CALLING YOUに憧れて
俺が一番好きな小説は、乙一さんのcalling youだ。孤独な若い男女の恋愛小説。俺は今年で四十二になるけれど、リアルで恋人どころか友達すらいない。だから、こういう内容の小説に惹かれるのだ。この小説の結部分は正直好きではないけれど、SNSみたいにいいねを送りたい。主人公の少女にもその恋人の少年にも、不思議の国のアリスの世界にでも迷い込んでしまったかのような情熱を与えられた。
アプリでアリスの不思議な便箋というものがある。そこでは、男は毎日ログインボーナスで十通、女は三十通の便箋が貰える。便箋を消費して、ツイッターみたいに呟ける。呟きに対して、いいね、わかる、話すのどれかを便箋を消費して送る事もできる。
俺は恋に落ちた。アリスで、積極的な女性から一緒に虹を見に行ければいいですねと言われ、俺は博打でもするように告白してみたのだ。まさか、OKされるとは思いもよらなかった。俺は兵庫県に住んでおり、彼女は福岡県に住んでいる。彼女の年齢は二十歳だった。アリスのプロフィールにはファザコンと書かれていた。彼女は、以前、七十歳の人が好きになったそうだ。結局、その恋は彼女の片思いでうまくいかなかったそうだけど、俺が彼女を幸せにしてやればいいだけだ。親しくなってから、どうして七十歳の人を好きになったのか聞こうと思った。用心深さを持つ俺は彼女の事を疑っている。彼女はファザコンらしいけど、歳の差、二十一のカップルなんて成立しそうにない。からかわれている可能性があった。俺は統合失調症と自閉症を抱えている。その事をアリスでプロフィールに書いているが、念の為彼女に確認してみた。こんな俺でいいのかと。彼女はいいと言ってくれた。彼女の名前は竹中幸という。俺は幸の事をさっちゃんと呼ぶ事にした。さっちゃんに、ご飯さんの事は何て呼べばいいと聞かれ、さっちゃんに決めてほしいと答えた。ご飯というのは、アリス内での俺の名前だ。本名は春風雄一で、さっちゃんからはゆうちゃんと呼ばれる事になった。
アリスで知り合ったラインのアドレスを交換しただけの女友達に、彼女が出来た事を報告した。私より彼女の事を大切にしてあげてねと言われ、そうするよと心で思ったが返事に正直困った。彼女の心の内が分からなかったからだ。なんだか、俺の事を好きなような発言にも思えた。少しして、怒りを表現したスタンプが送られてきた。どうして俺は怒られたのだろうか? というのも女友達と俺はそんなに親しくなかったし、何度かこの女友達を口説いた事があるのだが彼女は電話すらかけさせてくれないのだ。仕方ない、そう思って君の事も大切にしたいとメッセージを送った。そう、とだけ返信があり微妙な空気だなと思った。
さっちゃんと初めてアリスで繋がったのは「苦しい時、寂しい時、側にいてくれる人が欲しい」と俺が書き込んだからだ。それから、数日、さっちゃんとたわいもない話しをして現在にいたる。
絶頂なのだ。しかし、この時俺は何かの罠が待ち構えている事を知る由もなかったのだ。
俺は彼女との会話に最善をつくした。エゴグラムという心理テストがある。彼女との関係を占う意味で、久しぶりにそのテストをやってみたら、あなたの場合歯の浮くような殺し文句を恋人や結婚相手にかけるのが効果的ですと書かれていて、インターネットで歯の浮くような殺し文句を検索して、少し自分なりにアレンジして送ってみたり、月が綺麗ですねと送ってみた。月が綺麗ですねという裏メッセージはI love youである。夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳したそうだ。でも、これはデマという説もあった。夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳したそうだよと、アリスでさっちゃんに送ると素敵だねと返信があった。ムードをぶち壊す危険性もあったが、黙っているのは俺の性には合わなくて、これはデマの可能性もあるんだと伝えた。デマじゃなかったらいいねと返信があった。
