箱庭の二人 第1話 箱庭の左利き(前編)
高校に入ったら友達ができる。それが妄想に過ぎないと気づいたのは、五月某日の昼休みにひとりで弁当を食べていた時だった。周りのクラスメートは誰も彼も三、四人で机を囲んで食べているのに、僕だけは一人の机といすの上で一人寂しく竹籠の弁当を広げて食べていた。しょうがないよな、人に話しかける勇気のない臆病者に友達ができるわけない。割り切ってるのに、息が詰まるのはなんでだろう。
「なあ。」
弁当を食べていると、唐突に誰かから声を掛けられた。それは、出席番号22番の六角公志(ただし)くんだった。先生に質問をされてもスラスラと答える優等生だった。正直、カッコいいけど、少し怖いと思っていた。
「なに?」
彼は僕と視線が合わせられるように、正面に座っていた。
「よかったら、俺と飯食わねーか。」
嬉しかったけど、僕は同時に彼を疑っていた。おかずを集るために話しかけられてるんじゃないかと。おかずならまだいい、もしも弁当全部……。
「嫌ならいいけど。」
「あ、いや!一緒に食べよう!いや、食べてください!」
彼は目を丸くして僕を見た。
「くださいって……。」
ドン引きされてる。ああ、もう、どうしよう!嫌われるかな?
「いいや。いただきます。」
彼は僕のことを気にすることなくもくもくと焼きそばパンを口にしだした。僕は一番好きな卵焼きをこっそり彼の様子を窺いながら食べた。
「……弁当、うまそうだな。」
「な、なんかほしいの?」
彼は僕の弁当を見て言った。僕は反射神経からそう言ってしまった。しかし、彼はそれに対して厳しい言い方を返した。
「バカ言ってんじゃねーよ。親が手間暇かけて作ったんだろ。くれなんて言わねーから、味わって食べろよ。」
驚いた。言い方こそ怖いけど、彼は僕に食べることを許可してくれた。裏心があるかもしれないけど、その言葉が全身に染みてくるように感じた。思わず嬉しくなった僕は彼の顔をしっかり見て答えた。
「うん、そうする。ありがとう。」
「……その程度、別に感謝されることでもねーだろ。」
それでも、僕にとって彼の言葉は嬉しかった。
六角くんは言葉遣いが特別とげとげしい人だったけど、人との距離感のとり方は何となく上手な人だった。最初の数か月は一緒にご飯を食べるだけの仲だったけど、授業でわからなかった内容について相談してもらうようになり、少しずつ彼と過ごす時間は増えていった。誰かに相談したり、自分の思いの丈を打ち明けたりすることは内心すごく怖かった。それでも、「ああ」とか「そうだよな」とか短く返してくれる彼の言葉に安心した。
「実は、僕いじめられてたことあったんだ。」
十月ごろ、僕はぽつりとこぼした。父さんにも、母さんにも、どうしても言えなかった。だって悲劇の主人公みたいに扱われて、「かわいそう」って同情されるのはどうしても嫌だったから。
「ああ。」
六角くんは相変わらずそっけない。でも、その返事のほうが僕には嬉しい。
「小学校と中学校の頃。学校は地獄だって思ってた時期もあった。でも、今は六角くんがいるから、学校に行くのがすごく楽しい。」
「そうか。」
彼は滅多に表情が変わらないけど、嬉しいときは意外と声に出る。語尾がやわらかくなるから、すごく分かりやすいんだ。
「これからもよろしく。」
「俺も。…………ずいぶんと息苦しそうに飯食ってたのにな。」
高校に入って半年、僕と彼は間違いなく友達になれていた。でも、この後僕の身にあんな事件が待ち受けているなんて思いもしなかった。
僕の高校では、十一月から勉強会がある。受験を控えた高校3年生は当然のこと、高校一年生からでも興味がある生徒は選考条件を満たせば参加することができた。選考条件は以下の通りだ。
一.何月までに何を目的に勉強したいか、すでに計画を立てた状態であること
二.成績のうち提出物の点数もしくは授業態度がB評価以上であること
三.十月三十一日までに申し込み用紙を提出していること
先生たちは苦労したんだろうな。僕はそう思いながら、職員室前の提出ボックスに申込書を放り込んだ。もともとこの学校を進学した理由の一つはこの学習会だった。先輩や先生にすぐ隣で勉強を一緒にできるなんてこの上なく贅沢な話だと思ったから。勉強は嫌いじゃないし、自分が行きたい大学のことを考えると勉強会の存在はありがたかった。お金のある子はきっとそれを塾でしてもらえるだろうし。
