依存始め
――禁煙は長くは続かない。
電車の中で流れていく夜の景色を見ながら、俊輝(としき)は自身に言い訳し続けていた。
――月曜日の仕事で疲れたから、一箱だけしか買わないから、外でだけしか吸わないから。
その考えを頭にまとわりつかせながら、俊輝は電車から駅のホームへと降りた。
通勤で使っている路線ではあるが、普段は降りることがない駅のホームを歩いていることに奇妙な感覚を覚えながら、俊輝は改札を通り抜けた。
目についたコンビニへ行くと、つい先月まで吸っていた銘柄を購入して、俊輝は足早に店を出た。
持っていたタバコを背広のポケットに入れ、青いネクタイを緩めて外すと、背負っていたバッグへとネクタイをしまった。そしてYシャツの第一ボタンを外しながら周囲を見回す。
駅の近くには一つくらい喫煙所があるだろうと考え、俊輝は喫煙所を探しながら辺りを歩いた。
駅へと向かう通路から除外され、隠されるように設置された喫煙所を俊輝は見つけた。
購入したピースのスーパライトのフィルムを外して箱を空けつつ、俊輝は半透明のガラスで四方を仕切られた喫煙所の中へ、乾いた革靴の音を出しながら入った。
中に街灯は設置されておらず、外からの街灯だけが薄暗く喫煙所内を照らしていた。
互いに一メートルの距離を取っても十人くらいは入れそうな適度な広さの喫煙所であった。喫煙所内の中心には大きめの灰皿スタンドが設置され、地面にはレシートやタバコの空箱などが所々に放置されていた。椅子などはなく、喫煙所は閑散としていた。
喫煙しているのは一人の男性しかおらず、平日二十時であっても二月中旬の寒さであれば利用する人は少ないのだろうと思いながら、俊輝はタバコを一本取り出し口に咥えた。
咥えたのと同時に、自身がライターを持っていないことに気づく。
――買ってなかった……。
舌打ちしそうになるのを耐え、俊輝は喫煙所内にいる男性へと視線を向けた。
男性はスーツに黒っぽいコートを着て、レザー生地のトートバッグを肩に掛けたままスマホを見ながら喫煙していた。
――わざわざライターをまた買ってくるのは馬鹿らしい。この一箱しか吸わないんだし。
相手が吸っているタバコが電子タバコでないことに安堵して、俊輝は自身と同じ二十代後半くらいの男性へと近づきながら口を開いた。
「すみません。ライター借りても良いですか?」
話しかけられた男性は右手に持ったスマホ画面から顔を上げ俊輝を見た。
無表情のまま、ウェーブのかかった髪をした男性は、俊輝の顔と手に持つタバコを見た。
「すみません」
俊輝が軽い口調でその一言を言い終えるのと同時に、男性は左手で持っていたタバコを咥え、頭だけをわずかに俊輝へと近づけた。
赤黒いタバコの先端が自身へと差し出されたことに俊輝は目を開いて驚く。
「あ……、ライター」
俊輝の言葉を聞いても男性は差し出した先端を戻さず、無表情から微笑した。
「ほら、早く」
「あ、はい」
有無を言わさず急かされたように感じ、言われるがまま俊輝は差し出されたタバコの先端へと、自身の持ったタバコを近づけて接触させた。
先端同士を当てると同時に、このままじゃ火が点かないと瞬時に悟り、俊輝はタバコのフィルターへと口を当てて一吸息を吸い込んだ。
温度の上昇が足りないからか、自身のタバコに火が点かないことを見て、更にフィルターから空気を吸い込んだ。
赤黒い火種が自分のタバコに侵食し、先端へと火が移ったことを見た俊輝は口とタバコを相手から離した。
男性は離れた俊輝へと意味ありげ気な笑った顔を向けた。目を細め、たぶらかすように無邪気に笑った男性を見て、俊輝は相手の顔よりもウェーブがかったその髪の毛が地毛かパーマか、と全く関係ない考えが一瞬浮かんだが、すぐに相手の目へ意識を戻した。
「……どうも」
一言漏らし、せっかく火の点いたタバコを消さないために自身のタバコへと視線を向け、咥えて吸い込んだ。
指に挟まれたタバコは酸素を取り込み、当てもなく一筋の煙を上昇させながら先端が強く明滅した。
俊輝が視線を外すと同時に男性も視線を外し、タバコを口から離して煙を吐き出すと、顔をまたスマホ画面へと戻した。
何の変化も見せず、今の行為におかしなことなど何一つとしてなかったと、男性は挙動で体現していた。
俊輝は戸惑いながら男性を見たが、相手が既に素知らぬ様子へと、声を掛ける前と同じ様子になっているのを見て、もう用は済んだのだと悟り、後ずさった。
相手は酔っているのだろうと考え、俊輝は平常心に戻ろうと男性から距離を取って、スマホを取り出してニュースサイトを見たが、頭へは何も入ってこなかった。
吸い込んだ煙を吐き出しつつ、自身の動悸が変に浅く乱れているのを意識した。
