朝顔の恋
(本編)
この辺は天気の移り変わりが激しい。今朝まで霧が立ち込めていたのに、今は空気が澄み渡り、ウグイスの鳴き声が響いている。
今日も朝から施設の中庭で花壇の手入れをしている。
早起きをして手伝うと言う子供もいるが、療養中に無理をさせるわけにはいかない。
つい先日、花壇の片隅に白い朝顔が咲いた。二十年以上も前にひろわれた種が花を咲かせたのだ。
当時私は十一歳の病弱な少年だった。いつも喘息の発作に悩まされ、子供ながらに長くは生きられないと思っていた。
その体質のせいか、圧倒的な太陽の祝福よりも、曇り空が織りなす淡い光の世界を愛した。
天候と体調がゆるせば裏山を探検したりもしたが、山奥まで足を踏み入れることはなかった。母から行ってはいけないと言われていたからだ。
しかし、その言葉はかえって想像力をかき立て、私は途方もない空想を思い描くようになった。
きっと山奥には弱くて優しい人々が暮らす集落があって、私はそこに住む少女と恋に落ちると。
忘れもしない、それは小五の夏休みの初日のことだ。
その日は朝から白い曇り空が広がったから、私は母の目に触れないように、そっと家を出た。
草や小枝をかきわけながら山道を歩いていると、赤茶色に腐食したネットフェンスが行く手をふさいだ。
金網が破れたところをくぐり、更に山奥へ分け入ってゆくと、二階建ての白い建物が現れた。
塀越しに敷地の中を偵察すると、広場にはシーソーなどの遊具があり、土が盛られた花壇には朝顔が咲いていた。
しかし人の気配はなく、辺りは静寂につつまれていた。
塀の隙間から入って広場を見渡すと、建物の片隅にあるベンチに白い服を着た少女が座っていた。
とても弱々しく見えたから、私は彼女に親近感を覚えた。
引き寄せられるように近づき、「なにしてるの?」と声をかけると、彼女は一瞬私を見つめ、スケッチブックを残して走り去った。
年の頃は自分と同じくらい。肌は花びらのように白く、線の細さが服の上から分かった。
彼女が残していったB4のスケッチブックをめくると、花壇に咲く花々が色鉛筆で描かれていた。
花びらや葉っぱの一枚々までもが精密に描かれていて、まるで紙面に咲いているように見えた。
しばらくすると背の高い女性がこっちに歩いてきて、その後ろにさっきの少女がくっついていた。
女性は私の前に立つと、「僕はどこから来たの?」と言った。他にも色々聞かれたがもう記憶にはない。
ただ女性の影から私を見つめ、くすくすと笑っている少女の顔だけを覚えている。
彼女は人差し指の爪を噛みながら、じっと私を見ていた。視線が重なると顔を隠し、また少し顔を出して笑った。
私が「また遊びに来てもいい?」と聞くと、女性は呆れ返った様子で、「ここは公園じゃないのよ」と言った。
無言の抵抗をつづける私を、少女が真剣な眼差しで見守っていた。
女性がため息をついて苦笑すると、少女はその服を引っ張っり、身をかがめた女性の耳元で何かをささやいた。
すると女性は私の方に向き直り、「遊びに来てもいいけど、曇りの日にしてね」と言った。
どうだと言わんばかりに少女の顔を見ると、彼女はまた慌てて顔を隠した。
生まれて初めての成功体験、いや勝利と言っても過言ではない。
意気揚々と施設の正門から出て後ろを振り返ると、女性の後ろを歩く少女の背中が見えた。
すると次の瞬間、彼女はひらりと体をひるがえし、私に手を振ったのだ。
しかし、いつまで経っても曇り空は顔を見せず、忌わしいほどの晴天が何日も続いた。
私は強大な力で邪魔をする太陽にいら立ち、喘息の発作と戦った。
やっと曇り空が現れたかと思えば、近づく台風のせいで天候が荒れた。
ついに私は、強風にあがらい会いに行くことを決断した。
病や天候は耐え忍ぶものと知っていたが、そのときは戦うしかないと思ったのだ。