俺は彼女と会う約束をした。彼女に、自閉症があるから道を覚えるのが苦手なんだ、だから、移動支援を使っていいかと聞いてみた。移動支援て何かなと聞かれ、支援員の付き添いで移動する行政サービスだよと答えた。彼女はOKをくれた。しかし、その後彼女に対して連絡を送ってみたが、返信がこなくなった。急に、連絡が途絶えたせいで俺は食欲をなくし、七日間食事をとれなくなった。
ぼろぼろだったからだろう。俺は以前怒りのスタンプをラインで送ってきた女友達にすがった。彼女の名前はさおりという。さおりに疑似彼女になってくれないかと頼んだ。俺はさおりに疑似彼女のやり方を説明した。ラインでだけ恋人のふりをして付き合う。ただ、それだけの事。つまり、こんな感じだ。今日は水族館に行こうと俺がメッセージを送る。さおりから、OKという返事と水族館のスタンプが送られてくる。俺が手を繋ぐスタンプを送る。さおりからイルカショー素敵だったねというメッセージが送られてくる。俺はキスしているスタンプを送る。こんな感じのやりとりを続けた。これだけでは癒されず、また、寂しすぎた。
俺は文通に手を出す事にした。インターネットで文通と検索する。文通町というサイトを見つけた。そこでは、会費を払うと匿名で文通をするサービスを受ける事が出来るのだ。文通町での名前はアリスと同じ、ご飯にした。プロフィールには、年代と性別、趣味を書く欄と、自己紹介を書く欄があり、趣味の欄には小説創作 アニメと書いた。自己紹介には、心の病と発達障害があります。リアルで友達いなくて。文通でもと思い始めてみようと思っています。病や障害に嫌悪感がない方、よろしければ文通相手になって下さい。最近は休んでいますが、小説を書くのが趣味です。また、アニメを見るのも好きです。乙一さんのきみにしか聞こえないに収録されているcalling youという小説が好きです。と、書いた。
文通町に、郵便局から会費を支払うと文通町内でだけ使える住所がプロフィールに登録された。六甲通り○○○番地というのが、俺の住所だった。都道府県ははっきり書かれないけど、六甲通りという住所から、兵庫県に住んでいる事が分かるんだなと思った。
文通町のサイト内には、町人検索というのがあり、キーワードを入力すると、登録している人を探せるサービスがあった。検索対象は、ペンネーム、趣味、プロフィールだ。試しに、竹中幸と打ち込んだ。見つけた。二十代の竹中幸という女性を。ただ、そこにいる竹中幸は俺と同じ六甲通りに住んでいた。俺と恋人になったさっちゃんは福岡県に住んでいる。だから、彼女がさっちゃんじゃない事は分かっていた。それでも俺は筆を取った。
「はじめまして。ご飯と申します。もしかしたら、こういう事を言うと気持ち悪がられるかもしれませんが、思い切ります。私があなたにお手紙を差し上げたのは、恋人になろうと誓った女性とあなたの名前が同じだったからです。その女性とは結局連絡が取れなくなり困りました。あなたと私と恋人になろうと誓ったさっちゃんとは別人だというのが分かっています。さっちゃんは福岡県に住んでいますから。竹中幸さんは、アニメが好きとプロフィールに書かれていますね。私もアニメが好きです。よければ文友になってくれませんか?」
便箋を白い封筒に入れ、それを文通町宛の茶封筒に入れた。郵便局に行き、受付に出した。
