作家でごはん!鍛練場
飼い猫ちゃりりん

佳菜子

 悲しむ人たちは幸いである。彼らは慰められるだろう。
(マタイによる福音書。第五章四節)

 保育園に通っていた頃のことである。
 その日はクリスマスイブで、母はパートが終わると、小さなケーキを買ってから兄と私を迎えに来てくれた。
 母が着いたときは、まだ園長が絵本を読んでいた。
 粉雪が舞っていたが、室内は暖かく、窓ガラスが曇っていた。
 多くの母親が部屋の後ろから我が子を見守っていた。でも母は部屋に入らず、曇ったガラスの向こうから兄と私を見守っていた。
 母の気持ちが痛いほどわかる。
 ほかの母親はみな小綺麗な身なりをしていた。しかし母は綺麗な服など持っていなかった。
 母はみすぼらしい身なりのことで、我が子がはずかしめを受けることを恐れたのだ。
 園長が「最後にみんなで歌いましょう」と言うと、兄と私は賛美歌を歌った。
 園長が「みんなさん、さようなら」と言うと、私と兄は母の元に駆けてゆき抱きついた。
 私はその冬の日のことを、今も鮮明に憶えているのだ。

 毎週日曜日の午後に、近所の集会所でミサが開かれていた。母は兄と私をよくそこに連れて行った。
 神父の話は全く記憶にないが、よく覚えていることがある。
 私は悪さをして、集会所の外に出されたことがあった。
 幼い子供が神を冒涜するようなことを大声で言ったのだ。神様なんて嫌いだとか、神様なんて本当はいないだとか。
 なぜそんなことを言ったのか判然としない。
 ただ、よく記憶をたどってみると、いつも貧乏臭い身なりをしていた母は、主婦連中から変わり者と見なされていたような気がする。
 子供は大人の事情が分からなくても、空気を敏感に感じ取るものなのだ。
 私は神にではなく、信者たちに文句があったのかもしれない。
 でも、大人に向かって文句を言う勇気はないから、神に八つ当たりしたのだろう。
 神父に叱られて外に出された私は、集会所のすぐ隣の草むらで、母と兄が出てくるまで遊んでいた。
 黄色い花が咲き乱れ、アゲハ蝶や蜜蜂が飛びかう草むらは、まるで天国だった。
 神が本当に神であるなら、無垢な者を処罰などしない。それをするのは、いつも人間なのだ。
 ミサのことで、もうひとつよく覚えていることがある。
 いつもミサにくる親子の中に、私たち家族とは真逆の意味で、周囲から完全に浮いている母と娘がいた。
 貴婦人と令嬢とでも言うのだろうか、団地の住人でないことは明らかだった。
 
 我が家はひどく貧乏だったから、私は子供ながらに格差を感じざるをえなかった。周囲になじめない私は、クラスでは無に等しい存在だった。
 そんな私でも一つだけ自慢があった。母がにぎってくれたオニギリだ。大きさは通常の五倍ほど。ソフトボールのように巨大なのだ。
 その常識外れを恥ずかしいとは思わなかった。
 遠足では、同級生が御惣菜との交換を条件にそのオニギリを欲しがったが、全て却下した。
 そのとき私は無ではなく、誇り高き存在だった。

 そんな私にも一人だけ友達がいた。
 それは母親と一緒にミサに来ていたあの上品な娘。
 彼女はいかにも上流階級といった雰囲気で、貧乏人の私が友達になるなんて夢にも思わなかった。
 彼女の名は佳菜子。
 通学路が同じで、集団で登校しているうちに仲良くなった。二人とも仲間外れにされていたから、他にしゃべる相手もいなかったのだ。
 団地のベランダから彼女の家が見えた。丘の上に建つ白い豪邸が彼女の家だった。
 彼女がその住人と知るまで、丘の上には身分が高い人たちが住んでいると思っていた。
 彼女はいつもお嬢様という出で立ちで、持ち物も高価なものばかりだった。
 彼女に比べれば、同級生はみな貧乏人だった。中流家庭の子供たちは、彼女に劣等感を抱いていたと思う。
 なのに貧乏人である私が、なぜか彼女に親近感を覚えた。おそらく、二人とも周囲から完全に浮いていたからだ。

