黒い爪
とっても疲れていたけど、達成感を胸は持て余していた。
仕事が終わり、夜の帰り道を自転車で走っていたけど、ただ帰るのがもったいなくて、知らない道を辿った。川沿いの細い道。音楽を聴きながらただ、思ったより遠く、進んでいた。石油と排気ガスの匂い。やがて私はブレーキを踏む――目を奪われたのが先だった。川を隔てて、そこには大きな工場があった。
水蒸気を吐き出す赤い目を持った煙突、緑の夜間照明、蛇のように絡み合う配管、立ち並ぶ巨人のようなタンク。
ぼーっとそれを見ていると、心の中の高揚感の密度はそのまま、嫌な落ち着かなさだけが凪いでいった。きれいだ、と思った。どこまでも人工的なそれが。
仕事終わりに、その工場を見に行くようになった。スマホで写真を撮った。日に日にギャラリーに写真は増えていって、寝る前にその写真を見返すのが習慣になっていった。
「そんなにあれ、好きなの?」
写真を撮っている私に話しかける声。予期していない声にえっと声を漏らす。振り返ると男がいる。Tシャツにチノパン、吊り上がった細い目、長い首、褐色の肌、太い血管の見える腕。話しかけるには少し離れた位置に立っていて、低く通る声で私に話しかける。
「急に話しかけてごめん。いつもいるから」
答えられずにいる私に彼は続ける。へりくだっているようで、否定されることを何とも思っていないような、低く間延びした声。
――なんか、見てると落ち着くんです。
私の絞り出した返答に男は笑って答えた。
「変だね。女なのにあんなの好きなんだ」
女なのに? 私はいらついて、言葉を返そうとした。が、それより早く男は話した。自分は期間工であの工場で働いている。連夜、川の向こう側から工場を眺めているあんたに気付いて、気になっていた。男は私に近づいた。男のすっぱい体臭が鼻をついて、私は自分の顔の筋肉が中心に動くのを感じた。男はそれを予期していたように自嘲気味にわらう。
「俺、臭いよね」
大丈夫です、と言って私は後悔した――いいえ、だろそこは。こんな男にも気を使っている自分をわらう。
でも、男は近づくのをやめない。思ったよりも近くに、ひじの先が触れそうな隣で止まって、工場を見ていた。男の体臭は濃くなった。男はそれを自覚しているのに、気にしていない、それが私の感覚とはかけ離れていた。がさつだ。
「普段何してるの?」
私は銀行の窓口で働いてる、と答えた。へえ、と男は薄く笑った。
「楽しい?」
「楽しくはないですけどやりがいはあります」
「どんな?」
「どんな……私の仕事って、ミスが許されないんです。1円でも清算がずれたら帰れないし。でも、その分一発で清算がぴったりあった時は気持ちいいし。あ、今日も大量の税金納付書を一人で処理してたんですけど、問題なく終わったときとか、やりきった、ってかんじで」
「なるほどね」
「あの、馬鹿にしてます?……さっきから、なんで笑うんですか? 」
「いやまじめだなって。もちろん良い意味で」
「馬鹿にしてる」
私はつぶやいた。胸のもやもやが晴れず、視線の置き場がなくて、欄干に置かれた男の手をじっと見つめた。その爪は黒ずんでいた。
お風呂上がりに、自分の爪を見つめた。桃白色の爪。爪切りで切ると、深爪をして、血が滲んだ。赤色が、重いペンキのようにゆっくりと拡がっていく。あの男に言い返したい言葉がいくつも浮かんでいた。あの場で言えなかった自分に腹が立つ。ガーゼで傷口を抑えた。血は思ったよりも多くて、ガーゼに赤が滲んだ。
次の日の夜も、私は仕事帰りにその工場を見に行った。男はいた。
男は私の姿を認めると目を細めた。その目は赤くて、疲れていた。男はあの間延びした声で話した。今日の作業はきつかった。一日中、研磨作業で、ガラスや鉄粉が目に入って、手の甲や目が痛い、へとへとだ、と言って笑った。昨日の印象とは違い、どこか自信がなさそうに見え、本当に弱っているようだった。近づくと、また彼からは酸っぱい匂いがした。
「おつかれさまです、あの、もしかして私を待ってました?」
男はごまかすように軽く笑って答えた。すかしてる。私は昨日の仕返しのように、男の赤い目をまっすぐ見た。男の目は工場を見たままだけど、端で私をとらえていることがわかる。やがて私は切り出した。
――あなたは楽しいんですか?