六月二日に、文通町から封書が届いた。そこには、竹中幸さんからの封書が入っていて、開いて便箋の中身を確認した。
「お手紙ありがとうございます。そのさっちゃんという人は私の親友かもしれません。いろいろ確認したい事があります。それまでお待ち下さい」
嘘だろ? 親友だって。嘘だろ? と俺は思った。期待と不安が俺の脳を駆け抜ける。
六月十七日、文通町から封書が届き、竹中幸さんの封書を開いた。
「さっちゃんのラインのアドレスです。○○○○○○○」
俺はラインのアドレスを登録し、電話をかけた。
「もしもし、さっちゃん?」
「ゆう君、ゆう君だよね」
彼女の声色が興奮している。それが嬉しくて涙が滲む。
「良かった。もう話せないと思っていた」
彼女の声は嫌なところが何もなくて、耳の中にするっと入り込んでくるような、心の中に心地良さをもたらす印象だった。
「俺もだよ。でも、どうして連絡くれなかったの?」
「ごめんなさい。スマホが故障しちゃって。その後、新しいスマホに変えたのだけど、まさかこんな事になるとは思っていなかったから、住所と移行コードを控えていなくて。データが消えちゃったの」
アリスでは、アリス内での住所と移行コードを控えていたらデータの引き継ぎが出来る。俺も住所と移行コードを控えていない。スマホを買い換える時でいいと考えている。
「新しいスマホでアリスに入り直して、ご飯さんいますか? ってずっと呼びかけていたんだよ。でも、返事がなくて」
「まさか、さっちゃんがこんな状態になっているとは思わなかったから、アリスには行かないようにしていたんだ。さっちゃんとの思い出があるアリスから離れたかった」
「ごめんなさい」
「いあ、いいんだよ。理由がはっきり分かったし」
「今すぐにでも会いたいね」
「移動支援を使って会いに行くよ」
「うん」
それからいろいろ話しをした。
次の日。
相談支援事業所に連絡して、彼女と福岡で一日泊まりで会う為移動支援を使いたいと言うと、支援員に対して通常の交通費だけではなく、宿泊費も支払う必要がありますよと言われた。俺の場合所得が低いので、障害者手帳を使えば支援員に給料を支払わなくてもいいが、それでも宿泊費まで出すとなると出費は痛い。
ラインを使い、さっちゃんに電話をかけていいかとメッセージを送った。一時間ぐらいして、いいよと返信があった。電話をかける。
「もしもし、さっちゃん」
「ゆう君、ゆう君」
「昨日、会いたいって話しをしたけどすぐには行けそうにないよ」
「どうして?」
「移動支援を使うと、支援員に交通費と宿泊費を支払わなくちゃいけないんだ。ちょっとお金が足りない」
「そういう事なら、私が会いに行こうか?」
「いいの?」
「いいよ」
「じゃ、交通費以外は全て俺が持つよ」
六月二十四日に会う約束をした。
さて、と思った。覚悟を決めて、さおりに伝えなければいけない。また、怒られるかもしれないけど。ラインを使いさおりにメッセージを送った。
「なー、さおり。恋愛ごっこはもうやめたいんだ。随分、勝手なのは分かっているけど」
「えっ? どうして」
「それを言う前に聞きたい事があるんだけど、どうして俺が前に彼女が出来たと言ったら怒ったの? 別に俺の事好きじゃないんだよね?」
「だって、リア充て腹立つじゃない」
「狭量すぎだろw」
これが、もしもさおりとリアルで会っていてリア充腹立つって言われていたならば、呆れてものが言えない所だった。
「実はさ、彼女と連絡取れたんだ。だから、恋愛ごっこはもうやめようかなって」
「おめでとう」
「うん? 怒らないの」
「怒っても仕方ないしね。どうかしてたんだよ、あの時の私」
「よかった」
「彼女とどこで会うの?」
「うん。彼女、福岡に住んでいるんだけど、こっちまで会いに来てくれる」