 小四の三学期の下校時のことである。竹やぶを抜ける道を歩いていると佳菜子に誘われた。
「かず君。あたしの家であそぼ」
「でも……」
 それまでにも誘われたことがあったが、私は豪邸に怖じ気づいていたのだ。
「大丈夫だって。お母さんも来てって言ってるんだから」

 彼女の家の塀の中は別世界だった。
 花壇には白い花が沢山咲いていて、落葉樹が紅葉を迎えていた。それは庭というより庭園だった。
 古風な日本庭園に、モネの絵画のような景色が見事に調和していた。
 家はモダンな白壁の建物で、彼女が呼び鈴を鳴らすと扉が開き、藍染の着物を着た女性が出迎えてくれた。
 佳菜子の母は、「いらっしゃい」とか細い声で言った。子供ながらに、上品とはこういうことを言うのだと思った。
 佳菜子と私は庭で鬼ごっこをした。しばらくすると、彼女の母が冷たい麦茶を出してくれて、それを飲み終えると次は隠れん坊をした。
 彼女の母は唐椅子に座り、無邪気に遊ぶ二人を見ていた。
 土ぼこりで髪や体が汚れると、みんなでお風呂に入った。
 大きなヒノキの浴槽は、子供が水遊びをするには十分だった。
 私は異性と入浴しているのに、それが自然なことのように思えた。そして彼女たちも、きっとそう思っていたのだ。

 佳菜子を我が家に呼ぶことはよくあった。
 彼女の母は体が弱く、疲れて寝込むことがあった。そんなときには娘の世話ができなかったのだ。
 私の母はパートで帰りが遅かったし、兄は佳菜子が家に来ると、どこかに出掛けた。だから、いつも彼女と二人だけになることができた。
 我が家には四畳半と六畳の部屋があり、佳菜子はその狭い異世界を冒険した。
 ある日、私が台所の隅で「もーいーかい」と何度声を上げても、「もーいーよ」が聞こえなかった。
「佳菜ちゃん。どうしたの?」
 すると押し入れの中から声がした。
「かず君。なんか音がする」
 ふすまを開けると、彼女が押し入れの下段に隠れていた。
「ここから音がするの」
「それ、ネズミの穴なんだ」
「ネズミがいるの?」
「うん」
「あたし、ネズミを見たことないの」
 私は穴の周りの荷物をどかすと、ネズミ捕りの針金にチクワを引っ掛けて、穴のそばに置いた。
 押し入れの前に布団を敷いて二人でもぐり、穴の様子をうかがった。
 しかしネズミは現れず、しびれを切らした佳菜子が私の耳元でささやいた。
「本当にいるの?」
「いるってば! 大きい奴が」
「しっ! 大きな声を出さないで」
 おそらくネズミは、布団に隠れている二人の気配を感じ取っていたのだ。
「佳菜ちゃん。チーズに変えてみよっか?」
「かず君。あれ見て」
 振り向くと、小さなネズミが穴から顔を出していた。
 小ネズミは金属のカゴに近づいて中に入ると、引っ掛けてあるチクワに飛びついた。すると入り口の金網が勢いよく閉まった。
 小ネズミはカゴの中を駆け回っていたが、もう逃れるすべはなかった。
「やった! 捕まえた!」
「かず君。あれ」
 前を向くと、別のネズミが穴から顔を出していた。そのネズミは私たちに構うことなくカゴに近づき、金網に鼻先を突っ込んで、チューチューと鳴き始めた。
「きっと、お母さんよ」
 佳菜子の目に涙がにじんでいた。
 カゴの入り口を開けると、小ネズミは母ネズミと一緒に穴に帰っていった。
「佳菜ちゃん。オニギリ食べよ」
「うん!」
 佳菜子を家に呼ぶと言っておけば、母は彼女の分も握っておいてくれた。
 銀紙につつんだ三つのオニギリが皿にのっていて、名前が書かれた紙片が銀紙に貼ってあるのだ。
 孝志、和男、佳菜ちゃん……
 彼女は巨大なオニギリを懸命に頬張っていた。

