ピクニック
「ねぇ」
「うん?」
詩織は笑う。
「風が柔らかくなったね」
「うん、ずいぶんと暖かくなった」
ビルにぼつぼつと光が浮かぶ。三日月が心もとなく、退屈そうに「こんばんは」する。詩織は桜色のコートをはおり、春のビル風に包まれる。
「ピクニックに行きたいな」
詩織の突然の提案に、僕はきょとんとする。
「ピクニック?」
「そっ」
「散歩とかじゃなくて?」
「とかじゃなくて、ピ・ク・ニッ・ク!」
ちりんちりんと音がして、わっとなって後ろからの自転車のおっさんを避ける。少し照れて僕は無精ひげをさする。詩織は細目でそれを見つめて、それから聞いたことのない、でも馴染むメロディーのはな歌を口ずさむ。
「ピクニックって? そもそも何なの」
「ピクニックはピクニックよ」
「ごめん、そうゆーのに縁のない人生なもんで」
「わー、さびしー」
「寂しくて悪かったな」
「それじゃ、楽しくさせてあげる」
詩織は人差し指をひょいと指し。
「それがピクニックってもんよ!」
僕ははいはいと手を顔の前で振り振りし。
「はいはい、それがピクニックってもんなんでしょーねー。会社に一つ大型ピクニック、家庭に一つ標準ピクニック、個人にも携帯ピクニックをと、来たもんだ」
僕のひさしぶりの冗談に、でも、詩織はうつむきかげん。
「そっか……」
何かが落ちて消えてしまいそうな気がした。ポイから金魚がこぼれて逃げてしまうような。
「ピクニックは……いやか……」
こりゃ残念だ、お客さん、魚が逃げちまったい。
「そんなことはない」
僕は空を見上げながら、絞り出すようにつぶやいた。
まだ祭りは続く。金魚はすくえる。それから、詩織を真っすぐに見て。
「そんなことは、ない」
詩織は口角を上げる。
「そっか……」
僕もほっとする。
エスニック料理屋で、遅い夕食をとる。赤を基調とした中華料理屋を改築したような店だ。金色のまねきねこが笑っている。
僕はダブルカオマンガイ、カオマンガイとは鶏の出汁で炊いたタイ米ご飯に鶏肉を乗せたもの、ダブルは蒸し鶏と揚げ鶏がセットになって供される。詩織はグリーンカレーセット。何故かアンニンドウフがついていた。
ご飯はほかほかで、パクチーの彩り鮮やかに、柔らかな鶏のボリュームも一杯だった。でも、今の僕にはそれを味わうほどの余裕などなかった。ただ、胃に詰め込んだ。きっと幸せな食卓だったらゴチソウにもなる当たりメニューが、今は米と肉の固まり。ふと、詩織を見ると、少しだけ悲しそうな表情をしていた。その少しだけ、が、やけにリアルに迫り、何も言えなかった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまっ」
「あれっ? 残してるけど、いいの?」
「いいの、いいの」
「おごるよ」
「おごられるほど、ひもじくないわよ、わたし」
夕闇は終わり、夜が来た。サラリーマンの宴会の群れがやって来る。しどろもどろになっているあの子は新米リーマンだろうか。詩織は実家の子猫や、スマホゲーの話を続けている。
「これがね、なかなか渋いのよ。もっとレアをばらまけば、ユーザーもプロデューサーも楽しいと思うんだけどね」
だとさ。
しばらく、歩いて、その後、僕は最低限のデートのマナーも守れていなかったことに気づいた。男は女の食事のペースを気遣ってゆっくりと食をとり、食後はコーヒーでも飲みながら話に花を咲かせること。そんなことも出来ていなかった。ただ、飯屋に来て、黙々と食べ物を処理するだけ。最低の男だった。僕は。
細い路地を超えて、露店の集まりみたいなところに来た。観光客、主に外国人観光客をターゲットにしたものだろう。たこ焼き、お好み焼きといった定番から、チョコクレープ、カラアゲまで並んでいた。そのビルのふもとの、まだつぼみの桜の下のぼうっとした明かりは、不思議な引力があって、思わず引き寄せられた。それは僕らだけじゃないようで、意外にも行列が出来るほどの人々で賑わっている。
