煙亡の鬼
鬼払い。
鬼遣《おにやらい》。追儺《ついな》とも呼ばれるそれの歴史は起源中国、黄土高原が未だ草や木で覆われていた頃まで遡る。流行病や重病は疫鬼《えきき》の仕業と考えられ、古代中国周の時代、日本でも飛鳥時代には宮中行事としての追儺が行われていたという。それが日本へ広まり、時代が進むごとに地域へ根付き、寺や神社での年中行事へと姿を変え、儀式の執り行い方も多様となった。しかしながら追儺としての様式──払う側の変化だけでなく、払われる側にも同じく変容は訪れている。
安綱《やすつな》は鬼払い師である。彼は大学卒業後に鬼払いの職へ就き、全国各地、鬼の噂を聞きつけてはそれを鎮める。依頼を受けて行脚することもある。人々が疫鬼と見なすものは、近代化が進むにつれ少なくなるが、無くなることはない。安綱の仕事が絶える事はない。
人が死ぬと鬼になる。鬼が死ぬと聻《せき》になる。
人が生き、死ぬ限り、鬼がいなくなる事はないのである。
これは鬼払い安綱の出遭った鬼の話だ。しかし全てを払い、救う話ではない。
◇
「鬼が出た」
そう安綱が連絡をもらったのは、昼前、自宅のソファーでニュースを見ている時だった。
携帯の着信音に気付き、画面を見た安綱は、魂をも出してしまうほどのため息を吐いた。
「……はい、安綱です」
「やあ、ひと月ぶりかな? 元気?」
「ええ、元気でしたよ。あなたの声を聞くまではね」
「そう冷たいことを言ってくれるなよ。俺は君と話せて嬉しいんだ」
「どうせ俺にまた、へんぴな田舎に行ってくれって言うんでしょ、渡辺さん」
電話の主は渡辺という。安綱にとっては鬼払いの師である。安綱に仕事を持ってくるのは彼だった。大学生の頃に彼と出会った安綱は、彼の弟子としてその働きを見てきた。同職の中でも渡辺のそれは見事なものだ。手際よく無駄な動きなのない、被害を最小で抑える最善の仕事と言っていい。しかしそんな渡辺には癖がある。悪癖である。めんどくさがりで都心の仕事しか受けないのだ。渡辺は言う。「都心の仕事でしか箔が付かない」と。箔が付くというのはつまり、基本給与が上がるということだ。めんどくさがりゆえ無駄な仕事をしたくないのである。横着ゆえ洗練された仕事が出来たのであった。
結果、長いことそばに居た安綱へその悪癖は伝染《うつ》っている。交通機関の無いような田舎の仕事を受けると、一日では帰ってこられないことがほとんどなのだ。電波が通じないところはなおのこと厄介であった。田舎の依頼は箔が付かない上にめんどうなので極力受けたくない。これは何もこの二人に限った話でもない。鬼払い師みなが行き着く思考でもあるのだ。ゆえに田舎の鬼は放置され、突然大きな災いとなり村人を襲うことがあった。鬼払い師の罹りやすい持病と言っても過言ではない。
「俺の普段の行いが悪いのは謝罪するけど、今回は至急の仕事なんだ。優秀な君にしか頼めない」
「……田舎なのは否定しないんですね」
安綱は小さく嘆息した。
「鬼が出た。すでに死人も出ている。俺指名の仕事だが、今受け持っている仕事が、すぐに終わりそうもないんだ。君に頼みたい」
渡辺はいつも飄々として、一見無念無想である。しかし電話口の彼は静中の静、焦りを隠すようわざと淡々と振舞っているようだった。鬼払い師の感じる前触れなく、人が死ぬのは相当なことだ。安綱はそんな渡辺の口調に気付いて、呆けていた口をぎゅっと閉じる。
「……死人って、警察には通報してあるんですよね?」
「してないみたいだよ。鬼を払った後にするつもりらしい」
おかしなことだと安綱は片腕を組んだ。普通の人なら人が死んでいれば、まず警察に知らせるだろう。
「真っ先に渡辺さんへ連絡してきたってことですか?」
「そうなるね」
渡辺は名の知れた鬼払い師だ。彼に連絡を寄越すこと自体は何も不思議はない。
