たんとMEW!メイズ
「――おかえりなさいませ、ご主人サマ! 空いているそちらのお席でくつろぎながらお待ち下さい、にゃん!」
奉仕とかいうクソみてぇな文化は日本から直ちに消滅させるべきなんだなぁ、などと相田みつおのような詠嘆と情緒と日本人らしい侘び寂びの心意気を込めて脳内で愚痴ることが最近増えた。取り分け、こうして店にやってきた小太りの、美容室にも三年と五ヶ月は行ってなさそうな中年に出迎え接客する時に、思わず口からぽろぽろ漏れてしまいそうになる。しかしそうなると私のあだ名が[詩人]になった上で、店長からその舌鋒をもって数日間耐えきれないほど執拗にマッサージを受けた挙げ句の果てに退職させられるだろうから、寸前で、ぎゅっ、と、なんとか踏み留まるのだ。イマドキの不景気社会では、バイト先を見繕うのも過酷な時代である――次にここと同じくらい時給の高い働き口を探すのはかなり難しそうだった。ただでさえ最低賃金が深海ほど低い奈良県でここを発掘し、せっせと通勤を続けてスキルを磨いてきたというのに、今さら更迭を喰らうのは御免だ。奈良県には海が無いなどという野暮極まりない突っ込みは未来永劫受け付けない。
以下最高の猫撫で声。
「来てくれて誠にありがとうございます! スコティッシュフォールドのティッシュと申しますっ! ご主人サマは、初めてのご利用ですよね? じゃあ、ちょっぴりサービスの説明しちゃうのでぇ……良かったら、にゃんにゃん! って一緒にやってくださいね? はい、せーのっ」
にゃん、にゃん。
最早恥ずかしいとか黒歴史になるとか、そのような陳腐な恥辱感情すら芽生えないようになっていた。意識としては、やらなきゃお金が手に入らないのだから仕方がない、に尽きる。つまるところ妥協。所詮金を効率的に得るには労働しかないのだなと、笑顔で接客をこなしながら無言で悟りの境地に至った。
働き始めて一年ほど経つが、この時期になるとバイトで来ているメイドたちは所謂「トランス」と呼ばれる特殊能力を習得し、金になる接客を完璧に遂行しながら脳内で全く違うことを考えていられるようになるらしい(店長に聞いたのだ)。無事に私もその技術を習得し、それまでに比べれば圧倒的に心理的ストレスは和らいだ。これは要するに、何度も通っている道ならば、ブルートゥースで音楽を聞きながらでも流行りの漫画を読みながらでも安全に歩けるという状態に近いのである。ちょっと自慢になるが、私の経験とマニュアルに沿えば対応出来ぬご主人サマなど存在しない。従順な従僕として働くことは面倒だが、精密な機械として振る舞いつつ愛想と幻想を振り撒くのはそれなりに楽で良い。
「ご注文はお決まりですかっ? はい、一番人気のぉー、にゃんにゃんオムライスですね!」
ええ、まあ、私がそう注文するようさり気なく誘導したのだからね。
「でもぉ〜、私、ちょっとお昼寝したい気分なんですよねぇ。ほら、昼下がりでお外はポカポカ陽気! さっきお昼休憩は終わっちゃったんですけど、それとこれとは別じゃないですかっ? あ〜働くのめんどくさいな〜」
さて、初利用のご主人サマにはちょっと酷かもしれないけれど、この定型文への対応は自分で発見してもらう。ただ、メニュー紙面の実に四割を費やして「やる気のない猫ちゃんの励まし方」がポップなフォントでどどんと書いてあるからまず狼狽える者はいない。そもそもこんな場末のメイド喫茶なんか来る時点で相当な強者であり、彼ら彼女らは心得と覚悟を持ち合わせている。憂慮は杞憂に終わることがほとんどだが、この店における猫は自発的には働かない――という設定。励まされなければ、本当にその場で丸まって寝てしまうよう指示が出ているのだ。実際は金目当ての血眼でバイトに応募してきた淑女が大半を占めるのだから、私は常日頃から何とも皮肉な気分をセルフで味わっている。
ほら、言って。
ティッシュちゃん頑張ってにゃんにゃん!
