バットの芯から外れている
カキーン
9月に入ってすぐのまだ残暑が残っている日に俺はバットを振り続けていた。野球選手ではない。野球部に入っているわけでもない。ただ、バットを振り続けている。その行為に意味なんてなかった。家の玄関にバットが置いてあったから、たまたまそれを拾って深夜の公園でバットを振っているだけだった。
あれから何十回バットを振り続けていただろうか。手のひらは今すぐにでもマメが出来てしまいそうだった。皮が捲れてしまって、血が手の上で滲んでいた。風呂入るときに、水が染みて叫んでしまいそうになるだろう。そんな悲惨な状態になるにも関わらず、俺は構わずバット振り続けていた。何かにぶつけるように振り続けていた。
カキーン
バットの方が音を上げてしまったのか、持ち手にあるゴムテープが剥がれかかっている。この状態ではまともにバットを握ることすらできない。このままではバットがすっぽ抜けてしまい、民家の方へ飛んでいってしまうだろう。だが、私はこのバットの名に相応しいフルスイングを決める必要があった。そうしなければバットを振ることが無になってしまう。俺は空を殺すようにバットを振らなければならない。あの満月を半月にするような力強いスイングをしなければならない。
街灯の光が矮小な俺を照らす。俺の中にあるドス黒い汚れた物体を映し出すように光を当て続けている。街灯の光から生まれた影がバットを振っている俺を笑っている。俺はその影をぐちゃぐちゃにするためにバットを振り続けている。
『おい、そこで何をしている!』
影が脈絡もなく急に喋り始める。俺はバットを振っているだけである。お前を殺すために振っている。
影は俺の勢いに恐れてしまって、本来の形を失おうとしている。ゆらゆら陽炎のようになってくる。そして、影は跡形もなく消えていった。影にとっての酸素であった街灯の光が無くなってしまったからである。真夜中であるはずの今の時間に突然と消えるはずなんてありえなかった。
それから街灯の光が点くことはなかった。宿敵と言うべき影の存在は無くなってしまったが、代わりに明かりを失ってしまった。
俺は何を握っているのであろうか。何を今振り回しているのであろうか。どうして俺はここにいるのであろうか。そう考えながら、バットであるはずのものを振り続けていた。
目に見えなくなると自分の感覚を失ってしまう。そのせいなのか、俺の手からバットが離れてしまった。幸いというべきかバットは民家の中までは飛ばず、金網にぶつかるだけで済んだ。だが、その音はこの静けさの中では異音になっており、周りの人間が目を覚ますのは十分だった。
そして、俺に向けてある民家の住人が叫んでいた。
『今何時やと思っとるや!ええ加減にせえよ!』
その声を聞いた瞬間、俺はそのまま全速力で走り出していた。家へ着いたときに俺の手にバットがないことに気が付いた。俺があそこにいた証拠を残してしまっていた。
呼吸が荒くなり始める。呼吸の音が他人事のように大きく聞こえ始める。心臓の鼓動が速くなってくる。水を頭から被ったかのように全身冷や汗が流れ始める。
そこで俺は自分の行いに後悔をしていた。小心者である俺が真夜中の公園でバットを振ることは間違っていた。バットなんか見つけなければ良かった。誰かの真似事のようなことをしなければ良かった。俺は死ぬまでずっとただの一般人として演じれば良かった。
全てが遅い。俺が必死に積み上げたものが一気に崩れさる。もう終わりだと人生の審判が笛を鳴らす。今までは真面目にただの一般人として生きていた。だから、俺個人が指を差されることなんてありはしなかった。だが、周りの民家の人間が明かりを灯して俺に対して叫んだ瞬間、俺は真夜中の公園でバットを振る異常者として認識されてしまう。
俺は頭を抱えていたのだが、あることに気付いた。あのとき、街灯の光が消えていたのだ。つまり、あの叫んだ民家の人間は真夜中の公園でバットを振る異常者を認識しただけで、俺個人が特定されているわけではない。彼の中では異常者=俺と結び付けられていないのだ。だが、あそこにバットがあるのは俺にとっては不都合であることは変わりない。名前を書いた記憶はないが、俺という人間と特定される情報が残っているかもしれない。
明日取りに行こう。そうすれば、今日のことは何もなかったことになる。安心してしまったのか、俺は自分が眠っていることに気付かないまま、意識を失っていた。