「それなら、おすすめのデートスポットがあるよ。異人館」
「どうして?」
「あそこ、雰囲気があるから。最初に異人館に行って、それからカラオケに行って、次は喫茶店ね。あとはお好み」
「どうして、その順序なの?」
「最初はいろいろと話したいじゃない?だから、異人館を見ながら話しをするの。綺麗だねとか言うの。次にカラオケに行くと、話せなくなるけどお互いの好きな曲を知ったら理解が深まるじゃない。その後は喫茶店で異人館の事とか、好きな曲の事を話してお喋りを楽しむ。完璧」
「うんうん。分かった。ありがとう」
グッドラックのスタンプが送られてきた。
六月二十四日。
自宅に香織さんが来た。香織さんは移動支援の支援員だ。彼女はいつもラフな格好をしている。今日も半袖のティーシャツとジーンズという服装だ。俺はこの日の為に用意した、お洒落なカジュアルシャツとシャツに合う白パンツという服装にしている。
香織さんと淡路島から高速バスで三ノ宮まで移動し、徒歩でJRの三ノ宮駅中央改札口前まで行った。柱付近で、香織さんと一緒にさっちゃんを待つ事にした。香織さんは俺に彼女が出来た事をとても喜んでくれているようだ。喋る内容や、声色がその証拠になる。それが、嬉しかった。お喋りは続く。
やがて、さっちゃんが現れた。送られている画像で見るより、彼女はずっと可愛かった。そう、可愛いのだ。美人というタイプではない。
「ゆう君?」
「そうだよ」
彼女は笑顔を浮かべた。
彼女はフリルの服とスカートという服装で、キャリーケースを持っていた。画像では分からなかったけど、ぽっちゃりとした体型をしていた。もっと、彼女を見ようと思った。彼女の、スカート、フリルの服、胸、首、唇、鼻、瞳、髪を見た。
「じろじろ見ないでほしいな」
恥ずかしそうな表情を浮かべる彼女が愛おしく思える。
「どうして?」
分かっているけど、ちょっと意地悪したい気持ちになって言ってみた。
「だって、恥ずかしいから」
彼女は俯いている。
「じゃ、明日、呼んで下さい」
香織さんが俺と彼女を交互に見る。笑顔を送ってくれている。
「分かりました。ありがとうございます」
俺が言い、
「明日、よろしくお願いします」
さっちゃんが言った。俺とさっちゃんは、神戸ホテルオークラで一泊する事になっている。その後も、適当にデートをする。デートが終わった後、香織さんと合流し、俺の実家に三人で行き、さっちゃんを両親に紹介する手筈になっている。
香織さんが踵を返すと、さっちゃんがハグしてきた。
「ゆう君、顔赤いね。どうしたの?」
彼女の仕返し発言に、俺はどう返していいのか分からない。
「ねー、どうして顔赤いの?」
仕方ない、誤魔化そう。
「これは、暑いからだよ」
「へー、暑いからなんだ」
彼女は笑っていた。意地悪く見えたけど、なんだか嬉しかった。彼女がハグをやめ、俺の左側の手を繋いでくる。やはり、恥ずかしいと思ったけど、誰がどう見てもカップル、初めてできた彼女だと考えると嬉しかった。俺達は歩き始める。
「異人館の場所は分かっているんだよね?」
俺はさっちゃんの目を見て言った。予め、さっちゃんにデートの順序を俺は言っていた。
「もちろんだよ」
明るい声がして、安心した。
「ネットで調べて頭に入れているから。念の為、印刷した地図をキャリーケースの中に入れているけど、使わないと思うな」
「前から聞きたかったんだけど、どうして七十代の人を好きになったの?」
「私ね、誰かをお世話する事が好きなの」
「お世話?」
「うん」
さっちゃんの目が輝いている。
「と、いうと?」
「そのまんまよ。誰かをお世話すると、私が必要とされているって思うじゃない? それが快感なの」
