大人はピカチュウをかわいいと言う
1
夕食の後、ママはリビングでビールを飲んでいた。パパの帰りを待っていた。ぼくはふすまの間からママを見ていた。ぼくの隣でミクが寝ている。寝息を立てている。ぼくはまだ寝ていなかった。パパが帰ってくる時、玄関の鍵を開ける音が聞こえるまで、ぼくはいつも起きていた。
リビングのデーブルには、ママが作ったごはんが置いてある。白いレースの食卓カバーがかけられている。今日のごはんはエビフライだった。ぼくはエビフライが好きだった。冷たいタルタルソースをたっぷりエビのしっぽにつけて、口にほおばる。
でも今日はタルタルソースはなかった。ただ、エビフライだけがお皿にあった。ぼくが不満を言うとママはすごく怒った。夕食が終わってからもずっと怒っていた。ぼくが謝るとママは許してくれたが、ぼくはわかっていた。ベランダと洗濯機の間をママが行き来する時、足音がいつもと違った。なんて言えばいいかわからないけど、何もなかった日の足音ではなかった。たとえば、それはママの「実家」から電話がかかってきた日のような足音と、声に似ていた。
朝、起きるとパパは玄関にいた。スーツを着ていた。ミクは「パパ、いってらっしゃい」と言った。パパは振り向いて小さく何かを言った。それからぼくのことなんていないかのように、出て行った。
ぼくたちも朝食を食べて、家を出た。ミクと一緒に学校へ向かった。ぼくはミクと手をつなでいた。ママに手をつなぐように言われたからだ。最近、ぼくのクラスの女子の家に、変な電話がかかってきたらしい。ママは「変な電話」としか教えてくれなかったけど、昨日、ナオキが教えくれた。――今日履いているパンツは何? 何色? 男はクラスの女子の何人かに電話でそう聞いて、すぐ電話を切る。その電話はクラスの特定の女子にだけ、何度もかかってくる。「つまり、こういうことだよ」とナオキは言った。「クラスの誰かが、連絡網を使って電話をかけているんだ。その変質者(傍点)は、俺たちぐらいの歳の女子が好きなんだ。授業参観や運動会に積極的に参加(傍点)して、好みの女子を探しているんだ。……おいおい、パパがそう言ってたんだよ」
ぼくはミクと一緒に、一年生の教室まで行った。ミクは今年の春から小学校に入った。先生が怖い、いつもママにそう言っていた。だからママは、ぼくに一年生の教室までミクを送り届けるように言った。それがお兄さんの仕事だとも言った。ぼくは四月からこの十二月まで、その仕事を真面目に一日も欠かさず続けた。自分の仕事を終えてから三年生の教室へ行った。どうせナオキは東門から登校するのだから、西門から入るぼくと一緒に登校しようがない。だからぼくは仕方なく、ミクと一緒に手をつないで一年生の教室まで行くしかなかった。ぼくはしばらく、教室にいるミクを見ていた。別に見守っていた、というわけでじゃない。ただ、なんとなくそれも「お兄さんの仕事」に含まれているような気がしただけだ。
ミクは一番後ろの席で、シャーロック・ホームズを読んでいた。パイプをくわえた犬のホームズと、太った犬のワトソンが表紙だった。それはミクがミス・コバヤシからもらった本だ。ミクは休み時間も誰ともしゃべらず、ただシャーロック・ホームズを読んでいた。ぼくもミス・コバヤシから『宝島』という本をもらったけど、一ページも読んでいなかった。ぼくは休み時間はみんなと外で遊ぶし、家に帰ればやることがあった。それは今のぼくにとって世界で一番大事なことだった。とにかく早くぼくは家へ帰りたかった。
ぼくは家へ帰ると、ランドセルを床に放り投げて、机の引き出しにしまっているゲームボーイを取り出した。ゲームボーイを握って、すぐ家を出る。ママに気づかれないように家を出る。別にママに気づかれていても構わなかった。ママは何も言わなかった。何も言わないけれど、ぼくはママに気づかれたくなかった。五時になるまでぼくは外にずっといたかった。
ぼくの住んでいる社宅の中に公園があった。すべり台と砂場とブランコがあった。その公園は、社宅の子どもだけが遊ぶことができることになっていた。だけど実際は、近所の家の子たちも遊んでいた。社宅の誰かの友達であれば遊んでもよかった。ナオキはぼくの友達だから、特別に堂々と遊ぶことができた。
ぼくたちは公園に集まって、ナオキを待っていた。それはナオキだけが通信ケーブルを持っているからだった。ぼくたちは最近、少し飽きていた。みんなが最後までクリアしてしまったからだ。自分のカセットで出現するポケモンはすべて集めてしまった。もうぼくたちは、ポケモンの世界でやることがなかった。他のゲームをしようにも、それには誰かの家のリビングで64かスーファミをテレビにつながないといけなかった。ぼくたちの中には社宅の子でないやつもいたし、違う学校のやつもいた。ぼくたちをつなぐのは、公園とポケモンと遊戯王カードしかなかった。誰のママがぼくたち全員を家に入れてくれて、オレンジジュースを出してくれて、リビングの大きなテレビを使わせてくれる? ぼくたちには特別な絆があった。サトシがイオンで遊戯王のパックを150円でたったひとつだけ買って、「青眼の白龍」(ブルーアイズホワイトドラゴン)を引き当てた時、ぼくたちがどれだけ感動したか、誰のママがわかってくれる? ぼくたちはみんなでハナダ・シティの洞窟に入り、暗い迷路の中を散々迷いながら、一番奥にいたミュウツーを捕まえたんだ。人間の自分勝手なよくぼうのために、いでんしをめちゃくちゃにされたかわそうなミュウツーを。ママは、ミュウツーが気持ち悪いと言っていた。妖怪人間ベムみたいで嫌だわ、ピカチュウはかわいいけど、と言っていた。ぼくたちの意見とは違う。ぼくたちはピカチュウをかわいいと思わない。どうして大人はピカチュウがかわいいと言うんだろう? ぼくはピカチュウが嫌いだ。
何時間待ってもナオキは来なかった。今日は必ず来ると言っていたのに。ぼくたちは帰ろうとしていた。社宅は三つの棟に分かれていた。1号棟から3号棟まであった。それぞれの棟の間に芝生があった。芝生は社宅の大人たちが交代で芝刈りをして、いつもきれいだった。芝生に入ると大人から怒られた。芝生の周囲には桜の木が植えられていた。桜の木も子どもが触ると怒られた。芝生の中は社宅の窓から丸見えだったから、大人に見つからないで芝生に入ることはできなかった。
ぼくの家は社宅の3号棟の2階にあった。向かいにはアレンくんの家族が住んでいた。アレンくんは生まれつき心臓が悪くて、同じ三年生なのに幼稚園の子くらい背が低かった。ぼくは今日、アレンくんを誘わなかった。ぼくはママにアレンくんを誘うように言われていた。でも誘っても、アレンくんは全然しゃべらなかったし、おまけに名前も変だし、何よりゲームボーイを持っていなかった。アレンくんのパパとママは、ゲームを買わないらしかった。しかもアレンくんはぼくが意地悪して、アレンくんを仲間外れにしているとアレンくんのママに言って、そのことでぼくはママに叱られた。ぼくが意地悪なんてしてないと何度言っても、ママは聞いてくれなかった。そしてママはぼくのゲームボーイを取り上げた。そのせいで一週間もポケモンができなかった。それでもぼくはアレンくんを誘わなかった。アレンくんがいると、ぼくたちはどうしても気まずくなるし、いろいろなことが話せなくなってしまう。アレンくんは何でも大人に話してまうからだ。
家に帰ると、玄関でミクが寝ていた。ミクはぼくに気づいて一瞬だけ目を開けたけど、また目を閉じた。もうすぐクリスマスの英語劇があるから、その練習をしていた。ミクは『夏の夜の夢』のオーベロンの役に選ばれた。『夏の夜の夢』は、すごく偉い人が大昔に書いたもので、それをミス・コバヤシが子ども向けに書き換えて、英会話教室の子どもたちでクリスマスに劇をやることになっていた。ぼくは妖精パックの役にされた。
ぼくはミクをまたいで、自分の部屋へ行こうとした。ママがキッチンで夕食を作っていた。ぼくはリビングのドアから顔を出して、ただいま、と言った。
「あんたも早くセリフを覚えなさい」
「うん」
「ご飯できたら呼ぶから」
ぼくは部屋でゲンガーを育てた。ナオキの通信ケーブルを使ったら、ゴーストはゲンガーに進化した。突然の進化だった。まさかポケモンを交換をゲンガーは丸くて黒い身体で、目はするどく、人の魂を奪う。ぼくはずっとゲンガーのことを考えていた。まだレベルは低かった。早くレベルを上げなければならなかった。レベルが100まで上がるまで、ぼくは英語劇のセリフなんて覚えれない。早く、早くゲンガーを強くしないと。
