演じる
恋に必要なものは演技力だと私は思っている。でも、演じ続けるのは負担で、私の心がいつまでも耐えられるか不安だった。彼との出会いは十一月の下旬。
趣味の一人カラオケに行こうと街角を歩いていた。木枯らしが吹き抜け、寒さで身体が震える。手袋をしている手で、なんとなくカシミアのストールを触った。首回りがとげでも刺さっているかの如く痛かった。カシミアといっても安物のせいだろう。二千九百八十円の品だ。高級素材に憧れて買ったけど、失敗したなと思う。
来年は素材にこだわらず肌触りの良いものを買おう。今はあまりお金に余裕がない。
信号を渡り、ミスドの前を通った時、横から若い男の声がした。
「ヘイ、ベイビー、一緒にベイビー作らない?」
これはナンパというやつだろうか? 初めて経験した。
声をした方を見る。そこには、緑の宝石のネックレスを着けていて、青い宝石の指輪を嵌めている男がいる。
アクセサリーを身に付ける男、嫌いだ。それ以前に、ヘイ、ベイビー、一緒にベイビー作らないってそんな事言う奴ありえなくて、すごく嫌いだ。
「作りません」
「そんな事言わずにさ、デート代全部俺がおごるから」
しつこい。もう無視だ。
視線を反らし、カラオケボックスに足を進める。その時、男が私の腕を掴んだ。
「どこ行くの? デート代、全部おごると言っているだろが」
男が声を荒げている。
近くには交番があるのに馬鹿としか思えない。でも、こんな無謀な事をする人を前にして、お巡りさん助けてと大声を出すと刺されそうだ。
周囲の人々に助けてという意思を込めた目を送る。海の藻屑を相手にするかの如く、人々が私を軽視し素通りしていく。
感情が昂り寒い外気を身体が感じられなくなる。その上、感情の昂りゆえの身体反応とは別。いつもの周囲の情報が遮断されていく病気もストレスで上乗せされた。
私は俯いた。
その瞬間、俯いて得られる情報以上に視界が狭くなったのだ。
そして、まだ男が話しかけてくるがだんだん声が、耳に、届かなくなってくる、周囲の喧騒もだ。男の私の腕を掴む力が弱くなった。どうしてだろうと思い、男が私を掴んでいる手を見た。一本づつ指を誰かが剥がしていた。その時、耳が音をクリアに拾うようになった。
「困っているじゃないか」
男の指を剥がしている誰かが声を張り上げた。その人へ私は顔を向ける。いまにも男を殴り殺そうなぐらいの表情をした美形の青年の姿があった。
美形の青年の胸倉を男が片手で掴む。
その手を美形の青年が両手で掴みひねった。男の胸倉を掴んでいた手が外れる。男の肩を美形の青年が押す。男が少しよろめく。意表を突かれたのだろう、びっくりした表情を男は浮かべる。
「ニイチャン、人の恋路の邪魔をするなよ」
ニイチャン? あんたもニイチャンだろが。人の恋路って? 初めて顔を合わせたばかりじゃないか。
交番から警察官が出てきた。
「どうされましたか?」
「チッ、何でもねぇよ」
男が言って何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
「この人に暴行を受けました。俺の場合は正当防衛です。それから、この人、この女の人の腕を掴みながら威圧的な発言をしていました」
「は? てめぇー」
男が、立ち止まり、美形の青年を見て言った。
「署まで同行願います。あなた達ももっと事情を聞かせて下さい」
四人で交番の中に入った。
警察官に座るように言われ、男と私達は従った。警察官が私達の対面に座り、どこかに電話をかける。
「こちら、✕✕✕派出所。○○○巡査部長。至急応援願います。ジュウサンジゼロナナフン、暴行罪の被疑者確保」
これでも飲んで下さいと警察官がオレンジジュースを男と私達の前に置く。男はずっと黙っていたが、私達は事情を話した。調書というやつだろう、ずっと警察官は記入していた。五分ぐらいして別の警察官が現れて、男は奥の部屋に連行されていく。警察官がいろんな質問をしてきて、私達はそれに答えた。
「ご協力ありがとうございます」
三十分ぐらいして私達は交番を出た。
「助けてくれて、ありがとう。私は有川直美といいます。これから、お茶しませんか?」
助けてくれたおかげだろう、私はこの人にときめいてしまっていた。
「喜んで。俺は九条善行という、よろしくな」
「善行君はどんなタイプの女の子が好き?」
「いきなりだね。こんな事聞かれると、ドキドキするよ。俺は幼い感じの娘が好きだよ」