「渡辺さん指名の仕事を俺が受けることを、向こうは承知なんですか?」
「ああ、伝えてある。最初は渋っていたが、余程虎口《ここう》にいるんだろう、君以外には決して言わないことを条件に許されたよ」
なぜそこまで隠すのか、安綱は興味心よりもわずかに恐怖心の方が勝っていた。誰がどのように死んだのか、渡辺にも知らされていないという。
「探偵と間違われてたりして」
「それじゃあ、後で住所を送るからよろしく頼むよ、安綱先生(ルビ)」
渡辺のあざけりに機嫌を損ね、電話を切ってすぐ、ソファーに携帯を投げた。そうしてニュース終わりの占いコーナーを見届けた後、テレビの電源を落とし、遠出の準備を始めた。
◇
「こんにちは」
セーラー服を着た少女が一人、小さな美術館のような、石張りの建物の入り口前に立っている。
安綱がそこへ辿り着いた頃には、残光が黒く染まった山の奥から、寂しげに空を滲ませていた。建物専用の駐車場から、街灯のしるべを頼りに歩いてきた安綱は、まさか人がいるとは思わなかったので、彼女の挨拶に返事が出来なかった。
「あ……、ああ、いや、すみません、怖いものを見たような顔をして……。ご連絡を頂いたものです」
少女はそんな安綱を気にも留めず、
「父から伺っています。案内するように言われていますので、ついて来てください」
と建物に入ることなく、そそくさ歩き出してしまう。
安綱はすぐに事情を聞かせてもらえるものだと考えていたので、足が動かない。
「あ! ちょっと、待ってください。……ここは、火葬場ですよね?」
渡辺から送られてきた住所は、山深いところにある火葬場だったのだ。
「そうですよ」
少女は顔を半分こちらに向けて答えた。
「どこへ向かうんですか?」
「死体のある場所です。警察に知らせるまでは現状保存ということで、そのままにしてあります」
食い散らかした後でなければ、今回の鬼は人を食うわけではないのか、と安綱は専門的なことを考えた。顎に手を当て考え事をする安綱を見て、少女は身体ごとそちらへ向ける。
「……亡くなったのは祖父です。体をバラバラにされ、頭を割られた状態で、野焼きの跡地に放置されていました」
安綱は顎に添えた手をゆっくりと下ろして、いよいよ先生(ルビ)になるときが来たのではないかと、春疾風が背中に当たるのを感じていた。
山がすっかり陽を食って、夜を連れてくる。
野焼きといっても、田んぼの畦《あぜ》や草原を焼いた跡ではない。火葬場や葬儀場が出来る前、村外れの野原で行われていた火葬のことである。
野焼きの跡へ向かうまで、少女は安綱に自分の家のことを話した。
彼女の名前は池田桜。池田家には娘が三人おり、長女を梅、次女を桃、桜は三女である。父弘と母照子、そして祖父と暮らしていた。代々村で火葬や埋葬を受け持っていた池田家は、その流れで民営火葬場を運営している。
祖父の遺体が見つかったのは、今日の明け方。梅が野焼き跡の碑に添えている花の替えをしに行った時、祖父の遺体が見つかった。それから梅は気が触れたように「鬼の仕業だ」と繰り返して、部屋から出てこない。それを見た弘が顔を真っ青にして、渡辺へと連絡を入れた。
「なぜ警察へ連絡を入れなかったんですか?」
「父は自分も殺されると考えています。鬼が居なくなるまで、家から出る気はないと言っています」
「殺されるって鬼に?」
「はい」
鬼の仕業でなくても、殺人鬼がいるかもしれないこの場所で、少女一人を外で待たせていたというのか、と安綱は気が悪くなった。
「でも人が死んでいたらまず警察に言うものでしょう? なぜお父さんはお姉さんの言う鬼という言葉を、そこまで信じているんですか?」
鬼払いが鬼を信じる人間を怪しむのもおかしな話であるが、安綱から依頼主への信用は底を尽きていた。
