二杯目のお茶
老人ホームの休息所は、思いもかけず華やいでいた。
壁一面を占めた大窓の外に、満開の桜が並んでいたのである。
花群は雲母を思わせる放漫さで枝上に溢れ、眩しい陽光が儚く薄い花弁の際をクッキリと浮き立たせている。
ちょっとした花見の席といった趣きがあった。
誰もいないのが勿体ないようである。
山下が窓際のテーブル席を選んで腰を降ろすと、案内してくれた女性職員は「少々お待ちください」と言い置いて廊下の奥へと去って行った。
そして数分後、腕に介添えの手を沿えるようにして連れてこられたのは、灰色のジャージを着た萎びたような老人である。足元がおぼつかないのか、医療用の杖をついていた。
山下はちょっとしたショックを覚えた。記憶より、遥かにちっぽけな姿だったからである。
人は歳をとると背骨が曲がるだけでなく、身長も縮むものらしい。小さくなった分だけ余った皮が、干物のような皺になって体の表面に張り付いているかのようだ。以前は黒々としていた髪も、今は白鳥のように真っ白である。脂っ気がすっかり抜けてしまっている。
「山下君か。久しぶりだなあ」
老人は山下を見ると目尻を下げて微笑みかけてきた。
見た目に寄らず元気な声だったので、山下は少しホッとした。この人の記憶は果たして確かなのだろうかと、懸念を感じてしまっていたのである。
「お久しぶりです。長い間ご無沙汰してすみませんでした」
「いやいや、よく来てくれた。忍ちゃんは元気かい」
老人は杖をテーブルに立てかけると、山下と向かいあう席に腰を降ろした。連れ添っていた職員は、それを確認してから休息所端の給湯コーナーへ向かう。
「元気ですよ。『小暮叔父さんに会いに行ってくるよ』と言ったら『私の分もよーく挨拶して来てね』と頼まれました『おかげさまで家族五人共に健康で、幸せにくらしています。叔父さんもお元気で』とのことです」
「ふむ。忍ちゃんももう三児の母なんだね。お子さんは幾つになったのかな」
「上の子は今年から大学生で十八になります。真ん中は高校で十六歳。下の子はまだ十一歳」
「もうそんなになるのか。早いもんだなあ」
小暮老人は目を瞠るようにして、感慨深気に頷いた。
そこへ、女性職員がお盆にお茶を載せて持ってきた。山下と老人の前に湯飲みを置くと、「お帰りになる時には声をかけて下さい」と一礼してから去って行く。事務的で控え目な物腰しの人だった。
山下は職員を見送った後、自分の前にある湯飲をじっと見降ろした。手に取ったが、すぐに飲まずに底の底まで見入ってしまう。
一方、小暮老人はお茶を味わって、山下のようすを興味深く眺めていた。
「気になるかね。ここのお茶は割に美味しいよ。心配しなくてもいい」
「いえ」山下は決まり悪気に口元を綻ばせてお茶に口をつけた。頷いた。「なるほど。美味しいですね」
「だろう。ここの所長は静岡出身で、お茶にはこだわりがあるらしい。特産の茶葉を使ってるようなんだ」老人は窓外に目をやって、「毎日桜も見れるしな。ここも捨てたもんじゃない」
「静かで落ち着きますね。いつもこうですか」
「いや、今は昼寝の時間でね。皆は寝てる。そうでなかったら結構賑やかだよ。しかし、お茶と言えば、苦労した思い出があるな。私は田舎の出だから京都に移り住んだ最初の頃は、都のお上品なお茶文化が分からなくてね。二杯目のお茶を勧められても意味が分からず喜んで飲んだりしていたもんだ。亡くなった家内に『あなたは礼儀知らずで恥ずかしい』って怒られたなあ」
「二杯目のお茶を勧められたら『そろそろ帰ってほしい』というサインだっていうヤツですね」
「そう。家内は生粋の京都人だから、そういう事にはうるさくて」
老人は山下たち夫婦とは血が繋がっていない。妻の忍と血縁なのは、老人の奥さんの方である。その人は、忍の母の妹なのだ。忍の母は三姉妹の真ん中で、老人の妻は一番下の妹にあたる。
その人が亡くなったのは、もう四半世紀近い昔である。老人は長い年月を、一人で思い出を抱えながら生きてきたことになる。
「義叔母さんは品のいい人でしたものね」
「いやいや、そんなこともないが、マメなんだよ。私はズボラだから、あれが居てくれて助かった」
「夫婦は逆のタイプの方が補い合って上手く行くってよく言いますよね」
山下はそう言ったものの、気が強い妻の顔を思い浮かべると、少々疑問を覚えざるを得なかった。自分たち夫婦も性格が正反対だが、補い合った関係にあるのかどうかは自信が無い。結婚して以来尻を叩かれてばかりで、自分が一方的に犠牲になっているような気がしないでもなかった。
それとは逆に、老人の妻の義叔母は口調も優しくて、温和な笑顔の記憶しかない。きっと理想的な夫婦関係だったのだろう。
「まったくだ。私には過ぎた女房だった。歳は下だが、私などより遥かにしっかりしていた」
老人は遠くを見る目でしみじみ呟いた。
「お茶と言えば、僕らも少々苦労しましたよ。僕の田舎の山形では、京とは逆にお茶は二杯飲まないと縁起が悪いと言われているんです。そのために、お客には小さな湯飲みでお茶を出したりする。どうしてなのか、由来はサッパリ分かりませんが。結婚する前、そこへ生まれも育ちも京都の妻を連れて帰った。どうなったと思います?」
「ほう。ちょっと想像がつかないが」
「田舎の母と喧嘩になったんですよ。母は昔の人なのでどうしても二杯目のお茶を飲んでもらいたいと引き留めるし、妻は妻でどうしても帰ると言い張って腰を浮かしかける。しまいには『私のお茶が飲めないのっ!』『お義母さんこそ私にどうして欲しいって言うのっ』ってな騒ぎになってしまって。二人共気が強いもんだから大変でした」
「ハハハ、それは忍ちゃんらしいね」