えっ? もしかして、ロリコン? 違うよね、違うと信じたい。善行君を見る。楽しそうな表情をしている。
「直美はね、年齢の割には幼いって言われるよ。今年で二十歳になるんだ。善行君は?」
普段自分の事は、私、と人には言うけれど、善行君の前では自分の事を直美と言う事にした。その方が幼く見えそうだから。
「俺は二十二歳。俺の求める女性の心の年齢は七歳ぐらいだよ。でも、さすがに身体が大人で心が七歳の娘っていないから、諦めているけどね」
ロリコンではなかったけど、七歳の心の娘を求めているのは驚きだ。
「善行君?」
「何?」
「歩こ? 近くに直美の好きなカフェがあるんだ。そこで、お礼にお茶をご馳走するね」
「ご馳走はしてくれなくてもいいよ。こうして、知り合えて話せるだけでも楽しいから」
善行君の手を握る。びっくりした表情をされて、その動揺が私には可愛く映った。
駅構内の改札口の前を通りすぎ、私達はケンタッキーへ向かって歩く。ケンタッキーの手前に、階段とエスカレーターがあり、階段の方を使って二階に上がる。カフェに着き、中に入った。店内はまばらに客が入っている。テーブルは茶色で丸い。椅子は赤い。いつも通りの内装が目に入ってくる。椅子を引いて、私達は対面になって座る。バックを私は隣の椅子に置く。私と違い善行君は何も荷物を持っていない。メニューを見る。
「直美はウィンナーコーヒー頼もうかな」
「じゃ、俺も」
数秒して、水が入ったグラスを持ったウエィトレスがこちらに来て、
「ご注文は何になさいますか?」
と、言った。
「ウィンナーコーヒー二つ」
善行君が言った。ウェイトレスがホットになさいますか? アイスになさいますか? と、聞いてきて、ホットと私は答えた。ホット二つと、善行君が言った。テーブルの上に水が入ったグラスを置いたウェイトレスが私達の前から離れていった。
「ところで、あなたの事は何て呼んだらいいかな?」
「なおちゃんて、呼んでね」
「わかった、なおちゃん。ところで」
私の顔を善行君が見てくる。
「交番で話しを聞いていたら、心配になったよ」
「心配?」
「心の病があって、チンピラの声が突然聞こえなくなったって言ってたから」
この話しはしたくない。私は俯いた。
「ごめん、話題を変えよう。学生? 仕事はしている?」
「直美は学生じゃないよ。障害者年金で生活していて、今は働いてないよ」
「そっか、俺B型作業所のスタッフをやっているんだけど、よかったら来ない? 仕事内容は農業だよ」
「うん、行く」
善行君と同じ所で働けるのは、嬉しかった。
「目が輝いているね。誘ってよかったよ」
それから、たわいのない話しをしていたら、ウィンナーコーヒーが運ばれてきて、私は今思いついた一計を案じる事にした。
「あれ、直美、ウィンナーコーヒーを頼んだんだけど」
「はい、ウィンナーコーヒーでございますが」
ウェイトレスは困った表情をしていた。
「生クリームがコーヒーの上に乗っているよ」
「コーヒーの上に生クリームが乗っているのがウィンナーコーヒーでございますが」
ウェイトレスが笑う。
「知らなかったよ。ウィンナーコーヒーって、注文した事なくて。コーヒーの味の種類だと思っていた」
「ははは、知らなかったんだね」
これでよしと思った。無知は幼く感じさせる事が出来る。笑いも取れたし、一計を案じた甲斐があった。テーブルの上にスプーン、ウィンナーコーヒー、プラスチック容器のガムシロップ、紙に被覆された砂糖、を二つずつウェイトレスが置く。早速、私は生クリームを掬って食べる。
「わー、生クリーム美味しいよ。善行君も食べてみて」
「なおちゃんて、いい。すごく、いい」
「何が?」
「うん、いろいろとね」
カフェで楽しい時間を過ごした後、私達はカラオケに行った。善行君はビートルズの曲を幾つも歌った。特に、私の心を打ったのがエリナリグビーという曲だった。孤独すぎるエリナリグビーの事が、妙に私の脳にこびりついて離れない。二時間カラオケを歌った後、私達は別れた。
三日後、作業所に体験という事で行った。農業の仕事は私には合わなかったけど、それでも善行君と一緒に仕事をするのは楽しい。
しばらく日が過ぎ、作業所のレクリエーションで、幸福のパンケーキという店に入った時、私は自分の皿にパンケーキがあるにも関わらず、
「直美、デザート好きなんだ」
と、言って、善行君の皿のパンケーキを、見て、奪った。こうして、幼さを目一杯演じて善行君の気を引こうと考えたのだ。
