『怖話』記憶
長野喜十郎の自慢は、関白にまで上り詰めた秀吉の若い頃を知っており、共に働いていたということである。
酒を飲むと若い者を集め自慢話が始まる。秀吉が信長に仕え始めた頃より、必ず出世する男と見抜いていたというのである。
「あの気難しい信長様にお仕えして気に入られるなどということは、他の者には到底出来ぬ芸当じゃ。最初からモノが違っていたのだ。あのお方と若き日のひと時を共に過ごせたことは、わしの一生の宝じゃ」
若い者達は、また組頭の例の話が始まったと思うが止めることは出来ない。秀吉の悪口でも言えば必死で止めなければならないところだが、どんなに酔っても、喜十郎が秀吉の悪口を言うことは無かった。
四国攻めが終わり、自宅に戻って束の間の休息を満喫していた喜十郎に、番頭(ばんがしら)から呼び出しがあった。
大友宗麟が秀吉に助けを求めて来ていた。関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟の争いに朝廷の権威を以て停戦命令を発したが、九州攻略を優勢に進めていた島津はこれを無視し続けている。
九州征伐に付いて何らかのお指図があるのか。喜十郎はそう思いながら番頭の許を訪ねた。
「喜十郎、本丸中庭へ参れとのことじゃ」
顔を合わせるなり、番頭はそう言った。
「はっ? どういうことで御座いますか?」
「分からん。上からのお達しじゃ。行けば分かるであろう。御門のところで案内の方が待っているそうだ」
「はあ、左様で …… ま、兎に角行ってみましょう」
普通なら、足軽風情が本丸の中庭まで入ることは無い。ひょっとしてお召しでは、と喜十郎は思った。秀吉が自分のことを覚えていてくれたのではないか。用件については見当も付かないが、それだけでも嬉しい。十年以上も、顔を見ることさえ無かったのだ。
本丸に入る桜門のところで、側衆らしい立派な身なりの武士が待っていた。目の合ったところで目礼し、近付いてから改めて膝を少し折り軽く頭を下げる。
「番頭(ばんがしら)・稲葉勝成様配下の足軽組頭・長野喜十郎にございます。お召しにより参上仕りました」
「うん。付いて参れ」
案内役の武士は、それだけ言うと、振り向いてさっさと歩き始めた。喜十郎は少し身を屈めるようにして従う。
「殿下が直々お見えになる。ここに控えておれ」
「はっ」と返事をし、喜十郎は地べたに正座する。『覚えていて下さったのだ』思わず笑みがこぼれそうになるのを噛み殺した。
しばらくの後、錦糸で織った眩いばかりの羽織袴を身に着けた小柄な姿が見えたと思った。
「お出ましじゃ。控えい!」
きつい口調で武士が言った。喜十郎は慌てて頭を下げ、額を土に付ける。そのまま長い時が経ったような気がした。
「それでゃあ、なーんも見えりゃせんがな。喜十か? 顔を上げてちょ」
間違い無く、懐かしい藤吉郎の声がそう言った。喜十郎は恐る恐る顔を上げる。
もともと額に皺の有る藤吉郎だったが、さらにその数が増えており、『益々猿に似て来ている』と思った。保身本能により喜十郎は、その感情を意識の外へ押しやった。
「喜十。懐かしいのう」
そう言って秀吉は階を一段降り、回廊に腰を降ろした。
「ははっ」と言って、喜十郎は再び深く顔を伏せる。
「そう固くならんで良いわな。顔を上げてちょ。わずかな間だったが、昔は、おみゃあ、俺と呼び合うた仲じゃ。…… のう」
「お言葉有り難くは存じますが、今では天と地の差が御座います」
「そうか。ならば良い。おみゃあに来て貰ったのはな、昔のこと思い出したからじゃ。この歳になるまで、わしは前だけ見て突っ走って来た。近いうちに天下も収まるじゃろう。それで改めて振り返ってみると、若い頃は随分と悔しい思いもして来た。その頃のわしは、馬鹿にされても、今に見ておれと思いながら、笑ったりおどけたりしながら躱して来た。わしが上になった時、わしを馬鹿にした者達は掌を返したようにへつらって来おった。それで大方憂さは晴れた。
ところが、ところがじゃな。未だに抜けぬ棘のように突き刺さっている言葉があったことに気付いた。分かるか? 喜十」
「はて?」
「そうか…… わしが嬶(かか)に想いを寄せていた頃の事じゃ。『ねね様はおみゃあなどの手の届く相手ではにゃあ。諦めて、山に入って器量良しの雌猿でも探した方が良いのではないか』と言って笑った者がおってのう。 …… 覚えておらぬのか、喜十。…… おみゃあだ!」
『えっ?』と思う。頭の中が真っ白になって、思い出すどころか考えることさえ出来なくなった。
喜十郎は『そんな馬鹿な。そんなはずはない』と、そればかりを呪文のように頭の中で繰り返していた。
秀吉は薄ら笑いを浮かべている。
「思い出さぬか? 一晩だけ呉れてやろう。牢の中でじっくり思い出してみるがいい。明日の朝、その素っ首刎ねる」
執筆の狙い
「★鶏肉の味噌焼の企画の参加作品」
『根切り』と言われる皆殺しを多用した信長に対して、『人誑し』と言われた秀吉は調略により降伏させたり、裏切りを誘って敵を内部崩壊させるような、策略による勝利を好んだ。気難しい信長に気に入られるなどは、気遣いが半端では無かった事を物語っている。
ところが、天下人となった後の秀吉は、利休を切腹させたり、関白秀次一家を皆殺しにしたりと、疑り深く残虐な人間へと変身して行くのだ。
https://img1.mitemin.net/fy/di/arvc3tb2mfh86qt16k50z59ghbq_16jv_e8_e8_44u0.jpg