その日の夜であった。顔がぐじゃぐじゃの男に出会った。凹凸が多くあり、鈍器で殴られたような顔であった。その男をバットで叩き潰したい衝動に駆られていた。ぐじゃぐじゃな男を叩き潰しても変わらないだろう。俺がやったことではない。元からあのような形をしたという言い訳ができる。俺はあの公園に置き忘れていたはずのバットを握っていた。それを振れば、俺の思い描くようなことが起こるはずである。だが、俺は躊躇していた。ここは俺が望んだことであれば、何でも好き放題できる場所のはずである。罪に問われることなんてない。後ろから指を差されることなんてない。それでも俺は周りの目を気にしていた。誰もいるはずもないと頭では分かっているのだが、ここが現実だと認識してしまう。俺はバットの握る力を強めた。ぐじゃぐじゃな男に向けてバットを振ろうとしたが、やはり上手くいかない。俺はそのぐじゃぐじゃな男を見ていることしかできなかった。そうして、俺の手からバットが離れた瞬間、悪夢から目が覚めた。
酷い汗であった。俺は誰かに見られていないか周りを見渡す。俺は自分のベッドに眠っていたことを今さらながら気づいた。基本的にソファで寝ることが多かった。それは仕事の疲れとかではなく、ただソファで寝転びながらテレビを見ているだけで、そのまま寝落ちをしてしまう。何か見たいテレビがあるわけではない。
暗い部屋の中でテレビをつけて、弱い光を浴びるその光景が好きなだけである。テレビの内容なんて覚えていない。ほとんどニュース番組しか見ないが、特段興味の引くことではない限り、感情を失った抑揚のない声を音として楽しんでいる。それが俺の日常の風景のはずなのに、その日の夜だけはいつもと違っていた。だから、あの変な夢を見てしまったんだ。何の変哲もない日常がバットで崩されていくんだ。
俺はベッドから起き上がり昨日の夜のことを思い出していた。全てはあのバットを見つけてしまったことが原因である。あの忌々しいバットを俺は取り返さなければならない。
重い身体を無理矢理起こし、あの公園へ向かう準備をしていた。出来る限り、目立たない格好をしてマスクで顔を隠した。最初はサングラスを着けていたが、明らかな不審人物になっていたため外した。あのバットの持ち主が俺であることを知られるわけにはいかない。
慎重に、自然に、冷静に、まるで俺がたまたま公園に通りすがったように。たまたまバットをみつけてしまったかのように。
渇望、興味、関心があるかのようにバットを拾う。あれは俺の持ち物でないと主張しながら、俺はそのバットを握りしめるのだ。
頭の中でなんどもシュミレーションして、バットが置いてある公園へと向かった。これで俺の平穏な日常を取り戻すことができたと思ったのだが、それは公園の入り口に入った瞬間、ものの見事に崩された。そのバットの前には腕組んで仁王立ちをしている男がいた。それは明らかにバットの持ち主を待っている。その状態で俺の持ち物ではないと装いながらバットを拾うことは不可能であった。おそらく、あの男は昨日俺に向かって怒鳴ってきたやつなのだろう。
真夜中にバットを金網にぶつけただけではないか。ずっと流れていた音ではなく、ほんの一瞬だけ大きな音を出しただけではないか。そんな難癖をつけたところでこの状況がどうにかなるわけではない。今日は諦めなければならない。また次の日に来ればいい。そのときはあの男も諦めてくれるであろう。
そう思っていたのだが、次の日になってもあの男は俺を待ち続けていた。その次の日も、その次の日も、朝、昼、夜、関係なくバットの前で待ち続けていた。その場から微動だせずに待ち続けていた。それはまるで静止画のようであった。一時停止ボタンを押してしまったのかと錯覚するほどであった。確かに俺が遠くから見る限りでは、あの男が動いた形跡がなかった。
俺はその執念深さに恐れてしまい、それから数日が経ち、あの公園へ行かなくなった。
そして、公園へ行かなくなったその日にまたあの夢を見た。ぐじゃぐじゃな男とバットを握っている俺。だが、前の時とは違う状況であった。ぐじゃぐじゃな男が横わっており、俺の握るバットには血が付着していた。その俺は恍惚な表情をしていた。あのとき抑えていた衝動や感情がゆっくりと消えていくのを感じていた。だが、夢の中の外にいる俺は満足出来ていなかった。俺はあのぐじゃぐじゃな男をバットでめった撃ちしている映像を見ていない。夢の中の俺は経験していたとしても、映像に残っていないものは俺にとって経験していないのと同義である。ああ、憎い。不公平だ。夢の中の俺も俺のはずなのに、俺の知らないことを知っている。
くそが!