野焼き跡はぼこぼことした地面で、昼であれば柔らかな緑で覆われていると分かっただろう。階段のある石台の上に、南無阿弥陀仏と彫られた石碑が乗っている。
桜は地面だけを照らしていた懐中電灯を、石台の横へ向けた。
「……あそこです」
そして目の前で親族が死んでいるとはとても思えないほど、落ち着いた声で続ける。
「人が死ぬと鬼になると言います。ここを営む父が鬼を恐れるのも当然でしょう。恐れるべきです」
高校生だろうが随分と彼女は達観していると、安綱は桜をちらと見た。
「待っていてください。俺だけで見てきます」
安綱は死体の近くまで寄って、ライトで照らす。切断面は何度も刃を入れたようで、肉部分にわずかに段が付いている。血で固まった髪の毛の隙間から、砕けた頭蓋骨が見える。持ち去られた部位も無いようだ。恐らく頭を殴り、命を絶ってから切断されたのだろう。でなければ地獄だ。しかしこれは鬼の仕業ではないとすぐに安綱は分かった。人の手で切られたものだ。鬼であれば力任せに引き千切ったり、石で叩き潰したり、ここまで綺麗に遺体が残らないからだ。
安綱は紙でできた形代《かたしろ》を取り出した。形代は主に、人間の身守り、鬼の術を解く際に使われる。そうしてもう一つ、鬼がいるか探知機としての使い道もあるのだ。手のひらに紙の人形を乗せると、安綱はそれをじっと見つめた。カサカサと小刻みに形代は揺れる。鬼の気配があるということだ。はっと安綱は見渡す。しかし大きめの石に座って、安綱を待つ桜がいるだけである。形代に視線を戻すが、それ以上反応しない。
「……場所が場所だからな。小鬼くらいはいてもおかしくないか……」
安綱はぼやいた。脅威が上がるほど、形代は大きく反応を示す。彼は警察に通報してから、ここら一帯を払うことにした。であれば今、自分に出来ることは何もない。なんとか依頼主を説得して警察を呼ばねば……。しゃがんで死体を見ていた安綱は立ち上がった。
「あなたのお父さんと話がしたい。案内してくれますか?」
安綱は少し離れたところにいた桜へ呼びかけた。
「分かりました」
彼女も立ち上がり、腰辺りを叩いて土埃を落とした。
「本当は裏の道を歩けばすぐ家に着くんですが、三日前に裏山が土砂崩れを起こして通れなくなってしまって。火葬場の駐車場を回ってからでないと、帰れないんです。すみません」
安綱はしっかりものを話す桜に、すっかり感心していた。
「そうだったんですか、それは大変でしたね。家に被害は出ませんでしたか?」
「大丈夫でした。家の壁ぎりぎりで止まったので」
「そうですか、それは良かった。しかし土砂の撤去も時間がかかるんでしょうね」
「父はまだ撤去の依頼を出していないので、もっと先になると思います」
「え?」
安綱は二の句が継げない。やはり彼女の父親はまともではない。この件の口外を禁止し、道を埋めるほどの土砂崩れを未だ放置している。家族以外の人間がここへ立ち入ることを嫌っているのだ。
家へ辿り着くと早速、安綱は依頼主である弘へ面を通した。弘は五〇代の細身で、クマの色は深く、怯えを眉毛に宿した顔をしている。リビングには弘以外に、妻の照子と次女桃もいた。長女梅は見えない。照子は自分で両肩をさすってなんとか落ち着こうとしている様子である。桃は気でも抜けたようにぼうと天井を見ていた。
「私、お茶を入れてきます」
桜が気を利かせてキッチンへと向かうので「ありがとうございます」と安綱は礼を言う。褌《ふんどし》を締めなおす気持ちで、ふうと一息。そして弘へ話しかけた。
「池田さん、死体を見てきましたが、あれは鬼の仕業ではありません。人間の成したことです。すぐにでも警察へ連絡することをおすすめします。俺には何もできません」
安綱の不動の視線を受けた弘は、額に浮く脂汗を拭った。彼だけ蒸し風呂にでもいるような汗である。隣に座る照子は逆に、今にも倒れそうなほど顔を白くしていた。