「あっ、たこ焼きだって」
「ああ、たこ焼きか……商店街のチェーンの銀だこの方が美味しいってわかってるんだけど。なんというか」
「うん?」
「なんというか、そそられるよな」
「だよねー」
「シュリンプだって」
「ああ、ハワイ名物のエビの揚げ物な」
「うん、カリカリで美味しいのよ」
「ビールが欲しくなるな」
「ビールは売ってないみたい、残念」
「法律があーだこーだあるんだろう。つまんないルールや見栄が」
「一杯、やりたかったなぁ」
「あのなー」
「だって、お腹すいてるもん」
「変なところで根に持つなー、悪かったよ、早めに食事、切り上げて」
「根に持ってるわけじゃなくて。わたし、自分の身体に正直なだけですから」
「ん? 飴細工?」
漢字で「飴細工」と書いてある、あめざいく屋には、もうよれよれの老人がしわくちゃの手で、バラのつぼみのようなものを作っていた。色の抜けたベレー帽の下の眼鏡から鋭い視線を送り、一心に集中している。やがて、ツボミから小さな脚が六本うまれ、小さな頭が形作られ、三角の眼がこめられる。平べったい細い胴体。一匹のかまきりが創られた。スマホで動画を撮影していた外国人が、何か大げさにほめると、飴屋のおじさんが「800円ね」と応えた。
特にはくしゅもなく、一仕事を終えたあめ屋に、僕はうっすら心を動かされていた。こんな風に働く人もいるんだな、って。
「何か作ってもらおうか?」
「あらあら、どうしたの?」
詩織は少し気取ったような、わざと貴族風におおげさに返事する。
「夕食、ごめんな、無理やり付き合わせちまって。旨くなかっただろ? そのお詫びに」
「へぇ、めずらしく、気をつかってくれるじゃん」
「本気だよ」
「じゃ」
詩織はそれこそベッコウ飴のように鈍く光る屋台を前にして。
「できるだけ、シンプルなのが良いな」
単純、というわけではないのがミソだ。だが、何を作ってもらうかはもう心に決めていた。定番だけど、ちょっと前の大切な連想から離れなかったモチーフだ。
「じゃ、金魚で」
横を見ると、詩織もこくりとうなづいている。
「600円だよ」
屋台の老人は、何時ものあいさつのようにそう応えた。
屋台の環境なのか、予算の都合なのか、主人の老いた腕のせいなのか、金魚は大ざっぱな細工で、うっすらとそう認識できるようなぶっきらぼうさだった。でも、妙に愛嬌のある顔をしている。可愛らしいとも違う、不思議な笑みを誘う表情なのだ。
僕はゆっくりと空を見上げながら、詩織は飴をぺろぺろしながら、車のライトがひっきりなしに照らす、大通りの広い歩道を歩く。いつのまにか、月は雲に隠れている。星はここでは、もう、数えるほども見えない。時間は九時を過ぎている。それはもちろん、普通の男女だったら性の夜を意識する頃あいだ。僕もそうだ。抱きたいという強い欲求はなかったが、下心がないといえばそうではない。いや、なんというか、甘えたいというか。むしろ一晩中抱きしめられていたいというか。心のささくれた部分を、一緒に埋めてほしいような。
とうとう駅前まで来てしまった。
「もう、遅くなっちゃったな」
少し声が上ずった。それが悟られたかのように。
「そっ、そうね」
詩織の声も少し音程を高めに外した。
「ほんと、遅くなっちゃったな」
言葉がぎくしゃくする。
「うん、遅いよね、ははは」
ははは、なんて詩織が妙に不自然に笑う。あれだけ、天然に笑っている子なのに。
そう思うと、こちら側に笑いがもれて、溢れてしまうというか。詩織のその可愛い仕草に、可愛いだけにロマンチックに徹せず、吹き出してしまう。
「ははっ、はははははは」
「へっ?」
「かわいいなぁ、詩織は」
「何よー、呼び捨てにしないでよー」
「おっと、ごめんごめん」
「もー」
そうだよな。
「そうだよな。少し焦っちゃったな。少しずつ、少しずつ、距離を埋めていこう」
詩織はいっぱいの安心と、それから自信めいた顔で。
