悔いなき人生を
主な登場人物
浅井洋輔(ようすけ)、60才 妻早苗(さなえ)56歳(旧姓野沢)長男孝之(たかゆき)28歳
長女香織(かおり)26歳 洋輔の隠し子、大輔(だいすけ)17歳 斎藤幸造(こうぞう)(漁師)
久留米陽子(ようこ)(孝之の婚約者)
時は東京スカイツリーが建設中で既に高さ三九八メーターまでになり、第一展望台が出来上がった二千十年七月頃。開業まではあと一年半先の二千十二年になると言う。
男と女ってどうして、こうも人生観が違うのだろうか? 俺の名は浅井洋輔六十才になって今回ほど思い知らされた事はなかった。
俺はやはり古い人間なのだろうか、それとも世の中が変わり過ぎたのだろうか?
俗に云う団塊世代の人間、それが今の俺に当て嵌まる。
もう俺は社会に貢献出来ない企業戦士なのか、老兵は黙って消え去るのみ……か。
俺は半年前に定年を向かい、多くの社員から惜しまれて退職した。と、自分では自負しているが退職した今は確かめようもない。もしかしたら『小うるさい奴が退職して、せいせいした』そう思っているかも知れない。いや余計な詮索はよそう、少なくても会社に貢献したのだから。他人がどう思うがそう思っている。
自分でもやり遂げた自負があった。退職時の役職は常務まで上り詰めたが本来なら嘱託で残れる筈だった。しかし世の中は不況の波に晒され、状況から見ても自ら身を引くしかなかった。
大学を卒業して直ぐに今の会社に就職、そしてキッチリ定年の六十歳まで勤め上げ三十八年の歳月が過ぎた。その間に恋愛もしたし結婚もして子供も二人にも恵まれた。既に住宅ローンも終わっている。
その子供達も独立し、今では妻の早苗と二人きりの生活となった。
これからは自分の為、妻の為、旅行に趣味に没頭出来ると思い込んでいた。
悠々自適とまでは行かなくても、俺の人生はそう悪くないと思い込んでいた矢先の事だった。
あの温厚な早苗がいつでもなく、厳しい表情を浮かべ俺に話があると切り出した。
住み慣れた十畳の和室のテーブルの中央に一枚の紙が置かれてあった。それは離婚届の用紙であった。既に妻の早苗が署名欄には既に署名捺印が押されてあった。
俺は眼が飛び出るほど驚き、その用紙と早苗の顔を交互に眺める。
これはテレビドラマか? それとも冗談なのか? だがどちらでもなかった。
今まで見た事もない表情を浮かべ早苗の顔は青ざめ覚悟を決めた顔をしている。俺は早苗と結婚してから三十年間の生活を数秒の間に思い浮かべていた。
やはり俺も、巷で囁かれる家庭を省みなかった企業戦士の一人だったのだろうか。
今更、早苗にどう言い訳すれ良いのだろう。恐らく今の妻にどんな弁解がましい事を言っても無駄だろう。早苗の顔はそう物語っている。
なんと云う事だ。これが企業戦士として三十八年働いて来た結果なのだろろうか。
「今の君に何を言っても無駄だろうね。結局三十年一緒に暮らしても、君の事が何も分かっていなかった俺だ。もう夫としての資格はないだろうね。最後に三十年間ありがとう」
早苗の性格は知り尽くしている。だから引き留めることは出来なかった。何故だ、どうして? 未練がましい事を言っても無駄だろう。
会社に貢献しても妻には貢献出来なかった。家族の為に身を犠牲して働いて来たと言った処で自己満足でしかない。もはや潔く妻を送り出してやる事が最後の優しさだ。
早苗は目に涙を浮かべ、俺が署名捺印するのを食い入るように見ている。やがて離婚届を受け取り部屋から出て行き、別の部屋で旅行用カバンになにやら詰めているらしい。その日の夕方には家を出て行った。そして最後の言葉が
「長い間ありがとうございました。貴方も残りの人生を楽しんでください」
俺はそれに対して何も答えなかった。だが残りの人世をどう楽しめと言うのか。
早苗が家を出て間もなく張りつめていた心が折れた。俺はワインを取り出し瓶のまま一気飲みした。何て様だろうか、情けなくて泣けて来た。数ヵ月後、俺は財産を整理して子供達にも事情を話し、家を売り払い東京スカイツリーが見える小さなアパートへ引っ越した。家と土地を売り払ったのだから大金は残っているが、離婚すれば財産分与が待っている。そして浅井家も滅んでゆくのか……妻を失い半分の財産も失い初老の男に他に何が残っているのだ。
子供達はそれぞれ独立し、別な所に住んでいるが二人共もまだ独身、今さら子供達を心配しなくても立派な大人。俺達の離婚についてとやかく言わなかったが、離婚しても親子関係は変わらないからと言う。
これから一人旅に出ようかと思っている。幸福とは何かそんなものがあったら、また出会えるなら人生も捨てたものじゃないだろう。今は良く捉えるなら肩の荷が降りた感じもする。でも人生はこれからだ。何も弱気になる事はない。俺は第二の人生を歩く、そしてまた新しい生活を築くさ、出来ない事はない俺は古い人間だが企業戦士だもの。
早苗と離婚してから半年が過ぎた。三十年も連れ添って来た仲だ。気にならないと言えば嘘になる。ただ早苗が別れると言い出すには余程の理由があったのだろう。他人事みたいに言ってはいるが、その責任はすべて自分にある事も知っている。企業戦士とかなんかと都合のいい事を言っているが、俺は早苗に対し耐え難い裏切り行為をしていたのだ。
いわゆる不倫という奴だ。それは妻にとって容認出来ないことである。それは今から十七年前に遡る。その浮気相手に子供が出来たことだ。
もちろん離婚騒動になったが、その相手の女性は子供が五歳の時に病で亡くなってしまったのだ。俺は誓った。もう生涯浮気はしないと、だが残された問題がある。子供をどうするかと云うことだ。まさか自分の家に引き取る事も出来ない。結局はその女性の親が引き取ることになった。そりゃあ大変だった。相手の親からはどう責任を取るのかと責め立てられた。だがその彼女は重い病に侵され死を覚悟していたらしく両親と俺宛に遺言が残されてあった。
『お父さんお母さん、私の身勝手を許してください。不倫であったけど私は後悔していません。洋輔さんと出会い子供が生まれた事は何より幸せでした。もし私が洋輔さんと別れても新たな人と結婚するつもりはありません。私に愛する事と愛される事を教えてくれた洋輔さんを決して攻めないで下さい。私達の大事な大輔の父は洋輔さんなのですから……』
そのような事が延々と書かれてあったそうだ。
俺宛てに手紙にも俺に
『貴方に出会いて幸せでした。ありがとうございました。でも最後のお願いがあります。大輔の行く末です。私の両親はなんと言うか分かりませんが貴方と私の子供です。どうか立派に成長するまで見守って下さい』
などと書かれてあった。