 佳菜子の母はいつも物静かで、誰かと言い争うような姿を想像すらできなかった。
 ところが小五の夏休みに、私は佳菜子の家で意外な光景を目撃したのだ。
 その日は客人が来るということで、私は冷房の効いた二階の部屋で佳菜子のピアノにつき合っていた。
 彼女は学校で習うくらいの曲は軽々と弾きこなした。
「あたし、ピアニストになるの」
「ピアニスト?」
「みんなの前で演奏する人」
 そう言うと佳菜子は、『別れの曲』と言われるショパンの名曲に挑んだ。
 しかし、さすがに十歳の子供には難しく、彼女は何度も失敗して悔しがった。
「いつもは、もっと上手に弾けるんだから」
 私はトイレに行くと言って部屋を出た。すると階下から佳菜子の母の声が聞こえたのだ。それは別人かと思うほど激しい口調だった。
 階段の手すりの隙間からのぞくと、大きなソファーに座る背広姿の男に、佳菜子の母が何かを必死に訴えていた。
「もう少し高くなりませんか!」
「そう言われましても……」
(去年の暮れに開かれた同窓会で聞いた話では、佳菜子の父は負債を残したまま夭折したから、彼女の母は豪邸を売り払って借金を返し、娘を連れて故郷に帰ったとのことだった)
 八月の中頃、佳菜子は「引っ越すことになったの」と私に言った。
 母に「佳菜ちゃん、夏休み中に引っ越すんだって」と言うと、母は驚いたような表情を浮かべた。
 引っ越し当日の朝に佳菜子の家にゆき、別れの挨拶をした。
 贈り物は母のオニギリだった。その常識外れな贈り物を、彼女たちはとても喜んでくれた。
「佳菜ちゃん。元気でね」
「かず君もね」
「かず君。お母さんに、よろしく伝えてくださいね」

 子供の頃の美しい思い出なんて、きっと誰にでもあるのだろう。しかし私の母が、懐かしく過去を振り返る姿を見たことがない。
 母に一枚の白黒写真を見せてもらったことがある。
 満開の桜を背景に、セーラー服を着た三人姉妹が写っていた。
 母を挟んで微笑んでいる妹たちは間違いなく美人だった。
 その写真は、男をどきっとさせるような妹たちの眼差しを見事にとらえていた。己の美しさを認識している女の眼差しだった。
 かたや母ときたら、どこか絵本の中の子豚みたいで、その瞳には自信の無さが滲み出ていた。
 笑みを浮かべる妹たちの真ん中で、母は申し訳なさそうな顔をしていた。
「自分が姉でごめんなさい」とでも言うかのように。
 私の記憶では、母が聖書を精読したことは一度もない。
 ただ、「悲しむ人たちは幸いである。彼らは慰められるだろう」というイエスの言葉を信じていたのだ。

 母は残酷な運命を子供に聞かせることがあった。
「妹たちは可愛いくて、成績はいつもクラスで一番だった。でも母さんはぶさいくで勉強も苦手だった。いつも妹たちと比較され、親からも見放されていた」
 写真の母の眼差しが、それが真実であることを物語っていた。
 天は二物を与えずとは馬鹿の言うこと。天は母に何も与えず、妹たちには何でも与えたのだ。
 私に信仰心が芽生えなかったのは母のせいかもしれない。しかし理不尽な処罰を受けた母に、天罰を受けるいわれなどないのだ。

 母は人を恐れて生きるような人間となり、影のように生きる弱い男とめぐり逢った。
 七人兄弟の末っ子として生まれた父は病弱で、本当に「いらない子」だったようだ。父が故郷を出るときも、親は一切関心を示さなかったそうだ。
 世間はおろか家族からも見捨てられた二人は、自動車部品の工場でめぐり逢い、式も挙げずに籍を入れた。
 そんな両親の下に生まれた兄弟が阿呆になることは必然だった。
 自慢をするつもりはないが、兄も私も勉強ができたし、兄にあっては有名な国立大学まで卒業した。
 そして二人とも就職し、しばらくは普通の社会人として生きることができた。
 でも結局はだめだった。なぜなら、兄も私も底辺の人間だったからだ。
 高く飛んでも磁力に引っ張られるようにして堕ちる。それに、正直底辺の方が居心地がいいのだ。
 私は居心地の悪さに耐えながら世間でもがき続けたが、兄は社会から身を引いてしまった。
 おそらく兄は、既に中学生のころから人間に嫌気が差していた。だから部活にも入らず、勉強ばかりしていたのだ。
 結局兄は大学生になっても人づきあいをしなかった。
 大学を卒業した兄は、しばらくは予備校の講師をしていたが、やがて疲れて辞めてしまった。