「そのための、ピクニックよ」
「ああ、ピクニック、ピクニック。ピクルスでもヒスパニックでもなんでも、楽しみにしてるよ」
どうにも気が抜けているのに、心はわくわくしていた。
*
『平素より本社の製品を御愛用いただき、ありがとうございます。さて、誠に残念なのですが、本社の担当の平林が諸事情により……』
そんな謝罪のテンプレートを写しながら、幾つもの取引先に担当の平林、平林元係長が退社することを伝える。こういうのはパソコンのワープロ機能ならコピーペーストで一気なのだろうが、会社から誠意を伝えるように、とのことで手書きで書かされるものだから、始末が悪い。字を書くのは苦手な方ではないが、量が量だけに時間がかかるし、肩がこるし、指が痛くなる。
平林係長は仕事が出来た。大変よく出来る人だった。係長でありながら、部長クラスの権限の取り引きも扱っていたし、人当たりが良く社交術が抜群に長けていた。上司に好感を持たせる酒の席でのテクニックがあり、部下に信頼される朗らかなユーモアを持ち、そして女にもてた。可愛い奥さんがいて、それで社内に3人の愛人を持っていた。可愛い系、クール系、お嬢さん系と。しかし、軽いという印象はなく、幾人かの後輩男性の憧れを駆りたてもしていたようだった。僕は少し苦手だったが、凄いなとは思っていた。
大手デパートの課長と、ウィスキーを通して懇意になり、大口の仕事を持ち帰った。正に順風満帆。そして、同じ大学の同じ学部を卒業したからか、やけに平林係長と親しくなり、一番のお気に入りだった僕も、やはり順風満帆のような、そんな風を感じていた。
その矢先だった。平林係長の奥さんが、ヒステリーを起こし、社内に侵入し、と言っても主人の忘れものを届けに行った体で、会社内の浮気相手と壮絶な口論となったところで全てが変わった。
一昔前ならどうってことない案件かも知れないが、社内風紀に厳しくなければならない現今の風潮と、ちょっとした噂話になり、それで炎上することを恐れた会社側は、平林係長を更迭せざるを得なかった。でも、僕だけとの内緒話だったが、平林係長は平林係長で、ちゃっかりクラスアップする転職先を見つけていたりした。
「まったく、女ってやつはわからんよ」
「いやいや、平林さん。あんなにモテて、女遊びしてたのにわからなかったんですか」
平林係長は、ネクタイを両手でこねながら。
「わかったつもりだった。つもりだったってのが命取りだったな。妻なんて社内に突撃する前の日には、パエリアなんてご馳走してたんだぜ。あんな手間のかかる料理」
「それで、今は他の女とは」
「手を切ったよ。もうこりごり。革命は成ったな、我が妻の」
「はぁ」
「これからは仕事にだけ、生きるよ」
そう言って絶対に女遊びは止めないのだろう。
そんなこんなで、元係長の空いた穴は埋められないし、埋めることは求められてないけど、不始末は、謝罪や変更の手続きは、こちら側が被ることになった。それが昨年末。それから三か月かけて、マニュアルを文字でなぞり、沢山の電話とメールの応対をし、ついには取引先まで頭を下げた。
ようやっとそれらが終わったころには、春が来て、桜が咲き、舞い、散った後だった。
引継ぎが終わると、がらんと暇が出来た。元係長の不始末に、僕も閑職へと押しやられたというか、そこまで行かずとも取り扱いに困られているようだった。暖かくなって接待続きの例年とは違って、時間を持て余しながら誰でも出来る仕事をし、定時に帰る。帰りに、何故か詩織もついていって、ラーメンや焼き鳥や海鮮丼を一緒に食べて、さよならする。どんどん人が去っていく。親しみ深く一緒にメジャーリーグの話をしていた同僚も、遠ざかっていく。なのに、どうして詩織は。そんな疑問をぶつけれたのは、つい先日のことだ。
「あのね、確かに前のきみは生き生きと働いてたわ。タフネスに、前を向いて。知らなかったでしょうけど、憧れる女の子もけっこういて、わたしもちょっとだけそんな気持ちはあったわ。でも、キラキラし過ぎていた。今思うと、ギラギラしてたのね」
