義父に恋して
(美羽)
一
夕食の片付けをしていると、ふいに玄関のチャイムが鳴った。
美羽が玄関の戸を開けると、
「ねえ、お願いがあるの」
姉の由羽が、幼い子どもをふたり連れて顔を出した。
上の娘、三歳になる凛は、一歳を過ぎた弟の湊斗の手を繋ぎ、不安げな表情でこちらを見ている。
九月に入ったばかりだが、いまだ夏の暑さは残り、凛も湊斗も額にうっすら汗が滲んでいる。
「どうしたの急に? なにかあった?」
姉が連絡もなしに急に訪れるのは、毎度のことだ。
「日曜の夕方まで、子どもたち預かってくれない?」
「え?」
「休日はどうせ暇でしょ?」
「え? いや、そうだけど、でも」
「いいからお願い」
シングルマザーの姉は、女手一つで子どもを育てているが、なにかあるとこうして実家を頼ってくる。
「預かるのはいいけど、お姉ちゃんはどうするの?」
問うと、
「私? 私はねえ、新しい彼氏とこれから旅行に行くの」
「旅行?」
「そう。彼の都合で急に決まったの。だからお願い。子どもたちのこと」
「急にって。どこに?」
「伊豆辺りまでちょっとね」
「伊豆って……」
「彼がね、子どもたちも一緒にって言ってくれたんだけど。私が断ったの。だって、まず彼との仲を深めないとね。もしかしたら父親になるかもしれないんだし。それに、この先彼と一緒になったら、なかなか二人きりになれないでしょ。まあ、こうしてあんたに子どもたちをお願いすればいいんだけどね。だってなんたってあんた、本職だもんね」
保育士をしている美羽は、なにより子どもが好きだし、姪や甥のことも大好きだ。
預かってもいいが、急にこられて、休日になにも用事がないことを決めつけられたのが少し気にくわなかった。
現在この三LDKのマンションに住んでいるのは、母、愛子と美羽、義理の父章吾だが、母は遠方で独り暮らしをしている父親の様子を見に行くため、だいたい年のほとんどはこの家にいない。今も実家に身を寄せている。
実は義理の父章吾は、美羽が中学の時、担任の先生だった。
母は美羽が三歳の時に離婚しており、ずっとシングルマザーだったのだが、美羽が思春期に入り、気難しい年頃に手を焼いた母が、クラスの役員を引き受け、担任である章吾に相談を持ちかけ、頻繁に会うようになり、なぜかいつしか結ばれることとなったのだ。
密かに章吾に想いを寄せていた美羽は、大いに衝撃を受けたが、同じ屋根の下で毎日顔を合わせることが出来るということが信じられなかった。
だが今は、どんなに想おうと永遠に報われぬ想いに、日々切なさばかりが募るだけだ……。
章吾よりも大切に想う相手が現れたなら、すぐにでもこの家を出ていくつもりだが、あれから十年近くたっても、あいにくそういう男性はなかなか現れなかった。
「なんだ、どうかした?」
奥の部屋から章吾が現れた。
「あ、お父さん」
由羽は簡単に事情を説明し、「……ということなんだけど、いい?」
猫なで声を出した。
「ああ、構わないよ。凛や湊斗の顔が見られるなら、いくらでも預かるよ」
「ありがとう、お父さん。大好き」
由羽はそういうと、時計に目をやり、
「あ、いけない、じゃあ、そろそろ行くね。本当に助かる。お願いね」
念を押すと、足早に出て行った。
後姿を見送りながら、美羽が
「ふう……お姉ちゃんって相変わらずなんだから」
小さく愚痴ると、凛のほうを向いた。
凛は口を固く結んでこちらを見ている。
「凛ちゃん、ご飯食べた?」
「たべた」
「ほんと? どこで食べたの?」
「ここちゅ」
「あ、そうなんだあ。よかったね。なに食べたの?」
「えっとね、ハンバーグと、ポテトと、たくさん」
多分お子様プレートかなにかだったのだろう。
「良かったね。美味しかった?」
「おいちかった」
凛は夕食を思い出したのか、笑顔を見せた。
後ろから章吾が、
「じゃあ、風呂はどうだ? まだ入ってないだろう?」
問うと、
「おふろ、はいってない」
凛が答え、
「そうか、じゃあおじいちゃんと入るか?」
まだ四十前の若いおじいちゃんは、そう言って凛と湊斗をいざなった。
二
翌日、午後になり、陽が落ちかけた頃、章吾の運転する自家用車で、少し離れた公園へと出掛けた。
そこは、野球グラウンドが併設され、夏には盛大な祭りが行われる、美羽の暮らす市の中で一番大きな公園である。
売店の近くにある小さな広場には、ぶらんこや滑り台、ミニアスレチックなどがあった。
美羽が湊斗を抱っこして、章吾が凛の手を繫ぎながらその場所へ向かうと、早く遊びたくてしかたがない凛が、章吾の手から離れ、駆け出して行った。
「凛、そんなに走ると、転ぶぞ」
凛は一目散に滑り台へと向かって行く。
その様子を見て湊斗も「あーあー、」と手を伸ばし、降ろしてくれという仕草をした。
美羽が下に降ろすと、湊斗もよちよちと凛のほうへ歩いて行く。
その様子を微笑ましく見つめながら、美羽は湊斗の後をゆっくり付いて行った。
章吾が凛を、滑り落ちてくる台の下で受け止め、それを繰り返す度、危なくないよう必要なところで手を差し伸べている。
湊斗は美羽と一緒に砂場で砂を掘り、陽が暮れかけるまで遊んだ。
ひとしきり楽しんだところで、ようやく凛が納得して帰ることになり、章吾が凛を肩車し、美羽が湊斗を抱っこして横並びに歩いた。