夕食ができて、ぼくはママに呼ばれた。ママとミクとぼくんの三人で夕食を食べた。平日はいつもそうだった。ぼくたち三人が先に食べる。そしてぼくとミクは寝て、ママはパパが帰ってくるまで起きている。
今日はミクの好きなハンバーグだった。昨日はぼくの好きなエビフライで、今日はミクの好きなものだ。ママはぼくたちを平等にしたい、といつも言っていた。
ママはお箸をお茶碗に置いた。
「今年、あたしは社宅委員なのよ。で、今年のクリスマス会は、シゲルに英語の歌をみんなの前で歌ってほしいの。そうねえ。こないだ、英会話教室で歌っていた、あの王様か何かの歌がいいんじゃない?」
ぼくはご飯が喉につまりそうになった。
「いやなの? いやなのね。でもね、これはもう決まったことなのよ。こないだの社宅委員の会合で決まったの。パパもきっと賛成するわ。だから今日からクリスマス会の日まで、あの歌を……どうしても名前が思い出せないんだけど、なんて歌だったけ?」
「Good King Wenceslas」
ミクが小さな声で言った。ぼくは聞こえないフリをして、「ウェンセスラスはよい王様」と言った。
「それそれ。ウェンなんとか。あんたが、社宅のみんなの前で歌うの。クリスマスにぴったりね。よく練習しておきなさい。社宅のみんなの前で恥をかきたくないでしょう?」
「なんで? いやだよ。みんなの前で歌うなんて」
「あんたがコバヤシ先生のところに通っているからよ。明日、コバヤシ先生に頼んで、また教えてもらいなさい」
「お兄ちゃんがいやなら、あたしが歌う」
ミクがまた小さな声で言った。
「ダメよ。これはシゲルが歌わないとダメなの。もうお兄さんなんだから、みんなで前で、何かしないとダメなの。3階のお兄さんみたいになりたくないでしょう?」
3階のお兄さん、今年の四月から誰も姿を見ていなかった。社宅の大人はみんな噂をしていた。――いい大学出たなのにね。これからどうするつもりなのかしら、ずっと家にいるつもりなのかしら。部長、かわいそうね。
夕食後、ぼくはリビングで手紙を書いていた。サンタクロースへの手紙だった。もちろんサンタクロースなんていないことはもうわかっていた。ただ、パパがママが(傍点)かわいそうだろ、と言うから、ぼくも仕方なく書いていた。ほしいものを手に入れてるためだ。ぼくがほしいもの――それは通信ケーブルだった。通信ケーブルを手に入れれば、ナオキと対等になれるからだ。ミクもサンタクロースへの手紙を書いていけど、ぼくになんて書いたか教えてくれなかった。
寝る時、ふすまの間から、白いレースの食卓カバーと、サンタクロースへの手紙がテーブルに置いてあるのが見えた。ママはいつものようにビールを飲んでいた。
2
次の日、学校から帰ると、ぼくとミクはミス・コバヤシの英会話教室へ行った。公民館を借りた教室で、小学生までの子どもを集めて、ミス・コバヤシが英語を教えていた。ミス・コバヤシがどんな人か、ぼくはよく知らない。ミス、が結婚していない女性を意味していること、それぐらいしかわからなかった。ぼくが一年生になったとき、突然ママに連れてこられた。最初に会ったとき、「ミス・コバヤシ」と呼びなさいと言われて、それ以来、ずっとそう呼んでいた。でもママは「コバヤシ先生」と呼んでいた。
ミクはミス・コバヤシが大好きだった。ミス・コバヤシからもった本はいつも持っていたし、英語の歌も元気よく歌う。英語の単語も全部覚えていた。ミス・コバヤシは授業の最後に、いつもお話をしてくれる。シャーロック・ホームズも、ジャングル・ブックも、くまのプーさんも、いろんなお話をしてくれた。ぼくはミス・コバヤシのお話は面白くなかった。ぼくは英会話教室で最年長になっていた。同い年のアレンくんもいたけど、アレンくんは、とてもぼくと同い年とは思えない。アレンくんは、英語の発音はいつもミス・コバヤシに褒められていたし、他の子が知らない英語の単語もたくさん知っていた。だけど、いつも低学年の子とばかり遊んでいるし、みんなが笑う時にむっつりしたり、みんなが真剣な時にふざけたりする。空気が読めないやつ。
正直言うと、ぼくはもう、英会話教室を卒業したかった。毎回、小さな子と一緒にアルファベットを順番に言うのはいやだった。だけど、まだやめるわけにはいかない。ぼくは、社宅のみんなの前で、歌を歌わせられる。どうしてそんなことをママは決めたのだろう? ぼくにまだ英会話教室を続けてほしいのかな――。
授業の終わり、「See you. Ms, Kobayashi」とミス・コバヤシに挨拶して帰る。その時、今月の「月謝」の入った封筒を渡した。
「ねえ、ミス・コバヤシ。実はぼくの社宅のクリスマス会で、Good King Wenceslasを歌わせられるんだ(傍点)。どうしたらいい?」
「まず練習しなさい。何度も歌うの。最後まであきらめないで練習するの」
「ママに、コバヤシ先生にいろいろ教えてもらいなさい、って言われた」
「じゃあ、残ってシゲルくんが歌うのを聞いてあげる。ミクちゃんと一緒にね」
ぼくは絶対にいやだった。公民館の薄暗い蛍光灯の下で、ミス・コバヤシとミクだけで英語で話すなんて、無理だ。ぼくは早く帰ってやることがあるんだ。ゲンガーはまだレベル100になってない。まだまだ、安心できる状態ではないんだ。
「自分でなんとかするよ。ひとりで練習する」
「そう? ミクちゃんは後で帰るから、お母さんに伝えておいて」
ミクは小学生になってから、授業の後、ミス・コバヤシから特別授業を受けていた。何を教わっているのか、ミクは言いたがらない。すごく難しいこと、としか言わない。ママも何も知らないらしい。ミクに聞こうとさえしない。もしかして、ぼくだけが仲間外れにされているのかな……。それならパパはぼくよりもっと仲間外れにされている。パパはミス・コバヤシのことさえ知らないかもしれない。社宅にクリスマス会があることも、たぶん知らないと思う。
公民館の外に出ると、アレンくんがぼくを待っていた。ぼくのことを「友達」だと思っている? アレンくんの顔がぼくは苦手だった。なんていうか、赤ちゃんみたいな顔をしている。身体だけが大きい赤ちゃんと一緒に社宅まで自転車で並んで帰る。横断歩道で赤信号になると、隣にいるアレンくんと話さないといけない。ぼくが黙っていると、アレンくんはぼくがアレンくんをシカトしていると言って、ママにチクる(傍点)。だからぼくは、ポケモンの話をした。アレンくんはぼくの話を聞いて、ゆっくりとうなずく。うなずく速度がすごくゆっくりだから、ぼくはさらに早く、まくしたてるみたいに話さないといけない。しかもアレンくんは、横断歩道で必ず自転車を降りて、左手を挙げて渡る。そう学校で習ったから、何が何でもそうしないといけないと言う。だからぼくもアレンくんに合わせないといけなかった。しゃべり続けながら。今日、伝説のポケモン、サンダーを捕まえた、サトシのピカチュウがタケシのイワークに勝った、通信交換でゴーストがゲンガーに進化した――
「ゴースト?」
アレンくんが初めてしゃべった。社宅へ帰る、最後の交差点だった。
「うん。ゴーストはゲンガーに進化したんだ」
「ゴーストはゲンガーにならないよ」
「なるさ。ぼくのゴーストはゲンガーになったんだ」
「嘘だね」
「嘘じゃない!」
ぼくは叫んだ。叫んだぼくを見て、アレンくんは笑った。
「G・H・O・S・T……ありえないよ」
ぼくはキレてしまった。アレンくんを右手で突き飛ばした。アレンくんは自転車にまたがっていたから、自電車ごと道に倒れた。信号が青になった。ぼくはアレンくんを置き去りにして、猛スピードで家に帰った。
3
次の日、ぼくは家に帰りたくなかった。アレンくんを突き飛ばしてしまったからだ。きっとアレンくんは、ママにチクっているに違いない。ぼくはまたゲームボーイを取り上げられる。今度は1週間じゃ済まないかもしれない。もっと長く、二週間、一か月、一年、もしかすると一生かもしれない。でも帰らないわけにはいかなかった。ぼくだけランドセルをしょったまま、公園に行けない。そんなダサいことできないんだ。
ぼくは息を止めて、静かに玄関のドアを開けた。いつもならインターホンを勢い良く押すのに、今日はもしもの時のために渡された合鍵を使った。合鍵は、ぼくが今年、三年生になってもらった。絶対に失くすなよ、とパパが珍しく真剣な顔でぼくに言った。ぼくはいつもランドセルの右のポーチにいれていた。生まれて初めて、合鍵を使った。