「何を隠されているんですか? あなたは鬼から襲われること以外に、恐れていることがあるのではないですか?」
安綱なりの優しさであった。本当なら、あの死体を見た時点で通報しても良かったのだ。それに守秘義務を全うすることは、それなりに大事なことだと安綱は承知していた。だから事情を聞いて説得する方を選んだのである。
安綱は弘から目線を動かさない。弘は限界まで達した恐怖心と、袋小路になった己の運命に諦めをつけたのか、力のこもった肩をだらりと落とした。
「……分かりました。事情を説明します。……しかしながら今は暗すぎる。明日、朝一でお話しさせてください」
弘と照子は息をするのもやっとの表情である。桃はずっと言葉を発さず、まるで糸の切れた操り人形のようにじっと座っている。
「警察を呼ぶことにするんですか?」
お茶を持って帰ってきた桜が、目元を赤くして心配そうな顔で聞いてくるのに、
「明日事情を聞いてから考えます」
そう返して、安綱はそのお茶を一気に飲み干してしまった。
◇
池田家の客間を借りて一晩過ごした安綱は、白々明けの中、目を覚ました。リビングへ向かうと、弘もすでに起きている。
「おはようございます」
安綱が挨拶をすると、弘は小さく会釈して、
「説明するには裏山の方へ来てもらうのが早いでしょう。ついて来てください」
と言った。
案内されたのは家の裏、土砂崩れがギリギリで止まったと聞いたところだった。
山の一部分──家の裏から火葬場の裏にかけて、人間が立ったくらいの高さから下へ、鬼が斧でも振るったように削り落ちている。土砂の量はそれほど多くないが、よく家を崩さなかったものだ。
「近付いてご覧になってください。私がなぜ他所様をここへ入れたくないのか、分かるはずです」
弘がそれからすっかり黙るので、安綱は鼻で一呼吸して斜面へ近付いた。茶褐色の土砂はそこに生えていた草や低木ごとずれ落としている。点々と大小の白いものが目に付いた安綱は、手前に落ちていたそれを拾った。どうやら生き物の骨のようだ。鹿か何かかと安綱は考えた。しかし、散在するそれらを一個一個確認して違うと分かった。
「……池田さん。これは……これは、もしかして人骨ですか?」
「はい……まごうことなき人骨です」
弘は苦しそうに返す。安綱は少し登った斜面を大股で降り、弘へ近付いた。
「どういうことですか? 話してください」
安綱は、悪鬼羅刹《あっきらせつ》より恐ろしいものを見てしまった、そう思った。
「池田家は連綿と火葬を受け継いできました。初めは寺の境内で行っていましたが、火番というものは、村人から良い待遇を受けることはありませんでした。それでも真摯に努めてきたと聞きます。寺から独立した後もその待遇は続きました。村人たちは火葬を無料で請け負うよう、迫るようになったんです。昭和くらいまで、そういうことを言う人たちが居ました。野焼きであれば火をつけるだけで良いでしょうが、とはいえそれでも石油や薪を使うんですがね。炉を使うようになってからの火葬ではガスを使うようになりましたから、無償は堪えるものです。ですから、そんな頼みをしてくる人たちの遺体から、ちょっと体を貰うんです。頭を割って脳髄だったり、脳みそだったり、体を鋸で切り分けることもありました。それを高くで買い取ってくれるところがあったのです。それで採算を取っていたと聞きます。段々と美味しい思いができることに気付いたんでしょうね、無縁仏も積極的に引き取って、うちで火葬するようになったんです。とはいえ、買い取る方も全部買い取ってくれるわけじゃない。死体が余るようになって、それで火葬もせず裏山へ埋めるようになりました。それがこれの結果です。脈々と火夫《かふ》に語り継がれてきた話です」
安綱は相槌も打たずに聞いていた。