俺は養育費を支払い、高校を卒業したら後の判断は大輔に委ねる事とし双方で取り決めた。
相手の親も渋々ながら承諾してくれたが最初は一切、大輔とは接触しないで欲しいと言った。
だが彼女の遺言が効いた。親子関係を絶たれら彼女がどんなに悲しむか、それが理由だった。俺は時折だが親の責任を努めた。遊園地にも数度連れて行き、時々プレゼントして父親の真似事をした。俺は家族を一度は裏切ったが、その後は妻と家族一筋に生きてきた。だが早苗は覚悟を決めていたのだろう。子供たちが一人前になったら離婚すると。それに俺は気づく事もなく今日に至ったのだ。
早苗との間に二人の子供がいる。大輔よりも十歳前後、年上の子供がいる。
ただ当時は二人とも中学生で、そんな事情を理解出来なかったかも知れない。
俺は物事が理解できる高校に進学した頃、二人の子供に過ちを説明して詫びた。
嫌だと言っても高校生の二人は納得するしかなかっただろう。
俺は長い時間を掛けて二人に非を詫び、今では理解の下に親子関係を保っている。
しかし妻には長年に渡って溜まったうっぷんを爆発させたのだろう。
だから俺は出て行った妻を黙って見送るしかなかったのだ。
今更どう言い訳しても早苗は受け入れないだろう。互いに言い分もあるだろうが、それを言い出せばキリがない。今はただ良く尽くしてくれたと感謝するしかない。この浅井洋輔という男に三十年も我慢してくたれのだから。
いや少なくても恋愛結婚なのだから最初からいやいや一緒に住んでいる筈もない。子供が生まれた時は少なくても幸せであった筈だ。でも途中から早苗をないがしろにした事は早苗のへの裏切り行為であった。俺は仕事を言い訳に好き放題生きて来た。早苗は子供が小学生くらいまで大変だろうが育てがいがあっただろう。更に高校生になる頃は、子供達は親よりも友達への比重が大きなって行く、そうなると寂しさが増してくる。それを分かってやれない夫に次第に嫌気が差すてくるのも分かる。
早苗は何故、引き止めないのと思っているのだろうか? 過去の過ち? もしそうならそれは違う。浮気を省いても引き止められなかったのが本当の理由は、苦しんでいる妻を分かっていなかった。そんな甲斐性のない男に止める権利もないからだ。
家に入れば、ただの木偶の坊と同じようなだ俺だ。妻を喜ばす術を知らない。早苗と旅行したのだって子供達が小学生の頃、三度ほどあっただけだ。たまの休みはゴルフか仕事関係で飲みに出掛けるようなことばかり。ただそれも全部仕事がらみの付き合いなのだ。それによってお得意の信頼を得ると思っていた。それではプライベートの時間がないではないか? いつの間にか仕事が人生そのものになっていた。まさに会社に命を奉げた男だった。早苗が理解出来る訳がないだろう。俺が悪かった。出て行かないでくれと言える訳もないのだ。
アパートに引っ越してまだ一ヶ月だ。六畳二間と五畳程度のダイニングキッチンの安アパートだ。売った家は豪邸とまで行かないが、満足出来る家だった。それに比べると今は酷いものだ。いままで気にした事がない隣室の配慮。部屋の中を歩くにも下の階の人に気配りしなくてはならない。それでも窓を開けると目の前に建築中のスカイツリーが見える。時折だが工事の音も聞こえてくる程の距離だ。不思議なことに何時間でも見ていても飽きない。暇人の俺には最高の場所でもある。
急に一人暮らしになって食事もままならない毎日だ。何しろ家事をしたことがない。洗濯だって今までは妻がやってくれた。クリーニングという手はあるが、まさか下着までは出せない。小さい洗濯機を買ったものの使い方さえ分からない。見かねた娘の香織が、洗濯機の使い方や食事を作るに来てくれる。香織が作ってくれなければコンビニの弁当か外食。呆れた香織が、ごはんの炊き方や簡単な料理方を教えてくたれ。その香織は俺の過去の過ちには一切触れなかった。良くできた娘だ。こんな立派な息子と娘を育ててくれた早苗に感謝しなくては……今更遅いが。
息子と娘はどう思っているのだろう。妻のありがたみを思いするが良いと思っているのか?後ろめたい気持ちはあるが、親子関係が最低限は維持されているのが嬉しい。
長男の孝之は仕事の関係で静岡に住んでいる。孝之は今年で二十八歳になるがまだ独身である。娘の香織も二十六歳で独身だが、二人ともしっかりしていて特に心配も要らないが俺達の離婚に関してはとやかく言わなかったのが不思議であった。
もしかしたら妻の早苗から、離婚について子供達と話し合っていたのかも知れない。
つまり準備万端のうえでの離婚だったのだろうか。子供達は中立でどちらが良いとか悪いとかは言わない。もう大人だからだろうか? 立派に育った子供達は妻の育児と教育の賜物だろう。
しかし一日がこんなに長いとは思わなかった。会社勤めしている時は時間が足りないほど動き周っていたものだが、今では朝八時に起きてパンを焼いて目玉焼きを作って食べ、新聞を読むのが習慣となっている。目玉焼きの作り方だって娘から教わったものだ。次はご飯の炊き方を教えてくれるとか。仕事人間の俺には、家庭では何も出来ない幼児と同じような今の俺が情けない。妻とは離婚したが課題も残されている。二人が離婚する時、母である妻はどうするのだろうか? 俺と言えば自分の非を認めながらも心の奥底では未練が残っているが、妻にすがりつく様な姿は見せたくなかった。これも重役として勤めたプライドなのだろうか? いやもう今は無職で初老の男、プライドを捨てろと、もう一人の自分が脳裏に働きかけている。
離婚はしたが俺には親としての努めと云うか責任がある。成人したとはいえ結婚するまで見守らなくてはならない。そして孫が生まれたら……いや其処まではまだ考えずに置こう。
それ以外に問題は沢山ある。浮気した時の子の大輔は高校二年生だが、俺が野球好きだったせいか野球部に入っている。素質もかなりのものらしい。一年生からレギュラーらしく、学校も大会では上位の方で二度ばかり甲子園に出場した事がある有力校なのだ。大輔は甲子園を夢見て頑張っている。
大輔は母が五才の時に病で亡くなった。本来なら父である俺が育てなくてはならないが、相手の親は頑として大輔(孫)は私達が育てる、貴方は大輔に近づかないでとまで言われた。だが娘の遺言が効いた。父は洋輔さんなのだから、将来成人して父の居ない子にはしないでと。
今は年に数回しか会っていないが、進学をどうするか相談に乗ってやらなければならない。
そして一番の問題は、腹違いの子供達と対面させるかという事だ。
難しい問題だが腹違いであっても兄弟である。俺としては互いに兄弟と逢って欲しいと願っている。だが子供達に言わせれば浮気した相手の子供。弟と言うより憎さが上回るかも知れない。
