作家でごはん!鍛練場
中小路昌宏

八軒町

 昭和二十一年四月、二年間の兵役を終えて復員した海山源蔵が店を開いたのは福井駅前から線路沿いに北へ五百メートルほど行った先の、三の丸という町だった。
 終戦後半年以上経っても、まだ、街は荒廃していた。人々は焼け残った資材を利用して雨露をしのぐだけの小屋を建てて寝場所としていた。街の中にはあちこちに闇市が立ち、戸板を並べて焼け残った商品を売っていた。そういう闇市が当時の流通の主役であった。
 人気のあるのはもちろん食料品だが、ろくなものは売っていなかった。
 闇市の端では、何が入っているかも分からないごった煮を、大鍋で炊いて売っているのが人気を集めていた。そしてその横では手や足を失った傷痍軍人が座って物乞いをしていた。集まった小銭で一杯のごった煮を買ってその日一日の命をつなぐためである。
 親を亡くした子供たちが孤児院に収容されるのは少し後のことである。そのころは近くを走り回って、食べ物を分けて貰ったり、かっぱらいをしたりして、飢えをしのいでいた。
 
 海山源蔵の店もそういう荒廃した街の一画にあった。店と言っても焼け残りの材木を集めて組み立てた、犬小屋を大きくしたような粗末な掘立小屋である。店舗部分が一坪、その後ろに一坪ほどの住居部分があった。トイレなどは無い。住居部分の床下をめくると、どぶ川が流れていて、そこをトイレとして使っていた。
 近所の井戸から水を汲んできて、七輪で飯盒のご飯を炊き、缶詰のおかずを食べた。

 源蔵の商売は家庭用金物の卸売業である。復員してすぐ、叔父の家から借りてきた一万円を元手に商売を始めた。夜行列車で大阪へ行き、鍋、釜、やかんなどを買い付けて、復員の時に背負って帰ったリュックに手当たり次第に詰め込み、またその日の夜行列車で帰って来ると、翌日はそれをリヤカーに積んで市内や近郊の小売店に売り歩くという商売をしていた。
 彼には四歳になる長男、拓郎がいた。妻は彼の出征中に死んでいて、遠縁にあたる滋賀県の貧しい農家に預けられていた拓郎を引き取って帰ってきたのである。
 大阪へ行く時にも、リヤカーで売りに歩く時も、初めは拓郎を連れて行った。拓郎にとっては、長い間離れ離れになっていた父との旅は楽しいものだったが、源蔵にとって、子連れの商売は大変な苦労を伴った。

「拓郎、今日の夜行列車で大阪へいくぞ」
「えっ、大阪へ? 何しに?」
「大阪へ行ってな、商品を仕入れて来るんや」
「ふーん、わかった」
 大阪の街では、焼け跡の路地裏で飯盒のごはんと鯖の缶詰を食べ、水筒のお茶を飲んだ。
 拓郎は嬉しかった。お父ちゃんと一緒ならどこでも良かった。長い間よその家に預けられていて一人ぼっちで寂しかった。食べ物も、ろくなものは与えられなくて、いつもおなかをすかせていたからだ。

 商品は何でもよかった。大阪で仕入れてきたのは焼け残ったものや、戦後急いで工場を再開したばかりの粗末な品ばかりだったが、何でもが良く売れた。戦時中、金属関係の商品はすべて供出させられ、店の中は空っぽだったからである。サイズも問わず、色も形も問わず、材質も問わず、少々の傷があっても、何でもが良く売れた。
 
 海山家の隣に大和屋という小さな商人宿が出来た。お客さんを紹介してくれないかと言って挨拶に来たので、すかさず、源蔵も、自分の出張の時には子供を預かってくれないかと頼んで見た。今では考えられない話だが、戦後の混乱期というのは、誰もが助け合わなければ生きていけないという、何でもありの時代だった。
 拓郎は、滋賀県に来る前にも京都の金閣寺近くの家に預けられていて、猫の子のように他人の家に預けられる事には慣れていた。しかも今度は預けられっぱなしというわけではない。大阪出張の時以外は、夜には父と一緒にいられる。
 大和屋旅館にいた広島梅子という女中が、主に拓郎の世話をすることになった。
と言っても手間のかかる子ではない。食事の世話をして、洗濯をするだけで良かった。京都でも滋賀でも、自分のことは自分ですることが当たり前だった。
 しばらくすると、梅子は、旅館にいるよりも拓郎の家に来て炊事洗濯をすることが多くなった。拓郎は、この人が自分のお母ちゃんになったようだという事を少しずつ理解し始めていた。

