サリンジャーなしの男たち
夜、眠りに着いてから夢の世界へ行く前、ママはそっと部屋に入ってきて、ぼくの頭の中を片付けた。ママはその日ぼくが見たもの聞いたものをひとつひとつ拾い上げて、それがいいものであれ悪いものであれ、じっくりと眺めてから、元あった場所に仕舞ってくれた。
ママが片付けてくれると、洗い立てのシャツみたいに晴れやかな気持ちで目覚めることができた。
朝、肩と首が鉛のように重かった。妻はまだ寝ていた。今日が産休の初日だった。妻を起こさないように、ぼくは慎重にベットから降りた。
はっきり言ってぼくは追い詰められている。今日もいつ家へ帰ってこれるかわからない。やることは山ほどあった。しかしそんなことは問題ではない。いつもの問題、本当の問題——人間関係だ。
こういうことを深く考えてはいけない。ぼくはトロピカーナのグレープフルーツ・ジュースを飲んだ。食パンをトースターで焼いてマーガリンを薄く塗って食べた。
今日、有給休暇を使って休むかどうか、だいたい3分くらい悩む。これで気持ちが少し楽になる。子どもの頃からそうだった。今日はお腹が痛いと親に嘘をつくか、毎日悩んでいた。あの頃は悩むことが楽しかった。きっと人間は大人になってからも慣れたことを繰り返すのだろう。たとえそれが良くない習慣だとわかっていたとしても。
通勤中、電車の窓を見て途方もない空想を抱く。と言っても、何か具体的なもの……女性や怪獣や別の惑星のことを考えたわけじゃない。白い光とか青い湖とか、言ってみれば形而上の世界を考える。目で見えて手で触れるものから逃れられる。
隣で寝ている妻の膨らんだお腹に手を当てる。お腹に耳をそっと当てる。中から動く音が聞こえる。それは境界の内側から外の世界を見ているようだった。
長いエスカレーターへ降ってまた登っていく。行列に連なって地下から地上へ、天空から地上へ、水底から水面へ、息を止めて進んでいく。駅から庁舎まで道が歪んでいく。もしも手すりがなければ車道へ放り出されるはずだけど、現実はまっすぐ歩いていた。
デスクに座って5分経過に電話が鳴る。4つある電話が一斉にだ。世界の終わりに鳴り響く天使のラッパのようだった。でも終わることはなかった。手続きの遅れのせいだ。自分たちのせいではなかった。みんなが「自分のせいじゃない」と言っているから自分たちもそう言うだけだ。
特別な事態だから通常の手続きは省略される。役所のプロセス重視は、ここでは関係ない。
ぼくを含めた4人の男たちは、荒野の用心棒よろしく問い合わせを素早く打ち返し、それらを記録し、また電話を取る。すべてクレームだった。何を言われても、自分たちでどうしようもない。
7階の建ての一番新しい庁舎だった。その7階、窓をすべて開けて、5台の扇風機を回す。空気清浄機はない。予算がないからなのか、それとも別の理由なのか、誰もその話をしなかった。する必要はなかった。頭の中でみんな合意できていた。
12時に昼食。ここら辺で昼食を取れる店はない。自分たちの給料では到底行けない。高すぎる。下っ端のぼくは廊下に出て、ドアの裏側にあるスイッチを切る。部屋の電気を消して、暗闇の中、4人の男たちはコンビニのおにぎりとパンを食べる。空調は自動的に切られる。ワイシャツの襟に汗をにじませながら、下を向いて、130円の昆布のおにぎりを食べた。誰も話さない。それは話すことがないという単純な事実による。寄せ集めの4人の男たちは、何も人間的な共通点はなかった。
13時ちょうど、電話がかかってきた。
「……どうしていいかわからないんです」
女性の声だ。
「どちらさまですか?」
「伊勢原市に住んでます」
「お名前は?」
「……だから、どうしていいかわからないんです。近所に大勢の人がいます。わたしは一歩も家から出られません。なんだか怖くて……。窓から影が見えるの。時計台の上に誰かいる。きっと自分の影を探していると思うんです」
