月に浮かぶ海
堤防に腰掛け海を眺める。闇に染まった世界に打つさざ波は、それでも目に白く映るのだと知る。
今宵は満月。ただひたすらに黒の、他に彩色を燈さない空に浮かぶ丸い大きな天体は、白銀の輝きを放ち美しい。手を伸ばすとその雫を受けられるような錯覚に陥っていけない。足元に広がるのは海。ただひたすらに、黒い海。
夏の暑さが翳り、夕暮れ時ともなるとやや涼しく感じる時節。この時間帯は聊か肌寒く感じるほどに。
海面に映る月影に何を思うかともし尋ねられたら。何と答えればよいのだろう。
一面の黒に身を投じたいと望んでいた。
海面を照らす月影に住処を築くつもりだった。
誰にも気付かれない生命体となって海に漂い、永遠に過ごしたいと薄ら考えていた。
さて、どれにする?
なんて。どれでもないのかも知れないな。
僕にもよく分からない。
今は真夜中。空の中央を満月が照らし海面にその姿を反射させている。そしてその様を僕はぼんやり眺めている。
理解できるのはその程度のことだ。
耳が、聞こえない。
気付いたのは医師だった。登校中車に跳ね飛ばされた僕が、担ぎ込まれた病院の。
やたら忙しなく接する人で、僕はその様をじっと見つめていた気がする。看護師が僕の腕を取り点滴の針を刺すのを見た。その時意識はなかったはずだと後に聞かされたけど、でも僕はその様子を間違いなく見たのだ。
断言できるのは、針を刺された感覚を捉えなかったから。それを不思議に感じたことを覚えているから。
汚い文字。走り書きというより殴り書きと言った方が正確なメモ。
「耳が聞こえないんじゃないか?」
険しい表情の男性医師は、見たところ40代半ば頃か。そういえばこの人が何かしら話しかけている様子なのに、腕を取った看護師が背後にいた助手と思しき女性に何かしらの指示を出していた様なのに、注射器を密封された袋から取り出したのに、その時僕の顔を見つめながら、何やら口を動かしていたのに。
「そういえば、音がしない」
僕は医師に伝えた。口は動かせたから助かった。医師は僕が発した言葉を理解した様子だったから、少し安心した。耳が聞こえない事実はその時、僕の心を苛むことはなかった。全身といっていい範囲を包帯やガーゼで保護され、右腕と両足はご丁寧にギプスで固められ、身動き一つ取れずにいる現実の方が、よほど僕を圧倒したから。
あれから2年経つ。音のない世界で過ごしたのは、3ヶ月ほどのことだった。あの日横断歩道を渡ることを面倒に感じて、その手前5メートルほどの車道を横切った。確かに左右の確認を怠った。僕の姿を捉えたドライバーは、クラクションを鳴らして危険を知らせたと述べたらしい。
クラクションなんて聞こえなかった。車道を突っ切ったことは確かに悪かったけどさ。車が近づいてきているなんて、気付かなかったし。
その時既に耳が聞こえなくなっていたと医師に聞かされたなら、「ああ、そうかもな」と思うだろうけど。
学校なんて憂鬱なだけだよ。不細工だから、成績が悪いから、陰気臭いから、口数が少ないから。
そんな理由で人を殺そうとするんだからね、彼らは。死ね、消えろ、ゴミ、カス。何とでも言って退けるよ。一度弱者と認めた相手にはね。
「そういうことを言われるのは辛いから、これからは僕に関わらないでほしい」
ささやかな願いは叶えられなかった。望めば望むほどに存在を軽視される現実。男も女も関係ない。ひとたび「やっちゃっていい奴」と認定されたら、あとは彼らの気の向くまま。僕はサンドバッグになる以外の選択肢を持っていなかった。