「あのなー、ギラギラって、油じゃないんだから」
「ほんとはね、少し寂しかった。このままどっか偉くなって遠くに行っちゃうのかなって。わたしときみ、同期入社ではじめのうちは一杯あちらこちら新世界だった新宿をめぐって、それからもときどき一緒に遊んだりしたでしょ?」
「ああ」
「あの時は、楽しかったなぁ。覚えてる? ここ2、3年、そんなデートできてなかったって?」
「ううん、うーん、そう言われれば」
「そうよね。自覚ないわよね。一生懸命、走ってたもん。暑苦しいくらいに。そんな仕事馬鹿を見てると、こっちの気持ちも冷めちゃった」
「じゃあ、どうして?」
「うーん、だらしなく、弱ったから、かな?」
「はぁ?」
「あなたの弱り方、面白かったわよ。ときどき、覗きに行くくらい。肩甲骨をぐりぐり回して、大きく息を吐いて、コーヒーをがぶ飲みして、それからペンを持って」
「ストーカーかよ」
今日の満月が明るく映えている。遠くで救急車の音が聞こえた。そういう雑音にはもう気にならないくらいに慣れている。近くで犬の鳴き声が聞こえる。都会では夜遅くに散歩するおばさんがいるが、こちらでは今でも少しびくりとする。
「すごくがんばってたわよ。きみ。ぎらぎらしている頃の何倍も。よれよれになって、でも決して他の誰にも譲らないで、自分だけの仕事を」
押し付けられたものをただただこなしていただけなのに、そういう捉え方もあるのか。
「平林係長なんて、なにかあったら、トンズラしたのにね。いいとこ転職したんでしょ?」
転職の話は僕と平林係長の間の秘密だと思っていたが、そういうわけでもなかったみたいだ。
「でも、きみは会社に残り続けて。そのね、転職のこと、平林係長から聞いたときにね、きみのことも話してた。俺のコネでもっと良い仕事を紹介できそうだったけど、あいつ断ってな、なんでだろうと、詩織君、たぶん君のことがあったんじゃないんかな、おほんっ。ってね」
それは僕が平林係長のバックアップが無かったら一人で自立心旺盛に仕事に励めないだろう、というそんな弱気な理由からだったんだが。恥ずかしくて、言えない。だけど、そう誤解されるのも恥ずかしい。どうすれば良いんだろうと、ただ気まずい時間が過ぎていく。
詩織の大きな眼と薄い紅のかかったくちびるをちらりと見、慌てて眼をそらし、ビル街の満月を見やる。
「そうなるとさ、ボランティアというわけじゃないけど。母性本能。がさつなわたしでも、女だからそりゃあるはずなのよ。そういうのがくすぐられるというか。だからしばらく、弱ってるあなたを構ったのよ。食事をしたり、散歩をしたりさ。弱ってるから襲われる心配もないしね。そうしたらさ、よれよれで弱っててだらしないきみが、なんか可愛くてさ。わたし、こういうの弱いっていうか。こういう人の方が合っているというか。ぼろぼろになりながらも、しがみついて、真っすぐに生きようとする。こういうのさ、わたし。わたし……」
詩織は少しうつむいて。
「聞いてる?」
「ああ、聞いてる」
「やっぱ、聞いてないじゃん? もう、知らない!」
しっかり聞いてるのに。でも、この続きをわざわざ聞き直すのは、ひじょーに野暮ったいというか、やきもきするというか。びみょうなところで話を切る詩織に、振り回されながら。言葉を、話題を探す。何かあったっけ? 花見? いや、もう桜の季節は過ぎた。ん? そうだ。
「ピクニック」
鈍い記憶の底から、その単語を探し当てた僕は、たぶん、照れながらの笑み。
詩織もパッと声を弾ませて。
「んっ! おっ! ピクニック!」
*
平日の午前の埼京線。座席はほどよく埋まっているが、僕と詩織はとびらの前で立ち話している。詩織は少し大きめのリュックサックを背負い、白いシャツにジーンズ。ジーンズは別に破けているわけではない。ごく普通のだ。髪は束ねて、小さなポニーテールを作っている。宇宙ロケットの発射失敗による日本の損失について、くりくりの眼を忙しく動かして、およそ女性らしくない大口でしゃべり続ける。背は低いし、身体はグラマラスではないが、ペンギンみたいに可愛い。そんな可愛い詩織に僕は思うことがある。