「ん?遠野、参加するのか?」
「六角くん。」
六角くんも申込用紙を持ってこちらに歩いてきた。どうやら彼も勉強会に参加するつもりみたいだ。
「うん。僕の家裕福じゃないし、今のうちから勉強しておいても問題ないかなって。僕の学部ただでさえすごくお金かかるし。」
「へえ。俺も参加する。勉強は好きじゃねーけど、親父がうるさいからな。」
どうやら六角くんの家は厳しいみたいだ。僕にとっては想像がつかない話だけど。
「そういえば、六角くんは物理大っ嫌いだったよね。」
「ああ。……嫌いなものはそれだけじゃないけどな。」
彼は短くつぶやく。物理以外はすごく得意そうなイメージがあるから、僕は意外だったけど。
「そっか。……聞いておかないほうがいい?」
「その方が助かる。俺のほうから勝手に言ったとこ|悪い《わりい》けど。」
僕は彼に頷いてその場を去った。でも、彼の『親父がうるさい』は案外嘘だったかもしれない、と今なら思う。実際、彼が勉強会でやっていたのは物理じゃなかった。
勉強会当日。高校三年生は大事な時期だから一階の視聴覚室を使い、僕たち高校一年生と二年生は二階の多目的室を使う決まりだった。確かに、僕と同時に校舎に入った高校3年生の先輩はすごく殺気立っていて話しかけるどころか近づくのも恐ろしかった。あんな状態ならば、教室を分けて当然だ。
「よう。」
「六角くん!」
僕が二階の多目的室に向かって歩いていると、六角くんが背中をポンポンと叩いて話しかけてくれた。さっきまで怖かった先輩のことはすっかり忘れて、この優秀な友人の存在に胸を弾ませていた。
「何持ってきた?」
「僕は古文持ってきたよ。模試でもここの点数が凄く低かったから。」
その瞬間、僕は違和感を覚えた。前にその話はしたはずなのに、彼はなんでまた同じ話をしたんだろう。
「俺も。」
彼がそう言って見せたのは、僕と同じく古文の問題集だった。
「なんで?」
「……模試の成績が悪い。同じ理由だ。」
そうだったかな?と僕は頭に引っかかったが、あえてそこは突っ込まないことにした。
僕たちが多目的教室に着くと、すでに高校二年生の人がちらほらいた。顔を覚えているわけじゃないけど、靴の色で学年だけはすぐに分かった。一年生は靴の色と名札の色が青、二年生は靴の色と名札の色が橙、そして三年生の靴の色と名札の色は赤になっていた。ただこの三色で回していくことになっているので、僕の後輩は一年生でも青じゃなくて赤色になる決まりだった。高校一年生で申し込んだのは僕と六角くんを除くと四人いた。一クラス三十人、合計九十人はいるのに寂しい話だ。でも、高校二年生の場合は一クラス二十五人、合計百人に対して参加しているのが三十人なので割合的には比べ物にならないくらい多かった。
「やあ、六角くん。」
高校二年生の『御堂』さんが六角くんに話しかけた。みどう、と読むのだろうか。
「御堂先輩。」
やっぱり「みどう」で合ってるみたいだ。しかし、六角くんは僕と違って彼女に対して少々引き気味の対応だった。
「君も勉強会参加したんだね。ここで会えてうれしいな。」
なんとなく、この人は六角くんを特別視している気がして少し疎外感を感じた。僕は彼に手を振って彼と別れた。しかし、彼は僕の肩を掴むと先輩に対して滅多に出さないくらい高い声で言った。
「俺今日は友達と一緒なんで!……先輩も誰か頼りになりそうな人見つけてください。」
彼は僕の肩を掴んだまま、足早に真ん中あたりの二席を陣取った。先輩のほうに目を向けたが、なんとなく僕に敵意を向けている気がして怖かったから、すぐに目をそらしてしまった。
「……あの人苦手なの?」
「……好きになれる人柄じゃねーな。」
僕に話しかけた彼とは違う一面を垣間見た気がした。彼でも人の好き嫌いはあるんだ、と驚いた。でも、あの先輩は何となく怖い気がしたから、彼の気持ちも少しわかる気がした。多分、目が合った時に睨まれている。このうえなく苦手な視線だったし、それは今でも感じる。
「ごめん。なんかわかる。」
