地獄病棟
戦後の高度成長期に造成された枚方市の宅地のなかに、ひときわ立派な鉄筋コンクリートの四階建ての建物がある。以前に倒産した新湊病院の跡地に建てられた介護付き有料老人ホームのあかつき荘である。
詰め所で看護師主任の片桐冴子がカルテの整理をしていると、受付から赤根トキヨが入所してきたことを知らせてきた。
「とりあえず、部屋に案内してね。先生が来たら診察を受けるから」
そう返事して、冴子は整理していたカルテを片付け、まだ何も記入していないカルテ用紙に、トキヨの入所申込用紙から必要なことを写し取って新規カルテを作成した。
それが終わると部屋に行ってみる事にした。そこは四人部屋で、いずれも介護を要する老女が入所している。
冴子は、若い看護師をつれて部屋を覗いてみた。
「看護師主任の片桐冴子です。自分の家の積りで気楽にして下さいね」
冴子は老女の気持ちをほぐすように気軽に声をかけた。
入り口に近いベッドに腰掛けていたトキヨは、睨むように冴子を見てそっぽを向いた。同室の三人の老女達も、口を結びトキヨを眺めている。同室の人たちとうまくやってくれると良いのだが。ふと冴子に不安がかすめた。
介護付き有料老人ホームは、介護を要する高齢者を収容する施設である。当時は裕福な人は一人部屋に入るがそれほど裕福ではない人は複数部屋に入ることもあった。介護するのが困難となって介護認定を受けている高齢者が入所しているのであるから、病院と違って、医師が常駐しているわけではない。あかつき荘には付属の診察室があり、契約している医療機関から定期的に、例えば週に一回、医師が訪問して入所者の診療を行う。投薬や処置は、医師の指示で常駐の看護師が行う。
この施設では医師の訪問は、市内の山の上クリニックと契約してある。この山の上クリニックは、内科の一般外来を主とする診療所であるが、人間ドック、検診および通院リハビリも行っており、最近は老人医療や訪問医療の分野にも進出している。
医師が来診した時に、入所者の中で医師の診察を受ける必要がある者がいれば、看護師が選別しておき、所内にある診察室で医師の診察を受けるのである。その日は運よく医師の訪問日であった。
特別擁護老人ホームは、このように簡単な治療、投薬は訪問した医師の指示の下に行うが、病院に入院する必要があれば、近くの公立病院に送ることになっている。
新規入所者は、先ず訪問医師の診察を受け、疾患の有無、治療の必要性などを判断してもらわなければならない。
山の上クリニックからの訪問医は、三十台の若い吉岡という男性医師であったが、この日は八十歳くらいの老医がやって来た。痩身で、腰が痛いらしくゆっくりと歩いている。
「いつもの若い先生が休暇を取って旅行しているんで、ピンチヒッターで駆り出されましたんや」
老医は腰を叩きながら笑った。元はクリニックの院長であったが高齢のため院長を退き、今は相談役として毎日出勤してリハビリ施設の老人相手の相談役をしているそうだ。
「赤根トキヨさんですね。七十五歳ですか。歳よりお若く見えますね」
老女に向かって微笑みかけた。
トキヨはこの老医よりは確かに若いが、さすがにベテランの医師だ。お若く見えるとは口が上手い。
硬かったトキヨの表情が和んだように見えた。
「なにか心配なところがありますか」
「最近寒気がします」
老医は看護師に尋ねた。
「熱はどうやった?」
「体温は正常で熱はありません」
老医はトキヨの手を握り、熱の有無を見て脈を調べた。
「赤根さん。病気で寒気がするときは発熱の前触れで、そのときは脈が速くなりますがね。あなたの脈は全く正常で心配はありません。ただ、この季節、もう秋ですからその薄着では寒いのは当然でしょう。もう少し厚着をすることですな。歳をとると温度調節の機能が低下しますので、着物で調節しないとだめですね」
寒気は心配ないという説明を受けてトキヨは安心したようだった。
「脳梗塞の後遺症で、やや歩きにくいでしょうが、歩くのを止めると足の力が弱って、ますます歩きにくくなりますから、出来るだけ歩くようにしましょう。杖を使って転ばぬように気をつけて下さいよ」
老医はこれまでの家での生活状態を聞いた。トキヨは夫に先立たれ、子供達は遠方に住んでおり現在は一人暮らしである。最近は足が不自由になり、買い物に行くにも難儀で、家事なども出来なくなり週に二回、介護士の訪問を受けていた。このような高齢者は終(つい)の棲家としてこのような施設に入ってくる者が多い。
