大工留蔵・オーストラリアに行く
大工留蔵オーストラリアに行く
一
雪はほとんど消えたが、北陸の重い雲の垂れこめる寒々とした二月の空の下、海山町の町はずれを、行く当てもなく、前かがみになって、留蔵は歩いていた。彼は生まれて初めて、三十年以上連れ添った妻朋子(ともこ)を殴ってしまったことを激しく後悔していた。
口論になったのは、オーストラリアに住む娘の昭子から、仕事をやめて暇になった留蔵と朋子に、こちらに来ないかと言ってきたことに対し、行くか行かないかで大きく意見が分かれたからであった。
「ねえあなた、オーストラリアへ行きましょうよ、昭子がいるから大丈夫よ、ピーターだっていい人よ、結婚式に行った時、とても親切にしてくれたじゃない? 私はあの明るい街に住みたいわ。街の人々もみんな歓迎してくれるわよ」
「いや、俺は行かない」
「どうしてなのよ、私はもうこんなに寒い、じめじめした所に住みたくないのよ。あなただって、もう仕事をやめたんだから、こんなところにいる必要は無いでしょう」
「うるさい。俺は行かない。行きたかったらお前ひとりで行ってこい」
「でもあなた・・・・」
そこまで言われたところで、かっとなって思わず朋子を殴ってしまったのだ。
朋子は娘の結婚式のとき一度だけ訪れた、オーストラリア西海岸のパース近郊のその町に移住して第二の人生を送ることに憧れていた。だから昭子からの誘いを受けて、嫌がる留蔵に移住を決意させようと、必死になって説き伏せようとしたのだが、全くその気の無い留蔵は腹をたて、殴ってしまったのである。
朋子を殴ってしまった留蔵は思わず家を飛び出したが、どこにも行く当てはなく、町外れをしばらく歩き回ったのち、また家に帰って来た。
朋子とは一言も口を利かず、二階の自室に籠ったままだったが、夕食の時間になったので台所に降りてみると、いつものように食事の支度は出来ていた。黙って食べて、また二階に上がった。
中学卒業後、岡田留蔵が勤めた先は、大工梶山治助の工房だった。左利きで不器用な留蔵は、覚えは悪いが、仕事ぶりは真面目で、酒も飲まず、どこかへ遊びに行く事もせず、次第に親方にとって頼りになる弟子となって行った。
二十八になった時、そんな留蔵に中学の同級生の飯田朋子から住宅新築についての相談があった。どこかで留蔵の仕事ぶりを聞きつけたのであろう。
中学しか出ていないチビの留蔵にとっては、高卒で商事会社の事務員をしている朋子は眩(まぶ)しい存在だった。だからその仕事を親方に頼んだのだが、親方は留蔵に、自分で朋子宅に行き、注文をまとめるように言った。それはそろそろ、留蔵も独立する時期に差し掛かっていると思ったからである。
不承不承ながら、朋子宅に何度も通い、朋子の両親と打ち合わせの末に受注した仕事はもちろん、留蔵が棟梁となって工事全体の指揮をとることになった。
基礎の左官工事から水道工事、電気配線、サッシの工事まで、ひとつひとつの仕事の細かい作業まで目配りし、肝心の木工事については一ミリの狂いも無い、手抜きの無い正確な仕事ぶりに惚れ込んだ朋子の両親は梶山治助のもとを訪れ、留蔵と朋子の婚礼の相談をした。朋子も、無口だが真面目な留蔵と一緒なら、安心して暮らすことが出来ると考えて、結婚に同意したため、翌年春に挙式した。留蔵は岡田家の三男で朋子は飯田家の一人娘だったため、留蔵が飯田家へ婿入りしたのである。
二
留蔵は旅館を営む岡田家の末っ子だった。姉二人と、その下の兄二人が生まれた後、十二年も経って、三男の留蔵が生まれた。これ以上は生まれないようにという事で、留蔵と名付けられたようだ。
