商店街シリーズ第4話《中華料理店・岡甚》
一
【中華料理店・岡甚】の店主、岡田甚介は七十九歳になる。最近は、店はほとんど息子の勇太に任せているが、忙しい時はもちろん手伝わなければならない。店で出すメニューも、今はもう、ほとんど息子が決めているが、三点だけ昔ながらの甚介が考案したものが残っている。
『甚介ラーメン』と、『甚介八宝菜』『甚介酢豚』の三点だ。だからメニューには『甚介ラーメン』『ラーメン』『甚介八宝菜』『八宝菜』『甚介酢豚』『酢豚』と、それぞれ二種類の料理名が書いてある。昔からの客の多くはもちろん、甚介の名前の付いた方を注文する。
甚介がこの場所で今の店を開いたのは昭和四十一年、二十五歳の時だった。甚介の父は復員直後から金物店に勤めていて、独立したら自分の店を開くつもりでこの土地を買ったのだが、甚介はどうしても食べ物屋さんの店を開きたかった。親としてはどうせすぐ失敗するだろうと思って、甚介がここでラーメン屋を開く事を許したのだが、意外にもタクシーの運転手などを中心に少しずつ客が付いてきた。そこでメニューも増やして昭和の終わり頃には【中華料理店・岡甚】として今の店に改装したのだった。
当時は寂しい通りだったが、今はこの街はドリーム商店街と呼ばれるようになり、福井でもいちばん元気のある商店街として賑わっている。岡甚は小さい店だが、付近には広い駐車場を持つ比較的大きな店舗が多い。
甚介はチビで、弱虫で、学校の成績も良くなかったので、父親としては自分の勤める金物店の雑用係ぐらいしか働き口が無いと思っていた。だが甚助がどうしても食べ物屋さんの店を開きたかったと言うのには理由がある。彼の母は彼が三歳のときに結核で亡くなってしまっていて、父に召集令状が来た時には田舎の遠縁の家に預けられて育てられたのだが、その家はとても貧しく、子沢山で、よそから預かった子である甚介にまで米や麦を食わせる余裕が無く、彼に与えられたのは、毎日、芋の蔓やイナゴの蒸し焼きみたいなものだけだったので、いつも、ひもじい思いをしてきたからだ。この時の飢餓体験がもとで、極端な栄養失調に陥り、チビで弱虫の子供になってしまったのである。
ラーメンと言っても作り方を誰かに習ったわけではない。自己流で考えて作り、客の反応を見て味を整えて来て、試行錯誤の後に今の味に辿りついたというわけだ。それからチャーハンを作り、焼きそばを作り、八宝菜や餃子、酢豚やエビチリなどだんだん増やして、中華料理店らしくなって来た。
息子の勇太は中学を出てから神戸の中華料理店に勤めに行き、七年ほど勤めてから家に帰って来た。そして甚介を手伝うようになって、少しずつメニューを自分の習った味付けに変えて来た。
だが初めに述べた三点だけは甚介にもこだわりがあり、客の中にも甚介の味を求めて来ていた人が多かったので残すことにしたと言うわけだ。
「お父さん、お客さんです」
と、大きなお腹を揺らして勇太の嫁のよね子が、孫たちと遊んでいた甚介を呼びに来た。店が忙しくなってきたらしい。
この家では甚介も女房のさと子も勇太も中学しか出ていないが、よね子だけは大卒だ。勇太が神戸の店に勤めていた時にアルバイトで働きに来ていて、卒業と同時に、たまたま勤めを終えて帰って来ることになった勇太にくっついてきたのだが、その時にここが気に入って、そのあとで、押しかけ女房のような形でやって来て結婚したという変わった女だった。
「こんな家のどこがいいのかな」
と聞くと、
「勇太さんもお父さんもお母さんも、皆さん優しい人だったからです。それとお店もよく流行っていて、何よりラーメンの味が素晴らしかったからです。・・・・・私、こういう店で働くことに、前から憧れていたんです」
といって嫁に来て六年目になるのだが、五歳の女の子をはじめ三歳の男の子、二歳の女の子と次々と子を産んで、今またお腹に四人目の子が出来ているのである。
二
子供たちは皆、元気いっぱいだ。店の裏の、居間とその横の小さな芝の庭を走り回っている。五歳の長女にはお姉ちゃんとしての自覚が生まれつつあって、少しは落ち着いてきているが、二歳と三歳の子は何をするか分からないので、今も洗濯ものを畳みながら、さと子が見ている。いっときも眼を離すことができない。