きっとこの時間は、ママはキッチンで夕食を作っているに違いない。だけど今日は、ママは洗面所にいた。洗面台をスポンジでごしごし磨いていた。ぼくの部屋は洗面所を横切らないとたどり着けなかった。
ぼくは諦めて、自分からママに見つかりに行くことにした。ただいま、と言って、洗面台を夢中で磨くママに声をかけた。
「あら、帰って来たのね」
「うん」
「今、ママはとっても忙しいの。遊びに行くならさっさと遊びに行きなさい」
ママは洗面台の蛇口を丁寧に磨いていた。ママは顔を上げず、鏡にはママの頭と、ぼくの顔が映っていた。もしかしたらアレンくんは、昨日のことをチクっていないのかもしれない、たぶんそうなんだ。アレンくんも、やっと大人(傍点)になったんだ。ぼくは喜んだ。学校が台風で休みになった日みたいに。
ぼくは部屋にランドセルを置いて、ぼくはすぐに家を出た。公園にはすでにナオキたちがいた。アレンくんも来ていた。アレンくんがぼくに誘われずに自分から公園に来たことはなかった。
アレンくんはゲームボーイを持っていた。新品のゲームボーイだった。ナオキのゲームボーイと通信ケーブルを繋いていた。それだけじゃなかった。アレンくんは、今までしゃべらなかった分を取り戻すかのように、アレンくんはしゃべり続けていた。こんなにしゃべるアレンくんは初めてだ。
ぼくはアレンくんを避けた。昨日のことをアレンくんがどう思っているか、わからなかった。アレンくんもぼくを避けているようだった。ぼくと目を合わそうとしない。ぼくは他のやつと遊戯王カードの対戦を始めた。気にすることに疲れた。とにかくアレンくんは昨日のことをママに言っていなかった。それでよかった。
ふるさと、が聞こえてきた。夕日が公園を包んだ。ぼくたちは夕日の中から生まれてきたかのように、ぼくたちどこか違う世界にいた。時間も止まっていた。ブラック・マジシャンがベンチに座って、リザードンが空に飛んでいた。ぼくたちはずっと続く戦いの中にいた。たぶんこれは大人になってからも続くと思う。ぼくたちが疲れてしまうなんて、そんなことは考えられない。いつまで、なんて考えもしない。だってここにはぼくたちしかいないのだから。
芝生の中から男の人が出てきた。公園へ入ってきた。公園の無花果の木の下にあるベンチで遊んでいたぼくたちのところへ、まっすぐ歩いてきた。ぼくたちに緊張が走った。何かやらかしたのか? ぼくたちはここで何も悪いことはしていない。マンションの5階からミニ四駆を落としたり、エアーガンで鳩を撃ったりはしていない。ぼくたちは公園でとても大人しく遊んでいたはずだだった。
男の人はぼくたちの近くに来て、ぼくたちの周りを歩き回っていた。少し時間がかかったけど、男の人が「部長のところの息子さん」であることにぼくは気づいた。顔がぼくが見た去年の春と全然違っていたからわからなかった。すごく痩せていた。顔も一回り小さくなっていた。大きなお兄さんだと思っていたのに、ぼくたちの身体とまるで変わらないように見えた。
ぼくたちはジロジロ見られて居心地が悪かったから、別の公園へ行こうとした。別に誰が言い出したというわけじゃない。何か信号を交わし合ったわけじゃない。社宅の公園にいる時は、ぼくたち全員の考えはいつも同じだ。意見を言い合う必要なんてなかった。それぞれが前に進むと、不思議といつも同じ場所にいるのだ。
「きみたち、ちょっと待って!」
ぼくたちは返事をせずに、それぞれ自転車にまたがった。
「マスターボール、たくさんほしくないか?」
マスターボール、と聞いて、ぼくたちの動きが止まった。マスターボールの存在は、ぼくたちがだけが知っている秘密だった。どんなポケモンも捕まえることができるすごいボールで、世界にたったひとつしかないボールだ。だからぼくたちは手に入れたマスターボールを大切に持っていた。「どうぐ」の一番下に大切に。なのに、大人の口から「マスターボール」という言葉が出るなんて!
「みんな、ここに集まって! マスターボールを増やせるんだよ。裏ワザがあるんだ。特別に教えてあげよう」
ぼくたちは「部長のところの息子さん」のもとへ集まった。ゲームボーイを取り出して、電源を入れた。ベンチに座った。それから、ぼくたちにベンチの後ろに回って、画面を見るように言った。
ぼくたちはゲームボーイの小さな画面を食い入るように見ていた。――見たこともない画面が見えた。呪文のような読めない文字が画面いっぱいに並んでいた。押したこともないようなボタン、「裏ワザ」をするためにつけられたとしか思えないボタンをたくさん押すと、いつの間にか、マスターボールが99個になった。「どうぐ」のマスターボールは「×99」となっていた。
「ほんとだ!」
ナオキが叫んだ。
「部長のところの息子さん」は笑顔で、
「きみのゲームボーイを貸して。マスターボールを99個にしてあげる」
それからぼくたちみんなに、マスターボールを99個に増やしてくれた。
4
「部長の息子さん」は、毎日ぼくたちのところへ来て、新しい裏ワザを教えてくれた。ぼくたちは縮めて「部長」と呼ぶことにした。部長はポケモンのことなら何でも知っていた。部長の育てたポケモンは誰よりも強かった。ぼくたちはみんな部長の真似をし始めた。部長と同じポケモンを育て、部長と同じ技を使った。ぼくたちはみんな、はかいこうせんを覚えた。口からすべてを焼き尽くす光線を吐き出し、学校をぶっ壊した。ぼくたちは壊すことを知った。順番通りに進なくてもいい。故郷のマサラ・タウンから冒険が始まって、チャンピョンを倒して終わる、別にそんなことにこだわることはなかった。
ぼくたち全員で学校をサボった。もちろん社宅の公園には集まれなかった。隣町の公園に集まった。そこからぼくたちはダイエーの屋上にあるゲーセンへ行った。午前中だから誰もいなかった。思い切り遊ぼうとしたけど、ぼくたちは誰もお金を持っていなかったから、どんなゲームでも遊ぶことができなかった。だから結局、最初に集まった公園へ行き、ポケモンをするしかなかった。隣町の公園は、家と家が集まる中で、水たまりのようにぽつんとあった。大きなケヤキの木が周りにあって、ぼくたちは静かな森の中にいるみたいだった。他には誰もいない。たぶん、この時間でしかあり得ないことだ。真ん中に大きなすべり台があり、すべる前にたくさんの段差を登らなけらばならなかった。ぼくたちは段差に座って、ずっとポケモンをしていた。今が何時かもわからなかった。学校のチャイムの音が聞こえた。隣町の知らない学校のチャイムだ。昼休みのチャイムだ。
ぼくたちはだんだん不安になってきた。でも今更家へ帰るわけにもいかなった。今日、サボろうと言い出したナオキも、すべり台から降りて、一人でブランコに乗り始めた。立ち乗りで、一回転しそうな勢いだった。これからどうしよう。いつもぼくたちの先を行くナオキがあんな感じだから、ぼくたちはますます不安になった。考えてもわからない。とにかく学校が普通に終わる時間まで、ぼくたちは待つしかなった。
たぶん「放課後」になったと思った頃、ぼくたちは社宅の公園に帰った。放課後はそこへ行く、ぼくたちにとってそれが当たり前のことだからだ。
部長がぼくたちを待っていた。部長はずっとぼくたちを待っていたようだった。ぼくたちがみんなで社宅の門から公園まで入って来たから、部長はぼくたちをじろじろと見ていた。なんだか落ち着かない様子だった。
「なあ、みんな。今日はすごい裏ワザを教えてあげよう。だだ、これまでと違って、リスク(傍点)があるんだ。そんなに気にすることじゃない。別に死ぬってわけじゃない。ただのゲームだからね。もっと辛いことが人生にはたくさんある……。いやいや、何でもない。楽しく行こう。ミュウだよ。幻のポケモン。出せるんだ。本当だよ」
部長はベンチに座って、ゲームボーイを取り出した。ぼくたちはいつものようにベンチの裏に回り、小さな画面を頑張って見つめた。
「ここだ。ここだよ。セレクト、B、B、セレクト、B、B……」
ぼくたちは驚いた。砂場にミュウが現れた。ミュウは空に飛び上がり、太陽の影になった。ぼくたちは早速捕まえようとした。どんなことをしてもほしかった。
「みんな聞いていたか? この裏ワザをやると、カセットのデータが壊れてしまうかもしれない。でも大丈夫。そうなる確率は低いから。もし万が一、そうなっても……きみたちはまだやり直せるさ」
