作家でごはん!鍛練場
神楽堂

ぱしひこからまた日は昇る

 俺の名前は万次郎。
 土佐の中ノ浜で漁師見習いをしている。

 六歳で父をなくした俺は、寺子屋には行かずに家業の手伝いをしていた。
 学問というものに正直なところ、興味はあったのだが、俺が働かないと家族は食べていけない。
 そして、俺は十四歳になっていた。

 今日も仲間五人で船に乗り、サバやアジを獲りに海に出る。
 五人の中では、俺が一番年下。
 まだまだ漁については未熟な俺。
 そんな俺の仕事は、船での雑用と飯炊きだ。

 ある日のこと。
 四国の南、足摺岬沖で漁をしていた俺たちの船は、強風に煽られてどんどん東へと流されていった。
 船は、風の力と人が漕ぐ力とで進んでいくもの。
 しかし、人間の力というのは非力なものである。
 暴風に対して、俺たちは抗うことができなかったのだ。

 帆もダメになり、舵も壊れ、俺たちの船は漂流した。
 広い海の真ん中で、俺たちにできることは、ただ、死を待つことのみであった。


 夜が来て、朝が来て、また夜が来て、朝が来て……


 何日もの間、俺たちは潮と風に身を委ねて、広い海をさまよっていた……


「島だ! 島が見えるぞ!」

「幻でも見たんじゃないのか?」

「いや、違う! 本当に島だ! 見てみろよ!」

 飢餓状態の俺たちにとっては、体を起こすのも億劫だったが、わずかな望みをかけて起き上がってみた。


「間違いない……島だ……」


 船は島に乗り上げた。

 助かった……

 しかし、上陸した俺達には、さらなる試練が待ち構えていたのだった。

「誰もいない……」

 この島は無人島だったのだ。
 いたのは、たくさんのアホウドリだけ……

 しかし、島の湧き水や雨水を溜めることで、なんとか飲水は確保することができた。
 問題は食料だ。
 野生動物を食べるしかなかった。
 俺たちはアホウドリを捕まえては食べる毎日を過ごし、命をつないでいた。

* * *

 そんな生活が、五ヶ月も続いた。
 太平洋のどこにあるかも分からない、こんな無人島で俺たちの人生はこのまま終わってしまうのか……

 もはや、土佐に帰る望みなど、誰も持っていなかった。

 ある日、沖合から黒い、大きな船が近づいてくるのが見えた。
 船は明らかにこの島に向かってきている。

 助かるかもしれない!

 俺たちは期待した。
 それと同時に、大きな不安もあった。

 なにせ、今までの人生でこんな船を見たことがなかったからだ。
 大きな帆が張ってあるのは分かるが、それ以外にも長い煙突のようなものが何本も立っており、煙をたなびかせている。
 なんとも得体の知れない船だ。

 船の中に、大きなかまどでもあるのだろうか。
 それにしても大きすぎる煙突だ。


 船はこの島の沖に停泊した。
 小舟を下ろして人が降りてきた。
 俺たちは、上陸してきた人たちを見て、再び驚くのであった。
 船から降りてきた人たちは、ずいぶんと体が大きく、そして、肌の色や髪の色が薄い。
 顔の彫りは深く、そして、何より驚いたのが……

 言葉が通じない!

 これが「異人」というやつなのか?

 寺子屋にほとんど行ったことがなかった俺でも、異国というものが海の向こうにあるとは聞いていた。
 今、眼の前にいる人達、それがきっと、話に聞いていた「異人」なのであろう。

 上陸してきた異人たちは、はじめは俺たちを島の住人だと思ったようだが、俺たち以外誰も居ないこと、そして、まともな家がないことなどから、俺たちが遭難してこの島にたどり着いた漂流者であることを理解したようだった。

 言葉の通じない異人たちは、俺たちを助けることにしたようだ。

 彼らの船に乗せてくれた。
 船の乗組員たちも、俺たちのような「日本人」を見るのは初めてなのだろう。
 好奇の目でじろじろと見られ、こちらには分からない言葉であれこれと言われた。

