回送電車(11186文字)
「あ」
俺がやっとの思いで発したその声は、その男が開いた口の形と重なった気がして、
「許される訳がないですよ」
途端に、バチン、と視界は闇に吞まれた。
「間もなく もつひ さかです。乗り換えの方は、」
間延びしたアナウンスが耳に響くと同時、不意に身体が揺れた。ゴツ。という鈍い音がアナウンスを遮って頭から響き、その痛みで今度ははっきりと目を覚ます。
「っでぇな」
はっと前を向くと、正面の窓ガラスに冴えない中年男性の姿を見た。脚は寝ているうちに外へ広がり、ジャケットはでろりとはだけている。カッターシャツに覆われた下っ腹は、ぶよっと前に突き出ており蛙の腹のようでいてみっともない。ふと恥ずかしくなって辺りを見渡したが、幸いにも車両内は他に人影がない。先程自分がぶつかったであろうスタンションポールを掴み、シートに預けていた上半身を無理矢理引き起こす。その拍子、スーツの袖に赤黒いものが染みついているのが目に入った。
血だ。
ぎょっとして、咄嗟に鼻に手をあてた。頭をぶつけた事で鼻血が出たのか。
しかし鼻の下に沿わせた指先はどこも汚れておらず、ぎとぎとした脂が鈍く光っているのみだ。頭痛はするものの、出血を伴うような怪我は身体の何処にも見当たらず、激しく痛む箇所もない。では、この赤黒いのは何だろうか。というか、
「……ぁんだここ」
呂律の回らない舌。自らの口から出た息がやけに酸っぱく甘ったるい。頬の熱が冷めず、頭がぼうっとする。天井の広告紙にある「泥酔時 覚えてなくても 罪は罪」という啓発文が何となく目に留まり、そういえばついさっきまで同僚と酒の席にいたのだった、と思い出す。そうだ。俺は。断続的に浮かび上がる記憶をたどって、それでもどうして自分がここにいるのかを思い出せない。こんなに酷い酔い方をするなんて学生時代以来だ、そう自分を叱咤し、ふらふらの足取りで立ち上がる。
今日は会社の打ち上げだった。
街の喧騒に紛れ、雑居ビルの隅にひっそりと佇む広告代理店。受注件数は一年を通せば多くも無ければ少なくも無いという塩梅だが、まれに大手企業からの依頼を受ける時もある。さあ、と意気込むと残業が連日に及ぶのは当たり前となるが、今日は納期納めの祝賀会であった。ここ数週間の激務に耐えた身体に、久方振りの酒は骨髄まで染みた。気が大きくなり二次会では部下を引き連れて繁華街を往来したが、それ以降の事を思い出そうとすればぷっつり記憶が途切れ、何もかもが真っ白になる。袖の凝固した血の事も含めて、だ。
「参ったなぁ……」
ガタンゴトンと小刻みに揺れながら、もう一度辺りを見やる。がらんとした、不愛想に互いを睨み合うロングシート。真っ黒に塗りたくられた車窓からの眺め。時折、振動と整風板からの微風により吊手が僅かに揺られるのがどことなく不気味だった。
まるで、見えない何かが持ち手を握っているような。そんな馬鹿げた想像が頭をかすめ、ふるふるとかぶりを振る。単に深夜で乗客がいないだけだ。もしかしたら終電間際か、終電時そのものか。
そうだ。終電。
半ば反射的に内ポケットに手を突っ込み、携帯を探す。時間を確認しようと思った。それに、離れ離れになった部下から所在確認の着信やメッセージが来ているかもしれない。
が、指先はざらざらとした生地の感触を掻くばかりで、肝心の物はどこにも見当たらない。さあっと顔から血の気が引く。
「……ない」
携帯どころか、鞄すら。
愕然としながらも、泥酔時に窃盗に遭ったなど信じられない自分がまだどこかにいる。
部下が手持ちで保管してくれている。或いは、この電車のどこかに部下の誰かがいるのではないか。我ながら随分都合のいい期待だとは思うが……どうだろうか。二日酔いに加え、電車の振動で足元をよろめかせながら、広々とした通路を歩く。見覚えがない空間。という訳では決してない。