大きな店では無い。四人掛けのテーブルが五組とカウンターに七人、多くて二十五人ほどしか入れない店なので、家族だけで、これまでは何とかやってきた。でも子供がもう一人増えたら、やはりアルバイトを一人か二人雇わなければならないだろう。
そんなある時、店に大柄な恰幅のいい紳士がやってきた。歳は五十前後か、岡甚には時々どこからか評判を聞きつけて初めての客が来る事がある。
あまりしゃべらない客だが、初めて来たとき、甚介ラーメンを美味しそうに食べて、スープも残さず飲み込んで、ご馳走様でした、と言って帰っていった。そして三日後にまた来て、今度は甚介八宝菜、さらにそのまた三日後の今日は、甚介酢豚をライス付きで注文して美味しそうに食べ終わると、
「すみませんが社長の岡田甚介さんはいらっしゃいますか?」
と言った。甚介を社長などと呼ぶ人は珍しい。はい只今、と言ってよね子が甚介を呼びに来たというわけだ。
甚介が行くとカウンターに見慣れない客が座っていた。勇太からは
「この前から三回ほどお越しいただいているお客様です」
と言われたが見覚えは無い。するとポケットから名刺を出して
「初めてお目にかかります。私はこういう者です」
と言った。それを見て甚介はびっくりした。そこに書いてあったのは市内中心部に七年ぐらい前にオープンした超高級中華レストラン【紫禁城】の、代表取締役 服部義久という名前だった。名前は聞いた事があるが直接会うのは初めてである。同じ中華料理店といっても、紫禁城と岡甚とでは月とすっぽんほどの違いがある。
紫禁城の服部社長は七年前に、香港のペニンシュラホテルに三ヶ月ほど滞在して、そのホテル内にある有名な三ツ星レストラン【香港龍閣】へ毎日通い詰めたそうだ。そこで料理人たちにチップを弾み、自分を売りこんだ挙句に、副料理長だった伝説の女料理人の引き抜きに成功して、他の三人のシェフとともに福井市に連れてきて、この、北陸地方最大の中華レストラン【紫禁城】を開店したと言う豪腕経営者であった。巷では越前のドンとも呼ばれている有名人である。
紫禁城は五階建てで、一階だけでも百坪のホールの奥に八十人ほどのゆったりした一般用客席があり、二階三階には十人が座れる回転テーブルが二十五、総計、最大五百人を収容出来、さらに四階と五階はホテルになっていると言う大型施設だ。
今はコロナが大流行しているので二階以上の設備はほとんど稼働していないが、服部社長は親から受け継いだ潤沢な資金のおかげでビクともしない。一〜二年後にはコロナも収まるであろうと言って、従業員全員の雇用を維持して料理を作らせ、病院など、コロナ対策の最前線で頑張っているところへ無料の弁当を届けるという奉仕活動を続けていた。
三
服部社長の話は次のようなものであった。
「岡田さん、お初にお目にかかります。岡田さんのお店の評判はよく聞いています。ご承知と思いますが私の店には香港から来た料理長や設備など何でも揃っています。それに引き換え、失礼ながら私の店と比べるとずっと小さいこちらのお店ですが、お宅には私の店に無いものがあるようなので、いつもそれは何なのか、一度ぜひ、お聞きしたいと思っておりました」
甚介は驚いた。紫禁城という、この地方では類のない高級レストランを経営している大物社長だ。自分なんか鼻にも掛けない威張り腐った男だと思っていたのに、こんなに低姿勢で話しかけて来るなんて、思っていなかったからだ。
「いや、とんでもない。 私の店なんて吹けば飛ぶようなちっこい店です。おかげさんで、なんとか潰れんとやっていますが、紫禁城さんなんかとは比べようがありません。からかわんといて下さいね」
「からかうなんてとんでもない。私が言うんでなくて、お客さんが岡甚さんの事をみんな激賞しているんですよ」
「余りの評判に私も不思議に思ったものですからこの間から何回かお邪魔して、そうしてようやくその訳が分かったような気がしたものですから、こうしてお話しさせて頂いているのです。
いやぁ、私は根本的に間違っていました。金さえ出せば立派な店が出来るなどと、思いあがっていたと、今はつくづく反省しているのですよ・・・・