「なおちゃん、そういう事しちゃ駄目だよ」
作業所の利用者の一人に言われた。
「いいんだ、なおちゃんが喜んでくれるのなら」
善行君が笑顔で私の方を見る。レクリエーションが終わった後、私は自己嫌悪に陥った。好かれる為とはいえ、自分じゃない自分をずっと演じ続けているせいだ。
LINEで善行君に通話をかけた。血が身体から全部吹き出そうな程、私は緊張していた。なにせ、初めてのデートの誘いだ。コール音が止んだ。
「善行君」
「どうしたの?」
「二人で遊びに行きたいの。どうしても遊びに行きたいの」
「いいよ、いつ?」
「今日の午前中、十時から」
「いいよ。ちょうど、暇していたんだ」
待ち合わせ場所を決め、通話を切った。
善行君の気を引こうと、ピンクのミニスカートを履いた。上はピンクのニットのセーターを着て、ボタンを外した黒いオーバージャケットを羽織った。
待ち合わせた時間の二十七分前から、公園のベンチに座り善行君を待った。善行君が九時五十一分に来て、私達は挨拶を交わす。善行君が隣に座った。作業所の仕事の事、男にナンパされて怖かった事、を話した。親しくなっているせいか私の病気の事も、話す事が出来た。
私はおしっこを漏らした。計画通りに。
「なおちゃん?」
善行君が戸惑っている様子が伝わってくる。私は演技で、泣きじゃくった。
「ごめん、話しに熱中しすぎて、トイレに行く間を逃した。うぇっ、えぐっ」
「失敗は誰でもある。気にしないで」
善行君が立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「立てる?」
「うん」
善行君に手を引かれる。公衆トイレの前まで、連れて行かれた。善行君は一目を気にしているようで、周囲を見ていた。
「トイレの個室には、汚物入れがある筈だから、そこに下着を捨ててきて。あと、トイレットペーパーで股を拭くんだよ」
優しい。この言葉を譬え知らない人とはいえ聞かれると、私が恥ずかしがると思った? だから、周囲に誰にもいない事を確認したのだろう。
「うん」
「ここで、待っているからね」
善行君の言われた通りにした。
「じゃ、ベンチに一緒に行こうか」
手を引かれ、私が汚してしまったベンチとは違うベンチに座らされた。
「ここで、待ってて。下着を買ってくるから」
「うん」
善行君が離れて行く。ミニスカートでノーパンなだけに、外気が私を凍えさせそうだ。そう思っていると、善行君が踵を返す。
「あっ、そうだ。女の子にこんな事聞きにくいんだけど、ウエストのサイズ教えて。スカートも買ってくるよ。濡れているし」
教えた。四十分ぐらいして、善行君が戻って来て、デートを再開させた。
デートを終えて、お家に戻った。自分という人間が気持ち悪くて、洗面所で吐いてしまった。好かれる為とはいえ、おもらしまでする自分。最悪だ。
この一連の事をマックで、友達に相談した。深刻そうな表情で私の話しを聞いてくれる。
「吐く程の演技は、いつまでも続けられないと思うよ」
「なおちゃん」
善行君の声がして、びっくりした。
「わっ、善行君。善行君」
まさか、話しを聞かれた? そう思ったら、動揺という感情が沸かしすぎた鍋の水のように溢れそうになった。
「ごめん」
善行君が言った。
「俺の事が好きで、そこまでさせていたなんて。君の気持ちに応えられそうにない」
善行君が離れて行く。私は何も言えなかった。
自分の内面を知られてしまい、作業所に通えなくなった。
その二日後、善行君からLINEの通話が入った。出るのが怖かった。でも、私は最後ぐらい誠実に振る舞いたくて、結局は出た。
「会えないか? ○○公園で。話しがある」
たぶん、作業所を、無断で休んだ事や、これから通うか通わないかの確認の為の話しだろう。或いは、私の心のケアをしたいのかもしれない。会うべきか会わないで通話だけで済ませるか、逡巡としたがやはり誠実に振る舞おうと思った。
公園に行く。既に、善行君がベンチで座っていた。
「しばらく考えてみて、そこまで俺の事が好きなのに、ふるのはおかしいと結論づけたよ。付き合わないか? もちろん、本当の君でいてほしい」
私は言葉の代わりに、善行君に口づけをした。
執筆の狙い
一生懸命に書きましたが、いたらない所がいっぱいあると思います。忌憚のないご指摘、ご意見、ご感想、お待ちしています。
話しが強引かもしれませんが、どうでしょうか?