鴉の公園
約一年ぶりに見た写真の中の翔一はあどけない笑顔を和樹と大輔に向けていた。二本の八重歯が可愛らしい。和樹には九年前の輝くような翔一の笑い声が聞こえていた。温かみが波となって伝わってくるような笑い声。そして最期の微かに漏れでた声、息の音。
二本の線香の煙が昇っていく。
写真の横に翔一が死ぬ前に履いていた、小さい黄色い靴が置かれていた。和樹はおりんをならし、大輔とともに手を合わせる。
があー、くわー。どこかで、鴉が鳴いている。
静寂を感じさせる、おりんの音は居間の壁や畳に染みるように消えた。
「ありがとう。翔一も喜んでいるとおもうわ」
テーブルに座っている、翔一の母である昭恵がゆっくりと微笑んでいた。
和樹と大輔もテーブルにつくと、昭恵は緑茶を注いだ。お茶の香りがうすく漂う。
「二人とも高校卒業おめでとう」
軽く頭を下げる。
「これからは、どうするの。和樹君は進学だっけ」
「はい、A大学の工学部に進学します」
「おめでとう。A大学合格したのね。受験勉強お疲れ様。これから大学生活楽しみね」
「ありがとうございます」
昭恵は微笑みながら、何度か小さくうなずいた。その顔にできた皺は、一年前よりも少し深くなっていた。肩の高さで切られた髪は、丁寧に染めているのか、全く白髪は見当たらなかった。
「大輔君はたしか、就職だったかしら」
「はい、工場で働くことになりました」
大輔は背筋を伸ばして答えた。
「何の工場なの」
「機械の製造をするところです」
「小さい頃から機械好きだったものね。頑張ってね。二人とも進路が決まって、良かった」
昭恵は和樹と大輔のことをよく覚えているようだった。中学生のとき、大輔がテニスの市の大会で優勝して新聞に小さく載ったことがあった。その翌年の命日に半年以上も前の新聞の切り抜きを見せてくれた。
対して、和樹は翔一の家族にどこか馴染めなさを感じていた。いつも三人で遊んでいたのに、翔一は亡くなり、二人は生きているということを翔一の家族が本当はどう感じているのか、微笑みの下にどんな色が渦巻いているのか、知ることはできず、深い霧の中を歩いているように感じていた。
和樹と大輔は翔一の命日の四月二十四日に毎年線香をあげていたが、地元を離れることになり、命日に翔一の家に行くことが難しくなった。
「これからは、毎年じゃなくて、たまに思い出した時に来てくれればいいからね。あの子は本当にいい友達を持ったみたいね。たった十年間しか生きてなかったけど、その間にあなた達に会えたのは翔一にとっても幸せなことよ。毎年ありがとうね」
昭恵は柔らかい笑顔を浮かべて、手を温めるように湯飲みを両手で握っていた。
和樹は言葉を返そうとしたが、何も出てこなかった。線香の煙のように、言おうとしていることが浮かんでも言葉になる前に消えてしまう。ちゃんと見なくても、大輔も言葉を絞り出そうとしているのが伝わってきた。
手前の二つの湯飲みから湯気がのぼりすぐに消えていく。ちらと横を見ると、交通安全ボランティアの蛍光色のジャンパーがかけられていた。
また、近くで鴉が鳴いた。
玄関のドアが開く音がして、しばらくすると灰色のスーツを着た、翔一の父の浩二が居間に入ってきた。和樹と大輔はほとんど同時に立ち上がった。
「お邪魔してます」
「ああ、今日来るって聞いていたよ。もう高校卒業だってな。おめでとう」
「ありがとうございます」
和樹たちは同じように卒業後の進路の話をすると、浩二は「よかった、よかった」と笑顔でうなずいた。髪が後退した額が油で光っていた。
「大輔君は、社会人になってもテニスをするのか」
「テニス仲間ができれば、したいなって思います」
「運動は若いうちにやっておかないと、年取るとあちこち体が痛くなって、できなくなるからな。運動の習慣がないと、おじさんみたいに太ってくるから」