しかし毎日が退屈であった。暇すぎてつい妙な事を考えてしまう。
子供は勿論だが今は自分をどうするか、どうしてこれからの人生を歩んで行くのか決めなければならない。毎日、家でブラブラしていては息が詰まりそうにもなる。引っ越して近所には知り合いもいない。いつかはまた働こうとは思っているが、この不景気にどんな仕事があると云うのだ。ガードマンや守衛は俺には勤まらない。出来るとしたら事務系くらいだろう。
だが、一応重役として働いていた変なプライドが邪魔して上手く働けるかも自信がないのも確かだ。やはり暫く一人旅に出ようとは思っている。多少の蓄えもあるし十年は遊べるだろう。その後は年金暮らしとなるかも知れないが、とにかく今は孤独に耐えられないのだ。
本当にこのままなら、その内にボケ老人になりそうで怖いのだ。
仕事をして居る時はどれだけ充実していた事か、まったく仕事がないと、ただの初老の男でしかないのか? 友達? 考えてみれば殆どいない。なんてことだ! 一番大事なことじゃなかったのか。そんな俺だもの、妻に愛想つかされて当然か。ともかく自分がこれからどうするか決めなければならない。俺は翌日から旅行会社に行きパンフレットを揃え、それを元にインターネットで調べてみた。
一応は旅行行程の資料を揃えた。後は行き当たりバッタリで行くしかない。
数日後、俺は旅の準備を始めた。時期は初秋、まだ紅葉には早いが北海道か東北の山なら、そろそろ紅葉が見られるかもしれない。ただそれも海か山か街になるか行ってみないと分からない。大家には暫く留守にすると二ヵ月分の家賃を先払いし、洋酒を持って「留守中頼みます」と言ったら上機嫌で「気をつけていってらっしゃい」と云われた。
どうやら大家だけは上手くやって行けそうな気がする。
翌日の朝、東京駅の東北新幹線のホームに俺は立っていた。
仕事では何度か利用した東北新幹線だが、今はまったく気分が違う。気負うこともなければ楽しい気分とも違う。旅に出て今後の人生に置いて夢か希望が見えてくれれば良いと思っている。気がつけばもう仙台に到着した。だが失敗したと思った。急ぐ旅でもないのにこれでは情緒なんて楽しめやしない。駅弁を買おうにも降りる暇もない。諦めていた処へワゴンを引いて売り子が入って来た。(二〇二一年現在、車内販売中止)
仙台で仕入れたのだろか、仙台の駅弁があった。種類も豊富で仙台と言えばら名物の牛タンだろうが、その他にも、かきめし、牛肉重、歴史好きの俺は伊達武将隊弁当に決めた。
やがて列車は八戸に入りそこで降りた。いきなり潮の香りが鼻をつく。たった三時間余りで別世界。俺は外を眺めた。此処は漁業と工業の町である。そして別れた妻の故郷だ。あれは二十九歳の時だった。あれほど緊張したのは後にも先にも一度だけだ。つまり結婚の承諾をして貰う為に訪れたのだ。昔ながらの家なのか築百年以上は経っているだろうが、何度もリフォームして中は近代的な作りになっている。柱も太く東京では見られない屋敷という部類に入る。門も武家屋敷を思わせるような家だ。
さて、俺は早苗の実家に赴き、『早苗さんと結婚したいと』申し込むつもりだ。早苗は既に実家で待っているはずだ。
『どこの馬の骨とも分からん奴に嫁にはやれん』なんて言われるのじゃないか? と、ゾッとしたものだ。
早苗と初めて会ったのは当時勤めていた会社の新年会が終わったあと、同僚数人と二次会に出かけた時の事、居酒屋に立ち寄ったが満席で、これでは仕方がないと同僚達は帰って行った。俺はせっかく来たのに席が空くまで待とうと、店内を見渡したら誰かが手招きしている。てっきり俺じゃないと思ったら俺を指さしていた。
「よろしかったらどうです」
そう声を掛けられた。しかもうら若き女性ではないか。
「よろしいでしょうか。助かりました」
「いいえ私も友人が、用事が出来たと帰ってしまい、退屈していたところですよ」
「そうですか、失礼します」
俺は軽く挨拶すると彼女は、俺の胸元のバッチを見てニッコリした。
「驚いたぁ同僚の方じゃないですか」
「と、いう事は貴女も安田物産の方ですか。それは偶然ですね。僕は営業部三課です」
「あっ私は総務部です。宜しくお願いします」
同じ会社と知って意気投合し話が弾んだ。安田物産は従業員の数が一万人以上の大企業で本社の近くとあれば顔を知らなくても、周りには沢山いる。新年会も各、課や部で行うから、彼女とは一緒ではなかった。そんな彼女から声を掛けてくれたが、特に積極的な女性と言う訳でもなく、困っている人をほって置けない性格らしい。
聞けば東北の出身らしく多少、東北訛りが見え隠れした。そんな彼女が新鮮に見えたものだ。それがやがて交際に発展し二年半後、結婚する事になるとは、今思うとこれも運命なのだろうか。ついあの日が昨日のように思い出された。
妻の、いや元妻と言うべきか。実家は町外れで波の音が聞こえる浜辺にあり、田舎ではあるが父は当時市会議員だという。あの時ほど緊張したことはない。しかし最初が肝心キチンと挨拶しないと悪い印象を与えたら帰れ!! なんて言われたらと思ったものだ。
もう三十年も前のことなのに鮮明に覚えている。
早苗の実家である野沢家は近所と比べても大きな屋敷であった。自分は東京生まれの東京育ちだが代々サラリーマンの家庭で、一軒家で敷地三十五坪。サラリーマン家庭としては平均的な面積だろう。しかし野沢家は地方の町とはいえ屋敷に相応しい四百坪以上あるだろうか。この屋敷を見ただけで圧倒されたものだ。
「は……初めまして浅井洋輔と申します、縁ありまして早苗さんと三年交際して参りました。近い将来に結婚を考えております。どうか二人の交際を認めていただけないでしょうか」
確かそのような事を言った覚えがある。
娘の交際相手はどんな人物か確かめたいのは親心だろう。なんと俺は何を聞かれてもいいように準備はして来たが、どんな人物か説明するより良い方法を思いついていた。なんと就職する訳でもないのに履歴書を持参して来た。
「お父さん、お母さん。まず僕の身分を証明する為に履歴書も持参してきました。どうぞご確認下さい」
「なんと挨拶代わりに履歴書ですか。これは驚いた。では拝見させて貰います」
両親は一緒にその履歴書を眺める。隣で早苗は俺の袖を引っ張り笑う。良い方法だと思ったのだろう。
「ほほう! 東京生まれの東京育ち。一流企業じゃないですか、しかも若くして主任とはたいしたものだ」
「言え、そういうつもりでお見せした訳ではなく……」
「分かっている。三人兄弟の御次男。将来お父さんの後は長男の方が継ぐのですか」