と言え。あざといポーズ付きで。
「えー? あぁ、もう、ご主人サマに言われたらやるしかないか〜……じゃあ、ちょっとだけ待っててくださいね? 疲れない程度に、頑張って作ってきますにゃん」
ここで欠伸を一回、小首を傾げ、右人差し指で眠そうに右目を擦り、左人差し指を唇に触れさせ、左目のウィンクを限りなく自然に添える。初来店のご主人サマには漏れなくこうしろと、マニュアルに書いてある。これで確実に堕ちると、マニュアルにはそう書いてある。
私はゆるゆるふわふわとした足取りでスタッフオンリーの扉を抜け、無骨な風体かつ機能性のみを重視した厨房に入った。パステルカラーとリボンとベールと猫耳が支配するフロアとは、まるで別世界のような空気である。入ってきた扉を閉めるときも油断せず、私はご主人サマが覗いているかもしれない最後のコンマ一秒まで夢を壊してはならない。ご当地ゆるキャラやテレビの中の変身ヒーローに、私は強く親近感を覚えるものだ。
そして閉め切ると、だらりと一気に体の力を抜く。猫のときも力は抜いているが、別の抜き方だ。本当に見栄えとか風体を意に介さない休息モード。この時点で首の骨とか鳴らしちゃうぜ。私はほとんどないが、戦場からの束の間の解放を掴み取った戦士は、時折厨房に入った瞬間に奇声をあげたり意味不明な変顔を発露させることもままあるらしい。ただ、計四名の常駐調理スタッフさんたちも普段から見慣れているのか向こうからの余計な干渉は無い。変に気遣われると惨めになるし我に返ってしまうから、この対応は地味に有り難かった。私はそのままくすんだ緑色のタイルを踏んで調理台の間をするすると通過し、錆びついた裏口ドアから外に出る。すると、隣の建物のコンクリートが二メートル目先にある。薄暗く陰湿な雰囲気を垂れ流すこのちっぽけな路地は、左右にも細い空間が蛇のような形ににょろにょろ続いているだけで随分と息苦しいし埃臭い。両側の奥の方に金網フェンスがあるから、一応は俗世と隔絶された私たちだけの休憩所だ。
ぎぃと不快な扉の軋みが午後の曇り空に虚しく響き、顔を顰めつつ左を向くと、ウチの店の外壁にもたれ掛かるように一人、座って煙草を吸っている同僚がいた。そばには、家庭用の鋏で小枝を切り刻みつつ、乾いた笑い声で鳴きながら突っ立っている同僚がもう一人。紫煙を乱暴に吐き出した方の同僚は私を見つけるなりニヤリと笑い、ちょいちょいと手招きをした。同時に煙草の火を自分の店の壁で揉み消す。さらにそれを何とも思っていなさそうな、あどけない十代少女の真っ直ぐかつ歪な眼差し。隣のスタイルの良い鋏女も、煙草少女の未成年喫煙含む軽犯罪を咎める様子はないし、そもそも小枝に夢中で切り刻むことの他に何も見えていないようだった。
これらのもうどうしようもない惨状からして、私たちメイドが職場に雀の涙ほどの愛着も無いことは火を見るよりも明らかである。でも、だからと言って、ひらひらとした装飾が沢山付いているメイド服を着たまま煙草を吸うのは引火しそうで怖いから是非とも辞めて頂きたい。飲食店のユニフォームなのだから汚れたら困るし、燃えたら替わりのストックも無いから、結果灰まみれの下着姿でご主人サマを接客するのはきみなのだよ。
と、マニュアルにはそう書いてある。
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猫メイドカフェ「たんとMEW!」(ちょっと考えれば元ネタらしき英単語はすぐ理解できるハズ也)に勤務するアルバイトキャストは一年前から十名前後を依然としてキープし続け、人員不足によるてんてこ舞い、また人員過多による社内ニート育成場に陥った例は一度として無いし、恐らく私が採用される前からもずっと、頑なにその絶妙なバランスの天秤を傾けまいとしている。季節移ろう度に十人十色、働く猫たちの顔ぶれは常に流動的であり続けたが、とうとうこの秋になってバイト最古参は私になってしまった――メイドとしての技術も経験に裏打ちされる含蓄も、他の九人前後全員に勝てるとは言わない。ただ、この職場で一年近く働き続けられたメイドはほとんど史上初めてと店長に言われちゃったりすれば、少しばかり誇らしい感情にならんでもない。たかがメイド喫茶勤務に「史上」なんて壮大なワードを敢えて使用して褒めてくれたところに微弱だが優しさの波動を感じた。店長は有能でもイケメンでもないが、彼が店長でなければいくら時給が良くったって、こんな仕事とっくに辞めていただろう。