この時、ぼくたちは初めて意見を言い合った。もしもカセットが壊れてしまえば、ぼくたちはすべてのポケモンを失ってしまう。でもミュウはほしかった。ミュウはぼくたちの目の前にいた。社宅の屋根に座って、ぼくたちを待っていた。白いしっぽと遊びながら――。
「明日、決めよう」
ナオキが言った。ぼくたちは納得した。ナオキが言うならそうしたほうがいい。……先送りにしたかった。こんなに弱気になるのは初めてだ。胸が痛くなる、ママがよく言っていた。ぼくたちは胸が痛くなったと思う。胸の真ん中が少し冷たくなる。こんな気分になれば、もう早く家に帰りたかった。今日、学校をサボったことなんて、どうでもよかった。
ぼくが家に帰ると、ママは夕食を作っていた。ただいま、とぼくは言った。早く済ませたかったからだ。
「あんた、学校行かなかったの?」
「うん」
「そう。明日はちゃんと行きなさい」
ママはキッチンのカウンターにある小さなテレビをつけた。トマトを切り始めた。ご飯を作りながらテレビが見たい、ママがそう言ってパパが買った。せめてそれぐらいいいでしょ、とも言っていた。ぼくとミクがテレビに触れると怒った。
自分の部屋で、ゲンガーを探した。心配だった。レベル100にしたゲンガーが、消えてしまう気がしたからだ。最近どこに行っても、ゲンガーのことが気になっていた。消えたらどうしよう。誰にも言っていない。言ってはいけない気がした。ランドセルにゲームボーイをこっそり入れていた。学校に持っていた。いつどこで壊れるかわからない。休み時間にトイレでセーブデータが消えてないか見ていた。ただ消えていないか見るだけだ。一瞬だけ、電源をつける。データが消えてなければよかった。それからトイレの水を流す。何もしていないけど、フリはしないといけない。バレるとたいへんだからだ。ゲームボーイをシャツの中に入れて、トイレのドアを静かに開ける。何事もなかったかのように、手を洗って教室へ帰った。
夜ご飯を食べてふとんに入っても眠れなかった。明日が来るのが怖かった。ぼくたちはボタンを押すしかない。その後どうなるかわからない。もしかしたら何もないかもしれない。ずっとこのままでいられるかもしれない。隣で寝ているミクの寝顔が見えた。……クリスマス会で歌う。クリスマス会でパックになる。同じ日だ。同じ日? ぼくは劇に出られないってこと? みんなの前で歌わずに済むってこと? ママはどっちに行くんだろう? 頭がぐるぐる回る。起きてママに聞いてみよう。ぼくは起き上がってふすまを開けた。ママは今日もビールを飲みながら、リビングでレースの食卓カバーを見つめていた。
「起きたの?」
「ううん。トイレ行くだけ」
「そう」
ぼくはトイレへ行った。もちろん何も出なかった。ただ水を流して、ふとんに戻った。その後は、どうしてかわからないけど、すぐに眠ってしまった。
け
5
放課後、ぼくたちは社宅の公園に集まった。社宅の公園に来る前に、学校でナオキともアレンくんとも話したけど、ミュウの話はしなかった。ぼくたちの気持ちは決まっていた。話すことなんてなかった。
ぼくたちはいちじくの木の下で、円になった。いちじくの木の影が、時計の針のようにぼくたちに刺さった。ゲームボーイのボタンを押す。セレクトBBセレクトBB……ぼくの頬をゲンガーが触れた。黒い冷たい手だ。日差しが緑色の画面に当たって何も見えなくなった。
「動かない」
隣のやつが言った。動かない動かない動かない。ぼくたちは歩けなくなった。その場に氷みたいに固まってしまった。Aを押す。Bを押す。振ってみたり、さかさにしたりする。
「消すしかない」
ナオキが言った。ぼくたちは電源を切った。そしてすぐに電源をつける。空に黒い雨雲が現れた。夕立だ。暖かい雨が降ってきた。とても外にはいられない。雨水は社宅を飲み込んだ。ぼくたちの街は海の底に沈んだ。ミス・コバヤシの言っていた、神さまの洪水のように。ぼくたちは箱舟から放り出された。……ぼくたちは何度も電源をつけたり消したりしたけど、何も変わらなかった。
夕立はすぐに去った。世界を満たしていた水は引いていった。
「動いているじゃん」
隣のやつが言った。ぼくのゲームボーイを指さしていた。みんながぼくのところへ集まった。ぼくはとっさにゲームボーイの画面を隠した。
「おい、隠すなよ」
隣のやつがぼくの右手をつかんだ。するとみんながぼくの右手をつかみ、ゲームボーイの画面から引き剥がした。ナオキがぼくのゲームボーイを取り上げた。
「動くじゃないか。どうしてシゲルのだけ?」
「それはさ」アレンくんが言った。「シゲルくんはボタンをちゃんと押さなかったんだよ。間違ったのかな?」
「うん、たぶん間違ったんだ」
ぼくは泣きそうな顔で言った。アレンくんはぼくの顔を覗き込みながら、
「ねえ、もしかしてわざと?」
「そんなはずないだろ」
「怪しいね。……途中でビビったんじゃないの?」
ぼくは立ち上がってアレンくんの胸ぐらをつかんだ。
「またあの時みたいに突き飛ばすの?」
ぼくはアレンくんから手を放した。
みんながぼくを見ていた。しばらくの間、誰も何も言わず、ただぼくを見ていた。頭の中がこんがらがっていて、みんなの前で何を言えばいいかわからなかった。もうお兄さんなんだから、みんなの前で何かしなくちゃいけない。ママがそう言っていた。今がその何か(傍点)をする時なんだと思った。だけど、ぼくは何もできなかった。
「どっちでもいいよ」アレンくんが笑いながら言った。「たいしたことじゃないよ。新しいの買ってもらえばいいし」
「俺は買ってもらえない」ナオキが言った。「もうこいつは仲間じゃないよ。みんな行こう」
みんなはぼくから離れて、自転車に乗った。社宅の公園から出て行った。ぼくはひとり残された。ゲームボーイの電源を切った。ずっと公園の土の上に座っていた。砂場に影が伸びている。ゲンガーが砂の中からぼくを見つめていた。赤い目がぼくから離れなかった。
その日の夜ご飯は、ぼくの好きなエビフライだった。今日はタルタルソースもあった。だけどぼくは食べる気になれなかった。お皿には三本のエビフライがあった。ミクのお皿には二本しかなかった。
「食べないの?」ママが言った。「食べたくないなら食べなくていいのよ」
ぼくは席を立とうとした。
「待ちなさい。言っておきたいことがあるの。シゲルは社宅のクリスマス会に出なさい。ミクはミス・コバヤシのほうに出るわ。歌の練習しておきなさい」
「え」ぼくはイスにどすんと座った。「パックの役はどうなるの?」
「アレンくんが代わりにやるの」
「どうして?」
「あんたがちゃんと練習しないから。セリフ全然覚えていないじゃない」
「そんなのおかしいよ!」ぼくは叫んだ。「アレンくんはオーベロンもやるじゃないか。妖精の王さまと妖精の家来を同じ子がやるなんておかしいよ。見てる人も変に思うし」
「これはミス・コバヤシが決めたことなの。ママが決めたことじゃないわ。もう決まったことだから」
ママはそう言って、黙ってしまった。黙ってエビフライをほおばった。ミクはぼくとママの顔をちらちら見て、同じように押し黙っていた。
「あたし、エビフライ好きじゃない。お兄ちゃんにあげる」
ミクは自分のエビフライを、ぜんぶぼくのお皿に移した。
「ぼくも食べたくない」
ぼくがそう言うと、ママはぼくのお皿を取り上げた。自分のお皿に五本のエビフライを移した。
「あんたたち、食べたくないなら食べなくていいの。ママがぜんぶ食べるから。作りすぎた分は、どうせママがぜんぶ食べればいいんだから。……パパもきっとそう言います」
ママは五本のエビフライを手でつかんで、タルタルソースの中に突っ込んだ。まるでガリガリくんみたいにかじりついて、あっという間に食べてしまった。それから指についた油を丁寧に舐めた。
ぼくとミクは、また黙って夜ご飯を食べた。黙々と下を向いて食べていた。テレビも少しも見なかった。今日は木曜日でポケモンがやっていることにも気づかなかった。ママはリモコンでチャンネルをいろいろ変えて、今日は面白いの何もやってないじゃない、と言って、いつもパパしか見ない1チャンネルをつけた。
夜ご飯の後、ぼくはすぐに自分の部屋へ行った。ミクはお風呂にも入らずに寝てしまった。部屋の窓を開けた。窓からゲームボーイを落とした。ネズミのなきごえのような音がした。四本の単三電池が散らばった。金色の電池が電灯の下に転がった。夜空から星が落ちてきたみたいにきらきらしている。もうゲンガーのことはどうでもよかった。部屋からすっかりいなくなっていた。外を見渡してもどこにもいなかった。
