なにこれ
冬も終わりという頃の、ある冷えた晩に、酔った父が持ち帰ってきた段ボール箱のなかを覗いてみると、からだを丸め、ぷるぷる震える真っ黒い生き物がいて、これはいったいなんなのだろうと、思った。
父はネクタイを緩め、スーツの上着を脱ぎ、身に付けているものをするすると床へ落としながら寝室まで歩いてゆき、ベッドに倒れこみ、そのままいびきをかいて眠ってしまったので、詳細を尋ねることができず、わたしは、そのよく分からない生き物を、よく分からないままに、両手で包み込むようにして、ゆっくり、持ち上げて観察してみた。
見た目と触り心地を例えるならば、艶のある黒い毛が密集して生えた大福もち、とでもいったらいいだろうか、天井で煌々と照りつけるシーリングライトに照らされた黒いその生き物は、気を付けてなければいまにも手のひらからこぼれてしまいそうなほどにやわらかく、弱々しかった。
けれども、ちいさな体はどくんどくんと脈を打ち、手のひらのいのちは、あたたかいというより、むしろ熱いくらいで、生きている、という当たり前なことが、より明らかになって、どうしよう、と思った。
母は近所にある24時間営業のスーパーに走り、紙パックの仔猫用ミルクを買ってきて、鍋にパックをそのまま入れ、水を注いで火にかけ、人肌くらいの温度にしてから小皿に注ぎ、生き物の鼻先に置いた。
すんすん、とその生き物の鼻の穴が微かに動くのが分かった。しかし、疲れたようにぐったりと横になったまま、起き上がって飲むような気配はない。妹の柚子が心配そうに見下ろしている。
わたしはスマホを取り出して『仔犬 ミルク のまない』で検索した。
洗面台下の収納棚の扉を開けて、綿棒のみっちり詰まった容器から、慎重に一本を抜き出し、その先端を小皿のミルクに浸し、生き物の口まで持っていく、と鼻をひくつかせ、ピンクの舌がみえて、ちゅう、と吸い付いた。ちゅうちゅうちゅうと次第に強くなる吸引力に負けそうになりながら、おそらく味のしないふやけた綿棒を引き抜き、再びミルクに浸し、また口元に持っていく。また吸い付く。それを繰り返す。あたしもやる、と柚子がわたしを揺すって抗議する。変わってあげる。彼女は生き物を胸のところで、赤ちゃんを抱っこするようにして、ミルクを与えた。ぬいぐるみ相手におままごとをしているようにしか見えなくて、気づけば頬が緩んでいた。
ミルクを飲み終えた生き物は、使い古しのバスタオルを敷いた段ボールの箱のなかで、すぅすぅとちいさな寝息をたてはじめた。柔らかい眠りについたのだ。
次の日、二日酔いで痛むのか、顔をしかめ、片手で頭をぐりぐり押さえながらリビングにやってきた父は、蛇口を捻り、水道水をコップになみなみとためて一気に飲んだ。日曜日ということで、この日はみんな家にいた。
早速の家族会議が始まり、生き物のことを問いただすと、全然覚えていないという。
「捨ててくるわ」と、ゴミ出してくるわ、くらいの軽い感じで言い放ち、生き物の眠っている段ボール箱に向かってのしのしと歩み始めた父の、皺だらけのワイシャツの袖口をつよく掴んで柚子は、愚図ってぼろぼろ泣き出した。
「だってー、犬飼うって約束したじゃん!」
我が家は一軒家で、ちいさいながら、庭もある。ペットは飼える。それに本来は、家が出来たと同時に犬を飼う予定だったのだ。それが柚子の病気や母の転職やらが重なって結局有耶無耶になっていただけで、確かにこの家に越して来るまえに、父が柚子に新しいお家で犬を飼おうと、指切りげんまんしていたことを、覚えている。
断る理由を思いつかないのか、父は、片手で頭のうしろをぽりぽりと掻いた。困ったときに無自覚にでる癖だ。こうなると弱い。
母も、昨日の件で情が移ったのか、可哀想そうよ、自分で拾ってきたくせになどと言っている。
わたしは、そんな家族のやりとりをぼんやりと眺めながら、あの生き物は、いったい何なのだろうかと、考えていた。犬にもみえるし、猫にも、狸にも見える。野生動物は、飼えるのだろうか。けれどもまあ成長すれば、それも明らかになるだろうしと、そのときはそこまで深く考えず、あたらしい家族が増えることに期待を抱いていた。
名前は黒いから『クロ』と柚子が安易に命名した。しかし名付けたはいいものの、家に遊びに来た友人や親戚たちが、クロをみて、なにこれと口々に言うものだから、クロは、なにこれというのが自分の名前であると勘違いしてしまったようで、こちらが、クロと呼んでも反応せずに、ためしに母が「なにこれ」と呼ぶと、三角に立った耳がぴくりと動き、長い舌を垂らしながら嬉しそうに駆け寄って、椅子に座っていた母の白い脛に、体を猫のように擦り寄せてきた。ので、仕方なくわたしたちはこの生き物を『なにこれ』と呼ぶことにしたのだった。
なにこれはよく食べてよく眠り、三ヶ月くらいでビーグルとか柴犬とかの、いわゆる中型犬サイズにまで成長したが、いまだにこの生物がいったい何なのか、誰も分からなかった。