 俺たち五人は、異人と船の中で過ごすこととなった。
 異人たちはクジラを獲りに日本の近くの海まで来ていた、ということが分かってきた。
 船の名前は、じょんはらうんど号。船長の名前は、ういりあん。
 彼らがこの島に立ち寄ったのは、何か食べるものがないか探しにきたとのことだった。

 異人の船員から海図を見せてもらった。
 Japanと書いてあるところが、どうやら俺たちの国、日本らしい。
 そして、今いる場所は江戸の遥か南だった。

 土佐から何日も風と潮に流されて、俺たちはこんなところまで漂流してきたのか……

 俺たち五人は、異人の船の中で働いた。
 俺は異国の言葉を覚えようと試みた。

 人が生きていくためには、食べ物と水が必要だ。
 水……

 やつらが水を得るときに、いつも言っている言葉があった。
 おそらく、異国の言葉では、この言葉が水を表しているのだろう。

「わら」

 この予想が当たっているのかどうか、俺は確かめてみることにした。

 異人に向かって、俺は言ってみた。

「わら」

「Water?」

 異人はしばらくすると、おわんに入った水を持ってきてくれた。

 俺の異国語が通じた!!
 異人と話ができたのだ!!
 異人とは言っても俺達と同じ人間だ。
 こうして、自分が発した言葉が異人に通じた。
 なんともいえない興奮と感動に満たされた。

 それからも、異人たちの言葉に耳を傾け、異人の言葉を覚えていった。
 俺の異国語が合っているのかどうか、どんどん異人に話しかけて確かめてみた。

 通じたり、通じなかったり……

 それを繰り返していくうちに、生活に必要な会話が少しだけできるようになった。
 「朝飯」という異国語も分かった。「ぷれくはあす」
 俺は、朝飯を食べたあと、料理をしてくれた船員に、
「ぷれくはあす!」
と言った後、最高の笑顔を見せて、朝食がおいしかったことの礼を伝えてみた。
「breakfast?」
 その船員は、俺に朝食を褒められたということがわかったようだった。
 彼は満面の笑みで、俺に手を差し出した。
 俺たちは、国と言葉の違いを超えて、固く握手し合った。

 時を表す言葉も分かってきた。
 朝は「もうねん」、晩は「いぶねん」と言うようだ。

 そして、やつらの国の名前は、「メリケン」と言うらしい。
 船はクジラ漁を終え、これからメリケンに帰るという。

 再び、海図を見せてもらった。
 この広い海の名前は、「ぱしひこ」というらしい。
 メリケンは、ぱしひこを挟んで反対側にある。
 そこに行くまでには途方もない日数がかかりそうだ。


 異国の船の仕組みには驚かされた。
 風の力、人の力に加え、もうひとつ、火の力も使って船を動かしているようだった。
 どういう原理なのかはわからなかったが、水と石炭を使っていることは分かった。
 広い「ぱしひこ」を渡り、「メリケン」から「ジャパン」の近くまで来ることができる船。
 俺たちが乗っていた漁船とは大違いだ。

 俺は、そんなやつらの|国《カンツレ》である、メリケンに大いに興味を持った。

 捕鯨船は、「ハワイ」と呼ばれる島に着いた。

 海図を見たら、ぱしひこの真ん中にある島だった。
 うぃりあん船長は、俺たちをこの島に下ろすという。
 なぜ、日本に返してくれなかったのかというと、何やらきまりで、「ジャパン」には寄港してはいけないことになっているから、とのことだった。
 江戸幕府は鎖国体制を敷いており、メリケンの船の寄港を許していなかったのだ。

 俺以外の四人は、船から降りた。
 陸地での生活ができるということで大喜びだった。
 だが、俺はこの船を降りたくなかった。

 こんな船が作れるメリケンとは、いったいどんな国なのか。
 そして、もっともっと異国の言葉を話せるようになりたい!