目を覚ましたとき、また俺はベッドで眠っていたことに気付いた。
『9月22日未明、◯◯公園の付近を歩いていた男性の後頭部にバットのようなもので叩く事件が発生しました』
夕方のニュースでバット男(俺が勝手に名前を付けた)の話が流れていた。真夜中の住宅路にバットを持った男に襲われたらしい。顔がぐじゃぐじゃになって、意識不明の重体になっているらしい。
おかしなことが続いている。それは俺の望んだ世界ではない。
そして被害者の写真が映り出したときに俺の心臓は誰か握り潰されたかのように締め付けられて、息がまともにできないでいた。そこにはあの男がいたのだ。俺のバットの前で腕を組んで仁王立ちしていたあの男がいた。ありえないことがいま目の前で起きていた。確かその日は公園にいた。だが、俺はあの男があの場所から離れたところは見ていない。だから、俺はやっていないし、犯行があったのは俺が帰った後だ。それに俺の手元にはバットがない。あの公園に置いているはずだ。でないと、時系列が狂い始めてくる。あそこにバットは残っているはずなのだ。そして、俺の手元にバットはないはずだ。
俺はそれを確かめるために、あの忌々しい公園へ向かった。そして、そこにはバットがなかった。辺りを探してみたが、そのバットはどこにもなかった。誰かが拾っていったのかもしれない。
そうだ!警察だ!警察が周辺を調べたときにバットを拾い上げたのだ。
そう確信をした俺は自分の部屋へ戻った。もう俺の関係のないところに、バットは存在している。バットから俺の指紋が検出されるかもしれない。そうだとしても、俺はやっていないのだ。だから、もう関係ないのだ。
ゆっくりと目を閉じかけたとき、俺はあることを思い出していた。それは何の脈絡のないことであった。それでも俺が俺であるための必要なことであった。倉庫には自分の書いた小説が入っている。今では目を背けたくなるようなことばかりが綴られている。だが、今の俺にとっては大事なことばかりがそこにはある。今の俺の精神を俯瞰して見ることができる。
ああ、どうして今まで気がつかなかったのだろうか。物語なのだ!瞼の裏側にある黒い景色なのだ!そう考えれば何も悩むことなんてない。わざわざ常識人に装う必要なんてない。
俺は意気揚々と倉庫へ向かい、俺の小説を手に入れようとしていた。だが、そこにはあのバットが存在していた。バットグリップテープが外れかかっている。これは明らかに俺が公園で手放したバットであった。
俺はさらに混乱していた。あるはずのないものが目の前に存在している。どこで手に入れたというのだろうか。公園にはあの男がいたはずである。ここにバットがあること自体ありえないのだ。もしかして、あのバット男が置いてきたのだろうか。それもありえないはずだ。鍵は俺の手の中にしかない。無理矢理こじ開けた形跡などない。そもそもバット男が俺の家を知っているのがおかしい。俺がバット男でない限り、ありえないのだ。
そうか、バット男の正体は俺だったんだ。そうすれば、すべての辻褄があう。あの男を狙った理由も、この倉庫にバットがある理由も全てが上手く噛み合うのだ。
そのときに段ボールの上に置いてあった時計が落ちた。
時計、そうだ俺はバット男ではない。この時間が証明している。あの男がバット男に襲われた日の次の日に俺はあの男を公園で見ているのだ。そこにバットは確かにあった。矛盾しているのだが、それでも俺の見た光景にあの男はいたのだ。9月23日に俺は公園にいるあの男を見ているのだ。このバットは最低でも9月24日に取りにいったことになる。9月25日の今日には公園にバットは無くなっているのだから。誰の仕業なのかは分からない。昨日の俺は記憶を失っていたのかもしれない。9月24日はバットを取りに行くのを諦めて公園へ行かなくなった日だ。バットが取れなかったからではなく、すでに目標は達成されたからなのではないか。倉庫にバットがあるのが何よりもの証拠である。