けっきょく、男女の関係になることなくここまで来てしまった。今回のピクニックでそれが少しでも発展するだろうか、逆を言えばそうじゃなければ僕と詩織はずっと仲の良い友達のまま関係を終えるだろう、そういう風に。お互いにどう思っているかはともかく、恋人が、夫婦が似合わない関係、というのもある。というのが最近、僕の人生経験から分かって来たのだ。
「ねぇ、ねぇ」
「うん?」
僕はドキリとする。心が読まれたか。と思ったのは一瞬で、直ぐに理解する。身体を詩織に寄せて、ベビーカーを運ぶ女性の為のスペースを作る。
元気のよい、でもどこか急きたてる発車メロディーを背に受けて、また電車は走り出す。
埼玉県は大宮駅。埼玉だから地方都市と思っていたけど、けっこう人がごちゃごちゃいる。改札をくぐると、スマホ片手に詩織がきょろきょろする。
「こっちだ」
行くと、ドーナツ屋がある。ミスタードーナツに代表される輪っかの大きさじゃなくて、コップの底くらいの面積の小さなリング。
「ピクニックの前菜よん。これが、埼玉人のトレンドなんだって」
「埼玉人のねー」
「あっ、こら、埼玉人を馬鹿にしたな―」
「やけに、埼玉の肩を持つなー」
ドーナツを買い終えると、詩織は迷いなく、駅の端っこに向かう。仕方なく、僕も迷いない振りをして、ついて行く。行くと小さな地方線の私鉄がある。
「ニューシャトルよ!」
「ニューシャトル……ださっ。なんとかならないのか、そのネーミング」
「なによ、リニアモーターカーと似たようなものじゃない? ところで、どうしたのかしら? リニアって。一時期、良く聞いたけど」
「露骨に話を逸らすなよ」
「そらしてなんかいません」
電車はごとごと、ゆっくりと僕らを運んでいく。本当にそれはスローリーで、自転車でも追いつけそうな速度だ。詩織は「もともとこれはね、新幹線が通ることになって、その隣に」「鉄道博物館ってのがね、秋葉原から」「ここらへんの川辺はね、道が途切れていて、車で行く場合」なんて言っているが、どこにでもありそうな沼をそう言うのを聞いて、僕は確信した。
「詩織、ここの地元民だろ?」
詩織はこくりとして。
「そうよ」
「なんで黙ってた?」
「言わなかった?」
「いつ?」
「初めて会った時、会社の新人歓迎会での自己紹介で」
「あのなー」
「言ったもん」
「言ったって……」
そこまで話していて、ふと思い当たった。
「埼玉だからだって、田舎だからって、恥ずかしくないぞ」
「そりゃ、きみは東京生まれ足立区育ちだからそう言えるのよ」
「えっ? そんなこと言ったっけ?」
「だから、会社の新人歓迎会で」
「よく覚えてるなー」
「さあ」
そこで話を切ったからか、妙にぎこちなくなってしまった。ニューシャトルの車窓は、呑気にぽつぽつと住宅街と緑の混じった景色を見せている。見せつけ続けている。
「はぬきー、はぬきー」
という間抜けたアナウンスを受け、電車を降りる。看板を見たら「羽貫」「羽を貫く」「はぬき」。ホームの階段を詩織は一段飛ばしで、とんとんと降りる。
「危ないぞー」
と言いつつ、楽しそうなので真似してみる。
「危ないよ」
と階段を降りきった詩織が、振り返りつつ注意したりする。鬼の首を獲ったようだ。
360円の切符を窓口前の切符入れに置いて、羽貫の地に立つ。思ったよりもド田舎ではなく、住宅街も車通りもある。それでも雰囲気は、空気はのほほんとしている。駅前に素朴な、それでいて洒落た建物がある。木造の、少し年季の入った、でも古びていない清潔な建物。看板には「ohisama」、柔らかな手書きの文字で書かれている。なんだろう、と見ていると。
「おっ。いいのに、目をつけるねー。お目が高い」
