かぜのさかなのうた
かぜのさかな
海岸に虹色のうろこが落ちていた。ぼくはそれを拾うと、だれにも見られないようにポケットにしまった。虹色のうろこはこの海岸にたまに落ちている。ぼくは夜、家からこっそり抜け出して拾いによく来ていた。今日も一枚、虹色のうろこを手に入れた。
虹色のうろこの持つさかな……いったいどんなさかななんだろう? 漁師のお父さんに聞いても、そんなさかなは一度も見たことがないと言っていた。
海岸に打ち上げられた流木にぼくは腰掛ける。夜の海を見ていた。吸い込まれそうなくらい暗い。波の音が静かに聞こえる。島の外に人間は住んでいない。お父さんはそう言っていた。でもそんなことは信じられない。島の外にも世界はあるに決まっている。どうして「ない」なんてお父さんは言うんだろう?
ヤシの木が揺れた。ぼくが振り返ると、ヤシの木の上にフクロウが止まっていた。……きみはいつも海を見に来ているけど、何をしているんだい? 島の外へ行きたいのかな?無理だよ。かぜのさかなが目覚めない限りはね。
おしゃべりなフクロウだな、とぼくは思った。それぐらいぼくにもわかっているよ。かぜのさかなはずっと夢を見ていることぐらい子どもだって知ってるさ。……きみは何でも知っているって顔をしているけど、空を飛べるわたしはきみよりもたくさんのことを知っているよ。楽しいことも悲しいこともね。もちろん、島の外のことも知っている。
だからどうしたんだよ。空を飛べたって家の中には入れないだろ? 人間の暮らしの何がわかるの? ……今、かぜのさかなが目覚めそうなんだ。きみのせいだ。きみが毎日のように海の向こうを見つめているから、かぜのさかなが夢から覚めてしまう。きみのせいだ。影たちが島に出始めた。影たちはかぜのさかなが起そうとする者と戦うんだ。きみのせいだ。島の人たちは影たちに食べられてしまう。きみが島の外へ行きたがったからだ。外の世界を想像したからだ。島を嫌うからだ——
ぼくは島を嫌っていなかった。お母さんもお父さんもおばあちゃんも好きだし、隣のおばさんも好きだ。漁師の見習いさんたちも好きだ。ただ、学校が嫌いなだけだ。……きみは自分のしたことにきちんと責任を取らないといけない。影たちと友達になるんだ。影たちに優しくして、許してもらわないといけない。きみは影たちをとても怒らせた。きみのせいだ。
目の前に海があるんだ。どうしたってその向こうを想像してしまうだろ。どうしたらいいんだよ? フクロウは飛び立った。ぼくが質問しようとしたその時に。……ヤシの木の根元から影がぼくのほうへ伸びてきた。影はぼくの目の前に立っていた。
鼻がコートを着て階段を登っている。おとぎ話のお城のような、立派な建物へ続く階段だった。……坊や、これは影の見せる幻の世界だよ。ガス燈の上に、あのフクロウが止まっていた。……怖いのかい? きみのせいだ。怖いなんて言わせないよ。さあ、あの鼻を追って行きなさい。早く行くんだ!
ぼくは走って建物の中に入った。ベルベットの古い絨毯の上を鼻が走り回っている。……おれは以前、あいつの顔についていた鼻だ。おれは別にいいさ。鼻は鼻だけで生きていける。しかしおれを失ったあいつはそうはいかない。鼻のない顔で生きていかなきゃならん。自分の顔を嫌っている。この鼻のせいでおれはモテないとか、この鼻のせいで一生憂鬱だとか、おれを散々コケにしてやがって! 鼻なんて関係ない。男は中身で勝負しなきゃならなん。ぼうず、そう思うだろう?
ぼくはただうなずくしかなった。……おい、ぼうず! 適当に返事してるな? よく考えろよ。あいつはお前ぐらいの時から、鼻について悩んできたんだ。地球の裏側まで突き抜けてしまうくらい深い悩みなんだ。お前が言うべきことは、こうだった——鼻なんて関係ない? 男は中身で勝負しろ? 馬鹿な! 男こそ鼻がすべてなんだ。鼻が悪けりゃすべて悪いのさ。鼻がまっすぐな男は、強くて男らしい。鼻が曲がっている男は、心まで捻じ曲がっている。お前はこう言うべきだったんちめだ。偽善者だよ、お前は! でかい鼻くそをつけとてやろうか?