さっちゃんが恍惚の表情をする。よく分からない感覚だなと俺は思う。
「私ね、今まで二人、お付き合いした男性がいるんだけど、二人共心の病を持っていた」
彼女の声が弾んでいる。どこか、違和を感じざるを得なかった。
「うん」
足音。話し声。喧騒の中で俺は静かに言い、彼女の話しの続きを待った。忙しそうに行き交う多くの人々が、寄せては返す波のように目に映る。人々は密集しているわけではなく、一人分ぐらいの間隔がある。それでも、人混みは煩わしい。
シュークリーム屋の店が視界に入った。濃い甘い匂いは、多くの人々を魅了するのだろうが、俺にとっては路傍の雑草ぐらいにしか価値はない。一人の男が早歩きで、俺の右側を追い越して行こうとする。他の人々と俺とを縫うように男は俺達の前に出る。そんな男の不自然な動きは不愉快だったが、すぐに男の行動の理由が分かり、少しだけ許してやろうという気になった。構内を抜けて左側に横断歩道があった。
雲一つない空の太陽の光。
町中を活気づかせる。でも、俺は夏の日差しが嫌いだ。眩しすぎるからが理由ではない。暑すぎるからが理由でもない。全てを明るみにしそうな、この感覚が好きになれないのだ。
「二人共ね、どんどん回復していったの。寂しくなった。必要とされていないと思った。だから、もう終わりにしたいと言って、お付き合いをやめたの」
黙っている事もできた。そうやって、やり過ごせば平穏でいれそうな気がした。でも、急に不安が俺を襲ったのだ。
「俺が回復したら、俺の事も切り捨てるんだ」
言った瞬間、涙が溢れてきた。
「あー、泣かないで。ゆう君は移動支援使わなければ移動出来ない程、障害重いでしょ。ずっと、私がお世話できる。だから、大丈夫」
彼女の握力が強くなるのを感じる。会話に集中していたせいか、今まで気づかなかったけど彼女と握っている方の手は、汗でべっとりしていた。しかしながら、汗なんて気にしないようにしようと思った。
「それでね、七十歳の人を好きになったのは、その人が車椅子だったからなんだ。その人が死ぬまで、ずっとお世話出来ると思った。正直にその人に、自分の思っている事を言ったら、君は若い。他の人を見つけなさいと言われちゃったの」
彼女の話しを聞きながら、俺は片手で涙を拭っていた。
「ねー、ゆう君。共感覚って知っている?」
「共感覚?」
「うん」
彼女と手を繋ぐのが不愉快に思えてきた。特に、汗が不愉快だった。そう思うようになったのは気持ちの整理がついたからだろう。
「別れよう」
俺は言って、彼女と繋いでいる手を離した。
さっちゃんが沈痛な面持ちをする。彼女の唇が震える。
「私が優しくないから?」
「うん」
「私が重い障害がある人だったら、誰でもいいと思っているから?」
「うん」
「仕方ないよね」
今は夏だけど、彼女の声の響きは、秋の終わりに泣く、一匹の遠くにいるコオロギのようだった。声は雑踏に儚げに落ちていく。
「君は、sagebrush cricketというコオロギの雄みたいだね」
「えっ? どういう意味?」
「この種類のコオロギの雄はね、後尾の最中、雌に羽の一部を食べられるんだ。一部しか食べられていないから、再び後尾する事が出来て新たな雌を求めて泣くんだけど、雌にとっては羽の一部を失った雄は魅力がないんだよ。だから、雌は誰にも羽を食べられてない雄を探すんだ」
「処女じゃなきゃ、嫌って事?」
「いあ、そうじゃない。君の事を羽を失ったコオロギのように魅力を感じられなくなってしまったんだ。ただ、それだけだよ」
「過去に過ちを犯したら許されないのね」
過去、と俺は思う。
「私ね、二人の男性とお付き合いしていたって言ったでしょ?」
俺は頷く。
「一人目の男性に別れを告げた時、残念そうにされたけど、笑って承諾してくれた」