浩二は自分のお腹をさすって、自虐的に笑った。空間の緊張が解けて、靄が少し晴れた感じがした。
玄関で昭恵と浩二から「元気で」と挨拶を受けた。外に出ると、すでに一番星が光っていた。和樹の頬と手に冷気の棘が刺さる。三月の中旬で冬本番は過ぎたものの、日が落ちた後は空気がぴんと張るように冷えていた。
二人ともジャンバーのポケットに手を入れて並んで歩いた。翔一の家から帰るときは毎回ゆっくりと歩いてしまう。
「そうか」
和樹の口から白い息が漏れた。
「毎年四月の終わり頃に行っていたから、夕方でもこれほど寒くはなかったよな」
「その頃にはもう桜は散って、春のピークが過ぎたくらいだから」
それから二人の会話は止まった。毎年、帰りは、取るに足らない内容の会話をぽつぽつとして、別れ道で「じゃあ」と別れる。翔一が生きていた頃、笑いながら一緒に歩いていたのが嘘だったように感じる。
電線に止まった五匹ほどの鴉が喧しく鳴いている。和樹は、その内のやけに静かな一匹がじっと自分を見ているような感じがした。
五分ほど歩いて、寒さで耳がぴりりと痛んできた。一羽の鴉が鳴きながら、後ろから耳をかすめて、飛んでいった。
毎年別れていた交差点に着いたとき、和樹は問いかけた。
「なあ、公園行かないか」
大輔の返事はなく、俯いて白い息をふうっと出した。和樹は背中を押すようにもう一度尋ねた。
「公園に行かないか」
「……うん」
和樹は大輔の力無い返事を聞いて、帰る方とは逆の、翔一の死んだ公園へ歩き出した。
三人はいつも近所の、中央に大きな桜が植えられている公園で遊んでいた。住宅街の中にあって、明るい時間には、多くの子供たちが集まる賑やかで広い公園だが、夕方のチャイムがなると、子供たちは遊びの余韻を引きずりながら家に帰り、公園は墓場のように静かになる。
「久しぶりだな」
公園の入り口に着いて、和樹は独り言のように呟いた。公園はすでに電灯が点いていて、子供たちは一人もいない。光を受けている枝だけの桜は砂漠に立っている枯れた木のようであった。
「いつぶりだろうな、ここに来たの」
大輔も独り言のように呟いた。
「中学に入ってからは一回も来てないな」
「じゃあ、六年ぶりってことか」
翔一がこの公園で死んでから、和樹は一年くらい、この公園で遊ぶことはなかった。入り口の看板にボール遊び禁止と書かれていた。和樹たちが遊んでいた頃は、こういった看板は無く、ドッジボールやサッカーや野球をして遊んだこともあった。
数秒の沈黙と二つの白い息が冬の空気に消えていく。
「六年の間に俺たち大きくなったんだな、公園が小さく見える。昔はとても広く感じたのに」
「うん」
和樹は公園の中へと歩き出し、大輔もそれに続いた。向かう場所は決まっていた。和樹は公園全体を見渡した。赤、青、緑、黄などで彩られた遊具は所々色が剥がれて、白い部分が見えていた。夜に佇む、子供のいない遊具は金属の冷たさを放ち、これが冬の寒さのもとになっているようだった。和樹は三角ジャングルジムの前に立つと、その一番上を見上げた。ジャングルジムが昔より小さく見えた。数匹の真っ黒な鴉がジャングルジムの上をぐるぐると飛んでいる。
ふうと息を吐いてから、隣にいる大輔に切り出した。
「けじめをつけるべきじゃないかな」
大輔は黙って和樹の顔を見た。
「話すべきじゃないかな、あのことを」
大輔は分かっていたような目をして、ただ前を向いていた。
翔一が死んだ九年前の四月二十四日、桜はすでに若葉が開いていて、桃色と若葉色を混ぜたような奇妙な色合いをしていた。夕方の五時のチャイムが鳴って、他の友達が帰った後も、和樹たち三人は遊んでいた。その三人で、ジャングルジム鬼ごっこをしていて、公園の白色電灯が点いたときに鬼だった翔一が罰ゲームを受けることになった。