ぼくは四畳半の畳の部屋へ行った。いつもぼくたちが寝ている部屋だ。ミクはお風呂も入らずに寝ていた。枕もとにシャーロック・ホームズが置いてあった。ぼくはふすまを少し開けた。ぼくはふとんに寝転がって、シャーロック・ホームズを読んだ。暗くて字は読めなかったから、挿絵の入ってるページだけを眺めていた。
「あたしの本、返してよ」
ミクがぼくのほうを向いて言った。
「いやだよ。今、読んでいるから」
「お兄ちゃんがもらった本を読みなよ」
「これが読みたいんだ」
「ねえ、本当に返して」
ミクがそう言った時、ふすまが開いた。ママがぼくとミクを見下ろしていた。
「早く寝なさい。あんたたちが寝れないとママは寝れないの。ママが寝れないとパパが寝れないの。ママとパパのためにそれぐらいできるでしょ?」
ぼくはシャーロック・ホームズをミクに返した。ミクは枕の右にそれを置いた。いつも右に置いていた。
ママはぼくをまたいで、ミクの枕もとに立った。枕の右に置いてあったシャーロック・ホームズを拾い上げた。
「こんな本はもうあんたには要らないでしょ? 本棚にしまっておくわ」
「うん。ママがそう言うならあたしは要らない。おんなはそんなことでしはいされないから」
ママは部屋の電気を消して、出て行った。ふすまをぴしゃりと閉めた。その夜、ぼくとミクは三年ぶりに手をつないで眠った。
6
次の日、学校では誰とも話さなかった。休み時間、ナオキたちはぼくを避けていた。こうなることはわかっていた。ぼくはミクみたいに、ランドセルにミス・コバヤシからもらった本を入れていた。一ページも読んでいなかった『宝島』だ。頭に文章が入ってこなかった。挿絵のページを探したけど、挿絵のページは一枚もなかった。だからぼくは適当に真ん中のページを開いて、ただ眺めているだけだった。
学校から帰ると、ママが家にいなかった。今までぼくたちが学校から帰ってくる時は、いつも家にママがいた。リビングのテーブルにメモが置いてあった。――ママはナイルサロンに行ってきます。結婚してシゲルが生まれてから、一度も行っていませんでした。結婚する前に行っていたあのネイルサロンまで行きます。自分の貯金で払いますから心配しないでください。夕食までには帰ります。ママ。
メモの隣に、ゲームボーイが置いてあった。ぼくが昨日、窓から投げ捨てたやつだ。新しい単三電池も置いてあった。ぼくは電池をゲームボーイに入れた。電源はちゃんとついた。中のデータも元のままだった。画面にヒビのひとつも入っていない。レベル百のゲンガーも元気にしていた。
今日は英会話教室の日だった。ぼくとミクは、二人で行く準備をしていた。ママは夜ご飯まで帰ってこない。だから今日は二人だけで行くしかない。
「もう準備できた?」
ミクが言った。ぼくがまだ英語の書き取りの宿題をしていなかった。いつも当日までやっていなかった。学校から帰ってきてから英語行くまでの三十分でやっていた。ぼくは必死だった。
「まだ時間あるだろ。待ってろよ」
「早くミス・コバヤシに会いたいの。だから先に行ってるね」
「え」シャープペンシルをテーブルから落とした。「待って」
「待てない」
ミクは走って玄関まで向かった。待って、とぼくはもう一度大きな声で言ったけど、ミクは振り返りもしなかった。ばたん、とミクがドアを閉める音だけが聞こえた。
ぼくはランドセルから合鍵を取り出した。忘れないようにテーブルの真ん中に置いた。ミクはまだ合鍵をもらっていない。だからぼくがしっかりとドアの鍵を閉めないといけない。英語の宿題なんかよりよほど大事なことだ。だってパパが、それが男の役目だ、と言っていたのだから。
宿題はなかなか終わらなかった。いつもよりたくさん書き取りがあったし、手が震えて上手くアルファベットが書けなかった。そろそろ家を出ないと間に合わない。インターホンが鳴った。こんな時に誰か来た? もしかしてママ? ぼくは宿題を諦めた。別に怒られって怖くない。それより早く玄関のドアを開けないと……。ドアを開けるとアレンくんがいた。ブルーのリュックをしょっていた。
「迎えに来たよ」アレンくんは笑った。「途中で話したいこともあるから」
「ひとりで行くよ」
「そう言うなよ。ここで待ってる」
アレンくんは壁にもたれて、腕を組んだ。
ぼくは家に戻って、テーブルにあった筆箱とノートとテキストを乱暴につめこんだ。合鍵はズボンのポケットに入れた。
自転車で並んで英会話教室へ向かう。社宅を出て、近くのスーパーを右に曲がる。しばらく住宅街の中をまっすぐ進む。そして大きな交差点に出た。
「クリスマスの劇のことだけど」アレンくんは信号を見つめながら言った。「あれはミス・コバヤシが決めたことなんだ。おとといの夜、ミス・コバヤシから電話があったんだ。ぼくにパックの役をやってほしい。それでシゲルくんにはオーベロンをやってもらうって」
「ぼくがオーベロンやるの?」
「シゲルくんが嫌じゃなければね。ぼくはオーベロンとパック両方やってもいいし、パックだけでもいい。すべてはシゲルくん次第だ。あ、これはミス・コバヤシが言っていたことだからね。ぼくの考えじゃない。ぼくはどっちのセリフも覚えているから」
信号が青になった。アレンくんは自転車を降りて、左手を挙げて横断歩道を渡った。ぼくもアレンくんにつられて同じようにした。
公民館の中にあるホールで教室のみんなが円になって座っていた。小さな体育館みたいなところだ。ホワイトボードにアルファベットが順番に書いてあった。
アレンくんはミクの隣に座った。ぼくはアレンくんが先に座ったの見てから、なるべく離れたところに座った。
「みなさん、そろそろクリスマスですね。今日はクリスマスのお話をしてあげましょう。今から100年前の人、チャールズ・ディケンズさんが書いたお話です」
昔々、イングランドに、スクルージ公爵という領主がいました。領地は、イングランドの北部、リヴァプールの近くにありました。
スクルージ公爵は「ケチ」という言葉からほど遠い、寛大で慈悲深い領主で、イースターに貧しい領民にパンを配って歩きました。スクルージ公爵は領民から尊敬されていましたが、クリスマスに関しては、普通のイングランド人と違う考えを持っていました。
昔のイングランドでは、クリスマスの日は、農民も貴族も関係なく、みんなが集まってクリスマスを祝っていました。
しかし、スクルージ公爵は、クリスマスは自分の家で、自分の家族だけでお祝いすべきだと考えてしました。クリスマスのご馳走やプレゼントは、家族の力で勝ち取るものであって、もし妻や子どもにきちんと与えられないのなら、それは旦那に甲斐性がないせいだと考えていました。クリスマスとは、プライベートなものなのです。
今まではイングランドの習慣に従っていたスクルージ公爵ですが、今年こそ、家族だけでクリスマスをお祝いしようと決心しました。
クリスマスの朝、スクルージ公爵は館にいた召使いたちに暇を出しました。スクルージ公爵は、クリスマスは家族のもとに帰って、家族でクリスマスを祝いなさいと言ったのです。
いつも忠実に仕えている召使いたちに報いてやろうと思ったのです。
スクルージ公爵には、公爵夫人と七人の男の子がいました。
クリスマスのプレゼントに、子どもたちのために立派な七頭の馬を、奥さんのために33個のダイヤと66個の真珠のついたネックレスを用意していました。
ご馳走の材料もちゃんと用意していました。丸々と太った鶏や豚をたくさん育て、お酒をたくさん地下の倉にしまっていました。しかし、召使いはみんないなくなってしまいましたから、料理を作ることができませんし、お城を美しく飾ることもできません。
これではあまりに寂しいクリスマスだ、と思ったスクルージ公爵は、公爵夫人に地下の材料でご馳走を作るよう頼みました。そして子どもたちには、お城を飾るように言いつけました。
たいへんなことになりました! 公爵夫人はスクルージ公爵と7人の子どもたちのご馳走を作り、子どもたちは広いお城を飾らないといけません。とても今日中に終わりません。公爵夫人と子どもたちは、スクルージ公爵にも手伝ってほしいと思いましたが、スクルージ公爵に意見することは許されません。妻は夫に、子どもは父親に、従うことが当然だと思っていたからです。
このままでは、クリスマスを祝うことができません。日が暮れる前に、ご馳走と飾りつけを終えないと、プレゼントをもらえません。公爵夫人と子どもたちは相談しました。そうだ! 村のみんなに手伝ってもらおう。手伝ってもらう代わりに、お城で一緒にクリスマスを祝おうと考えたのです。