「ティッシュ先輩も『にゃんオム』ですー?」
「うん。ああ、なんだかとっても虚しい気分。我ながら誘導しといてなんだけれど、よくあんなもんに二〇〇〇近くも払えるよねぇ。ざっちゃんもかい?」
先程まで煙草を吸っていた雑種のざっちゃんは、生気のない目線を地面に落とし、僅かに頷きため息をこぼす。元々「たんとMEW!」のキャストには昇格制度のようなものがあり、ある程度の期間勤務するか、リピーターや人気が出るかすれば初期称号の「雑種」と引き換えに、固有品種とそれに伴う源氏名が与えられるシステムである。同時に時給や福利厚生の厚みも飛躍的に跳ね上がるが、つまり働き始めの雑種の頃は自由に名を名乗ることすら許されないし、雑の名の冠するが如く、些事雑用のほとんど全ては四〜五人の雑種に集中する。
ご主人サマからすれば、お気に入りの娘をオムライスやドリンクで応援すればするだけ、それが猫の出世に直接繋がるという魅力的な仕組み。しかしその実態を内部から見れば、厳しい年功序列の鞭が生まれたての子猫に悲鳴をあげることすら許さない世界。加えて、本来は公私問わず、先輩猫も雑種のことを名で呼んではならないという本部通達の謎ルールがある。「ブラック社則よ永遠にクソッタレ」をモットーに掲げる私ティッシュは、休憩中に細やかな反逆の意志を「ざっちゃん」という渾名に込めて表現しているつもりだ。だが――、
「この後すぐあのおっさんに萌え萌えきゅんやらなきゃあいけないと思うと、心がゴビ砂漠みたいに乾いてピキピキひび割れる音が聞こえます。こんなの何本メビウスがあっても足りやしませんよ……ほら、最近特に値上がり凄まじいのです! コスパの最悪記録を随時更新してますよ、確実に! でも買っちゃいますよね。他に! 私を! 満たせる物がないからっ! あーはっはっはっ!」
私が九人前後の後輩の中でも一番ぐらいに可愛がっている仲の良い後輩は、取り返しがつかないほどの重度ニコチン中毒者である。今だって、ばりばりぼりぼりブレスケアを噛みながら喋っているのだ。女子力の欠片も見当たらないが、流石にご主人サマの前で煙草臭を感じ取られては不味いとの認識らしい……彼女の足元を見ると、ついでのように霧吹きタイプのファブリーズが準備してあった。用意周到と称賛したいと共に、用意周到と罵倒したい気分でもある不可思議な感覚が私を苛んだ。ざっちゃんはにゃんにゃんオムライスが出来上がるまでの僅か五分間を、ストレス発散の喫煙に注ぎ込むことにまるで躊躇いがない。煙草さえ辞めてくれたらと、星の数ほど願った。七夕でもないのにつまらない願望を年中延々と送りつけられて、天の川の織姫彦星はさぞ迷惑しているに違いない。
彼女本人は何故か二十代をすっ飛ばしてアラサーを名乗るものの、まず間違いなくその身長と柔肌と髪質からして大学生の私より歳下だ。未成年喫煙は犯罪だし体に悪いから絶対やっちゃあ駄目だよと注意したいけれど、こんな店に入ってる時点で煙草だけ指摘するというのも馬鹿らしくて阿呆くさいから、今までに特にこれといった言及には至っていない。出す話題や聞き及ぶ弟の様子からしてもやはり高校生と判断するしかなくなるが、背の高い中学生の可能性も棄てきれないのが怖い。それくらい若い。良くも悪くもメイド喫茶業界はヤングカワイイ絶対主義の方針を打ち立てている店が多いので、例に漏れず「たんとMEW!」もその辺りの事実確認はガバガバどころかスカスカ、ズバリこれぞ接客業の闇で深淵で末路なのである。
「ロシア先輩もにゃんオムですよー」
「ざっちん。今は……その名で呼ばないでもらえる?」
「あ、でした。シアン先輩もにゃんオム私と同じタイミングで入ったので、多分この三人、おんなじ時に料理取りに行けば良さげですね」
「ええ、そうみたいだけど……ああ、はは、でももう、このままシアンに改名したいわ」