いつもこの電車に乗って通勤しているというのに、人がいないだけで普段と全く違って見えるから不思議だ。ただ、今自分は何両目に乗っているのか。通勤の時は大体真ん中の車両――確か五両編成だったから三両目に乗るようにしている。自宅の最寄り駅も職場の最寄り駅も改札に繋がる階段がホームの真ん中にあり、かつ、通勤電車の三両目が止まる位置も階段付近となる。したがって、三両目の車両に乗車すれば、降車した時にスムーズに階段からホームへ上ることができるのだ。
ところが、振り返ると車両の先端に無人の運転台がある。更に、ガラス越しには標識灯が照らす小さな範囲の中、延々と連なる枕木がストロボじみた速さで浮き上がっては遠ざかっていくのが見えた。ということは、ここは、最後尾の車両だ。
「……おかしいな」
飲み会は職場最寄りにある焼き肉屋で行われた。二次会に向かおうと練り歩いたのも近辺の繁華街だ。つまり、酔っぱらって記憶が無いとはいえ、この電車に乗ったのなら職場の最寄り駅を利用していた可能性が高い。乗るなら三両目だ。ならば、どうして俺はわざわざ最後尾の……五両目の車両で眠っていたのだ。
ガタンゴトン。
僅かに車体が上下した。何とも妙な気分だ。まだ酔いが残っているのか、少し頭痛がする。平衡感覚も完全に戻ってはいない。それでも、足元をよろめかせながら前へ進み続ける。
ここに居続けたくない。
何となく、そう思った。いや、ゆらゆら吊手が揺れているのを気味悪く感じただけだ。
しかし、それは車体の揺れと整風板からの微風によるものだ。単なる慣性の法則。物理的現象。終電の車内が閑散となるのと同じくらいに極々当たり前のことだ。何を怯える必要があるのか。
きっと、この先の車両で部下の何人かが俺を待っていて、この顔を見た瞬間「どこに行ってたんですか、もう」と、いじりながら迎え入れてくれるに違いない。
いや、むしろ向こうから俺を探しに来ているのかも。そんな事を考えながら五両目から四両目に繋がる連結部の扉を開いて、中に入る。革靴はがしゃりと鉄板を踏みつけたが、丁度電車はカーブに差し掛かったらしい。ぐにゃりと足元がぐらつき、そのあまりの不安定さに前につんのめった。咄嗟に向かいの扉にしがみつき転倒は免れたものの、一メートルあるかないかの通路は巨大なアコーディオンの内側のように安定感が無く、酔いが残る自分には危険だ。
「くそっ」
毒づきながら四両目の扉を開ける。風が僅かに吹き込んで、連結部の籠った空気が抜けるのがわかった。ただ、車内の様相は五両目と変わらず、見渡しても部下はおろか人っ子一人もいない。
連結部通路に入った時点で窓ガラスの向こうに人気がないことは何となくわかっていたが、こうして実際に誰もいないという事を突き付けられると心細さが増す。
そして同時に、あれ、と思う。
確かに終電時は昼間に比べ利用客――乗客の数は圧倒的に少ない。が、それもまばらという程度に留まっていた。つまるところ、どの車両にも五人か六人の客は乗っていたのだ。
ところが、このように無人の車内を見せつけられると、心細さが途端に不安に変わっていく。ここが見知った空間とは程遠く感じられるのは気のせいだろうか。それとも、内装が似ているだけで実は通勤電車とは違う電車の中にいるのか。憶えていないだけで、実際は見知らぬ土地まで足を運んでいたとか。または、と考えて、その可能性が頭に浮かんだ。
もしかして俺は、回送電車の中に取り残されたのではないか。
それこそ馬鹿みたいな考えだった。終電を迎えた電車はその後車掌により点検されるはずで、自分のように寝入った客がいれば肩を軽く叩かれて起こされる。だが、昔に取引先の社員と雑談を交わした時の事を思い出した。
先方は老舗の中小企業。担当者は自分より十は年上の大ベテランではあったが、長年の付き合いから商談も打ち合わせも互いに余計な力が入らない。だからか、合間に過去の失敗談を教訓交じりに語ってくれたりもした。曰く「酔っぱらって駅員を殴ってしまったことがあった」とか「泥酔している内に回送電車に取り残されたことがあった」等、酒がらみになることが殆どだったが、当時は立場も年齢も忘れ「えっ、そんなことが」と、思わずこちらが身を乗り出して聞いてしまう程だった。