二十も歳が離れている上の姉は留蔵が生まれるとすぐ嫁に行った。二番目の姉も留蔵が三歳のときに嫁に行ったため、留蔵には姉たちと一緒に暮らした記憶はほとんどない。姉と兄に栄養分を吸い取られてしまったからなのか、留蔵の身長は百五十センチほどしか無く、妻の朋子より低い。
留蔵が中学を出た時、実家の跡を継いだ長兄から、旅館の仕事を手伝わないかと言われたのだが、人の目にさらされる旅館の仕事を嫌って、大工の弟子入りを望んだのであった。
そんな留蔵だから高卒で自分より背も高く、颯爽(さっそう)と商社に通う同級生の朋子が自分との結婚に同意したと聞いたとき、最初は信じられなかった。
飯田家に婿入りした留蔵は、朋子たちの想像以上に愚直な男だった。酒は飲まず煙草も吸わず、食べ物の好き嫌いも一切無く、醤油の一滴も残さない真面目な性格で、家の中の事は朋子や義両親のすることに一言も口を挟むことは無かった。給料袋は中を調べもせず、持ち帰るとそのまま朋子に渡し、自分用の大工道具を買う時以外はお金を要求することも無かった。家の中に見覚えのない家具が増えていても、一言も口を出すことは無かった。
一方、親方の梶山治助は留蔵が結婚を機に独立するものと思っていた。
「留蔵、お前ももう、大工としては一人前や。教えることはみんな教えたし、お前を指名してくるお客さんも多いんやから、そろそろ独立したらどうや、その方が稼ぎも多いし、奥さんも喜ぶと思うがのう」
「いや、俺は、人と話すのが苦手やから、大工仕事だけしていればいいんです。そやから今までどおり親方のところで働かせてください。給料も今までと一緒でいいです」
と言って留蔵の希望で治助の工房で勤めを続けることになった。
間もなく朋子は女の子を出産した。娘の名前を付けるにあたっても、
「あなた、名前はどうしましょう?」
「うん、お前にまかせるわ」
「ええっ? パパなんだから、なんか少し考えて下さいね」
「ううん・・・・・俺にはわからんし、女の子やから、やっぱりお前が決めてくれんかな、そうか又はお父さんかお母さんに相談しろよ」
留蔵としては、自分が娘の父親であるという実感も無く、自分より朋子の方が、いい名前を考えてくれるに違いないと思ったのである。
三
留蔵と朋子との間に生まれた昭子は幼稚園から小学校、中学、高校に進む間、何でも母親や祖父母には相談したが、父の留蔵とはほとんど話をすることもなく育った。飯田家ではそれが普通であり父親というのは空気のような存在だった。
中学生になったころから、昭子は次第に外国暮らしにあこがれるようになっていった。高校では英会話のサークルに入り、卒業後は英語系の短大に進み、そこを出るとすぐに友達とふたりでワーキングホリデイの制度を利用してオーストラリアへ行って、ぶどう農園で働き始めた。
一方、朋子は昭子を生んだのを機に商社の勤めを辞め、昭子が短大へ進んだころには両親の介護が必要となったためずっと仕事から遠ざかっていた。その両親が相次いで亡くなった時にはもう五十代も後半になっていたため就職もしないうちに留蔵の退職を迎えたのであった。
オーストラリアへ行った昭子は三年経った頃、農場主の次男のピーターと婚約したと連絡があった。朋子宛に届いた昭子からの手紙は次のように書いてあった。
・・・・・・・・・・・・
お父さん、お母さん、私が住んでいるグリーンウッドは西オーストラリアの州都パースの北にある小さな町です。ここは夏と言っても日本のように蒸し暑くもなく、冬も比較的穏やかな住みやすい町です。
私が働いている農場は海山町ぐらいもあるワイナリー直営の広いぶどう農園です。経営者はジョージと言い、その弟がピーターと言って、農園の方を任されているのですが、そのピーターから、先日プロポーズされました。