「これを知っているのは誰ですか?」
「私たち夫婦と祖父、あとこの土砂崩れを最初に見た桜です。見つけた桜がたいそう泣き怯えて私たちの元へ来たので、話をするしかありませんでした。かわいそうなことをしました」
「では梅さんも桃さんも知らないんですね?」
「そうです。なので梅が『鬼の仕業だ』と狂気に満ちた顔で言うのを、私は正気を失わずに聞けないでいたのです」
「なぜ頑なに隠すんですか? 昔のことでしょう」
「……桜はまだ高校生です。こんなことがバレてしまえば学校には通えなくなるでしょう。せめて高校卒業までは隠したかった……」
桜にはかわいそうなことだがこのままであることに、安綱は納得をしない。彼は警察へ連絡を入れた後で、気の触れてしまったという梅の様子を見ることにした。
形代を取り出して、鬼の気配を探る。すると、初め見た時より大きくそれは動く。少し強い鬼がどこかに潜んでいる。安綱は山の上へ目を凝らすが、杉が森々と彼を見下ろすだけである。しばらくすると形代も動きを止める。反応が出たり、消えたりする理由を安綱は考えた。気配を出したり、消したりできる鬼がいれば別であるが、安綱はそんな鬼にまだ遭ったことはなかった。自分の力で人を殴り殺せてしまうような鬼もいれば、そんな力の無い鬼もいて、そういう鬼は術を使うことがある。人に幻覚を見せたり、心を操ったり、体を乗っ取ったり。術でうまいこと存在を隠しているのかもしれない。結局鬼払いによる対処は早いほうが良かったのだ。弘の褒められるところがあるとすれば、すぐ渡辺に連絡を入れたことだろう。
「池田さん、すぐに警察を呼んでください。やはり俺は、このままであることを許せない。それと梅さんには鬼の術がかかっているかもしれません。警察が来るまでに見ておきたい」
「分かりました……」
弘は意気消沈して、拒む力も無い。
安綱と警察へ連絡を入れた弘の二人は、長女梅の部屋へ向かう。警察がそこへ来るまで一時間半ほどかかると弘は聞いていた。
すると部屋へ行く途中で、照子が二人の元へやってきて「桃が起きてこない」と言う。その知らせが弘を震駭《しんがい》させた。安綱と弘は急いで桃の元へ向かう。
安綱はここでようやく痛感する。弘が渡辺へ連絡を入れたことは、時期到来の救援信号ではなく、六菖十菊《りくしょうじゅうぎく》、遅すぎた凶報だったのだ。
桃は床に倒れ、こと切れていた。手持ち鋸で、首を掻き切って。
おお、と弘が喚いて桃に近付くのを、安綱は腕で静止した。
「気付けなかった……桃さんも最初っから術にかかっていたんだ……」
安綱は慚愧《ざんき》に堪えない。昨晩の桃の様子は、祖父が悍《おぞ》ましい姿で死んでいたから、腑抜けになっているのだと考えていた。弘へ「動かないでください」と伝えて、安綱は死体へ近寄った。形代で桃の顔を撫でると、墨文字が浮かぶ。それは鬼の使う文字であった。一見甲骨文字のように見えるが、人間が読もうとすると、気をおかしくしてしまう。形代にこのようなものが浮き上がるということは、術にかけられていたということだ。
「鬼は人を操る術を使うようです。梅さんや桜さんも危ないかもしれない。池田さん、様子を見てきてください。もし、万が一亡くなっていたとしても、近付かないで。あなたに術が移るかもしれないから」
「は、は、はい、分かりました」
弘は震える声で答え、その場を後にした。
安綱は桃の持つ手持ち鋸を見る。数時間以内に付着した桃の血液の下に、それとは別の乾いた血液が見える。この鋸が最初の死体を切り刻んだものだ、と気付いた安綱の背中に鳥肌が立つ。
廊下をバタバタと走る音が聞こえると、弘が戻ってきて叫んだ。
「安綱さん! 梅も、梅も、だめでした。桜は私たちが外にいる時、野焼きの跡へ向かうのに側を通ったのを見ています。きっとそっちにいるはずです」