「駅員も車掌も人だからね。確認忘れもサボりもするさ」
あっはっは。武勇伝のように言ってから豪快に笑うその姿を、真似できない、と怖れつつもどこかで憧れていた。当然、まさか数年後に自分が……と、その時は露ほどにも思っていなかったが。
それにしても、確認忘れ、サボりか。
当時の彼の言葉を胸の中で反芻すると、この奇妙な閑寂ぶりも納得がいく。決してありえなくはないし、むしろ現実的だ。ただ、どうしても引っかかるところが心の片隅にある。その正体がはっきりしないまま、もやもやを打ち消すように前へと進む。
「間も く、よも ひ さか つひ かです、乗り換えの方は、」
車両の中央辺りまで来た時、不意にアナウンスが流れた。ところどころひび割れ、以降はふつりと聞こえなくなったが、びくりと肩を震わせるには十分すぎる程だった。
いや、ただのアナウンスだ。間延びした。やる気のない声。起き抜けに聞いたあの声と同じではないか。そう自らに言い聞かせたところで、回送電車ならわざわざアナウンスなど流さないのでは、という事に気付いた。……だとするなら、取り残された説も間違いだ。
それが今しがた抱いた引っかかりやもやもやの正体だったのか。お前はさっきのアナウンスで起こされたのだろう、と無意識に囁く声こそが心の片隅で引っかかっていたものだったのだろうか。
「…………」
ところが、それはそれで違う気がした。得意先とのやり取りを思い出しただけで何故こうも自問自答が加速したのか。その答えを模索するように、半ば縋る思いで車内を眺める。
無人のロングシートと真っ黒な窓ガラスに睨み返され、天井の広告紙にある「泥酔時 覚えてなくても 罪は罪」という文句がこちらを小馬鹿にするように煽ってくる。
ただそこで、
「酔っぱらって駅員を殴ってしまったことがあった」
得意先の担当者が語った失敗談との重なりを覚えた。
先程は広告紙の内容など気にも留めなかったが、立ち止まり、今度はまじまじと見る。
黒を基調としたポスターは一見地味だが、右端から伸びた握り拳が大きく全面に描かれ、その向こうで目が「×」となった駅員が後ろ向きに倒れる姿も描かれている。要するにそれは駅員を殴った人物の主観をコミカルに描いたものであるが、背後には泡が溢れたビールジョッキや中身の入ったワイングラスなども描かれ、成程、テーマの一端がそこに押し出されている。
お酒による過ちでも、そこに責任は存在する。と。
得意先のあの人は、駅員を殴ってしまったことを許してもらえたのだろうか。きっと、許してもらえたのだろう。具体的にいつ頃とは聞かされていなかったが、話しぶりからかなり昔のことだと感じた。その頃は酒に関する過ちなどなあなあで済んでいたに違いない。だからこそ、このようなポスターが生まれたのだろうから。
「俺は何を他人事にみたいに」
その独り言が自然と口から出て、ん? となる。どうして、そんな台詞が浮かんだのだろうか。考え始めたが、そこで、ぎっ、と車体が急に揺れた。またもや転げそうになり、慌ててポールにしがみつく。またカーブに差し掛かったのか。しかしアナウンスが流れる割にはなかなか駅に到着する様子がないな、と今更ながら変に思う。普通は減速するものではないか。むしろ加速しているような。そんなことを訝しみながら体勢を立て直している時だった。
「あ?」
後ろの――五両目の車両が明滅しているのが見えた。いや、カーブだとよくあることだ。
パンタグラフと電線の接触加減によるものか、パチパチ、と明暗が繰り返される程度のもの。だから、五両目の車両が丸々真っ黒に滅灯したのは予想外だった。そして、
「何か、今」
四両目と五両目を繋ぐ連結部通路。