美羽は、傍から見ればきっと家族に見えるだろうなとふと思った。
章吾はまだ四十前で見た目にも若々しく、二人の父親だといってもおかしくない。
美羽とは十五離れているが、夫婦だといっても、きっと疑う人はいないだろう。
母と章吾は、二人の間に子どもを設けなかった。
以前章吾に、自分の子どもが欲しくないのかと尋ねたことがあったが、
「こんなに可愛い娘が二人もいるのに、これ以上望んだら、罰が当たるよ」
と言っていた。
章吾は父親というより、年の離れた兄のような歳の差だったが、彼は彼なりのやり方で、父親として接してくれた。
駐車場までのみちのりをゆっくりと歩きながら、美羽は束の間の幸せを感じていた。
これが本当に親子だったなら……。
章吾が父親で美羽が母親、そしてふたりのかわいい子どもたち。
永遠に叶うことのない夢だが、たとえ嘘でもこうして疑似体験できたことに、この時ばかりは心の中で姉に感謝した。
家に帰ると、カレーの匂いが漂っていた。
母が孫に会うためにやって来ていたのだ。
「お母さん、ただいま」
美羽が湊斗を抱きかかえたまま近付くと、
「あら、まあ、みーくん、大きくなったわねえ」
母は満面の笑みで、湊斗に手を伸ばした。
湊斗が母に抱っこされると、凛が駆け寄って来て、
「りんもだっこして、りんも」
両手を伸ばして訴える。
「はいはい、凛ちゃんもだっこしようね。順番ね」
その様子を見ていた章吾が、
「やっぱりおばあちゃんは大人気だな」
少し羨ましげに言った。美羽は、
「ねえお母さん、おじいちゃんのほうはいいの?」
と尋ねた。
「おじいちゃんなら、一晩くらいなら大丈夫よ。このところ、ちょっと物忘れが酷くなって来てるけど、認知症ってわけじゃないから」
「そうなんだ」
昨年祖母がなくなってから、祖父は広い一軒家に独り暮らしとなった。
だが祖父は家事もなにも出来ず、とても一人では暮らせないということで、誰かが祖父の面倒をみなければならなくなったのだが、いずれは母の兄が家を継ぐことになっており、それまでの間、唯一自由な身である母が、家族とは別居する形で祖父とともに暮らすことになったのだ。
だがこうして、孫が訪ねてきたり、誰かの誕生日など特別なことがあった日には、すぐに戻ってきてくれる。
部屋中に広がるカレーの香りに、美羽が、
「今日はカレーなのね。久しぶりにお母さんのカレーが食べられるなんて、幸せ」
そう言うと、
「美羽は甘口が好きなのよね。だから今日は、凛ちゃんやみーくんと一緒ね」
からかい混じりに言った。
実際、美羽は甘口のカレーが好きなのだが、章吾と二人になってから、中辛のカレーばかり食べるようになった。
母はいつも、この日のように甘口と中辛の二種類を作ってくれるが、章吾と二人で食べる時には、敢えて自分の分を甘口にするのはなんだか恥ずかしく、中辛くらいなら普通に食べられるからだ。
けれどもやはり、カレーは甘口が好きで、こうして分けて作ってもらえるのは正直に嬉しい。
凛や湊斗と一緒と言われても、好きなものは好きなのだ。
「子どもの頃からずっと、甘口が好きなんだもの。凛や湊斗と同じでも構わないわよ」
美羽は頬を膨らませた。
だがやはり、母の作るカレーは格別で、決して真似のできない味だった。
三
副園長の椅子の背もたれにもたれ、莉央は手足をぶらつかせながら、
「ママおそーい」
と文句を言っていた。
お迎えを待つ園児は、もう莉央だけだ。
午後六時を過ぎた時点で、教室から移動し、玄関前の事務所で保護者を待っているのだが、会社員をしている莉央の母親は、少し仕事が伸びてしまったようで、今向かっている途中だが、少し遅れると連絡があった。
東京で働く父親は、もっと帰りが遅いらしく、あてにならないらしい。
「もうすぐ来るから、待ってようね」
美羽は棚から折り紙を取り出すと、莉央に渡した。
「せんせい、なにかおって」
莉央はピンクの折り紙を差し出すと、美羽にねだった。
莉央がまだ二歳の頃、美羽は莉央のクラスを受け持ったことがあったが、あれから二年経ち、随分お姉ちゃんになったとしみじみ思う。子どもの成長は本当にあっという間だ。
「なにがいい?」
「つる」
「じゃあ、一緒に折ろっか」
「うん」
莉央は赤い折り紙を取り出し、美羽の折りかたを真似て鶴を折り始めた。
すると、
「すみません遅れました」
声がして、玄関を振り返ると、莉央がまっ先に飛んで行って、
「陽生《はるき》おじちゃん!」
両手を広げ、陽生に抱きついた。
陽生は莉央の叔父で、中学の教師をしている。章吾と同じ中学だ。
美羽が莉央の担任をしていた頃から、何度か見掛けたことはあるが、体格が良く爽やかな好青年という印象だった。年は美羽より二つ程年上である。
美羽が口を開きかけると、
「あ、すみません。姉から連絡があって、時間が掛かりそうだから代わりに行って欲しいと言われて急遽飛んで来たんですが……」
美羽が尋ねる前に、陽生のほうから説明した。
美羽が一応、莉央の母に連絡を入れてみると、
「あ、弟が先に着いたんですね。良かった。ではそのまま娘を弟に託していただいてよろしいですか?」
そう言われ、美羽はその旨を陽生に伝えた。
陽生は、
「わかりました。すみません。今日は本当に、遅くまですみませんでした」