「理学療法士や介護の人の指示に従って動いてくださいよ。転んで骨折する事故が多いのでね」
老医師は、老眼鏡を曇り止めの布で拭きながら子供に言い聞かせるように言う。
冴子は、そばについている担当の若い看護師に目配せした。医師の指示は担当の看護師がよく聞いておかないと介護に差し支えるからだ。
その他の患者に対しても、老医は気長に症状を聞き取り、分かりやすく説明して、カルテに記入していく。
予定されていた数人の診察が終わると、投薬中の患者カルテを医師がチェックし、処方を記入してもらう。それが終わり、冴子は一人の男性患者のカルテを出した。
「この人は血圧の薬を飲んでいますので、吉岡先生の指示によって減塩食にしています」
老医は、外しかけた老眼鏡を掛けなおしてカルテを見た。
「血圧は安定しているようやから、それで良いでしょう」
「ところが、時々塩せんべいを隠れて食べているんですよ」
「ここでは減塩食の入所者に塩せんべいを出すのですか」
老医は怪訝な顔をした。
「勿論、そんなことはしません。隠れて家族が差し入れしているんです」
「なるほど」
「この人はそれを楽しみにしているんですが、やっぱり止めさせなければなりませんか」
老医は笑った。
「年寄りの楽しみは食べることですよ。塩せんべいを禁止しても、この人の寿命にはあまり差は無いでしょう。食べることは年寄りの楽しみだから、血圧が安定しているなら少しなら黙認したらどうですか」
やっぱり。
冴子は二十年前の若い頃にいた新湊病院での、老医と大学病院からパートで来ていた若い医師のやり取りを思い出した。あの時もそうだったっけ。
「いつも来ていただく吉岡先生は、絶対駄目だというんですが」
「まあ、若い先生は大学で教えられた通りに言うでしょうが、そこはあんたが上手くやることですな。年寄りの唯一の楽しみを奪うのは可愛そうですよ」
老医は笑いながら言った。
冴子は思った。老医と若い医師との違い。確かに理屈は若い医師の言うことが正しい。しかし、患者にとっては果たしてそう言えるのだろうか。
冴子は二十年前の新湊病院での老医、森定医師と若い奥山医師のやり取りを思い出した。そしてあの忌まわしい地獄病棟と皮肉られた地下病棟の思い出も。
それは二十年前に遡る。
☆ ☆
新湊病院に着くと、花村洋三は、母ハツエに手を貸して車から降ろし、車椅子に座らせて看護師に任せ、ワゴン車を駐車場に運んだ。
「部屋に案内しますからね」
当時、新米看護師だった片桐冴子は、迎えに出た玄関でハツエを力づけるように微笑みかけて車椅子を押した。ハツエは唇を結んだまま顔を背けた。
病室は二階の六人部屋であった。入り口に近いベッドが一つだけ空いている。洋三がボストンバッグを提げて病室にやってきた。
「あとで森定先生の診察がありますから」
冴子はベッドを整えてハツエを寝かせた。
品定めするように、部屋の患者達の目がハツエに注がれる。入院患者にとって、新しく入院してくる患者が、自分達に合うか合わないかは重大な問題である。
「これからお世話になります。よろしくお願いします」
洋三は如才なく同室患者に頭を下げたが、同室患者から声はなかった。
間もなく車椅子に乗せられて心電図室で心電図を撮り、内科の診察室に連れて行かれた。
「花村ハツエさん、七十四才。家族は息子さん二人と娘さん一人ですな」
森定医師は老眼鏡のレンズを跳ね上げてハツエを見た。森定医師の薄くなった頭から、白髪が深い顔の皺に柳のように垂れ下がっている。
返事をしないハツエに代わって、洋三がそうですと答えた。
「要するに、子供さんの間を盥回しにされて、挙句にここへ放り込まれた訳ですな」
森定医師の辛辣な言葉に洋三は身を縮めた。洋三の額に汗が浮かぶ。
「いや、盥回しというわけではありません」
「別に恰好つけんでもわかってますで。ここへ来る人は皆そうですがな」
森定医師は皮肉っぽく笑った。
冴子もあらかじめ聞いていた洋三の話から、森定医師の指摘通りだと思っていた。
洋三の話では、三年前にハツエは脳梗塞で倒れた。それまで一人暮らしをしていたが、それを契機に長男に引き取られた。名古屋の病院に入院して、なんとか杖で一人歩きできるまでに回復して退院したが、長男の妻との折り合いが悪く、大阪にいる娘が引き取ることになった。実の娘ならうまくいくと思ったのであろう。一年も経たぬうちに娘が音をあげた。ハツエが町工場の職人である娘の夫を馬鹿にしたことで娘との折り合いが悪くなったらしい。ハツエは昔の高等女学校を卒業している。その当時では高等女学校卒業と言うのは女としては最高の学歴である。当時のエリートであったハツエから見れば、高卒でパチンコが趣味の男は下卑た男であった。