詩織はそこへ向かい、次いでおいでおいでと手招きをする。
狭い中には、ぎっしり。正面にパンケースがあって右隣にはパックジュースや季節の野菜。左隣には食パンが並んでいる。棚の上のバケットの中に、またもやパン。
パンケースの中には、ブルーベリーやイチゴのデニッシュ、ねずみをかたどったチョコパン、一番人気と名札のついたメロンパン。ぎっしりと詰められている。
「おひさまパン!」
詩織は誇らしげだ。
「ここの良いところはね、ビールに合うパンも売ってるところよ!」
そういって、あれこれ注文している。
詩織は飛行船を見つけたように、楽しそうな顔をしている。パン屋のふくよかな店主のおじさんがニコリ顔で。
「しおちゃん、久しぶりだね。おまけしといたよ」
「ありがとございますー。おじさん」
「一緒の子、彼氏かい?」
「違いますー」
「しおちゃんが彼氏つれてくるなんてね。感慨深いな。パン屋やっていてよかった」
ちっとも感動してなさそうな、陽気な声だ。
「会社の同僚です!」
僕は小腹が空いたので、チーズ焼きカレーパンを買った。カレーがパン屋のそれとは思えないほどに、本格的な美味しさなのでびっくりした。
しばらく歩く。わちゃわちゃ歩く。閑静な住宅街を、ただっ広いのっぱらを。犬を飼っている家が異様に多く、歩くたび「ウーウーワンワン」鳴かれる。時には柴犬、時にはセントバーナード、時には家の中からチワワ。緑が徐々に、そして一線を超えると一気に増えてきた。
「まだか?」
「まだまだ。これもピクニックよ」
「道、合ってるのか?」
「合ってるわよ」
それから詩織はうーんとうなり。スマホで検索して。
「大丈夫、大丈夫」
「なら、なんで道を変える?」
徒歩で十五分くらいだろうか。小さな自動車教習所くらいはある、公園に着いた。
「やっぱバラ咲いてないかぁ」
「バラ?」
「公園内にバラ園があってね、ちょっとした有名な場所なのよ。ほんとうに勘弁してくれっていうくらい派手にバラが咲いてねー。ほら、ここのトゲのある木があるでしょ。ここにバラがうわっとね」
勘弁してくれーとひざまずく詩織が脳裏に浮かんで、ぷっと吹き出してしまう。
「なに、にやにやしてんのよ」
そういう詩織も楽しそうだ。
「でも、咲いてない方がピクニック日和だわ。なにせバラが咲いちゃうと」
「咲いちゃうと?」
「人がいっぱい来ちゃうから」
ああ、それはちょっと嫌だ。
「確かに。ごみごみした東京から抜け出て、片田舎まで来たのに、ここでも人の群れの中にいるのは。ごめんかな」
「うん、ごめんなさいだね」
幸いかどうなのか、バラは堅く閉じていて、人はさっぱりいない。
「うん、もうちょっと奥。いいところがあるんだ」
みどり青いバラの園を歩きながら、詩織は僕を導く。
「こっちこっち」
足が弾んでいる。
白いタイルの上を歩く。空は水色。雲はほんとうにぽつん。風がやや吹き出したが、あたたかい。
「あー」
そこには呆然と立っている詩織。そして、見晴らしの良さそうな高台に、テーブルと向かい合う長椅子が二つ。たぬきみたいなおじさんが二人、近くのバラを移し替えようと、土をいじっている。
「いいところだったのに」
「確かに、ピクニックするには最高の場所だったかもね」
「だった、なんて、過去形で言わないで―」
いくら気持ちのいいロケーションでも、おじさんの前で二人でわちゃくちゃピクニックと言うのも。うーん。
「第二候補!」
それから詩織は公園を歩き出した。ブランコを、砂場を、銀のモニュメントを、プールのような水場を通り過ぎ。公園の外れに行く。
一面に原っぱが伸びている。芝の上には、ソックス程はある下草が生えている。緑豊かな木がぽつりぽつりと等間隔に並んでいて、石のテーブルとベンチもまた並んでいる。
「ここはね、もともとキャンプ場だったの。いろいろあって、キャンプ中止になったけど、施設は残ったのよ」