僕が気まずそうに返すと、彼はパッと後ろのほうに向きなおった。
「先輩。彼は人見知りなんで、そこまでじろじろ見るのやめてくんないすか?」
彼の声は高かったが、すごく威圧的だった。そんな口の利き方をする彼は初めてだから、隣にいる彼のことも怖かった。僕は苦手な視線に背中を刺されるような恐怖を感じたから、絶対に後ろを振り返らなかった。後ろを振り返りたくなかったから、目の前の机にリュックを置いて筆記用具と教材を置くことに専念した。じわりと汗が滴って、少し気分が悪かった。
勉強会が始まると、六角くんは僕と一緒に高校二年生の別の先輩のもとに僕を連れてきてくれた。その先輩もさっきの御堂さんと同じく女の人だったけど、明るくて朗らかで安心できる雰囲気のある人だった。
「単語を覚えるのが苦手?」
「正直。だから授業でも何を言っているのか、わからない時があるんです。」
「深刻だね。勉強時間は取れてる?」
その人の名札には『上杉』と書かれていて、文字通り「うえすぎ」さんという名前らしい。この人は頭の回転が速いのか、僕の回答にテンポよく切り込むように話しかけてくれる。だから、僕も言葉を返しやすかった。六角くんにも言えることだったけどね。
「あ、はい。ただ、なんか乗り気にならないから、予習ノートと学校のワークだけはやってる感じです。」
「確かに、苦手なのを自分でやるのはたしかに勇気がいるよね。誰かと一緒なら頑張れる?」
「それを期待してここに来ました。」
「そりゃそうだ。私で良かったら一緒にやる?ただ、これは教えてほしいな。」
先輩が見せたのは高校1年生の数学だった。
「なんで、1年生なんですか?」
「共通テストの科目なの。」
なるほど、と僕は腑に落ちた。でも、六角くんは上杉先輩とも僕とも距離を取るようにただ読解の問題の答えをノートに書きなぐっていた。……僕にはそう見えた。
この勉強会は土曜日に行い、学校の時間割の2時間目から4時間目までと全く同じ時間割になっていた。しかし、その中身は普段詰め込みで先生が話したり指名したりしながら進める授業と違って自由に学校の先生や先輩と話をしながら勉強を進めることができるものだった。六角くんや僕もそうだったけど、この上杉先輩に質問を持ち込む人は多かった。それでも、上杉先輩はそういう人は聞かれたら答える程度で、僕たちに時間をかけてくれた。そして、僕が空腹を覚えたころ、4時間目のチャイムの音がした。勉強会の終わりのチャイムだ。先輩はふう、と息をついてから体を思いっきり伸ばした後、僕に微笑みながら言ってくれた。
「お疲れさま。数学得意なんだね、助かったよ。」
「ぼ、僕もありがとうございました!先輩の教え方もすごく分かりやすくて楽しかったです。」
先輩の解説は学校の先生並みに分かりやすかった。だから、僕は勉強会が終わったばかりなのに勉強がしたくてうずうずしていた。でも、そこで六角くんが割って入った。
「遠野。休息は大事だぞ。」
僕は少しむくれてしまった。同い年なのに見透かされているような感じが悔しかった。でも、そこでちょうどお腹の音が鳴ってしまったので、僕は半ばあきらめる形で弁当箱を開けた。その中身は僕の好物が入れられる限り敷き詰められていた。いつもの竹籠の弁当箱が宝石箱のように見えた。
「休息はたしかに大事かも。」
僕が思わず零すと、六角くんは「よかったじゃねーか」と穏やかな声で返してくれた。そして、上杉先輩もさっきまで勉強していた机に弁当箱を広げた。いかにも女の子らしいパステルカラーの弁当箱にパンダのおにぎりや花形のニンジンやプチトマトが入っていた。
「かわいいですね。」
僕は先輩の弁当に好奇の視線を向けて言った。すると、先輩は笑って返した。
「似合わないでしょ?」
「そんなことないですよ!」
僕は思わず早口で答えてしまった。先輩の自嘲する言い方が好きじゃなかったから。
「そう?たいして美人でもなければ可愛いわけでもないのに、こんな弁当作るなんて。」
「すごく素敵な弁当じゃないですか!」
先輩は少しだけ顔を赤らめてから、六角くんに視線を向けた。彼はコンビニ袋から焼きそばパンを出して一言さらっと言った。
「こういうやつです。他意はありませんよ。」