安綱は絶句する。すぐ確認の取れない桜を除けば、生き残っているのは弘と照子だけ。血液が脈を早く、強く打つ。
「梅さんはどんなふうに……?」
「壁に頭を何度も打ちつけたようで……」
鬼は娘二人を操って祖父を殺し、切断した。そして自死するよう術をかけた。鬼から池田家への復讐であると誰もが考えるだろう。しかし安綱は違う。
これは復讐ではなく、呵責《かしゃく》だ。
鬼から人への誅。復讐であれば、今の世で行なわれることではない。死体を埋めた彼らの先祖へ行なわれるべきなのだ。火夫たちが死体へ施したことを再現することで、罪を意識させようとしている。
この場所に池田家を留まらせることは、悪化に繋がると判断した安綱は、弘へ伝える。
「俺が桜さんを探して来ますから、池田さんは奥さんを連れて、車で逃げてください。桜さんを見つけ次第、俺もここから離れます」
「分かりました、すぐに」
しかし弘が行こうとするのを、安綱は無意識に呼び止める。ほとんどの人間の無意識を支えるものは、経験や習慣であるが、彼のそれを支えるものは諸法無我的思考だった。「お陰様」で己があることを、安綱は知っている。勝手に思い込んでいたことがそうでなかったならば、この件に関する了見が、誤りであると認めなければならないことに、彼はどこかで臆していたのかもしれない。
「池田さん。俺は一番大切なことを聞き忘れていました。決して嘘をつかずに答えてくださいね」
「そのせい」で今があることも、やはり認めなければならないことだ。安綱は弘の答えを聞き、野火は広く広く、決して消えぬところまで来てしまっていたことを知った。
昨晩には見えなかったものが、安綱にはしっかりと見える。野焼きの跡地には煉瓦造りの火葬場が残り、骨壺の欠片が落ちている。昔であれば大した供養もせず、残骨をまとめて捨てる場所でもあったに違いない。だから死体が鬼を生み出したとは、安綱はもう思わない。鳥の空気を叩く羽音が聞こえ、それっきり遺構から音が無くなった。
「──人が鬼になる時、段階があります」
青陽《せいよう》差し込む石台の上に座る、一人の少女に安綱は説く。角が生え出した部分の皮膚が、両瞼を押し下げ、苦しみとも怒りとも思える容貌になった彼女は、手のひらに小鳥の死骸を乗せて、撫でていた。
「初めは泥眼《でいがん》。次は橋姫。ここまではまだ、人に戻れる可能性がある。その後は生成《なまなり》。生成になると、角が生え、もう人間には戻れないんです。……俺が気付けないばかりに、君を殺すしかなくなってしまった」
生成は、般若の手前。生きながら鬼へ化けてしまった女の呼び名である。
安綱は怯えていた。鬼と対峙しているからではない。
「……桜さん、鬼は、君だったんだ」
安綱がそう言うと、桜はやっと小鳥から顔を上げて、彼を見た。
「父は何と言って、あの骨を見せましたか? どうせ昔話をするように語ったのではないですか? とんでもない。決して、決して昔話なんかではありません。今もなお行われていることです。祖父も父も母も分かって、その金で生きているのです。業が、この血肉に、生まれた時から流れています」
彼女は立ち上がって、碑の前にある供物台へ、その小鳥を乗せた。
「お腹が空いてしまって……。殺してしまいました……。かわいそうに……」
安綱は桜の嘆きに、ひやりとする。三人も人を殺した鬼の言葉とは思えなかった。
彼は「今はもう、死体を売るようなことはしていないんですよね」、弘へ最後にそう問うた。そうでなければいいという安綱の願い虚しく、弘は罪を認めた。弘も照子も桜のためと言いつつ、結局のところ、自分達の罪を隠すことに必死だったのだ。
「君は術を使って、お姉さん二人を使いおじいさんを殺した。お父さんとお母さんの罪悪感を刺激するために『鬼の仕業だ』と思わせるよう、梅さんを乱心するように操ったんだ」