「はい、僕は所帯を持ったら、親とは別々に暮らす事になります」
親して将来、舅姑の面倒見なくて済むから早苗に負担がないと思ったのだろう。安心した顔をしている。最近は少ないが、どんな夫婦仲が良くても舅姑問題で離婚に発展する事も珍しくなかった。
この履歴書が効いた。早苗の両親は俺に好感をもってくたれようだ。それから食事をしながら世間話に花が咲いた。そんな事もあってか父の返答は。
「早苗からも貴方の事は色々と伺っております。しかし近い将来の言うのは駄目だ。するなら早い方がいい」
俺が面会に行く前に俺の事を説明していたのだろう。優しく良い人だから結婚したいと。そんな訳で半年後には慌しく結婚式を挙げたものだ。
あれから三十数年、今はその義父は他界したが母は何年も会っていないが生きていたとしても九十近いだろう。俺の両親も既に亡くなっている。時の流れとは早いものだ。
この八戸に来たのは四度くらいしかない。
最初の日の挨拶と長男が生まれた時と娘が生まれた時、そして最後は義父の葬儀の時だけだ。
妻と別れた今は行けるはずもないが、この町は魚が旨かった事は覚えている。
当時はイカが日本一獲れた港町でもある。最初行った翌日に、妻が小高い丘の上に案内してくれた。その眼下には海一面に漁り火が見えた。みんなイカ漁の船だという。都会では決して見られない幻想的な光景だった。ついここ(八戸)の風景を見ると妻との思い出が蘇ってくる。
俺の青春は妻とデートした日々と新婚の頃が全てだ。
あとはまさに戦場の戦士ごとく仕事、仕事に明け暮れたものだ。俺が出世して金を稼げれば家族は裕福に暮らせる。それが最大の目標だったはずだ。確かに自分で言うのもなんだが、人並み以上に給料を貰い人並み以上の暮らしも出来た。勿論、自分自身にも恩恵はあった。同期で入社した連中よりも俺は早く重役になり満足感を得た。
だが少なくても妻は出世や金よりも一家団欒を求めたのだろうか。俺の自己満足に過ぎないのか? 妻は何度か愚痴を言って泣いていたこともる。だが俺は裕福になる事が幸せであり、それが何故悪いと愚痴に耳を傾けようともしなかった。
それがやがては妻の孤独を誘い、互いの幸福感が違うと覚ったのだろう。
幸福の価値観はそれぞれ違うのは分かる。いや、やはり一番悪いのは妻の悩み受け入れなかった俺だ。まだ旅に出たばかりだが、一人になって少しその答えが解けて来たような気がする。
当初は一気に函館まで行き札幌、小樽から富良野へ行こうと思っていたが、八戸周辺が近づくと、急に八戸に行って見たいと思った。予定を変更して今夜の宿は八戸と決めた。何年ぶりかだが縁のある町だ。縁があるのは当たり前、早苗の生まれ故郷だもの。色々と言い訳しても分かれた妻が忘れられないのか? それとも妻が導いたのか?
本当は海の見える宿に泊まりたかったが、観光ガイドに載っているのは市内のビジネスホテルばかりだった。特に高級ホテルというものはなく、大きなビジネスホテルが沢山あった。
嬉しいのは料金が驚く安く最低料金は素泊りなら三千円程度で、平均五千円で朝食付きが主流のようだ。パソコンも一泊八百円で貸してくれる。勿論夕食はないが、市内に出れば郷土料理にありつける。ホテルに入りシャワーを浴びてから市内に繰り出した。
ホテルでくれた食事処のガイドブックをみて、小奇麗な店に入った。
豊富な魚介類が沢山盛られた刺身やB級ご当地グルメ 料理で有名な(せんべい汁)を食べた。
地方に行けば、やはり地酒に限る。現役の頃は必ず地方の地酒を楽しんだものだ。
ここの地酒は男山、陸奥八仙、面白いのが(素敵)という地酒もある。取り敢えず陸奥八仙を飲んで見た。なかなかの味だ。酒の肴はイカの丸焼き、よい組み合わせだ。ここ半年のうっぷんを忘れそうだ。
そんな時だった。隣のカウンター席にいる初老の男が声を掛けてきた。
「あんたは旅行者かい? わしゃあ漁師しているんだが、どうだい魚は旨いかい」
年の頃は俺より少し上に見えたが、体形は漁師らしく逞しいが笑った顔に飾りがなく好感が持てた。
「うーん旨いねぇ。なんと言っても新鮮味がある。それに安くてこんなに量が多い」
「そうじゃろう、そうじゃろう。なにせ此処に収めている魚の殆ど俺と息子が獲ったもんじゃ」
「本当ですか? そりゃあ凄い。もう漁師を長くやっているんですか」
「まあな、俺は三代目で物心がついた頃には親父と舟の上にいたよ。最近は息子が後を継いでいるが」
なんとも人懐こい漁師だ。ついつい話が弾んで二時間も一緒に飲みながら語り合った。酒が入り、ついついグチを零した。
「そうかい、仕事、仕事でかあちゃんに逃げられたのかい。気の毒にのう」
大きな声で言うものだから、俺はオイオイそんな大きな声で……と思ったが遅かった。周りが俺を哀れみの顔で見ている。だが幸造は悪気がある訳でもないし相変わらずの高い声で続ける。まぁ旅の恥はかき捨てだからヨシとするしかなさそうだ。
「仕方がないですよ。身から出たサビですから」
「そんで何かい、かあちゃんがこの八戸出身だって?」
「まぁそう言うことです」
「まさか、よりを戻そうと思って来たとか?」
「そんなんじゃありませんよ。つい旅の途中で昔見た漁り火を思い出しましてね」
「漁り火かぁ、あの頃とは違ってイカはそれほど獲れなくなったが俺の所なら見られるよ」
「ほんとですか? じゃあ住まいは海の近くで」
「当たり前だんべぇ漁師が海の近くじゃなくてどうする。ハッハハ」
すっかり意気投合した漁師こと、斉藤幸造なる男の家に漁火を見せてくれると言うから明日、泊りがけで見る事になった。
翌日、幸造がビジネスホテルに魚の匂いがする軽トラックで迎えに来た。
向かった場所は八戸漁港から少し行った所にあった。しかしこの八戸と言う地名が面白い。一日町、三日町、六日町、八日町~~二十三町など日付に因んだ町名が多い。幸造の家に到着すると、確かに海が目の前にあった。北の海は荒々しく海の色は青より黒に近い色だった。
「さぁさぁ入った、入った。遠慮はいらんぞ」
本当に海の目の前だった。案内された家の中でも波の音が聞こえてくる。
家族は妻と子供二人いるらしいが、長男は漁師の四代目で今日は舟で漁に行っているそうだ。その長男の嫁と二人の孫で六人家族だが次男は仙台に居るらしい。いわば幸造は半分隠居状態であった。幸造の妻と長男の嫁が暖かく迎えいれてくれた。
「どうも初めまして、昨夜知り合ったばかりで斉藤さんのお言葉に甘えてつい来てしまいました」
「よういらしたでなす、うちの人は陸に上がって寂しかったのか、昨夜は帰って来て貴方さまの事が気に入って本当にご機嫌でねぇ、今朝は早く起きて。そわそわして迎えに行ったんですよ。逆に迷惑じゃないかね」