と頭を下げ、莉央の手を引いて事務室を後にした。
二人の後姿が見えなくなると、美羽はふうっと息を吐き、帰り支度を始めた。
施錠を確認し、表に出ると、幾分涼し気な風が頬を撫でた。
駅までの道を歩き出すと、園の角を曲がったところに、一台の車がとまっていた。
美羽が横を通り過ぎようとすると、
「あ、先生、待ってください」
呼び止めてきたのは陽生だった。
美羽が足を止めると、
「車でお送りします。どうぞ乗ってください」
陽生はそう言って車を降り、後方のドアを開けた。
助手席から莉央が、
「せんせー、のってー」
と声を掛けて来る。
「あ、大丈夫です。お気になさらず。莉央ちゃんを早くおうちに連れて帰ってあげてください」
丁重に断ると、
「いえ、もう暗いですし、女性を一人で歩かせるわけにはいきません」
陽生は真っ直ぐに美羽を見つめて言った。
まるで教師に言われているようだと美羽が内心思っていると、陽生は続けて、
「このまま先生を一人で夜道を歩かせてしまったら、僕の気がすまないんで、どうか、乗ってくれませんか?」
懇願され、それ以上強く拒否するのも憚られ、
「では、お願いしてもよろしいですか?」
美羽は恐縮しつつ、車に乗り込んだ。
五人乗りのミニバンからは、柑橘系の芳香剤の匂いがした。
陽生が車を発進させようとすると、莉央が、
「りお、おなかすいた~」
お腹をさすりながら訴えた。陽生は、
「そうか、なら、帰りにココ〇に寄ろうな」
と莉央をなだめた。
莉央はうんと頷き、
「りお、パンケーキがいい」
と、嬉しいのか、足をばたつかせた。
すると陽生が、
「あ、そうだ。先生もご一緒にいかがですか?」
などときいてきた。
「え? 私は……」
章吾と二人暮らしになってから、夕食は早く帰ったほうが作ることになっており、この日のように遅番の日は、章吾が夕飯を作ってくれている。
「あの、父が夕飯を作っていると思うので、私はこのまま帰ります」
そう言うと、
「そうですか」
と陽生が言うのへ、莉央が、
「やだ、せんせいもいっしょにたべるの」
後ろを振り返って言った。
「莉央ちゃん、先生帰らなきゃいけないの。お家で待ってくれている人がいるのよ」
答えると、
「やだ、せんせいもいっしょ」
莉央は駄々をこねた。陽生が莉央を説得するかと思いきや、
「そうだな。おじちゃんも、先生と一緒に食べたいな」
などと言い、「先生、一日くらい、食事に付き合ってくれませんか? 莉央も先生と食べたがってますし」
「でも……」
莉央は車の時計を見た。もう七時を過ぎている。
これから帰って章吾と夕飯を食べる頃には、八時を過ぎるだろう。章吾は美羽がどれだけ遅くなっても待っていてくれる。
それなら、自分は外食するからと、先に食べてもらってくれたほうがいいと思った。
「あの、では、すみませんが、私もご一緒してもよろしいですか?」
そう言うと、陽生は笑顔で、
「もちろんです」と、莉央のほうを向き、
「良かったな。先生も一緒にご飯食べてくれるって」
そう言い、莉央は「やったー」と両手を上げて喜んだ。
四
章吾にラインを送ると、ゆっくりしておいでと返事があった。
保育園にほど近いファミリーレストランは、平日でも家族連れがちらほら見られた。
傍目には陽生と美羽、莉央の三人はどのような関係にうつるのだろうと、ふと思いつつ、美羽は莉央の向かいの席に座った。陽生は莉央の隣の通路側の席を選んだ。
莉央は宣言通り、お子様パンケーキセットを注文し、陽生はハンバーグセット、美羽はパスタを頼んだ。
料理が運ばれてくるのを待つ間、美羽は口を開いた。
「あのさっき、父が家で待ってるって言いましたけど、その父って、山下さんの身近にいる人物なんですよ」
「え? 身近にいる? 坂上……え? もしかしてあの?」
「そう、坂上は私の父です」
「苗字が同じだけど、まさかって思ってました。え? あの坂上先生のお嬢さんなんですか?」
「ええ、義理の父ですが」
「義理の?」
「私が十五の時、母が再婚したんです」
「そうでしたか。知りませんでした。坂上先生は滅多に私生活のことについてお話にならないので、でもまさか、坂上先生にこんなに素敵なお嬢さんがいらしたなんて、驚きです」
「素敵なんて、とんでもないです。不肖な娘ですが、父は本当の父親のように育ててくれました。私の上に姉がいて、子どもが二人いるんですが、父は三十代でおじいちゃんになったんです」
「そうですか、まだお若いですもんね、坂上先生」
美羽が頷くと、今度は陽生のほうから尋ねて来た。
「ところで、坂上先生は、下のお名前はなんておっしゃるんですか?」
「私ですか? 私は、美羽と言います。美しい羽と書いて、美羽」
「そうですか。素敵な名前ですね」
「あ、ありがとうございます。山下さんは、確か……」
「あ、陽生って言います。陽気に生きるって書きます。そのまんまの性格だってよく言われますが」
美羽は微笑んで、
「山下さんこそ、素敵なお名前ですね」
そう言うと、莉央が、
「ねえ、りおは、りおにもいって」
陽生のそでを引っ張り、陽生は莉央の頭を撫でながら、
「莉央もいい名前だよな。かわいいかわいい」
そう言われると、莉央は満面の笑みで応えた。