 父は弱い体で無理をしたせいか、六十半ばで他界した。
 父は影のように存在が薄く、死んだ日の翌日には社会から忘れ去られるような人だった。
 しかし母は、そんな父なしでは生きられない人だった。
 伴侶を亡くした母は心身ともに衰弱し、やがて筋肉が硬直する難病を患い、寝たきりになってしまった。
 そのころ兄は仕事を辞めて引きこもっていたが、それは私には好都合だった。兄が母の介護を全て引き受けてくれたからだ。
 私の目標は家族みたいな人間にならないこと。「人間失格」にならないこと。つまり、「人間合格」になることだった。
 そのためには家族と距離を置くべきだと思った。私は兄に介護をすべて任せ、都会で一人暮らしを始めた。
 人の良い兄は、「介護は俺がするから、お前は仕事に専念しろ」と言ってくれた。
 私は上司から信頼され、部下からは慕われていたと思う。
 飲み会ではわざと酔っ払ってドジもした。つまり「良い人」を演じていたわけだ。
 しかし心のどこかで、そんな自分を恥じていたのだ。

 母の物忘れはひどくなる一方だったが、突然古い記憶がよみがえり、おかしなことを言い始めることがあった。
 私がたまに実家に帰ると、母は私に佳菜子のことを聞いた。
「和男。佳菜ちゃんは今度いつ来るの? あの子の分のオニギリも作っておくから」
「母ちゃん。佳菜ちゃんは随分前に引っ越したんだよ」
「引っ越した?」
「もう丘の上の家には、別の人が住んでいるんだ」
「そう……」
 母は淋しげな表情を浮かべ、深くため息をついた。

 母は一人で用を足すことができなかったし、床擦れを起こさないよう一時間おきに体の向きを変えなければならなかった。
 だから兄は、夜中も度々起きなければならなかったのだ。
 疲れ切っている兄のことが心配になり、私は母に介護施設に入ることを勧めた。
 しかし母は子供のように泣いた。
 老いても母は他人を恐れていたし、母の喜びは家族と暮らすことだけだったのだ。
 兄は涙をこぼす母に言った。
「施設が嫌なら、無理に入らなくてもいいんだよ。俺が母ちゃんの面倒を見るから」
 しかし病状はひどくなる一方で、一日中痛みに苦しむ母は、介護の不手際をなじることもあった。それでも兄は嫌な顔ひとつせず、母の面倒を見ていたのだ。
 やがて母は、「早く逝きたい」と、兄にこぼすようになった。
 私は、兄が「最後の親孝行」に悩み苦しんでいることに気づいていた。もし兄が罪を犯したら、その罪をかぶるつもりだった。
 しかし…… 、罪をかぶる? 兄の罪? 兄は罪人?
 お前が殺せ!
 ああ神の子よ。あなたは罪を償うのではなく、犯すべきだったのです。

 私は悪夢にうなされるようになり、それはいつも同じような展開を見せた……

 疲れ切った兄が、介護ベッドの横で敷物もせずに眠っている。
 私は母に近づくと、そのほおに触れる。
 ほんのりと温かい……
 すると母が目を覚ます。
「母ちゃん。俺が楽にしてあげるから」
「和男。苦労をかけてごめんね」
 母のほおを涙が伝うと、私は母の首に両手を添えて力を込める。
 やがて母は苦しみから解放されて、穏やかな表情を取り戻す。
 裁判では「人間合格」たちが殺人の動機を求める。
「私は阿呆なのです」
 すると易々と死刑が宣告される。
 刑場に移送されると、黒い服を着た教誨師が待っている。
 彼は言う。
 悲しむ人たちは幸いである。彼らは慰められるだろうと。
 私は言う。
 ならば兄を慰めて下さいと。
 刑務官は親切な人ばかりで、家族に伝えたいことを書きなさいと言って、机の上に便箋とペンを置いてくれる。
「兄に直接伝えたいのです。いつも家族を愛していたと」
 するとその刑務官は、「これを使いなさい」と言って携帯を差し出す。
 しかし、なぜか電話番号を思い出せない。何年も使った番号なのに、どうしても思い出せない。
「ああ神様! どうしても兄に伝えたいのです! いつも家族を愛していたと」
 もはや無神論者を気取っている場合ではない。
 しかし都合の良い神頼みが叶うはずもなく、頭を布で覆われて首に絞縄が掛けられる。
「兄ちゃん。俺を許して」
 床板が落ちると悪夢から解放されるのだ。
 しかし、その夜は目を覚ますと枕元で携帯が鳴っていた。
 それは兄からだった。
「さっき、母ちゃんが死んだ」

