正しい怒り方 ー電車にてー[約千字]
日差しが明るい山手線の車内。まばらな乗客。ドアの脇に立つ女性。その横の座席に座る一組の男女。
佐奈江はドアと座席の間のスペースで、しっかりと手摺を握り、座席を背にして立っていた。
佐奈江は苛立っていた。
「帰りに池袋によろうぜ。チェックしたいアニメグッズがあるんだよ」
「うん。いいよ」
ひとつ前の駅から、背後の席に座った男女が、恐ろしく大きな声で会話をしていた。正確には佐奈江のすぐうしろに座った男子だけが大声だった。
佐奈江の頭の中で、いろいろな想像が騒ぎ立てる。
こんな平日の昼間に学生さん? カップルで遊びに行くの? こっちは仕事なの。会社に向かっているの。相手の女の子は普通に話しているのに、なぜあなたはそんな大声なの? 普通の声で話して。どうにかなりそうなの。いい加減にして、もうやめて……。
「だからさあ、この前の回のオープニングはさあ――」
運の悪いことに男の方はおしゃべりだった。もはや佐奈江は気が変になりそうで、とうとうありったけの声で叫んだ。
「静かにして!」
しばらくの間、車内はゴーという走行音だけになった。
「すみません」
雄太は、たいして人もいない静かな車内で、突然起こった怒鳴り声に驚いて、声のした方にそっと顔を向け、声の主であろう背中に対して、とにかく謝った。
その顔をゆっくりと、隣に座ってきょとんとしている美穂に戻すと、苦笑いした。が、その表情が悔やんだものに変わり、「最初からこれを使えば良かった」とつぶやいた。そして、ズボンのポケットからスマホを取り出し、なにかを入力しはじめる。
打ち終わって差し出されたスマホを、美穂が覗くと、『うるさいって怒られた😛』と、メモアプリに書かれていた。
すぐに、「ごめんね。あたしのせいで」と、美穂はすまなそうな顔をした。雄太は苦笑いをしながら、顔の前で臭いでも散らすように手を振り、そうじゃない、と意思表示をした。
雄太は、ただでさえ補聴器が壊れて心細いであろう美穂に、努めて明るく振る舞おうとしていた。
「次は巣鴨、巣鴨――」
ナーバスになっていた佐奈江は、車内アナウンスが聞こえてほっとした。
そのまま電車は速度を落としはじめたので、降りる態勢を整える。片手は手摺をつかんだままでドアの前に進み、もう片方の手で白杖をしっかりと握る。
この駅どころか、このドア以外から降りたことのない、そして耳だけが頼りの佐奈江にとって、万が一にもアナウンスを聞き損じて、乗り過ごすような事態はあってはならないことだった。
執筆の狙い
日常的に人に怒りを覚える事は誰にでもあるものですが、一歩踏み込んでみると不適当な怒りというのもあるという事を表現してみようと思いました。