恐竜好きの少年
私が恐竜に興味を持ったのは五歳の頃であった。そんな気がする。なんとなく覚えている初めての母の顔の記憶がそれくらいで、母の右手にはステゴザウルスがあったように思える。しかし今でも夢に見るように、母の胎内の蠢きをただ聞いていたよどみの中で、恐竜のことを考えていたようにも感じる。ともかく、私は恐竜とともに人生を歩み始めたことは確かであった。
その日は初夏の乾いた日差しと、春末の花蜜を感じさせる匂いを漂わせていた。終業式を終え家に帰ると、すぐさま私はランドセルを玄関に放って「いってきます!」と木づくりの家に元気な声を染み渡らせた。私の足は図書館へ向かった。この頃ずっと、恐竜が絶滅した理由だけがなんとも納得いかず気がかりであった。どうして隕石がぶつかっただけで悉く死んでしまうのだろう。私にとって恐竜は兄弟みたいなもので、当然のように身近にはいたものの、特段のめり込んでいるわけでもなく、ただ私の骨組みとなっているのだった。であるから、長らく絶滅の原因が腑に落ちていなかったのだが、学校の授業や放課後のクラブ、家ではゲームで時間を費やしていたために、なんとなく頭の隅に歯がゆく疑念が挟まっているままであったのだ。しかしやっと夏休みに入り、いい機会だとついに私はこの謎を解明することにしたのだった。入って右手の奥から三番目にある棚、そこに自然科学のコーナーはあった。棚には恐竜と書かれた仕切りがあり、そこからはびっしりと恐竜に関する本が並べてあった。「恐竜の種類、生態、進化……あった、絶滅!」恐竜がなぜ滅びたのか、分かりそうな本を見つけ私は嬉々として手を伸ばした。すると、もう一つの手が伸びてきて、私の右手に触れた。その手の白さとしなやかさ、そして香しい不思議な匂いを私は今でも忘れることは出来ない。本の匂いにも思えたが、もっと甘い匂いでもあり、例えば初めてのタバコのように、慣れない青春の匂いであったとも思う。ふと隣を見るとそこには少女がいた。鮮やかな赤い色のハイビスカスが縫われた白いワンピースを着ていて、なんとも夏の少女という感じで、子供ながら驚きとなにがしの記憶と重ね合わせるようにどこかで見たような懐かしさを感じていた。
「ごめん、君もその本を借りたいんだね。譲るよ」
私は自身をなんて大人らしいのであろうと矜持に浸かってはいたが、それ以上に彼女の麗に心を打たれていたのだ。
「そんなの悪いよ。一緒に読もう?」
私は少しばかり小僧の顔をしたが、すぐさま先ほどの大人らしい表情に顔をぐにゃりと変形させてみせた。私たちは傍にあった席に並んで座り、2人の間に本を広げて読み始めた。彼女の自然な息づかいは、たじろいで固まっている私を馬鹿にしているように思えた。彼女のまつ毛は長く、きれいに上空に向かって伸びていて、彼女がページをめくるたびにはたはたと蝶のように瞬く姿もまた、顔を赤くしている私をけなしているようにさえ思えたのだ。彼女の美しさは、いま思い返しても、あどけなさの中に確かにきらめく挑発的な美があったと言える。いくつか本の内容を目で追ってはいたものの、内容が頭に入ってくることはなかった。
それから、私と彼女はたびたび図書館で会う約束をして、一緒に恐竜の本を読みふけた。彼女はユイといい、私と同じく恐竜好きの十一歳であった。彼女に会えたことに、私は私のこれまでを賞賛した。彼女と出会うために私は恐竜のことを好きになって、絶滅の秘密を不思議に思ったのだと。すっかり私はその謎の究明のことなど忘れ、彼女のことばかり四六時中頭を奪われていた。
町のはずれにある裏山へいこうと提案したのはユイであった。その付近から数年前に恐竜の化石が見つかったらしい。いまだに裏山の区域は研究のため立ち入り禁止だそうなのだが、彼女はどうしても現場を自分の目で確かめたいと言ったのだ。私もまったく興味ひかれる提案だったためにすぐさま首を縦に振ったのだが、いま思えば十一歳の子供が二人で山に入るというのは危険極まりない行為であることは明白であった。しかしながら、好奇心に駆られ私たちは裏山への探検を決行したのである。しばらく山に向かって誰かの庭のように思われる竹藪を進み、私は探検への期待を膨らませていった。昼の強い日光が竹や笹のあいだから漏れ出でて、ユイの小さな体操ジャージをここかしこに照らし、燦然と彼女のたくましさを演出していた。傾斜が強くなるとユイはあたりを見渡して、私を見て、そうして「大丈夫?」と声をかけるのである。そんな様子であった彼女とは対照的に私はもう息を切らし足を震わせ、彼女の小さな背中を視界の隅に、地面に敷き詰められた枯れ葉ばかりを見つめ歩いていた。であるからこそ、彼女の異変に気付くことはできなかった。山に入り始めてもう何時間たったのかわからないが、日は傾きあたりは朱色に包まれていた頃、ユイは倒れた。その日ユイは、朝から高熱を出していたらしい。彼女は子供ながら自身の異変には気づいていたものの、熱は冒険への興奮によるもので、すぐに治るだろうと思っていたそうだ。
