河川敷
「明日の晩ごはんどうするん?」
有希は小さな声でそう言った。目はテーブルのスマホからそらさない。
「適当に、ペヤングとか」
買い換えたばかりのテレビでは、お笑いタレントが人気店の看板メニューを紹介している。うまそうではあるけれども、わざわざ食べに行きたいとも思はない。最近は、外食自体ほとんどしない。
「カップ麺? 珍しくない? もう少しましなの作ってくよ」
しきりに何かを入力しながら彼女が言う。爪がスマホの画面に当たってコツコツと音を立てている。
「いいよ気にしなくて。みんなで会うのなんて久しぶりじゃん。楽しんできな」
「それがな、ナオが急にこられへんようになったって」
有希がようやく顔を上げた。心をスマホの中に置きざりにしてきたような、うつろな表情だ。
「妊娠だって。二人目」
「そう」
体格の良い芸人がテレビの向こうで、手の込んだ料理を頬張りながら、満面の笑みで「うんまい!」と叫ぶ。
「陽くんは明日も走りに行くん? 仕事お休みだよね」
「ああ、たぶん夕方から、有希が出かけた後に」
彼女はスマホに視線を戻す。学生時代の友人にお祝いのメッセージを送っているのか、それとも店の予約人数を変更しようとしているのか、彼女の指の動きと青白い顔からは窺い知れない。
「何がそんなに楽しいんやろね。運動するだけで、ろくにご飯も食べへんし」
彼女はまた、こちらを見ずにつぶやいた。
「前から言ってるじゃん。ファットアダプテーション。おかげでこの年でも体脂肪率十パーよ」
「そんなん聞いてへんよ」
ようやく重要な連絡をし終えたのか、有希はスマホの画面を消すと、「先寝るね」と言って立ち上がった。
間延びした足音に続いて、寝室のドアがガチャリと閉まるのを聞いてから、リモコンでテレビをユーチューブに切り替える。
確かにここ数年、食事らしい食事をするのは昼飯の弁当だけだ。夜は少量のおかずで毎晩酒を飲む。朝は何も食べない。このルーティンのおかげで、三十路を大きく越した今でも若い頃と変わらない体型をキープしている。たぶん脂肪の燃焼効率が向上していて、マラソンのタイムも縮んだ。
ただそのことに有希は不満気だ。「何もそうまでしなくても、運動選手じゃないんやから」とよくこぼす。まだ二十歳代の彼女には、いくら説明したところできっとこの気持はわかるまい。下腹が出るとか絶望でしかないのに。
テレビには白黒の静止画像と『Omie Wise』の古い音源が流れている。実際に起きた事件を題材にした曲で、ナオミ•ワイズは恋人に妊娠したことを告げると、殺されて死体は川に投げ込まれたのだという。
この手のトラッド•ミュージックが、酒を飲む時の最近のお気に入りだ。有希には「地味でつまらない」と嫌がられるが。だらだらと飲んでいたら、先日封を切ったばかりのオールドクロウはいつのまにか残りわずかになっていた。
護岸工事の現場の前で、黒人のガードマンが気怠そうに誘導灯を振っている。その先の横断歩道を渡り、川沿いの遊歩道から左手にスロープを下ると、河川敷に出る。ここまでで既に全身汗だくだ。走るスピードをゆるめ、腰のボトルポーチからポカリを抜いて口にふくんだ。
サングラス越しの視界の右側は、堤防の斜面を背の高い雑草が覆い尽くしていて、その上からオレンジ色の夕陽が降り注いでいる。左側は背の低い草むらの向こうに、川がゆったりと流れていた。その間を真っ直ぐに走るコンクリートの歩道には、左右から草が覆いかぶさり、人がようやくすれ違える程度の道幅しかない。
谷底のような河川敷から堤防の上に戻るには、三キロ向こうのスロープまで行く必要がある。その間は、ほぼ直線で平坦な道のりで、頭上には何本か橋がかかっている。
長く伸びた自分の影の先端に視線を固定して走っていると、虫の鳴き声ばかりが耳につき、川のせせらぎも自分の呼吸音すらも聞こえてこない。川面には、ときおり排水溝から吐き出されてくる大量の水が、白いあぶくを撒き散らしている。