陽生はマンションまで送ってくれ、自宅に着いた時には、九時を回っていた。
リビングを覗くが章吾の姿はなく、もう寝てしまったのだろうかと思っていると、
「お帰り、美羽」
風呂上がりの章吾が、半裸にバスタオルを右肩に掛けた格好で現れた。
美羽がドキッとしていると、
「ゆっくりしてきたかい?」
尋ねられ、
「うん。ココ〇で食べて来た」
「そうか」
美羽が、陽生も一緒だったと言うと、
「ああ、山下先生か、彼は生徒から人気のある、いい教師だよ」
思い浮かべている様子でそう言った。
章吾は数学だが、陽生は体育教師だと言っており、タイプ的に陽生と章吾は正反対だと思った。どちらも魅力的だが、もし章吾とい人間を知らなければ、なんのためらいもなく陽生に好意を寄せていただろうと思えた。
五
先日ココ〇で食事をともにした時、何度も断ったのだが、結局陽生に奢ってもらってしまった美羽は、今度はお礼にと陽生を食事に誘った。
お勧めの店があると言うと陽生が、
「それなら、是非、美羽さんの手料理をいただけませんか?」
と言うので、莉央も誘い、遊園地に行くことになった。
「え? 莉央も一緒ですか?」
陽生は不服そうだったが、付き合ってもいないのに、二人きりで会うのは憚られたし。また、もし保護者に会ってしまった場合、莉央も一緒ならば、変に仲を疑われずに済むと思ったからだ。
休日になり、陽生の運転する車で神奈川県内の遊園地に赴くと、莉央が真っ先にゲートを出て駆け出して行った。陽生が、
「莉央、転ぶなよ」
と声を掛ける。
「莉央ちゃん、楽しそうで良かった」
美羽が言うと、
「いや、僕は先生と二人きりでも良かったんですけどね」
などと言う。
莉央は途中まで走ると引きかえして来て、
「せんせいも、おじちゃんもはやく、はやく」
と急かした。
メリーゴーランドやコースター観覧車を乗り継ぎ、莉央が十分満足したところで、昼の時刻となった。
園内の丸テーブルを三人で囲み、ピクニックバスケットから手作りのサンドイッチを取り出し、唐揚げや卵焼き、ハンバーグなど、色とりどりのおかずを敷き詰めたタッパーを開けると、莉央と陽生から歓声が上がった。
「たいしたものはないんだけど、どうぞ、召し上がってください」
そう言うと二人は「いただきまーす」と手を伸ばし、口いっぱいに頬張った。
あっという間に完食し、三人のお腹がふくれたところで莉央が、
「おしっこいってくる」
と、すぐ近くにあるトイレへと掛けて行った。
入口が見える場所にあるので、ちゃんと入っていったことを見届けると、陽生が、
「とても美味しかったです。美羽さんは料理がお上手ですね」
腹をさすりながら言った。
「今、母が祖父の実家で暮らしているので、私が料理を作らなくちゃいけなくて、まあ父も作ってくれるんですけど、でもほとんど毎日のように作ってたら、なんだか料理も楽しいと思えるようになって」
「そうですか。いやあ、美羽さんはいいお嫁さんになれますよ」
そこまで言うと、陽生は美羽の目を見つめ、
「今、お付き合いされてるかたは、いるんですか?」
ときいてきた。
「いえ、いません」
即答すると、
「じゃあ、僕が立候補してもいいでしょうか?」
真顔で言った。
「え?」
「実は、以前から保育園で時折お見掛けしていましたが、ずっと素敵なかただと思っていました。でも、中々声を掛けることも出来なくて、だからこうしてお近づきになれて、本当に良かったと思ってるんです」
「あ……はい」
美羽が言葉を選らんでいると、
「坂上先生、いや美羽さん、僕と付き合ってくれませんか」
単刀直入に告白された。
「あ、あの……」
美羽は迷ったが、陽生という人物に好感を抱いているのは事実だった。
――この人だったら……。
章吾を忘れさせてくれるかもしれない。美羽は、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と答えた。
六
風呂から上がった美羽が、水を飲みに台所へ行くと、リビングで珍しく章吾が一人でワインを開けていた。
「珍しい、お父さんがお酒を飲むなんて」
美羽がそう言うと、
「なんだか……飲みたくなってね」
「じゃあ、私も戴こうかな」
美羽も普段からあまり飲むほうではないが、人が飲んでいるとなんだか欲しくなってしまう。
美羽はグラスを手にテーブルに近付いて行った。
ワインを注いでもらい、一口口に含むと、章吾が口を開いた。
「今日、山下くんが、挨拶に来たよ」
「山下さんが?」
「美羽との交際を認めて欲しいってね」
「そう……。で、お父さんはなんて言ったの?」
「娘を決して泣かせるようなことはしないで欲しいと、何度も釘を刺しておいたよ」
美羽は章吾らしいと思いながら、少し微笑んだ。
「もし、私がお嫁にいったらお父さんは嬉しい? 寂しい?」
「そりゃ嬉しいし、寂しくもあるさ。由羽の時もそうだったしね」
「じゃあ、今日は寂しくて、お酒を飲んでるの?」
「まあ、それもあるかな。言いかたは悪いけど、娘を取られるわけだからね」
そう言うが、姉が結婚を切り出した時に、章吾はその日酒を飲まなかった。
少しは特別に思ってくれたのだろうかと、美羽は勘繰りたい気分だった。
七