 商売を始めて二年経って、世の中が少し落ち着いてきた。拓郎は小学一年生になっていた。空襲で焼け野原になっていた町にはバラック住宅が建ち始めていた。
 海山商店の掘っ立て小屋も前よりは少し広げたが、それでも全く狭くてどうしようも無くなってきたので、広い場所への移転先を見つけなければならなかった。
 そうして、ようやく復興の歩みが進み、人々の表情にも明るさが戻ってきたとき、突然の大地震が起きた、昭和二十三年六月二十八日午後四時過ぎの事だった。三年前の福井空襲からようやく立ち直りつつあった福井市とその周辺の町は再び壊滅的な被害にあった。
 被害は福井平野のほぼ全域に亘り、全壊した家屋は三万六千戸、死者は三千七百人以上、負傷者は二万二千人以上になった。中でも震源地とされた福井市の北に位置する坂井郡の五つの町ではほぼ全戸が倒壊した。
 さいわい、三人とも無事であった。
 源蔵は仕事で家を離れていたところ、激しい揺れに驚き、慌てて電話をしたがつながらず、急いで家に帰ったところ、梅子も拓郎も無事であったことを確認できた。小学一年生の拓郎は、学校から帰ってきて近所の材木置き場で遊んでいた時に、地面が大きく揺れて材木が転がってきたため慌てて家に跳んで帰って来た。また、梅子は店番を兼ねて掘立小屋の後ろ側の住居部分(と言っても僅か二畳の部屋である)で編み物をしていた時に大きな揺れが来て窓から放り出され、その直後に家が倒れたため、かすり傷で済んだ。
 町中が惨憺たる状況だった。ほとんどの家が倒れていた。かろうじて倒壊を免れた家も大きく傾き、隣の家にもたれかかっていた。倒れた家の中からは助けを求める声が聞こえていたが、助かった人の中にも怪我人が多く、いつ余震が来るかも知れない状況の中で倒れた家の中へ救助に向かうのは困難を極めた。
 道端には砂と埃で汚れた負傷者が横たわっていた。道路には大きな割れ目が出来、電柱は倒れ、電線が垂れ下がっていた。
 町のあちこちで火事が発生していたが、道路も通行不能の状態で消火作業もほとんど手が付けられなかった。
 暗くなってきた頃、人々は倒れた家の中から懸命に蚊帳や布団に食品などを引っ張り出して、夜に備えるのが精いっぱいだった。
 源蔵も、初めは放心状態で、何をすればいいのか分からなかったが、近くの人から声が掛かり、力を合わせて、倒れた電柱の下敷きになっていた人を助けるなどをしたあと家に戻り、その夜の寝場所を作ることにした。
 梅子は腰が抜けて動けなかったので、拓郎に手伝わせて店の横の空き地にゴザを敷き、倒れた家の中から布団を引っ張り出してその上に敷き、蚊帳を吊って寝る場所を確保した。悲惨な状況ではあったが拓郎は空襲で自分の家が焼け落ちるのを見たこともあり、滋賀や京都ではほとんど食べるものも無いという辛い経験をしているので、この時はつらいというより、両親と一緒にキャンプ生活をするような気分で楽しかったという記憶がある。
 海山商店の掘立小屋は簡単な造りであった。中に拵えてあった棚が支えとなって、全壊を免れていたので中に積んであった商品を翌日には店頭で売ることが出来た。
 翌日、店の前に戸板を敷いた上に商品を並べて売ることになった。朝の早いうちは静かだったが、しばらくすると、どこからともなく、お客さんが集まってきた。拓郎も、学校どころではない。傾いた店の中に潜り込んで注文の商品を探し出して、お客さんに手渡すと、受け取ったお金は店の前に置いたバケツの中に放り込んだ。三人ともてんてこ舞いだった。
 翌日には店にあった商品はほとんど売り切れてしまった。汽車は二カ月間通行不能で、応急措置で開通した道路を通って、大阪から商品が入荷し始めたのは地震後一週間ぐらい経ってからであった。
 地震から三日後に、三の丸の少し先の八軒町にあった銀行の支店長から耳よりの話がもたらされた。その銀行に隣接する五十坪の空き地が五万円で売りに出たというのである。 以前から、源蔵が、移転先の土地を求めていたことを知っていたので、話を聞いてすぐにやってきたのである。源蔵は即決でそれを決めた。資金はもちろん銀行から借りた。