「ええ。一時は『結婚は許しません』みたいなことになりかけたんだけど、何とか説明して誤解を解いてもらいました。大変だったけど、今思うと早めに喧嘩してくれて良かったですよ。両方とも意地っ張りだから、気を遣ってストレスを溜めた後だったら修復不能な関係になっていたかもしれない。今は比較的仲よくやっているようです」
「そうか。それは良かったな」
言葉が途切れ、沈黙が訪れた。
山下はお茶をゆっくり飲んだ。本当の事を言えば、このお茶をさして美味しいと思ったわけではない。元々舌が肥えてはなくて、茶の良しあしなどはさして判りはしない。それは、あるいは老人も同じだったかもしれない。お互いに、話の接ぎ穂を拾うのに苦労している感じがあった。
数万か、あるいは数十万かも知れぬ桜の花弁が窓の外から見つめる中、奇妙に重い空気が漂う。お互いに口にしたいことがあって、どちらが先に切り出すべきか迷っているような。口に出したが最期、後戻りはできない業のようなものを感じているかのようである。
先に口を開いたのは老人の方だった。
「ところで、今日はどんな用で来てくれたのかな。顔を見るためだけでは無かろう」
「ええ。実は二十三年前に義叔父さんの家で起こった事件について話をしたかったんです。もう思い出したくもないかもしれませんが、確認しておきたいことがありまして」
「やはりそうか」老人は大きく息をついた。「虫の知らせかな。私もあの事件について考えていたところだ。君の名前を聞いた時はそうだろうと思ったよ」
「すみません。少々時間を取らせて頂けますか」
「ああ、もちろんだ」
「ありかとうございます」
山下は足元に置いていた鞄から、薄い書類を取り出してテーブルの上に置いた。前日に作成した、事件の概要をまとめたものである。警察官という職業柄もあって、朧気な記憶だけで話をするのは避けたかった。相手に不必要な緊張を強いることになるかも知れないが、致し方ない。
「それでは、まずは事件の概要を確認させて下さい。事件が起こったのは二十三年前の八月二十日。その日義叔父さんの家を、僕を含め三人の人物が訪れました。他の二人は岩波和彦さんと辻村義則さん。岩波さんは賃貸しアパートを経営している他、観光客向けに占い師のようなこともやっている人でした。辻村さんは骨董専門の古物商です」
「ああそうだ。暑い日だったな。外では蝉が鳴いてた。よく覚えてるよ」
「午後一時頃、叔父さんは車で僕を迎えに来てくれたのでしたね」
「私の家には余分な車を駐車する場所がない。岩波君と辻村さんには一週間前にも来てもらったんだが、前の通りに無断駐車することになって、ご近所に迷惑をかけてしまったんだ。そんなことを繰り返すより、こちらから迎えに行った方がいいかと思ってね。住んでる場所は近いから、車で住居を回って彼らを拾うのは造作も無かった。こう見えても私は運転は得意なんでね」
「僕は迎えに来てもらって大助かりでした」
「なに、こちらから頼んだんだ。君を迎えに行くのは当然のことだよ。休暇で来ているところをお願いして悪かったね」
「休暇とは言っても妻の里帰りについてきただけですし、京都ももう観るところは無いかなと思って退屈していたところなので丁度良かったです。でも、先に車に乗っていた岩波さん辻村さんと顔を合わせた時は少し緊張しました。二人共、邪魔者を見るようにムッツリしていたので。こう言っては何だけど、結構怪しい風体でもあった。まるで上海あたりの裏社会に迷いんだようで、義叔父さんが僕を呼んだのも無理はないかなと思いましたよ」
「岩波君は易者めいた和服がトレードマークだったし、辻村さんはずんぐりしてナマズ髭を生やしていたな。歳も行っていて、海千山千の雰囲気があった。怪しいと言えば怪しい見た目だが、君を頼んだのはそれが理由じゃない」
「分かっています。大きな金を動かす契約をする時には第三者の立会人がいた方がいいからということでしたね」
「『この人は警察官だ』と言ったら、彼らも不当に安い買い取り額は言い出しにくいだろうからな。こちらも出来るだけ高く売りたいから。ちょっとした駆け引きを使ったわけだ。しかし、あまり効果は無かったのかな」
老人は小さく嘆息してから、お茶の続きを口にした。
小暮老人がその日に売りたかったのは、当時所持していた骨董品である。一時期骨董に凝っていたために、掛け軸や壺などの収集品は数十点に及んでいた。そして愛蔵していたそれを、すべて処分しようと決めたのは、そんな品々などはどうでもよくなるような不幸に見舞われたためだった。
山下はそのように聞いている。
二十年以上も寄り沿った妻が、交通事故で命を落としたのだ。
それはあまりに突然で、目の前に大きな黒い穴がポッカリ空いたかのようだった。朝には元気に話していた人が、夕には動かない骸となって帰ってきたのである。到底信じることが出来ず、呆然とするばかりだった。
しばらくは何もする気が起きず、食事もまともに摂れないくらいに抜け殻となった。
そしてその、哀しみに圧し潰された眼で見つめると、骨董などは何の意味もないつまらないものに思えてきたのである。
生前、妻は柄にもない夫の趣味を、苦笑しながらも見守ってくれていた。決して勧めはしないながらも否定はせず、時には少なくはない出費も『あなたが満足ならそれでいいんじゃない』と大目に見てくれていた。心の中がどうだったかは分からないが、飾った品々に甲斐甲斐しくはたきをかけ、こまめに布巾で拭いたりして、見映えが良い状態に保ってくれたりもしていたのである。
ところが今はその妻がいない。家の中を掃除する者も無く、それらは埃を被って行く一方なのだと思うと、虚しさばかりが募ってきた。