農園には普段は私も含め、十人ほどが働いているだけですが、来月、四月の収穫期前後になると各地から五十人ほどのお手伝いの人が集まってきます。
そういう人たちに加え、ワイナリーからの応援スタッフを含め、六十人以上となる人たちの食事やベッドの世話をいつもショージの奥さんと私がしています。毎日六時頃に仕事を終えて集まってくると、事務所横に作った仮設のシャワールームでみんな一斉に汗を流し、それからワインで乾杯して賑やかな夕食が始まります。少しお腹が膨れると歌を歌ったり、踊りだす人もいて夜十時ぐらいまで騒ぎが収まりません。みんなそれが楽しくて、それを目的に集まってくる陽気な人たちです。
今年、収穫期が終わって少し落ち着く頃、七月七日の日曜日に結婚式を挙げることになりました。日本は夏ですがこちらはその頃は真冬です。と言っても日中の気温は十五℃ぐらいになると思いますから、日本のように寒くはありません。
お父さん、お母さん、どうか結婚式に出席してください。ピーターにも逢って下さい。ピーターもジョージもその奥さんのメアリーも、みんな気さくな優しい人たちですから、きっと気にいって貰えると思います。出来れば一週間か十日ぐらいの余裕をもって来てもらえればパースや近くの町を案内できると思います。
いつ来てもらえるか、お返事お待ちしています。
・・・・・・・・・・・・・
四
昭子からの手紙を受け取って留蔵に言うと、留蔵は「ウーン」と言ったまま黙り込んでしまった。留蔵は人と会うのが苦手である。日本でもそうだが、言葉の分からない外国では、なおさらそうだ。だが、一人娘の結婚式なので欠席というわけには行かないだろう。朋子の父はすでに亡くなり、母は完全看護の施設に入っているので十日間ぐらい家を空けても差しさわりはない。
朋子は、勝手に二人のパスポートを取り、旅行会社に話して飛行機のチケットを手配した。現地での宿泊先は昭子が用意してくれているという。念のため親方に電話をすると、留蔵に頼まれて親方からはちゃんと休みの許可を与えてあるという事だった。
七月二日、出発は成田からで、シンガポール経由で昭子の待つパース空港へ向かうことになった。
留蔵は、外国はおろか、東京へさえも中学の修学旅行で一度行っただけだった。
朋子も海外旅行は初めてである。友達の中には何度も海外へ行く人もいたが、留蔵の妻になった以上は彼の生き方に倣(なら)い、遊び歩くことは控え、質素で地味な暮らしを続けていた。
小松から成田に飛び、周りじゅう誰にでも、何度も手続きの方法を聞きながらシンガポール航空に乗った。その間留蔵は一言も口を利かない。必要な手続きはすべて、迷いながらも朋子が一人でやった。
パース空港には昭子と共にピーターも迎えに来ていた。朋子は昭子に通訳してもらいながらあいさつを交わしたが留蔵は相変わらず、何もしゃべらない。ピーターと会うのがひどく苦痛のようだった。前もって聞いていたのでピーターも握手だけはしたが、その後は義父となった留蔵を優しく見守るだけだった。
それから四日間、一日目はワイナリ―を訪ねジョージやメアリーとも会い、工場内を見学した。そして二日目は葉っぱの落ちたぶどう農園を少し見て、式場となっている教会と披露宴パーティーの行われるホテルの下見をし、三日目はパースの市内見物となった。四日目は式の前日になるため昭子も忙しく、留蔵と朋子は二人だけで初めてパース市内へタクシーで向かい、お土産等の買い物をした。
そして五日目、式の当日、自分の娘でありながら留蔵は初めて、昭子がこんなに美しい子だったのかと感動していた。今までじっと顔を見たことも無かったのである。