俺は憤慨していた。バット男が紛らしことをするせいで、俺自身が追い詰められている。姿を現せ。そして、俺は決意した。バット男になりきって、本物のバットを誘き寄せる。
深夜、俺は倉庫にあったバットを持ち歩いていた。戦わなければならない。俺がバット男ではないことを証明しなければならない。俺がバット男になりすましたら、きっと憤慨した本物のバット男が現れるだろう。
俺はバット男、バット男……と呟きながら深夜の公園へ向かった。そして、そこには確かにバット男がいた。街灯の光が消えており、よく見えなくなっていたが、月の光でバットを持っている男のシルエットが見えた。そして、そのシルエットが急速に近づいてくる。
怒りだ。
バット男は俺の姿を見て怒っているのだ。抵抗する暇もなくバット男は俺の頭をかち割る。痛みが広がっていく。頭に亀裂が入って、その隙間から血が吹き出してくる。その血の流れに逆らって内部に小さなバット男が入ってくるような感じがする。内部を徐々にズタボロにされていく。
カキーン、カキーン、カキーン、カキーン
俺の頭の中がバグり始めてくる。複数のバット男がスケートリンクにいるかのように滑り始めて、俺の脳みそをバットで潰し始める。脳みそは柔らかい素材でできているはずなのに、バットに衝突した音は甲高い音であった。
カキーン、カキーン、カキーン、カキーン
俺の風景が次々へと消えていく。
全て幻だ!俺はいない!どこにも俺はいない!殺される!壊される!何にもない!ここには何にもない!
頭の中に住んでいる住人が映し出していたスクリーンが無数のバット男によって壊されていく。
そして、俺は思い出していた。あの公園にいた男のことを。バットの前で仁王立ちをしていたあの男のことを。あれは映像に過ぎなかったんだ。俺がそういう風に望んでしまったのだ。バットを捨てるために。俺がバット男にならないために。だが、それが間違いであった。俺以外の誰かがそのバットを拾い、俺の代わりにバット男を演じていたのだ。まだ、バット男が俺の頭の中で動き続けている。頭の中の住人を1人ずつ確実に殺している。
カキーン、カキーン、カキーン、カキーン
その音が脳内に響き渡り続けて、俺自身を追い詰めていく。俺は確実に死というものに近づいている。頭の中にいるバット男は死神そのものなのであろう。鎌がバットに変わったに過ぎないのであろう。俺はもう死ぬ覚悟は出来ていた。もっと前からそうだったのかもしれない。玄関に置いてあった金属バットを握ったあの日から。意識が薄れている。そうして、重たい瞼をこじ開けようとせずに、死を受け入れた。
気付けば、俺は目を覚ましていた。自分がまだ生きていることに驚きを感じていた。死ぬべき人間であることを忘れてしまいそうになる。俺がここいる義務はない。俺はもう一度だけバットを振られることを待ち続けていた。
『俺はずっとそこにいる。バットの芯から外れているところにいる』と呟きながら。
執筆の狙い
家族のことや仕事のことが辛すぎて、もういっそのことバット男に全て壊してほしいと思い書いてみました。妄想代理人やドリルホールインマイブレインとかそんな自分の好きなものを適当にぶち込んでます。拙い文章で見苦しいとは思いますが、読んでいただけると幸いです。