こんな物、何の役にも立たないではないか。と、すべてドブに捨てたい気分になった。
そんなところへ、「それならば全部私に譲ってもらえないですか」と声をかけてきたのが骨董商の辻村氏と、骨董趣味仲間の岩波氏だったというわけである。
その頃はまだ老人ではなかった小暮氏は、哀しみの中でも合理的な判断を下せるだけの柔軟性は持ち合わせていた。元々理系で、物事を理詰めで考える方でもある。
それに、金がなければ将来が不安でもあった。考えた末、二人に買い取り額の提示をしてもらい、高い金額をつけてくれた方に売ることに決めた。金額に差が無ければ友人のよしみで岩波氏に譲るつもりだが、大きな開きがあった場合でもそうする、というほどのお人好しではない。
とは言え数十点をすべて査定するのはそれなりに時間がかかる。二人にはまず家に来て骨董品を見てもらい、一週間後に再びやってきて最終的な買い取り額を提出してもらう運びになった。
山下が呼ばれたのは、その金額が提出されて譲り渡す相手を決める予定の席である。
「ええ。家に着いてからの出来事を順を追って振り返りましょう。僕らは家に着くと、玄関脇の和室に通された。そして和テーブルを囲んだ席に着いたらすぐに義叔父さんがお茶を出してくれたのでしたね」
「うむ。本題に入る前に寛いでもらおうと思ってね。お茶くらいは出すものだろう。しかし今考えれば、あの時のお茶の出し方は礼儀にかなっているとは言えなかったかな。私は何もかも家内に任せきりだったので、お茶の淹れ方すら覚束なかったんだ。お茶菓子すら用意していなかった。独りになったら何もできない。その事実に気づいた時には愕然としたよ。私は電気機器のエンジニアとして技術者畑ばかりを歩いてきたので、日常的なことが全然分からなかった。それは薄々気づいてはいたのだが、まともに意識したことは無かった。あの時は家内が亡くなってからそんなに時間が経っていなかったから、なおさらだ」
「義叔父さんはまず四人分の湯飲みを和テーブルの上に出し、順に急須でお茶を注いで行ったんでしたね。そしてそのうち三つをお盆に載せて、『さあどうぞ』とテーブルを挟んだ向かいにいる岩波さんの前へ差し出した。『お好きなものをお取りください』という形で」
「ああ、そうだった。岩波君が一番近かったのでね。岩波君、辻村さん。そして君、の順番でお盆を差し出してお茶を取ってもらったんだった」
「岩波さんはお盆の上のお茶を取る時に、ちょっと変わった動きをしました。いったん自分の一番近くにあるお茶に手を伸ばしかけて、気迷うようにその手を途中で止め、結局自分から遠い端にあるお茶を取ったんです。そして大事そうにその湯飲みを自分の前に置くと、ニッコリと幸せそうに微笑んだ。まるで何十万もする高級ワインを振る舞われて、『これは大事に飲まなければなりませんな』と自分に言い聞かせているかのように。その恵比須顔が僕の脳裏に焼き付いてずっと離れないんです。そのお茶が、まったく正反対の結果を岩波さんにもたらしてしまったのだから。嫌でも記憶に残らざるを得なかった。もっともその時には、まだそのお茶には、そういった凶悪な運命をもたらす成分は含まれていなかったかとも思われますが」
老人は目を細め、地蔵のように頷いた。
「君がそれを証言してくれたのだったな。君がいなければ、私が疑われていたかも知れない。感謝しているよ」
「その時僕は、岩波さんが自分の近くにあるお茶を取るのをやめて遠くにあるお茶を取ったので、嫌な感じがしたんです。もしかしたら、手前のお茶にはゴミでも入っていたんじゃないかって。髪の毛が混入するとかはたまにあることだから。それを見つけて避けたんじゃないかと。岩波さんの次にお盆を差し出された辻村さんもそのお茶を取らなかったので、なおさらそう思った。でも余りものとして僕に回ってきたお茶を手に取って見たら、そんなものは入っていなかった」
「当然だよ。私もお茶を淹れた時に確認している。そんなものは無かったさ。辻村さんも何気なくお湯飲みを取っただけだっただろう」
「ええ、そうですね。岩波さんはちょっと気紛れを起こしただけなのかもしれない」山下はいったん黙り、口元を引き締めた。気持ちを入れ直すようにして、「出来事の確認を続けましょう。客の僕たちは出されたお茶を飲んだ。岩波さんも口をつけていたはずです。するとそこへ玄関から呼び鈴が鳴った。義叔父さんは『ちょっと失礼』と言って部屋を出て玄関へ行って来客を迎えた」
「近所に住んでる義姉が家庭菜園で獲れたゴーヤとトマトを持ってきてくれたんだ。ゴーヤは時期が来ると一度に沢山成って持て余してしまうらしいね」
「そうらしいですね。やってきたのは亡くなった義叔母さんの一番上の姉でした。僕の妻忍の母の姉でもあるので、当然僕とも親しい間柄です。僕は玄関で話す声を聞いて、誰が来たのか分かったので挨拶しに行った。部屋を出て玄関に顔を出したんです」
「義姉は君を見て喜んでいたな。『あーら山下君。丁度良かったわ。山下君にもゴーヤをあげるわね』とか言って。義姉は君のような男前の好青年が大好きなんだよ。ゴーヤはともかくとして、義姉の作るトマトはすごく美味いんだ。大量生産されてない、昔ながらの味っていうのかな」
「ええ。おすそ分けしてもらったのを帰ってから食べたら、とても味が濃い美味しいトマトでした。もっとも、その時には落ち着いて味わえないような気分になっていましたが」
「それは私も同じだったよ。君よりもショックは大きかったろうな。何しろ自分の家で死人が出てしまったのだから。しかも亡くなった岩波君は学生時代からの友人だ。彼を亡くしたのは、二重にショックだったよ」
「岩波さんはゴーヤを持ってきた義伯母さんとも顔見知りなんでしたね」