パーティー会場には街の名士と思われる人が大勢来ていた。留蔵も朋子も誰がどういう人かもわからず、何もしゃべれず、食べ物ものどを通らず、緊張のうちに終わった。
そして翌日、パースの空港で新婚旅行に出かける昭子を見送ってすぐあと、ジョージとメアリーに見送られて搭乗口に向かう留蔵はホッとしたと同時に、もう、こんなところには絶対来るものかと思ったが、朋子は、留蔵の退職後はここへきて余生を過ごしたいと強く思い始めるのであった。
五
昭子の結婚式に出掛けた時は留蔵と朋子は五十二歳になっていた。その後六年が経過したとき、留蔵の親方の梶山治助が引退し、一級建築士の息子に仕事を譲ると聞いたので、留蔵も仕事を辞めることにした。まだ五十八歳なのでもうしばらく働くことも出来たが、人付き合いの苦手な留蔵には、いまさら治助以外の人の下で働くことは、気が進まなかったからである。
結婚後も昭子と朋子は手紙のやり取りをしていたのだが、留蔵が仕事をやめて暇になったと聞いて、昭子からオーストラリアに来ないかと言ってきたのである。
すでに寝たきり状態だった母も亡くなり二人暮らしだった留蔵夫婦が、オーストラリアへ移住するには何の問題も無かった。
朋子はもちろん、以前からパースで第二の人生を送ることを夢見ていたので、何とか渋る留蔵の気持ちを変えようと、いつもより強い言い方で説得を試みたのだが、それが留蔵を怒らせてしまったのである。
留蔵と朋子が険悪な状態になったことを知った昭子は、ピーターを連れて久しぶりに海山町の実家へ帰って来た。
ピーターは穏やかな男である。カタコトの日本語ながら留蔵とゆっくり話し、彼が何でオーストラリアへの移住を嫌がっているのかを聞き出そうとしていた。
そしてやはり、言葉と食べ物と住まいだという事が分かった。
「お父さん、それではグリーンウッドにお父さんの手で日本式の住宅を建てませんか?土地はいくらでもあるし、建築材料もほとんど向こうで手に入りますからお父さんの思い通りの家を建てることも出来ますよ。畳を引いて障子を張って、日本式のお風呂も作って、そして日本式の庭には松の木を植えて、池には鯉も泳がせて・・・いかがですか?」
「そうよ、お父さん、食べ物のことは私やママが材料を集めて作るからきっと、漬物もお味噌汁もおいしいのが作れるわ。お豆腐だってあるし・・・」
「・・・・・」
留蔵は無口な男だ。何も言わないが、日本式の家を建てたら? という話を聞いて、少しは考え始めたのであろう。朋子から言われたときのように、いきなり反論することは無かった。もともと、食べ物については好き嫌いの無い男だ。言葉だけはどうしようもないが昭子や朋子がいるし、ピーターだってカタコトながら日本語で話してくれる。
昭子は実家へ着いた時から体の調子が良くないようだった。食欲もなく、身体がだるいと言って寝てばかりしていた。食事も、いつもは甘いものが好きだったのに酸っぱいものばかリ食べていた。初めは時差ぼけかと思っていたのだが三日経ってもそれが変わらないので
「あんたどうしたの? なんか変ね? もしかしたら赤ちゃんが出来たのかもよ。明日お医者さんに行って見ましょうか?」
「えっ、赤ちゃんなんて、そんな……六年間、一度も出来なかったのに?・・・そういえば先月から生理が止まっているけど……まさか?」
翌日、朋子が昭子を生んだ時にも世話になっている、近所の産婦人科医に行って見ると七十を過ぎた老齢の先生だが、
「お目出とうございます。まだ七週目ですけど間違いありません。予定日は一月初めです。昭子ちゃんはオーストラリアにいらっしゃるんですね、向こうでは夏ですけど、日本のような蒸し暑い気候ではないのでしょう、よかったですね」
家に帰ると、早速留蔵の前に座った。
