【VO5ネキ】 日付
銀行員だった父親の転勤に従って、良太は幼い時分から転校が多かった。兄は中学から全寮制に入ってしまったから、良太はいつも一人で慣れない学校に通い、やっと慣れかけてはまた去った。
途中から割り込んで行く学校には必ず、「あれ」とか「あそこ」とかで通じる暗黙の了解事項があって、転校生をからかうには絶好の手段だった。良太はそうした代名詞やそれに類する言葉を使うのが大嫌いになった。そういった言葉を使えないよそ者は、なんでもいちいち具体的に話し聞く癖がついてしまって、そのせいでこんどは理屈っぽい人間だと受け止められた。
理屈いらずの、ただなんとなく感じる事を漠然と共有できる友達がいたらいいのにと嘆息する良太だったが、いったん黙ると誰も彼もたちまち良太の知らない世界に戻って行ってしまう。その不安から、休むことなく今と明日の話だけを続けるしかなかった。
高校二年生の夏休み明けに、良太は広島へ引越した。転入した先は進学校で、二年生は部活動の現役を終える生徒もいて、放課後は進路別に講習もあり、誰もが他人にかまってなどいれれない緊張感を漂わせていた。
転入生の世話をいいつかって、良太の隣の席に委員長の高橋恵実が座った。委員長を務めるくらいだからさぞ気の強い女なのだろうと思いきや、なんのことはない。この時期にクラス委員の仕事になど時間をとられたくないから、おとなしい恵実が断りきれず任命されていたのだった。
「リョウタ君のリョウは善良の良でタは太い?」
おっとりと柔らかな声で恵実が最初に話しかけてくれたのは、良太の名前のことだった。良太が頷くと、それから彼女は手を差し出して握手を求めながら、
「弟と同じ名前だ。高橋恵実です。よろしく」
と和やかに目を細めて笑った。
その夜、良太は眠れなかった。どうせ卒業まであと少ししかないのだし、わざわざ友人を持とうと働きかけるまでもないと割り切っていたのに、恵実のほうから何かにつけて話かけて来るのを答えているうちに、気がつくととりとめもない話に心を委ねていた。恵実の知らない町の話、恵実の会ったこともない人々の話。そうなふうに一度話してみたかったとおりに、良太はそれまで心の奥にためていたさまざまな思いを遠慮なく恵実にぶちまけることができた。
良太は布団をめくって机に座ると今日を反芻した。舞いあがった言葉の数々がどんなものであったのか、ありもしない経験を書き留めておきたかった。まっさらなノートをかばんから抜き出し日付を記すとまぶたを閉じた。
「転校先の方言が鍵なんじゃないかな。それを使わない限り、いつまでもお客様扱いなの。ここで標準語なんてウッカリ使ったら、男子だとケンカ売っちゃうようなもんよ。とにかく方言を真似しなきゃダメなんだよね」
「そうだね、高橋さんも県外から引っ越してきたの? めちゃわかってる」
「ううん、わたしはここだけ、親戚もほとんど広島だから、県外にすらほとんどでたことがないの。じゃけぇ、とか、のぉ、って語尾につけるの、男子はだいたいそんな感じ」
「おはようじゃけーいい天気じゃけー、いい天気じゃけーのー、みたいな感じ?」
「おはようはおはようでいいよ。お父さんは、今日はカープの試合があるけのぅー。ってこの時期は毎日いってる」
「なんか違くない」
「なんか違うねぇ。カープ。あ、大事なこと、カープの悪口を言っちゃダメ、他の球団と違って市民が作った球団だから、すごく愛着があるの、あと、お好み焼き。ぜったいに広島風って言っちゃダメ。口にしたら最後よ、コノヨソモノガデテイッテモロテになっちゃうから」
「広島風は御法度じゃけーのー」
「可笑しい。いろんな方言覚えたでしょう」
「覚えてないよ、短くて一年、長くて三年。どうせすぐまた次の土地に引っ越しだから、その場だけでいいんだ。変に覚えすぎちゃうと、次の方言に合わせるときに邪魔になるからさ、よその言葉と大きく違うひと言さえ使えば、一応は馴染むつもりがあるって感じがするでしょ。話の内容なんかどうでも良くて、言葉尻だけで他人を認めたり認めなかったりするんだって、思い知らされた事もある。だからじゃけーは必要だね」
「そっか、横浜から来るって聞いてたから、都会の子ってうらやましいと思ってた。なんか、ごめん」
「その前は新潟」
「えっ、お米の」
「やっぱりそうなるよね。横浜のヤツは新潟から来るって聞いただけで、農業を辞めて出稼ぎに来た家族だって噂まで広まったからさ、笑えるよね」
「笑えない。笑えないけど、いいことも沢山あったよね」
「いいこと? 嘘を付くのが上手くなったかな」
良太は目を見開いた。悪意など、これっぽっちも持ってはいなかった。なのにどうしたことか、否定をしない恵実に向かっていると、それまで叶わなかった人間づきあい全てに対して復讐するかのように、皮肉ばかりをぶつけ始めていた。