 急いで実家に戻ると、数人の鑑識と年配の刑事が検視をしている最中だった。
 兄は人目もはばからず、床に崩れ落ちて泣いていた。人前で感情をあらわにする兄を初めて見た。
「兄ちゃん。俺だよ。大丈夫?」
「俺が眠っている間に死んだんだ。可哀想に。母ちゃんは、きっと俺を呼んでいたんだ」
 兄は何年ものあいだ仮眠しか取っていなかったのだ。ほんの数時間熟睡するくらい当たり前だ。
 私がそう言っても、兄は自分の失態を責め続けた。
 私は兄が過失致死の罪に問われないか心配になり、それを年配の刑事に聞いた。
 すると彼は私の目を見つめて言った。
「お兄さんに罪はありません」
 彼は泣いている兄の横に腰を下ろすと、その背中をなでながら、「お兄さん。お母さんを介護してくれてありがとう」と言った。
 嗚咽をもらす兄に代わって私が礼を言うと、彼は「私も妻を介護していたのです。だから、お兄さんの気持ちがよく分かるのです」と言った。
 私はその刑事のことを、生涯忘れることはないだろう。
 
 葬儀は町の葬儀屋の一室で兄と私だけでやった。
 兄は安らかに眠る母の顔をじっと見ていた。
「和男。母ちゃん、本当に死んだのかな?」
 私はどう答えていいか分からなかった。
 そのとき、「お車の準備ができました。心の整理がついたら声を掛けてください」と扉の向こうから声が聞こえた。

 霊柩車の運転手は、「いい天気になって良かったですね」と言った。
 その通りだ。もしその日が雨だったら、兄は悲しみに耐えられなかったに違いない。そして私は、世界は悲しみに満ちていると思い込んだに違いない。
 火葬場は、車で三十分ほどの所にある広い霊園の中にあった。
 母の遺体を荼毘にふし、薄紅色の骨壷に、ことんことんと骨を落とした。
 火葬を終えると、紅葉につつまれた霊園を散策した。
 空は青く澄み渡り、風が爽やかだった。
 兄が骨壺を抱いていたから、母も一緒に歩いているような気がした。
「兄ちゃん。母ちゃんのオニギリを覚えてる?」
「うん。遠足のときは、いつも握ってくれたよな」
 紅葉を眺めながら遊歩道を歩いていると、茂みの奥から「ニャァ」と鳴き声が聞こえた。
 兄と一緒に茂みの奥をのぞき込むと、座布団ほどの隙間がぽっかりと空いていて、猫の親子が日向ぼっこをしていた。
 二匹の子猫が、母猫の腹に顔をうずめて鳴いていたのだ。

 それから何年か過ぎるうちに、懐かしく過去を振り返り、思い出にひたることも多くなった。
 ただ、懐かしい思い出のほとんどは子供の頃のことで、その大半が佳菜子と遊んでいたときのことだった。
 彼女の家の庭で鬼ごっこや隠れん坊をしたこと。上品な彼女の母親のこと。彼女たちと一緒にヒノキのお風呂に入ったこと。ひだまりの中でピアノを弾く佳菜子のこと……