そう言って小枝を切り刻みつつきゅっと目を瞑り見えない涙を流す長身は、ロシアンブルーのロシアさん。もとい、今だけ期間限定シアンさん。例の戦争の影響で、せっかく名も売れだした頃に本部から無慈悲な改名通告を受けたのが一月ほど前のことだった。ロシアさんは元来真面目な性格で向上心もあり、仕事の飲み込みも早い、言うなれば逸材であり、私は彼女を見ていると時折猛烈な劣等感にタコ殴りにされて青痣が出来る。店に入った時期が近くバイト歴も私の次に長いため、一応、本当に一応だけれど、店は私ことティッシュとロシアさんが「たんとMEW!」の二大看板メイドという位置付けで広告戦略を打っているらしい。二人共本業は学生だというのに、貴重なモラトリアムを搾り取ることにかけてこの界隈ほどの情熱を未だ私は知らない。
ちなみにロシアさんをさん付けで呼ぶのは、彼女が私より一つ歳上だからである。あるでしょう、学校で先輩でもバイトで後輩になったとき立場の安定化に苦労するっていうあるある現象。私は陰キャ気質だし、ロシアさんも人見知りするらしく、そのため彼女と「敬語なし、学校でもバ先でもタメで」という探り探りの協定を結ぶまで半年かかった。今でこそざっちゃんと同じくらい仲良しだが、惚れ惚れする背格好と超越的な佇まいはいつだって私の奥底に眠る劣等感を否応なく刺激してくるものだから、ロシアさんの優しさや案外抜けているところに気付くまでは本当に苦痛そのものだった。それこそ、心がタクラマカン砂漠のように乾いてピキピキひび割れる音が聞こえたもの。もしも彼女の整った肢体効能の目視的セラピーがなければ、いつ精神が崩壊していてもおかしくなかった。
いけないいけない、心の中でもシアンさんと呼んで慣れていかないといけないぜ。
「いけないいけない、心の中でもシアンさんと呼んで慣れていかないといけないぜ、ぐへへ」
「先輩、脈絡なく意味不明なこと喋らないでもらえますか。私が噂したら霊能少女説が立ち上がって終業打ち合わせで拗れる気がします。グッズ展開の構想とか始まっちゃいます。そんなの始まったらもはや始業ですよね? するとですねなんと、私門限に間に合いませんよ! つーか門限どころか終電すら危ういんじゃないでしょうか! なら私帰れなくなりますよね? だから今日こそ先輩の家泊めてください! コンビニスイーツと先輩が普段着てるパジャマで深夜の舞踏会と洒落込みましょう!」
「いえ待ってざっちん。ティッシュさんも考えあってのことでしょう、頭ごなしに否定するのは良くないわ。きっと未来を見据えて、ウチたちのことを思い遣って、考えた上で、気持ち悪い独り言を吐いたのよ。言い分も聞かずに自分の安全と快楽を守ろうとするなんて……最低よ? 終業のときに模擬腹切りでもしたほうが、踏ん切りがついて双方平和に納得出来るんじゃないかしら。安心して、介錯は言い出しっぺのウチがやる。ちゃんと木刀よ」
少しばかり欲望が漏れ出たくらいで、可愛い後輩と頼もしい友人が過剰に反応して、一人数行に跨り蛇のようににょろりんと長い台詞を言ってくれるのは見ていて大変面白いが、ひたすらに紙面を圧迫するということを二人には分かっていて欲しい。述懐の途中だけれど、既に全文載らない確信があるーー閑話休題。
さて、慕ってくれる後輩が私の家に熱を上げるのと同時に、対等な良きライバルの異常なまでの優しさが当て擦りに聞こえるのがとても辛いぞ。先述のシアンさんの言だが、そのほとんどを私への善意から成るフォローで埋め尽くしてくれている。これが彼女の欠点というか、まあ欠点で間違いはないのだが、行き過ぎた善意がしばしば私やご主人サマを傷つける。本人に全くその気が無いのがタチの悪い事で、模擬腹切りとやらも、本心からそうすることで円満な和平が成立すると思い込んでいるときた……このような奇行奇言ばっかりは、いくら指摘しても治まるような性質ではなかったのである。言えば申し訳なさそうにして謝罪もするが、手を変え品を変え、何度だって悪意なき暴力的善意が私たち九人前後のメイドとご主人サマらに降り注ぐ。エロい体と完璧な所作、美しい艶を持った黒髪ロング、クールな眼差し、そしてエロい体を以ってしても打ち消せない致命的弱点。私如きの凡才がシアンさんと対等足り得る理由が、これだ。落ち着いて改めて考えてみれば、彼女から奇行と奇言を取り除いたような完璧な人は、奈良のちっぽけな社則の厳しいメイドカフェでオジサマ相手ににゃんにゃん媚を売っている筈がないのである。店側も店側で、言っちゃあなんだけれどこんな人を働かせ続けているのは気が触れているとしか思えない。シアンさんが「最高に可愛くて優しくて善良ないい子」でなければ、今頃は私がナンバーワン猫メイドとしての立場を盤石なものにしていただろう。