そして、それが久し振りの喫煙だけが理由ではないことも俊輝は意識していた。
三吸いか四吸いして、三分の一程にタバコを吸い終えた所で、相手の男性が動く気配がした。男性は灰皿スタンドへと行きタバコを捨てると、出口へと向かった。
俊輝は相手を直視しないように顔を少し動かし、視線を男性の上半身へと向けた。何かおかしな動作がないか注意していると、男性は歩きながら俊輝へ向かって左手を軽く振った。
手を降っていることに気づいた俊輝は、ぼんやりと男性周辺に合わせていた視線から顔へと焦点を合わせた。
男性はタバコを差し出してきた時と同じように微笑していた。
あまり親しくない親戚の子供と分かれる時のような、社交辞令のような表情と手の振り方であった。
俊輝は男性のその降るまいに表情を崩さず、ペコリと頭を少し下げるだけの応答をするので精一杯だった。
男性が去り、一人喫煙所に取り残された俊輝は、そこで静かに安堵を得た。
あの男性の行為の意味は何だったのか。
意味という意味などない、ただのイタズラのようなたわむれだろう。ただのからかいだったのだろうと俊輝は理解した。
そう理解したはずなのに、タバコ同士を接触させた時、急かした時に笑った男性の顔が頭から離れなかった。
蠱惑で魅力的。惑わすようなたぶらかしの笑みがどうしても頭から離れなかった。
誘惑の笑みではなく、惹き付けるような魅惑的な笑みが、俊輝の頭の中でピーナッツバターのようにこびり付いて落ちなかった。
――ただタバコを吸うだけだし。
駅のホームを出て階段を降り、またあの喫煙所へと向かいながら俊輝は頭の中で漏らした。
一昨日に降りた駅。一昨日に来た場所。
昨日この駅では俊輝は降りなかった。今日も仕事帰りに俊輝は降りるつもりはなかった。
けれど駅に電車が停まり、ドアが開いたと同時に俊輝は吸い寄せられるように立ち上がり歩いていた。
喫煙所は会社の最寄り駅にも、自分が住む最寄り駅にもあるのを俊輝は知っていた。
知っているし、そこで吸ってしまったほうが楽だと頭では分かっていた。分かっていたのに結局、一昨日と同じ駅で俊輝は降りていた。
――昨日は自宅の最寄り駅の喫煙所で吸って帰った。今日もそのつもりでいたのに。
俊輝は喫煙所へ向かいながら自答した。
――ずっと頭から離れなかった訳じゃない。
客先に自社の製品の仕様を説明している時、集中している時などは浮かばなかった。
一段落した時、タバコが吸いたいとその衝動を浮かべた時に、セットであの男性の顔が浮かんできていた。
ただ何となく、何かを期待しているわけでもないのに。
不安定な思いを持ちながら俊輝は喫煙所へと入った。
喫煙所内は一昨日と同じ光景だった。灰皿スタンドの位置も、所々にゴミが落ちているのも変わらず同じだった。
中に男性どころか一人も人はおらず、無人の喫煙所だった。
俊輝はタバコと一応持ってきていたライターを取り出し、タバコに火を点けて煙を吸い込むと、紫煙を吐き出した。
――別に期待していた訳じゃない。
目的はただタバコを吸いたかっただけ。俊輝は自身にそう自覚させながら、煙をまた肺へと吸い込んだ。
タバコがもう間もなくで吸い終わろうとした頃、人が喫煙所内に入っては来たものの、入ってきた人は四十代くらいの女性であった。
残念なようながっかりのような自身でも分からない心象を、俊輝はタバコの火を見つめながら浮かべ続けた。
木曜日も金曜日も、あの駅には俊輝は降りなかった。
ただその駅に着いた時、見ていたスマホの画面から顔を上げ、降りていく人、ホームを通る人の姿や顔には目を向けていた。
喫煙所で会った男性を何となく探していた。
電車の扉が閉まって動き出しても、俊輝は人の流れと顔を目で追っていた。例え見つけても、動き出した電車の中ではもうどうにも出来ないのだと、分かってはいても。
喫煙所での出来事から一週間経過した月曜日、仕事終わりにまた俊輝が喫煙所に寄っても男性はいなかった。
もうやはり会うことはないだろうと思いながら、翌日もタバコを吸うためだけにその駅で俊輝は降りた。
ホームを通り改札へ向かっている途中、改札近くにあの男性が居るのを俊輝は視界に捉えた。
――いた、あの人だ。
薄暗かった喫煙所で見た顔、ウェーブがかった黒い髪、コート姿の男性はLEDライトに照らされていても同じ男性だと分かった。
男性は改札から三メートル程離れた壁際にいて、女性と喋っていた。
相手の女性は男性よりも身長が低く、黒のミディアムヘアに明るい茶色のコートを着た格好で、ワインレッドの手提げバッグを持っていた。
二人が談笑しているのを遠目で見つつ、俊輝は改札を通った。
――彼女かな?
