作家でごはん!鍛練場

中秋の名月に添えて

めぐりあはむ
空行く月のゆく末も
まだはるかなる武蔵野の原

藤原定家「新千載和歌集」より/1356年 (延文元年)

武蔵野……
その範囲についての明確な定義はないが、一般には、関東地方の埼玉県川越市以南から、東京府中に拡がる地域とされる。また広義には、武蔵国全部(現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる)とされ、万葉集を始め、古来様々な文芸作品に登場してきたが、描かれる姿はどれも、雄大な大自然である。


行くすゑは
空もひとつの武蔵野に
草の原より出づる月影

……九条良経……

草原から昇る月は、広大なる原野「武蔵野」ならではの風情がある。


・・・


――東山道武蔵路 国分寺あたり――


ええ、武蔵野も最近ではずいぶんと賑やかになってまいりました。武蔵野村は昭和三年に武蔵野町となり、この頃から大小様々な会社が集まりはじめ、昭和五年には大手電機製作所などもこの地に移り活気を呈して。その翌年、満州事変を皮切りに、日本が戦争へと向かって行く中で武器をつくる産業が盛んになりましてね。武蔵野にも広い土地がたくさんございましょ。いつの間にやら工場地帯になってしまって。……今に、本土でのいくさになるのでしょうか。それだけが気がかりでなりませぬ。

ふふっ、そうでございますね。賑やかになって来たと言えども、この辺りだけは昔と変わらず自然が豊かでございます。原生の自然を残すこの土地は、武蔵国と呼ばれた時代より、日本屈指の月の名所と言われております。まことに、良き土地でございます。

はい。日本では春は花、秋は月を愛で、季節を楽しんでまいりました。十五夜のお月見は平安時代に中国から伝わり、江戸時代より、中秋の名月を鑑賞する伝統的な行事となりました。澄み渡る秋の夜空を昇る月に、人々は収穫の感謝を込めて祈り、来年の豊作を願いました。わたくしどもにとりましても、まさに……そう、正にこの日は、年に一度の収穫を祝う夜なのでございます。今宵の名月は、黄金色に輝く望月は、我が一族には赤く見えるのです。薔薇の鮮烈な光沢の中に暗く妄りがましい黄赤を混ぜ込むような、或いは、洋灯にかざした婀娜っぽい赭褐色の封蝋にも似た、悍ましい血の色に染まるのです。狼煙のごときその淫靡な赤が、一夜限りの狩猟の合図なのでございます。

そろそろ日が落ちてまいりました。あなた様はお帰りになったほうが良い。間も無く、年に一度の名月がいずる時分には、わたくしは今の姿をとどめておくことが出来ないのです。この意識も半分は、闇の彼方に飛んで行ってしまうのです。……こんな話をするのは、あなた様をただただお慕いしていればこそ。毛むくじゃらの醜悪な姿を、あなた様の前に晒しとうはございません。

さあ、行きやりょれ。

えっ、なぜ行かぬ、恥を忍んで申したものを。

さあ行かぬか……、早よう!

何を、んっ……覚悟がおありか?

そうなのですか。何もかも、お見通しだったのでごさいますね。わたくしが大口真神より血を分けた、人を喰らう人狼なのだということを。神の道より外れた魔狼だと……

えっ、帝国陸軍の……密偵。戸山町……陸軍軍医学校防疫部、防疫研究室。

……生体……実験……? わたくしに近付いたのは、そういうことだったのですか……

生物兵器。……はなからそれが目的で。

では、わたくしを捕えるか? 或いは、退治なさるか。……密命なのでこざいましょ。


……それは……いけませぬ。そんなことをしてしまったら、もう二度と、今の世界には戻れないのですよ。

いいえ……駄目です。獣と化したわたくしが、あなた様の心情を、果たして覚えていられるかわかりかねまする。血肉だけを喰らうやも知れません。

えっ、……それでも良いと仰るか。そんなお方は初めてでございます。覚悟を決めて参られたのですね。

それほどまでに、わたくしのことを……

あぁ、この鬼歯が顎の先まで伸び、その鋭いきっさきで、あなた様の喉元を貫く。どくどくと絶え間なく脈打つ大動脈の鮮血をすすり、碧白く輝く頸静脈に、我が一族の証たる聖血を注ぎ込む。それは、わたくしにのみ与えられたいにしえよりのことわり、存続の本能。