「古い付き合いだからな。彼は時々私の家に遊びに来ていた。下手な碁を打ったりすることもあったよ。家内を訪れた義姉と顔を合わせることもあって顔見知りになったんだ」
「だから岩波さんも玄関に顔を出したんですね。僕の後からひょっこり現れて、野菜を持ってきた義伯母さんに『○○さんの顔も見れるとは。今日はやっぱり縁起がいいですな』とかお愛想を言っていた」
「彼は昔から調子がいいタイプなんだ。観光客相手の易者の真似事なんかはお手の物だったろう。結構稼いだと聞いている」
「そんなこんなで、その時和室に居残っているのは辻村さんだけになった。このことが後で重大な意味を持ってくるんですね」
「まったく、何が災いになるか分からんものだ」
老人は憮然として、手元のお茶に目を落とした。
「義伯母さんは野菜を置くとすぐに帰った。僕らは元の和室に戻り、お茶の残りを飲んだのでした。岩波さんのお茶も半分くらい残っていて、続きを飲んだと記憶しています」
「美味しそうに飲んでくれていたようだったな。安い番茶に過ぎなかったが。みながお茶を飲んで一息ついたところで、私は『それではそろそろ用件に入りましょう』と促した」
「その時は、何だか急にピンと張り詰めた空気が漂ったようでした。辻村さんは終始硬い表情だったし、恵比須顔だった岩波さんの眼も、抜け目なく光ったような気がした。僕らは義叔父さんに促されて、襖一枚を隔てた隣の部屋へ移動した。そこには壺や皿、掛け軸などの品が多数並べられていました。岩波さんと辻村さんはそれらの品を改めて見て行った。時おり頷いたりして、用意して来た買い取り額の正しさを確認している風だった」
「買い取り額の提示の前に、もう一度品物を見てもらった方がいいだろうと思ってね。押し入れや引き出しの奥にしまってある品も全部出してきて用意していた。それらのほとんどは辻村さんを通して買ったのだから、彼は改めて見なくても値打ちは分かりそうなものだが。新たな傷や汚れが無いかどうか確かめていたのかな。細かい所を見て、手帳に丁重にメモしたりしていた。一方岩波君は大雑把だった。『フム。この品は何度見てもいいですねえ』とか『この古び方が醸し出す詫び錆が……』とか鑑賞者としての感想を漏らす。金額はもう決めてあったんだろうが、本当に査定しているのかと思ったよ」
「岩波さんは感覚派なんですね。客観的な評価額ではなく、自分にとってどのくらい価値があるかを基準にしていたのではないですか」
「それが骨董を愉しむ本来のやり方なのかも知れないな。今になって思えば、私は骨董品の価値なんて何一つ分かってはいなかった。理系の朴念仁が歴史深い文化に憧れていただけでね。そのきっかけを作ってくれたのが岩波君で、様々な品を教えてくれて深いところに導いてくれたのが辻村さんだったという気がする。その二人が私の収集品を買い取りたいと言うんだから、気分は複雑だった。もしも辻村さんの買い取り提示額がすごく安かったりしたら、私は騙されて高く買わされていたということになってしまうし、岩波君の提示額も、安ければ私の収集品をそんなに低く見ていたのかとなってしまう。これまでは、お世辞もあったろうが『いい品ですなあ』と、飾られているのを見るたびに褒めてくれていたのでね。まあ、譲って欲しいと言うということは一定の価値は認めているということなんだろうが」
「僕の眼には立派な収集品だと映りました。知識も審美眼もまったく無いので、当てにならない感想ですが」
「私の眼も同じようなものだったよ。そのことは、後で分かったのだがね」
「岩波さんは上機嫌でした。『もう自分が買い取ることになるのは決まった』と言わんばかりに軽口を叩いたりしていましたね。学生時代の思い出話を始めたりもした」
「金が無くてモヤシばかり食べていた話とか、二人して同じ女学生に入れあげて同時に玉砕した話とかだったかな。赤面の至りだが。今考えると、あれは『古いつき合いだから当然私に譲ってくれるでしょうね』という彼なりのアッピールだったのかな」
「その一方で辻村さんはポーカーフェイスでしたが、何となく岩波さんの浮ついた態度を疎ましく思っているような雰囲気が感じられた」
「そうだったかね。私はどうもそういった感覚には疎くて」
「その時の僕はそう思いました。辻村さんは時おりチロリと細い眼で岩波さんを観察しているようなところがあったので。ちょっと蜥蜴か何かを思わせるような、冷たさを感じさせる視線でした。骨董商の人っていうのは、人を見て金のやり取りをするからこういう目つきになるのかな。とか思って厭な感じがしたりもしたんです。しかし、それは僕の思い違いで、実態はそんな甘っちょろいものでは無かったのかも知れない……」
「恐ろしいことだ。それを思うと今でも背筋が寒いよ」
老人は首を大きく横に振った。
「ええ。しばらくすると、岩波さんのようすに異変が起こり始めた。あれは、最初にお茶を口にしてから一時間くらい経った頃でしたかね。何だか目の動きが鈍い感じになって、呂律が回らなくなってきた。本人は『あれっ、変だな。何だか体調が』とか最初の頃は笑っていたけれど、どんどん様子がおかしくなって、変な汗はかくわ呼吸は苦しくなるわで立っていられなくなった。明らかに、何か重大な疾患が、彼を襲っているようでした」
「激しく嘔吐し始めた時には私も驚いた。胃の中は空で、出てくるのは胃液ばかりのようだったが。意識が遠くなり始めたのを見て『これはいかん』と思って救急車を呼んだんだ。しかし、その時にはもう手遅れだった。あんなに急に亡くなってしまうとは……。救急隊員からは『何か危険な物を飲んだり食べたりしませんでしたか』とか訊かれたが、心当たりなどないし」