彼女はそっか、とつぶやいて弁当を食べ始めた。ガサツな自分の食べ方が恥ずかしくなるほど、彼女の食事は洗練されていた。
しばらくすると、彼女はピタッと食べる手を止めて箸を音もたてずに置いた。そして、何も言わずにそそくさとその場を立ち去った。六角くんは相変わらずモクモクと一番目当ての焼きそばパンをむさぼり食べている。人目を気にしないやつだな。
「六角くんって焼きそばパン好きだよね。」
「やらねーぞ。」
彼は眉をひそめて答えた。僕はご飯派だから、パンそのものに興味ないんだけど。
「毎週食べてて飽きないのかなと思った。」
「一度好きになった味が飽きたことはない。」
そういう人間っているんだなと、僕は思った。しかし、そこで「何してんだ!」という声が廊下に響いた。気になったが、僕は流そうとした。でも、そこで「離して!」という上杉先輩の声が聞こえた。僕は行くか行かないかうじうじしていたけど、六角くんが走り出したので僕も行くことにした。呆れるほど他人本位な決断だなって自分が嫌になった。
僕たちが廊下に着くと、2年生の先輩が上杉先輩の手を後ろに回して完全に制圧していた。そして、二人が向かい合っている壁には水性か油性の赤ペンで書かれたであろう落書きがそこにあった。しかも、ただの文字ではなく鏡文字のような訳の分からないものだった。
「あの。上杉先輩、これ書いたんすか?」
彼はつかつか歩くと、上杉先輩に話しかけた。しかし、上杉先輩は取り押さえられたまま答えた。
「そんなことは絶対にしてない!ただ、カッターナイフがなぜかここに刺さっていたから、私危ないと思ってそれを引っこ抜こうとしたの。そしたらいきなり取り押さえられたのよ。」
すると、彼は取り押さえた先輩のほうに話しかけた。
「あなたはどうですか?書きましたか?」
「俺もこんなもの知らねーよ!学食から戻ってきたら、この落書きとカッターナイフを壁に突きつける彼女がいたから取り押さえただけだ!」
彼はかなり興奮した声でそう言った。実際、彼が取り押さえている先輩の手の下にはカッターナイフが落ちていた。
「で、でもなんで先輩は取り押さえたんすか?落書きがペンで書かれたものだった以上、カッターナイフを持つ上杉先輩がこれをやったとは思えないんすけど。」
「……だ、だって、壁にカッターナイフを突きつけてたら、彼女が壁に傷をつけようとしてるって疑うだろ……。」
たしかに、僕がその場にいたら思わず声を出すくらいのことはするだろう。でも、太くて赤色のペンで書かれた落書きの上にカッターナイフで何かするなんて何かしらの理由がないとおかしい。僕はじっと周囲の廊下や壁の周りを観察しながら、考えに耽っていた。しかし、間が悪く壁の左側に備え付けられている階段から先生が降りてきた。校内一の仏と評判の深山先生だった。
「どうしたんだ、大きな声を出して。……おい、こんなものを書いたのは誰だー!」
仏が怒るところを始めて見た。
「おい、この中の誰が犯人だ!」
僕は彼の怒気が恐ろしかったが、誰が犯人なのか分からない。先生を恐れながらも、僕はじっと廊下の観察を続けた。そして、あることに気づいた。上杉先輩はおそらくさっきトイレに行っていたはずだ。その理由は床のあたりに落ちた水滴と先輩のポケットから乱暴に出ているハンカチにある。まず、トイレからわずかにこぼれた水滴ということは、トイレの中にある洗い場で手を洗って水滴が落ちたことが読み取れる。そして、先輩が触って落としたカッターナイフが濡れていないことを考えると、先輩は濡れたままの手でカッターナイフに触っていないということになる。つまり、その前にハンカチで手を拭いていたからカッターナイフに水滴がつかなかったと仮定すると、先輩のポケットから水色のハンカチが飛び出しているのは理にかなった状況だということだ。
次に、僕は壁に触れた。その壁はコンクリートではなく木製でできているため、カッターで傷をつけようと思えば容易な状態だった。でも、肝心の落書きはペンで書かれているし、インクはどちらにせよすでに乾いている。でも、乾いているということは、少なくとも四、五分トイレから抜けた間にこんなものを書くことはできないという証拠にもなる。この時点で、4時間目のギリギリまで、僕たちやほかの参加者に勉強を教えていた上杉先輩にこんなものを書く時間的余裕がなかったことから、先輩は犯人じゃないと言える。