でも「気持ち悪い独り言」ってところだけは別に優しさとかではない気がするな。普通に気持ち悪がられてたな。
「シアンさん、腹切りの刑はやめて差し上げて。はいよはいよ、わかったよざっちゃん、この後家来な、しょうがないな」
「胃液で消化? え、胃液でしょうか!?」
「木刀でみぞおち叩こうか? たぶん出てくるよ」
「ごめんなさいです!」
「ざっちん、謝れる人って素敵よ」
「まあ、その。さっきの独り言だけどさ。言い訳はしないよ、単純に私の本性がアレなだけ。ごめんね。幻滅したかい?」
「滅相もございません! 慣れっこです! 一生着いていくっす!」
「今更あなたを嫌いになるなんてあり得ないわ。大好きよ」
一体全体こんな私のどこにそこまで言わせる器量があるのかてんで理解不能である。嬉しいのか怖いのかわからない。私は未だに、この二人の存在は何かしらのドッキリでないかと疑っている。物陰からカメラマンがひょっこり出てきても泣かない覚悟もあった。
「じゃあ、そろそろ地獄へ戻ろうかね諸君」
私がぱっと腕を広げていっそ清々しいまでに透き通る声音で休憩の終わりを告げると、二人はそれぞれ生返事をしぼんやりと扉に向かい始めた。と思いきや、いや待て、動いたのはざっちゃんだけでシアンさんはしゃがみこんで何やら粘っている。それは異常行動であり、頭のネジの緩んだ醜態であり、つまりは細切れの小枝を排水溝に一切れずつ丁寧に水葬し別れを惜しむシアンさんであった。対し、楽しみが出来たらしいざっちゃんはスキップを踏んでアイススケート選手の真似までする始末である。メイド服のまま器用なものだが、シアン先輩とざっちゃん、この二人が同じ人類だとは私には到底信じられない。同じ種がここまで大きく性質を異にすることが果たしてあるのだろうか。もしかしたら、働きたくなさすぎてあらゆる方向で発狂する生態を持つ猫メイドとかいう新しい種族の誕生かもしれなかった。
てか、種族というか宗教に近いのかもしれなかった。
「二人目の羽生結弦ここにありー!」
「全宇宙の羽生結弦ファンに胃液を献上したら?」
「小枝さんバイバイ……それとティシュさん、腹パンしようというのなら、ウチが殴っても止める。暴力に走っては駄目。猫メイドたる者、努めて可憐で優雅で堅強でありましょ」
「小枝に二礼二拍手一礼を捧げるメイドは可憐で優雅で堅強なのか、これは専門家による今後の解明が待たれるほどの議題発見だと思う! すごいよシアンさん!」
「それ、うすた京介著『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』のリスペクト?」
「あ、ごめん観たことないや。アマプラにある?」
「ウチも観たことないわ。とりあえずその論文はアニメの専門家に執筆してもらいましょ」
「原作は漫画だと思うけれどね。じゃ漫画の専門家ってなんだろ、漫画家か。出版社の編集者かも」
「でも私は今水葬の専門家だから、早急に小枝を供養しないといけないの。だから先に戻ってて。にゃんオムが冷める前には通夜も葬儀も済ませるわ。ざっちん、ライター貸して頂ける? お線香を立てたいの」
「うへぇ、さっきから思ってたんですけど、シアン先輩は小枝に何を感じていると言うんですか。自分で直近チョッキンちょっきんカッティングしてたくせに。同じスケール感なら煙草一本のほうがよっぽど価値ありますよ! はい、どうぞっ」
「ありがとう。後で返すかもしれないわ」
「別に良いですよ返さなくても。安いですし。その代わり、今度シアン先輩も一緒に吸いません? きっと毎日が法被になりますよ!」