「お父さん、今日私、お医者さんに行ってきました。そしたら、お腹に赤ちゃんがいるのよ、結婚して六年目だけど初めて出来たのよ。外国で、初めての子供を産んで育てるのにお母さんがいてくれたら随分心強いわ。だからお願い」
昭子には結婚してずうっと子供の産まれる気配は無かった。だが運よく留蔵の退職に合わせるように妊娠したのである。もう留蔵にもオーストラリアへの移住を断る理由は無かった。
それから二日経ってふたりは帰って行った。
六
オーストラリアへの移住の手続きは、留蔵はもちろん朋子にもよく分からなかったが、昭子が調べてくれて、TSSという労働ビザで三~四年間は滞在できることになった。ワイナリーを経営するジョージが雇用主となってそこで働くという名目だ。
留蔵には大工として勤めた間に朋子が細々と貯めた三千万円の預金があった。渡豪ののちは、朋子はピーターの農園で働き収入を得るほか、今まで住んでいた家を貸して月々十万円ぐらいの家賃収入を得る予定だ。
早く家を建てたかったがほとんど留蔵一人で建てる予定なので一年半ぐらいはかかるだろう。それまで、不便だが農園に隣接した昭子とピーターの住む家で暮らすことになった。家財道具のほとんどを処分して日本を離れたのは三月、間もなく農園の収穫期を迎え一番忙しくなる時期だ。
ピーター「お父さん、お母さん、よくいらっしゃいました。狭い家ですけどベッドルームだけは新しく作っておきました。家の中どこでも自分の家だと思って自由に使って下さい」
朋子「有難うございます。ピーターさんは本当に優しいのね。あら、ここは畳になってるじゃない、こんなもの、ここで手に入るのかしら」
昭子「それはピーターがシドニーまで行って買って来てくれたのよ。シドニーには日本人もたくさん住んでいて、日本式の家を建てる人もいるから、ホームセンターに行けば畳でもふすまでもなんでも売っているのよ」
朋子「そうなの? そんなにまでして本当にすみません。あなたもなんか言ってよ、不愛想なんだからホントに・・・・」
留蔵「ありがとうございます」
昭子「あ、やっと口を聞いた。ピーター、ほんとに有難う。お父さんはこんなことめったに言わないのよ」
ピーター「来てくれただけでボクはハッピーです。お父さん、早く素敵な家を建てて下さい。土地はいくらでもありますから、立派な家が出来るのをボクも楽しみにしています」
着いてすぐ、落ち着く間もなく、農園が繁忙期となる前に、ピーターと二人でシドニーのホームセンターを訪れた。確かに畳や障子、ふすまや壁紙、床柱や欄間など、何でもあったが、畳などの間取りは留蔵が手掛けていた越前間ではなく、江戸間と言われる小さ目のサイズだけだったので、パースに戻ってから設計図を書き直す必要があった。
畳三十八枚とふすまや障子、床柱や欄間などを買いそろえて、発送の手続きを済ませて帰って来た。屋根だけは瓦でなく、スレートで間に合わせることにした。日本から持ってきたお金は三千万円ほどあったが、材料費としては八百万円ぐらいに抑え、電気工事など一部を除き、ほとんどの作業は自分一人でする予定だった。
シドニーから帰ってきて、今度はパース市内の材木店を訪ねた。留蔵は全くしゃべれず、昭子かピーターに同行して貰わなければどこへも行けない。まもなく農園も忙しくなるので一日だけピーターを借りて、彼の車で材木店に行って、当面必要と思われる材木数十本を注文してきた。五月末、収穫作業の繁忙期が終わるまでに基礎の左官工事をして、水道配管は業者に頼んだ。左官工事は初めてだが、いつも現場に立ち会っていたので自分で何とかできた。その後、材木の加工を済ませ、六月には棟上げをする。
七