ぼくは謝った。悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ。うんうん、鼻が悪い男は損だよね。わかるよ。でも鼻を気にしない女の子だってきっといるさ。
鼻の穴から血が出てきた。……ぼうず! また嘘をついたな? お前は邪悪だ。骨身に沁みるまでわからない。鼻のせいで眠れなくなることでもない限りはな。ぼうず、お前の鼻を触ってごらん。
ぼくは自分の鼻を触ろうした。鼻がない!ぼくの鼻は走り回っていた。……ぼうず、鼻が逃げちまうぞ! お前はこれから一生、鼻を追いかけ続けるんだ。絨ま毯の上でぐるぐる鼻と鬼ごっこをするんだ。泣くのか? 泣いても鼻は帰って来ないぞ。……フクロウが窓から飛んで入ってきた。フクロウはぼくの鼻を足で掴んで、天井のシャンデリアを旋回した。……坊や、フクロウだって建物の中に入れるのさ。わたしに着いて来なさい。あの鼻に捕まったらここから二度と出られないぞ!
鼻は真っ赤になった。鼻腔が広がって、中にたくさんの鼻毛が見えた。まるで鼻毛の森だった。その中に人間たちがいた。鼻毛に縛られて苦しんでいる。鼻はぼくに突進してきた。ぼくは走った。フクロウの飛んで行くほうへ、必死に走った。迷路のような建物の中を走っていく。鼻は恐ろしい勢いでぼくを追いかけてくる。
建物の屋上に出た。見たこともないきれいな花がたくさん咲いていた。噴水がある。水瓶を持った女性の像から、水が流れていた。天に向かって! 空の彼方まで水が流れている。……坊や、水に捕まりなさい。水が元の世界へ導いてくれる。ただし、今言ったことを信じなさい。少しでも疑えば、手から水がこぼれ出して真っ逆さまに落ちてしまう。もうひとつ、常に後ろを振り返りなさい。あの鼻と、鼻の穴の中で苦しんでいる人たちを目に焼き付けなさい。これは魂の契約だ。裏切れば悲惨な運命が待っている。わかるね?
ぼくは何度もうなづいた。早く逃げないと鼻はもうすぐそこまで来ているんだ。……怖いから、うなづいているね? そんなことではここから出ることも、島の外へも行けないよ。さあ、強く信じなさい。今、言ったことを。……ぼくは強く信じた。目を閉じて水を掴んで空を飛んでいく自分を。鼻がどんどんぼくに近づてくる。
ぼくは浮かび上がった。足が震えて出した。今まで立っていた地面がないのだから、激しく震えている。建物の屋上にいる鼻を見ていた。鼻の穴から火が出ていた。人々の悲鳴が聞こえる。助けを求めている。ぼくはフクロウに言われたとおり、しっかり目に焼き付けた。いったいどうしてあの人たちはあんな目にあっているんだろう? 何も鼻に苦しめられなくてもいいじゃないか。地獄の鬼や悪魔に火の海へ放り込まれるならわかるけど、よりにもやって鼻になんて……。自分の顔じゃないか。背後から虹色の光が差してきた。暖かい風も吹いてきた。潮の匂いがする。船の汽笛のような、野太い音がした。耳の中で教会の鐘を鳴らされたようだった。思わず耳を塞いだ。ぼくは前を向きたかったけど、後ろにいる鼻と人々を見ていた。虹色の光はどんどん強くなってきた。雲の中へ入った。フクロウが言った——さあ、目覚めなさい!