 俺は、うぃりあん船長に、片言の|英語《えんげるす》でお願いした。
 メリケンに行きたいと。

 俺の願いは船長に通じた。

 俺は四人の仲間と別れ、引き続き船に残り、異国であるメリケンに向かう人生を選んだ。
 船長は、|英語《えんげるす》を一生懸命覚えようとする俺のことを気に入ってくれた。
 俺は、そんな船長から言葉だけではなく、クジラの捕まえ方や、船の動かし方も教えてもらった。
 寺子屋に通ったことのなかった俺は、この歳にして、学ぶことの喜びを知ったのだった。
 捕鯨船の乗組員たちとも仲良くなった。
 彼らは俺のことを、「じょんまん」と呼んだ。
 じょんはらうんど号に乗り込んだ万次郎、という意味らしい。

 船はマサチューセッツの港に着いた。
 俺はメリケンに上陸を果たした。
 そして、異国の地での生活が始まったのだった。

 船長は、俺を養子にしてくれた。
 そして、学校にも通わせてくれた。
 そのおかげで、俺はだいぶん、|英語《えんげるす》を話せるようになった。
 日本にいたときは、ろくに寺子屋にも通っていなかったので、読み書きもたいしてできなかった俺だったが、今では異国の言葉を読んだり書いたりできるようになった。
 そして、俺が学んだのは、英語だけではない。

 学校では、いろんなことを教えてくれた。
 数学、測量、航海術、造船技術……
 俺は勉強が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
 船長も、そんな俺の頑張りを見て、いつも喜んでくれていた。
 俺は、ついにアカデミーの主席となった。

 東洋から来た|黄色い猿《ヤロマンキ》が学校で一番の成績を収めた。
 これは、メリケンの子どもたちから見れば、とても悔しいことのようだった。
 俺はいつも、その容姿をバカにされ続けてきた。
 しかし、船長とその家族は、いつだって俺の味方であった。

 メリケンでは多くを学ばせてもらった。
 ずっとこのまま、異国で暮らしてもよい、とさえも思った。

 しかし、ハワイで別れた仲間たちのことも気になってきた。
 いつか、ハワイに行って仲間たちと再会したい。
 そう思ったが、さすがに私情でハワイに行かせてもらうわけにも行かなかった。
 海を渡るにはお金が必要だ。
 俺は、金が掘れるというサンフランシスコへと向かった。
 ゴールドラッシュと言って、多くの若者が金山で働いていたのだった。
 俺も、その中に混じって、数カ月間、金を掘る仕事をした。

 600ドル稼いだ俺は、仲間と再会するためにハワイに渡ることにした。
 ただ、養父ういりあん船長との別れは寂しかった。
 太平洋で拾ってきた異国人で、かつ、有色人種である俺を育て、高度な教育を受けさせたうぃりあん船長は、今やマサチューセッツの名士となっていた。
 後日知ったことなのだが、うぃりあん船長はその後、州の議員となったそうだ。

 俺は稼いだ金でハワイに渡った。
 かつての漁師仲間との再会を果たすことができたのだ。
 しかし、残念なことに一人は病で亡くなっていた。

 日本に帰ろう。

 俺たち四人は、日本への帰国を考えた。
 しかし、一人は日本に帰らず、ハワイに残ると言い出した。
 さみしい気もするが、やつにはやつの人生がある。
 メリケンは一人一人の思いがたいせつにされる国だ。
 それに習い、俺たちもやつの気持ちを尊重することにした。

 日本への帰国作戦は、三人で行うことにした。

 ちょうど、支那行きの商船が出るという。

 支那なら日本に近い!
 俺はまず、小舟を購入した。
 支那に近づいたら、商船からその小舟にこっそり乗り換えて、日本への上陸を図るのだ。

 俺は買った舟に「アドベンチャー号」と銘打ち、支那行きの商船に乗せた。
 アドベンチャーという言葉は、まさに俺の人生そのもの。
 こうして、俺たち三人は商船に乗り込み、日本への帰国を目指すことにした。

 商船は、ぱしひこを西へ西へと進んでいく。支那の上海へと向かっている。
 途中、船は琉球の島の間を通る。
 ここがチャンス!
 俺たち三人は、琉球に近づいたのを確認し、商船からアドベンチャー号を降ろし、乗り換えた。