男の視線は私に向いて、それから工場にまた戻った。
――サンダーっていうんだ。
え?
――仕事で使ってる好きな機械。先端についてる円盤を回転させて、鉄や金属を磨いたり、切断したりできる。鉄材を切るときは頭おかしいくらいの振動でね、振動障害になるやつもいる。火花も飛び散って、目もおかしくなる。でも俺は切断が好きなんだ。どうしようもなく硬いものを自分の手で切断する瞬間。その瞬間が好きでずっとやってる。
なるほど。そうなんですね。
なるほど。そうなんですね。男は私の言葉を繰り返す。そして、黙る。薄く笑う。
そして急に私に顔を近づける。
――最初から、馬鹿にしてるのはあんたでしょ?
男の指が私の眉に触れる。男の吐息は焦げた砂糖のような匂いがした。私は驚いて、離れようとした。でも、男の据わった目に吸い込まれて、動けない。
――ここからいつも何を見てたんだ?
すべてを見透かされたように感じた。何を見てた? 私は何を……もちろん美しい工場だ。でも、そう答えようとしても、言葉がでない。
私は渾身の力で彼を突き飛ばした。彼はよろめいて後ろに下がった。
私は走って、その場から逃げた。
+++
黒い爪が私の中に入ってくるのを感じた。私は声を押し殺して、天井を見上げていた。その天井は赤かった。どうしてか、男の悪意がこの部屋に、溢れているのを感じた。
鋭い痛みを感じて、思わず声が漏れた。伸びた爪が当たっている。それでも黒い爪は何度も私の奥に入ってきた。男はどこか手慣れた、計算された不器用さで、続けた。痛みはまして、今にも叫びだしそうだった。室内のどこかから蠅の羽音が聞こえた。同時に、違和感を覚えた――彼はここにはいない。私を今傷つけているのは別の人間で、本当の彼は今もあの、怪しい光の工場の中にいて、作業を続けている。ゴーグルをはめて、先端に円盤の付いた機械を手にして、火花を散らして、無数の鉄の棒を無心で切断している。これも、あくまでその作業の一つだ。
黒い爪が抜けていくのを感じた。男の動きが止まった。
私は彼に何かを言おうと思った。そして体を起こした。
同時に夢から醒めた。ひどく汗をかいていて、パジャマがぐっしょりと濡れていた。私は自分の体の匂いを嗅いだ。匂いはほとんどしなかった。
次の日、男はいなかった。その次の日も、また次の日の夜も工場に行ったが、男の姿はなかった。彼は期間工だと言っていた。いつまでとは聞かなかった。もうここに来ることはないのだろうか。私は工場の写真をスマホで撮った。男の匂
いを思い出して、不快になる。
私は休日の昼にふと工場に足を運んだ。そこで見た工場は別物だった。タンクの表面からは間の抜けた赤錆が何か所もはみでていて、絡まっているように見えた配管もよく見ればきっちりと並んでいる。煙突も煤で汚れていて、夜の怪しい美しさはどこにもなかった。
――ここからいつも何を見てたんだ?
男の言葉を思い出しながら、私は帰り道に確信した。もう、工場にいくことはないだろうな、と。
部屋の中を歩いていると、何かを踏んだ。かかとのあたりに痛みを感じて足を上げると、床に爪の破片が落ちていた。私はそれをつまんで見る。半分くらいが黒く滲んでいた。血が、時間がたって黒く変色したんだろうか。私はそれを捨てようとしたが、思いとどまって口に含んだ。噛もうと思ったが歯の位置がずれて歯茎に突き刺さった。痛みを感じて口から取り出した。ティッシュにそれを包んだ。赤が滲んだ。
あの夢の終わりで、私は彼に何を言おうとしたんだろう。夢に出てきたのなら、彼のことを自分は望んでいた? それを伝えたかった? それとも謝りたかった? 彼をどこかで馬鹿にしていたことを。いや、違う。たぶん聞きたかった。答えたかった。
――ここからいつも何を見てたんだ?
――それなら、それを見ていた私の中に、あなたは何を見ていたの?
答えはもうわからないけど。
なぜか、もう一度、あの匂いを嗅ぎたいと思った。汗の匂い。焦げた砂糖の匂い。いや――私は頭を振って、抜け毛と一緒に、黒い爪の入ったティッシュをゴミ箱に捨てた。
執筆の狙い
未熟ですが、なにとぞよろしくお願いします。