ぼくはヤシの木の前に立っていた。フクロウはヤシの木の上に止まっていた。……坊や、トゥヌクダルクの山へ行きなさい。どうせ明日も学校へ行かないんだろう? 朝起きたら、家を抜け出して来なさい。山の麓にある大きなもみの木にわたしはいるから。必ず来なさい。影たちが暴れ出したのはきみのせいなのだから。
ぼくは家へ帰った。こっそり裏口から入って、静かにベットに潜り込んだ。明日、ぼくにはやることがある。早く寝ないといけない。ぼくは将来、漁師になるんだ。学校なんて行く必要なんだ。腕のいい漁師になって、与えられた仕事をしっかりこなす。そうしたらいつか、人間を取る漁師になれるんだ。おばあちゃんがそんなこと言ってたけ。……ぼくが起きると、お父さんはとっくに海に出ていた。お母さんとおばあちゃんは、漁に使う網を編んでいた。ぼくは海辺の二階建ての家に住んでいた。海辺に二階建ての家は、ぼくの家しかない。学校に通っているのはぼくだけだった。
ぼくは一階へ降りて、食卓に置いてあったアンチョビのサンドを食べた。アンチョビの臭いが嫌だったけど、ずっとこればかり食べさせられているから慣れた。ぼくは食べ終わると、二階に戻って、学校へ行く支度をした。お母さんの言う「街の子の服」を着て、本をカバンの中に詰め込んだ。これで堂々と玄関から家を抜け出せる。
ぼくの姿を見てお母さんとおばあちゃんは驚いた。網を編んでいる手が止まった。ぼくがイソギンチャクに刺されて泣ても、二人が手を止めることなんてなかったのに。……今日は学校へ行くのかい。偉いよ。みんなお前を嫌っちゃいないさ。お前が心を開けば、みんなとお友達になれるさ。大丈夫。おばあちゃんが言った。ぼくは笑顔で家を出た。
ぼくはちゃんとわかっていた。トゥヌクダルクの山へ入るには、政庁舎で許可証をもらわないといけない。初めて学校で習ったことが役に立つ。トゥヌクダルクの山は、神聖な場所で、トゥヌクダルクはこの島に神さまの教えをもたらした偉い人らしい。そしてトゥヌクダルクは山で殉教したらしい。……殉教とは何か? わかる人はいるかな? 誰もいないのか? じゃあきみ、殉教とは何か説明しなさい。ぼくは立ち上がって答えた——神さまの教えに従って死ぬことです。それはいいこと? はい、素晴らしいことです。そうだね。みんなも、トゥヌクダルクさまのような立派な人になりなさい。次の日から、ぼくは魚臭い聖人と言われた。魚臭えな、さっさと殉教しろよ、とか、他にもいろいろ酷いことを言われた。だけどいいんだ。もう学校なんて行かないから。
海辺の村から一時間くらい歩くと、政庁舎のある街が見えてくる。街は大騒ぎだ。影たちが島に現れたという噂がもう広まっていたからだ。人々は道端でトゥヌクダルクに祈っている。お助けください。……これがぼくのせいなわけない。もっと別の大きなことがあって、影たちが出てきたんだ。政庁舎の大人たちが何かやらかしたに違いない。あるいは島の人たちのせいではないのかも。いわゆる自然現象ってやつだ。だってかぜのさかなが目覚めたら大変だってことは、みんなわかっていたことだし、かぜのさなかのことは人間にはどうしようないってことも、予めわかっていたことだ。なのに今更になってお助けくださいって祈るのはおかしい。
政庁舎の入口から受付まで、白い柱廊が長く続く。自動で動く床があって、受付へ人を運んでくれる。朝から人々から長い列をつくって動く床で運ばれていく。動く床の上で走っていけない。歩いてもいけない。人は、ただ動く床に運ばれなければならない——島の法律で決まっていた。
受付で要件を伝えた。受付のお姉さんは電話をかけた。……ええ、子どもがひとりです。山に入りたいんだそうです。わかりました。坊や、七十七階に行きなさい。そこで許可証をもらえるから。
政庁舎のエレベーターは九台もある。正しいエレベーターに乗らないと一階からまた乗り直さないといけない。耳が痛くなってくる。エレベーターの上昇はとても早い。空に放り出されるかと思ったくらいだ。ぼくはゆっくり上に行きたかった。心の準備ができないじゃないか。初めて許可証をもらうんだから……。
七十七階は、許可証を求める人で溢れかえっていた。影たちが現れたという噂を聞いて山で祈りたい人たちだ。ぼくは自分の番号を機械で取って、椅子に座り窓口へ呼ばれるのを待った。ぼくの番号は17359だ。どうせぼくは今日も明日も明後日も学校へ行かないのだから、いつまでも待っている。
番号が表示された電光掲示板を見ると、ぼくの前の番号がどんどん消えていく。順番が飛ばされているようだ。こんなに待っている人がいるんだ。諦めて帰る人がいるのも無理ない。大人はいつまでも待てない。他にやるべきことがたくさんあるんだ。ぼくの番号はすぐに呼ばれた。窓口へ行くと、役人が分厚い書類の束を持っていた。……坊や、山に入りたいのなら、自分が正気であることを証明しないといけない。今からひとつ質問をするよ。とてもデリケートな質問だけど、法律で聞くことが決まっているんだ。
——あなたは、犬と手紙のやりとりをしたことがありますか?