 アドベンチャー号は手漕ぎ舟。
 俺たち三人は無我夢中で漕ぎ続けた。

 そして、ついに俺たちは琉球王国への上陸を果たしたのだった。

 舟から降りた俺たちは、すぐに捕まった。

 幕府は、異国に行った者の帰国を認めてないからだ。
 琉球王国は、薩摩藩の支配下にある。
 よって、俺たちは罪人として薩摩藩へと送られることとなった。

 薩摩藩の殿様は、|島津斉彬《しまづなりあきら》。
 開明的な大名として知られている。
 勝海舟や伊藤博文も、斉彬公の英明さには感服していた。

 俺は、メリケンから持ち帰った、日本にはない数々の文明品を斉彬公に見せた。
 また、俺はメリケンの学校で教育を受けていた。
 天文学や測量、造船技術、そして、何より異国の言葉を使えた俺は、幕府にとってかなり重宝する存在だと判断されたようだった。

 漁民だった俺は、なんと、故郷である土佐藩の武士になった。
 漁民から武士になった例はほとんどないとのこと。

 そして、異国帰りの俺が、ついに得意の英語を使って活躍する時がきたのだった。
 俺は土佐の藩校で、英語を教える仕事に就いた。
 俺が教えた生徒の中では、後藤象二郎と岩崎弥太郎が、群をぬいて成績が良かった。
 後藤象二郎は後に政治家となり、岩崎弥太郎は後に三菱という大きな企業を立ち上げた。

 浦賀にメリケン海軍の提督「ペルリ」という者がやってきて、幕府に開国を要求したとのこと。
 確かにメリケンは、日本の近くまでやってきて、捕鯨をさかんに行っている。
 俺が今、こうして生きていられるのも、あの時、メリケンの船が日本の近くに来ていたからだった。
 メリケンの捕鯨船は、広いぱしひこを渡ってやってくるので、水や薪などの補給が必要となる。
 そのため、日本に港を開いてもらい、メリケンの捕鯨船が寄港できるようにしてほしいとのことであった。

 俺は、メリケンの捕鯨船に命を助けられた身だ。
 そして、船長の好意でメリケンにも渡らせてもらい、日本では学べないようなことをたくさん学ばせてもらった。
 あのとき、日本が開国していれば、俺たちはすぐに日本に帰れたかもしれない。
 もっとも、俺の場合は日本に帰れなかったからこそ、英語やさまざまな学問を学ぶことができたわけだが。

 俺は思った。
 日本は早く開国するべきだ。
 そして、進んだ技術や考え方を取り入れるべきだ。

 しかし、世間では鎖国を続けるべきだという声も根強かった。
 「攘夷」といって、外国船を打ち払い、鎖国を守り続けようという勢力もあり、開国派との争いが絶えず続いていたのだ。

 幕府は、ペルリと交渉するために英語が話せる人材を欲していた。
 土佐にメリケン帰りの者がいると聞きつけた幕府は、さっそく俺を江戸に招いたのだった。
 そして、俺は幕府お抱えの通訳となった。
 俺は、武士の中でも「旗本」という身分になった。
 また、苗字も与えられた。
 土佐の中ノ濱出身なので、俺の苗字は「中濱」となった。

 さっそく、英会話の本の執筆に取り掛かった。
 また、英語を話せるようになりたいという志士たちへの、英語教育も始めた。
 エンゲルスの文字であるアルファベットを覚えるのに適した歌がある。
 メリケンの子供たちが歌っていた『ABCの歌』だ。
 この歌を日本で広めてみたところ、覚えやすいと大好評であった。

 ある日、俺は物陰から彼方を振りかざしてきた暴漢に斬りつけられた。
 とっさに仕込み杖で反撃したところ、暴漢は、
「メリケンの犬め!」
と叫んで逃げていった。
 俺は尊王攘夷派から命を狙われることが多いので、仕込み杖の他に、メリケンから持ち帰った拳銃も持ち歩くことにした。

 安政元年、幕府は再びやってくるペルリに対し、開国するかどうかの返事をすることとなった。
 日本は鎖国をしているが、|阿蘭陀《オランダ》との貿易は続けていた。
 そのため、幕府には既に、阿蘭陀語の通訳はいた。
 一方、英語の通訳は俺だけ。
 ペルリとの交渉での通訳は、当然、俺に任されるのだと思っていた。