庭に置かれた犬小屋はいつも空だった。はじめ外飼いしていたが、なにこれは家のなかに入りたがって、哀しげな声でみぃみぃと泣くものだから、ついに根負けして家のなかに入れてしまってからは、リビングの隅を独占し、寝床にしてしまった。それを知った従姉妹の三咲姉ちゃんが、いらなくなったからと言って持ってきた猫用のベッドをとても気に入って、そこへからだを丸めてすっぽり収まり、ぴょこんと顔だけ出して、こちらの様子に耳を澄ましているのであった。
なにこれは散歩が好きで、毎朝五時半に、二階の部屋で寝ているわたしの顔を舐めて起こす。わたしは洗面台で唾液くさい顔を洗い、部活ジャージを羽織ってスニーカーを履き、後ろ髪を結んで六時前に家を出る。清涼な朝の空気を浴びて、なにこれは嬉しそうに長い尻尾をぱたぱたと振る。あざやかな陽光が、なにこれの艶めく黒いからだを、神々しいまでにきらきらと輝かせる。わたしは、その光景をうつくしいといつも思う。
散歩好きだからもしかしたらこの子は、犬かもしれない。でも決まったコースを行くのを嫌がり、狭い路地の隙間を見付けて立ち止まって、こっち行きたいと猛烈にアピールする奔放さは、猫っぽい。今日も新しい道を見付けると、尻尾を振ってこっちだよと、わたしにだけ聞こえる声でいう。わたしはそれに頷いて、ただ黙って付いていく。コンクリートの塀に挟まれた道の地面は、濃い緑の苔がびっしり生えていて、歩く度にスニーカーの裏がぐぢゅぐぢゅと嫌な音を立てる。仄白い空が狭い。
やっとのことで路地を抜けると、視界が一気に拡がり、二車線道路を挟んだ向かい側、燈のないひっそりとした民家の垣根を超えて、朝露に濡れて光る皇帝ダリアの花が咲いていた。
「わぁ」と思わず声が出た。
二階建ての民家と同じか、それ以上の高さの、皇帝ダリア数十本が、朝に吹くひんやりとした風に触れて左右に揺れている。まるで夢でもみているような気分で、わたしはそれを眺めていた。
そんな経験を、これまで何度かしてきたが、そういった、ハッとするような場所は、後日ひとりでどんなに探しても、辿り着くことは出来なかった。記憶では狭い一本道を進むだけの単純なルートが殆どなのに、わたしだけで行くと、まるきり違う場所だったり、行き止まりだったりするのだ。どうやらなにこれと一緒でないと、辿り着けない場所があるらしいと気がついてからは、なにこれの行くにまかせた散歩をしている。
それともうひとつ、なにこれの散歩に付き合う理由、それは、なにこれは目が見えない、ということだ。頻繁に転ぶなにこれを心配した母が、動物病院に連れていくと、なにこれにはモノや風景を見るための眼球がないことが分かった。本来目のあるべき箇所にはざらざらとした皮膚があり、その下には固い骨の感触があって、触ると嫌がる。
立ち上がることができるようになってからは、ころころとよく転がって、足取りも注意深く周囲を探るようにあぶなげなものであったけれど、成長していくにつれて、転んだり、ぶつかったりすることもなくなり、まるで見えているみたいに動くことが出来るようになったが、目が見えないということに変わりはない。
だから、なにこれの見ることのできない、なにこれの見たい世界の景色を、私が代わりに見てあげたいと、つよく思う。これは祈りにちかいものだ。
玄関でなにこれの太い脚をウエットペーパーで拭いてあげていると、柚子が片目を擦りながら階段を降りてきた。
「おはよう」
「おはよう、お姉ちゃん、なにこれ」そう言ってなにこれの頭を撫で、芳ばしい朝食の香り漂うリビングへ行ってしまった。
脚を拭いてリビングに連れていき、ドッグフードを入れた皿を用意し、なにこれの前におくと、ほぼ同時に顔を突っ込むようにして、がつがつと豪快に食べはじめた。口を開けたときに現れる鋭く尖った牙。前々からどこかで見た気がしていたのだが、いまやっと思い出した。前にみたNHKの南米特集で出てきた野生のオオカワウソのそれとよく似ているのだ、もしかしてなにこれはカワウソの仲間なんじゃないか、ついに疑問が解けたかもしれないと、一瞬気持ちが高ぶったが、考えてみればなにこれの手足には水掻きなんてないし、そもそも高一にもなって、目の前の生き物がカワウソかどうか分からないほど常識力は低くない。事件は振り出しに戻った。
いつものことだが、なにこれはドッグフードを食べ終えると、そそくさとお気に入りのベッドに向かい、そのなかでぐるんと丸くなり、気持ち良さそうにのんびりと時間をかけて、ながい欠伸をし、むにゃむにゃと口を動かしながら、幸せそうに眠りに落ちる。
わたしは、なにこれが一体何なのか、いまでもよく分からないけれど、その柔らかな寝顔を見ているだけで、そんなことはもう本当に、どうでもよくなってしまうのだ。
執筆の狙い
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