「父が警察を呼ばないことは分かっていました。父も母もすっかり怯えて、ふふ……。でもまさか鬼払いを呼ぶとは……。あなたが来るのを待っていたのも、もしかしたら警察を呼んで、計画を邪魔するかもしれないと思ったからです。でもあなたはすぐに呼ばなかった。あの晩、祖父の死体を見て、電話をしようものなら、殺していました。あなたは運のいい方です。でもそんなあなただからか、父は警察を呼ぶことを了承してしまったんでしょうね。本当はもっと恐ろしい思いをさせるつもりだったけれど、今日のうちに全員殺さなくてはならなくなりました」
「あの時はまだ、鬼の段階で言えば泥眼。今思えば君が側にいる時に形代が反応していたし、生成になる前であれば反応が不安定なのも納得できる。それに鬼の反応が強まったのも、君が鬼の経過を辿っていたからだったんだ。もし、あの時、俺に相談してくれていれば……」
後悔。安綱にとって珍しいことだ。反省をしないやつ、というわけではない。変えられなかったことに、執着をしない。逆のことには念入りな人間であるからだ。その安綱が、ひたすら無念に思った。
「土砂崩れがある前から、この家はなぜ食っていけているのだろうと不思議に思っていたんです。こんな片田舎の民営火葬場になんか、全然人は来ないものですから。父が夜な夜な裏山へ何かを埋めていることは知っていました。土砂崩れで骨が出てきたのを見た時、父の行動と繋がりました。父は私にも過去のごとく語って聞かせましたよ。恐れず、当たり前のように、家業を継いでいる姿が、私は許せなかったのです。ここで絶やすべきと思いました。祖父も父も母も、姉たちも、生きていてはいけない身なのです。いいえ、もうとても生きていられないと言った方がいいでしょう……あとは、私が死ぬだけです。あなたがするべきことを、してくださるだけでいい。……生かしておいて良かった」
小鳥の血のついた鬼歯を見せて、桜は自嘲する。
「しかしお父さんとお母さんはここを離れて行ったよ。俺が警察へ全て話して、生かして必ず罪を償わせるから」
安綱は慰めになると思って、そう言った。
桜は失笑する。救いなど、許されないからだ。しかし、彼らが救われていいものだと、安綱が考えていることの方がおかしかった。
「いいえ、いいえ。母にはもう術をかけました。今頃父を殺して車に火でも付けているでしょう」
安綱の顔から血の色が無くなっていくのを、桜は嘆かわしく思った。
「──鬼払い様。鬼が死ぬとなる聻《せき》というものは、結局のところ何だと思いますか? 私は人の記憶や慣習として残ることなんだと、今思いました。鬼の御伽噺であったり、豆まきという習いだったり。そういうものは人の助けになるものです……私という傷跡は、誰かを生かすでしょうか?」
「……俺がきっと、きっとこの仕事で生かします」
桜は業苦から抜け出せる喜びからか、微笑むように払いを受け入れる。彼女の額へ、札をつけた矢じりを刺し込む間、安綱の涙は止まらなかった。
◇
安綱が自宅へ戻ってこれたのは、生成を倒してから、三ヶ月も後になってからだった。
池田家は、全員死亡。安綱は警察からの取り調べを受けた後、鬼払いを管轄している宮内庁からの尋問を受けていた。鬼払いが出ていながら、依頼主が、その家族含めて全員死亡するというのは前代未聞であると、審議にかけられていたのだ。
しかし池田家の裏山から、おおよそ三千体の人骨が発掘されると、安綱の審議に時間を割いているどころではなくなった。
安綱は正直なところ、数ヶ月にも及ぶ同じような糾問に、早く追放でもしてくれと飽き飽きしていた。しかしそうなることはなく、半年間の謹慎ののち、鬼払いの職に復帰させるという結論が出る。