喫煙所で見せたような微笑ではなかったが、女性と同じように笑っていた。
――だからなんだよ。そんな人のこと考えたって仕方ないのに。
自分には関係ないことだと分かっている。それなのに邪推してしまう自分に馬鹿らしく思いながら、俊輝は喫煙所へと向かった。
喫煙所内はいつものように無人であった。
今日も変わらず、外の街灯は喫煙所内へと明かりをずっと届けていた。
――さっさと吸って帰ろう。
タバコに火を点け、一息吸い込むと俊輝はすぐに紫煙を口から吐き出した。紫煙は白い息と混じり合って大きく広がりながら、大気中へと霧散していった。
――別にあの男のことを気にしたって意味ないのに。この一箱がなくなったらまた禁煙するし。
別にどうにかなりたいと思っていた訳じゃない。自分でも整理がつかない考えをぐちゃぐちゃと俊輝が浮かべていると、足音が聞こえ喫煙所内に人が入ってきた。
俊輝が目を向けると、先週にここで会ったあの男性だった。
「……どうも」
頭を軽く下げて俊輝は相手へと一礼した。
男性は俊輝を見て、立ち止まって一瞬考えた顔をしたかと思うと、思い出したかのような顔をした。、
「あ」
「先週、タバコの火を貰ったので。ありがとうございました」
「覚えてますよ。いえいえ」
俊輝は相手のウェーブががった髪と顔を見た後に、男性の後方へと視線を向けた。
後ろに人はおらず、喫煙所に来たのは男性だけのようであった。
俊輝の目線に気づいた男性は後ろを振り返り、誰もいないことを見てまた俊輝へと目を向けた。
「あ、すみません。さっき駅降りた時、改札近くで女性と話しているのを見たんで、一緒に来たのかなって思って」
「え、ああ。……同僚の女性と改札まで一緒だったんで」
男性は疑問を覚えた声を出しながら俊輝へと回答した。
「そうなんですか。いえ、すみません」
戸惑いつつも俊輝はタバコを咥えて煙を吸い込み、吐き出した。
――そんなこと聞いてどうすんだか。
「よく覚えてましたね」
レザー生地のトートバッグから赤のマルボロとライターを取り出すと、男性は答えた。
男性はタバコを一本取り出し、淀みない動作で火を点けると、カバンにライターとタバコをしまった。
吸い込んだ煙をゆっくりと、美味しそうに吐き出すと男性は俊輝を見て微笑した。
その微笑は、先週に俊輝へ向けたられたのと同じ柔らかい微笑であった。
「記憶力、良いんですね」
「……いや、そうでもないです」
男性の顔を見ながら、俊輝は小さく否定した。
相手の手にある先端のタバコの火を見ながら、俊輝も同じように笑った。
様々に浮かんでくる疑問を抑えつつ、また俊輝は口を開いた。
「仕事は何されてるんですか?」
この近くに住んでる? 職場はどこに? 趣味は? 酒は飲む? お名前は?
タバコを吸い込んで煙を吐き出しつつ、同時にある考えが俊輝の頭の中では確信に変わっていた。
――やはり、禁煙は長くは続かない。 (終)
執筆の狙い
喫煙×依存。5,000字程の短編です。ご意見・ご感想お待ちしております。