 八軒町というのは三の丸の先に線路に沿って続く街である。福井城の外堀を埋め立てて造られた町で、下級武士の家が八軒あった事からそう呼ばれることになったようだが、詳しいことは判らない。その後、町名は大手一丁目となるのだが、古い住民は今でも八軒町と呼んでいる。
 五十坪で五万円というのは地震前であれば、むしろ相場より少し高めであったかもしれない。しかし源蔵は十万円でも二十万円でも安いと思っていた。実際、その二年後に銀行が大通りへ移転することになった時、その跡地の面積はほぼ同じ五十坪ながら銀行が提示してきたのは百万円であった。
 土地が思いの外安く買えたので、直ちに建築に着手した。と言っても間口四間半、奥行き三間の粗末な二階建てバラック住宅である。一階が店舗と事務所、二階が倉庫になっていて、その奥には家族三人の寝場所が作られた。一階の裏側に台所が作られ、トイレも、裏庭の少し離れた場所に穴を掘って作られた。風呂などは、勿論無い。
 粗末な造りではあったが、三の丸の掘立小屋と比べると広さも数倍はあり、海山商店としては、ここが初めての店らしい店となった。
 八軒町というのは、今は静かな町になってしまったが、その頃は人も多く行き交い、ずらりと店が並ぶ賑やかな商店街だった。酒屋、八百屋、荒物屋、靴屋、洋服屋、散髪屋、菓子屋、大衆食堂などのほか、今はもうほとんど見かけなくなってしまったような貸本屋、桶屋、駄菓子屋、玉子屋などといった店が並んでいた。
 八軒町の先には鷹匠町(たかじょうまち)という名の商店街があった。江戸時代にはこのあたりに鷹匠が住んでいたのでその名がついたのであろう。駅から離れていた分だけ八軒町ほどの賑わいは無かった。

 終戦に続き、地震後の復興需要に支えられて商店街としての八軒町も、そして海山商店も繁盛した。二年後の昭和二十五年には朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍が大量の物資を発注したことも町の好景気を支えた。
 海山商店は、三の丸時代には源蔵一人で始めた店だが、八軒町の店を開店すると同時に三人の従業員を雇い、すぐにまた二人、三人と続けて雇い、二年後には営業マン、配達要員、事務員など、合わせて十人ほどになった。また、遠距離の得意先が増えるに伴って配達用の三輪トラックを買った。
 毎朝八時頃には店を開け、周囲の店が閉まった後も、夜は十時ごろまで海山商店の店は賑わっていた。主人はもちろんだが、従業員の中にも遅くまで残る者もいた。彼らにとっては働くことが生きがいであった。まだまだ、給料は安く、暮らしは楽ではなかったが、働けば働いただけ、収入を増やすことは出来た。
 人々は誰もが平和の喜びを噛みしめていた。もう、空襲の恐怖におびえることは無い。疲れたと言っても戦争中のように命が危険にさらされることは無い。若いものが兵隊にとられることも無い。政府の悪口を言っても警察に捕まえられることも無くなった。