——いいえ。
坊や、許可証は出せない。正気を証明できないからだ。……ぼくは正気だよ。別の質問をしてよ。それにさ、普通、逆にじゃない?犬と手紙のやりとりしてたら、正気じゃないだろ? なんでだよ。
役人は深々と頭を下げた。それからまるでぼくのことなんていないみたいに、次の番号を呼び始めた。
ぼくは政庁舎を出た。山に入れないんだから、ここで冒険は終わりだ。まだ学校が終わる時間じゃない。時間を潰さないと。街をぶらぶら歩いた。犬が散歩している。ぼくは犬が嫌いだった。小さい頃、犬に噛まれたことがあった。白い犬に右手を噛まれた。たぶん噛まれたはずだ……あの犬はまだ生きているのかな? たとえば犬と手紙のやりとりをするなら、あの犬がいいな。ぼくが知っている犬はあの白い犬しかいない。全然知らない犬よりも、面識のある犬のほうがいい。
ぼくは夏になると、いつもおじさんの農場で過ごした。農場で牛の世話をしていた。毎朝、乳搾りをして、干草を右へ持って行き、左に持って行き、結局は最初にあったところへ戻す。おじさんはただ、やれ、と言うだけだった。搾ったばかりの乳を飲め。ぼくは飲んだ。胸がむかむかした。一緒に手伝っていた女の子は今年で十四歳のはずだ。ぼくと同い年だ。もう結婚する。決まったらしい。相手は……結婚式の当日までわからない。
彼女は左手の人差し指に小さな傷があった。彼女と一緒に乳を絞る時、その傷が見えた。犬に噛まれできた。夜、ぼくは犬小屋に行って、犬の口元へ左手の人差し指を突きつけた。犬は指の匂いを嗅いだ。ミルクのいい匂いがしたのかもしれない。犬は指を舌で優しく舐めた。頭が痺れた。どうしても彼女のことを考えてしまう。たぶんこれは悪いことだ。わかっていたけど、ぼくは夏の間、犬のところへ行った。でも犬は、一度もぼくの指を噛んでくれなかった。
政庁舎から歩いて一時間、農場へ着いた。ちょうど学校が終わる時間だった。小麦畑と、三十三匹の牛が入る牛小屋。鶏小屋が隣についた家。立派な煉瓦の煙突がある。ぼくはあの犬小屋を探した。家の裏にあったはずだ。裏へ行くと、犬小屋で白い犬が寝ていた。正確に言うなら寝たきりになっていた。ぼくが七歳の時に犬は二歳だったから、もう犬の歳ならとっくに死んでいてもおかしくない。ぼくは犬小屋の前に座って、紙とペンを取り出した。変な気分だ。犬に手紙を書くなんて。いざ書くとなると、犬に何て書けばいいかわからない。だから代わりに、あの女の子に向けて書くことにした。
——エスターへ。やあ。最近、会ってなかったね。久しぶり。……なんか変だな。手紙ぽっくない。手紙は、もっと立派に書かないといけない。きちんと形式があって、その通りに書かないと恥ずかしい。親愛なるエスターへ。違う。こいつの名前はジャスティーヌだ。親愛なるジャスティーヌ。わたしのきみへの愛を、この手紙に書き記す。きみは美しい。きみはきれいだ。きみは優しい。きみは……嘘臭いな。でも手紙なんてこんなものじゃないか? 本当のことでも違う方向へ逸れて行ってしまう。どうせ伝わらないならデタラメでもいいんだ。……きみは乳臭い。きみは牛臭い。牛のウンコの臭いがするって、きみはよくいじめられていたね。いつもぼくが助けてあげてた。ぼくはお風呂上がりのきみの匂いを知っているからね。きみはいい匂いだ。きみは左手の人差し指に傷があったね。小さな傷。貝殻のかけらが埋まっているみたいだった。今も指に傷があるのかな? 