三角ジャングルジム鬼ごっこ、電灯が点いたら本当に終わり、罰ゲームはジャングルジムに登ったままくすぐりの刑三十秒、これがいつもの遊びだった。和樹も大輔もこの罰ゲームを受けたことがあった。落ちるかも知れない怖さを楽しさと勘違いしていた時期だった。
「今日の罰ゲームは翔一な」
翔一は「えー」と言いながら、二人のいる上辺近くまで斜面の内側を登ってきた。大輔は嬉しそうに、
「じゃあ、始めるぞ。せーの、いーち、にー」
とカウントしながらくすぐりを始めた。斜面の外側から、大輔は翔一の左側の脇や首を、和樹はその右側をくすぐった。
「ぎゃああ」
翔一は上体を捩ったり、頭を振ったりして二人のくすぐりに耐えていた。
「ぎゃああ、ううう、はやく、きゃきゃ、はやく、おわって」
「じゅーいち、じゅー」
翔一の手が棒から離れた。和樹は翔一と目が合った。翔一の笑顔はさっと消えた。驚いたような目。そして声は出ずに息だけが出たような音。翔一が伸ばした腕を和樹と大輔は掴むことができなかった。翔一の手は空を握って、落ちていく。硬い地面に落ちる瞬間を和樹は見ることができなかった。ぎゅっと目をつぶると鈍い音が聞こえた。ゆっくりと目を開けると動かない翔一が見えた。
二人は急いで降りて翔一のもとに駆け寄った。翔一の目は半開きになっていた。
「おい、おい、翔一、おい、翔一」
大輔が揺さぶっても、翔一は凍ったように表情が変化しなかった。
「これって……俺たちが殺したことになるのか」
殺した。どうすればいい。捕まる。手錠。母の顔。冷たく暗い牢屋。死刑。先生の怒った顔と怒鳴った声。嫌だ。嫌だ。嫌だ。生き返ってくれ。返事してくれ。笑ってくれ。呼吸が浅くなって、鼓動が叩かれているように強くなって、体の内側がぐっと熱くなって、それでいて皮膚はさらりと冷えていて、視界がぼやけていく。
「ま、まだ、死んだか分からないだろ! 早く救急車を呼ぼう」
和樹の声は震えていた。一番近くの家に走り出そうとして腕を掴まれた。
「翔一が手を滑らせたんだ」
和樹は、大輔に肩を掴まれ、ぐっと押さえつけられた。
「本当のことは二人の一生の秘密だ。俺たちは罰ゲームなんかしてない。ジャングルジムで遊んでいる時に翔一がただ、手を滑らせたんだ。いいか」
低くて、震えた声だった。
肩に感じる強さで、スーパーボールのように慌ただしい頭の中がだんだんと落ち着いてきた。和樹に残ったのは、翔一が死んだかも知れない悲しみと、このこと一切隠そうとする大きな邪心と、隠すことに対する少しの罪悪感だった。和樹は大輔の目を見て黙って頷き、それから泣きながら、公園のすぐ近くの家に走って、「友達が落ちて、動かない」と大人に伝えた。
翔一はすぐに救急車に運ばれたが死んだ。落下したときに頭を強く打ち付けたことが原因だった。三人の中で一番元気だった翔一は、死ぬ瞬間は今まで一度も見たことがないくらい静かだった。
三角ジャングルジムに鴉が集まっている。冷える公園の中で、このジャングルジムだけは生暖かい感じがした。
「これまでの九年間、翔一の命日が来るたびに、あの家族に話した方がいいんじゃないかって考えた」
ランプの光を受けたジャングルジムの影が鴉の黒と溶け合っている。
「テレビで人を殺して逃げている奴のニュースを見ると、自分が追われているような気分になった。僕らも一緒だよな。友達を殺して逃げている。殺してない、逃げてないって顔をして生きている」
「でも、もう今更」
十数匹の鴉がジャングルジム下で、人間の死体らしい何かを啄んでいる。鴉の鳴き声、羽ばたく音が感覚のほとんどを占める。