棟上げには数人の手伝いが必要だ。ジョージが加盟しているパースの商工会の紹介で五人の建築関係の男たちがやって来た。日本式住宅の棟上げというのはどういうものなのか、みんな興味津々という様子だった。
男たちは日本式住宅の棟上げは初めてだったが、留蔵の指図に従って柱の一本一本を、所定の位置に持って来て組み合わせると、ピタッと収まるので「パズルのようだ」といって驚いていた。
棟上げが終わると電気配線の業者を呼び、その後、内装工事が始まった。
間取りは海山町の家とよく似た造りになった。玄関を入って右がキッチンと居間、左が応接間となった。キッチンの先を左に折れると留蔵たちの寝室がある場所だ。そして応接室の先は右に折れて客間とし、全体をコの字型とした。土地は十分広いので二階建てにする必要は無く、そして後々のため、全館バリアフリーにした。コの字に囲まれた中央部分には松や銀杏などを植えて将来日本庭園にする予定だ。
昭子は予定日より少し早く、十二月三十一日に、新年の準備に取り掛かっていたその日に陣痛が始まって、翌一月一日早朝に女の子が生まれた。
もう、正月どころではない。ピーターも朋子もそわそわと病院へ行ったり帰ったりしていて、家の中に留蔵一人だけが残されることが多くなった。留蔵もいちどは孫の顔を見に行ったが、帰って来ると、自分の居場所が無くておろおろしていた。電話が鳴っても出られないし、客が来ても全く話が出来ない。
数日して、ローラと名付けられたその赤ちゃんを抱いて昭子が帰って来ると、急に家の中が賑やかになった。
留蔵が建てている家は内装工事が続けられていたが、一人での作業なので、なかなか捗(はかど)らなかった。だが、昭子たちの迷惑になるかと考え、キッチンとリビング、それと留蔵たちの寝室だけとりあえず仕上げて、一月末からはそこに住むことになった。
昭子の家も留蔵たちの新居も、そして農園もすぐ近くなので朋子や昭子が農園に出掛けている間、ローラは留蔵に預けられることが多くなってきた。おしめの仕替え方は、初めは戸惑っていたが、慣れて来ると誰にも負けず手際よく、素早く出来るようになってきた。
一年ほど過ぎ、言葉を覚え始める頃になると、ローラは誰よりも留蔵に懐き、普段は無口な留蔵も、ローラを相手にしているときは、人が変わったようによくしゃべるようになった。
誰が教えたわけでもないがローラは留蔵宅では日本語を話し、昭子やピーターの前では英語を話すようになった。
ローラは三歳になった。近い距離なので、昭子が送って来なくても朝ご飯を食べると自分で留蔵宅に遊びに来るようになっていた。
「グランパ、こんにちは。今日はかくれんぼしよう」
「うん、しようしよう、ローラが隠れるんだな。わかった・・・もういいかい?」
「まあだだよう・・・」
「もういいかい・・・」
「もういいよう」
「ローラちゃんはどこかな・・・?・・・あっ、みーつけた」
「じゃぁ今度はグランパがかくれるよ」
「うん、もういいかい?」
「まあだだよう・・・」
「もういいかい・・・」
「もういいよ」
と言ってしばらく待ったが探しに来ない。どうしたのかなと思って戻ってみるとソファーの上で寝てしまっていた。
八
ローラが毎日のように遊びに来るので、家の内装工事は遅々として進まなかった。二年以上経って、ようやく内装が全部仕上がったところで、次は庭園工事である。日本での、海山町の住宅は土地が狭くて庭などを造る余裕はほとんど無かったが、ここでは思うように庭造りをすることが出来る。彼には日本では出来なかった立派な庭を造ることにこだわりがあった。
留蔵はピーターと一緒にシドニーまで行ったとき、庭園業者を紹介してもらったが、その人たちが造ったという庭は彼の思い描いていたものとは全く違っていたので、彼は海山町の馴染みの業者に、パースまで来てくれないかと手紙を書いた。