旦那さんにも見せてあげてね。どうでもいい話だ。ごめん。自分でも何を話していいかわからない。最後に会ったのは、ぼくたちが十歳の時だったよね? もう十歳だから男と女が一緒にいるのはよくないって、牧師さまに言われたから、ぼくはもう農場へ行けなくなった。それからずっと、ぼくたちは会っていなかった。こっそり会いに行くこともできたけど、もし会ったとして何を話せばいいか、わからなくて。あとぼくの顔にそばかすができたから。毎日毎日、寝る前に、そばかすを触る。他にもいろいろ変わってしまったことがあった。またどうでもいい話だ。……きみは、本当に結婚したいの? おばさんに聞いたんだ。おばさんは十六歳まで待ってもらえるように、牧師さまに頼んだって。でもきみが、十四歳で花嫁になることを望んだって。牧師さまはきみを褒めていた。貞淑で清純な、立派な女性だってね。ねえ……本当にきみが望んだことなの? きみは、好きな人いないの? ぼくは、きみのこと——
ぼくは書いた手紙を読み直した。いろいろな意味でまずい部分を削った。特に最後の三行は念入りに消した。消しゴムを何度も何度もゴシゴシ動かした。でもかえって文字が浮かび上がってくる。まるで本心は隠せないと言わんばかりに。仕方なく、ぼくは最後の三行の部分を破った。慎重に、破ったことがバレないように。そして最後に署名した——スペインの王より。
スペインの王……ぼくたちはマドリードにいた。煙突はお城だ。あの子も絶対覚えている。ぼくは忘れてないのだから。犬小屋の中に手紙を置いた。白い犬の頭を撫でた。暖かい。ふさふさした毛の中に深く深くに、あの子が隠れている気がした。
日が傾いてきた。農場に人はいなかった。小麦に夕日が当たって金色に輝いた。農場はもう売られていた。買い手はまだ着いていないらしい。ぼくが大人になったら魚をたくさん売って、農場を買おう。牛の育て方も小麦の作り方もわからない。犬と一緒に走り回るだけでいい。……ぼくの奥さんは誰になるんだろう?
海辺の村に帰ることにした。今日はちゃんと学校へ行ってきた。今日は……休み時間にみんなで鬼ごっこした。数学で難しい問題をみんなの前で解いて、先生に褒められた。二次方程式がいいかな。……坊や、ずっと待っていたんだぞ。どこへ行く? フクロウが農場の門に止まっていた。だって入山許可証をもらえなかったんだ。どうしようもないよ。ぼくは正気じゃないから。……きみは正気だよ。ほら、返事が来ている。門の下に、手紙が落ちていた。手紙を拾い上げた。封を開けて手紙を読んだ——親愛なるジョン。お手紙をありがとう。嬉しい。あなたを待っていたのよ。どうして会いに来てくれたなかったの? あなたがずっと会いに来てくれないから、わたしは結婚を決めたの。もう十四歳だもの。待てないわ。わたしは自分の意思で結婚する——そんなわけないじゃない。あなたはなんでそんなこと聞くの? すべてはトゥヌクダルクさまの意思よ。トゥヌクダルクさまが決めたことに従わないと、天国に行けない。わたしは夫に仕えて、子どもを十人は産む。ママと同じようにね。もわたしは、わたしが好きな人は——
最後の数行が破られていた。ぼくが破った理由と同じだ。あの子は馬鹿じゃない。慎重だ。まずい部分は何ひとつない。立派な大人の女性だ。……坊や、入山許可証を早く取りに行きなさい。あと一時間しか窓口が空いてないぞ。この手紙で坊やの正気を立派に証明するんだ!