その窓に、人影を見た気がした。一瞬ではあったが、明滅の最中に紛れて、ぼうっと浮かび上がったような……まさか、あの車内に人がいたのか。その可能性がよぎって、ぶんぶんと頭を振る。そんな訳ない。あの車両で目覚めてから何度も辺りを見渡した。運転台にも人がいる気配は無かったし、明らかにあそこは無人だったのだ。では、今自分が目にしたものは何だったのか。
見間違いか。それとも。
その先を考えて、脚が竦んでいることに気付く。いつの間にか膝は笑っていて、ポールにしがみついていなければ今にも倒れそうだ。ふと目の前にあるシートに腰を落ち着かせたい衝動に駆られたが、もしここが五両目のように停電したら……消えた明かりの向こう、連結部通路の扉の奥でじっと潜んでいる何かが闇に乗じてこちらに来るのではないか。
まるで根拠のない予感だ。
見えない何かが吊手を揺らしている、と考えるのと同じように馬鹿げている。
でも、引き返して五両目を確認しに行く気などさらさらない。自然に脚は前へと動き出していた。頭で考えなくても身体が勝手に動く。本能というものはこういう時に機能するのかもしれない。ここから離れた方がいい、という先程自らが無意識に聞いた警報がここでも鳴り始めたのだ。ガタンゴトンと床が揺れる。車体が傾く。窓が軋む。脚がもつれる。
だが、酔いは醒めた。自らを突き動かすのは、あれが後ろの窓からじっとこちらを窺っている、という強迫観念めいた感覚。皮肉ではあるが、その不安を原動力にやっとの思いで連結部通路の扉に行き着く。それと四両目の照明が明滅し始めるのは同時だった。はっと息を吞む。取っ手に引っ掛けた指先が固まる。
ちかちか。
頭上のLED照明が点滅し、明かりと闇が連続して空間を行き交う。
来た。
でも何が?
いや、そんな疑問さえ今はどうでもいい。こんなところで凍り付いている場合ではない。
さっと扉を引いて、中に身体を滑り込ませる。素早く通路を渡り、三両目に入ると同時、後ろでバチンと何かが爆ぜた。振り返ると四両目も完全に闇に吞まれているのが見える。
今のは……照明がショートしたのか。危なかった。額に浮かんだ冷や汗を手で拭っていると、
ベタ
微かに聞こえた。何かがガラスに張り付いたような音だ。偶然にも自分はその出所に身体を向けていて、
「ひっ」
喉から声が漏れる。連結部通路の扉の窓。そこに、両の掌が張り付いている。そして、続いてその奥から顔らしきものがガラスに近付き。
それが頭の中で明確な像となる前に踵を返した。見てはならない。何なのかを知ってはならない。振り返ってはならない。
三両目も四両目、五両目と同じく無人で、本来なら走りやすいはずだ。約二十五メートル。たったその一両の距離が今はとてつもなく遠い。抱いていた不安が、一気に恐怖という感情に塗りたくられたおかげでさっきより脚のもつれが酷い。あれが背後に迫って来ている。焦燥に駆られ、でも思うように身体は動かない。ぐっと車体が傾き、またもやよろめいた。しかも今度はまともに前のめりに転倒し、思いっきり頬を床にぶつける。
「っ」
鈍痛が駆け巡り、でもいちいち痛みに構ってなどいられない。
すぐさま両手と両膝を立たせて、四つん這いの状態から起き上がる。
からん。
スーツのフロントボタンが床に転がって、袖仕切りの下で駒のようにくるくる回った。
わざわざ拾う余裕も無い。立ち上がると「間もなく もつ ひ さ です。乗り換えの方は、忘れ物に」とアナウンスが流れた。てっきりそのまま途切れると思っていたが「事故の元になりますので、車内では走らないようお願い申し上げます」こちらを嘲るかのように続く。
「なんっ、なんだよ」
ぞわりと背筋が総毛立つ。アナウンスだけではない。その異様な光景に、今更ながら気付いたからだ。
「泥酔時 覚えてなくても 罪は罪」
天井だけではない。各壁に掲示された横額面ポスターも全て、びっしりと例のポスターで埋まっている。まるで無数にある真っ黒の小窓から、あの駅員に見張られているかのような。
あれは。あれは、仕方なかった。だってお前が。パチ。照明が消え始めた。