 去年の十一月に同窓会の案内が届いた。六年生のときの担任も全員出席すると書いてあった。
 クラスメイトの顔を見たいとは思わなかったが、もしかしたら佳菜子が来るのではと思い、参加に丸をつけてポストに入れた。
 会場は市街地にあるホテルの宴会場で、私は席につくと、会場に現れる顔ぶれに注目した。
 しかし佳菜子は来なかった。
 彼女は六年生になる前に引っ越したから、卒業アルバムに載っていなかったのだ。
 私のテーブルでは、あいつは女子にもてたとか、この子はあの子のことが好きだったなんて話題で盛り上がっていた。
「和男。お前も彼女いたよな。ほら、あの子。名前なんだっけ? ああ酔っ払った。このまえ会ったのに忘れちゃったよ」
「このまえ会った? 佳菜ちゃんに」
「そうそう佳菜ちゃん、佳菜子さんだよ。この前と言っても、三年くらい前だけどな」
「なんで彼女に?」
「土地のことで確認して署名してもらいたい書類が出てきたんだ」
「土地のこと?」
「俺の親父が彼女の家を売ったんだ。ただ売った後も、境界やら何やらで色々あってな」

 やっと当時のことが理解できた。
 小五の夏休みに、佳菜子の家で見た背広姿の男は地元の不動産屋で、目の前にいる彼がその跡取りなのだ。
 その日、私は冷房の効いた二階の部屋で佳菜子のピアノを聞いていた。彼女はショパンの『別れの曲』を弾けなくて悔しがっていた。
 私はトイレに行くと言って部屋を出た。すると階下から何かを訴える佳菜子の母の声が聞こえた。こんなふうに……
「もう少し高くなりませんか!」
「そう言われましても……」
 病弱な母は一人娘の行く末を心配し、少しでも高く家を売ろうと必死に交渉していたのだ。

「彼女、元気にしてた?」と不動産屋の跡取りに聞いた。
「あ、うん。まあな……」
 その赤ら顔が一瞬冷めたように見えた。
「なにかあるの?」
 彼は小さな声で、「誰にも言うなよ」と前置きしてから佳菜子のことを教えてくれた。
「彼女が住んでいる土地に土建屋の知り合いがいてな。色々噂話を聞かせてくれるんだ。彼女は田舎では珍しいほどの美人だから、結構注目されていたそうだ。彼女は高校を卒業しても就職せずに、お袋さんの介護をしたんだ。家財を売っても借金を引いたら大して残らなかったはずだ。だから、お袋さんが亡くなったころには、金も尽きていたんだろうな。それから散々苦労をしたみたいで、風俗で働いているなんて噂まであったそうだ。それで資金を貯めたのかなあ。今は小さな港町で小料理屋をやっているんだ。俺が行ったときも漁師たちがいたから、それなりに繁盛しているんじゃないかな」

 同窓会が終わってから、教えてもらった番号に電話をしてみた。
「はい。浜屋ですが」
 歳を重ねていても私には分かる。間違いなく佳菜子の声だ。
「年末はいつまでやってますか?」
「大晦日の五時までです」