ぼくは走って政庁舎へ向かった。心臓が止まるほどの勢いで走り続けた。フクロウも後ろから着いてきた。途中の道で、犬を散歩させている人がいた。大きなゴールデンレトリバーだ。その尻尾から影が伸びてきて、凄まじい速さで追いかけてきた。……坊や、決して捕まるな! 走れ! 走り続けるんだ! フクロウの声が聞こえた。
ぼくがどこで力尽きたかわからない。ぼくは薄暗い森の中にいた。フクロウが木の上に止まっていた。……坊や、きみはまた影に捕まってしまったようだね。まったくきみはトロい子だよ。どうしようもない。あそこにいる男を見てごらん。男が木の下でうずくまっていた。疲れ切った様子だった。麦わら帽子と大きなリュックを背負っていた。いかにも旅人のように見えた。
ぼくは男に近づいた。木の上のフクロウをちらりと見た。フクロウは喉を鳴らして、ぼくから顔を背けた。ぼくの代わりに男に話しかける気はないらしい。助けてくれないみたいだ。ぼくは音を立てないように、男の目の前まで来た。男はまったく起きる気配がなかった。ぼくは振り返ってフクロウを見た。フクロウは相変わらず顔を背けていた。
思い切って男の身体を揺すった。男はすぐに目を覚ました。ぼくの手を掴んで、ぼくの顔を見た。男の顔はミイラのように干からびていて、目に光がなかった。……もしかしてきみも呼ばれたのかい? 呼ばれたって? 王にさ。ぼくは首を横に振った。
きみは王の城を知っているか? ぼくは首を横に振った。男は大きなため息を吐いた。……おれは王に呼ばれたんだ。なんで呼ばれたかは知らない。一ヶ月前の朝、家のポストに王から招待状が届いた——そなたが城へ来て余に会えば、褒美をやろう。持ち前の率直さを持って余に報いてくれ。おれはすぐ城へ向かった。地図も持っている。だけど今だに辿り着かない。おれの家から歩いて三日で着くはずなのに。
風が吹いた。木々の葉が揺れた。暗くて灯りは月しかない。周りの木が少しずつぼくに迫ってきて、自分の立っている場所がどんどん狭くなっていく。男はうずくまったままだった。フクロウがぼくの前に降りてきた。……この意気地なしの男を起こして、一緒に城まで行きなさい。そうしないとここから出られないよ。
ぼくは泣きそうになった。また恐ろしい鼻に追いかけられるのかな。思い出しただけで吐き気がした。……逃げられないよ、きみのせいだ。忘れたのかい? こんな目に会うのも、ぜんぶ、きみのせいだ。責任を持って城まで行きなさい。どうやって? ぼくが聞く前にフクロウは飛び立った。ぼくと男だけがここに取り残された。……おじさん、今日はもう寝ようよ。朝になって明るくなれば、道だって見つけられるからさ。うずくまっていてもしょうがないよ。思い切って少し休もうよ。おじさんは疲れて混乱してるだけさ。男は顔上げてぼくを見た。……きみはわかってない。どうせ子どもにはわからないさ。時間がないんだ。一刻も早く城へ行かなくちゃならない。おれは身体がバラバラになるまで歩いた。でも同じところから出られないんだ。一人でぐるぐる回っているだけ。おかげで帰り道さえわからなくなった。
ぼくは男の隣に座った。そして男の足をさすってあげた。男はおかしい。ぼくはそう思わないわけにはいかなかった。こういう人に必要なのは言葉ではなく奇跡だ。足萎えの足をさすれば足が治った。盲の目に触れたら目が開いた。ぼくは正気だ。手紙の返事が来たように、男の元気を取り戻すことができるかもしれない。男はぼくの手を握った。……ありがとう。きみの言う通りだ。寝よう。ずっと眠れなかったけど、今夜はきみのおかげで眠れそうだ。
男の頭がぼくの肩にもたれてきた。重い。これじゃ逆にぼくが眠れないじゃないか。要するにこういうことだ。ぼくが眠れなくなる代わりに、男が眠れる。鼻に追いかけられるほうがマシな地獄だった。ぼくは急に寂しくなってきた。本当にこの世でたった一人になったと思った。歌声が聞こえてくる。かぜのさかなの歌だ。心地よいさざ波の音。月の中を泳いでいる。きっとこれは、かぜのさかなの夢なんだ。ぼくは眠った。
執筆の狙い
いきづらさについて表現しました。よろしくお願いします。