 八軒町に移転したとき拓郎は一年生だったが、学校から帰ると二階へランドセルを放り投げて店へ遊びに来た。店には遊び相手の犬がいた。また裏の空き地が近所の子供たちの遊び場になっていた。
 裏庭のいちばん奥に十坪ほどの小さい倉庫が出来た。狭い店ではあったが、毎日すごく忙しく、従業員たちは店と倉庫の間を一日に何十回も行き来していた。拓郎も少しずつ手伝うようになり、三年生になるころには学校から帰るのを待ちかねたように仕事を言いつけられた。父源蔵は拓郎の勉強のことはうるさく言わなかったが、仕事を手伝わせることも勉強以上に大切なことだと思っているようだった。毎日毎日、猫の手も借りたいほど忙しく、自然に、従業員たちと同じように、あてにされる存在になっていった。
 毎日、大量の商品が入荷した。商品はほとんど木枠で梱包されていたので金づちとバールを使って解体し、その中の馬糞紙の箱に入った商品を取り出して二階の倉庫へ片付けるのが拓郎の主な仕事になった。
 店の中には入りきらなかったので、運送屋のトラックは店の前の道路に商品を置いて行った。多い時には店の前に積まれた商品の山が道路の半分を埋めるほどになった。しかし車がまだ少なかった当時としてはそれが交通の妨げになることは無かった。
 誰かが告げ口をしたのか、お巡りさんがやってきて商品の山を見たが、道路の半分以上にははみ出さないようにとだけ注意をして帰っていった。
 店の向かいに松乃屋という大衆食堂があった。拓郎や遅くまで残って働いている従業員はいつもそこで、ツケで夕食を取った。何を食べてもいいが十分で済ませろ、というのが源蔵の口癖だった。
 店から七~八百mほど行った先、福井駅を通り過ぎて駅前北通りというところに川西商店というよく売れる得意先があった。経営者は二十代の若い夫婦で、急ぐ注文の場合は主人が自転車で取りに来たほか、毎日、一日に何回も注文の電話があって配達に行った。まとまった注文の場合はリヤカーを使い、小口注文のときは自転車の荷台に積んで行った。
 拓郎が五~六年生になるころには、学校から帰るのを待っていたように川西商店への配達を言いつけられた。
 当時使っていたのは運搬車といって、荷台の大きな、重い、黒い、子供にとっては乗りこなすのも厄介な自転車だった。
 川西商店へ行く途中の三の丸に伊部書店という本屋があった。拓郎は店の仕事を手伝う代わりに伊部書店ではツケで本を買うことを許されていた。川西商店への配達は拓郎にとって楽ではなかったが、帰りに、この伊部書店で好きな本を買って帰るのが楽しみだった。
 十五少年漂流記や、ロビンソンクルーソー、それに子供向けに書かれた忍者の本など、面白い本が沢山あった。
 しかし、そこで面白い本が見つかると、たいてい、帰りにはいつも、自転車のことはすっかり忘れてしまって、その本を読みながら歩いて帰るのだった。そして夜十時ごろ店じまいをする時になって、
「あ、自転車が一台足りない!どこへ行った?」
と騒ぎ始めて、
「今日、自転車を使ったのは拓郎ではないか」
 と気が付き、すでに布団に入って寝ようとしていた拓郎が呼び出され、自転車を取りに行かされることがしばしばあった。
 薄暗い街灯の灯りだけを頼りに寝静まった町を歩いて行くと、伊部書店の表戸は締められて拓郎の置き忘れた自転車だけがポツンと店の前に残されていた。そんな時の自転車はひときわ重く感じられたものだった。
 八軒町が最も賑わっていたのは昭和三十年代の終わりごろまでであった。海山商店は店が手狭になったので昭和三十四年には福井市北部の二の宮に百八十坪の土地を買い、五十坪二階建ての倉庫を建てた。それでも足りず、また交通量が多くなって卸売業の場所としては不便になってきたので、昭和四十七年には福井市東部に新しく出来た問屋団地に四百坪の土地を買い、新社屋を建てて引っ越しをした。元の店舗は住宅として改装された。向かいにあった鉄鋼問屋も同じころに郊外に引っ越しをした。
 町にはスーパーマーケットやホームセンターなどの大型店が出来るようになった。小規模な店舗の多かった八軒町はひとときの賑わいを失い、静かな町になっていった。
 中学二年生の二学期ぐらいまで、拓郎は学校から帰ると、店の欠かせないスタッフとして働いていた。勉強は、家ではほとんどしなかったので、いつも成績は中ぐらいだった。しかし、そろそろ高校受験の準備の時期となっていたので、父源蔵は、もう、仕事はいいので受験勉強をしなさいと言って店に出ることを禁じた。
 成績は少しずつ上がって五十人のクラスのうち上位七~八番目ぐらいになったが、他の生徒も頑張ったため十二~十三番目ぐらいまで下がって、また少し上がって、という具合に上下した。三年の三学期になっても、進学校である嶋藤高校へは合格できるかどうか微妙なところだった。
 さて、いよいよ入試当日である。拓郎の成績だと合格ラインすれすれで、入れるかどうか五分五分だと思われていた。当時嶋藤高校には、源蔵の小浜中学時代の同級生の瀬川先生が教頭を勤めていた。源蔵は瀬川先生に、拓郎をよろしく、と頼んでいたそうである。拓郎には、
「頑張って来いよ。でももし成績が悪くても先生に頼んであるから大丈夫だからな」
 と言っていた。無理な頼みではあったが、瀬川先生には源蔵の頼みを断れない事情があった。校舎を新築することになっていて、寄付をしてもらった経緯があるからである。
合格発表の当日、瀬川先生から源蔵に電話があった。
「息子さんは大丈夫。自力で合格していました」
という電話だった。
 この合格を一番喜んだのは拓郎ではなく、源蔵と瀬川先生だった。源蔵は息子のために喜んだのではない。息子が入ったのが嶋藤高校でないと、世間体が悪かったからである。嶋藤高校へ入学したからと言って、将来幸せになるかどうかは分からないと思っていた。
また、謹厳実直な瀬川先生は自分が不正入学にかかわらなくて済んだことで、ほっとしたことであろうと思われた。