「その辺り、僕は比較的冷静だったのかもしれません。警察官という職業柄、万が一これが事件だったら、と考えた。まさかとは思いましたが、岩波さんが病院へ運ばれた後、彼が飲んでいたお茶の僅かな残りをティッシュに沁み込ませて保存することにしたんです。僕自身、そうしないと僅かながらも疑念が残り、後味が悪くなってしまいそうな気がしたので。もしこの件が不審死と判断されて捜査されることになったら、地元警察の担当者にそれを渡すつもりでした。そして『毒など入っていませんでしたよ』との言葉を貰って安心したかったんです。ところがその期待は裏切られた。岩波さんは亡くなり、その原因は毒物だと判明してしまった。運命の歯車が、最悪の方向へ回って行くようだった」
「残ったお茶の中から検出されたのは、テトロドトキシンだったかな」
「そうです。いわゆるフグ毒ですね。フグから精製するにはそれなりの技術が必要ですが、たったの1、2ミリグラムで人が死に至るという劇薬です。どうしてそんなものが使われたのか、調査結果を聞いても訳が分からなかった」
「それは私も同様だよ」
「テトロドトキシンは摂取してから三十分から数時間後に効果が出始めます。岩波さんはお茶を飲んでから約一時間後に体調を崩し始めたので理屈には合っている。失礼ですが、毒が検出されたと聞いた時、僕は最初、義叔父さんに疑いの目を向けたんです。何と言っても義叔父さんが出したお茶の中にそれが入っていたのだから。見ていても毒を入れたような素振りは無かったけど、2ミリグラムくらいだったら事前に湯飲みの底に塗っておくだけでも殺すのは可能ですから。でも、それが岩波さんに配られた時のいきさつを思い出してみると、仮に義叔父さんがお茶に毒を入れたとしても、それを岩波さんに取らせるのは不可能だったと分かった。義叔父さんはお盆に三つの湯飲みを載せて差し出して、岩波さんに好きなものを取ってもらったのだから、確実に毒のお茶を配ることは出来なかったわけです。しかも岩波さんはその時どういうわけか、自分の近くのお茶は取らずに一番遠い位置にあるお茶を手に取った。毒の入ったお茶を近くに配置して、それを自然に取るようにしむけるというような方法も使えなかった」
「ああ。こう言ったら何だが、あの時岩波君が気紛れを起こして遠い位置にあるお茶を取ったのは、私にとっては僥倖だったのかもしれんな。もし素直に手前のお茶を取っていたら、私が疑われたかもしれない。まさか彼はそれを直感して取るお茶を変えたわけではなかったろうが」
「義叔父さんへの疑いは晴れました。それでは誰がお茶に毒を入れたかと言うと、そのチャンスがあった人物は一人しかいなかった」
老人は頷いて、
「まさか辻村さんがそんなことをしようとは。人は見た目によらないものだな」
「本当に、人は見かけに寄らないものですね。義伯母さんが野菜を持ってきてくれた時、義叔父さんと僕、そして岩波さんは和室から出て玄関に顔を出した。その時、部屋には辻村さんが、たった一人で残っていた。その時には毒を入れ放題だったわけです。そしてその時以外には、岩波さんのお茶に毒を入れる機会は無かった」
「状況からしたら、疑いを受けるのは当然だろうな。しかし、私には納得がいかない。私の知る辻村さんは、そんなことをする人じゃあ無かった。温厚で、年相応の落ち着きがあって、ちゃんとした常識人だったんだ。いったい何が彼を狂わせたのだろう」
「金。というのが捜査陣の見解だったようです」
「ああ、それは私も聞いた。しかし、本当にそうなのかな」
「警察では辻村さんを重要容疑者と見なして尋問しました。厳しい取り調べをしたと聞いています。殺害の動機は中でも重要な捜査ポイントで、徹底的な調査がなされた。その結果、意外なところから動機らしきものが浮かび上がってきた」
「その動機について聞いた時には何とも複雑な気分だったよ。やりきれなくて、哀しくもあり、だが一方では喜ぶべき部分もあったのだから」
「義叔父さんが所有する骨董品の中に、少なく見積もっても一千万円は下らない。おそらくは二千万に近い値が付くと思われる掘り出し物の壺があると判明したのでしたね」
「ああ。中国の青磁器で、骨董市で手に入れたものだ。二百年以上前の品という触れこみだったが、まさか本物だとは思わなかったな。多分売った人も偽物だと思っていたんだろう」
「そうでなければ安く売るはずはないですよね。辻村さんは頑なに犯行を否定していましたが、その品の価値を知っていたのだろうと追及されると否定しきれず、高額な壺を二束三文で買い取ろうとしていたことを認めた」
「あの壺は他の骨董商から買ったものだった。反対に辻村さんから買った品はすべて買値を下回る安物に過ぎなかったんだ」老人は大きく嘆息した。「人間不信になりそうだったよ」
「辻村さんは近年古物商の仕事が上手く行かず、金に困っていた。一千万を超える金は、どうしても欲しい状況だったんです」
「だから競争相手の岩波君を毒殺したというのか。しかしね、そんなことをしなくとも、もっと他に方法がありそうなもんじゃないか」
「それは僕もそう思います。しかし、僕の警察官としての経験から言うと、犯罪者というのは時として不合理な判断をするものなんです。どうしてこんなに賢い人が、と思うことはままありますよ」
「魔が差した。ということなかな……」
老人は鉛を口に含んだように不安な顔をした。そしてそれを洗い流そうとするかのようにグビリとお茶を飲む。
「警察官などという仕事をしていると、悪魔の囁きというのは本当にあるのかも知れないと思うことはありますよ」
「ところで辻村さんは、自白はしたのだったかな」
