに限って、こうやって今生の別れかのように振る舞う。今回は受け止めるのが僕ひとりではなく、彼女と一緒だったことで痛みが随分と和らいだ。
新城は一年遅れで卒業することになったが、就職がままならなかった。筆不精で、ことごとく書類審査で落とされた。実際ひどい履歴書だった。
結局、鈴華の紹介で同じ出版社に見習い編集者として入社することになった。半年経って芽が出れば正社員で、出なければ、なかった話になるというものだった。僕は彼を心配し、そんな条件で大丈夫なのか?と尋ねた。回答は想像通りで
「人生は成功か失敗しかない。可能性は五分五分だ」と言った。
半年後、無事正社員になれた彼のお祝い会を三人で催した。
僕は鈴華に尋ねた。
「新城は優秀な編集者になれそう?」
「どうかしら。かなりくせがあってね。それでも一部のモノ書きからは、意外なほど好かれているのよ」
「一部の?」
「一部でいいんだよ。その先生が大当たりすれば、俺の大成功なんだからさ」と彼は言った。
「新城がモノ書きを先生って呼ぶなんて、大人になったな」
「俺は初めから大人だっての」と言って
「それより、お前らはどうなんだよ。結婚とか考えないのか?」と続けた。
「僕はまだ院生だから、卒業してからだよ」
「わたしは、食べさせてあげるって言ってるんだけどね」と彼女は言った。
「聞いたけど、お前も小説書くんだって?」
「まだ書いていないし、いつになるのかもわからない」
「お前がさ、書くことになったら俺に担当させてくれ」
「なんで?」
「金の匂いがするから」
「嫌だ」と僕は言った。
僕は大学院に進んでも変わらず長い小説を読むことが好きだった。日本語の小説だけでは飽き足らなくなって、英語やドイツ語で書かれているものも辞書を片手に読むようになった。学校では講師のバイトをしながら時間が空けば、図書館で読むべき本を読み、栞紐を挟んだ。
この図書館は蔵書数が多いから、時々鈴華は仕事で必要な書物を探しにやってきた。見つかると、僕が借りて彼女に渡した。新城には、そういう真面目さはなく、卒業後一度も大学に立ち寄ることはなかった。
大学院を卒業すると、講師として正式に採用して貰えることになった。講師は薄給で、食べていくのにも苦労するが、変わらず好きな本に囲まれて仕事ができるのはやはり嬉しかった。しかしながら、鈴華との将来を考えると不安がなかったわけじゃない。せめて二人で暮らせる広さのアパートに越せたら、ちゃんとプロポーズしようと思っていた。
その日、いつも通り仕事帰りに図書館に立ち寄った。司書に簡単に挨拶し書架の方に向かい、棚を探した。
探しても探しても、見つからなかった。
そもそも自分がなにを読んでいたのか、思い出せなかった。
しばらく書架の周りを徘徊したが、なんの発見もなかった。
諦め自宅に戻った。
疲れが溜まっているのだろうと思い、早めに床に着いた。
それから、自分が担当する授業でも、前週どこまで教えたのか、わからなくなることが度々続いた。症状が出る週もあれば、出ない週もあった。
鈴華に、それを言うと
「本の読みすぎかもね。でも心配だから一応、病院で診て貰って」と言った。
その頃の彼女は編集者として一線で働いていた。会える日も一ヶ月に一回あるかないかの程度で、休みの日も関係ないようだった。
数日経った頃、出勤時に自宅から駅までの道がわからなくなった。自宅を出て戻るを何度か繰り返し、駅に向かおうとするのだが、少し進むと見たことのない景色が広がった。
具合が悪いので休むと学校に連絡を入れた。
タクシーを呼んだ。
自分の力で到着できるか不安だったから。
自宅から最も近い総合病院へ行った。
しばらくして、僕ら三人は戦没者を祀っている神社へ行った。二人の勤める出版社から程近い場所にあるが、ともに行ったことはなかったそうだ。
行こうと言い始めたのは新城で、なんでそこなんだ?と問うと、
「神様は少ないより多い方が決まってんだろう」と言った。
僕はそこを墓地のようなもので、戦没者を悼む場所であると認識していたから、利己的なお願いをするべきでないと思っていた。
それを彼に言うと、
「本が好きな割になにも知らないんだな。子孫を見守るのも、そこの役割の一つなんだ。お前も親族に戦没者の一人や二人いるだろう」と言った。僕の知りうる限り、親族に戦没者は居なかったが、彼に言っても無駄なので、言わなかった。親戚の親戚の親戚にも居ないって言えるか?と言い返されるのが目に見えていた。
人がまばらな地下鉄の駅で降りて、地上へ出ると初夏の日差しが眩しかったのを覚えている。鈴華は日傘をバッグから取り出し、新城と僕はシャツの袖をまくった。
向かう間、彼は珍しくなにも言葉を発しなかった。彼女はここをまっすぐ行って、右に曲がると出版社があるのよとか、あそこのランチは美味しくないのよとか、街について紹介してくれた。
教えて貰っても、僕にはもう役立たないんだとは思わなかった。普通に接してくれることがありがたかった。
数百メートル歩くと鬱蒼と茂った森のようなものが見えてきた。彼女があそこよ、と言って、僕の手を握った。僕も握り返した。
彼は口を開かまいと決めていたのか、あるいはなにかを考えていたのだろう。神社の壁沿いを歩いている時も口を閉じたままだった。