建物に着き、偵察してから敷地に入ると、両手を重ねてベンチに座る彼女の姿があった。
強風に髪が乱れ、白い服が激しくなびいていたが、そんなことは関係ないとでも言いたげな表情が、意志の強さを物語っていた。
その毅然とした態度に驚いた私は、彼女のそばにかけより、「待っていたの?」と聞いた。
すると彼女は「うん」と小さくうなずき、「シーソーしよ!」と声をあげたのだ。
懸命にシーソーをこぐ彼女の髪が強風に乱れ、たかがシーソーにそこまで夢中になれる彼女に狂気じみたものを感じた。
服をはためかせて宙を舞う彼女は、まるで風に翻弄される蝶のようだった。
彼女はシーソーに飽きると「隠れんぼしよ!」と声をあげた。
私が目を閉じて「もういいかい!」と声をあげると、「まあだだよ」が強風にかき消されて聞こえない。
何度叫んでみても、やはり風の音しか聞こえない。
私は彼女が風にさらわれたと思い、泣き出してしまった。
すると彼女が物置の影から現れて、「ごめんね。怖かった?」と言って微笑んだのだ。
私は顔が熱くなった。
彼女は悪戯好きの妖精といった感じで、私はそんな彼女が可愛らしいと……
いや正直に言えば、無垢な心は欲情にうずき、彼女を奪い去りたいとの衝動に駆られたのだ。
私は自分の強みを活かすために、山で遊ぶことを提案した。
彼女が不安そうに「行ったことないの」と言っても、大丈夫だと言ってゆずらなかった。
私は彼女の手を引っ張って敷地を出ると、彼女に合わせて山道をゆっくりと歩いた。
ヒノキ林を抜ける自然歩道に到達すると、彼女は目を閉じて深く息をし、樹木の香りを堪能した。
彼女は木や草花に興味津々で、慈しむように木の皮にふれ、草花に小鼻をよせた。その姿は森の精気を集める精霊のようだった。
私が大丈夫と言えば彼女は山菜を喰み、彼女が高所を見つめれば、私がその花をつんであげた。
「ほら。あそこに白い朝顔が咲いているよ」
「ほんとだ。あたし、種をひろってくる」
「僕が行こうか?」
「大丈夫。自分で行けるから」
小雨が降ったりやんだりしていたが、二人は樹木に守られていた。
岩間を落ちてくる七滝にたどりつくと、彼女は滝壺の縁に立ち、その白滝にみとれた。
しかし私は自然の脅威に恐れおののいていた。いつも薄絹のような白滝が、ぶ厚い水壁に変貌していたからだ。
「そろそろ帰るよ」
「いや!」
「でも……」
「あたし、もっと山を見たい」
滝壺からつづく渓流は普段穏やかなのに、その日は水かさがふくらはぎの半ばに達し、流れも速くなっていた。
しかし私は彼女にいいところを見せたかった。
勇気をふりしぼって石をつたい、川を渡って振り向くと、彼女はまだ川の縁に立っていた。
彼女の元に引き返し、流れに足を踏み入れて手を貸すと、彼女は石の上をゆっくりと歩いた。
彼女は平らな足場でもなぜか何度もふらついたから、そのたびに彼女を抱き締めることができた。
彼女が川を渡り切ると、私は彼女に聞いた。
「怖かった?」
「うん。でも面白かった!」
私はもっと彼女を喜ばせたいと思った。
「高台に行く?」
「うん!」
彼女の手を握って石段を上がり高台につくと、遠くを指差して花火大会のことを話した。
「あの河原から花火を打ち上げるんだ」
「あたし、花火を見たことないの」
私は開催日の夕方に迎えに行くと約束をした。
そのころ施設では、彼女の行方が分からず大騒ぎになっていた。
母は私の手を引っ張って施設に行くと、職員たちに謝罪し、二度と行ってはいけないと私を叱りつけた。
開催日の夕暮れ時、私は迷うことなく彼女の元へ向かった。
建物に着き、偵察してから敷地に入ると、彼女はひざの上に両手を重ねてベンチに座っていた。