「とんでもない。久し振りに心が通い合い、なんか昔の友達と再会した気分になりましたよ」
「そうですかい、そりゃあよう御座いましたなす」
その夜は幸造の息子を交えて鍋料理を囲み、まるで竜宮城に来たような気分になった。
約束通り、ほろ酔い気分で幸造と妻、長男と嫁とで、真っ黒な海に浮かび上がる漁り火を見た。なんとも幻想的であり、そして三十前に妻と見た光景がダブった。
忘れていた家庭が此処にはあった。それも昨日知り合ったばかりなのに、何年も前からの友人のように安らぎを覚えた。都会では考えられない、人なつこさと東北人特有の心の温かさを感じた。
一晩で失礼するつもりだったが、幸造がもっと泊まっていってくれと引き止められた。
いくらなんでも前日に知り合って意気投合したとしても、甘え過ぎであると夕方には失礼するつもりだったが。
「浅井さん、いや洋輔さんと呼ばせてくれ。俺はもう少しあんたと話をしたいんだ。急ぐ旅でなかったら頼むから暫らく泊まって行ってくれ」
両手を合わせて哀願する幸造に戸惑った。そんな夫の姿を見た幸造の妻も是非ともと頼むのだった。
「私からもお願いします。この人は浅井さんを余程気に入ったようで、この数十年見た事がないような喜びようで私も嬉しくて……」
妙な事になった。六十歳を過ぎて男から惚れられたのか?
つい酒のせいか互いに身の上話をする羽目になった。
幸造は生まれた時から漁師の息子で育ったのは聞いている。結婚は見合いだそうだ。
幸造夫婦の話を聞くと親の言われるまま、お互いに気に入ったとか言うよりも運命だと決めたそうだ。それでも今では家族仲良く暮らしている。まもなく三人目の孫も生まれるとかで幸せ、そのものだ。その話を聞いた時に俺は恋愛なのに別れてしまった。好き同士で一緒になった、のじゃないのか? 恋愛結婚は必ずしも幸せになるとは限らない事を思い知らされた。
「ほんでもって奥さんは八戸の何処の生まれだんべぇ」
「えっとねぇ……確か海辺で波の音が聞こえるほど近い所に家があったと思いました。確か怖い地名で鮫……なんとか」
「なんでぇ奥さんの生まれ故郷も忘れたんかい、それって鮫(さめ)町じゃないか」
「あっそうそう、そんな名前でした」
「なんだぁそうかい。ほんで旧姓はなんてぇんだい」
「野沢ですが、確かお父さんは当時、市会議員だったと思います」
すると幸造の妻が、知っているらしくびっくりした顔をした。
「もしかして野沢さんとこの早苗さんじゃないですか」
「えっ奥さんご存知なのですか」
「高校の同級生ですよ。確か東京に出て結婚したと聞いていましたが、まさかその旦那さんだったなんて」
「本当ですか? いやあ離婚したのでは合わせる顔もありませんがね」
まったく世の中って不思議なものだ。いくら妻の地元だってこうも偶然に知り合うとは。
「まあ人はそれぞれですから誰が悪いとかじゃなく……でも野沢さんとこのお婆ちゃん入院しているんですよ」
「そうなのですか、結婚当初は何かと世話になった義母ですから知らん顔も出来ないかなぁ」
すると幸造が口を挟んだ。
「なぁに離婚したって互いに憎みあって別れた訳じゃないなら、世話になった人なら見舞いもいいんじゃない」
「まぁそうですね。暇を持て余しているし、お詫びを兼ねてお見舞いに行ってみますか」
「そうかい、なら明日一緒に行きましょう。光江お前病院知っているよな」
翌日、幸造夫妻と一緒に病院に向かった。
病院に向かう途中、久し振りに息子の孝之から電話が入った。
「おう孝之か元気でやっているか。珍しいな孝之が電話をくれるなんて」
「うん、急なんだけど俺達、結婚する事に決めたんだ」
「なんだって? 本当か。そうかそれは目出度い……しかし俺は彼女の顔も知らんぞ」
「近いうちに紹介するよ。いま引っ越したアパートに居るの?」
「いや今は旅先だよ。ちょっとした縁で知り合った人と、今から母さんのお袋さんが入院している病院に向かう途中なんだ。別に母さんの実家に行った訳ではなく、八戸の魚が旨いのを思い出して、そこで知り合った人の奥さんが母さんと知り合いらしく、つまりお前のお婆ちゃんが入院していると聞き、知らん顔も出来ないので見舞いに行く途中なのさ」
「ふーん父さん、母さんの故郷にいったんだ」
「いや偶然だよ。久し振りの旅行なので北海道でも行って見ようかと思ったが、昔食べた新鮮な魚を思い出して途中下車したのさ」
「ふーん。まぁ楽しんでおいでよ。また連絡する」
孝之は、よりを戻したくて母の実家を訪ねて行ったと思ったらしい。孝之の感じでは勿論、元のサヤに収まって欲しいと思っているらしい。その証拠に一緒に式に出られるか尋ねて来た。
俺は息子が結婚するって嬉しく思った。早く未来の嫁さんを見たいと。
結婚式は来年の春くらいと言っていた。あと半年先だ。忙しくなりそうだ。
俺は病院の側にある花屋と果物屋へ寄った。しかしなんて挨拶してよいやら年甲斐もなく緊張した。病室を訪ねると義母はベッドに一人横たわっていた。久し振りに会った義母は思ったより元気そうだった。
「こんにちは、おばあちゃん覚えていますか。早苗ちゃんと同級生だった光江ですよ」
義母は少し間を置いて思い出したらしく、良く来てくれたと喜んだ。そして俺に視線を合わせた。
「お義母さん、ご無沙汰しております。浅井洋輔です。今更顔を出せた身分じゃないですが」
「洋輔さんかい……いや悪いのはこちらです。早苗から一方的に言い出したそうじゃないですか。本当にこちらからお詫びに伺わなければならないと思っていたのですが、この体では何も出来なくて」
思いがけない言葉に俺は救われる思いだった。帰ってくれと門前払いを喰わされても仕方がないと思っていた。幸造と幸造の妻は気を利かせて病室を出た。
俺は義母に自分の甲斐性のなさを詫びた。義母は余程嬉しかったようで、娘とまた一緒になって欲しいと望んでいるようだ。家に帰って来たら説得するから待っていて欲しいと涙ながら訴えた。またひとつ東北人の情に俺の心は熱くなった。しかし俺の心は満たされた。
この年で友達も出来た。そして義母とも心のわだかまりが消えた。消えたと云えば早苗は一体どこに居るのだろう? 実家には三日程しか居なかったそうだ。その後は音沙汰なしとか。
病院から帰り、幸造に息子が結婚するらしく忙しくなりそうなので予定を変更して東京に帰ると伝えた。
「へぇ~息子さんが結婚するのかい。それは目出度いね」