私の店では、例えばお客様に座って貰う椅子ひとつとっても、一脚六万円もするものを六百脚、わざわざ香港から取り寄せて使用しています。そして調理人はもちろん、一人ひとりの接客のスタッフにも言葉使いや身振り動作など完璧な指導を行ってお客様に満足して頂けるように細心の注意を払ってきたつもりです。
ですから、私の店が出来たことで、悪いが岡甚さんには間もなくお店を畳んでもらうことになるだろうと思っていたのですが、店じまいするどころか、来るお客さんが、皆、ひそひそと噂をしているのを聞くと、
≪やはり、味では岡甚さんには勝てませんなぁ≫
と言うばかりだったので、一体何が問題なのかこうして確かめにきて、ようやく納得したというわけなんです」
・・・・・・・・・・・
「それで実は、今日は、折り入ってご相談したい事があって参りました」
と言って話し始めたのは信じられないような話だった。
四
思いついたことは何でもスパっと決めて実行するのが服部氏である。甚介ラーメンの評判がいいのなら、それを自分の店でも提供できないかと考えたのである。勿論ダシの作り方は当然、企業秘密である。それを教えてくれなどとは言えない。それと、甚介ラーメンが評判のいいのは、それがこの【中華料理店・岡甚】で、甚介が目の前で調理するからでもあると言うことは服部社長もちゃんと分かっていた。
だから、紫禁城のロビーの一画を屋台風に設えて、毎日は無理でも、週に一日だけでもいいし、時間も決めて五時間ほどでもいいので、甚介に来てもらって、ラーメンだけでも提供してもらえないかと言う話だった。
甚助も勇太も、そしてよね子も、突然の話に、口をあんぐり開けて返事も出来ない有様だった。少しおいて
「いやぁ、そんな話、冗談やないんですか?ほんまにホンマなんですか?」
と何度も確かめたのだが、
「驚かせてすみません。けど私は本気なんです。それより他に私の店の信用を回復する方法は無いというのが私の結論なんです」
「条件としては、設備はすべて私の方で整えます。そして出店料などはもちろん頂きません。売り上げの中から私どもにマージンを下さいなどとも申しません」
「お店の名前も【岡甚・紫禁城店】と名乗って頂いて結構です。いやむしろ、そう名乗って頂きたいのです。宣伝が必要な時は宣伝費も私の方で負担します」
「いますぐお返事を、と言ってもそれは無理でしょうから、じっくり考えて頂いてお返事頂いても結構です」
と言って帰って行った。
「どうしよう。うまく行くやろうか? お前たちはどう思う?」
「なんか裏があるんと違うやろか?話がうますぎるし・・・騙されてこの店ごと乗っ取られるなんちゅうことにはならんやろか」
と勇太。しかしよね子は、
「私はああ見えて、あの人は結構真面目な人ではないかと思います。お父さんの味が本物やという事は間違いないし、今もコロナで頑張っている人のところに無料で弁当を届けているという話やし・・・・
店の前は通ったことがありますが、凄い立派な店やから、あんなところにうちの支店が出せるんやったら素晴らしいと思います。・・・私もこんな腹ぼてでなかったら週に一回ぐらいあそこに立ってラーメン作りたいわ」
「うん、そうやな、けどもう儂も歳やし、どうするかお前たちが決めたらええわ。もちろん店を出すって決めたら、いつも誰か一人は行ってなあかんし、この店には急いで一人か二人募集せなあかんやろな。まあ一日か二日ゆっくり考えて決めてくれんか」
岡甚は火曜日を定休日にしている。次の火曜日、三人そろって紫禁城へ見に行くことにした。出店するとしたら広いロビーのどのあたりになるのか確かめる必要もあったからだ。
名刺に書いてあった携帯番号を呼び出してそのことを伝えると、料理長とフロアマネージャーの二人を従えて服部社長が玄関先で待っていた。中国人女性の料理長は思ったより若く、三十代後半と思われた。そういえば、前に一度甚助ラーメンを食べに来たことがあった人だと勇太は思い出した。その時は中国人だとは知らずに応対したので、まさか紫禁城の料理長だとは気がつかなかったのである。
服部社長が
「シャオリン!名刺を出しなさい!」
