今日こんなものを食べました。
「これは、しんけー抜くしかないですね」
清潔な、病原菌の一匹もいなさそうな診療室で告げられたのは、「神経を抜く」という残酷なものだった。愛しい我が身体から大事なボルトを抜かれるような奇妙な抵抗感があった。だが、同時に愛しいはずの自分の身体をぞんざいに扱ってきた、カフェに行けばスイーツを漁り、家に帰れば夫のお土産のケーキを漁る。そんな自分が省みられ、反対はできなかった。
モナリザよりも遥かに無名で、でも確かに美人な肖像画が変わらぬ笑みをたたえていた。それから天井をじっと見つめるのも嫌で、ひたすら眼をつむっていた。
麻酔の感覚。ゆっくりじっくり削られていく音。歯茎の中に入り込む感触。
痛み止めをもらったが、麻酔の効果もあるのか、驚くほど痛みはなかった。いや、これがむしろ神経を抜いた効果なのか。幾晩も眠れぬ夜を過ごさせたこれが消えるのなら、今日の代償は十分なのかもしれない。そう思いたい。
こんなことがあった後、正午になりそうな今、行くべきところは。
本当に軽い場所、たとえばマクドナルドとかくら寿司とか。
それか本当に大切なところ、それはもちろんあのカフェだ。
少し悩んで、後悔したくないから、後者のtack cafeを選んだ。
空は曇りだ。昨日の台風の名残か、雲が一面にかかっている。幸いなことに雨は降っていない。でも水のヴェールをまとっているようなじめじめした中を、自転車で駆ける。少し風が来るように強めにペダルをこぐ。10月のはじめなのに夏が終わろうとし、秋が始まろうとする温度だ。季節さえもスローモーションになったのか。
ようやく着いた喫茶店の前には青いワゴン車が一台、珍しくわたし以外の自転車が一台。喫茶店の店構えはスウェーデン調のログハウスでちょっとしたテラスがついている。青と白の色調が、霧のような曇り空に馴染む古さを備えている。
店内に入ると楽しそうに話し合っている老夫婦がいた。本当に楽しそう。なので少し天気が悪いが、テラス席に行くことにした。気さくなおばちゃんのような、コックも兼ねている店主に話すと、玄関を再び通ってテラス席へと行く。テラス席にはほろがかかっていて雨露をしのげそうだが、非常に頼りなさげにほっかかっている。
テラス席では、我が田舎町の、まさに田舎の田園が見える。少し実りの黄色がかった黄緑と緑の田んぼや草のグラデーション。その前を車がビュンビュン通る。この車通りさえ少なめなら最高の場所だと思うのだが、それでもオープンエアで緩やかな風が抜ける空間に腰かけているというのは気持ちいいものだ。増して今まで夏場の連続で、冷房の前でだらけていることが多かっただけに、身体に新鮮な空気が循環していくような気がする。
そんな風に空気を味わっていて。店主もそれを知っていてか、遅めに、わたしの中でひと段落着いた絶妙なタイミングで、メニューが渡された。
いつもなら「日替わり定食 tack lanch」を頼みたいところだが、歯の治療後であることを思い出した。驚くことにそれまですっかり忘れていたのだ。そこで「治療した歯で噛まないでくださいね」と言われたのを思い出した。
そこであまり咀嚼する必要のないものを探し、デザートのところまで行って、でも戻って、フレンチトーストを選ぶことにした。これなら歯が欠けるような肉々しいものは間違っても出ないだろう。それとホットコーヒー。
「コーヒーね」
と確認するのは、わたしは時々気まぐれで「紅茶」を選ぶからだろう。どちらも丁寧に豆や葉から抽出した美味しいものを出す店なのだ。
テラス席で緑の庭とその先の田園風景を楽しんでいると、アゲハチョウが飛んできた。秋に珍しいと思いつつも、昨今の温暖化事情を考えると、うーむ。もしかすると、マラリアを媒介する蚊が日本にも来るかもしれない。冗談ではなく。
そんな考えでいると、緑の木々の間をちらちらと霞む鮮やかな黄と黒のコントラストに、何故か「西部戦線異状なし」を連想した。わたしのあの歯の神経はあの一兵士のように大局に何ら影響を与えない悲しい犠牲になるのだろうか、それとも予感しているように健康上確実にわたしの身体を悪い方向に蝕む喪失になっているのだろうか。
一つ言えるのは、こんなにも綺麗なアゲハチョウに失礼な悲しい連想は止めて、ごはんを食べよう、ということだけだ。
フレンチトーストは平べったいものが、良くミルクに浸したからこそ出る平べったいものが4つ重なり、黄金色の焼き目とこげ茶色の焦げが美しいコントラストを彩っていた。それに別皿でハニーソースが添えられていた。思ったよりも本格的なオシャレカフェ飯にわたしは、ほぅっとなる。馴染みのこのカフェを、わたしは少し侮っていた。
一つ食べてみて、そのいつも通りの、わたしが作ったのと変わらない、いや変わらないと思わせるほどに美味しいそれを確認している間だったと思う。
白の雲は耐えきれず、泣き出すように、雨を降り注ぎ始めた。
店主さんが来て、「せっかくこっちまで来てくれたのに。少し濡れて冷えるようだから、どうぞ室内に」と勧めてくれた。
わたしは意固地になって雨の情景を楽しむのも良いかなと思いつつ、その好意に甘えて室内に入る。
室内にはおしゃべりをしていた老夫妻はもういなく、ひとり穏やかにコーヒーを飲んでいるお客が一人。わたしは、真ん中をとるという道もあるかもしれないが、それでも端っこの小さなランプのある角に席を置く。
ランプは黄や赤の鮮やかなそれでいて派手過ぎない年季の入ったモザイクランプで、辺りを照らしている。ランプの周りには、小さなカエルの置物が並べられている。あるカエルは縁に腰かけ本を読み、あるカエルは温泉に浸かっている。店主の趣味だそうだ。直接聞いたことはないが、今はネットでこんな小さなお店のことまで情報は並べられている。
フレンチトーストをたいらげ、それでも雨がやまないようで、そうすると自転車での帰りがキツイ。雨傘は用意していない。
そこで少し長居しようと、野菜カレーとコーヒーのお替りを頼むことにした。
ふと、あら、思ったよりも贅沢な胃と大丈夫な歯と図々しい心に、少し拍手を送りたくなりつつ、注文を終える。
執筆の狙い
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