仲間になると。……その身を犠牲にしてまでも、来世を一緒に歩んで行きたいと……。軍部の手から守りたいが為に。

愛しているからと。……倫理も道徳も全てをかなぐり捨て、暗黒の中で、究極の愛に生きると……。わたくしと共に、永遠に。

人狼族の姫として、身を潜めながらの千と五百年。あぁ、生きた甲斐がございまする。わたくしはこれ程まで愛し、愛されたのはあなた様が初めて。嬉しゅうございます。


そろそろ時がまいります。どうか、あちらを向いていてくださいまし。変わり果てる刹那の、あの醜い姿だけはあなた様には見せられませぬ。

後生ですから、どうか……

ぐあぁぁぁぁ………………

ど……、どうか……

ぐあっ……ぁぁぁあっ……


あちらを……




――令和XX年 十五夜――


一昨年は八十六名、昨年に至っては百名を超えております。……十年来の流行り病で、仲間はとうに死に絶えもうした。魔法の薬を打ったとて、我々には効かぬようでございますね。まさか、あなた様までもかかってしまうとは。永遠の命と言ったは情けない。砂上の楼閣の如く、いとも簡単に。たぶん、あなた様にとっては、今宵が最期のときになりましょう。変身する際のあの、膨大なる衝撃に、もはやその身では耐えられませぬ。……この、わたくしとても。

後悔してはいぬと。なんと有り難きお言葉。

ええ、楽しゅうございましたとも。あなた様と出逢えてからのこの百年は、それまでのながい人生の全てをもってしても、比べものにならぬ程……幸せで、ございました。

わたくしは今でも、月夜を見上げる度に、出逢った頃を思い出しまする。黄昏色に染まる御岳山の梺、細く長い坂道。つづら折りの曲がり角に、浴衣姿のわたくしはひとり、遠くを見つめ佇んでおりました。藍染めの江戸小紋に、半幅博多帯を締め、黒いレース地の日傘をしゃにさして。眼下を流るる多摩川は、キラキラと輝いておりましたっけ。あの時あなた様は、ハイキング客を装っていたのでございましたね。そんなことも露知らず、岩場の苔においとられ、足を挫いたと言うあなた様を、わたくしの別宅までお連れして。肩を貸したわたくしに体重を乗せてくるもので、それは随分と骨をおりました。家につく頃にはどっぷりと日が落ちて、西の空には宵の明星がまたたいて……。刹那、あなた様は、顔を出したばかりの上弦の月を見つめながら一言、こう言ったのでございます。

「月が、綺麗だ」……と。

あぁその時のお美しい横顔に、わたくしもまた、見惚れておりました。

軍部の手から逃れ、戦後のあの、激動の時代を生き抜くことが出来たのは、あなた様が居てくれたから……、あなた様の覚悟が、あったからこそ。感謝のしようもございませぬ。

広い東京恋ゆえせまい、いきな浅草忍び逢い。シネマ見ましょうか、お茶のみましょうか 、いっそ小田急で逃げましょうか。変る新宿あの武蔵野の、月もデパートの屋根に出る。……この地もすっかり、様変わりしたものでございます。あの高層ビル群に月の光が遮られ、いわんや、街の灯りによって、届く光も細うなりました。すべては、懐かしい思い出でございます。


えっ……

ふふっ、随分と頑張ったこと……

この男女二体の、AIと申すからくり人形に、わたくしたちの記憶が詰まっていると。

へぇ、そうなのでございますか……

……いいえ、わたくしにはわかりかねまする。どんな仕掛けかなどとは、あなた様の専門でごさいましょ。

ふたりの命が尽きた頃に、この人形らが起動する手筈なのでございますか……

しかしまぁ、綺麗につくってくだすった。わたくしはこの娘人形のように、美しくはございませぬものを。あら、この胸も、お尻もマシマシでございますよ。

えっ、そんなに笑わなくても……

ふふっ、近頃の言葉は知ってございます。あなた様も随分とイケメンにされて。自身の理想を全て、かたちにしたようで。

ハハッ、ハハハハッ…………なんだかお互いに、照れてしまいますね。線で繋がれたこの床《とこ》に、横になっていれば良いのですか。



さあ……
いよいよでございます。

来世でも、一緒でございますね。


「ラッシュアワーに拾った薔薇を、せめてあの娘の思い出に……」


それは……


「どれだけ時代が変わろうと、武蔵野の月とあなたの、美しさだけは変わらぬ。僕はあなたを愛せて、幸せでした」


あぁ……


なんと…………


・・・


武蔵野は
月の入るべき山もなし
草より出でて草にこそ入れ

……詠み人知らず……

時の流れ、歴史の歩みと共に変化を強いられた武蔵野。その原野の記憶は遠く忘れられて久しいが、「武蔵野」という言葉は、大自然を慈しむ美称として添えられ、未来永劫にわたり人々の暮らしの中で形容され続けることだろう。