 三年後、拓郎は嶋藤高校を卒業し、昭和三十五年に大学生になり家を離れた。

八軒町

執筆の狙い

作者 中小路昌宏
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 久しぶりに投稿させて頂きます。
 
 これは歴史小説ではありません。若い人たちに、少し前には、こんな時代があったのだという事を理解して頂き、日本が、二度と悲しい戦争に突き進むことが無いようにという思いを込めて、書きました。

コメント

通りすがり
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中小路昌宏さま「八軒町」を拝読いたしました。

2月ごろから新しい投稿がなかったようなので、(お元気かな)と案じていたのですが、
新作が読めて嬉しいです。今年も、暑い夏ですね。

少しずつ、復興から高度経済成長の波に乗っていき、焼け野原から、バラック小屋が
立ち並ぶようになり、街も家業も伸びていく感じがとてもよく伝わってきました。
大人は仕事に忙しくてかまってくれないけど、子ども同士で遊び場や、楽しみを
見つけたり。書店にときめく感じがとても生き生きして、いいなと思いました。
「はだしのゲン」は、図書館に置かないという動きで、最近、かえって売れたそうですが、
自分は小学生の時に読み、親になった人がまた子や孫に読ませているので、
敗戦後の空気をあの作品でけっこう知っていると思います。
絵のアクが強くて、トラウマにもなりますが、闇市とか、夜に灯りをつけられるとか、
猥雑な解放感、淡々とした書きぶりでも、感じますね。

うちの母親は、帝銀事件のあった東京都の椎名町という所に住んでいて、
防空壕に頭から落ちたと今でも、ときどき話しています。
先日、復元されたトキワ荘ミュージアムに行って、(このあたりか)と、初めて行くのに
懐かしい感じがしました。
東京大空襲があり、北海道に先に疎開させていた長女(母の姉)のところに一家で引っ越し。
移動中に列車が爆撃されて、家財を失ったそうです。
祖父は、何よりレアな本を失ったのを長い事悔しがっていたそうです。
体にハンディがあり徴兵はされず、GHQの仕事を得て高給とりだったようですが、
遊びと、家族に内緒で、足長おじさん的なことをして、年取ったら貯金はほとんどゼロ
だったようです。くくぅー。

中小路さんの御父上は、機転がきいて、商才がおありだったのですね。
戦地を体験した方は度胸がありますね。
再婚までの経緯だとか、仕入れの道中の楽しかったこと怖い目にあったこと、だとか
書かれていないことにも、想像してみたり、重みを感じる良い作品でした。
ありがとうございます。

中小路昌宏
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 通りすがりさん、さっそくお読みいただき、ありがとうございます。
 
 最近、新しい作品のアイデアが思いつかず、また、書く意欲も沸かず、前に書きかけになっていた作品を書き直したり、書き足したりしながら、何とかスランプを脱しようと努めています。
 夜も眠れず、疲れやすくなって来ていて、いつまで続けられるか分かりませんが、時々でも、また、書けたら投稿させて頂きたいと思っています。お目に止まったら、またひと言でもご講評いただければ嬉しく思います。
 有難うございました。

夜の雨
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「八軒町」読みました。

小説にしたら各パートのエピソードが少ないですね。
主人公が置かれた時代のなかの生活の状況は伝わりますが。
この作品は各パートを掘り下げて構成し、エピソードを書き込むと戦後の混乱期から幼い子供が少年期へと育った時代が描かれた「小説」になるのではと思いました。
現状では、小説とは少し違うような感じです。
記録を残したといったところでしょうか。