彼女の前に立って「花火を見にいこう」と言うと、彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、「うん」と小さくうなずいた。
高台につく頃にはすっかり日が暮れていて、風にゆれる草の音と、鈴虫の声だけが鳴り響いていた。
二人で草のはえた斜面に寝転がり、花火があがるのを待っていたら、彼女が私の顔を見つめていた。
「どうしたの?」と聞くと、彼女は目をつぶった。
そのとき、一匹の虫が彼女の頭にとまったのだ。
「あっ! キリギリスだ!」
「えっ、どこに?」
私はそれを手にのせて、彼女の前に差し出した。
彼女が指でなでてもキリギリスは逃げようともせず、彼女に話しかけるように「ギーッチョン、ギーッチョン」と鳴き続け、やがて夜のとばりの中へ消えた。
「早く始まらないかな」
「もうすぐだよ」
「本当に始まるのかな?」
そのとき大音が響き渡り、彼女が私に抱きついた。
「見ないの?」
「こわい」
花火が夜空に咲乱れていたが、彼女は私の胸に顔をうずめて泣いていた。
「すごく綺麗だから見てみなよ」
彼女が顔を上げると、鼓動が激しく私の胸に伝わってきた。
母はまた私の手を引っ張って施設に行くと、職員たちに深々と頭を下げた。そして彼らの面前で厳しく叱りつけると、「もう会いに来ません!」と私に大声で言わせた。
ほとぼりが冷めるのを待つことにした。
少し大人に近づいた私は、二度と会えなくなることを恐れ、慎重になっていたのだ。
秋が深まり、少し肌寒くなったころ、私はまた彼女に会いに行った。
その日は朝から雨が降っていたが、それがやむと彼女の元へ向ったのだ。
しかしベンチにその姿はなく、雨に濡れた朝顔だけが、ただきらきらと輝いていた。
終わり
朝顔は いやつぎつぎに 朝ひらく わが少女子よ まなこを開けよ
『慕尼黑歌集』より
(エピローグ)
妻はりんを鳴らすと、目を閉じて娘の遺影に手を合わせた。
「あの子が生きていれば、もう三十二歳になるのね」
難病を患い、太陽の光にさえ耐えられない娘は、人生の半分近くを療養施設で過ごし、十一歳の秋にそこで生涯を終えた。
過ぎ去るために生まれて来たような一生だった。
娘の部屋は当時のままにしてある。
娘は幼い頃から絵が大好きで、部屋の壁にはクレヨンで描いた絵がところ狭しと貼ってある。
絵の具で描いてくれた妻と私の似顔絵もある。
それらの絵を見ていると、幸せだった頃のことを思い出す……
「釣りに行きたいんだけど」
「だめ!」
一緒にモデルをやっている妻にも叱られた。
「あなた、釣りは先週も行ったでしょ」
懐かしい思い出にふけっていたら、部屋に夕陽が差し込んでいた。
娘は施設に入ってからも絵を描きつづけ、私たちが顔を見せるたびに、それを見せてくれた。
晴れた日には窓から見える景色を描き、曇りの日は外で中庭の風景を描いていた。
ほとんど使うことのなかった勉強机の本棚は、娘のスケッチブックであふれ返り、収まらないものは箱に入れて保管してある。
実は私も妻も、娘の絵を見ることが辛かったのだ。
山の絵には外界への憧憬が滲み出ているし、花壇の絵からは、生命への憧れが痛々しいほど伝わってくる。
施設に入れて本当に良かったのか。人生を施設だけで終わらせてしまった。可哀想なことをした。
娘の絵を見ていると、そんな思いに駆られてしまうのだ。
しかし私も妻もそう先が長いわけではない。だから二人で相談し、今一度すべての絵を目に焼き付けておくことにした。
絵を全部持ってあの子のところへいけば、きっと喜んでくれると思ったからだ。
どのスケッチブックにもベンチから見える山の風景や、花壇に咲く花々がびっしりと描かれ、その絵の下に添え書きがある。
今日からみんな夏休み。
でも、あたしは夏がきらい。