「あ、ああ、あああ」
呻きつつも、前へと脚を動かせる。ここも、もうすぐ闇に塗り替わる。
ペタ。ペタペタ。明滅の周期が早まるにつれ、後ろの扉から聞こえる音が、次第に激しさを増す。あれがこちらに来ようとしている。それが肌でわかる。それでも振り返らない。
それを受け入れた時、ふと胸に去来したものが現実になる予感さえあるから。
連結部通路の扉を引き、通路を渡って二両目に出る。そして、当たり前のようにやはりそこは無人。例のポスターが全ての広告欄を占めていて、無数の真っ黒な小窓からイラストの駅員が依然としてこちらを見張っている。真後ろでパチンと小さな破裂音が聞こえ、続いて、ペタ、とあれが窓ガラスに張り付く音も聞こえる、三両目も闇に飲み込まれたのだ。愚図愚図していると、ここも手遅れになる。あれが、闇の中で俺を捕まえに来る。
「ゆ、許して! 許してくれ!」
恐怖が頂点に達し、気が付けば叫んでいた。足取りはさっきよりもおぼつかず、すっと脚が上がらない。それでも車内は点滅し始め、あれが闇を引き連れながら追ってきたことを確信した。無心で脚を動かし、叱咤して、何とか二両目も駆け抜ける。そして連結部通路の中に入った途端、バチンと後方から音がして通路内の闇が一層濃くなった。
まずい。
今度は思っていたよりも明滅の周期が短かった。咄嗟に唯一の光源である向かいの窓に手を伸ばすも、ぎっと足元の鉄板がうねった。またカーブに差し掛かった。ぐっと踏み込んで転倒は免れたが、その分僅かにロスが生まれる。未だここは二両目の闇の領域にいるのだ。あっと思うのと同時、
「 どもが、」
低く、じっとりとした声が、耳元で囁いた。ぎゅ、と肩を掴まれ「うわあぁ!」振り払いながら前進し、一両目――先頭の車両の扉を一心不乱に引き開ける。がら、と出来上がった間隙めがけて身体をのめり込ませ、転がり込むようにして車内へ進入した。
「っがあ!」
仰向けの姿勢で天井の明かりを見上げる。すんでのところで難を逃れた。胸を撫でおろしたのも束の間、足元はまだ扉近くにあることを思い出した。このままだと通路の中に、あの闇の中に引きずり込まれる。ばばっと上体を起こして後退りしたが、あれの影はどこにもない。何だ。どこへ行った。
「あの」
後ろから声が聞こえ、わわっと声をあげながら飛び上がる。振り返るとそこにはきょとんとした表情を浮かべた駅員の姿があった。
「どうかされましたか」
「えっ」
こちらを心配そうに窺いながら、その駅員は丁寧な口調で言う。
「随分取り乱されたご様子ですが」
まだ二十代前半だろうか。若く、すらっとした体格の青年だ。左手の薬指にきらりと輝くものが見えて、世帯持ちであることがわかる。もしかしたら、幼い子供だっているのかもしれない。そこまで相手をまじまじと眺めて、はっとした。
「あっ、停電! そうだ、何かおかしいぞこの電」しゃ。
そう続けようと振り向いて、言葉を失った。闇に吞まれたはずの車両は、どれも煌々とした明かりが連結部通路の窓を通して見える。まるで、最初から停電など無かったかのような。
「見たところ、停電など発生していないようですが……どこか異常でも」
駅員は怪訝な顔で、俺が顎で指した方を眺める。一方で俺はそのまま固まり、目を瞬かせるので精一杯だった。
「どう、なって」
「間もなく駅に着きます。危険ですのでお座りください」
駅員はため息をつくなり回れ右をし、運転台へと向かった。俺は何が何だかわからなくなり、しばらく呆然とする。だが「い、いや」すっと我に返り、その背中を追いかけた。
「ちょっと待ってくれ」
この状況が理解できず、半ば怒鳴り声だった。
別に構わない。この車両には俺とその駅員以外に人はいない。窓ガラスから透けて見える限りでも二両目、三両目に人影は見受けられず、この電車内は殆ど誰も乗っていないだろうことが何となくわかる。
「ここはどこだ。次はどこの駅に」
駅員の肩を後ろから掴む。