下校して家に戻っても誰もいない。父は仕事で忙しい。斫工事を主に行う会社で責任者として働く父の帰宅は、毎日19時を過ぎている。帰宅した時点で風呂と食事の準備ができていないと頗る機嫌が悪くなって、僕を殴る蹴るするから僕は帰宅後すぐに風呂を磨いて、頃合いを見計らって湯を張り、夕飯を拵えて父の帰宅を待つんだ。宿題なんて手につかないよ。勉強なんてものはある程度、心理的余裕がある子ができることじゃないのかな。僕は別に勉強が嫌いな方ではないと思っているけれど、家にいて教科書を開こうなんて、1度だって思ったことはないからさ。
掃除、洗濯、食事、風呂。事足りていれば、父は僕に用はないから話しかけられることもない。食卓を一緒に囲むなんてこともない。父は僕をとても嫌っているから、夕飯は別に食べるんだ。帰宅前に食事を済ませることは禁じられていて、僕は父が帰宅して風呂を済ませて、居間でテレビを観ながら食事する間、シンク前に立って夕飯をかき込む。悠長な食事とは無縁だったね。だって父が食事を終えたらサッと食器を片付けなきゃ、父は機嫌が悪くなるからさ。
父が求める味噌汁の味を僕が会得するまでの話、いつか誰かにしてみたいな。きっと呆れられて笑われて、「そんな親いるかよ」なんて軽口叩かれるのだろうけど。でも、誰かに聞いてほしい。
僕を跳ね飛ばしたドライバーは無実を訴えていると後に知った。僕は難しいことはよく分からないから、補償とか保険とかそんな話をされても返事に困るのだけれど、父は随分張り切っていたな。意気揚々と「絞り取る」と宣言していたと聞いて、顔から火が出るほどに恥かしい思いをしたよ。退院して以降顔を見ていないから、今どうしているか知らないんだけれども。ドライバーのその後もね。
耳が聞こえなくなっていたのかも知れない僕。車に気付かなかった僕。道路を横断してしまった僕。
悪いのは僕なんだけどな。父の熱意は徒労に終わればいいと思ったよ。ドライバーの無実が証明されればいいとも。
僕の話は誰も聞いてくれなかったから、彼のことはとても心配しているんだ。時間が経つほどに「あの人悪くない」という思いが強くなる一方で、時々堪らなくなる。
「生活環境が著しく劣悪」と、僕に「耳が聞こえないんじゃないか」と汚い字で尋ねた医師が判断してくれたお陰で、僕はこうして海を眺めていられる。海面に浮かぶ月影をぼんやり眺めていられる。
僕の母はとっくに僕を見捨てて、家を出ていたから消息なんて知らなかったのだけれど、母方の祖父が海辺の集落で暮らしていると、誰かが調べてくれて。そちらで静養させられないかと、見知らぬ大人たちが計らってくれたんだ。
「学校のことなんて考えなくていい。ゆっくり体も心も休めなさい」
汚い字を書く医師は、僕にそう語りかけてくれた。声を耳に捉え、意味を理解し、そこに体温を感じ、その体温に触れられていると実感したとき、心のどこかが解れていく感覚を捉えたんだよ。
どんなにカチコチに固まっていたとしても、一度緩むとあっという間だね、人の気持ちなんて。母がいなくなって、父からそれまで以上に暴力を振るわれるようになって。あの頃はどうすればいいのかよく分からなくて、今と似たような気持ちにしょっちゅうなっていたな。
本当に、どうすればよかったんだろうな。
どうしようもない記憶に限って、どんなに時が流れてもつい昨日のことのように思い出せてしまうのは、とても嫌なことだね。