ヒマワリを部屋の中からかきました。
今日は朝からくもり空。
山が赤くてきれいです。
ベンチにすわって朝顔をかきました。
楽しかった。
今日は朝からずっと雪がふっている。
白い山をかきました。
少し寒いけど、大丈夫。
そのとき、妻が目頭を押さえながらB5のノートを差し出したのだ。
箱の底に埋もれていたその小さなノートには、娘の赤裸々な気持ちが綴られていた。
今日ベンチで絵をかいていたら、知らない男の子に声をかけられた。
びっくりして逃げちゃったけど、もどってみたら、あたしより弱そうな子で、かわいかった。
今日、男の子とシーソーをして、それから隠れん坊もした。
隠れん坊は、あたしのほうが上手だった。
そのあと、あの子が山につれていってくれた。
あたしが石の上で転びそうになると、あの子、あたしを抱きしめて助けてくれた。
あの子、あたしのこと好きみたい。
あたしもあの子が好き。
花火をみる約束をした。
少年と遊具で遊ぶ光景や、山を散策する様子が描かれていて、草や花びら、木の皮や小枝などがのりづけされていた。
最後のページには花火大会の様子が描かれており、やはり添え書きがあった。
今日、あの子と花火を見にいった。
大きな音にびっくり!
あの子にだきついて泣いちゃった。
花火って、すごくきれい。
もしまた会えたら、プレゼントを渡して目をつぶる。
でもあの子、キスのこと知ってるのかな?
その添え書きの横に、折り紙で作られた小袋がのりづけされていた。「朝顔のたね」とペンで書かれており、折り目を開くと黒い粒が沢山入っていた。
娘は過ぎ去るために生まれたわけではない。あの子は恋をし、人生を謳歌したのだ。
娘が愛した少年に会ってみたいと思った。
妻と相談し、娘が世話になった療養施設を訪ねることにした。
「すみません。電話をした者ですが」と受付で言うと、応接室に案内され、年配の職員が説明をしてくれた。
「療養記録は十年間保存して処分されます。まして二十年以上も前のこととなると正直難しいです。当時の職員も、もうここにはいませんので」
そのとき部屋の内線が鳴り、職員がうんうんと頷いて受話器を置いた。
「当時のことに詳しい者が一人いるようです。間も無くここに来ますので、後は彼から聞いて下さい」
そう言うと職員は退室し、少し後に土でよごれた作業服を着た青年が入ってきた。
「すみません。こんな格好で。さっきまで花壇の手入れをしていたので」
私は自分の目を疑った。
どう見ても彼は三十歳くらいにしか見えないのだ。当時の職員であれば、定年間近でも不思議ではないのに。
その青年に娘の最後のノートを見せて、そこに描かれている少年のことが知りたいと伝えた。すると彼は静かにノートをめくり始めた。
やがてページをめくる彼の指が震え始めた。
彼は最後のページに描かれている花火大会の絵をしばらく見つめてから、そこに貼ってある小袋をあけ、手に朝顔の種をのせた。
彼はそれを固く握りしめると、絵の中の少年は自分であると言った。
彼は出会いから花火大会の日までのことを鮮明に記憶しており、私は懸命に生きる娘の姿を思い浮かべることができた。
私は確信した。娘は病に倒れたのではない。生き終えたのだ。
私たちは彼に礼を言うと、娘のノートを彼に託して施設を後にした。
それから一月ほど経った日の朝、彼から電話が入った。
「咲いたのです。今朝花壇にいったら、咲いていたのです」
施設に着くと、花壇の片隅に一輪の白い朝顔が咲いていた。
後日、朝顔は翌朝までしぼまなかったと彼が教えてくれた。
終わり
いかならん 色に咲くかとあくる夜の まつのとぼその朝顔の花
滝沢馬琴『兎園小説』第四集
文宝堂(二代目蜀山人)の採録による「夢の朝顔」より
執筆の狙い
6200字の作品です。よろしくお願いします。