章吾と陽生の勤める中学は、三階建ての鉄筋校舎が二棟縦に並び、渡り廊下で繋がっている。
体育館や校舎の周りには、杉や檜、椿やイチョウなどが生き生きと生い茂っていた。
この日、美羽は中学の美化作業を手伝いに来ていた。
陽生に、この日は午後から会う約束をしていたが、午前中美化作業があるというので、それならば自分も手伝いますと参加することにした。
章吾も毎年参加していたが、今年も参加するというので、美羽は章吾とともに中学を訪れた。
母と章吾は美羽の卒業を待って籍を入れたので、二人、教師と生徒でなく、親子として中学の門をくぐるのはこれが初めてであったが、美羽は複雑な心境だった。
陽生といるといつも笑顔でいられるし、章吾にはない魅力がある。
それなのに、どうしても心がいうことをきかないのだ。
章吾との未来はないとわかっているのに、こうしてそばにいられるだけで、並んで歩けるだけで、それだけでいいと思ってしまう自分がいた。
章吾と別れ、美羽がかつての学び舎を懐かしんでいると、
「あ、美羽、おはよう」
陽生が近付いて来た。
「おはよう。今日は、よろしく」
挨拶すると、
「来てくれてありがとう。生徒に自慢できるよ。彼女いないってからかわれてたからさ」
「私なんかでいいの?」
そう言うと、
「なに言ってんだよ。美羽ほどの美人はいないよ」
真顔で言われ、
「からかわないで」
顔を背けると、遠くのほうから、
「山下せんせ、彼女?」
女生徒が数人こちらに向かって言った。
「おう、そうだぞ。どうだ? 美人だろ」
陽生が答えると、
「先生にはもったいないよ。彼女さん、今すぐ別れて」
そう返され、美羽がくすっと笑うと、
「おまえたち、うるさいぞ」
陽生が女生徒に向かって言った。
その時、数名の女生徒たちの中で一人、鋭い眼差しを向ける女生徒がいた。
鋭い眼差しとは似つかない、丸顔の少しあどけなさが残るかわいらしい顔立ちである。
その眼差しは、陽生ではなく、美羽に対して向けられていた。
――もしかして、あの子……。
かつての自分と重なる。多分だが、陽生に好意を寄せているのだろう。そうでなければ睨まれる筋合いはない。
美羽は、
「陽生さんは、随分生徒さんから人気があるのね」
そう言うと、
「おれは、美羽だけでいいよ」
こちらが恥かしくなるくらい、ストレートにそう言った。
七十名ほどの参加者たちが一斉に校庭に集まると、校長の挨拶があり、その後グループ分けがされ、おのおのの場所で草刈りを行うことになった。
美羽は章吾と同じグループになった。更にあの、こちらを睨みつけてきた女生徒も一緒である。
章吾と同じグループになれたのはいいが、あのキツイ視線を浴び続けなければならないことを多少憂鬱に感じながら、美羽は章吾の後について、指定された場所へ向かった。
すると陽生が近付いて来て、
「坂上先生、僕と代わってくれませんか?」
などと言ってきた。
章吾がなんと返すのかと思っていると、
「もうしわけないが、断るよ」
そう言って、陽生に背を向けた。だが陽生は、
「そう言わずに、お願いしますよ。坂上先生は毎日美羽さんと顔を会わせてるかもしれませんが、僕はそういうわけにはいかないんですから」
食い下がる。だが章吾は、
「山下先生は、この後、美羽とデートだと聞きましたよ。ならいいじゃないですか。私だってこうして娘と過ごす時間は、貴重なんですよ」
章吾には珍しく強い口調で申し出を断った。
美羽はそのことに内心驚きながら、少しばかり嬉しく思った。
指定の場所に着き、作業を始めると、夏の間に伸びた草がそこらじゅう伸び放題だった。
そこへ先ほどの女生徒がやって来て、
「坂上先生、この女の人と、親子なんですか?」
疑い混じりにたずねて来た。先ほどの会話を聞いていたらしい。
「ああ、そうだよ」
章吾が答えると、目を丸くして、
「うそ、だって先生まだ若いし、とても親子には見えないですよ」
そう思うのもしかたないと美羽は思った。章吾との歳の差は十五で、親子というよりも夫婦といったほうがまだ、人の目にはしっくりくるだろう。章吾は、
「いろいろと事情があってね」
そう言葉を濁した。
女生徒は納得できない様子だったが、章吾に「北見くん、口よりも手を動かして」と言われ、不服そうに作業を続けた。
八
心地よい秋の風が頬を撫でる頃、中学生たちが数名、美羽の勤める保育園へ職場体験にやって来た。
美羽の受け持つ五歳児のゆり組には、三名の女生徒がやって来たのだが、その中の一名に、美羽は見覚えがあった。
――また、睨んでる~~。
章吾が北見と呼んでいた生徒だった。下の名は那奈。
先ほど園長先生が、
「坂上先生、先生ご指名で来た生徒さんがいたわよ。断る理由もないから、そのままお願いすることにしたけど。お願いね」
そう言っていたので、多分それはこの北見という生徒だろう。
――一体、どういうつもりだろう。
訝しく思いつつ、園児たちに三名の女生徒を紹介した。
皆、興味津々で大歓迎のムードである。
ふれあいの時間になると、北見以外の二名の女生徒は、積極的に園児の中に溶け込み、一緒にままごとをしたり、本を読み聞かせたりしているが、北見だけは、教室の壁に寄り掛かったまま、園児には一切興味がないといった風にそっぽを向いている。
――何しに来たんだろう?