ぐにゃり、と気色の悪い感触がして、思わず手を離した。何だ。今のは。
「次は黄泉平坂(よもつひらさか)です」
駅員がこちらを振り返らずに、淡々とそう言った。どこか冷たく、低い声。聞き覚えがあるような気がして「……あ」小さく漏らした。
「……この電車に、運転士は」
「いませんよ。車掌も」
必要ありませんからね。
そう付け足して、駅員はなおも運転台へと進んでいく。そう。駅員。電車内で業務中の制服職員であるのにも関わらず、どうして俺は、この男を「運転士」や「車掌」ではなく「駅員」と思ったのか。
「私は、助けようとしただけです」
ふと、照明の光が弱まった。いや、弱まったのではない。振り向くと、二両目以降は闇そのものに戻っている。それまであった明かりが消え、この空間には天井からの照明のみが寂しげに灯っていた。
「通報があったので駆けつけました。ホームから降りて路線を歩いている男がいると」
駅員が眺める先。つられて俺もその視線を追う。標識灯が先を照らしている。枕木が次々と浮かび上がっては車体の下に沈んでいく。
俺は。
電車が遅延していたのが悪かった。
アナウンスによると電気系統のトラブルらしかったが、そんな事情を汲めと言われても客は納得しない。こちとら難題を突き付けられながらも必死に仕事をやり遂げ、無事に今日という日を迎えたのだ。トラブルが起きたから我慢してくれ、なんてものはみっともない甘えだと苛つきながら、貧乏ゆすりがさっきから止まらない。
単に俺達は一つ隣の駅に向かいたいだけだ。職場の最寄り駅から一つ隣の。そこに、行きつけのバーがある。俺が奢ってやる、という勢いで最初は和気藹々としていた部下達の雰囲気も時間が経つにつれ話題が尽き始め、やがて各々が黙り始めた。時折、電車来ないっすねーなんて愚痴が聞こえるものの、誰かの相槌の末に会話は霧消する。通夜かよ、と思ったが、この状況では仕方ない。
「俺は決めたぞ」
その声に戸惑う部下の一人に鞄を託した。何を。と聞かれて、ムカつくからこうしてやると言い放つ代わりにホームから飛び降りた。後ろでざわめきが起こったが、どうせ電車は当分来ないのだ。それはヤバいっすよ。マジで危ないんで戻って来てください。部下の声が上から聞こえるが、臆病風に吹かれたのか自分に続く気配も無い。ただおろおろとした様子でホームからこちらを見下ろして、時たま手招きするくらいだ。
枕木やバラスを踏みしめる感触。闇夜から吹き抜ける風。むず痒くなるような土埃の匂い。
何も本気で隣駅まで徒歩で向かおうとした訳ではない。
その場を盛り上げるための余興のつもりだった。だが、ざわめくばかりで一向に笑いの一つも起きないことに腹が立ち始め、いつしかむきになっていた。酔いがピークに差し掛かり、気が大きくなっていたのだろう。このまま進んでやろうか。そう決心しかけたところで、
「あの!」
聞き覚えの無い声が後ろか響いて来た。びくついて声の主を振り向くと、その人影はホーム端の非常用階段を駆け降りて来るところだった。その駅員はすらっとした体躯で、まだ若い。その男は汚れると思ったのか白手袋を脱ぎながらこちらに駆け寄る。その左手薬指に指輪が嵌っているのが見えた。
「間もなく回送電車が来ます! 危険ですのでホームに戻ってください!」
口調は丁寧だが、ぐっと腕を掴まれ危うく転げそうになる。駅員の姿を見た時は、正直身が竦んだ。が、その態度に「こうなったのもそもそもお前らのせいだろうが!」憤りが爆発して、その背中にタックルをした。わっと声を発した駅員は見た目同様にひょろく、制帽を落下させながらあっけなくその場に崩れる。さっきまで偉そうに指図していた奴が、こうもあっさりと地に伏せた。そのことに何とも言えない高揚感が沸き上がって来る。
「何を」