幸造はおめでとうと言ってくれた。まだ半年以上もあるしもう少し泊まって行けと引き止めたが、しかしいつまでも長居する訳にも行かない。息子の孝之が近い内に彼女に会ってくれと言っている。やはり東京に戻らなければならない。娘の香織とも話し合い孝之の婚約を祝ってやらないと思っている。たが幸造ら頼むからもう少し泊まって行ってくれと泣きつかれ、無下に断る訳にも行かず更に二日程お世話にった。まさかこんなに好かれるとは思わなかった。家族も孫も居るのに、腹を割って話せる友達が居なかったようだ。
そして寂しがる幸造と翌々日の朝、互いの肩を抱き合い次の再会を楽しみに八戸を後にした。
それから十和田湖や八甲田山を見物して帰途に着いた。
たった一週間たらずの旅だったが、一ヶ月分にも相当する楽しさを味わえた事が嬉しかった。
東京に帰ったが、窓が見えるスカイツリーの高さは変わっていなかった。しかし素晴らしい眺めだ。それから数日後、宅配便が届いていた。大きな箱に入った冷凍食品だった。なんと差出人は八戸の幸造からだ。イカ、帆立など十キロもあるだろうか。その中には手紙と写真が入っていた。二人で一緒に撮った写真と家族写真など。
『浅井さん、いや洋輔さんと呼ばせてくれ。あんたが居なくなり本当に寂しいよ。短い間だったけど楽しかったよ、友情の印として気持ちだけ魚貝類を送ったから食べてくれ。また会える日を楽しみしています、幸造』
有難い人だ。本当の友達が出来た気分だ。早速お礼の電話を入れた。幸造は泣いて喜んでくれた。あの屈託のない笑顔が浮かぶようだ。
一週間後、孝之から電話が入った。明後日、婚約者を連れて行くとの事だった。
ボロアパートでは孝之にも婚約者にも申し訳ない。錦糸町にあるホテルのレストランを予約した。久し振りに俺は背広を来た。背広を着るとサラリーマン時代を思い出す。それと同時に気持ちまでシャッキと締まる思いがする。アパートに来た香織と一緒にレストランに向かった。
「どう? お父さんどんな気分」
「なんか妙な気分だよ。自分が母さんの家に行き、結婚の承諾を得るに行くような気分だよ」
「そうか、いつか私もそんな日が来るといいな」
「そりゃあ来るさ。でも君には家の娘はやれんって言うかもな」
「冗談はやめてよ。まぁまだ先だから」
「そんな先では困るよ。香織のことだからきっと良い人を連れて来るさ」
「ねぇ、お父さん。お兄ちゃんのお嫁さんになる人どんな人かなぁ。ドキドキするわ」
「そうだなぁ、お前の義理の姉さんになる人だもんなぁ」
「そうかぁ私に姉さんが出来るんだわ。今度はワクワクして来たわ」
屈託のない娘の喜ぶ顔が可愛いい。久し振りに子供達との再会……しかし家族が一人足りない。ふっとそんな事が過ぎったが、香織に悟られまいと空を見上げた。
真っ青な空の色が眩しいくらいだ。こんな青空の下で披露宴が出来たらいいのにと。想像してみた。
最近の結婚式は洋風が好まれるらしく。昔と違い結婚式も随分と様変わりしたようだ。
俺達世代の頃は神殿で行われた。今は結婚式場にある教会で式を挙げるか、キリスト教会で行なう方が多くなった。教会から出ると周りに出席者が花びらを巻いて祝福してくれる。青空の下で披露宴だ。芝生の覆われた中庭で披露宴よりパーティ形式なのか? まさに青空の下での結婚披露宴が浮かぶ。
「お父さん? どうしたの」
「あ、いや。青空を見ていたら、こんな空の下で結婚式が出来たらいいなぁと思ってさ」
「え~! 私とおんなじ事を考えていたの? やっぱり親子だね」
娘は嬉しそうに笑った。やがてホテルに着いた。時計を見たら約束の五分前だった。
やや緊張しながらも、ホテルのロビーでレスランを予約してある事を告げた。
席に案内されると既に息子と息子の婚約者が待っていた。
孝之は俺達に気づいたのか席を立って会釈をした。
それと同時に婚約者も、やや緊張気味であるが深々と頭を下げた。
互いに会釈して席に着くと孝之が改めて紹介してくれた。
「陽子さん、父と妹の香織です」
「初めまして久留米陽子と申します。もっと早くご挨拶したかったのですが、遅くなり申し訳ありません」
「いいえ、遠い所をお出で下さいまして、孝之の父、洋輔と申します」
「私、妹の香織です。とてもお綺麗なお方で、兄には勿体無いくらいです」
香織は思ったまま言ったつもりだったが、俺は相手の容姿を初対面で語るのに抵抗があった。
「おいおい香織、いきなりそんな言い方失礼だろう。まっ、宜しく頼みますよ」
「だって本当のことだもの。本当に綺麗なのだから」
俺と娘のやりとりで少しは硬さも取れて来たのか、陽子の表情が柔らかくなった。
孝之はこれから先の、結婚式の日取りまで予定について語った。
陽子は緊張していたようで疲れただろう。孝之は気を使って簡単な挨拶だけで別れた。
本来は結納してから結婚なのだが、最近はこの結納を省くことも多くなったようだ。
そして仲人を立てないのも最近の結婚式だ。最近の若い者は結納や仲人って何に? と聞く。
それと披露宴には、親戚も身近な者に限られ友人が大半を埋める式が多くなったのも時代の流れだろうか。
俺の時は祖父祖母、叔父叔母は勿論、殆ど会った事もない親戚まで式に招待したものだ。
最近は簡素で親兄弟だけというものもある。親でハッとなった。
親=両親である。しかし母が居ない。死別なら仕方ないが、これを息子は彼女にどう説明しているのであろうか。この場所に孝之の母が居ない事になんの違和感を抱いていないようだから、既に事情は話してあると思われるが。孝之の話では来年の五月頃を予定していると云う。
そうなると遅くとも正月明けに、相手の両親へ挨拶に出向かなくてはならないのだが。
「お父さん、なにを心配しているの? はぁお母さんの事でしょう」
香織に心の中を覗かれたような気分だった。
「な! なにをつまらないことを……」
「心配しないで、私が連絡してみるから」
「お前知っているのか?」
「だって娘だもの。私にだけは教えてくれているもの」
予想していないことだった。しかし今は香織を頼るしかない。離婚しても親として子供への、最後の務めである。先のことは分からないが、せめて息子が晴れて結婚するのだ。祝ってやるのが親だろう。
思わぬ展開となった。娘の香織が兄の結婚式へ、母の出席を交渉すると買って出た。
妻が離婚届を出した時、俺は正直なにも言えなかった。浮気して子供まで作り、おまけに家庭を顧みない俺だ。いつかはそんな日が来てもおかしくないと思っていた。
それは全てに置いて自分に非があると思っていたからだ。
娘に以前言われたことがある。『お父さんは女心を何も分かってないんじゃないの』と
その意味が最近になって少し分かったような気もする。
あの時、『俺が悪かったこれからはお前の為に尽くしから別れないでくれ』そう云うべきだったのか?