「いえ、それはしていません」山下はテーブル上の書類を捲って目を走らせ、確認してから答えた。「ただ騙し討ち的に高価な壺を入手しようとしていたのを認めただけで、殺人については首を縦に振っていなかった。あのまま行けば犯行を認めるのも時間の問題だったかも知れませんが、辻村さんはそれすらもできないようになってしまった」
「脳溢血だったっけか」
「老齢の辻村さんには、警察の取り調べは負担が大きすぎたのかも知れませんね。警察署での聴取が終わった後、帰り路で倒れ、結局意識は戻らず一週間後には帰らぬ人となってしまった。だから犯行の細かいところは今だに分からないままです。骨董古物商に過ぎない辻村さんがどうしてテトロドトキシンなどという毒物を入手できたのか、とか。どうして自分が骨董品を買い取れる可能性もあった時点で早まって犯行を行ってしまったのか。とか。謎はいくつか残ってしまった。ちなみに岩波さんは亡くなった時、ポケットにメモ帳を持っていたんですが、そこには義叔父さんに提示する予定だった買い取り額が記されていました。それは辻村さんが考えていた買い取り額と、同等の額だったようなんです。正確には岩波さんの方が僅かに高かったようですが。だから辻村さんは悲観する必要なんかなかった。どうしても高価な壺が欲しいなら、提示金額を予定より少し高く言えば良かっただけのはずなんです」
「岩波君は、私が高価な掘り出し物の壺を持っていることに気づいていたのかな。私にはそれが気になっている。もしそれが分かった上で安い買い値をつけていたのだとすると、彼も辻村さん同様に私を騙して一儲けしようとしていたということになってしまうが」
「それは何とも言えないですね」
「今思い出しても何とも後味の悪い事件だよ」
老人は話を纏めるようにそう言うと、窓外に眼をやった。
外は風が吹いてきたようで、桜を載せた枝がゆらゆらと揺らめいている。しかし花々は生気に満ちており、少々の強風であっても散る気配はない。
老人の小さな胸には一体何が去来しているのだろう。
山下は物憂気顔に隠れた心中を、想像しないではいられなかった。
桜と自分を重ね合わせ、「外の桜と比べると、今の自分は散り落ちた一枚の花弁のようなものに過ぎない」などと思っているような気がした。
この人に、これ以上重荷を背負わせたくはない。しかしそれは、できない相談だった。山下の話は、これからが本題なのである。
「僕にとっても後味はよくありませんでした。この事件のことが、ずっと心の隅に引っかかっていたんです。何かピースの一つが欠けているような気分がつき纏っていた。理性ではもう終わったことだと思っても、無意識が「それは違うよ」と囁いているような。どうしてそんな気分になるのか分からなかったんですが、一週間前に気がついたんです。僕は一つ、大きな見落としをしていたんじゃないかって。気になって、岩波さん毒殺事件の捜査を担当していた知り合いの刑事に問い合わせてみた。そうしたら、僕の疑惑は、裏付けられてしまったんです。僕は義叔父さんに、会ってみる必要性を感じた」
「それでここに来たのだね」老人は穏やかに、居ずまいを正して問い返した。「どんなことを思いついたのかな。興味があるね。言ってごらん」
山下はゴクリと唾を飲んだ後、思い切って口を開いた。これこそが、口に出したら後へは引けないパンドラの箱の底に秘めるべき言葉だ。
「岩波さんが飲んだお茶に毒を入れることができた人物は、辻村さんだけではなかったと気がついたんです」
「もしかして、岩波君が自分で毒を入れて飲んだと考えているのかな。しかし彼は自殺するようなタイプではないよ」
「いえ、そうではありません。あの事件は他殺でした。そして、毒を入れることができたもう一人の人物は、今僕の目の前にいます」
動揺するか、あるいは怒り出すか、と思いきや、老人の態度は変わらなかった。森の奥に静かに広がる、波紋一つ無い湖面を見ているようである。
「ほう。いったいどうすれば私が岩波君を毒殺できたのかね」
「分かってしまえば単純なことでした。僕がそれに気づいたのは、夕食後に妻の入れてくれたお茶を飲んでいた時です。子供らはお茶を飲む習慣がないので、僕ら夫婦はいつも二人でお茶を飲む。妻は湯飲みを二つテーブルの上に出し、急須でお茶を注いでいた。一つ目の湯飲みに注ぎ終わり、二つ目の湯飲みに注ぎ始めた時、せっかちな僕は何気なくお茶が入った一つ目の湯飲みを手に取ったんです。すると、妻がプンプンと怒るんですね『どうしてあなたにばかり幸運が行くのよ』って。そう言われても、何のことやら分からない。僕はそのままお茶に口をつけました。すると妻は『大体あなたは普段から……』って文句を言い始めた。一カ月前に、僕が宝くじで十万円当たったのが気に食わないって言うんですね。妻は昔から宝くじが好きで随分買って来たのに、一万円以上の当たりには出くわしたことが無い。なのに、たまあに買っただけのあなたに大きめの当たりが出るなんて、って。気持ちは分からなくもないですが、言いがかりもいい所だし、それが何でお茶と関係するのかが分からない。よく訊いて見たら、『あなたが今盗って行ったお茶には茶柱が立っていたのよ』って言うんです。妻は神秘的なものが大好きで、幸運をもたらすキーホルダーとかを集めてる。開運グッズマニアみたいな所があるんです。だから茶柱が立ったお茶は自分が飲みたかったと。それが分かった僕は『じゃあこのお茶は君にあげるよ』って言ったんですが、『口をつけた後のお茶なんていらないわよ』ってさらに怒られた。とんだところで大目玉です。しかし僕はその時に、フッと閃く思いがした。縁起担ぎの人は、茶柱が立ったお茶は是非とも自分が飲みたいものなのだな。