冬の夜の線香花火
新宿駅から歩いて十五分程のところに、僕が勤めている音楽教室はある。季節は冬で冷たい風が吹いていた。昼の十三時で、スーツを着た人や学生が通り過ぎて行く。建物はビルの中にあり、鉄の階段を上ってドアを開ける。
「おはようございます」
事務の人に挨拶をすると、デスクにある資料を手に教室へ向かう。教室のドアを開けると五人の生徒が椅子に座っていた。若い学生もいれば、僕より年上の人もいた。僕はここで作曲を教えている。
音楽大学の作曲科を出た後に、この仕事をしていた。大学生の頃はバンドを組んでいたのだが、今はもう解散していて、一人で作曲を行い、YouTubeに投稿していた。一万人以上の登録者がいて、もう少し頑張ればインディーズの事務所と契約できそうだった。年齢は二十七歳で、大学を出てから四年が経った。
「今日は伴奏について説明します」
僕はそう言って、教室にあるキーボードを弾いた。生徒は皆黙って、ノートにメモをしている。僕はメロディを作り、コードに沿って伴奏を付け加えた。
「質問なのですが」
四十代くらいの女性の生徒が言った。
「何ですか?」
「コードっていうのがいまいちわからないんですよね」
「今は、メロディに合った音だと理解していればいいと思います。とにかくコードを使えば、わかるようになりますよ」
僕は講義を終えると、生徒が作った曲を順番に聴いていった。楽譜を持ってくる人もいれば、DTMで実際に音源を作ってきた人もいた。僕は彼らにできるだけ誠実にアドバイスをした。
夜の九時まで、そんなことを繰り返した。生徒は変わっていき、中には会社員の人もいた。プロを目指している人もいたし、音楽が好きで趣味でやっている人もいた。
教室を後にすると、辺りは暗くなっている。僕はイヤホンで、YouTubeの曲を聴いていた。昔から音楽が好きだった。いつかミュージシャンになることが夢だったが、まだまだ道は遠いようだ。
スマートフォンを開くと、恋人の詩織から連絡が来ていた。今日は飲み会があるから、どこかで夕食を食べてきて、とのことだった。
僕はチェーン店の回転寿司に入った。店の中は何人か待っている人がいたので、椅子に座って順番を待った。番号が呼ばれるとカウンターの席に座り、タッチパネルで寿司とビールを注文した。漠然とした将来に少し不安を感じる。詩織ともいつかは結婚したいと思っていたが、そうしたら今の仕事を変えなくてはならないだろう。ジョッキのビールを飲みながら、鮪の寿司を醤油に付けて、口に運んだ。
住んでいるマンションの部屋のドアを開けると、電気が付いていた。僕は帰りに家電量販店で新しい音楽ソフトを見ていた。だから今は夜遅かった。詩織はスウェットを着て、廊下に立っていた。
「話したいことがあるんだ」と彼女は言った。
「何?」
「実は実家に帰ろうと思う」
彼女の目は少し悲しげだった。部屋の中はやけに静かで冷蔵庫の稼働する音が聞こえた。
「どうして?」
「お母さんが心筋梗塞を起こして倒れたの。だから、退院するまで、お見舞いに行って、実家で家事をすることにした」
「そっか」
「来週の月曜日には実家に帰る予定だから」
「わかった」
僕はそれを聞くと、風呂場へ向かった。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。お湯が冷えた体を温めていった。僕は一度詩織の両親に会ったことがある。彼女には年下の妹が二人いた。両親はどちらも優しい人だった。
湯船に浸かりながら、壁をじっと眺めていた。詩織は都内の会計事務所で働いている。彼女も僕と同じ大学の作曲科だった。今でも時々、曲を作ったり、ピアノを弾いたりしているが、彼女としてはもう作曲科になることは諦めているらしい。僕も大学に入った頃は現代音楽の作曲家を志していたが、バンドをやることになって、ミュージシャンの道に方向転換をした。