俺は頷く。
「でも、二人目の男性には、別れを告げた時、自分勝手だと言われて頬をぶたれたの。それっきりになってしまった。自分の間違いに気づき、あらゆる手段を使って連絡したけど、拒否」
俺は頷く。
「自分は平気で人を傷つける奴なんだと思った。元気になったから、それでいいと思っていたけど、違っていた」
俺は頷いて、彼女の瞳を見ようと思った。涙を湛えている、そう思ったからだ。震える彼女の声の響きとは裏腹に、瞳には涙はなく真剣さが宿っていた。
「私はゆう君にふられても当然の人間だと思う」
過去に過ちを犯したら許されないのか? 今反省していたら、許してもいいんじゃないか、そう思えてきた。さっちゃんとの関係が深まった気がして、俺は黙って彼女の手を握った。意外そうな表情をするさっちゃん。
「いいの?」
「うん。たとえ、さっちゃんが重い障害があれば誰でもいいと思っていたとしても、いいよ」
「さっきは、安心させようと思ってああ言ったけど、ゆう君に対してはそれだけじゃないの。言葉が足りなかった。ごめんなさい」
俺は黙って聞く。
「ゆう君、アリスのプロフィールに乙一さんのcalling youが好きで、リアルで友達が一人もいないって書き込んでいたでしょ?」
「うん」
「女の子てね、凄く醜くて、酷い生き物なの。高校生の時、学校でみんなにハブられてから、友達を作らないようにした。私もあの小説を読んでいて、好きで、友達のいないcalling youの主人公にとても共感できたの。一人でいるけど、でも、本当は友達を心の底から求めている」
「うん」
「あの小説を好きなゆう君も寂しいんだろうなって思った。この人なら私を理解してくれる。この人と両想いになりたいと思った」
激しい感情が声にこもっていた。キスしたい、そう思ったがやめた。会ったばかりではキスはまだ早すぎる。
「いいよ、キスしてくれても」
心臓の鼓動が、早くなる、耳に聞こえそうな程だった。
「どうして分かるの?」
「私、勘いいから」
彼女を大切にしたい、その気持ちが、
「しない」
と、言わせた。
「ちぇっ、ケチ」
拗ねているのか、俯く彼女。俺はキスの変わりに彼女の耳に息を吹きかけた。
「ひゃっ、何するの」
彼女はびっくりした表情をしている。反応が面白くて、彼女の耳に、また、息を吹きかけてみる。
「もう、やめてよ」
俺は声を出して笑い、彼女は声を出さずに笑う。
「さっき言いかけた、共感覚って何?」
「色が見えるの」
「色?」
「うん。人や文字を見るとね、色が見えるんだ。ゆう君の色は青色に丸いピンクが入っている色だよ」
俺はカラーセラピーの事を思い出した。色の入ったボトルを使って行うカウンセリングの一種。俺は百十一本のボトルから、四本のボトルを選ぶ時、よくターコイズのボトルとピンクのボトルを棚から取り出して、机の上に置いた。
「カラーセラピーではね、ターコイズは想像力の色なんだ。ピンクは優しさを意味する」
「カラーセラピーではでしょ?」
含む言い方だった。つまり、こう言いたいのだろう。カラーセラピーではそういう意味かもしれないけど、私の共感覚で見える色とは意味は違うと。俺はてっきり、カラーセラピーの色の意味と彼女の共感覚で見える意味は同じだと思っていた。
「じゃ、ターコイズとピンクはどういう意味になるの? さっちゃんの共感覚では」
彼女は一呼吸置いてから言った。
「分からない。見えるだけで意味までは分からないの。それからね、ゆう君から見えている色はターコイズじゃなくて、もっと薄い青色よ」
「どんな意味かわかれば楽しいのにね」
俺もこんな特殊能力が欲しかった。そして、意味がわかれば楽しそうで尚良い。