わざわざ外国まで行って仕事をするなど、普通はあり得ない話だが、ほかならぬ留蔵からの依頼である。彼がどんなところに住んでいるのか興味もあって、ベテランの業者二人が彼の期待に応えてやって来て、二か月を目安に完成させる計画を立てた。
昭子を通訳に頼み、四人でシドニーまで出かけ、必要な資材や工具などを購入してくると、松や銀杏、かえでや桜などの苗木を植えた築山を造り、心の字の形の池を掘り、すぐ近くの川から疎水を引いてきて、鯉を泳がせるという本格的なものとなった。
建物本体は千二百五十万円ほどで収まっていたが、この庭づくりには、予算は大きく膨らみ、庭師への支払いを含め四百万円近くになった。
だが、素晴らしい庭の仕上がり具合を見て、彼は満足だった。
家や庭の出来上がるのを、今か今かと待ち望んでいた、ピーターやジョージが知人に話を広めたため、大評判になった。見学の申し込みが相次いだため、週に一度、土曜日だけ、昭子の通訳で家と庭を案内することになった。
ところがそこで、母親と一緒について回っていたローラは、二~三回もするとすぐに母親と留蔵のやり取りを理解し、覚えてしまったため昭子がいなくても、通訳を任せられるようになってしまったのである。ローラにとっては、かくれんぼや、すもう、お馬さんごっこには飽き飽きしていたので、つうやく、という、この新しい遊びに夢中になった。
それから二年経ってローラは五歳になった。
ジョージが加入しているパースの商工会では月に一度、ゲストを招いてショートスピーチを依頼している。
そこで、もはや人気者となっていた留蔵に、是非スピーチをしてくれないかという依頼があったのだが、留蔵をよく知るジョージは、彼にはとても無理だろうと思ったのでいつも断っていた。
ところが、ある時、自宅に見学にやって来た商工会のメンバーから直接、留蔵にスピーチの依頼があった。もちろん留蔵は
「いや、それは勘弁してください。とても無理です」
と言って断ったのだが、
「グランパ、大丈夫よ、私が一緒に行って、グランパの代わりにしゃべってあげるから、行きましょうよ」
と言って誘ったので、ローラに弱い、そして誰よりもローラの才能を買っている留蔵は、不安ながらも彼女を喜ばすために、その話を受けることになった。
当日、壇上に並んだのは、大工の仕事着を着た小人(こびと)のような留蔵と、天使のようなローラだった。童話の一場面のような彼らの姿を見ただけで、聴衆からは歓声と拍手が巻き起こった。
「私は日本から来た大工の留蔵です。今日はお招きを頂きましてありがとうございます」
と、何度も繰り返して覚えた最初の口上をやっと日本語で述べると、あとはローラの独演場となった。留蔵の生い立ちから、昭子を生み、パースへ来て日本式の住宅を建てる事になったいきさつを、時々は留蔵に確認しながらしゃべると、あっという間に予定時間の三十分は過ぎてしまった。
そうしているうちに留蔵は、不便なオーストラリアの暮らしにも少しずつ慣れてきた。日本に帰りたいという思いもあったが、元の家には他人が住んでいるし、姉二人はすでに亡く、兄二人も高齢で、一人は認知症、一人は寝たきりになっているという話で、帰っても、立ち寄る先も無い状態だった。
留蔵は七十二歳になって、死を迎えた。
彼がそれまでに使いこなせるようになった英語は、ハロー、サンキュー、イエス、ノー、ほか数語だけだった。
執筆の狙い
チビで愚直な男、大工留蔵が妻や娘に請われて、嫌々ながらもオーストラリアに移住するというお話です。
上手く書けたとは思っていませんが、どこが問題なのか、自分ではよく分かりません。