風呂から出ると、バスタオルで体を拭き、着替えのジャージを着た。冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出すと、それを飲んだ。
詩織はソファに座り、スマートフォンの画面をじっと見ている。
「何かあったの?」と僕は聞いた。
「ううん。何でもない」
彼女はそう言ったが、その目はどこか深刻そうだった。僕はそろそろ寝ようと思い、洗面台へ行って歯を磨いた。いつの間にか僕は大人になっていたようだ。鏡に映る自分は、学生の頃とはずいぶん顔付きが変わっていた。頭の中にメロディが不意に浮かぶ。時々こういうことがある。作曲をしていると、何かをしている時も、音楽について考えていることが多い。
僕は寝室に行き、鼻歌を録音した。さっき浮かんだメロディだった。詩織は相変わらず、ソファに座り、スマートフォンで誰かと連絡を取っているようだ。電気を消して目を閉じると、酒の酔いを感じた。僕は意識を視界に集中し、頭の中で数を数えた。そうすると割と早く眠ることができる。頭の中には様々なことが浮かぶ。僕はその時、詩織の両親のことを思い出した。果たして母親は大丈夫なのだろうか。
次の週、僕らは東京駅にいた。今日は平日だったが、僕は職場に電話をして仕事を休んだ。詩織の母親は亡くなった。病室で発作を起こしたらしい。詩織の目は赤く腫れていた。今日は葬式の日だった。
「どうしてこんなに生きるのは大変なんだろう」
誰に言うわけではなく、詩織はそう呟いた。新幹線がやってくると、僕は切符を見て指定席に座った。詩織は窓際に座り、ぼんやりと窓の外を見ていた。僕は彼女にかける言葉が思い浮かばなかった。僕の両親はまだ生きていたし、大切な人を失うという感覚がはっきりしない。彼女と母親の間にどんな思い出があったのだろうか。
彼女の実家は奈良にある。新幹線で京都駅まで行って、そこから在来線に乗る予定だった。僕は車内販売で弁当を買ったが、詩織はコーヒーだけを注文した。彼女は黙ったまま、時折涙を流し、窓の外に目を向けていた。
しばらくの間、僕は席にもたれかかり、目を閉じていた。詩織の母親のことを思い出そうとしたが、二年前のことだったので、多くのことは忘れていた。でもその時感じたのは、僕のことを受け入れてくれているという感覚だった。昨日の夜はいろいろあって、眠りについたのが遅かった。目を閉じているうちに僕は眠った。
詩織が僕の肩を揺すったので、僕は目覚めた。新幹線は京都駅まで後五分だというアナウンスが流れていた。京都駅に着くと、僕らは降りた。ホームには人がいたが、どこか東京とは違う雰囲気だ。
「行こうか」と僕は言った。
「うん」
僕らは在来線に乗って、奈良の彼女の実家まで向かった。電車は各駅停車だったので、駅に着くたびに人が入れ替わっていった。僕らは旅行の時は、他愛もない話をよくしたが、彼女はあまり話したくないようだった。電車を一回乗り換えて、彼女の実家の最寄り駅まで着いた。外に出ると広いロータリーがあって、タクシーやバスが止まっていた。彼女と僕は駅から歩いて行ったが、辺りは主に住宅があって、大きな公園があり、遠くには山が連なっていた。彼女の実家は駅から歩いて十分程のところにあった。閑静な住宅街の中にある一軒家だ。前に来たことがあったので、僕は少し懐かしさを感じた。でも今は彼女の母親が亡くなったこともあり少し気まずかった。
「未だに信じられないんだよね」
家の門の前で彼女はそう言った。
「人生は何があるかわからないよ」
表札には彼女の名前の苗字がある。僕はインターホンを押した。