そう考えた時、あの事件が頭に浮かんできたんです。毒殺された岩波さんは占い師を副業にしていた。ひょっとしたら、彼も『茶柱が立ったお茶はどうしても自分が飲みたい』と思うような縁起担ぎだったんじゃないかって。そう考えてみると、思い当ることはあった。岩波さんは差し出されたお盆からお茶を取る時に、どうして自分の近くからではなく、わざわざ遠い位置にあるお茶を取ったのでしょう。そしてどうしてそれをさも大事そうに抱えるように手元に置いて、ニッコリと微笑んだのでしょう。そしてその時から、岩波さんの機嫌は良くなったように見えた。野菜を持ってきた義伯母さんに、『○○さんの顔も見れるとは。今日はやっぱり縁起がいいですな』などと軽口を叩くほどに。それに気づいた僕は茶柱について調べてみたんですが、茶柱が立ったお茶というのは、『人に知られないうちに茶柱を飲み込むのが幸運を呼び込むやり方だ』という俗説があるようですね。そういうお茶を見つけたら、岩波さんはきっとそれを実行したでしょう。だから、もし義叔父さんが岩波さんを毒殺しようとするのなら、毒と同時に茶柱の一本を湯飲みに入れて、そこにお茶を注いで出せば良かったんです。そうすれば岩波さんは相当な高確率で、その死に至る杯を自ら選んで手に取ってくれた。とは言え茶柱というのはそう頻繁に立つものじゃない。都合よく茶柱になる茶の茎はどうやって手に入れたのか、と疑問を感じられるでしょうか。しかしよく考えると、それはそんなに難しくない。高級茶には茎だけを選別して作る、茎茶というものがありますから。それを買ってきて茶茎を丁度良い長さに切って湯に浮かべ、茶柱になったものを回収して乾かして使えばいい。それを湯飲みの底に貼り付けておくのは、一滴の水だけでも充分でしょう。そこへお茶を注げば、茶茎は自然に浮かんで茶柱になる」
少しの間があった後、老人はゆっくりと頷いた。すべてを達観したような穏やかさで、
「なるほど。そういう方法があるのか。言われてみれば、君の言う通り、岩波君は相当な縁起担ぎだったよ。仕事柄、運気を呼び込む方法などにも精通していた。出されたお茶を見たら茶柱が立ってないかどうかを確認するというのは、彼ならいかにもやりそうなことだ。君の言う方法は、実現性が高い、とは言えるのじゃないかな。しかし成功率百パーセントではないだろう。もし彼が狙い通りに毒入りのお茶を取らなかった場合はどうなるのかね」
「その時は『すみません、髪の毛が入っていました』とでも言って毒入りのお茶を回収して茶殻壺に中身を捨て、新たに毒の無いお茶を淹れて出せばいい。殺人の計画は延期になってしまいますが、それだけのことです」
老人は俯き黙り込んだ。
「僕は事件を担当した刑事にも問い合わせてみました。死んだ岩波さんの体内からは、茶柱にあたるようなものが発見されていなかったかと。すると彼らはしっかりと調べていました。テトロドトキシンが摂取されてから効果を発揮するまでの所要時間は三十分から数時間だから、数時間前に何を飲んだり食べたりしたのかは調べる必要がある。腸の内容物は当然検査するわけです。その結果、胃のすぐ下の小腸から、お茶葉の小枝と思われる切れっ端が見つかっていたそうです。なのにそれが何を意味しているのかは、誰も気づいていなかった。これは考えてみると不思議なことです。人間の思考というのは、常識の枠から離れるのが非常に難しいものと見えますね。しかし、僕はこの事実を重視します。たまたま犯行方法と合致する茶柱が飲まれていたなどということは、非常に希少な偶然でしか起こらないと言わざるを得ない。偶然ではない、と考えた方が合理的なんです。だから僕は告発しなければならない。義叔父さんが岩波さんを殺した犯人なのだと。いや、少なくとも、僕はそういう疑いを色濃く抱いているというということを」
山下が言い終わると、怖いような沈黙が訪れた。
老人の表情は変わらなかった。変わらな過ぎたと言っていい。決して動かない木彫りのお面と化してしまったように。口を堅く引き結び、もう二度と開くまいと決めてしまっているかのようである。
窓外の桜は動くのをやめ再び静まった。先程吹いていた風は、一時的な突風に過ぎなかったようだ。
壁に掛かった柱時計の音が、やけに大きく感じられてくる。砂漠を進む砂鼠の歩調のように、軽く渇いたリズムを刻む。玄関脇にある職員詰所の話し声も、微かに聞こえるような気がしてきた。こちらの声は、まさかあちらにいる人には聞き取られていなかったろうな。山下は、そんなことまで心配な気がしてきたのである。
老人の眼は、まともな思考を持たぬチンパンジーの瞳のように何を考えているのか判じ難かった。
山下は焦れて口を開いた。
「何か言っては頂けませんか。事件が起こったのは二十三年も前だ。仮に犯行は可能だったと分かったとしても、今さら立件するのは不可能でしょう。有罪にするだけの証拠は無い。僕はただ、真実が知りたいだけなんです。どうして岩波さんを殺害したりしたのか。ハッキリ言うのがお厭なら、仮定の話として話してくれてもいい。もしも自分が犯人だとしたら、こういう可能性は考えられるだろう、と言った風に」