「そうね、もっと楽しくなるかも。でも、意味がわからなくても、この共感覚で分かる事もあるんだよ」
興味を持って質問してきてほしいという感じの言い方をされた。そんな言い方をされなくても、彼女の言葉は興味深い。
「わかる事?」
「そう、喩えば、男性では黒色に見える人はいないとか」
「興味深い」
俺はそれだけ言った。
その後、俺達は少し沈黙したが、また、おしゃべりしながら歩き続けた。
やがて、異人館に着くと、バッグを持った女が入り口で立っていて、俺は呆然としてしまった。さおりだった。さおりとはラインで顔写真を交換していて、すぐに彼女だとわかった。
「待っていたよ、ずっとね」
さおりが悲しそうな声色で言った。
「さおり、どうしてここに?」
さおりは何かを考えているような表情をし、空を見つめ、その後、二秒ぐらいして俺の方へ顔を向ける。さおりが言う。
「私ね、あなたの事が好きなの」
「えっ」
と、俺はびっくりし、調子の外れた声を出してしまう。
「嘘だろ?」
「本当よ」
「どういう事かな? 説明してくれる?」
さっちゃんが苛立ちと非難の混じった声を出す。見咎められるような事は何もしてないと思ったが、俺は焦っていた。
「友達なんだよ、さおりは。まさか俺の事が好きとは考えも及ばなかった。デートコースを教えてくれたのはさおりなんだけど、まさかここに来るとは思わなかった」
「死ね、雄一」
声のした方、さおりへ視線を移した。どうして暴言を吐かれないといけないんだ。
俺は少しだけ憤りを感じたが、黙ってさおりの言う事を聞く事にした。
「雄一に彼女が出来たと聞いた時、私自分の気持ちに気づいたの。あなたの事が好きだって事に」
叫びに近い大きな声で言われる。
「でも、確かめたじゃないか。俺の事は好きじゃないと言っただろ?」
訳がわからなかった。さおりが敵意剥き出しの目付きで、俺とさっちゃんを交互に見てくる。
「私、天邪鬼だから本当の気持ちが言えなかったの。そこで考えた。あなた達の幸せを妨害してやろうって」
さおりは肩で息をしていた。
「さおり間違っているぞ。人の幸せを妨害するって行為が」
「あなたも悪いのよ。疑似彼女になってなんて言うから。余計に雄一の事が好きになっちゃうじゃない」
さっちゃんが俺の手を離した。
「どういう事、疑似彼女って何? 説明してくれるかな?」
さっちゃんの方を見る。目が吊り上がっていた。恐怖が俺の身体を占領していき、明らかに、暑さのせいではない汗が全身から吹き出てきた。
「後から言うよ」
「今言って」
さっちゃんの声が切迫している。
「ええと、さっちゃんと連絡が取れなくなった時期があったよね。その頃、耐えられなくなってさおりに疑似彼女になってほしいと頼んだんだ。あくまでも、疑似だよ、疑似」
「ふーん」
さっちゃんの声は無表情で、何を考えているのか読み取れない。
「私があなたをどれだけ好きなのか教えてあげる」
さおりが言った。俺はさおりの方を見る。さおりがバッグから剃刀を取り出し、リストカットをし始めた。
「やめて」
さっちゃんが切羽詰まった声を出す。俺は何も言えず、さおりがリストカットするのを見続けた。
「ゆう君もやめるように言ってよ」
「リストカットの対処として、止めない方がいいって心理士の先生から教わっているんだ」
「何言っているの」
さっちゃんが呆れたように言った。
「その心理士は無能よ。本当にそんな事を言ったの? 手当てが必要だし、何よりもさおりさんは止めてもらいたいと思っている」
さっちゃんがさおりに向かって行く。その瞬間、
「どっちでもいいでしょ、でも、もうやってらんない」
と、さおりが言って、地面に向かって剃刀を投げ捨てた。刃は血ミドロになっていて、痛々しく見えた。さおりが急に俺達の前から走り去っていく。