「警察には?」
「きれいな川で鱒を釣ったことはある?」
「いいえ」
「ヤシの実からお酒を作ったことは?」
「いいえ……いったんお電話を切らせていただいてもいいですか?」
電話はあちらから切られた。
帰宅は深夜2時。ここ数ヶ月は毎週そうだ。大量の電話、大量のメール、それで定時まではそれしかできない。その後、大量の入力作業がある。夜に大量の派遣社員がやって来て、一緒にシステムに入力する。
タクシーで夜の高速に乗る。真っ暗で何も見えない。車のテールランプの光が人魂のように道路に浮かぶ。
ぼくが運転していればあちら側へ行ってしまっただろう。本当にあちら側へ行けるのは後部座席からだ。永遠に高速道路が続けば降りなくて済む。
帰るとミクが寝ていた。ぼくはそのまま隣で寝ている。
今こそ部屋の中を片付ける必要があった。ぼくはそれを強く求めてきた。しかしそれは与えられるはずのないものだ。妻は髪にリボンをつけたまま、死んだように寝ていた。
13時きっかりに、また電話が来た。
昨日の女性だった。
「きれいな川で鱒が釣ったことはない? この季節は大きな鱒が釣れる。今の時期は水が冷たいから」
ぼくは電話を切った。
執務室の窓の側に積まれたダンボールの上にアクリルの箱に詰め込まれた折り紙の鶴があった。地元の小学校の子どもたちからプレゼントだ。冷蔵庫には野菜ジュースのパックがぎっしり並んでいる。地元の企業から差し入れだ。
電話を切って7分後、またかかってきた。
「今度の週末」男性の声だ。「奥さんと一緒にわたしの家に来なさい」
「どちらさまですか」
「わたしがわからないのか」
わからないのか――ここではわからないことばかり聞かれる。またわからないことを避難される。休日も電話の声が聞こえる。顔も知らない人間たちのことを考える。目の前の人間よりリアルに感じられる。
「この前、廊下ですれ違っただろう」
低く、威厳のある声だった。命令することに慣れている人間だ。
「わたしの家は丘の上にある。必ず来なさい」
電話は切れた。
男たちがぼくのほうを見ていた。ぼくはさっきの電話について何かコメントしなければならないと感じた。だがすぐに電話は鳴る。男たちは仕事に戻る。これでさっきのことを気に止める者はいない。こうやって4人の男たちは、過去を振り返えらないようにしていた。ひとりひとりの中ではひょっとすると過去に思いをはせているのかもしれない。口には出さない。言葉にすれば問題になってしまう。だから地球の裏側まで深く言葉を飲み込む。それはなかったことにできる――それが男らしさだ。
執務室のドアが開いた。入ってきた男は上司だ。上司はときどきこの執務室へ顔を出し、差し入れにカントリーマームやばかうけを置いていく。4人の男たちが何をいているか、上司は何ひとつ知らない。それはまだ問題が起きていないからだ。
「さっきここに電話がかかってこなかったか」
上司は、腕を組んで、ぼくの隣に立った。
「電話はたくさんかかっていますが」
「知っているさ。わたしが言っているのは、間違い電話のことだ」
「しょっちゅうですよ」
ぼくの前に座っている男が言った。
「おい、わかっているだろ?」
「それらしいのが……週末に妻と家へ来るよう言われました」
「そうか……では必ず行くように」
上司はため息をついた。
「妻が妊娠しています。もう6ヶ月です」
「きみは」上司はぼくの肩に手を置いた。「奥さんと一緒にいたほうがいい。言いにくいのだが、不測の事態に対処することが必要があるから、その……きみひとりではダメだ。頼んだぞ」
上司はカントリーマームの袋を開けて、ぼくのマウスの横に置いた。バニラ味だ。
「頑張ってくれ」