足元の草むらから、人の気配に驚いたバッタやトンボがしきりに飛び上がって逃げ惑う。
虫の声に紛れどこからか、寂しげな旋律が聞こえてきたが、それは気のせいかもしれない。橋の下で楽器の練習をしている人はたまに見かけるが、陽が傾いているとはいえこの暑さでは、さすがに今はいないだろう。
手の甲で汗をぬぐうと、左手首のGPSウォッチが振動してラップタイムを知らせてくる。呼吸の苦しさほどにはタイムは伸びない。この時期は仕方ない、そう自分に言い聞かせた瞬間に耳元で空気が低く唸り、大きなスズメバチが背後から頬を掠めて飛び去った。
その行方を目で追うと、少し先の雑草がひときわ高く茂った辺りを、黒いチョウが十匹あまりひらひらと舞っている。そこにクロサギが二羽舞い降りてくる。上空を何匹ものトンボが各々でたらめな方角に飛び回り、地面近くをバッタが滑空する。まるでその一隅だけ、川岸に生息する生物の見本市のような様相を呈している。さらに近づくと足元のコンクリートの上を、紫にきらめく数匹のトカゲが逃げていった。
こんな光景は初めてだった。この夏はいつにも増して河川敷を走っているのに。それとも普段は目にはしていても意識していなかっただけなのか。
いつだったか、ネットのニュースを見ていた有希の言葉を思い出した。
「なんや灰尾川のずっと上流のほうで人の骨が発見されたんやて。それも片腕分だけ。怖いなあ。ほんで残りはどこいったんやろ」
もしその死体の残りが遥か下流のここまで流れ着いていれば、今ごろ周りにはあんなふうに虫や鳥が集っているのかもしれない。
再びGPSウォッチが振動した。相変わらずのラップタイムと呼吸の苦しさだ。こんな日に走っていること自体が間違いか。そういえば今日は河川敷に降りてからここまで、ランナーはおろかウォーキング中の人すら見かけていない。堤防の上の遊歩道には、ほかにも誰かいるのかもしれないが、急な斜面と草むらに遮られてその姿は見えない。
少し先に橋があって、その下の影になった部分に何かがいるのが、ぼんやりと見えてきた。今日、最初の人影だ。さすがに楽器の練習ではないだろう、そんなことを考えていたら、やがて赤いワンピースを着た長髪の女性が、暗がりに佇んでいるのだとわかった。
こんな日に何をしているのか気になったものの、変に警戒されるのも嫌だなと、なるべく見ないで通り過ぎようとしたが、なぜか執拗な視線を感じて一瞬だけそちらに顔を向ける。
下腹が大きく突き出したその女性の顔は、影になっていてよく見えなかった。ただその頭部全体から、炭が燃える時のような真っ黒な煙がぶすぶすと立ち昇っていた。
悪寒が走る。それを目にしたのはほんの一瞬だった。きっと何かの見間違いだ。そう思っても、振り返って確かめる気にはどうしてもなれなかった。
本日二度目のシャワーは二人で一緒に浴びて、それからようやくベッドに横になる。ランニングで少し無理をしたせいか、太ももの裏からふくらはぎにかけて、鈍いだるさが残っている。
「みんな、陽くんに会ってみたいって」
ベッドのうえに横座りをした、パジャマ姿の有希が言った。ショートヘアーの水気をタオルでぬぐっている。もうアルコールは抜けたらしい。
「コロナのせいで式もまだ挙げられてへんし」
「俺は別に会いたくないよ」
枕にアゴをうずめ、スマホで「灰尾川」に関するニュースを検索しながら返事をする。
「大丈夫よ。誰もすごいイケオジがくるなんて思うてへんよ。マラソンしてる言うたら、『どうせこげ茶色の瘦せたおっさんやろ』やて」
思わず苦笑いして、右手を伸ばし有希の膝に置いた。
「あとな、言われたんやけどマラソンし過ぎると精子の質が低下するんやて」
……まただ。どうして気分の良いまま寝かせてはくれないのだろう。子どものことなんて正直まだ考えたくもないのに。
「月に百キロとか超えたらあかんらしいよ」
「そんなことあるか。隆のとこだって子ども三人もいるし。あいつは毎月三百キロ以上走ってる」