「祭りの季節は三ヶ月くらい前に終わったよざっちゃん」
「でしたねっ! 来年こそ三人でお祭り行けたら良いですね」
「行けたらね。あとごめんなさい、ひいひいひい爺様が受動喫煙で死んだから煙草は吸わないことにしてるの。ざっちんも考えあってのことだとは思うけど、そんなカスみたいな棒切れに執着してると寿命がエゲツナイ勢いで縮むと思うわ」
「クイズ! カスみたいな棒切れはどっちでしょう!」
「くだらない棒切れの優劣は兎も角、この前はひいひいひいひい婆様だったよシアンさん。優しい嘘も程々にね」
「優しいんですかねぇ。いやはや疑惑の判定ですねー」
「優しいだなんてそんな。きっとあなたが優しすぎないからそう見えるだけよ、もう」
「あはは、これを天然で悪気なく照れて言うところが夏の怪談よりも怖いのさ」
「ああ……来年はシアン先輩鑑賞会でも開きましょっか」
「ぜひキャンプ場の河原ででも開こう。それで、メイド服モチーフのコスプレ水着も着せてさ、ちょっぴり肌がしっとりするまで川で遊んでからやろう! エッチな妖怪変化を撃退するためにさ、水鉄砲各種と一眼レフはマストだとは思わない?」
「気色悪い欲望が見え隠れしてますが、概ね同意です!」
「ま、来年まで生きてたらね」
「ええ。夏まで生きてたら、ですね。ーーでは、また後ほど」
トリプルアクセルを決める羽生結弦モドキの劣化クローン雑種に切り裂き小枝水葬の専門家ロシアンブルーというこの世の終わりのようなトンチキ光景を右目と左目で比較し、私はコツコツとローファーを鳴らして厨房へ続く扉へ歩んでいく。最後の台詞を境に扉の奥に消えたざっちゃんは、既にお仕事メイドモードに切り替えを終え、ご主人サマを甘い魅惑で騙す用意を終えたのだろう。仕事熱心なのは先輩として感心だが、ファブリーズを路地に置き忘れていることは面倒くさいから後で指摘してやるとする。取り敢えず遂に念仏らしきものを唱え始めたシアンさんを気にしていてはご主人サマをお待たせしてしまうことになるので、今はこれ以上余計で他愛のない会話を楽しむことはせず、メイド界の歯車への回帰に専念だ。
「今夜は珍しく客が来るんだ。ひっひっひ、晩餐は闇カレーにでもしようかね。蒟蒻ゼリーとおろし大蒜を人里で調達しないと」
などと、私は西洋のこんもりとした深い森の奥にひっそりと居を構える魔女のような独り言をもにょもにょと呟きながら、扉の奏でる錆びついた音色を憂鬱と肩を組んで待ち構えた。
さて、ここまで読んでくださった貴方に問いたい。
この中だと、一番マトモなのは私だろう?
毎日この二人を含む九人前後の傾奇者たちをなけなしのリーダーシップで束ねないといけないからね、一般的な女の子にとっては日々苦労の連続。とても充実しているけれど、きちんと辛いものは辛いのだ。いやいや、辛いと言ってもハバネロやデスソースの話とかじゃあないよ? 闇カレーには二つとも入れるつもりだけれど。おっと、しかしそうなら、間違っても赤い染みがつかないようメイド服はちゃんと個人のロッカーにハンガーで掛けて置いてくるようざっちゃんには言い聞かせておく必要がある。普段からメイド服をこよなく愛し着用する彼女には酷かもしれないけれどーーメイド服によりによって赤い染みだなんて、特に私たちみたいな人種からすれば笑えない冗談である。
知ってるかい。洗濯代だって馬鹿にならないんだ。
と、マニュアルには書いてあった気がする。
まあ、あの子の場合メイド服は趣味の悪い汚れが付くよりも先に火の不始末で燃えてしまう確率の方が余程高いのだが、私個人としてはどうせなら猫メイドカフェのメイドらしく、燃えよりも萌えで店に貢献して欲しいと切に願うものである。
白いメイド服で萌え萌えにゃんにゃん。
赤いメイド服で燃え燃えきゅんきゅん。
読者諸賢、どきんと高鳴るのは同じく心臓で合ってるかい?
執筆の狙い
サークルの会誌寄稿用に書いたものです。たぶん冒頭部分なので、ほんとはもうちょっと続くのですが、他の作業が忙しいのでここで供養させていただきます。
今回はライトノベル的というか、キャラクターや設定の世界に拘ったものになりました。この三人と舞台で上手く中〜長編が作れそうかご意見が欲しいです。