言われてみて、眺めると、なるほどサビだらけになった水洗い場があったりした。
「なるほどね、でも、ここだと、ピクニックと言うより、キャンプじゃない?」
「テントが無いからキャンプじゃないわよ」
「それじゃテントがあると山登りもキャンプになるのか?」
そんな妙に不毛な議論を小一時間、楽しむ。
忘れていたな、この感じ。
「さて」
キャンプ場に落ち着くと、詩織はリュックサックをごそごそする。
「ピクニックと言えば、音楽が必要よ」
そう言って小型のCDラジカセを取り出し、スイッチを押す。穏やかなスローテンポの歌が流れた。ほんとうに穏やかで、ピクニックには似合わないなと思うほどで、それでもそれは不思議なほどこの場に合っていた。
「なんて歌?」
「くうきこうだん」
くうきこうだん、何だそりゃ。時折、詩織は僕に分からない、いや誰も分からないような渋いマイナーな趣味を覗かせる。それが単純に見える詩織をやけに神秘的に立体的に見せるし、同時にどこか捉えられない遠さを感じる。それでも、このゆるやかなメロディーに身を任せるのは、悪いものではない。
パンを並べる。胡椒のかかったソーセージパン、ベーコンと山芋の乗ったタルトっぽいパン、トマトたっぷりのピザパン。もちろんその横には缶ビールも。
春の陽気と塩気の効いたパンが、どうっどうっとビールをすすませる。少し春色にぽわんとした眼で詩織を見ると、詩織の頬もほんのりと赤く染まっている。きんきんに冷やしたビールや熱々の日本酒もいいが、この春の陽気に溶けた屋外でのぬるいビールは最高に良かった。気の抜けた八分目の缶ビールでさえ、魔法のように美味しかった。パンを食べ終え、詩織がおやつ用に買ったというポッキーやポテトチップスをつまみにしても、その魔法は消えなかった。草原は長い冬ごもりから目覚め、高く太陽へと伸びていく。風は春の優しさを終え、自由の楽しみを謳歌し、これから涼しさを覚える。そんなポエミックな気持ちに僕をつっぱらせた。
「ピクニックには歌が必要よ」
「わかったわかった」
「だから、歌うのよ」
「えっ?」
「二人、カラオケ大会―」
何だこの展開は。でもそれに飲まれないだけの冷静さは確保しているはずだ。僕は。
「でも、カラオケ機材とかないし無理だって」
「素で、声だけで、歌おう」
無茶を言いやがる。
「そんな、こんなのっぱらで、恥ずかしいって」
「誰も聴いてないよー。わたしたち以外」
こうなったら止まらない。責めて譲歩条件を。
「じゃあ、1番だけね」
「それじゃー、行ってみよー」
詩織はけらけら手拍子を始めた。たちの悪い酔っぱらいだ。
でたらめのロックソングを歌った。後で聴いたら悪い意味で鳥肌が立つ出来なのだとしても、歌っている間は気持ちよかった。途中サビで詩織がハモってくれたのも嬉し楽しかった。最後、思いっきり音程を外した高音の伸びで歌い終えた。
「じゃあ、詩織どの、一曲」
プレッシャーを与える意味で妙にぎょうぎょうしくバトンを渡したのだが。
「うむ」
というごきげんもよう。
いつか 遠くに旅立つとき
わたしを覚えてくれなくていい
だけど このシーンを
連れて行ってあげてね
そして どこかの人と
先につなげてあげてね
その歌は本当に地味で、派手な盛り上がりは無かったが、地味だけにしみじみとした余韻を残した。歌い終えた詩織は、手を胸の前で組んで、瞳を閉じながらこくりとうつむいていた。
決して流行歌じゃないだろう。ヒット曲じゃないだろう。今まで聴いていない最新の曲だろうか。そうでもない気がする。youtubeで素人が歌ってアップした歌だろうか。どれも違う気がする。
「なんて曲?」
「即興」
「即興?」
「うーん、名付けるとすれば『メッセージ』かな」
何か話が噛み合わない。でも、この曲の正体は知りたい。それだけ心を打たれていたのに気付いた。
「歌手は?」
「飯崎詩織」
「えっ? いや歌ったのは詩織ってわかるけど。あの。作曲者」
「だから、わたし」
えっ? えっ?