南門と書いてある入り口を過ぎると木々の作り出す陰によって、幾分か暑さが紛れたと同時に光陰の落差によってか、軽い目眩を覚えた。
入ってすぐにあった見取り図によって拝殿が近くにあることがわかった。
手水で手と口を拭った。
平日の昼間だったからか、参拝者はそう多くはなかった。
拝殿手前にある鳥居の下で、彼が口を開いた。
「よし」と言って財布を取り出し、小銭入れから五百円玉を掴むと、大きなモーションで放り投げた。
彼女が、きゃっ、と声を上げた。
僕は誰かに当たりはしないかと一瞬心配になったが、拝殿前には誰も居なかった。
五百円玉は放物線を描きながら、賽銭箱に入る訳はなく、手前の石段に当たり、跳ね返って戻って来た。
ガードマンが走り寄ってきて、
「なにをやっているんですか」と怒鳴った。
彼は素直に頭を下げ、
「ゲン担ぎのつもりだったんです」と釈明した。釈明は受け入れられず、ガードマンから、もし拝殿に当たっていたら器物損壊でしたよとか、小声で、ここにはいろんな方がお見えになるんですから、大人なら理解してくださいと諭された。僕と彼女が間に入って、一緒に謝り、もうさせませんから許してくださいとお願いした。
数分間に渡って謝り続けた結果、僕らはようやく解放された。
拝殿に向かう間も鳥居の位置からガードマンは、僕らのことを、ずっと見ていた。
新城は、
「心の機微のわからん奴だ」と吐き捨てるように言った。ガードマンは神社を守るために居るのであって、参拝者の気持ちを慮るために居る訳ではないと彼に説明しても無駄なので、それは言わなかった。
拝殿に到着すると彼は千円札を取り出し、賽銭箱へ入れた。
「さっきの五百円玉じゃないのか?」と言うと、
「一発で入ったら五百円、入らなかったら千円って決めてたんだ」と言った。理解不能だった。
僕らは三人並んでお辞儀をして、目を閉じ、手を合わせた。
僕は心の中で何を言っていいのかわからなかった。自分のことをお願いするのは気が引けたので、鈴華のことをお願いした。
僕が目を開けると新城は、もう石段を降りていた。
鈴華は随分と長い間、手を合わせていた。
参拝を終えると、新城が煙草を吸いたいと言ったので南門近くの喫煙所に向かった。鈴華と僕はその前にある木陰のベンチに腰を掛けて彼が吸い終わるのを待った。ベンチで軽く反り返り、空を仰ぎ見ると、葉と葉の隙間からキラキラしたものが、降り注いでいた。隣を見ると鈴華も同じようにしていて目があった。いつもの笑顔よりも眩しく感じた。彼女がまた手を握ってきた。汗ばんでいることを気に留めず、僕は軽く握り返した。
いまではいろんなことを忘れてしまった。忘れないようにメモを取っても、そのメモの存在を忘れてしまう。書き上げるまで毎日この物語と向き合っていたのだが、都度最初から読み直さないと、自分がなにを書いたのかも、わからなくなってしまう。奇妙なことに随分と過去のことは、ある程度は覚えていられるのに一日前、数時間前のことになると、まるで覚えていられない。時には、鈴華が突然横に現われたような気になることもしばしばある。新城に対しては、彼曰く毎度そうらしい。彼女は勘がいいから僕の表情でその瞬間がわかるようだ。その度に、大丈夫だよ、と言ってくれる。
症状が出始めてから、どれくらい経ったのかはわからない。彼女は、たっぷりあるからと言って有給休暇を取って、そばに居てくれている。本当はとっくに使い切っているのだろう。僕を独りきりにさせることはできないから、ずっと一緒に居てくれて心強いし一緒の時間は何よりも代え難いものだ。
記憶がすり変わっていないか、鈴華と新城に確認して貰いながら書き進めた。書いているときは、頭のもやが晴れた。
母は実家に帰って来いと言う。僕も用水路の流れを眺めながら過ごすのは悪くないと思っているが、狭い街だ。噂はたちまち広まり、家族にとって居心地のよくない生活に変わるのは容易に想像できた。それに加え鈴華のそばを離れる気になれなかったし、なにより鈴華と新城のことを書き上げたかった。
黒斑は相変わらずだ。変わったのは名前をつけたこと。僕が忘れても大丈夫なように、猫の名前はクロロと書いた紙をいつも眺める天井に貼っている。
自分の名前もわからなくなっているのに、新城と鈴華のことだけは忘れないことを不思議に思っている。
新城との出会い、比喩や格言。
鈴華との初めての夜、初めての朝、一緒に見た映画、お互いの実家へ行った日、そのどれもが一緒に寝転がって眺めた星々のように、いまも変わらず輝いている。
もう僕は栞紐を挟むことができない。代わりと言ったら失礼かもしれないが、その役割は新城と鈴華が果たしてくれている。
新城へ
言われた通りに嘘を吐いたよ。
本当はこの物語ほど君はいい奴ではなかったよね。
最後まで編集者としてつきあってくれたことへ感謝している。
金の匂いはしないと思うけど。
鈴華へ
書き終えてわかったことなんだけど、
覚えていることは全て、君に話して聞かせたことや
一緒に体験したことだった。
僕は僕でなくなっていくことがわかっている。
この物語を誰が書いたのかも忘れてしまうだろう。
だから、いま伝えておきたい。
ごめんね。
ありがとう。
ここに居るから。
バイバイ、またね。
執筆の狙い
もう10年近く前に書いた作品です。
どんな感想が来るのか楽しみです。