気が付けば俺は駅員の上に馬乗りになり「お前が! お前らが!」酒焼けでガラガラの声で恫喝していた。駅員は枕木と俺の間に挟まれながら、それでも、という風に両手を上に突き出してぶんぶん振り回す。無意味な抵抗だな。そう油断していたが、その爪先がスーツのフロントボタンをかすめた。その拍子にボタンは外れ落ち、枕木の上で駒のようにくるくる回っている。ついでに携帯電話も胸元から滑り落ち、ガン、と音を立てて画面が割れた。
「でめぇ! ごらぁ!」
怒りに任せて頭突きを駅員の顔面に食らわせる。駅員は、あがっ、と情けなく呻きながら鼻血を撒き散らす。スーツの裾に血が付いた。ムカついてもう一発頭突きを食らわす。こちらに伸びていた腕が力なく枕木に倒れ、歓喜に自然と口角が吊り上がった。達成感に肩を上下させたところで、かっと目の前が真っ白になる。眩しい、と感じる暇すらなく、パァーンと甲高い唸り声が耳をつんざいた。追って、地響きをならせて鉄の塊が奥から迫って来る。
「私には、家族がいました」
その駅員は、こちらには目もくれずひたすら前を向いている。俺は、あ、あ、あ、嗚咽を漏らしながら、その場に立ち尽くしていた。
「子供もいたんです。まだ幼い。遅い帰りの私を、ぐずりながらも寝ずに待ってくれていて」
――こどもが。
それは先程耳元で囁かれた言葉。
ガタン、ゴトン。無人の電車は進む。吊手を揺らせながら。
間もなく終着駅だ。その事実で噎せ返りそうになる。口は大きく開いているのに上手く息を吐き出せず、肺の奥で重たい何かがつっかえている。窓の外。電車の行く先に見えるのは、ホーム。その真ん中には改札へ続く階段が設けられていて、この構築形状には見覚えがある。そして、ホームの縁では見知った風体の男達が騒いでいるように見えた。あれは。あれは部下達だ。あの時の。
「や、やめ」
チカチカと明滅が始まった。この車両もじきに闇そのものになる。
「前を見てください」
駅員が言った。見てはいけない。理解してはいけない。
頭の中でその光景が像を結べば、俺は終わる。
だが、足は床に縫い付けられたように動かず、目尻からは涙が溢れている。
それなのに瞬き一つもできず、金縛りに遭ったように身体は硬直している。
視線の先は、ひたすら前。運転台を通り越して、窓ガラスの向こう側。
標識灯が朧気に浮き上がらせているのは前方のレール上。
その小さな明かりの中、蛙のようにでっぷりした腹の音が駅員に馬乗りになっているのが見えた。その男は灯りの眩しさと甲高い警笛で、ふと我に返ったようにこちらを向く。
自らの怒鳴り声で、アナウンスすら聞き逃していた愚かな男。
鉄のスカートにすりつぶされる直前の。
「あ」
俺がやっとの思いで発したその声は、その男が開いた口の形と重なった気がして、
「許される訳がないですよ」
途端に、バチン、と視界は闇に吞まれた。
「間もなくよもつひ さかです、乗り換えの方は」
間延びしたアナウンス。その声が鼓膜に響くと同時、不意に身体が揺れた。ゴツ。鈍痛が頭から響き、その痛みが意識を明瞭にさせる。
「っでぇな」
はっと前を向く。正面の窓ガラスに冴えない中年男の姿が反射している。脚はみっともなく外へ広がり、ジャケットはでろりとはだけている。蛙のようにでっぷりした腹がカッター越しに露わとなっていて、我ながらひどい有様だ。
ここはどこだ。
周囲を見渡す。がらりとしたロングシート。微風に揺れる吊手。闇一色の窓の向こう。
見たところ電車の最後尾にいるようだが、先端の運転台にも車掌等はおろか、自分以外に誰一人としていない。
今しがたぶつけたであろうポールを掴んでシートから起き上がれば、天井の広告紙にある「泥酔時 覚えてなくても 罪は罪」という啓発文が目に入った。
どうして俺はここにいるのだろう。
どうしても、目覚める前の事が思い出せない。
了
執筆の狙い
駄文長く失礼します。
今作では臨場感と回想場面について勉強させてもらいたく投稿しました。
適切な描写の長さ。くどい部分が多すぎないか、或いは描写が短すぎないか。地の文のテンポが悪くなっていないか等、様々な不安はありますが御指摘、御意見頂ければ幸いです。