激怒したのはユイの母であった。ユイがなんと母に伝えたかはわからないが、私がユイをたぶらかし山に誘ったのだと私の母に玄関先で怒鳴っていたのを覚えている。ユイのことを疑うことは決してなかったが、私には布団にくるまって後悔と自分の情けなさに目をつむることしかできなかった。私は瞼のなかで、きっとユイは私のことをかばってくれて、ユイの母が一方的な勘違いで怒っているのだとか、いやユイが倒れる前に私にはできることがあったのではないかなど思案を巡らしたが、結局私に下されたのは「ユイちゃんにはもう会わないこと」という穏やかな口調で発せられた母の一言であった。それでも何度かユイに会おうとも考えたが、母のあのときの穏やかさには、私への信頼があったことを感じていたために、母を悲しませることなどできずいよいよユイに会いたいなど言えなくなってしまうのだった。
それから一週間ほどたった頃だろうか。ユイが死んだという話を聞いた。夜中、両親が神妙な様子で話しているところを聞いてしまったのだ。私の恋心が引き裂かれる音がして、その音がたまらなく苦痛で、私は夜遅い時間であったにも関わらず外へ走り抜けた。靴も履かずただ走り、懸命に腕を振って、どこか遠くへ行きたいと願った。どこへ行こうとしたのか、私には分からなかったがそれは決して過去なんかではなく、ただ自身の焦燥からの、布団にくるまって激怒の声を聞いていた私からの、といった漠然とした逃走であったことは間違いない。まともな考えなど持つ余裕もなく、私はただ走っていたのだ。アスファルトの道から河川に抜けると、そこかしこの鋭利な石で私の足には痛烈な痛みが与えられた。ところがユイの味わった痛みはこの程度ではなかったはずだと、私は自分をもっと粗末に扱おうとして、そのまま川に身を投げた。ブクブクと息が漏れて、冷たさと怠さのなか、私はもう動く気力も失くしていた。
そのあとの閑散とした残りかすみたいな夏休みは、まったく億劫の塊であった。隕石—なるほど生物はこれほどまで脆かったのかと自覚したのだ。朝起きるとしばらく天井を見つめることから一日は始まった。その木板模様はずっと眺めていると、ユイの白い顔が浮かび上がるようで、映された顔はあの頃と同じく私をいざなうように挑発するのであった。思えばユイは十一歳にしてすでに成人の魅力を内在していた。はかなくも強く、そして優しい心は、決して例えば年頃の女が醸し出すような猥褻で下品な臭いではなく、ユイの骨や肉、白さは織り込まれた彫刻のような上品な匂いであり、私の心の奥底を刺激していたのだ。布団から出てもしばらく上の空で、朝食の時間などとっくに過ぎて、私が食事をする頃には母がおやつにと焼き菓子の匂いを家中に漂わせるそんな時間であった。母も私を見てひどく心配していたに違いないが、母はその穏やかさで、叱ることもなく無理に励ますこともなく、ただリビングに降りてきた私に静かに食事を用意してくれたのである。
「キーンコーンカーンコーン」
半ば夢のように酩酊した視界がはっきりとして、授業が終了したことに気づいた。みなそれぞれ背を伸ばしたり今日の給食の内容について話したりしている。あれからもう六年たっただろうか。私はいま高校で運動部に入って活動している。小さい頃は科学部に入って古生物学を専攻するつもりであったが、ユイの一件以降、恐竜に触れると彼女のことを思い出すようでずっと恐竜を避け続けてきたのだ。私は長らく、恋を忘れていた。どこかに忘れてきてしまったのだが、そこへはもういけないことも知っていたために、ただ私はその場所を、何年も遠くからぼんやりと力のない目で眺めているだけであった。最近はユイのことを思い描くことも少なくなってきたことに寂しさを感じながら、私は何気なく図書室に向かった。久々に思い出した彼女の余韻に、本に紛れていれば浸れるように思えたのだ。そうだ、こんな風に恐竜コーナーをいつも眺めていて……恐竜絶滅、それが私とユイを引き合わせてくれた。かつての本と同じものが、そこにはあった。当時読んだ内容は緊張のあまり全く覚えていなかったのだが、本の背表紙だけはユイのあの白い手とともに鮮明に記憶されていた。本を広げると、懐かしい匂いがした。ユイの匂いのようにも思えたし、恐竜に素直に向き合っていたあの頃の家の匂いにも思えた。気づけば十一歳の私が憑依したように没頭して読み進めていた。そうして恐竜絶滅の本当の原因は、隕石ではなく隕石の落下によって巻き起こされた粉塵であり、それ故の太陽光の遮断であることを知った。私はこの真相になるほどと納得する以上に、ユイへの思いと重ね合わせた。なんとなく果ての見えない薄霧のなかで、どこへ行こうというわけでもなく茫然と立ち尽くして暮らした日々とともに。
その日は示唆的な諦念と回顧の狭間に揺られて、給食が喉を通らなかった。家に帰ってからも気の晴れない気持ちであり、私は次第に、いまなにを考えているのか私にも分からなくなっていた。夕飯に呼ばれて下に降りようとしたとき、二階の窓の向こうにふと裏山が見えた。あの裏山が、当時のユイを思い起こさせた。幻ではあるが、過去を思い出すあのよくあるモノクロに映ったユイではなく、生きたユイであった。高熱で喘いでいただろう彼女の姿が明確に想像されて、その痛ましい気持ちを裏山の木々のざわめきが、私に迫っているように思えた。「ユイを忘れない。」そんな無責任な言葉を私は裏山に投げかけた。
執筆の狙い
約4000字です。
前回の反省を生かし以下の事項を意識しました。
・ストーリー性を持たせること
(プロットを作って書き始めました。)
・推敲段階を踏むこと
(書いた時間と同等あるいはそれ以上で精査しました。)
物語としては
人の悲しみとその記憶の過程を恐竜の絶滅の仕方になぞらえたものです。