と疑いたくなるほどだ。
美羽は静かに近付いて行った。
「北見さん、よね。先日はどうも、中学でお会いしたわね」
「はい……」
「今日は、来てくれてありがとう。子どもたち、お姉さんたちに会うの、とても楽しみにしてたのよ」
「私、子どもってあまり好きじゃないんですよね」
「え?」
それなら本当に、なにをしに来たのだろうと思っていると、ようやく那奈が口を開いた。
「あの、本当に山下先生と付き合ってるんですか?」
ストレートに切り出した。
「え? えっと」
なんと答えてよいか、言葉を選んでいると、
「私、山下先生の彼女がここで働いてるときいて、ここに来ることにしました。まあ別にほかに行くところもなかったんですけど。ちょっとあなたがどういう人なのか、興味があって」
「そ……そう」
北見という生徒が陽生に好意を寄せているのは明らかだった。
その時、園児が二人、近付いてきて、
「ねえお姉ちゃん、折り紙しよ」
手に持っていた折り紙を差し出した。美羽はすかさず、
「そうだね、お姉ちゃんに、折り紙折ってもらおうね」
と間に入った。園児が黄色い折り紙を那奈に渡すと、
「私、あまり折り紙って得意じゃないんだけど」
一応受け取ったが、そう言って口を尖らせた。
「なんでもいいのよ。そうだ、ひこうきなんかどう?」
そう言うと、
「ひこうき……くらいならなんとか」
と、近くのテーブルを使ってひこうきを折り始めた。まるきりなにもしないわけではないらしい。
那奈は手先が器用なようで、園児が見守る中、几帳面にひこうきを折りあげた。
そのまま立ち上がってひこうきを飛ばすと、少しの間宙を舞って落下した。それを見ていた園児が、
「すごーい、おねえちゃん、わたしにもおって」
折り紙を数枚袋から取り出し、那奈に渡した。那奈はけだるそうにしていたが、断ることなく、折り紙を折り始めた。
園児が飛ばすと、かなり遠くまで飛び、美羽も、
「すごいすごい、じゃあ先生もやってみようかな」
と参戦し、折り紙を折り出した。
美羽が折っていると、それを見ていた他の園児も興味を示し、
「ぼくもやる」
「わたしも」
と次々にやって来た。
そうしてあっという間に折り紙ひこうき合戦となり、皆次々に距離や飛行時間を競い始めた。
美羽は、
「それじゃあ、みんな、お外に出て飛ばしてみようか」
と声を掛け、皆それぞれに自慢のひこうきを持ち、早速表へと飛び出した。
それぞれ歓声を上げながら、ひこうきを飛ばし合い、気が付けば那奈も輪の中に入り、園児たちに負けじとひこうきを飛ばしていた。
ひとしきり盛り上がったところで、美羽は再び室内で折り紙を折る那奈のところへ近付いて行った。
「どう、北見さん。子どもたち、かわいいでしょ?」
そう言うと、
「このクラスの子はいいですけど、でも大半の子どもは、わがままで、すぐ泣くし、図々しいし、人に迷惑かけてもおかまいなしじゃないですか」
頬を膨らませた。
「う~ん。それはすべて、こちらの対応によるかな」
「え?」
「子どもは、敢えて子ども扱いしないで、こちらが対等に接すれば、対等に応えてくれるのよ」
「…………」
「そりゃ、まだ未熟なところもあるから、時には大声で泣くし、わがままも言う。でもね、その度に大人であるこちらが、まるごと受け止めてあげて、時には一緒になって泣いたり、笑ったり、感情を共有して、お互い気持ちよく生活できる道を探すの」
「…………」
「子どもってね、まだまだ知らないことがたくさんあるし、未熟だし、でも可能性に満ち溢れてる。私は、そんな子どもたちの成長を見守ることが出来て、幸せだなって思うの。子どもから学ばせてもらうことがたくさんあるのよ」
「…………」
「だから、北見さんも、子どもを子どもだと思わずに、一人の人間として、対等に接してみて」
そう言うと、
「わかり……ました」
那奈は答えると、まじまじと美羽を見つめた。
そしてしばらくはなにか考え込んでいるようすだったが、やがて顔を上げた。
「坂上先生」
「なあに?」
「山下先生を、絶対に傷つけたりしないでくださいね」
その言葉に、美羽は深く頷いた。
九
湯船につかり、疲れた体を癒しながら、美羽は天井を見上げていた。
そして先日、陽生と会った時のことを思い出していた。
公園のベンチに腰を下ろし、時折吹きあがり、水しぶきをあげる噴水を見つめながら、陽生が口を開いた。
「先日は、おれのクラスの生徒が美羽の保育園に行って、世話になったね。ありがとう」
「子どもたちすごく喜んでた。お礼を言うのはこちらのほうよ」
「特に北見という生徒はね、行って良かったって言ってたよ。自分も保育士になろうかなんて言ってね」
「本当?」
美羽は声を上げた。まさか那奈がそのように思うなどと思わず、素直にそのことが嬉しかった。
「よほど楽しかったらしくてね。また行きたいって言ってたよ」
「是非是非、来て欲しいって言って。子どもたちも喜ぶと思う」
「伝えておくよ」
陽生はそう言うと、体の向きを変え、こちらをじっと見据えた。
「美羽が保育士になったのは、子どもが好きだから?」
