濡れ鼠
街灯がところどころ切れている薄暗い路地裏は、まるで彼の内面を映し出したかのようだった。湿った空気と降り続ける冷たい雨。音はなく、ただポタポタと滴る水の音が彼の荒んだ思考を無情にも打ち鳴らしていた。
彼――古澤――は、もうしばらくこの場所に佇んでいた。膝を抱えて地面に座り込む彼は、まるで世界から置き去りにされたかのように動くことをやめている。その目は虚ろで、心の中に嵐が巻き起こっていることを想像させた。
「俺は、罪悪だ。」小さく、途切れ途切れに言葉が漏れる。彼の言葉は、誰にも届かないはずだった。いや、彼自身が届くことを望んでいなかったのかもしれない。
しかしその時、遠くから足音が聞こえてきた。硬い石畳を響かせる、規則的な足音。彼は顔を上げない。誰が来たとしても、それに反応する力など残されていない。次の瞬間、声がかけられる。
「ここで何をしてるんだ、古澤?」
その声は、彼がかつて唯一信頼していた人物――私だった。長年の友人であり、共に苦しみを抱えた同志。彼らは、言葉を交わすことが少なかったが、いつも心の奥底ではつながっていると信じていた。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて。」古澤はぼんやりとした笑みを浮かべ、私の方を見た。彼の目は赤く、疲れ切った表情だったが、その笑みはどこか快活さを装っているように見えた。
私は一瞬ためらった。彼をどう扱うべきか、どんな言葉をかけるべきか分からなかった。おそらく、彼の中で今も激しい葛藤が渦巻いているのだろう。しかし、それを解決する力は私にはなかった。
「行こう。こんな場所で座り込んでいても、何も解決しない。」私は、強引に話題を切り替えた。
「いや、解決しないのは俺の方だ。」古澤は苦笑しながら立ち上がった。「無能な俺には、解決なんてできやしないんだ。」
その言葉に私は一瞬言葉を失った。彼の無力感が私の心に重くのしかかる。私は彼を救うことができるのだろうか?彼を助けたい、そう思っているのに、その具体的な方法が見えないまま、ただ彼をアパートへと連れていこうとする。
アパートに着いた。雨に打たれた彼の濡れた衣服からは、冷たさが漂っていた。部屋に入ると、私は無言でタオルを手渡し、彼にシャワーを浴びるよう促した。古澤は無言でそれを受け取り、浴室へと消えていった。
一人になった私は、深く息を吐いた。何もかもがうまくいかないように感じる。自分自身も、彼を救いたいと思いながらも、どうしていいかわからない。道化を演じ続けている自分が、彼に対して真実を語る勇気を持てるのか、それさえも疑わしい。
数分後、浴室から出てきた古澤は、ようやく少しだけ落ち着いた様子だった。新しい服に着替え、彼はテーブルに腰掛けた。そして唐突に言った。
「なあ、俺たちは魔法使いじゃないんだよ。だから何もできやしない。それでも、誰かに認めてもらいたいんだ。」
彼は泣き笑いのような表情を浮かべていた。その言葉は軽い冗談のように聞こえたが、その裏には深い絶望が隠されていることが分かった。彼の声には、誰かに理解されたいという切実な願いが含まれていた。
「救いなんてものがあるとしたら、どこにあるんだろうな。」彼は遠くを見るように、ぽつりと呟いた。
私は、彼に何を言うべきか分からなかった。自分自身も同じ問いを抱えていたからだ。私たちはいつだって苦しい。惨めで無様で、それでも信じるものを失いたくないと思っている。しかし、その信じるものさえも曖昧だ。
「救いなんて、あるのかな?」私は反射的にそう答えてしまった。
古澤は驚いたように私を見た。そして、少しだけ笑った。
その夜、私たちは長い時間を共に過ごした。言葉少なに、ただその場にいることで、お互いの存在を確認し合うように。私たちは道化だ。誰にも認められず、誰にも理解されない存在かもしれない。でも、それでもいいのかもしれない。道化を演じながら、互いに寄り添い、どうしようもない現実の中で一瞬だけでも安らぎを見つけることができるなら。
朝になり、外は少しずつ明るくなっていく。古澤は窓の外を見つめながら、静かに呟いた。
「いつか、救いにありつけるだろうか。」
私は彼に返す言葉を見つけられなかった。
執筆の狙い
苦悩や自己欺瞞、孤独感を抱える人物たちの内面を描いています。登場人物は自分や他人の「歪み」に気づきながらも、その苦しみを表に出さず、道化のように振る舞おうとしています。語り手は友人を気にかけている一方で、自分自身も同じように苦しんでいることを自覚し、救いのない状況に無力感を抱いています。