女性同士の会話なんてどうせ誰かの受け売りで、根拠もいい加減に決まってる。
「絶対できへんとは誰も言うてないよ。ただもうちょっと気にかけてくれてもいいのになって」
「寝よ寝よ」
それだけ言って仰向けになるとタオルケットを腹まで引き上げた。
「陽くんは子どもほしないの? 食事だって少なすぎやし、お酒だって」
今日も疲れてるけどやることはちゃんとやったじゃん、とは口に出さずに黙って目を閉じる。頭の中に河川敷で見た女の真っ黒な顔が浮かび上がってくる。
「聞いてへんの」
それでも黙っているとベッドがどすんと揺れ、彼女が乱暴に横になったのがわかった。すぐに部屋の灯りが消える。
「ほんまにしばらく走りに行ったりとかせんほうがええよ。まるで何かに憑りつかれているみたいやで、さいきん特に。痩せすぎて気持ち悪いし、目つきもへんや」
その後も何かぶつぶつ言っていたのが、ようやく言葉がとぎれたと思ったら、やがて寝息が聞こえてきた。
さっきの検索の結果が気になって、うつぶせの体勢に戻ると暗闇の中で再びスマホを取り上げた。
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河原に女性の腕の骨
一部燃された痕跡も
今月15日に、K県西部を流れる灰尾川の上流域で、成人女性のものとみられる骨の一部が見つかった。K県警が発表した。骨は右の上腕骨で、一部炭化しており、何者かに火をつけられた可能性があるという。近隣住民が飼い犬の散歩途中に発見した。
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一人分のコーヒーを淹れMCTオイルを垂らして飲みほすと、すぐにランニングウエアに着替えた。寝室の外から有紀に「行ってくる」とだけ声をかけて家を出る。まだ午前中なのに皮膚が痛いほどに暑い。
昨日の今日で川沿いのコースは確かに薄気味悪いのだが、かといって国道沿いのルートはアップダウンがきつくてこの時期に走るのには向いてない。
たとえ昨日と同じコースでも、河川敷ではなく堤防の上の遊歩道を走ればまあ問題はないよな、そう考えて走り始める。半ば意地にもなっていた。
護岸工事の現場を過ぎ、まっすぐ歩行者優先の遊歩道に進もうとすると、赤い三角コーンと「工事中」の立て看板に行手を遮られた。昨日までは普通に通れたはずなのに。看板の前でしばらく躊躇していたら、背後から犬の唸り声が聞こえてくる。振り返ると、真っ黒な大型犬が数メートル先でこちらをじっと睨んでいた。周囲に飼い主らしき人影はない。犬の首からだらりと垂れたオレンジ色のリードは、前足の辺りに蛇のごとくとぐろを巻いていた。
鼓動が早まる。子どものころから犬は苦手だ。一歩後ろにさがったところで、そいつが体勢を低くしたと思うと突然、鋭く吠えた。全身に緊張が走ったが、それでもどうにか目を逸らさず、息を殺してさらに後ずさる。犬は苛立った様子で、前足で地面をかき、涎を垂らしながら看板の前をうろうろと歩きまわる。その様子にいっそう恐怖感が増す。刺激しないようゆっくりと移動を続け、どうにかそいつの姿が見えないところまできて、ほっと息をついた。気づくと河川敷に立っていた。
まだ犬のいるはずの坂の上を眺め、少し躊躇してから覚悟を決めると、そのまま三キロ先のスロープを目指して走り始めた。昨日のあれは、きっと何かの見間違いだ。
前方の橋の上から男性が身を乗り出し、川に釣り糸を垂れている。足元には大きな犬がうずくまっていた。強烈な陽射しを背にして表情まではわからない。ただ恰幅の良いところが義父に似たその男性は、こちらをじっとにらんでいるような気がした。