最後に、僕は壁の落書きの字とその向きに目を向けた。僕が壁の落書きの一番高い位置に手を伸ばしたが、ぎりぎり届かなかった。入学後の身長測定では『169.4cm』だった。つまり、この壁の落書きをしたのは僕よりも身長が高い人物ということになる。僕は六角くんにこい、こいと手招きした。
「なんだ?」
「上杉先輩って、僕より身長高いか?」
彼は目を丸くした。でも、一瞬で僕の意図を理解したのか、ニヤッと笑って答えた。
「低いよ。俺とお前が同じくらいで、あの人は俺よりも頭一つくらい低い。」
しかし、深山先生の怒鳴り声が響いた。
「遠野!六角!コソコソと何を話してるんだ!」
「ご、ごめんなさい!」
僕たちは思わず上杉先輩の隣に走った。この人は頼りになるし、本当に身長が低いか確認したかったからだ。すると、上杉先輩が僕を庇って前に出てくれた。
「先生。落書きが許されないことは二人とも理解しています。ただ、誰がやったか分からない以上、友達同士で少し話をしたくなるのは仕方ないと思います。ですので、少し落ち着いて話をしてください。」
深山先生はメガネのブリッジに手を触れると深呼吸をした。
「たしかに、上杉の言い分はもっともだ。……思わず頭に血が上ってしまったが。誰の仕業か見た者はいるか?こんな傷、かまいたちでもない限りは無理だろう。」
僕たちは沈黙していた。でも、上杉先輩を取り押さえていた先輩が言った。
「様子は見てないんですけど、彼女が壁にカッターナイフを突きつけてるのは見ました。本人は『刺さってたから抜こうとしてた』と言ってましたけど。」
この人は上杉先輩を疑っている。でも、そこで先輩は間髪入れずに反論した。
「ペンの落書きなのよ?私がカッターナイフを抜こうとしたことと何の関係があるの?」
一瞬、上杉先輩と男の先輩の間に火花が散った気がしたが、深山先生が二人を制止するように言った。
「大貫、ひとまず教えてくれてありがとう。ただ、上杉の言うとおり、俺が言及したいのは『壁の落書きをした人物』だ。君は心当たりがないのか?」
「俺は見てないです。」
六角くんもそっけなくそう言った。でも、彼はその後低い声で続けた。
「それと、俺が一回トイレに行くために三時間目と四時間目の休憩の間に抜けたときにはこの落書きはありませんでした。犯人が隠したか、四時間目以降に書かれたんじゃないっすか?」
「なるほど。で、大貫、君は?廊下にはいつ出た?」
深山先生は最初に口を開いた先輩を見た。すると、彼は詰まりながら答えた。
「俺は、四時間目が終わった後、学食に行ったきりです。学食に行ったときは何もなかった……と思いますけど、壁なんていちいち気にしてなかったんで。俺も二時間目あたりに一回トイレにはいきましたけど、その時にも落書きもやった奴も見てないです。」
「彼の言うとおり、壁には何も書かれてなかったと思います。私がトイレに向かった時にも落書きやカッターナイフはありませんでしたから。終わらせて戻ってきたときにはもうそこに落書きもカッターナイフもあったんです。」
僕は頭の中で時間の整理をした。まず、六角くんが三時間目が終わった後に抜け出した時には壁に落書きはなかった。次に、男の先輩が四時間目が終わって廊下に出た時にも何もなかった。そして、最後に上杉先輩がトイレに行ってそこから出たときにはもう落書きとカッターナイフが壁にあった。つまり、落書きとカッターナイフは先輩が教室を出てからだいたい二、三分で書かれたものということになる。……でも、そんなこと可能なんだろうか?それよりは、六角くんの言った「隠していた」説のほうが理にかなっている気がする。つまり、そんなことができるのは、僕達含めてこの校舎に残っていたメンバーだけということになる。
「遠野。君はどうだ?」
すっかり落ち着いた口調で、深山先生は僕に聞いた。言うべきか、素直に悩んだ。それでも、誰が書いて、どのように隠したか分からない。それでも、先輩は確実に犯人ではないことだけはわかる。僕は先輩のほうをちらりと見やった。……恩義、というには変な話だけど、あんなに面倒見てくれた親切な先輩なら、助けようとしても罰は当たらない気がした。