「いや……、話すのが厭だということはないよ。覚悟はしていた。あるいはこの時を、私は待っていたのかも知れないな」老人は大きく息を吐いた。浮き輪から、一気に空気が抜け出て行ったかのようだった。長い間背負い続けた肩の荷を降ろしたように見えなくもない。「それでは言葉に甘えさせてもらって、仮定の話として話させてもらおうか。もしも私が岩波君を殺害しようとするなら、どういう動機が考えられるのか。それは……そうだな。やはり少し前にあった妻の死が、彼と関係していたとするのが私のような人間が殺意を抱く理由としては考えられるだろうな。例えば妻が交通事故に遭う前日に、彼が『東方に吉あり』などと妻に対して言っていたとしたらどうだろう。自信満々に断言されたものだから、妻はその言葉に従って予定を変えて東に住んでいる友人に会いに行き、その途中で事故に遭ったのだとしたら。どうしても拭いきれないわだかまりが胸に兆すのは当然ではないかな。この男が余計なことさえ言わなければ妻は生きていたのに、と。しかも本人はそのことを気にする素振りも無く、しゃあしゃあとして現れて、『持っている骨董品を全部売ってください』と言ってきたとしたら、いい感じはしないだろう。その上、それとなく打診してきた買い取り額が、一千万以上する掘り出し物の品を、全く無視した安値だったとしたら、腹も立つというものだ。私はその品の価値には気づいていた。人に言っても波風を立てるだけで得にはならないから言わなかっただけでね。長い付き合いなら、彼が高価な壺の存在を知っているのかどうかくらいは分かる。その額を聞いた私が、愕然としたとしてもおかしくはないだろう。その頃、骨董品を譲って欲しいと言ってきたのは岩波君だけではなかった。辻村さんも同じ要望を私に伝えてきた。なので私は二人に家にきてもらい、骨董品を見てもらうことにした。岩波君に『よく見直して考えを変えてくれ』と言いたい気持ちもあったよ。その時二人にお茶を出した。一週間後に君と一緒にやってきた時と同じように、お盆にお茶を二つ載せて岩波君に差し出して、そのうち一つを取ってもらった。そうしたら、彼は自分からは遠い位置にある、茶柱が立ったお茶を取るんだな。さも大事そうにそれを取って、幸せそうにニッコリと微笑んだ。お茶を入れた私は、そのお茶に茶柱が立っていることには気づいていた。だからその笑顔を見て、この男は人に不幸を押し付けておいて、自分だけはあくまで幸運を手に入れようとするのか、と思った。何ともやりきれなかった。その時に殺意のようなものが芽生えたのかもしれない。そして後でそれを思い返した時に、茶柱を利用して毒入りのお茶を手に取らせるトリックを思いついてしまったのだ。それが一番の間違いの元で、悪魔の囁きとして作用したのかもしれない。私は謎解きミステリー小説が好きだったんだよ。『そんなに幸運が欲しいなら、その幸運を飲み干して死ぬがいい』と、心の中で皮肉に吐き捨てる気分になったのじゃないかな。愚かなことだ……。それを可能にする毒はもう既に持っていた。大分以前に鬱傾向を持つ研究者の友人から譲り受けていたとしたらどうだろう。私自身も妻と結婚する前には鬱傾向を持っていたので、『場合によっては自殺もと考えて試しに造ってみた』というそれを、譲り受けるのはやぶさかではなかった。その友人は結局電車に身を投げて死んでしまったので、今ではその毒の存在を知る者はいない。引き出しの奥にしまい込まれていたそれを、久しぶりに取り出してみたのだ。そして計画は具体化して行き、犯行に際しては信頼できる証人を用意するべきだ。というところにまで考えが及んだ。それに適した人物にも心当たりがあった。……君には申し訳なかったがね。と、まあ、これはあくまでも私が犯人だったとしたらこういう経過が考えられるという仮定の話だが。もしも本当にこう考えて犯行を実行してしまったとするなら、その時の私は頭がどうかしていたと言うしかない。やってしまった後に我に返り、後悔したのではないかな。もしも最初岩波君たちを家に呼んだ時に出したお茶に、茶柱が立っていなかったら、自分は犯行方法を思いつかなかった。そうすれば毒殺などという大それたことを実行することもなく、岩波君は死なずにすんでいたのに、と考えたかもしれない。その結果辻村さんの死までを招いてしまったとするなら何とも申し訳ない。その思いは長く我が身を焼く業火となったろう。身体も衰えようというものだ。もちろんこれは、自業自得と言うしかないがね」
「そうですか……。答えて下さってありがとうございます」
山下は深々と頭を下げた。
そして姿勢を元に戻すと、生直な視線が強く自分に注がれているのに驚いた。
老人は、山下を眩しそうに見上げていた。椅子に座っている者同士だが、萎びた老体と恰幅のいい長身を比すると、どうしても視線は上を向くのである。
「それにしても君は立派になったものだなあ。二十三年前は、こんな線が細くて育ちの良さそうな若者に、警察官なんて勤まるのだろうかと思ったものだが」
「おかげさまで経験を積ませてもらいましたから。妻の忍にも尻を叩かれて、鍛えられてきました」
「そうか。忍ちゃんは大事にしておくれよ。あの子は昔から、私のお気に入りなんでね。子宝に恵まれなかった私たち夫婦には、自分の子供のように感じられたもんだ。子供の頃は本当に可愛かった。いや、今でも充分に可愛いがね」
「ええ。妻にはいつも感謝しています。今回事件の真相に近づく可能性に思い当たったのも、妻が入れてくれたお茶がきっかけですしね。そのお茶は、僕にとっては二十三年ぶりの、『二杯目のお茶』だったのかもしれません。茶柱が立ったお茶なんて、二十年以上飲んだことが無かったですから」
「そうか。私はここに来てから毎日お茶を飲んでいるが、茶柱が立っていたことなどないな。……いや、私の身には、そんなことは起こってはいけないのだ。私には、もう一生幸運などが訪れてはいけない。そう思ってるよ」
老人はそう言うと、お茶の残りを飲み干して寂しげに微笑んだ。
了
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執筆の狙い
ミステリー。パズル色強め。コンパクトで読みやすい作品を心掛けました。