 私は大晦日の五時近くに行くことにした。二人だけになれると思ったからだ。
 その日は厳しい寒波が到来し、列車から見える日本海には高い白波が立っていた。
 薄暗い駅の改札を出て港町を歩いていると、吹雪の中にぼんやりと赤ちょうちんが見えた。
 その小料理屋は、うら寂しい漁港の隅にぽつんと建っていた。
 ほかに店らしい建物はなく、赤ちょうちんの『浜屋』という文字がひときわ目立っていた。
 倉庫の影から様子をうかがっていると、店の中から酔っ払いの声が聞こえた。
「えー! もーおしまい? まだ五時だよ」
「佳菜ちゃん、もうちょっと飲ませてよ」
「ビールもう一本!」
「だーめ。大晦日くらい、あたしもゆっくりしたいのよ。早くツケを払って帰ってください」
「そなせっしょうな!」
「みなさん、良いお年を」
 しばらくすると引き戸が開き、赤ら顔をした男達と一緒に、藍染の着物をきた佳菜子が出てきた。
「佳菜ちゃん。次は寒ブリをプレゼントするから」
「こいつは口ばっかだからな。それより、来年は佳菜ちゃんにハンドバックを買ってやるから」
「去年も同じことを言ってませんでしたか?」
「今度は本当だってば!」
「そーですか。なら、どんなのを買ってくれるんですか?」
「イブサンローンだ!」
「馬鹿たれ! ローンじゃなくてローランだ!」
 佳菜子は声を上げて笑った。
「それじゃあ皆さん。良いお年を」
「おおー、佳菜ちゃんもな」
 佳菜子は漁師たちに手を振っていた。
 私は漁師たちの姿が見えなくなってから、赤ちょうちんを消そうとしている佳菜子に声をかけた。
「佳菜ちゃん。久しぶり」
 彼女は私をまじまじと見つめた。
「どなたですか?」
 私はホックを外してフードをとった。
「かず君? かず君でしょ!」
「中々いい店だね」
「どうしてここが?」
「同窓会で聞いたんだ」
「そう……」
「五時で終わりだよね」
「いいの。気にしないで」
 店内は思ったより広く、いくつかのテーブルと長い木のカウンターがあった。
 佳菜子は「すごい雪で驚いたでしょ」と言い、私のジャンパーの雪をはらい、ハンガーに掛けてくれた。
「ちょっと石油を入れるから、座って待ってて」
「佳菜ちゃん。そんなの俺がやるから」
 私はストーブに石油を入れると席に座り、おしぼりで手をふいてから熱いお茶をひとくち飲んだ。
「はいどうぞ」
 そう言うと、彼女はカウンター越しにビールをついでくれた。
「かず君。おでんでいい?」
「うん。ありがとう」
 彼女は、大根、厚揚げ、こんにゃくを皿にのせ、その端に黄色いカラシを添えてくれた。
「はいどうぞ」
「佳菜ちゃんも飲んでよ」
 彼女は私がついだビールを飲み干すと、「ああ、おいしい」と声を漏らした。
「着物が似合うね。お母さんにそっくりだよ。あっ、ごめん」
「えっ、なにが?」
「お母さん、亡くなったんだよね」
「ええ。でも、もう随分前のことだから。かず君のお母さんは元気?」
「もう天国さ。でも安らかに逝ってくれたから良かったよ」
 安らかなわけがない。難病を患った母は、兄の懸命の介護も虚しく他界したのだから。
「お母さんのオニギリ、おいしかったなぁ」
「佳菜ちゃんには大きすぎたけどね」
「ねえ、かず君。熱かんにしない?」
 彼女は白いおちょこをカウンターの上にふたつ置いた。
「佳菜ちゃん。こっちに来て座ってよ」
「立っている方が落ち着くのよ」
 小さなピアノが店の隅に置いてあった。
「もしかして、あのピアノ……」
「母がとっておいてくれたの。あたしがピアニストになりたいなんて言うから」

 子供のころの話は尽きなかったし、それ以外のことに話を広げようとは思わなかった。
 実は、私は介護の話を慎重に避けていたのだ。
 なぜなら、佳菜子は懸命に母の介護をしたのに、私はそれを兄にすべて任せ、自分だけ人並みの人間になろうとしたのだから。
 ため息が出た。酒で誤魔化そうとしてもだめだった。恥ずべき行いの数々が脳裏に浮かび上がり、私はついに黙り込んでしまった。
「かず君。大丈夫? 水を持ってこようか?」
「大丈夫。水はいらない」
 私は湯呑みに酒をそそぐと、それを一気に飲み干した。
「かず君。どうしたの?」
「佳菜ちゃん。俺……」
 私は酒の力を借りて、自分の恥部を洗いざらいぶちまけた。
 しかし、彼女と目を合わせる勇気まではなかった。私はうつむいて黙り込み、しばしの沈黙が訪れた。
 店内は静まりかえり、彼女の吐息さえ聞こえた。
「ねえ。かず君」
 私は顔を上げて、彼女の目を見つめた。
「お酒、ついで」
 おちょこに酒をつぐと、彼女はそれを一口飲んだ。
「ああ、おいしい……」
 彼女はにっこりと笑った。
「かず君。あの曲を覚えてる? あたし、上手に弾けるようになったのよ」
 彼女はピアノの前にゆくと革張りの椅子に座り、悲しくも美しいその曲を弾いてくれた。

 おわり

佳菜子

執筆の狙い

作者 飼い猫ちゃりりん
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ショパンの「別れの曲」でイメージを膨らませて描いてみました。

約10000字の推敲作品です。
よろしくお願いします。

コメント

ドリーム
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拝読いたしました。

一人称で描かれているようですが、この語り手は和夫という人なのでしょうか。
語り手が私といっているので最初、女性かと思いました。
題名が佳菜子なので彼女を中心に物語が動くかと思ったら兄弟と母が中心ですね。

加奈子は裕福の家の子、主人公は貧乏ながら母と三人慎ましく生きて行く様が印象的でした。
時は流れ日本海のある港町で佳奈子は飲み屋をやっていて、久し振りの再会が報われた気がします。
なかなかの力作でした。

私の記憶が正しければ以前読んだ覚えがあるような?