足元を見るとコンクリートの上に点々と、子どもがびしょ濡れの靴で歩いたような、ちいさな足跡が続いていた。人影はない。不安を感じながらもその後を追うように走り続けると、逆に足跡は逃げるように先へ先へと延びていき、やがて左手の草むらに入り込み、それからぱしゃりと水音がした。その瞬間にクロサギが舞い上がり、馬鹿でかいカエルが足元に飛びだしてきた。「うおっ」と叫び、とっさにジャンプして避けると、どうにか立ち止まらずに走り続けた。耳の中で血管がはげしく脈打つのがわかる。
憑りつかれているみたいだってよ。ちくしょう。ちくしょう。カエルごときに驚いた自分にも腹が立つ。
ふいに辺りが暗くなった。見上げると、夏の苛烈な太陽を黒い雲のかたまりが飲み込もうとしていた。天気がやばいか。その矢先に、はるか前方にぽつんと人影が見え、少しほっとする。どうやら向こうもランニングをしているらしい。それにしては動きがどこかぎこちないが。
やがて上下真っ白なウエアを着た女性ランナーの姿が、薄暗い景色のなかに浮かび上がった。その姿がきらきらと揺れながら徐々に大きくなってくる。
お互いの様子がはっきりと見えるくらいの距離まで近づいたタイミングで、大地に向かって一気に垂れ下がり始めた灰色の雲をあらためて見上げ、それから正面に視線を戻して、息をのむ。女の両肩の先には、何もついていない。両腕がないのだ。彼女はそれでも腕のない上半身をたくみにくねらせながら、大きなストライドでぐんぐん近づいてくる。
キャップを浅く被ったその顔の、見開いた両目はまるで白い肉の塊で、口元は苦し気に歪んでいる。
ふいに魚の腐ったような強烈な臭いがして、すれ違いざまに女の上半身があり得ない方向にぐにゃりと折れまがり、そのまま地面にどさっと落ちた。
背後から「ぎゃーっ」と鳥が泣くような悲鳴が上がる。決して後ろを振り返らずに、ただ逃げるように全速力で走り続ける。
辺りが少し明るくなったかと思うと、大鍋の底が抜けたように雨が一気に降り出した。経験したことがないほどの激しさで、視界は白く霞み、むき出しの腕や肢に当たる雨粒が痛い。川面は大きな魚の群れがばしゃばしゃと跳ねるように水しぶきをあげた。
雨の勢いに呼吸がさらに浅くなる。シャツとハーフパンツが体にペッタリと張り付く。フォームはきっとばらばらだ。
堤防の上に点々と設置された黄色い警告灯が、一斉に点灯した。かすかにサイレンも聞こえてくる。急な増水の合図だ。
とにかく早くここを抜け出さないと。そう思ってがむしゃらに臀部に力を込めても、思うようにスピードが上がらない。子どもの悪夢さながらに、足が地面から浮き上がり空回りするようなもどかしさだ。
川の水嵩はぐんと増して、既に足元まで浸し始めている。もう限界だ。気力が尽きかけたところで、雨に煙った風景の奥に、ようやくスロープが見えてきた。その手前に橋が架かっていて、橋の上に傘をさした人影も見える。顔まではわからなかったが、鮮やかな赤い傘には明らかに見覚えがあった。
「有希!」
雨音で声がかき消される。どうしてこんなところに。心配して車で追いかけて来てくれたのか。
必死でスロープまでたどり着くと坂を駆け登り、息を切らせながら橋の方を振り向いたが、そこに人影はない。
「有希!」
再び叫んでからさっきまで彼女がいた辺りに駆け寄って、欄干から身を乗り出し橋の下を覗き込む。開いたままの真っ赤な傘が波にあおられ大きく揺れている。どこかで犬が吠えている。
それまではげしくしぶきを上げていた水面がふいに静まり返り、上空から淡い光が差し込む。暗い流れの奥底から、長い髪を振り乱した女がこちらをじっと見つめている。
――有希じゃない。
そう思った瞬間に、誰かがどんと背中を押した。一瞬ふわりと浮き上がるような感覚があってから、体がずるりと滑り落ちるのがわかった。
おわり
執筆の狙い
以前に投稿したホラー風のやつが、お話が他人事で怖くないとの指摘をたくさん受けたので、今回は主人公が巻き込まれる臨場感みたいなのを目指しました(続きではない全然別のお話です)。
6000文字くらい。
どうぞよろしくお願いします。