「そうよ。大好き」
「それじゃあ、自分の子どもなんていたら、凄く可愛がるんだろうな」
「そうね。可愛くてしかたないでしょうね」
「おれはさ、美羽との子どもだったら、目に入れても痛くないくらい可愛いと思うだろうな」
「え?」
「美羽と、家族になりたいと思ってる」
「陽生さん……」
美羽は即座に返事が出来なかった。
ただその後、正式にプロポーズされ、
「少し……考えさせて」
とだけ答えた。
今、リビングでは、章吾がテレビを観ながら寛いでいる。
最近毎晩酒を飲むようになり、今もきっと嗜んでいるだろう。
プロポーズのことはまだ話していない。
美羽は、陽生の告白に、すぐに返事を返すことが出来なかった。
陽生なら、章吾以上に愛せるだろうと思ったが、やはりどうしても、章吾のことがいつも頭から離れないのだ。
章吾には母がいる。
わかっていても、このままでは先に進めない。
美羽は思い切って立ち上がり、あることを決意した。
十
「美羽、なんだその格好は……」
章吾はワイングラスをテーブルに置き、怒ったような、困惑したような顔で言った。
「はやく、パジャマに着替えなさい」
裸体に、バスタオル一枚纏ったままの格好で、美羽はリビングにいる、章吾のもとへやってきたのだった。
美羽は食器棚からグラスを取り出し、章吾の飲んでいたワインを注ぎ、一口飲んだ。
そして、立ち上がったまま、章吾に話し掛けた。
「お父さんあのね……」
「なんだ?」
「私、プロポーズされたの」
「え? あ、山下くんか……」
「そう……」
「そう……か……」
「それで、まだ返事は返してないんだけど、私、迷ってるの」
「迷う? なんでだ。彼はいい青年だし、申し分ないじゃないか」
「うん、私もそう思う。でも、はいって素直に言えないの」
「どうして?」
「それは、ほかに好きな人がいるから」
「好きな人って……」
「その人にはね、奥さんがいるの」
「そう……か……」
「だから、告白なんて出来ないし、その人も、私の気持ちなんか知らないの」
「そうか……それじゃあ、諦めるしかないんじゃないか?」
「そう……だと思う。でも、だけど、それじゃあ、先に進めないの。ただひと言、その人に想いを告げたいの。たとえ受け入れてもらえなくてもいいから、自分の気持ちだけは伝えたいの」
「…………」
俯き、なにか考えている風の章吾に、
「先生……」
美羽は呼び方を変え、章吾は驚いて顔を上げた。
「先生、私、初めて会った時から、ずっと……先生のことが……」
そこまで言うと、美羽はすっとバスタオルを床に落とした。
「美羽!」
章吾は声を上げ、床に落ちたバスタオルを拾い、美羽の体に掛け、
「早く、パジャマに着替えなさい」
命令口調で叱るように言った。
美羽は、
「私、もう、自分の気持ちに嘘がつけない。苦しくて苦しくて、しかたがないの。先生が好きで、好きで、堪らないの。だから、たった一度だけ、私に思い出をちょうだい。それだけでこれから一生、生きていくから、それだけでいいから。そうじゃないと、一歩も前に進めないの」
訴えると、章吾は、
「そんなこと、出来るわけがないだろう。美羽は私の娘だ」
そう言って顔を背けた。
美羽は食い下がらず、
「それなら、一度だけでも抱きしめて、それだけでいいから、お願い」
懇願した。
章吾はしばらく俯いていたが、やがて立ち上がり、美羽の体を強く抱きしめた。
「美羽、幸せになるんだ。それだけが、おれの願いなんだ」
「先生……」
章吾の体に両手を回し、美羽はこの瞬間が永遠に続けばいいと思った。
だが章吾は、
「さあ、もう本当に服を着なさい。風邪をひいたら大変だ」
そう言って、脱衣所へ向かい、美羽のパジャマを持って来た。
手渡されたパジャマを抱え、美羽はその場に泣き崩れた。
やはり想いは伝わらない。
わかっていたことだが、改めて思い知らされた。
「美羽……」
章吾に名を呼ばれ、美羽は顔を上げた……。
十一
(愛子)
昨夜降り積もった雪は、朝日を浴びてだいぶ溶け落ちてしまった。
父と二人分の洗濯物を干し終えると、愛子は冷たくなった手を擦りあわせながら、玄関の戸を開けた。
その時、背後から、
「愛子……」
聞きなれた声が聞こえた。
「章吾さん、どうしたの?」
愛子が振り返って尋ねると、
「ちょっと、話したいことがあってね」
章吾はなぜか目をそらしたままで言った。
「そう……」
愛子は、父のいるリビングではなく、章吾を和室に通した。
ストーブに火を入れると、
「すぐに暖かくなると思うわ。今熱いコーヒー淹れるわね。ブラックでしょ。濃い目の」
「ああ」
「ちょっと待ってて」
愛子はキッチンへ向かうと、手際よくコーヒーの用意を始めた。
「話ってなに?」
テーブルに向かい合わせになる形で腰を降ろすと、章吾は俯いたまま、
「君に、謝らなければならない」
そう言って、ゆっくりと顔を上げた。
「謝る?」
「……君を裏切ってしまった」
その告白に、愛子は、とうとうこの時がやってきてしまったのだという諦めと軽い失望を同時に感じていた……。