お疲れ様でした。

飼い猫ちゃりりん
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ドリーム様
お読みいただき嬉しく思います。
冒頭のイエスの言葉がテーマのひとつです。
人をなぐさめること。
ニーチェは、「なぐさめること」を断罪していましたが、飼い猫はそうは思わない。
人をなぐさめることは自然な行為であり、それを悪とするニーチェがひねくれているだけです。

この作品は、兄弟が様々な人に慰められることで展開していく仕組みになっています。
刑事、青空、猫、そして最後は佳菜子が主人公をなぐさめる。

「別れの曲」の癒し効果は絶大ですよ。サムソン・フランソワがおすすめです。

ありがとうございました。

夜の雨
ai202020.d.west.v6connect.net

「佳菜子」読みました。

>ショパンの「別れの曲」でイメージを膨らませて描いてみました。<
というだけあり、生まれた環境に翻弄された登場人物たちの生き方と別れがありますね。
主人公の和男(かず)、それに兄の人生が母の人生と深く関わっています。
そこに来て、ヒロインである佳菜子の人生。
いっけん華やかそうに見えて、そうではなくて孤独だった佳菜子。
その母親のことまで描かれていました。

御作は子供時代のことと、大人になり母に介護が必要になったところの主人公の「かず」と兄の生き方。国立大学まで卒業した兄が会社勤めが続かなかったのは母と父のDNAを引き継いでいたからだろうと思いますが。
その壊れかかった兄に、母の介護を任せるところから「かず」も後ろめたい思いに心が重い。
後半で佳菜子とかずが合うきっかけになるのが、同窓会で不動産会社の息子だった男がクラスメイトだったことから、情報を得る、という設定ですが、よくできていました。
設定には違和感がありませんでした。

ただラストでかずが佳菜子と再会を果たすエピソードになっていましたが、この展開にして、盛り上げるには。
かずと佳菜子の小学5年生までという子供時代のエピソードでは弱い気がしますが。
この二人が恋愛関係に近いところまで関係が深くなっていたのなら良いのですが。
中学生ぐらいまでのエピソードを描き、そのなかで恋愛感情に近いものを二人の間にあったが、佳菜子の引っ越しで別れなければならなかった。
という流れならよいかな。
中学生当時の二人にちょっとインパクトがあるエピソードが必要ですが。
たとえば佳菜子の危機にかずが自分の持っている以上の力を発揮して助けたとか。
そのときに腕でも体のどこかでもよいので傷がついたとか。
そういった設定で二人はかなり意識した仲になっていたが、佳菜子の引っ越しで別れなければならなかった。
もちろんそこまで深い仲になっていたら住所交換とか電話番号を教えあっていたに違いないと思いますが、「気の迷いから(ちょっとした行き違い、または喧嘩)」連絡先の情報交換をしなかった。

まあ、どちらにしても今回の作品は登場人物の人生がそれぞれ語られていて深みがありました。
深みがあるということは重さがあり敬遠されることもあります。

>ショパンの「別れの曲」<
これは御作が映画だとしてエンドロールで「別れの曲」が流れて静かに終わるという感じですかね。

よい小説を読ませていただきました。

それでは頑張ってください。


お疲れさまでした。

飼い猫ちゃりりん
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夜の雨様
お読みいただき嬉しく思います。
佳菜子と和男の心やぶれるようなエピソードを挿入してみますか。
これはまた難題をもらってしまった。

その通り。最後のエンドロールは別れの曲です。
飼い猫は常に映像と音楽を意識して書いています。
まずは脳内に絵がある。それを言葉で書き写すわけです。
次に映画音楽を選ぶわけです。
ショパンはよく使います。
問題はそのイメージを読者の脳内に展開させるテクニックです。
これが難しい。

ありがとうございました。

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