と言ったので料理長の名前がシャオリンだという事が分かったのだが、よく見るとそこには
〚株式会社紫禁城 総料理長・服部小鈴〛となっていた。
小鈴と書いてシャオリンと呼ぶらしい。それと、この時初めて彼女が服部社長の奥さんであることも知った。
「いや実はここへ岡甚さんの店を出したらどうかと言うのは、最初はこのシャオリンから出た話だったのですよ。私もマネージャーも、初めは、ええっ、と思ったのですが、よくよく話を聞くと、なるほど岡甚さんに出店して頂ければ、これまでうちと岡甚さんが対立関係にあると思って遠慮していたお客さんが、これからは堂々と、ここで岡甚ラーメン、を注文することも出来るし、ラーメンや八宝菜などでなく、うちにしか出せない本格中華を食べるのも、今まで敷居が高いと思っていたお客さんが、気安く注文して頂けるのではないかという事に気がついたという訳なんですよ」
「そしてもちろん、それが岡甚さんにとっても良い宣伝になるのではないかと……」
と言われたが甚助としては、
「そやけどうちのラーメンなんて、特別な材料を使っているわけでもないし、真似しようと思えば簡単に出来てしまうんじゃぁないですかねぇ」
「それは確かに、私だってプロですからスープを一口飲んだだけでどういう材料を使ってどうやって煮込んだのかは大体わかります。真似をしようと思えば出来ると思います。ですけどお客さんはそれでは満足しない筈です。お客さんは、それを甚助さんが精魂込めて作ったことを知っていて、甚助さんや勇太さんが目の前で調理して下さるから、おいしいと言って食べて下さると思うんですよ」
「そうです。シャオリンさんの言う通りです。私も勇太さんのところへお嫁に来た時からそういう風に思てました」
「そうか、分かりました。服部社長、一旦帰ってから前向きに検討します」
と言って引き上げてきた。
五
これでもう、勇太にもここへ出店することが悪い話ではないと思えるようになった。あとは人の問題だ。本店の営業に支障が出ることになってはいけない。服部社長からは週に一日だけでもと言われたが出店するからにはそういう訳には行かないだろう。勇太はむやみに本店を離れる訳には行かないし、甚助はもう歳なので毎日となると体がもたない。しかもよね子はいつ身二つになるか分からない体なので……
そこで甚助の考えた方法は、
「どうやろ、火曜日は定休日やから勇太に行ってもらうとして、儂が土曜日と水曜日に行くことにしよう。そしてあとの四日間も休みにするわけにいかんから、紫禁城からの出向という事で一人寄越して貰って、麺とスープは儂らが用意して、ゆで方や盛り付けはそっくりそのまま教えてやって、そうすれば何とかやって行けるのと違うやろか」
と言うものであった。
「ただし本店は人手不足を補うため、早急にアルバイトを募集することになるが、それが間に合わなければ紫禁城から儂らの店に手伝いに来てもろうて……」
紫禁城はコロナのお陰で、今は大幅に人手が余っている筈である。だからこの案は服部社長も賛成してくれるのではないかと思ったので早速電話をすると、
「ああ、それはいい考えですね、確かに私んところは、人は余ってますから何人でもお手伝いに行かせてもらいます」
という事で話はトントンと進み、間もなく甚助の意向を汲みながら屋台の工事を始めることになった。紫禁城は正面玄関を入って左側にトイレとエレベーターと階段がある。右側には壁一面に大きな紫禁城の絵が懸けてあってスポットライトで照らされていたのだが、絵の位置を少し上げてその前に屋台を設えることになった。
お客さんは、初めは一体何が始まるのかと訝っていたのだがそこに岡甚の支店が出来ると聞かされて誰もが、あっと驚いたものである。しかもあの岡甚の名物おやじが土曜日と水曜日には自ら出張ってくるというのだから町中が大騒ぎになった。
屋台と言っても簡単なものである。給排水設備の工事だけはちょっと手間取ったが、一か月もしないうちに、開店となった。岡甚本店の助っ人として紫禁城から出向してきたのは斉藤と吉村の二人だ。このうち斉藤と言うのは、調理の専門家ではなく、大学の経営学部を卒業して紫禁城の経営幹部として勤めていた男だが、話を聞いて、自分から志願して岡甚にやって来たそうである。後述するが、斉藤にはある計画があった。