 しかし、俺は濡れ衣を着せられた。

 阿蘭陀語の通訳をしていたやつが、俺のことを「ペルリが送り込んだ密偵」だと報告したのだった。
 昔からいた阿蘭陀語の通訳たちは、突然現れた俺に通訳の手柄を取られるのを恐れたのだろう。

 こうして、俺は謀略にはまってしまい、ペルリとの交渉の通訳から外されてしまったのだった……
 もちろん、俺は密偵などではない。
 幕府は伏魔殿だった。

 日米和親条約締結の通訳にはなれなかったが、俺の船に関する知識はその後も重宝された。
 なにせ、数カ月間、船上で生活した経験があるからだ。

 俺は、勝海舟や福沢諭吉らと共に、|咸臨丸《かんりんまる》に乗って、西欧に派遣されることとなった。

 咸臨丸は、俺たちを乗せて東へ東へと進んでいく。
 俺は、夜明け前の海を見つめていた。

 太平洋の水平線が、だんだんと明るくなっていく。

 海の向こうから眩しい太陽が昇ってくる。


 日本も夜明けを迎えるだろう。

 異国に向かう船の中で、俺はそう思った。



< 了 >

ぱしひこからまた日は昇る

執筆の狙い

作者 神楽堂
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約6500字。幕末から明治にかけて活躍した中濱万次郎の伝記です。

コメント

茅場義彦
160.140.5.103.wi-fi.wi2.ne.jp

うーーーーん
薄いっすね ウィキ情報っぽい。。。

もっとジャンル絞って やればどうすか

色んなジャンルに挑戦されてますGA
医療モノGA むいてそう

西山鷹志
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拝読いたしました。

ジョン万次郎は世に知られた人物ですが
生い立ちまで知りませんでした。

遭難から始まり無人島暮らし、運よくアメリカの捕鯨船に拾われアメリカに渡る。
万次郎の凄いところは異国語を覚えようと努力したことです
これにより万次郎の人生は大きく変わりました。
言葉が分かれば意思の疎通が開け、のちに船長の養子になり学校まで入れた貰う事に
やがて日本に帰国して通訳から武士になる。漁師の息子が武士になったのたから異例の出世です。やが英語を教える教師になり、その生徒の中に岩崎弥太郎が居たとは……
岩崎弥太郎と言ったら三菱財閥を築いた人物。
ここには書かれて居ませんが、万次郎は恩人の船長と再会を果たしてましたね。

歴史とは面白いものですが、一人の人物に絞った武勇伝も面白いですね。
勉強になり楽しませて貰いました。

神楽堂
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>西山鷹志さん

お読みいただきましてありがとうございます。
私が万次郎について調べて思ったことは、天才のもつ才能は、環境によって開花するのだということです。
外国語習得能力だけではなく、他の学問もものすごい勢いで習得していき、船長に見込まれて学校まで通わせてくれるわけですが、万次郎がただの漁師で終わっていたら、彼の才能は開花しなかったように思います。
漁船が遭難したのは大事故ではありますが、おかげでアメリカに渡ることができ、当時の高度な学問を習得できたのですから、人生塞翁が馬ですよね^^;
万次郎の子孫と、船長の子孫は今でも交流しているそうですよ。
開国前からの日米交流、スケールの大きい話だと思います。
おっしゃる通り、万次郎は船長と再会していますが、結局のところ、このお話の落とし所をどうするのかは正直迷いました。
淡々と人生をたどって死ぬまでを書いても良かったのですが、それだと資料を読めば分かることですし、万次郎のお話はいろんな作者さんが取り上げていて、かぶってしまうかなと。
私としては、万次郎が咸臨丸に乗って太平洋を日の出の方向である東へと進み、それと日本の夜明けとをかける感じで終わらせてみました。

>歴史とは面白いものですが、一人の人物に絞った武勇伝も面白いですね。

私もそう思います。
西山鷹志さんが楽しく本作品を読んでいただけたようで、とても嬉しく思います。
このたびはお読みいただきまして、また、感想もお寄せくださいまして本当にありがとうございました。