上司は執務室から出て行った。
今日も深夜の2時に庁舎を出る。デモ隊は終電で帰ってしまったらしい。
デモ隊はプラカードを掲げ、拡声器で叫ぶ。そして自分たちの「抗議活動」の様子をSNSにアップする。たぶん近くのセブンイレブンで印刷したビラが駅の階段の入口に落ちている。デモ隊はひとりの時もあるし、山のようにたくさんいる時もある。昼休みにコンビニへ行くとき、デモ隊の前をとおりすぎる。警察官が守っている境界線から一歩たりともはみ出さず、彼らもコンビニで買ったパンを食べていた。子どもを連れている人さえいた。
帰りのタクシーの中でぼくは考えた。このまま妻が子ども産むとして、出産の時にまず側にいることはできない。それからいつ子どもの顔を見れるかわからない。……これ以上はもう考えられなかった。はっきり言ってぼくは追い詰められている。
妻はすでに寝ていた。ぼくはリビングのテーブルにメモを残した。週末、電話の議員の家へ行くこと。それは仕事であり、断ることができないこと。最後に愛していると。
妻はリボンをつけて寝ていた。今日は寝息が荒かった。
執務室では人間関係の問題を抱えている。たしかに4人の男たちはきちんと職務に専念している。ぼくが思うに、それこそが軋轢を生んでいた。4人の男たちはきちんとやりすぎていたのだ。
上司に何かされたというわけではない。あの男もきちんと自らの職務を忠実にこなしている。あまりにもすべて定規で線を引いたみたいに収まっている。しかしそれが4人の男たちに影響し、苦しめている。これは具体的な問題だった。
ぼくは今日も同じ椅子に座り、同じ仕事をする。これは臨時の仕事のはずだったが、そんなことはもはや関係ない。
今日の13時、ぼくは電話を待っていた。
「今日はたくさん人がいるね」声が明るかった。「何か行動を起こすほどのことでもないの。これはあくまでわたし自身の問題。……だから余計、どうしたらいいかわからない」
「わたしもいろいろあるんです」ぼくは小声で言った。「パソコンのメモリはいっぱいですし、残業代も出ない。おまけに定時を過ぎれば空調はぴったり止まる」
「たいへんなんですね」
ぼくは電話を切った。
今日は久しぶりに終電で帰ることができる。上司が執務室へ来て、今日は「電車で」帰るように言った。4人の男たちの間に緊張が走った。これで問題がまたひとつ、複雑になった。知恵の輪が首にもうひとつかけられた。ずっしり重く感じる。しかし、ぼくは帰らないわけにはいかない。
ぼくは執務室を出て走った。エレベーターはゆっくり上がってくる。誰がこんな時間に上がって来るのだろう。あと10分しかなかった。
エレベーターのドアが開くと、中には誰もいなかった。ぼくは安心した。エレベーターはゆっくり降りていく。
ぼくの住んでいる街には、丘の上に大きな屋敷があった。ぼくのアパートの窓から屋根が見えた。白く美しい漆喰の屋根。ほこりっぽいこの街の中で、まるでスペインかイタリアかの貴族の館のような、場違いに立派な屋敷だった。
眠れない時、丘の上の屋敷を想像する。フリルのカーテンのついたダブルベットがある。ぼくと妻は愛し合う。いつの間にか屋敷は夜の海へ舟のように漕ぎ出していく。海水が浸水してきた。
赤ん坊の鳴き声が聞こえてくる。かすかにだけど、それははっきりと聞こえる。
「ここには地下室がふたつある。地下1階にひとつ、地下2階にひとつ、ぜんぶでふたつの地下室。赤ちゃんはたぶん地下2階のほうにいると思う」
妻はぼくの耳元で囁いた。
「どうしてそんなところに?」
「守るため」
屋敷には大きな塀があった。世界の出来事すべてを拒んでいた。妥協というものが一切感じられない。中世の大聖堂のような神聖さがあった。
執筆の狙い
なんとなく書いてみました。よろしくお願いします。