そしてもう一人は紫禁城の屋台で甚助たちが来ない日に屋台でお客さんに応対することになった浦本と言う男だ。開店に先立ってこの三人には調理の手順と盛り付けを教えた。紫禁城の屋台で提供するのは甚助ラーメンの一品だけなので至って簡単だ。
そして間もなく岡甚・紫禁城店はオープンとなった。岡甚本店の常連客も一度は紫禁城店にやって来た。その中には紫禁城は初めてという人も多く、店の中を見て回ってはその豪華な内装に感心していた。何かの記念の食事会などがあるときには利用する場合もあるだろう。服部社長が予想した通り、紫禁城にとってもこれは客層を広げることに役立つと思われた。
甚助や勇太がラーメンを作る日も、浦本が作る日も、麺もスープも盛り付けも、調理法も全く同じなのだが、客のほとんどは何故か甚助や勇太のいる日の方がおいしいと言っていた。
シャオリンや服部社長までが味を比べてみて、やはり予想した通りであったと感心するのだが、これが後々の岡甚の発展のヒントとなるのであった。
岡甚本店を手伝うことになった斉藤にはある計画があった。しばらく経って勇太に
「店長、実はご相談があります」
「何でしょうか」
「私を紫禁城からの出向でなく、岡甚さんの社員として雇っていただけませんか」
「えっ、なんで? うちはそんなに給料出されへんけど」
「それはかまいません。売り上げが増えてきて儲かるようになったら賃上げも考えて貰えばいいです。
私は確かに紫禁城では給料は沢山貰うてましたけど、会社としては、別に私がいてもいなくても一緒で、働き甲斐のある職場では無かったんですよ。でも、この店なら経営学で学んだ知識を思う存分役立てると思うんです。きっと、会社を大きくして見せます。今はこちらの本店と、紫禁城店の二店舗だけですが三店舗目、四店舗目と増やして行ってすべて黒字経営に持っていける自信があります。
そしてこのことは服部社長にもお話しして了解を貰っています」
「なるほど、そうまで言い切ってしまうからには何か秘策があるんやろうな。分かりました。おやじにも話して異存がなければうちへ来てもらいましょうか」
六
晴れて岡甚の正社員となった斉藤は、店の暇な時には街へ出て行って三店舗目の出店候補地を見て回った。決して慌てることは無く、一定の条件が揃ったところでなければ出店するつもりは無かった。 そして一か月過ぎた頃にいくつかの候補地のうち、福井市南西部の幹線道路沿いにある、もと、メガネ全国チェーンの店舗だったところが、場所も分かりやすく、本店や紫禁城店とは距離もあって商圏が重なることも無く、共有駐車場も広く、ちょうどいい広さの店舗だったので勇太と甚助に提案したのだが、もう二人とも斉藤の判断に口を挟むつもりは無く、すぐに五年間の賃貸契約となった。家賃は少し高めの、月に十四万円だが、開店に必要な厨房工事費は家主が負担してくれることになったからである。五年後の契約更新時には工事費の償却も終わっているので家賃の値下げ交渉も出来る筈だ。
入居日を厨房工事が終了する二か月後と定め、スタッフの募集と訓練が始まった。
そして三店舗目の岡甚が誕生した。この時から【中華料理・岡甚】ではなくて【岡甚ラーメン】と、より親しみやすい名前に変え、客の回転数を上げるためメニューも絞り込んだ。すべて斉藤の作戦だ。
だが一番の彼の作戦は、店に入ってすぐ眼に付くところに、甚助の顔の大きなイラスト画を飾ったことだ。これによって甚助本人がいなくても、客は甚助と対面しながらラーメンを食べている気分になる、と言うのが、シャオリンや服部社長の話からヒントを得て編み出した斉藤の必勝の秘策だった。
この店がきっかけになり次々と店舗を増やし、やがて勇太の息子、甚太が三代目社長となるころには日本海側最大のラーメン店チェーンとなっているとは、まさかチビで弱虫だった甚助には想像もできない事であった。
了
執筆の狙い
商店街シリーズはこれで1旦終わります。
次回からは、何か話題性のある作品を投稿したいと思っています。
引き続きご指導、よろしくお願いします。