母方の祖父はとても無口な人で、僕はここでも殴られたりするのかと不安に駆られたけれど、この人はそんなことはしなかった。驚くほど無口だけど、僕に掃除や洗濯をするよう命じることはなくて、食事も準備してくれて、祖父宅で初めて迎えた夜は焼き魚と炊き立てのご飯と白菜の味噌汁というメニューだったけれど、それがとても美味しくてさ。何を食べても味なんかしなくなっていたのに、温かいご飯がこんなに美味しいなんて!僕は驚いたね。祖父は黙々と食事していて僕もそれに従って、テレビが何やら喧しかったけれど、祖父はそちらに目線を向けることもしなくて僕に話しかけることもなくて、ただただ焼き魚と白飯を口に運んでいた。たまに味噌汁を啜ってね。だから僕もそれを真似たんだ。僕は知らない人と上手く話せないから。
祖父は
「夜は寝るもんだ」
と、夜な夜な外に出る僕を注意することもあったけれど、でもそんなに煩くもなくて。
母のことは聞かなかったよ。祖父もそんな話はしなかった。母のこと、そんなに知らないんじゃないかな。今どこでどうしてるとか、そういうこと。
堤防に腰掛け海を眺める。海面に浮かぶ月影を眺める。この集落に来てすぐ僕に話しかけてくれたあの子に、またいつか会えるかも知れないと期待して。
海は月に照らされ輝いていて。僕はそれを美しいと感じることはその頃なかったのだけれど、それでもその様を眺めたんだよ。どうしてって、そうしているととても心が落ち着いたから。心の奥底に、じーんとね。僕の意志でどうにかなるものではなくて、ただここにいて、波の音が耳に届くことに安堵して、夜の海に慰撫されているような心持ちがして、気持ちがたいらになるのを感じた。
夏の終わり、時がこんなにもゆるり過ぎゆく空間がこの世界にあるなんて僕は知らなかったから、僕はそれら全てにこの身を預けたんだ。ゆったりと、揺蕩いながらね。
そんな時だよ。あの子が現れたのは。
「こんばんは」でも「何してるの?」でもない、ありふれた言葉で彼は僕に話しかけてきた。僕はそれに応じてその子とふたり、海を眺めたんだ。
「月がきれいだよ」
その子は僕にそう言った。だから僕は夜空を見上げた。その日も満月だったな。
「きれいだね」
僕は言ったんだ。柔らかな灯が目に染みるのを感じてさ。実に心地がよかったな。じんわりと、気持ちが和らぐのを感じたよ。
でもその子、気付いたらいなくなっていて。
僕は驚いて辺りを見回したのだけれど、どこにも人影なんてなくてさ。「え?え?」って声が出ていたな、そういえば。あの子はどこに行ったの?って。
たかがその程度の出来事。会話とは呼べそうにない、短い言葉を交わしただけの。
けれど僕はその子にまた会いたくて。夜、潮風に吹かれるのも海を眺めるのも、海に月が浮かぶさまを眺めるのも楽しみでいるから、雨でもない限りはこの堤防に来て海を眺めるのだけれど。またあの子に会えないかと、そんな期待を胸に秘めていることも事実なんだ。
ふと、現れて。すぐ、消えた。
あの子はきっと、僕の影。僕を投影した何か、若しくは誰かなんだ。でも僕は、あの子の影じゃない。僕はあの子になり得ない。だってあの子は僕という「体温」を有した存在が、恐らくは呼び起こした幻姿だから。
根拠なんてないさ。ただ僕が、そう思うだけ。
「月がきれいだよ」
僕が、僕に語りかけたんだ。そして僕は僕に言われて夜空を見上げた。俯いたままの僕は顎を上げて、夜空を。
「今夜も、月がきれいだよ」
僕は呟く。月に照らされた海はいつしか月を抱き、そして月に浮かび始める。僕はその様子を眦に捉え、天がくるり転ずる感覚に酔いしれる。月に浮かぶ海にそっと身を委ねる。
君に会いたい。恐らくは僕だけが知る、君に。
「月がきれいだよ」
とまた話しかけてよ。次はもっと、気の利いた答えを口にするからさ。ダメかな?
執筆の狙い
純文学が大好きで読んで書いてを繰り返しています。
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