現状のままでも作者さんが、自分が生きた時代を語りたかったという作品なら、全然問題はありません。
戦後の混乱期から立ち直り始めたときに地震でまた混乱するが、人々の生きる魂が復活していく様が描かれているような作品ではないかと。

この作品は作り物ではなくて自身が体験した生活そのもののような作風でした。
面白くするなら、主人公と同じ年ごろの女の子を幼馴染として登場させるとか。
友達を何人か出演させると、物語に厚みが出ると思います。
義理の母親とのエピソードも説明程度にしか書かれていませんでしたので、かなり端折ったかなと思いました。

作品全体がかなりリアルだったので、演出を施すと面白くなると思います。

ちなみに現状でも読み応えがあります。


お疲れさまでした。

中小路昌宏
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 夜の雨さん、いつも有り難うございます。

 ご推察の通り、これは自分の体験談そのもので、実際あったことから1歩も踏み出していません。おっしゃる通り、登場人物をもっと増やして、架空のエピソードをいくつかはめ込むと作品の完成度を高める事ができるかも知れませんね。
 最近ちょっとスランプ気味でしたが、これをもう少し手直しする作業をする事で、スランプ脱出出来るような気がしてきました。

 適切なご講評、有難うございました。

西山鷹志
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拝読いたしました。

福井でも大きな空襲に見舞われたのですね。
しかも2年後 大地震とは、そんな中で福井の人々生き抜いてきたのですね。
それにしても源蔵の逞しさ、商売根性は半端じゃありませんね。
それに先見の目があり50坪の土地を5万円で買うも、2年後には100万円に。
20倍にも跳ね上がるとは驚き。戦後まもなくだから色々あったでしょうね。

商売上手な人は先見の目がある人ばかり
その代表的な人物は孫 正義氏 本当にこの人は凄い。

今回は小説と言うより自伝に近いものですが、新作をお待ちとしております。

中小路昌宏
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 西山さん、いつも有難うございます。

 今の若い人にはこんな話を聞かせても、まるで現実離れをしていて実感が湧かないでしょうね。でも私の子供時代は、実際こういう状況下にあったわけです。
 父の家系は代々商売人で、父も晩年まで、いつも商売に向き合って生きていました。商売を楽しんでいたようです。
 私はそういう意味では父に似ていなかったのですが、だからと言って、これといった才能もなく、成り行きで父の後を継いで65歳で引退するまで、色々な商売に手を染めて暮らしていました。

 しばらくスランプの状態が続いていましたが、これをきっかけに、また新作を書けるようにならないかと、期待しています。

 有難うございました。

クレヨン
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 拝読しました。

 戦後というのは、こんなかんじだったんですね。ネットとかで調べればどういう状態だったかぐらいは知ることもできますが、やはり一つの家族の暮らしを見ることで知ることのできるものは全然違うな、と感じました。
 僕のおじいちゃんも子供の頃には食べるものがなかったと言ってました。そんなところから、ここまで豊かな国にまで発展する土台を築いてくれたのを忘れず、次に引き継いでいこうと思いました。

中小路昌宏
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 クレヨンさん、お読みいただき、有難うございます。

 あの当時の国際間の緊張状態については、私も記録文書でしか知ることは出来ませんが、どうして、アメリカという大国に対して、勝てる筈のない戦争を仕掛けるという大きな間違いをしでかしてしまったのか、そのことを、いまの日本人一人ひとりが深く考え、2度とあのような悲しい歴史を繰り返すことが無いよう、心がける事が何より大切なことだと思っています。
 日本はあのとき、台湾や朝鮮、東南アジアの国々を支配する大国だったのですが、アメリカと敵対するのでは無く、話し合って、ヨーロッパ列強から解放したアジアの国々を独立させる平和路線を貫けば、燃料の補給路を断たれるという様なこともなく、戦争に突き進むことも避けられたのでは無いかと、悔やまれてなりません。

 あの戦争がなければ、私を含め、すべての日本人は、今の子供達のような、平和で豊かな暮らしが出来たはずですから、本当に、絶対に、何を犠牲にしてでも、どんなに屈辱的な妥協をしてでも、戦争は避けるべきだと、思うのですが、それでも、今でも、愚かな戦争が各地で勃発しています。