「追いかけよう」
さっちゃんが言って、俺の手を握った。こうして手を握らないと、迷子になってしまうかもという配慮だろう。我ながら情けない。走って二人でさおりを追いかける。
「ゆう君は情けなくなんかないから」
彼女が言った。俺達は二分ぐらいは走っただろうか。息を切らしながら、さおりに追いついた。さおりも息を切らしていて、観念したのか立ち止まっている。
「死にたい」
さおりが、弱々しく言った。
「死にたい。もう駄目なんだ」
今度は強く、さおりが言った。
「もう駄目なんだ。もう駄目なんだ。もう駄目なんだ。もう駄目なんだ。もう駄目なんだ」
さおりは虚ろな目をしている。
「ねー、ゆう君。私よりさおりさんの方がゆう君の事をもっと必要としているみたい。私は大丈夫だよ」
言葉とは裏腹に、彼女の声色は悲しそうだ。俺はさおりより、さっちゃんの方が好きだ。彼女は初めて俺を愛してくれた人だから。それに。
「別れ話しなんてしたばかりだけど、俺はさっちゃんの方が好きなんだよ。初めて俺を愛してくれたし。さっちゃんはcalling youが好きだから。それに、それに」
「わかった。もういいよ。ゆう君。でも、さおりさんは納得しないかも」
さおりが嗚咽を漏らしている。やがて、さおりは慟哭し始めた。それが一分程続く。泣くのをやめてくれた。
「もう彼女になれなくてもいい。友達でもいい」
その言葉が俺の脳をかき乱した。俺の左目から涙が溢れ出す。
「さおり、本当にそれでいいのか?」
「友達でもいい。私、もう帰る」
さおりは言って、俺達の前から離れていく。
「ちょっと待って手当てしないと」
さっちゃんが言った。
「自分でやるから大丈夫」
さおりがバッグからハンカチを取り出す。再び、俺達の前から離れていく。心配だったが、俺はさっちゃんを選んだんだ。そう思うと、声をかける事も、追いかける事も出来なかった。俺とさっちゃんは歩き始める。
「さおりさんがね、友達でもいいって言った時、最初私は皮肉だと思った。でも、違っていた。さおりさんは本気でゆう君と友達になりたいと思っていた。それから、さおりさんは今まで見た事のない女の子の色を持っていた。ピンクがあったの。さおりさんとなら私も友達になれるかもしれない」
彼女の声は落ち着いていて、静かで、俺を安心させてくれる。
「なー、さっちゃん」
「何?」
「男だからとか、女だからとか、大人だからとか、子供だからとか、そういうのは関係ないと思うんだ。俺が趣味で前に小説を書いていると話したの覚えていると思うけど、作家で小判という小説投稿サイトに小説を掲載した時の話しを今からしようと思う。そこで、掲載した一つの小説。指摘を受けた。女はこんな考えをしない。女はこんな行動をとらないって言われたことがある。でも、それは間違っていると思うんだよ。いろんな人間がいて、いろんな思想があるから、ないという事がないと思うんだ。大事なのは人間を見る事」
俺はさっちゃんをコオロギの話しで傷つけようとしたし、さおりの事も傷つけてしまった。こんな俺が人として、さっちゃんを愛する資格があるのだろうか? こんな俺が人として、さおりを友達にする資格があるのだろうか? 俺はさっちゃんの事もさおりの事も知らない事が一杯ある。この先、二人との関係がいい方向に転ぶのか、悪い方向に転ぶのか全く見当がつかない。
暑い日差しが、俺達を焦がし続けている。でも、こんな日差しに俺は負けたくないと思った。さっちゃんの俺の手を握る力が強くなった。俺は彼女を離したくなくて、それでいて、壊したくなくて、手に軽くだけ力を込めた。
執筆の狙い
この物語、少しでも、マシってレベルにするにはどうすればよいでしょうか? 忌憚のない意見をお聞かせ下さい。