「九年も経つと翔一のこと思い出すことも少なくなった。次第に命日が近づくまで翔一のことを思い出さなくなった。思い出すのは弔問に行く前から後までの数日くらい。おかしいだろ、殺した僕でも記憶が薄れていってる。ついには殺した記憶さえもなくしてしまうんじゃないかって思う。でも罪悪感はずっとずっと増してる」
二人で約束した、あの時の悲しみは小さくなって、邪心と罪悪感は膨張し続けていた。
電灯が二人の影をジャングルジムに向かって伸ばす。次々に鴉が集まる。死体を喰う鴉の黒い塊が徐々に大きくなる。ジャングルジムの外に、黒い塊から黄色い靴が吐き出された。翔一の靴だった。
「もう、遅いだろう。今更『本当は僕たちが殺しました』って、言っても誰が納得するんだよ。それに、そもそも俺らは遊んでただけだろう。殺したんじゃなくて、遊んでいたときに起きた事故だ。あの罰ゲームは俺らだってやられたことあっただろう。俺が死ぬか、和樹が死ぬか、翔一が死ぬかは同じ確率だった。その一つが起こったんだ。もし俺が、あの罰ゲームで同じように死んだとしても、絶対に翔一と和樹を恨まない。和樹もそうだろう」
大輔の声は小さいながらも重さがあった。
「故意じゃなくても人を殺したら許されないんだ。僕らがちゃんと考えていれば、あんなところで罰ゲームなんてしようとしなければ翔一は死ななかった」
「だから、あれは事故だって」
「じゃあ、なんで二人の秘密にしたの。悪くないと思っているなら、本当のことを言ってもよかったじゃん。僕らには罪の意識があった。秘密を九年間守ってきた。もう、遅いかも知れないけどさ、罪を償おうよ」
蠢く鴉の黒い塊は心臓の鼓動のように膨らんでは萎んでを繰り返している。その塊の下にはみ出ている翔一の小さな手に光が当たっている。
大輔は、目を瞑って下を向いている。
「……翔一の母さん、父さんも前より笑顔が増えてたじゃないか。気付いていただろう。翔一の家族は一生埋まらない穴を持ちながらでも、前に進んでいるんだよ。翔一が死んで三年目のとき、翔一のお母さんが『悲しい思い出にして、ごめんね』って言ったこと覚えてるだろう。さっきも進路の報告した時も喜んでくれたじゃないか。和樹、必ずしも真実が救いになるとは限らないよ。知らないことで救われることだってある」
ふわりと冷たい風が吹いた。白い息がかき消された。電灯がちかちかし始めた。
「俺だって、限界なんだ。自分の行動が翔一を殺してしまったことなんて分かってるんだ。でも、あれは事故だって、何も悪くないって、百パーセントで自分を正当化しないと、本当のことを言ってしまいそうになるんだ。でも、それで誰が幸せになるんだ。俺は、嘘をついて良かったと思ってる。翔一の家族が憎しみを持たずに前を向けたなら、それでよかったと思ってる。俺らが巨大な罪悪感を抱えていれば、翔一の家族は前をむけるんだ」
数回の点滅の後、光は消えた。二人とジャングルジムと鴉は暗闇で一つになった。
和樹は鼓動する鴉の塊に向かって走り出した。三歩目で足が地面から離れた。次第に体が前傾になり、やがて水平になった。空気の上を滑るように進む。前後に振っていた腕は黒い翼となり上下に振っている。黒い塊に飛び込んで、塊の一部となって翔一を啄む。ただ、ひたすらに、善も悪も罪も一緒に。
肉が無くなって、骨だけになっても鴉たちは骨をつつき続けた。たちまちに、骨は白い粉となった。黒い塊が破裂した。白い粉は舞い上がり、消えた。鴉たちはジャングルジムの周りを飛んでいる。鴉は叫び続けている。大群の鴉がジャングルジムを覆って、誰も外から見ることはできなくなった。
和樹は鴉となって群れの中を飛び続けた。その中に、大輔と同じ目をした鴉がいた気がした。
執筆の狙い
印象に残るような文章表現やストーリーを目指しました。
作者としては、登場人物の感情がうまく表現できていない、セリフがぎこちないように感じています。
忌憚のないご意見、ご感想をよろしくお願いいたします。