「音楽、やってたんだ」
「うん」
詩織は少し照れながら、それよりも何かを懐かしむような仕草。
「すてきだったよ」
「ありがと。世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃない。上手いのはもちろんのこと、ほんとうにすてきな歌だった」
「えー、いやー」
詩織はぶんぶんと手を振り。
「歌詞と歌声が伸びやかでさ。これでピアノがあれば、ほんと良いと思う」
詩織は少し酔いから冷めたようで。
「ごめんね。感謝に水をさすようだけど、このていどの歌、あるていど音楽やればみんな歌えるんだよ」
「そんなことはない、プロにだって」
「なれなかった。わたしじゃ足りなかった」
はっとした。
「もう、この話題よそ。良くある話よ」
良くある話。歌が大好きで、毎日の小さな幸せや悲しみを歌い続けた女の子が、その幸せの平凡さとルックスの平凡さゆえに、音楽の世界で趣味として消えていく。そんな良くある話が僕には浮かんだ。でも、それを確かめることよりも、僕には何度でも伝えたいことがあった。
「でも、すてきな歌だった。花が咲いたような、小さな花が咲いたような歌だった」
「ありがと」
それから、詩織はもういいよーと言いたげにわざとらしく話を替えた。その話の変え方が、昨今の深夜アニメは。という情緒も余韻もへったくれもなかったのもまた笑える。そうだ、笑ってしまおう。せっかくのピクニックなのだから。
詩織がまたリュックサックをがさごそし出した。何が入っているのだろう、この四次元リュックには。
と思ったらアップルパイだった。
「こりゃまた、唐突な」
「食べないの?」
「食べるよ」
「どう、味?」
「うん、美味しいよ」
「また投げやりな美味しい! どんなふうに美味しいの?」
「えっ? そりゃ、リンゴが甘くて、生地がサクサクして、アップルパイらしくて美味しいよ」
「そりゃアップルパイを作ったんだから」
「だからアップルパイの感想を言ったんだろー。んっ? 作った?」
「わたしの手作りなの。お手製アップルパイ」
「そっか、美味しいよ。愛情を感じる」
詩織はムッとして。
「またイイカゲンナその場限りの言葉を」
「本当だよ」
「本当は?」
「生地がぱさぱさで喉が乾いて、ビールで流し込んでるから、良くわかんない」
「それはそれでむかつくなー」
なんていう詩織の表情は、それでもなんというか楽しそうで満足気だった。
「もう時間だね」
見るとだいだい色からオレンジの春の薄い夕焼けが、野山に、街にかかっている。
「どうだった? ピクニック」
二人で夕焼けを見つめながら
「そりゃ、楽しかった。さいしょ、どうなることかと思ったけど」
「今日のこと、忘れないでいてくれる?」
「どうだろう、そうするように頑張るけど」
僕は少し冷たくなった風を浴びながら
「僕ってどうやら、忘れんぼみたいだから」
「それじゃ、特別なことがあったら、どう?」
えーと。と戸惑っていたら、詩織は肩を寄せ、僕をじっと見て、それからゆっくりとひとみを閉じた。
執筆の狙い
春ですね!
まー、なんつーか、こーゆー文章ですが、それでも思うことがあったら、足跡を残していただくと嬉しいです。