家のドアが開いた。中から出てきたのは詩織の父親だった。喪服を着て、眼鏡をかけている。
「わざわざ悪いね」
「この度はご愁傷さまです」と僕は言った。
「葬儀は午後からなんだ」
僕は玄関で靴を脱いだ。詩織は僕の後ろから入ってきた。彼女は虚ろな目をして、ずいぶん憔悴しているようだった。リビングへ行くと、テーブルの上に弁当が並んでいる。彼女の妹がソファに座ってテレビを見ていた。テレビでは天気予報がやっていた。僕は彼女の妹に挨拶した。
僕らがテーブルに座ると、もう一人の妹が降りてきた。僕はなんだか気まずかったが、挨拶をした。さっき新幹線で弁当を食べたし、こんな日だったので、食欲はあまりなかったが、用意された弁当を食べた。しばらくの間、無言が続いた。僕はなんだか、この場所にいるのが場違いのような気がした。
食事を終えると、しばらく五人でテレビをただ眺めていた。テレビでは昔、放送されたドラマがやっていた。
時間になると、タクシーを呼んで、僕らは葬儀場に向かった。窓の外には奈良の穏やかな街並みが続いている。今日は曇り空で、辺りは薄暗く、まるで僕の心境のようだった。
葬儀場は、実家から車で三十分ほどのところにあった。周りには畑が広がっている。大きな建物の中に入り、葬儀会社の人に挨拶をした。詩織の母親の棺桶があり、たくさんの花が飾られていた。葬儀が始まるまでまだ時間はあるので、僕らは待っていた。時間はゆっくりと進んでいく。僕らの中で話をする人はいなかった。なんとなく、彼女の母親がいないだけで、彼女の家族はバランスを失っているような気がした。以前、彼女の家を訪れた時とは雰囲気が変わっている。
葬儀が始まる時間が近づくと、彼女の母親の親戚や知り合いがやってきた。彼女の家族は彼らに丁寧に挨拶をしていた。葬儀が始まると僧侶がお経をあげた。僕は涙を流しながら、遺影を眺めていた。
読経が終わると、別れの挨拶があり、棺桶が開けられた。花を入れる時、彼女の母親の顔を見た。思ったよりもずっと穏やかな顔をしていた。僕は彼女の母親と出会った当時のことを思い出していた。
それから火葬場へ向かい、遺体は焼かれた。僕はただその様子を眺めていた。時々、詩織のことを見ていたのだが、彼女はただ沈黙しているだけだった。葬儀が終わると、僕らは実家へ向かった。明日は仕事があるので、僕らは帰ることになっている。僕は家族に挨拶をして、詩織と一緒に駅へ向かって歩いた。
新幹線に乗って、夜になった風景を眺めていた。詩織は僕の隣の席に座り、目を閉じている。街並みは移り変わっていく。住宅の窓の明かりが見えては消えていく。新幹線は東京駅に向かって、進んでいく。僕は窓際の席に座り、ただぼんやりとしていた。
東京駅に着くと、バッグを持って、駅の中を歩いていく。いろいろな店があった。
「夕飯どうする?」と僕は聞いた。
「どこかで食べていこうよ」
僕らは東京駅の中にある、サンドイッチのレストランに入った。店内は茶色の壁で、ピアノのBGMが流れている。幸い席が空いていたので、そこに座った。サンドイッチとコーヒーを注文した。しばらくすると、カップに入ったホットコーヒーが運ばれてきた。
「なんだか何かを言いたいんだけど、それが言葉にならないんだよね」
彼女はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
「今回のことは突然だったから、気持ちの整理ができていないんだよ。時間が経てば感じ方も変わってくるかもしれない」
店員は皿に乗ったサンドイッチを二人分運んできた。チーズとトマトとベーコンが挟んであった。僕はそれを一つ口に運ぶ。酸味があるソースでおいしかった。