己自身は妻に帰って来て欲しいと望んでいるか、そう問われれば妻が出て行くとき止める資格なしと思っていた部分と、どうして亭主が頭を下げて引き止めなければならないのか。そんな威信と云うかプライドがあったのかも知れない。今更プライドをかなぐり捨て頭を下げるのか? 自分への葛藤があった。八戸で出会った幸造夫婦をみていて刺激になった。夫婦っていいものだな。と、それから数日後、香織から電話があった。兄の結婚式のことで母を交えて話し合いたいとの事だった。
俺はドキリとした。心の準備が……あの時の心境と似ている。妻へプロポーズをした時のことだ。あの時ばかりヒヤヒヤしたものだ。断られる可能性が六十%と思っていたから本当に嬉しかった。当時、早苗の父は市会議員、おれは普通のサラリーマンと言う引け目があった。それなに一旦自分の妻へ納まってしまえば、釣った魚に餌はいらないとばかりに生きていた俺だ。なんて傲慢で自己中心的な自分だったのだろう。
約束の日が来た。俺はいつになく早く起きた。いつもの通りトーストにサラダと珈琲で朝食を済ませた。その時、娘から電話が入った。
「ああ、お父さん。時間大丈夫? それでね、落ち合う場所が変更になったの。メモして」
なんと変更になった場所は、忘れもしない妻にプロポーズしたレストランだった。
変更されたレストランに着いたのは約束時間の五分前だった。
仕事柄かサラリーマンに取って時間を守る事が何よりも大事なことだった。だから約束の時間に遅れた事は一度もない。そんな習性が今も変わっていない。時間厳守おそらく俺は死ぬまでこの鉄則を貫くだろう。
レストランを見渡したら既に香織と、久し振りに見る妻が席に座っていた。
妙な気分だ。見合い経験はないがそんな気分だった。ならば差し詰め娘が仲人といった処か?
娘は俺を見ると手を振った。妻はやや下を向き、俺に気づかないような素振りに見えた。
「はい、お父さん座って」
まさに娘が仲介人だ。二人だけにしたら何時間も言葉を交わさないのでないかと重苦しい雰囲気だ。娘は自分の口元に手をあて、掌を開いたり閉じたりした。俺に何かを言いなさいと催促しているのだ。
こうなると早苗と俺はまるで子供だ。娘が音頭をとってくれないと何も進まない。
「げ……げ……んきか」
それがやっとだった。
やや下を向き視線を逸らしている早苗に、娘が袖を引っ張る。
「……はい。なんとか」
まったく会話になっていない。呆れた娘が仕方なく誘い水をくれた。
「あのね。お母さん。お兄ちゃんの結婚式、何を着て行くつもり?」
娘は勝手に早苗の出席を決めてしまった。「そ、そうね。香織と一緒に決めるわ」と言った。
「あ! それとね。二週間後なのだけど双方の両親を交えて挨拶しようと言う事に決まったからね」
もう香織の独壇場だ。俺と妻の意見なんか聞きもしないで勝手に決めてしまったらしい。
早苗と俺は反対する理由もなく、娘の意見に同意する事になった。更に香織は拍車を掛ける。
「そうそう、お母さん田舎のおばあちゃん入院しるんだよね。なんでもお父さんが見舞いに行ったそうよ」
「え! 本当なの」
早苗は驚いたようだ。それはそうだ。妻にさえ気遣いする事がないのに。自分の母へわざわざ見舞いに行くなんて信じられない。
「ああ、少し自分なり考える事もあって旅に出たのだが。最初は北海道に行く予定だったけど、つい八戸の魚が美味いのを思い出して途中下車し、魚が美味い店に入って斉藤幸造さんと云う人と意気投合してしまい、なんと、その幸造さんの奥さんが、君と同級生だって言うじゃないか、それで義母さんが入院していると聞き見舞いに行った訳なんだ。昔、君が昔見せてくれた漁火がなんとも懐かしく感動してさ……」
以前とお前呼ばわりしたが離婚したとなれば、お前じゃ失礼と君にしたのだ。
「そうなの。ありがとうございます。意外だったわ。貴方にそんな一面があったなんて」
娘はニヤッと笑った。やっと誘い水が流れたのを見届けると。
「ああ! 思い出した友達と約束していたんだ。じゃ後は二人宜しくね」
呆気に取られる俺達を残して香織は消えてしまった。
残された俺達は暫らく口を閉ざしていたが、折角の娘の好意を無にしてはいけないと俺は早苗に語り掛けた。
「香織も立派に育ったなぁ。これも君の教育の賜物かも知れないな」
「どうしたの? 貴方からそんな言葉を聞くのは初めてよ」
早苗はクスッと笑った。この笑顔は何年ぶりだろう。二人の間に笑顔なんて考えてみると消えていた。
「いや俺ははっきり君に謝ったこともなかった。君が離婚を切り出し時に何故止めなかったのか後悔もしている。ただ詫びて済む問題じゃないと、何も言えなかった」
「……」
早苗はなにも言わなかった。返事の代わりに涙が零れ落ちるのが見えた。
零れ落ちる涙に俺らしくないが早苗にハンカチを渡した。早苗はコクリと頭を下げ、ゆっくりと話はじめた。
「お互いに離れていて気づくことがあるのね。私も一人になって沢山気づくことがあったわ。いくら貴方と別れようとしても、貴方と歩いた三十数年の歴史は簡単に消えないものなのね。孝之の結婚は私と貴方が居なければ、多分こんな話し合いをする機会も、なかったでしょう。子供は鎹(かすがい)と言いますけど本当ですね。孝之もそして香織も立派になったわ。私よりも貴方の背中を見て育ったかも知れないわ」
「いや俺は消そうにも消せない過ちを犯した。現実にはもう一人息子が居る。君には耐え難い恥辱だろう。でも俺の責任でその子が成人して一人前になるまでは育てなくてはならないんだ」
「もうその事はいいわ。その子には何も罪はないもの。でも貴方には責任があるわね。悔しいけど褒めてあげる。中には責任逃れする人もいるけど」
「こればっかりは褒められてもなぁ。とにかく君に長年辛い思いをさせた事は詫びる。それと夫婦っていいなと思ったのは幸造さん夫婦を見ていて特に感じたよ」
話は若干、逸れたが早苗は合わせて来た。