スクルージ公爵に気づかれないように、こっそりお城の裏口から公爵夫人と子どもたちは外に出ました。
外は雪が道に積もっていました。公爵夫人も子どもたちも、冬はお城の外に出たことがありませんでした。イングランドの冬はひどく寒いから、スクルージ公爵は、大切な家族をお城の外に出したくなかったのです。
肌を刺す冷たい風が吹いてきました。公爵夫人と子どもたちは心まで震えていました。柔らかい雪と、きれいな青い空があると思っていました。実際は、泥と混じった硬い雪と、灰色の空があるだけでした。公爵夫人と子どもたちは、暖炉のあるお城に、帰りたくなってしまいました。
公爵夫人と子どもたちは、どうしてもプレゼントがほしかったので、なんとか気持ちを強く持ち、荒れた道を歩き出しました。
しばらく道を進むと、村人たちの小屋が見えてきました。村の子どもたちは小枝を拾っていました。手は霜焼けで真っ赤になっています。村のお父さんたちは、屋根に上って雪かきをしていました。
公爵夫人と子どもたちは話し合いました。公爵夫人が村人の小屋を訪ねて、村の女を誘い、子どもたちが小枝を拾う村の子どもたちを誘うことにしました。村の男たちは自分の奥さんと子どもたちがお城に来れば、後から勝手に着いてくると思いました。男は寂しがり屋だからね、と公爵夫人は子どもたちに言いました。
公爵夫人は小屋の戸を叩きました。中から女が出てきました。ぼろきれのようなドレスを着て、顔は赤茶けていました。猫のおしっこの臭いがして、公爵夫人は顔をしかめてしまいました。
「何の用ですか?」
女は言いました。
「奥さま、今日はクリスマスでしょう? ……お宅には暖炉がありませんね。とっても寒そうですわ」公爵夫人は小屋の中を見渡しました。「それに七面鳥もケーキもお宅にありませんね。旦那さまはいったい何をしているのかしら?」
「うちの旦那は、雪かきをしています」
「お子さまたちにプレゼントはありまして? あそこにある藁をプレゼントするのかしら?」
「プレゼント? そんなものありませんよ。子どもに藁をあげるなんて、そんなもったいないことできません」
公爵夫人は今まで村の女と話したことがありませんでした。貴婦人の公爵夫人は、卑しい村の女と口を聞くなんて、一生ないと思っていました。がさつで、臭くて、上品さのかけらもない村の女と話したくなかったのです。
「奥さま、ひとつご提案がありますの。我が家のクリスマスの準備を手伝ってくださいません? その代わり、奥さまと旦那さま、お子さまもご一緒に、我が家にご招待いたしますわ。クリスマスをお祝いしましょう」
「そんな暇ありません」
「まあそうおっしゃらずに。きっと楽しいですよ。こんなことはもう二度ないかもしれません」
「でしたら」女は鼻水をすすりました。「あなたの胸につけているそれをください」
女は公爵夫人のつけていたオパールのブローチを指差しました。
「これがほしいんですの? それはまあ……」
ブローチは、公爵夫人がスクルージ公爵から初めてもらったプレゼントでした。公爵夫人はいつも大切にブローチを持っていました。ブローチを手放すなんて、考えたこともありません。
公爵夫人は胸のブローチに手をあてました。スクルージ公爵との思い出が蘇ってきました。初めてスクルージ公爵と会った日、スクルージ公爵は、立派なローマ風の甲冑を着て、戦争から帰ってきた英雄でした。スクルージ公爵の凛々しい姿に、公爵夫人は胸がときめきました。
しかし、スクルージ公爵は変わってしまいました。今は部屋に閉じこもって、古い甲冑を着たまま、一日中、椅子に座っているのです。若い頃、好きだった狩りへも、めっきり行かなくなりました。食事の時も、夫婦の寝室でも、スクルージ公爵は黙って、ぼんやりと、まるで遠く見ているようでした。そんなスクルージ公爵と一緒にいて、うんざりしていました。
「奥様、こんなものがほしいんですの? こんなものなら、いくらでも差し上げますわ」
奥様は胸のブローチを外して、女に渡しました。女は、小屋の窓に寄って、ブローチを太陽にかざしました。オパールは緑色に輝きました。それはまるで、貝が火を吹いているようでした。村の女は子うさぎのように、輝きを見つめていましたが、やがてそれに飽きると、ブローチを胸につけて、ニヤリと笑いました。
「いいですよ。他の女たちにも、私から頼んでみましょう。お城のクリスマス楽しみです」
公爵の子どもたちは、外で小枝を拾っている村の子どもたちに声をかけました。
「おまえたち、お城の飾りつけを手伝ってくれ。手伝ってくれたら、クリスマスのご馳走を食べさせてやる!」
公爵の子どもたちは大声で言いました。村の子どもたちは無視して、小枝を拾い続けていました。
「おい、聞いているのか? めったにないんだぞ!」
公爵の子どもたちは、また大声で言いました。
「もっと小枝を集めないと」1番大きな村の子どもが言いました。「俺たち、父さんにぶたれる」
「心配しなくていい」長男のトマスが言いました。「もしお前たちの父さんがおまえたちをぶつなら、父上がおまえたちの父さんを鞭打つさ」
「そんなことすれば、俺たちはもっと父さんにぶたれる」
一番小さな農民の子どもが言いました。
「ぼくたちがおまえたちをぶつぞ!」
末っ子のヘンリーが言いました。
「それ、くれたらいいよ」
村の子どもたちは、公爵の子どもたちが腰に下げている剣を指さしました。
「これはダメだ!」次男のチャールズは言いました。「これはぼくたちが5歳になった日に、父上がくれた大事なものなんだ。絶対にダメだ!」
「なら俺たちは手伝わないぜ」
公爵の子どもたちは、七人で相談しました。もし剣をあげなければ、お城の飾りつけはできず、プレゼントの馬はもらえません。しかし、剣は1番大切な宝物でした。剣と馬、どちらを選ぶか決めければなりません。
七人で意見が割れました。三人は剣をあげることに反対し、四人は馬をほしがりました。多数決で、馬を選ぶことにしました。
「こんなものならいくらでもやるよ」
公爵の子どもたちは、腰から剣を取って、村の子どもたちに渡しました。
村の子どもたちは、さっそく鞘から剣を抜こうとしましたが、固くてなかなか剣を抜けませんでした。
「こうやって抜くんだよ」
公爵の子どもたちは短剣を抜いてあげようとしましたが、村の子どもたちは剣に触らせませんでした。
「もう俺たちのもんだ!」
村の子どもたちは、2人で剣を鞘から抜きました。1人が柄を持ち、もう1人が鞘を持ちました。一斉に引っ張ります。剣が抜けて、2人は雪の上に倒れました。
「すげえ」
鋭い剣を見て、村の子どもたちは騒ぎました。人差し指で剣の刃にそっと触れました。他の子どもたちも剣を抜いて、剣を振り回しました。
「村の子みんなに、頼んでやるよ。ご馳走が楽しみだ」
お昼になって、村の女たちと子どもがお城に集まりました。大きなホールに、村の女たちと子どもたちがたくさんいました。村の男たちは? 男には仕事があるのです。
(みなさんのお父さんが毎日お仕事に行くように。)
ホールには、大きな丸い窓が四つあり、正面の壁に、サラマンダーのタペストリーがかけられていました。
人々の前に、公爵夫人が立ちました。
「これからクリスマスの準備をしましょう。奥さま方は、わたくしと一緒に、キッチンでお料理を作りましょう。お子さま方は、わたくしの子どもたちと一緒に、お城の飾りつけをしてくださいまし」
公爵夫人は村の女たちをキッチンへ連れて行きました。
公爵の子どもたちは、宝石と真珠を宝物庫から持ってきて、村の子どもたちに配りました。
「これでお城をきれいに飾るんだ。そこのおまえ、今、宝石をポケットに入れたな。数はわかっているんだからな。宝石は333個、真珠は666個あるんだ。もし明日、宝石と真珠がひとつでも足りなかったら、手をきりおとすぞ!」
公爵の子どもたちは、腰の短剣を抜こうとしましたが、短剣をあげてしまったことをすっかり忘れていました。
「剣は俺たちのものだ!」村の子どもたちが剣を抜きました。「手をきりおとすぞ!」
剣を突きつけられた公爵の子どもたちは、震えが上がってしまいました。その姿を見て、村の子どもたちは大笑いしました。
村の子どもたちは、公爵の子どもたちを置いて、お城を探険しました。噴水のある中庭や、悪者を閉じ込めておく地下牢や、高い見張り台で遊びました。遊びながら、宝石と真珠でお城を飾りました。
村の子どもたちは、お城の真ん中にある一番立派な部屋の前に来ました。金で縁取られた赤い扉がありました。