美羽に、章吾との結婚を告げた時の表情を今でも忘れない。
美羽は決して喜びはせず、絶望と、困惑が入り混じったような顔をしていた。
そうして一緒に暮らすうちに、美羽の感情は年を経ても変わらないことに愛子は気付いてしまった。
年月とともに薄れていくものだと思っていたが、違っていた。
そうなると、娘の顔を見ているのも辛く、ともに暮らすことも辛くなり、母の死をきっかけに、父と暮らすことになったが、それはいい機会だと思っていた。
章吾は、美羽が高校を卒業する頃から、愛子と夜をともにしなくなった。
以来ずっと、章吾との間に性生活はない。
章吾は決して自分の気持ちを表に表さないが、態度を見れば愛子も気がつかないわけではなかった。
こうなることは、時間の問題だと思っていた。
「美羽……なのね?」
問うと、章吾は黙って首を縦に振った。
「そう……なんとなく……わかってた」
愛子は、しばらく黙り込み、気持ちの整理をすると、
「でも、いつから、そんな風に気持ちが変わってしまったの?」
そう問い掛けた。章吾は再び俯き、なにか考えている様子だったが、やがて顔を上げた。
「美羽が、おれを見る目に、ずっと苦しんできた。応えたくても、応えてやれない。でも、山下くんと付き合い出して、なんだかずっと、胸の中がもやもやしてさ。いけないことなのに、段々自分の感情が抑えきれなくて……。最低だとわかっていても、止められなかった」
「そう……」
愛子には、章吾を責める気持ちは起こらなかった。
これで自分も一歩踏み出せる。ただそう思えた……。
十二
(美羽)
「美羽おばちゃん、これあげる」
「なあに、凛ちゃん」
凛の手には、小さなくまのぬいぐるみがあった。
「これ、おばちゃんにくれるの?」
「うん。赤ちゃんに」
「そう。ありがとう。赤ちゃんも喜ぶと思うよ」
美羽はそう言ってお腹をやさしく撫でた。
まだお腹は大きくせり出してはいないが、ようやくつわりがおさまり、今までのようになんでも食べられるようになった。
予定日は秋、美羽の誕生日と同じ頃だ。
あの日、うちひしがれ、泣き崩れる美羽に、章吾は静かに名を呼んだ。
顔を上げると、ゆっくり抱き起され、そのまま抱きしめられた。
父親として、娘を慰めてくれているのだろうと、それが更に悲しくて泣きじゃくっていると、
「後悔……しないか?」
章吾はそう耳元で囁いたのだ。
驚いて顔を上げる美羽に、章吾は唇を重ねて来た。
その後のことは、夢ではないかと思わずにいられなかった。
夢なら、永遠に覚めないで欲しいと……。
章吾と母は正式に離婚し、美羽の妊娠を期に籍を入れた。
姉は、そのことを知ると、
「ふーん、良かったじゃない。想いが叶ったね、美羽」
と、一緒になって喜んでくれた。
ちなみに姉はまた違う相手と付き合いだし、時々こうして子どもを預けに来る。
母の実家は遠いので、近場であるこちらに来るのだ。
だがその度に、母も孫に会いたくていそいそとやって来る。
母は明日の朝、こちらに来ると言っていた。
母は、美羽の幸せを誰よりも願ってくれ、こうなったことも、心から祝福してくれた。
美羽の気持ちに気付いていながら、早く答えを出せずに済まなかったと謝ってもくれた。
陽生は、多少悔しがっていたが、美羽の気持ちが完全に自分に向いていないことは薄々感じていたらしく、潔く祝福してくれた。
台所で章吾が、
「みんな、ご飯の用意ができだぞ、手を洗っておいで」
と声を掛けてきた。
美羽は大きく返事をし、凛と湊斗を連れ、洗面所に向かった。
章吾は、自身の子どもが出来ることを心待ちにしており、美羽の体をなによりも気遣ってくれている。
そうして休みの日になるとこうして朝昼晩の食事を作ってくれるのだ。
「そんなに甘やかさないで、先生、私なら大丈夫だから。病気じゃないんだし」
と言っても、
「おれがやりたいんだよ。だから美羽は気にせず一日中寛いでてて」
と、家のことはなにもさせてくれない。
出産後はどうなるのだろうと、章吾がいつか過労で倒れないか心配であった。
この日の夜は、カレーだった。
鍋は一つだけ、甘口である。
「先生、私、先生の分、別に作るよ」
そう言うと、
「いや、いいよ。おれも同じの食べるから」
と言う。
「でも……」
無理をしているのではないかと思い、鍋を取り出すと、
「本当に、いいから。ほらだってこれから子どもも生まれると、当然甘口になるだろう? だからおれも慣れておかないとね」
章吾はそう言って微笑んだ。
だが美羽は黙って章吾の分だけ鍋に取り分け、香辛料を足した。
章吾はこちらが気遣わない限り、自分を犠牲にしてしまうのだ。
章吾のことを「先生」と呼ぶのは、どうしてもなおりそうになかった。
章吾は時折、
「そろそろ、先生はやめて、名前で呼んでくれないか?」
と言うが、中学の頃、一目会った瞬間に好きになった先生を、先生と呼ぶ度に、あの頃に戻ったような気がして、どうにもやめられないのだった――。
執筆の狙い
久しぶりの投稿になります。
どうぞよろしくお願いいたします。