「お母さんとはさ、昔から仲が良かったんだ。お父さんは今日会ったみたいに寡黙なタイプだからさ。私は何かあると、いつもお母さんに相談していたの。だから感謝していたし、働き始めてからはいろいろと恩返しがしたかった」
僕らはサンドイッチを食べ進めた。僕の脳裏に自分の両親の顔が浮かんだ。もし今、亡くなってしまったら何を思うのだろう。
店で食事を終えると、外に出た。そこから電車に乗って、住んでいるマンションまで向かった。家の最寄り駅に着くと、外の風は冷たくなっていた。手足が冷えていくのを感じる。僕の胸の中はナイフで刺されたような感覚がしている。もう二度と彼女の母親と会うことはないのだ。そう考えると、人生は思っているよりも奇妙なものに感じた。頭では理解することができても感情が追い付いてこない。
駅前の商店街には多くの人がいた。僕は彼らを見ても特に何も思わないが、関係ができるとそういうわけにはいかないのだろう。詩織の母親の面影がぼんやりと浮かんでくる。僕は果たして、言うべきことを言えたのだろうか。今となっては全てが混乱して、自分でも何が正しいのかわからなくなっていた。
冬の夜の道は街灯の光が照らしている。アスファルトの上をただ歩いていった。周りには住宅が並んでいて、窓の明かりが付いている。
マンションのドアを開けると、中に入った。部屋の電気を付けて、バッグを床に置いた。詩織は玄関に立ったまま、こちらをじっと見ていた。その目は静寂に包まれているかのようだった。
「どうしたの?」と僕は聞いた。
「実家の部屋に線香花火があったの。河原でやらない?」
詩織はバッグから線香花火の袋を取り出した。僕はテーブルの上に置いてあったライターを持った。二人でマンションの階段を降りていく。空には星が幾つか瞬いていた。雲が風に乗って流れていく。
河原までの道を僕らは歩いた。詩織は僕の隣を歩き、線香花火の袋を握りしめている。河原に着くと、川が流れている。それはどこか僕に死を連想させた。辺りには他に人はいなかった。今は深夜で多くの人は寝ているのかもしれない。
「私の人生は楽ではなかったんだ」
そう言って袋から一本取り出して、ライターで火をつけた。バチバチと火種が弾け、暗闇の中を照らしている。僅かに火薬の匂いがした。
「何かあったの?」
「いろいろとね。でもそういう時にお母さんは話を聞いてくれた。今まではそのことに感謝もしなかったからさ」
僕も線香花火に火をつけた。なんだか切ない気持ちになる。詩織の顔が線香花火の火に照らされている。僕は改めて自分の両親に感謝しなければならないと感じた。
「僕も何か伝えておくべきだったんじゃないかと思ったんだ。なんだか今回のことで混乱していてさ」
僕は川を眺めた。きっと全ては移り変わっていくのだろう。僕らはこの有限の人生の中で何ができるのだろうか。
「これは最後のお葬式だね」
詩織の線香花火の火は静かに消えた。僕らは袋にある線香花火に一本一本、火をつけていった。僕は今になって、ようやく彼女の母親の死を受け入れているような気がした。自然と目には涙が滲んだ。
「僕の両親のことなんだけどさ。未だにわからないんだ」
「いつかわかる日が来るかもしれないよ」
袋の中にあった線香花火を全て終えると、僕らは燃えたものを全て袋の中に入れた。風は相変わらず冷たかった。川の水面は静かに流れていく。詩織の顔を見ると、目には涙が滲んでいたが少しだけ微笑んでいた。ただ夜の時間は過ぎていく。僕らは家に向かって歩き始めた。彼女は鼻歌で「上を向いて歩こう」を歌っていた。通りには誰も歩いていない。僕はその時、出会った頃に戻ったような気がしていた。詩織とは当時から様々なことを話してきた。僕は彼女が先へ進んでいくのを追いかけていった。
執筆の狙い
文章力の向上を目的として思いつくままに書きました。純文学を意識してますが、大衆文学の要素も加えました。