「そうかぁ光江さんは幸せなんだ。学生の頃は一番仲のいい友達だったのよ」
「そうらしいね。うん本当に仲の良い夫婦だったよ。羨ましいほどにね」
俺達は二人で一緒に居た時に、こんな会話を交わした事があっただろうか
まるで離婚していたのが嘘のように会話が弾んだ。
「処で君はまだ一人で居るのか」
「何を言っているのよ。当たり前でしょ。だってまだ離婚届は箪笥に閉まったままだもの」
「なんだって? どうして出さないんだ。君は自由になりたかったんじゃないのか」
「自由になったわ。半年だけど。でもこんなおばさんが今更自由を手にしても、どう羽ばたくって言うの?」
「そりゃあ、お洒落をしたり友達と遊んだり……」
「じゃあ貴方は一人になって羽ばたけたの?」
「いや一人になって、幸造さん夫婦みたいになりたいなと思った」
「それって何? 再婚したいって言うの?」
「今さら再婚する気はない。ただ君が戻ってくれたら、やり直せるかなと思って……」
知らない内に妻の誘導に嵌まり込んでしまった。
俺は確信した。早苗が戻ってくれると。もう威厳なんて必要がない。男は黙って頭を下げるべきだと。
「あの~この通り甲斐性もない俺だけど戻って来てくれないか?」
「…………」
「駄目かなぁ」
「私こそ戻っていいの? 私も貴方を分かろうとしなかったわ。確に顧み(かえりみ)ない部分もあったかも知れない、でも貴方は私と子供達に、なに不自由のない生活を与えてくれたわ。私は田舎者だから優雅な生活が幸せかどうか分からなかった。父は市会議員でお金には苦労した事がなかったけど、でも改めて知ったの、この不景気で仕事もなく一家心中する家族を最近だけど偶然出合ったの。私は身震いしたわ。だからって贅沢したい訳じゃないけど、質素に貴方と残りの人生を暮らせればそれでいいの」
俺達にはそれ以上の言葉はいらなかった。
それから数日後、次男の大輔を家族に紹介した。ここでも香織が力を発揮した。可愛い弟が出来て嬉しいらしく。私が貴方の姉よと言ったら大輔は緊張が解れたのか、それとも姉と言う響きが大輔の心を熱くさせたようだ。
「これから貴方は家族で弟だから面倒見てあげる。姉と思って頼りにしていいよ。何でも相談して、特に恋愛はバッチリ教えてあげる」
早速姉貴風を吹かせるが、面倒見てあげると言われ頼もしい姉だと思ったようだ。大輔は一人っ子だったので本当に嬉しかったようだ。
「はい……お姉さん宜しくお願いします」
香織はお姉さんと言われ、ご機嫌だ。優しい母、頼れる姉、そして兄、大輔は心から嬉しそうだった。そんな大輔を見て妻は本当に息子と思えるようになった。
俺と妻は揃って孝之の結婚式に臨んだ。披露宴の同じテーブルに座った娘が微笑んでいた。
そして香織の隣に腹違いの次男、大輔が居る。妻も暖かく迎えてくれた。孝之も香織も弟が出来た事を喜び全てのわだかまりが消えた。大輔は野球の才能があるらしく、なんでも大学はスポーツ推薦で奨学金が出るそうだ。我が子ながら三人共たいしたものだ。近い将来、大輔はプロ野球選手になれるかも知れない。
夢のような話だが、野球の素質があるからスポーツ推薦で入れたのだ。
もしかしたら将来、東京ドームに家族で大輔の活躍を応援する事になるかも知れない。
香織は兄の結婚はもちろん嬉しいだろうが、俺達が再び一緒に暮らし始めたことを誰もよりも喜んでいる。弟が出来て余程嬉しかったのだろう、最近は大輔に対して益々姉貴風を吹かせている。俺達は娘に感謝しなくてはならない。そのお礼は娘が結婚する時は盛大にやってあげようと思う。家を売ってしまったから、あのスカイツリーが見えるボロアパートで暫らく暮らすことにした。妻には悪いと思ったが、それが大違いだった。狭いから貴方がいつも側に居て話し合えるし、そして憧れの東京スカイツリーが毎日見渡せる。何よりも嬉しいのが、早苗が料理、洗濯をしてくれる。ただ依然と違うのは「何か手伝おうとか」と、気づかいを見せるようになった。スカイツリーはまだ半分程度しか完成していないが、香織が結婚する頃には完成するだろうか。もしそうならこれ以上の幸せが何処にあるのだろうか。
それから数ヶ月後、俺は妻に提案を出した。君の故郷である八戸で暮らさないかと。それなら君のお母さんの面倒も見られるし、俺だって幸造さんと云う友達と会える事が嬉しいと。
「本当? 貴方は東京生まれの江戸っ子よ。都会を捨てて田舎で暮らせるの?」
「別に捨てるとか大袈裟なものじゃないさ。娘の香織も居るし時々東京に帰り娘の処に転がり込むさ」
「それも良いわね。でも香織が嫌がるんじゃないかしら」
「その時は孝之の処へ行くさ」
「駄目よ。新婚さんの邪魔をするつもり?」
半年後、俺達は幸造の紹介で中古の家を買った。俺達が八戸で暮らすと言ったら飛び上がって喜んだそうだ。その前に妻と二人で北海道への旅に出た。二人揃っての旅は新婚旅行以来である。俺は旅先で幸造夫婦へのお土産を買った。すると妻が口を出して来た。
「貴方そんなに帆立貝を買ってどうするの」
「決まっているだろう。君の実家と幸造さんとこへの土産だよ」
「ばかねぇ、八戸は帆立でも有名な所なのよ」
「そうか、それなら孝之と香織に送り、幸造さんには君が選んでくれ」
妻は腹を抱えて笑った。妻があんなに笑う女だとは知らなかった。
これは楽しい旅になりそうだ。俺はレンタカーの運転席に座り「次の目的地は」と妻に聞いた。
妻との離婚騒動で俺が一番変わったのは、妻と良く話す事と、これまでになかった気配りするようになった事、物事を勝手に決めず妻に相談するようになった事かな。
了
執筆の狙い
浮気して、外に子供まで作った夫へ、妻の報復は十七年の月日を経て定年退職した夫への離婚届を出して去って行った。反論できぬ夫は黙って見送り、家を売り払い一人アパート住まい。
回想シーンが前後しますがご了承ください。
身に覚えのある方もない方も、結末をご覧ください(笑)