彼が玄関の鍵を開けようとすると、その鍵が仕事を果たしていないことに気付いた。彼は帰る道程にあるコンビニで買った、ビール缶が入ったビニール袋をぎゅっと握る。ゆっくり、音が鳴らないように扉を開くと、コンクリートの三和土《たたき》に、見たことのある靴が一足。
安綱に三ヶ月もの月日で溜まった鬱憤は、爆発的噴火を起こす。
「ちょっと! 不法侵入ですよ? 渡辺さん!」
我が物顔で安綱の部屋でくつろぐ渡辺は、ソファーでワインを飲みながら洋画を見ている。
「やっと帰してもらったのか。疲れているだろう。先に風呂へ入ると良い」
「入りますとも! その前に人の家でくつろいでいるわけを聞いてもいいですか? 俺は、今、あなたを殴るこぶしを必死で抑えているんです。納得できる理由を話せるんでしょうね」
「弟子を慰めようと思って、酒を買って待ってたんだよ。出所祝いさ」
からかうの間違いじゃないのか、と安綱は顔から吹き出るマグマを冷やせないまま、渡辺のにっこり笑う顔を見る。
「まぁ、真面目な話。俺の方にこそ、責任がある。これは、君だけの問題じゃない。鬼払い全体の問題なんだ。地方への警戒を怠りすぎた、この業界を見直す時なんだよ。若者一人が追放されて解決だなんて、そんなことはないんだ。むしろ君はよくやった。被害をあの範囲から広げなかった。これだけで十分な働きさ」
「……いえ、俺は桃さんの様子を見ていながら、彼女に術がかかっていないのか確認をしなかった。母親のことを考えず父親と二人きりにさせた。俺がすべきだったのにしなかったことは沢山あります」
安綱は、刑務所のごとき簡素な部屋で過ごしながら、己を糾弾した。しかし次に生かそうという目標は生きる糧になり、他人の道すら照らすが、そういう自責は誰も生かさず、何も生まないことを、渡辺は安綱に伝えるため来たのであった。
「俺も半年休み取ったからさ、このシリーズ全部観ようじゃないか」
赤くなった眦《まなじり》を数回ぽりぽりとかいた安綱は、渡辺のとなりにどかっと座り、
「この映画が終わったら、酒だけ置いて帰ってください。俺には渡辺さんの相手ができるほど、元気が無いんです」
と言った。
相当嫌われてしまっているな、と渡辺の心は少し挫けていた。渡辺にとっても初めての弟子であったし、彼以外に弟子を取る気はなかった。わざわざ弟子にしてもらうために訪ねる人間がいるほど、渡辺は腕のいい鬼払いである。なぜそんな渡辺が、しつこく安綱に目をかけているのかといえば、
「ちょっと元気になったら焼肉奢ってください、高いところの。……あ、あと雨降りそうだったんでビニール傘持ってっていいですよ」
渡辺を家から追い出すとき、そんなことを安綱が言う。
飾り気の無い良い奴というものを、渡辺はほっとけないからだった。
謹慎の解けた安綱が出向いた最初の仕事で、同僚から聞いた話があった。安綱を絶対に辞めさせると聞かない審議委員のところへ、渡辺が乗り込み、言い合いの末殴ってしまい、渡辺も同じく半年の謹慎を食らっていたというものだった。
安綱を慰めるなんて大嘘で、自分も暇だったからだと知った安綱は、ムカッとして連絡先から彼の名前を消した。安綱は渡辺のそういうところが嫌いだった。しかし憎めない。真面目なフリをしてほんとはこれっぽっちも真面目ではなく、平気なフリをして一人で受け持つには大きすぎる仕事を抱える、そんな師である。それだから安綱は、文句を言っても彼からの仕事を引き受けるのだ。
執筆の狙い
前回と同じくemダッシュ、三点リーダーの使い方、追加で擬人法を使った比喩を意識しました。あと、前回頂いたコメントを受け、細かい設定を自分なりに詰めてみました。細かく書かなくてはと思うと短く収まらず1万文字ほどになってしまっています。読んでいてこういうとこは省いてもいいかもね、逆にこっちはもっと説明欲しいなという部分がありましたら、是非教えてください。どうぞよろしくお願い致します。