「僕も何も見てないです。……………………ただ、多分、上杉先輩は違う気がします。」
深山先生は別の生徒に話を聞こうとしていたけど、それを止めて僕のほうに目を向けた。
「なぜそう思う?……もう怒鳴る真似はしないから、言ってくれ。」
さっき怒鳴らればかりだから、仏の深山先生といえど怖かった。ここまで来たらきっともう引っ込めない。僕は何回か深呼吸をしてから答えた。
「あの位置だと、上杉先輩に書くことができないからです。」
僕は壁のほうに動いて答えた。
「まず、この壁の左側を見てください。ここの位置の字が一番高いのですが、僕が上に手を伸ばそうとしても届きません。念のため、上杉先輩、来てもらえませんか?」
僕が呼び掛けると、上杉先輩がこちらに来た。
「ここで足を伸ばしながら、腕を伸ばしてください。」
彼女は男の先輩のほうを一瞥すると、かかとを上げてグッと壁に手を伸ばした。しかし、彼女はやはり手が届かなかった。
「ごらんの通りです。先輩にはこの字を書くことはできません。」
しかし、そこで先生が反論した。
「弱い!脚立を取りに行こうと思えばこのトイレの隣にある備品室に行けばいい。それに、そんなことをしなくてもそこの机といすを使えば書くことはできるだろう。」
僕はもう一つの反論を伝えた。
「もう一つ。先輩は右利きですが、この字を書いた人物は左利きです。だから、先輩が犯人である可能性はかなり低いです。」
先生はほう、と感心したような声を出して言った。
「この落書きを見て、犯人が左利きだと判定した理由を教えてもらおう。」
「字が右下がりなんです。たとえば、ここの曲線を見てほしいのですが、バランスが崩れて下の方へ落ちています。そのせいで他の字がどんどん下がっていってだんだん左上から右下に傾いているんです。これは左利き特有の書き方なので、右利きの御堂先輩の書き方ではありません。」
「ふむ。御堂くんは右利きだから違う……か。証拠はあるのか?」
「あります。上杉先輩、先輩が使っていたノートを見たいので、教室に戻ってもいいですか?」
上杉先輩は力強く頷いて、僕たちが勉強していた教室へと誘導してくれた。
「これだね。」
上杉先輩は再生紙で作られた表紙のノートを差し出した。僕は先ほど一緒に勉強したページをめくって見せた。
「これが証拠です。」
彼女は勉強をするまでの間無地のノートを使っていた。彼女曰く『ルーズリーフを貼り付けやすいし、書きやすい』かららしい。つまり、先ほどの壁と同様何もない空間に字を書くことができる人だった。そこに書かれていた途中式は線を引いていないのに、まっすぐ書かれていた。
「あと、これを見てください。」
僕は彼女が残していた弁当を指差した。正確には、弁当箱の上に置かれた箸を。
「尖ったほうが左側にあるということは、彼女は右手で食事をしていたということです。これも、彼女が右利きという証拠です。」
すると、先生はそのノートをさっと取り上げて、さっきの壁のほうに戻った。
「たしかに、こんな傾いた書き方を彼女ができる可能性は低そうだ。」
その一言で、僕はその場にへたり込んでしまった。僕の言葉を、なんとか先生に信じてもらうことができた。本当は話をしている間、心臓が爆発しそうなくらい脈打っていた。話をしている間、肩が何度か震えていた。本当は、外したらどうしようと嫌な想像が何度も頭を過っていた。でも。
「よかったぁ……。」
胸の奥から、喉の奥から、最初に出てきた言葉だった。しかし、深山先生はへたり込む僕のことは構わず質問した。
「さて、名探偵。君の利き手はどっちだ?」
その質問に対して、僕はしまった、と気づいた。墓穴を掘ったからだ。それでも、黙っていたら疑われる。僕はおずおずと不安な気持ちを悟られぬように気を付けながら答えた。
「ぼ、僕は……左利きです。」
周囲の刺すような視線が僕を貫いた。どうしよう、自作自演って思われても仕方がない。でも、僕はこんなものを書いていないし、そもそも何が書いているかも知らない。僕はへたり込んだまま、身体が震えていた。しかし、深山先生はほかの生徒に聞いていた。