神楽堂
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>茅場義彦さん

お読みいただきましてありがとうございます。
ウィキっぽいというご指摘は、そのとおりだと私も思います。
最近のマイブームは、歴史の一部分を数千字の短編で表すことで、おそらくは次回作もこんな感じのものをアップする予定です。

医療モノがむいていそうとのことで、
これはこのサイトで過去にアップした「麻酔」のことでしょうか。
あと、薬剤師モノも過去にアップしました。
お褒めいただきましてありがとうございます。
医療モノ、別作品をこのサイトでいずれはアップしますので、
それまで気長にお待ちいただければと思います。

お読みいただき、感想も書いてくださいましてありがとうございました。

夜の雨
ai225219.d.west.v6connect.net

「ぱしひこからまた日は昇る」読みました。

「幕末から明治にかけて活躍した中濱万次郎の伝記です。」ということですが、要約したという感じですね、「約6500字。」でまとめているので。

内容はよくわかりましたが。
中濱万次郎が漁業で海に出ているときに遭難して無人島に上陸していたところアメリカの捕鯨船に助けてもらいアメリカにわたり教育を受けて、日本へ帰ってくるというエピソードから日本での活躍などがしっかりと抑えられていると思いました。
6500字ほどで人間性も含めて万次郎のことをここまでまとめることができるのはさすがです。
御作の良いところは、万次郎がどういったいきさつでアメリカへわたり日本へ帰還後の活躍なども描くだけではなくて、「うぃりあん船長」との交流などから彼に気に入られて養子になるなど、人間ドラマも抑えているところがよかった。

6500字というと原稿用紙にすると詰めて(16枚)書かないので20枚ぐらいかなと思いますが。
細部のエピソードを書いて小説らしくするなら100枚ぐらいになるかなと思いました。

それでも楽しく御作を読み進めることができました。


お疲れさまでした。

sp1-75-213-43.msb.spmode.ne.jp

果たして万次郎は己の半生を誰に語っているのですか?
その設定が無いため残念な読みものになっています。
人称の表示も「俺」で適切なのでしょうか。語っている時点の年齢に見合っていますか? 「私」の方が適切では?

――――

薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリシタンでないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能に等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』(ひょうそんきりゃく)を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰り、母と再会することができた。

――――Wikipediaより

とありますので、書き出しとしては、晩年のある場面(エピソード)を抜き取り、聞き手を設定してから語りだすという場面がほしいところです。

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聞き手を設定してから語りだすという場面

語りだすという「描写」ですね。
失礼しました。

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あとねこれは一応、一人称の回想録ですよねぇ。
文章がめちゃくちゃなんですが、神楽堂さんは読み返して気がつきませんか?

神楽堂
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>凪さん

お読みいただきましてありがとうございました。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

>夜の雨さん

お読みいただきましてありがとうございます。
おっしゃるとおり、彼の人生を要約してみました。
船長とのやり取りにも気を留めてくださり感謝です。
夜の雨さんは楽しく読み勧めることができたということで
作者である私とてしても、書いてよかったと思いました。
コメントありがとうございました。

小泉後次郎
202-231-88-167.east.ap.gmo-isp.jp

 神楽堂さん、読みました。

 なかなか読ませてくれるのですが、作者様は万次郎の人生を通じて何を伝えたかったのでしょうか?

 彼の人となりはそもそも着眼していなかったのですよね。伝記と書かれてあるので、人生を辿る、ということですかね、おそらく。うまく要約して出来事をきちんと記するのが目的なのですよね。技術は何のためにあるのだろうということを思いました。批判するつもりはまったくないのですが、AIが書く小説っぽいなと正直思いました。

神楽堂
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>小泉後次郎さん

お読みいただきましてありがとうございます。
出来事を記すために書いたと言うよりは、
万次郎の波乱に富んだ人生を文章という形で読者に分かりやすく伝えたい、という感じです。
小説の形態には正直なところ、私は関心がなく^^;
要約のようでもAIのようでもいいと思っています。
読者が楽しく読んでもらえれば、私にとってはそれでいいんですよね^^;
コメントを入れてくださいましてありがとうございました。

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