通りすがり
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中小路さま。
連日、暑いですね。災害級と言われているので、健康第一で。

昨年の秋に、ひょんな事から知って愛読しているブログがあるのですが、
その方は「スランプ」という言葉は、響きもよくないし、使うほどに
スランプがひどくなるような気がする、と書いておいででした。
階段の踊り場にいて、一休みしている、パソコンに新しいソフトや
プログラムの更新で、読み込み中だから、「触らないで」「ちょっと待ってね」と
いう状態なんだと思うほうが気が楽かなと。
自分も「スランプ」という言葉は使うのをやめましたwwミーハーですね。
「小休止」「新プログラムに変更中」たぶん、ぴったりの言い方があるでしょうね。

数年前、初めて戦争体験を語ったという高齢の男性の事を新聞記事やネットで
知りましたが、福井の方でした。
父上が戦死、母上が空襲で亡くなり、親戚の家であまりにも邪険にされて、
耐えられず家出。施設を逃げ出したり、東京まで流れてきて、栄養失調で失明、
東京大空襲の孤児と身を寄せ合っていたそうですが、一人は上野駅で投身自殺。
この方は縁あって、最後に拾われた施設の方がいい人で、盲目でもできるマッサージ師の
資格をとって、ずっと頑張ってきて、家庭も持ったそうです。
戦争のせいで老若男女を問わず、他にどんな仕事ができたか、と見えない時間や
できたはずの努力とか、その損失が惜しまれてなりませんね。

クレヨンさんの感想にも感動いたしました。

中小路昌宏
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 なるほど、スランプというのは、言い訳をしているようなもので、むやみに使うべきでは無いですね。 前には少しマシなものを書いたとしても、今はこれが自分の実力というわけなので、謙虚に受け止めて、地道に努力を続けるべきという事でしょうか。
 ありがとうございます。

通りすがり
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中小路さま。いやいや、言い訳なんてww何をおっしゃいますやら、ですよ~。
いつも真剣に取り組んでいらっしゃる方々が、ご自分でご自分を追い込むような
膠着状態、停滞になってしまったらもったいないなと、思ったのでした。

なんていうか、言霊というか、「失敗する」と言ってしまうから
失敗してしまうように自分で自分を悪いほうに誘導してしまったら
ホント残念ですから。
書いていて思い出しました、「スランプ」というのをやめたというブログ主さんは
「プレート」っておっしゃってました。
お皿、自分は、大平原のちょっとだけ高い台形みたいな丘を思いました。
一休みして、足をとめて、いままでの道を(よく来たなー)と振り返ったり、
今後の道をワクワクしたり、大変だけどやるかー、と思ったり、
ゴールを思う、そんな風にできるだけ楽しくするほうがいい休憩タイムかなと。

雨音
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拝読しました。
戦争についてのテレビや戦争をテーマにした映画を時々見たりしますが、こんなことが昔。と言ってもそんなに昔でもないですね。実際に起きていたんだと思いながら読んでいると、今戦争してる国がなんのメリットのためにやっているのか、どんな未来を創るつもりでやっているのかさらに疑問に思いました。日本はこのようなことがあってこそ今があるけれど、あった。ということに悲しくなりました。この時代を知って、行動を起こすことは難しいですが、クレヨンさんのおっしゃったとうり伝えることはできると思うので、自分にできることをやっていきたいと思います。

中小路昌宏
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 雨音さん、コメントを頂いてから4日も経ってからのお返事で申し訳ありません。通りすがりさんも、たびたびのコメント有難うございます。

 いま、日米韓で協力して中国、ロシア、北朝鮮の脅威に備えようという動きをしています。台湾で、または南北朝鮮で、武力紛争が勃発した場合、日本も巻き込まれることは必至でしょう。しかし、だからと言って、日米韓や、比、豪などと組まずに中立を保てば安全かというと、それではむしろ、ウクライナのように、ロシアなどの恰好の餌食となることは明らかです。

 そのあたりのかじ取りはとても難しいとは思いますが、少なくとも、日本がロシアや中国の主敵とならないように、外交努力を続けて行って、出来れば仲介役の立場で戦争を終わらせるよう、話し合いを続けて欲しいものだと思っています。

 残念ながら、世代交代が進み、戦争の記憶を持つ人たちがいなくなる頃に、再びまた、日本も戦争に巻き込まれるような気がしてなりません。
 

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