村の子どものひとりが、扉を開けようとしました。すると、公爵の子どもたちが飛んで来ました。
「絶対に開けるな! 父上に吊るされるぞ!」
そこはスクルージ公爵の部屋でした。公爵の子どもたちが部屋に入ると、スクルージ公爵に叱られました。お仕置きとして、中庭の木に吊るされたことがありました。
それを聞いて、村の子どもたちは、赤い扉の前から逃げ出しました。怪物の大きな口のように見えたのです。
村の子どものジョンが、オパールを赤い扉の前に置きました。ここだけ何もないのは寂しいと思ったのです。オパールは、虹色に輝いていました。
すっかり夜になりました。村の女たちは、ご馳走を作り、村の子どもたちは、スクルージ公爵の部屋を除いて、お城を飾りました。
テーブルにご馳走が並びました。ホロホロ鳥の蒸し鳥、アスパラガスのサラダ、ビーフシチュー、ライ麦パン、リンゴのタルト、そしてイノシシの丸焼きでした。ぶどう酒もたくさんあります。お城は宝石と真珠で飾られ、夜空から星が落ちてきたようでした。
「みなさん、クリスマスをお祝いしましょう」
公爵の子どもたちが公爵夫人のドレスを引っ張りました。六男のエドワードが、公爵夫人に耳打ちしました。
「母上、父上がいません」
「あら、そうでしたわ。あなたたち、呼んできなさい」
「母上が呼んできてくださいよ」
公爵の子どもたちは言いました。
「なんてこというのかしら! あなたたちは、スクルージ公爵の息子でしょう?」
「母上は、父上の最愛の人でしょう? 父上の天使なんでしょう? どうして天使が迎えに行けないのです?」
「口答えはやめなさい! 罰として、ご馳走を食べてはいけません」
公爵夫人と子どもたちは言い合いをしていましたが、ジョンが叫びました。
「喧嘩はやめてください! 今日はクリスマスですよ。クリスマスはお祝い日です。俺が公爵を呼びに行きます」
「坊やの言うとおりね。今日はクリスマスです。坊や、公爵閣下を呼んできなさい」
公爵夫人は威厳たっぷりの声で言いました。
ジョンは公爵の部屋へ走りました。赤い扉の前に置いた、オパールを拾い上げました。ジョンはオパールを下から覗き込んだり、くるくる回したりしました。オパールは赤くなったり青くなったりしました。小さな炎が燃えたり消えたりして、まるで生き物のようでした。
ジョンはオパールをポケットに入れました。――クリスマスのご馳走なんてどうでもいい。俺は宝石がほしいんだ。裏口からこっそり出れば、バレやしないさ。
その時、赤い扉が開きました。
「盗みは罪だぞ」
スクルージ公爵は、ポケットに突っ込んだジョンの右手を見ていました。
ごめんなさい、とジョンは言おうとしましたが、スクルージ公爵があまりに怖くて、言葉が出ませんでした。
「それは妻のために手に入れたものだ。おまえもそれがほしければ、父親に手に入れてもらえばいい」
「おれの手を、きりおとすのですか?」
ジョンは震えながら言いました。
「おまえの手を切り落とすだと?」スクルージ公爵は灰色の髭をなでました。「おまえの手を切り落としたところで、何の得がある? わたしの物を返せばそれでいい。おまえはわたしの子どもではないのだから」
スクルージ公爵は、左手を差し出しました。ジョンはポケットからオパールを取り出し、スクルージ公爵の手のひらに、おそるおそる置きました。
「クリスマスは家族で過ごしたいのだ。他人を喜ばせるためじゃない。わたしは行かない。小僧、早く行け! 」
ジョンは逃げ出しました。怖くて怖くて、泣く暇さえありませんでした。クリスマスなんてどうでもいい。こんな恐ろしいお城からすぐ出てきたい。……ジョンは窓から、うさぎのように飛び出して行きました。
ジョンがなかなか帰ってきませんから、人々は苛立っていました。早くご馳走を食べたくて、仕方なかったのです。
「このままでは、せっかくのご馳走が冷めてしまいますわ。先にいただいてしまいましょう。今日はクリスマスですもの。惜しみなく分け与えることが大切です。みなさん、隣人を愛しなさい。兄弟姉妹のように、お互いを愛し合うのです。一緒に祈りましょう」
公爵夫人に続いて、人々は食前のお祈りをしました。 暖炉にくべられた薪が、割れる音がしました。
「いだだきましょう」
人々は貪るように食べました。早く自分の分を確保しないと、すぐに失くなってしまいます。一番の人気は、イノシシの丸焼きでした。食欲をそそる香草の匂いがします。肉は柔らかく、まだ生きているかのようにぷりぷりしてました。
やがて、村の男たちがやって来ました。もうご馳走はありませんでしたが、ぶどう酒はまだたくさんありました。村の男たちは、ぶどう酒を水辺の馬のように飲みました。
公爵夫人は、村の女たちと旦那の愚痴で盛り上がりました。公爵の子どもたちは、村の子どもたちとかくれんぼをしていました。広いお城でかくれんぼをするのは楽しくて、時間を忘れてしまいました。
スクルージ公爵は、自分の部屋でぶどう酒を飲んでいました。小さな暖炉の前に座って、ひとりぼっちで飲んでいるのです。銀の杯にぶどう酒を注ぎ、一気にそれを飲み干しました。
左手にオパールを握りました。強く握りにぎりしめたり、手のひらの上で転がしたりしました。人々の声が聞こえてきます。スクルージ公爵には、はっきりと聞き分けることができました。公爵夫人の笑う声、子どもたちのはしゃぐ声……。スクルージ公爵は立ち上がり、静かに部屋を出ました。
人々のいるホールの前に来ました。しかしスクルージ公爵は、なかなかドアを開けることができませんでした。今更どんな顔をして人々の前に出ればよいか、わからなかったからです。
どこにも居場所のないスクルージ公爵は、お城の中庭へ行きました。雪の降り積もった噴水に腰かけ、子どもの頃を思い出したのです。十五歳のクリスマス、おまえも一人前になったと先代のスクルージ公爵から甲冑をもらいました。スクルージ公爵が身にまとっている甲冑は、父からもらったものであり、数々の戦場でスクルージ公爵を守ってくれた甲冑でした。甲冑についた古傷に触れて、今まで自分は何のためにこの甲冑を身にまとってきたのだろう、と考え込んでいました。
ホールの灯りが消えました。どうやらクリスマスの宴会も終わったようです。スクルージは腰を上げて、もう寝ようと思いました。……わたしのクリスマスもこれで終わりだ。
大きな足音がしました。こんな時間に誰だろうと思っていると、人々が中庭へやって来ました。
「公爵さま、メリー・クリスマス! 家族と領地の人々を代表して、あなたを愛する妻から、お祝い申し上げますわ。わたしたちからプレゼントがあります」
公爵の子どもたちと、村の子どもたちがスクルージ公爵の前に並びました。『良き王ウェンセスラス』を歌いました。 子どもたちの歌声が、イングランドの冬の空に響き渡りました。スクルージ公爵は、噴水に腰掛け、静かに子どもたちの歌声に耳を傾けました。歌が終わると、スクルージ公爵は大きな拍手を子どもたちに送った。人々は手を叩き、
「優しい領主さま、メリー・クリスマス!」
スクルージ公爵は、公爵夫人と子どもたちを抱きしめました。そして村の人々ひとりひとりと握手して、子どもたちの頭を撫で、女たちの手に口づけをしました。男たちには、昔の戦友と再開したように、抱擁を交わしました。
「おまえたち、来年もここでクリスマスを祝うのだ。クリスマスはお祝いの日、みんなで祝うのだ。クリスマスは、祝わなければならない」
ミス・コバヤシのお話が終わると、いつものように英語のレッスンが始まる。まず宿題を提出する。今日はなんて言い訳すればいいか。ぼくは頭が回らなった。いつもならいろんな言い訳が次々と思いつくのに、今日は何も出てこなかった。
「ごめんなさい」
「どうして? 理由をきちんと言いなさい」
ミス・コバヤシはぼくの肩を両手で掴んだ。
「時間がなかった」
「どうして?」
「どうして? ……いろいろあるんだ。ぼくは忙しいんです。やらなきゃいけないことがたくさんあって」
「そう。もういいわ。オーベロンはシゲルくんがやりなさい。あなたはワガママな妖精の王さまだもの。ぴったりの役ね。きちんとやりなさい。投げ出したら許しません」
ぼくはミス・コバヤシにキレた。ババアの目玉をフォークでえぐり出してやりたいと思った。どうせもうすぐぼくは「卒業」するんだ。言いたいことをぶちまけてしまえばいいんだ。