高橋さんに嫌われたかもしれない。
良太は机につっ伏した。
「おはようじゃけ」
いかにも重そうな学生カバンを恵実は机に勢いをつけて乗せると「おはようじゃけ」ともう一度いった。
「おはよう」
「今の笑うとこだから。方言は一日にあらず、時間がかかるもんじゃけ、それより、これこれ」
勢いのつきすぎた昨日の話を良太は謝ろうと決めていた。しかし良太の思いとうらはらに、微塵も気にとめていない恵実の様子は、世話係なのだから、多少の愚痴は忍耐強く受け止めなければならないのだと割り切っているふうだった。
「とりあえず、これだけあれば大丈夫。くらい持ってきたよ。あとは授業で照らし合わせてもろて、ながらやっていこう。これでも学年で十三本の指に入るんだから、いいノートだと思いますぞ」
「十三本って十三番目って事?」
「そこはツッコむとこ」
恵実の額には汗が滲んでいた。
『転校すると、前の学校と授業の進み具合がちょっとづつ違うんだ。そのときに新しい学校が先に進んでいれば問題無いんだけど、反対だった場合は大変なんだ。もうそこは習いましたなんて余計なことを言ったりすると、シカトするヤツだっていた。だから、いっぺん習ったところも習ってないフリをして、やったことのある実験でも、わぁ、すごいね、って驚いてみせなきゃいけない。それって、嘘じゃん。嘘をついてあげないと、みんなが不愉快になるんだ。高橋さんならどうする?』
『そうするかもしれないね』
『先生だってさ、気に掛けるふうばっかりさ、笑いのネタみたいに、もう習ったのか、じゃあ寝ててもいいぞーなんて無神経なヤツも一人や二人じゃないんだ。だから早くても遅くてもちょうどこのあたりです。って嘘ついとけばさ、笑いのネタにもされないし、シカトだってされない普通の学校生活になるんだ』
『あしたノート持ってくる。わたし結構マメでさ、人に自分のノートで学べるかいい練習にもなる。わたし将来先生志望だから、良太くんが使えれば半分合格したみたいなもんだ』
『先生になりたいんだ』
『うん、両親が先生だから、かえるのこはかえるみたいな感じかな』
『いい親なんだ、同じ仕事をやりたいと思うってすごい』
『良太くんは?』
『東京の大学に行く。奨学金もらって、アルバイトしながら英語の勉強をする。僕みたいなひとはよそ者か流れ者か根なし草って紹介をたぶん考えるんだけどさ。自分の出身地をどこといったらいいのかもわからない。どこの町も方言も親しみなんかこれっぽっちもない。そんなヤツが紛れ込める場所なんて東京くらいしかないだろうと思う。そう思わない?』
恵実が淋しげに頷いたのを良太は見逃した。
何かを聞かれれば、また一つ何かを言わずにいられなくなり、そんなふうに意地の悪い答えばかりを言う自分がイヤな人間に思えると、そんなイヤな人間にさせるのは周囲であるのだと、腹を割って少しでも話をすれば、昨日のように歯止めがきかない自分であるのだと良太は自覚できる事が恐ろしくなった。
世話係は一週間で終わり、恵実は元の席へ戻った。二人の進路は違っていたから、三年になり学級も分かれた。
辺りをうかがい見る日々を過ごしながら、次第に口数が少なくなっていく自分自身を、良太はこわごわと眺めながら、極力黙っていることが身を守り他人を不快にさせない手段だと決意した。
「リョーター、極厚カツ食いに行くんだろー」
「あちいから、やっぱやめとこうかな」
「馬鹿野郎!おめぇが誘ったんだろが!」
「場所どこだっけ」
「中野坂上。急げ、間に合わねぇ」
同期の矢上がまくしたてた。初ボーナスが入金されれば、流行りのとんかつ屋に行こうと計画していたのだ。日本で一番分厚いロースかつをサービスランチで先着二十名に提供しているらしく、開店時の並びで売り切れてしまうらしい。
「いくらだっけ」
「二千五百円」
「たっか。かつやでよくね」
「ざけんな、はやく着替えろ!」
ボーナスが入れば良太にはもう一つ計画があった。九月に初めての有給休暇を取得して広島へ行こうと決めていた。
ふるさとを持たない良太はこれまで暮らした場所に未練は無かった。だが、日付だけを記したノートを見開くたびに後悔がいつもこみあげた。
会う必要はない。行きたい場所もない。ただ、広島へ行こうと感じた。
いえなかった事が二つある。一つは「高橋さんは絶対にいい先生になる」
戸口から外に出ると、矢上がずいぶんと先で手招きしている。
晴天にはぐれた雲が、良太のうえを通り過ぎた。陽の欠片がひと粒とびこんで、良太は目をしばたたかせた。
執筆の狙い
私自身が小学で二度転校をした事があり、そんな印もあったな。と、書きました。
子供の話なので、それらしくは少しできたかなと思っております。
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※コピペしたので読みにくいかも