【語意説明】

大口真神とは日本神話に登場する聖なる神の一柱。真神《まかみ》とも呼ばれ、日本武尊《ヤマトタケル》の命を受け、ニホンオオカミ(白狼)が神格化したものである。

陸軍軍医学校防疫研究室は、旧大日本帝国陸軍の医学科系機関。1932年(昭和7年)に開設され、1933年には近衛騎兵連隊の敷地(現在の東京都新宿区戸山)を譲り受け、研究施設が完成した。また、日本の勢力下にあった満州への研究施設、関東軍防疫給水部本部(後の731部隊 : 細菌戦に使用する生物兵器の研究開発機関)を設置し、それを統率した。

東京都青梅市(旧武蔵国多磨郡)武蔵御岳山。山上には武蔵御嶽神社が鎮座し、大口真神(おいぬ様)が祀られる。

「東京行進曲」より一部引用
西條八十作詞・中山晋平作曲/1929年(昭和4年)
参考音源「東京行進曲」
https://youtu.be/JdMCwRXKJeQ

中秋の名月に添えて

執筆の狙い

作者
fj168.net112140023.thn.ne.jp

以前こちらに投稿し推敲してから、昨年開催された「第三回角川武蔵野文学賞」(4000字以内の掌編規定)に出品しましたが、見事に落選した作品でございます。……残念……
お読みいただけたら幸いです。

ちなみに今年の十五夜は、9月29日(金)だそうです。

コメント

真田丸
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人狼の姫と日本兵の話でしたね。
つまらなくはありませんでしたが、大きな感情の変化はなかったため、平坦な印象を受けました。

ドラマがほしかったです。

青井水脈
om126033090115.35.openmobile.ne.jp

「中秋の名月に添えて」読ませていただきました。前にも一度感想書いたりした覚えがあります。
昭和で始まり、令和に飛び。各場面と全体の流れも、分かることは分かるんですが。モノローグで動かしている印象ですね。

>ふふっ、随分と頑張ったこと…… この男女二体の、AIと申すからくり人形に、わたくしたちの記憶が詰まっていると。 へぇ、そうなのでございますか……

それも、相手の男性のセリフなど一切出てこない形で。
規定は、武蔵野を舞台にした掌編小説でしょうか。文学賞の方向性、入選までいきそうな作品の傾向とは少し違ったかもしれませんね。地の文とセリフの繰り返しで展開される小説が投稿されるのを、向こうも想定していたはずというのか。
話自体は好きな感じなんですが、本来は掌編には収まりきらないくらいかと。

fj168.net112140023.thn.ne.jp

真田丸様お読みいただき感謝申し上げます。
そうですね、これといったエピソードはありませんでした。言われて気がつきました(笑)
感想をありがとうございます。

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青井さま、いつもありがとうございます。
言われるように、人狼姫の口語のみで構成されています。最後のあなた様のセリフを引き立てたいが為でした。
武蔵野文学賞は、一般文学とファンタジー系のものに別れており、拙作は後者にエントリーしたものでした。
感想をありがとうございます。

ドリーム
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拝読いたしました。

武蔵野平野は広いですね。
私も武蔵野の住民です、とは言って広う御座いますが。
誌のような流れから人狼姫が戦時中から令和へと恋し続けたその人は?

正直、どう評価し良いか分かりませんが
武蔵野の歴史ありですか。
武蔵野を誌で綴った表現は私の好みです。
お疲れ様でした。

fj168.net112140023.thn.ne.jp

ドリームさん、お読みいただき感謝申し上げます。

武蔵野は広大な故に、どの時代、場所に焦点を絞って書こうか大変苦慮しました。歴史の中で、これ程短期間で目まぐるしく変化を強いられた土地はありませんからね。しかしそれでも、国木田独歩が描いた「武蔵野」は、今現在も何処かにひっそりと行き続けている。自然がなくなったわけではありませんから。
次に書くときは、そんな大自然や原野の様子が描けたら良いかな、なんて思っています。

感想をありがとうございます。

fj168.net112140023.thn.ne.jp

行き続けている

生き

失礼しました。

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