「オーベロンなんてやらないよ。ぼくはもともとパックだったんだ。なんで急に召使いが王さまになるんだよ。そんなおかしなことがあるか。アレンくんがオーベロンをやればいいよ。アレンくんのほうが似合ってるよ。アレンくんが王さまで、召使いもやる。何でもできるんだからさ。ミクは女王さまをやって、アレンくんと『末永くお幸せに』だ」
「ミス・コバヤシ」アレンくんがおずおずと言った。「シゲルくんは学校で嫌なことがあったんだです。友達とちょっと『いきちがい』があって。許してあげてください。本当はシゲルくんはオーベロンをやりたいんです」
「オーベロンなんてやりたくない!」ぼくは被せるように言った。アレンくんの言葉なんて、ひとつ残らずぼくの言葉で塗りつぶしてやるんだ「おまえが召使いと王さまをやればいいよ。おまえらしいよ。ママが言ってたよ。おまえは人と上手くこみゅにけーしょんがとれないんだろ? 生まれつきそういう子なんだから、アレンくんのせいじゃないってね。だからみんなで遊ぶ時は誘ってあげなさい、自分じゃお友達を作れない子だから、アレンくんがお隣に住んでいるうちは(傍点)優しくしてあげ……」
言い終わるより先に、ミス・コバヤシはぼくの頬をぶった。
「もうやめなさい」ミス・コバヤシは赤くなった頬を優しく撫でた。「わたしがシゲルくんのママならもっと強くぶっていたわ」
ぼくはここで何かを言わなければならないと強く感じていた。みんながぼくを見ていた。ミクもアレンくんもミス・コバヤシも他の子も。もうお兄さんなんだから人前で何かしないといけない、とママが言ったけど、その「何か」は全然わからなかった。ミュウの時と同じだ。
「お兄ちゃんは歌うんです!」ミクが立ち上がって叫んだ。「社宅のクリスマス会で良き王ウェンセスラスを歌うんです。ね、すごいでしょ? あたしのお兄ちゃん、すごいでしょ? みんなの前でちゃんとやるんです!」
公民館のホールにミクの声が響いた。天井の照明が震えるぐらい大きな声で。
ミス・コバヤシは目を丸くした。ミクはミス・コバヤシを必死に睨んでいた。なんとか泣くのを我慢していた。
ミス・コバヤシはミクを抱きしめた。生まれそうな卵みたいに優しく頭を撫でた。ぼくも泣きそうだった。
「……シゲルくんってそんな人だったんだね。そんな人なんだと思って付き合うよ」
アレンくんが低い声で言った。はっきり聞き取れたけど、ぼくはなんとも思わなかった。心が硬い石になった。今なら何を言われても、ぼくは全然傷つかない。どんどん遠くへ離れていく。『そらをとぶ』でぼくはトキワ・シティまで飛んで行った。そこでモンスターボールをたくさん買って、トキワの森でキャタピーを捕まえて、トランセルからバタフリーに進化する。バタフリーがいれば心強い。安心してオツキミ山へ入れる。ぼくは絶対に逃がさない。いつまでもバタフリーを大切にしてやるんだ。ぼくが大人になってパパになってからもずっと……
ぼくはミス・コバヤシに抱きついていた。ミクと一緒にぼくは泣いていた。
「……二人とも戻って座りなさい。シゲルくん、やりたくないならそれでいいわ。レッスンの後にお話しましょう」
アレンくんは立ち上がって、ミクの隣から離れた。さっきぼくの座っていたところに座った。ぼくはミクの隣に座った。レッスンの間、ぼくとミクはずっと手を繋いでいた。
レッスンが終わり、ぼくとミクとアレンくんは、ミス・コバヤシに呼ばれた。ぼくはアレンくんに謝った。アレンくんは謝罪を受け入れた。ぼくの言ったことは忘れると……。そしてアレンくんは先に帰った。ぼくを軽蔑し切った顔をしていた。だけどアレンくんのことはどうでもいい。自分勝手かもしれないけど、ぼくはすっきりした。言いたいことを言ってやった。何はともあれ、ぼくはあいつに勝った(傍点)。
ミス・コバヤシは、ぼくの気持ちなんてお見通しというような顔をして、
「シゲルくん、あなたが言ったことは許されないことなの。本当に反省しないとだめ」
「アレンくんには言っちゃいけなかったと思うよ。でもあれはぼくの考えじゃないんだ。さっき言ったことは、ぜんぶママが言ったことだよ。だから悪いのはママなんだ」
「子どものフリをするのはやめなさい」ミス・コバヤシはため息をついた。「シゲルくんが言ったことは、シゲルくんの考えなの。それにママの考えが間違っていると思うなら、ママの言う通りにすることないじゃない? 結局、ママと同じことをシゲルくんは考えていた。認めなさい」
「わかったよ。ぼくが悪かった」
ぼくはぶたれるような気がした。またあんなふうに罰を与えられるのが怖かった。ママにぶたれたことはなかったからだ。
「お兄ちゃん、早く帰りなよ。もうママが帰って来ているかもしれないよ。あたしはミス・コバヤシとレッスンがあるから」
「なんだよ」ぼくはムカついた。「早く帰れってこと?」
「そうよ。ちゃんとお兄ちゃんのこと、みんなの前でかばったじゃない? 好きなようにさせてよ」
まるでママのような口ぶりだった。「あたしに好きなようにさせて」――
「帰る前に」ぼくはミクとミス・コバヤシを見据えた。「ミクはミス・コバヤシと何やっているの? 教えてよ。ママも気にしてるし」
「本当? お母さんが気にしてらっしゃるの?」ミス・コバヤシは不安そうな顔をした。「ちょっと難しい英語を教えているだけだから」
「ママが気にしてるわけない」ミクは笑った。「嘘つかないで」
「嘘じゃないよ」
「今度、お母さんとお話するわ」
「いいの」ミクは真剣な顔をして言った。「お母さんには何も言わなくていいよ。お兄ちゃん、早く帰って」
ぼくは追い出されるように、公民館から出て行った。ひとりで家へ帰った。ミクはミス・コバヤシが送って行く。社宅への最後の交差点。アレンくんを突き飛ばしたあの時、ぼくは自分を崖の下へ突き飛ばした。転校生になりたかった。知らない場所へ行きたい。ゲームボーイが壊れていなくてよかった。どこへ行っても友達はできるし、なんならできなくてもいい。……誰がゲームボーイを拾ったんだろう。
ぼくが玄関を開けると、家の中は真っ暗だった。いつもママに言われているとおり、電気はちゃんとぜんぶ消してから家を出た。リビングに電気をつけると、やっぱりママは帰っていなかった。ママだって真っ暗な中でひとりでいない。液晶テレビくらいはつけているはずだ。ぼくは家を出て行く時と同じように、リビングの電気を消した。
暗いリビングでテーブルの上にあったゲームボーイに触れた。スイッチを入れると青白い光がぼくの顔を照らした。すべてはじめからにしよう。あの博士が目の前に出てくる。この世界について説明してくれる。ママはいつ帰ってくるのか、パパは今どこへ行っているのか、ミス・コバヤシとミクは何をしているのか、ぼくに話してくれた。ポケモンがどこからきたのかなんて気にならなかった。博士の話をぼくは飛ばさなかった。博士の言葉を一言一句、口に出して読んだ。そうすると今まで気にならなかったことが、どんどん気になって気になって仕方なくなってくる。どうしてこの家にパパがいないのか。どうして草むらには入ると博士が助けてくれるのか、どうして3匹の中から1匹を選ばないといけないのか……。1匹を選んだら、他の2匹は二度と手には入らない。どれも鉛の箱のように思えた。
ぼくはゲームボーイのスイッチを切って自分の部屋へ帰った。こんな状況になったのは生まれて初めてだった。常に家には他に誰かがいた。クーラーの動く音だけが聞こえた。
朝、どうやらぼくはあのまま寝てしまったらしかった。口の中で苦い味がした。学習机の上にゲームボーイと家の鍵が置いてあった。
リビングで足音が聞こえる。どうやらママは怒っていないようだった。
リビングへ行くと、ママとミク、そして今日はパパもいた。ミクは食パンとオレンジジュース。パパはコーヒーを飲む。ママは何も食べていなかった。他のみんなが出て行ったらゆっくりひとりで食べるらしい。
「今度の日曜日」パパは笑顔で言った。「家族でどこかへ行こう。シゲル、どこがいい?」
「え、わかんないよ。ミクは?」
「あたしもわかんないよ」
「そうか……。ならパパが決める。パパが子どもの頃、大きな鮎を釣った川がある。釣りが得意なおじさんがいた。よく近所の子どもたちと一緒に釣りを習ったよ。鮎を捌いて、焼いて食べるんだ」
「ママは魚が嫌いだよ」
ミクが言った。
「鮎は好き」ママが小さな声で言った。「でも鮎を上手く捌けるかしら」
ママは指を額にかざした。海があって夜空にたくさん星がきらめいている。南の島に女の子がひとり立っている。ママの爪に小さく描かれた景色だった。
執筆の狙い
人間の成長について表現しました。忌憚のなき意見をお願いします。