「大貫、君の利き手はどっちだ?」
「え……俺、右利きです。今日はこれに参加するために抜けましたけど、右投げ右打ちです。同級生も多分証言してくれますよ。」
ひとまず、大貫先輩は容疑者から外れた。残りは六角くんとほとんどしゃべっていなかった高二の先輩二人だけだ。
「六角、君の利き手はどっちだ?」
「俺は左利きです。字を書くときは右で書くように矯正されてますけど。」
そこで周囲がざわついた。僕は自分が友達を犯人であるように指差した気がして血の気が引いた。しかし、彼ははっきりと伝えた。
「俺は落書なんてしてません。だって、こいつの推理通りなら、俺じゃ身長が足りませんから。俺の靴やら靴下やらを調べて、どっかの机か脚立を使った後がないか、調べてもらっても構いませんよ。」
大胆だけど、彼なりに確信のある言い方だった。僕は彼のことを信じられたけど、勉強会の人らは意外とそうでもない反応で怖かった。僕は六角くんに近づいて答えた。
「な、なんかごめん。僕のせいで……。」
しかし、彼はハッと鼻で笑うように答えた。
「上杉先輩が無実って周知の事実になったから構いやしねーよ。誰か分からず、でたらめな噂が出回るほうがよっぽど面倒だ。」
僕は改めて彼に頭を下げた。それでも、僕が彼が疑われるきっかけを作ったことには間違いがなかったのだから。深山先生は高二の先輩たちに話を聞いた。
「浦野くん、君はどうだ?利き手はどっちだ?」
浦野さんは深山先生と並ぶくらい身長が高かった。正直、椅子や脚立を使わなくてもこれをかける犯人の一人としては当てはまりそうな気もした。
「俺の利き手は右です。彼と同じ野球部なので、どっちのミット使っているかで証明になると思います。」
この人も外れか……と僕は落胆した。深山先生は最後の先輩にも話を聞いた。
「渡辺、君の利き手は?」
「俺も右ですね!俺も野球部なんで、嘘か本当かはすぐわかりますよ!」
つまり、この教室にいるメンバーで一番怪しいのは、左利きの僕と六角くんということになる。全員の視線が僕たちに向いた。しかし、先生は彼らをなだめながら次の可能性を模索していた。
「ところで、君たち以外の一年生や二年生はどこにいる?」
僕は記憶をたどってみたけど、ほとんどの生徒が教室を出てしまったのでよく分からなかった。でも、そこで口を挟んだのは例の大貫先輩だった。
「多分、ほとんどの生徒が学食にいますよ。俺がから揚げを買いに行ったときに大勢の生徒が集まっていましたから。」
深山先生は大貫くん、ありがとうと言うと、その場を走り去った。僕もついていこうとしたが、そこで六角くんに止められた。
「待て。遠野、行くのはやめとけ。」
「なんで?」
彼は厳しい口調で答えた。
「あの御堂先輩がいたとしたら、あまり関わりたくない。それに、昼めしがまだ途中だ。」
僕は彼のその言葉を聞いて教室に戻ることにした。でも、僕は壁のほうを見て一言呟いた。
「それにしても、これなんて書いてあるんだろう?」
六角くんが写真を撮って言った。
「しばらくしてから確認しようぜ。俺腹減ったし。」
僕は結局、昼食に戻った。それでも僕にはまだ引っかかることがあった。
(あんなもの、見つかれば損害賠償どころか退学処分になってもおかしくない。大貫先輩みたいに学食から帰ってきた人だっていたし、上杉先輩みたいにお手洗いに行く人だっていたはずだ。意外と人目に付きやすい場所なのに、本当に誰にも見られずにあんなものを書くことは可能なのか?人に見つかれば間違いなく止められるし、咎められるし、先生がもっと早い段階で来てもおかしくないはずだ。……上杉先輩が書いた可能性を否定しただけ、あの落書きの謎自体はまだ解き明かされていない。)
その疑問は結局解消されることなく、僕たちは昼食を終えてから学校を去った。しかし、夕方になってから、僕たちは再度あの落書きの謎と対峙することになったのだった。
執筆の狙い
自分の好きなミステリー小説を何本も読み、ミステリー系のアニメやドラマを一杯見返して久々に描いた作品になります。
粗が多いかもしれないですが。純粋にミステリーを書きたかったので久々に挑戦してみました。感想お待ちしています。
後編は現在制作中です。