洋三は嫌がる妻を説得してハツエを引き取ることにしたが、妻の料理の味にけちをつけ、趣味の会に出かけることにけちをつける。
洋三が引き取ってはみたものの、やはり妻との仲がうまく行かった。懸命に妻を宥めたが妻も頑固であった。盥回しの上、新湊病院に入院させたと言われても返す言葉はない。
森定医師は馴れた手つきで診察し、
「まあ、同室の患者と仲良くすることやな」
と言って冴子に目配せした。
ハツエが部屋に戻ると、大声で話し合っていた同室の患者は声を潜め、ハツエを目で窺いながら囁きあった。それはハツエを拒否する意思表示にも思えた。
ハツエはベッドに体を入れ布団をかぶった。もとより、ハツエにも同室の患者に媚を売るつもりはなかったのだろう。
こうしてハツエの入院生活が始まった。
病棟の外には暖かい春の陽気が漂っていた。既に散り終えた庭の桜の下には車椅子に乗った老人が陽の温まりを浴びていた。
片桐冴子は昨年の春看護師学校を卒業し、今年から家の近くであることからこの病院に勤めるようになった新人である。家からは自転車で通勤している。
毎日午後に森定医師が回診して回る。時々奥山という若い医師が一緒に来ることがあった。奥山医師は大学病院からパートで週に何度か来ているが、病室も回診している。大学病院の新しい知識もこの老人病院には必要らしい。患者達は、ベッドサイドで森定医師が奥山医師に色々と質問しているのを見て、奥山医師は若いけど大学病院のえらい先生だと思っているようだ。
片桐冴子がこの病室を担当している。
冴子は朝の引継ぎを済ますと、この六人部屋にやってくる。
「花村さん、いかがですか。ゆうべはよく眠れましたか」
入り口に近いハツエに声をかけて体温計を渡す。体温、血圧、脈拍数を用紙に記入すると、隣のベッドに移る。
「増田さん、痛みはどうですか」
隣の増田という患者は、この部屋では一番の高齢である。案山子のように痩せた足を布団の上に出して擦っている。坐骨神経痛がつよくて、整形外科でも診て貰っている。
冴子は相手が返事をしてもしなくても、お構いなしに事務的にことを運ぶ。
「あら、また隠れ食いをして」
窓際の木村利子の枕元から新聞紙を取り除くと、食べかけた饅頭が出てきた。
「糖尿病やから、決められた食事以外はあかんと言うてあるでしょ。奥山先生に叱られますよ」
利子は肥った体を縮めるように首をすくめた。奥山医師の名前を出されると弱いらしい。
「森定先生は好きなものを食べてもええ言うてくれてはりまっせ」
「糖尿病やから食事療法せなあかんに決まってるでしょ」
このことについては森定医師に尋ねたことがある。
「何のための食事療法や。糖尿病を治すためか。いくら食事療法をしても糖尿病は治らへんで。食事を制限して、食いたいものを食わんでも患者の寿命にはえらい違いはないやろ。どうせ先行き短い年寄りやんか。それなら生きてる間に少々なら食いたいものを食わせてやったらええがな」
奥山医師は大学で糖尿病を研究しているだけあって、食事療法には厳しい。利子の体重が減らないのは、冴子の監視の目が甘いからだと言う。
冴子は奥山医師の指示に従って、一応は利子の間食を注意するが、それを無理にやめさせる積りはなかった。
こうして検温がおわって冴子が病室を去ると、ハツエを除く五人は利子の回りに集まり、おしゃべりが始まる。うるさそうにハツエが寝返りをした。
或る日、冴子が自転車置き場に自転車を置こうとしたとき、奥山医師が慌ただしくバイクで乗り付けてきた。
お早うございますという冴子の挨拶に奥山はちらりと振り返り、
「あ、お早う」
と声を残して走り去った。こんな朝早くどうしたんだろう。普通、奥山医師はもう少し遅くに出勤してくるのである。病棟の詰所に入ると奥山医師が点滴の指示をしているところであった。
「片桐さん、奥山先生についてあげて」
出勤したばかりの病棟主任が冴子に声をかけた。冴子は点滴道具を持って奥山医師の後を小走りで追う。
大部屋にいる男の患者が肺炎を起こしそれが悪化したのである。患者は冷汗を流して喘ぐような呼吸をしている。その老人は目脂のついた眼で、すがりつくように医師を見ていた。奥山医師は器用に患者の静脈に針を刺し、点滴の流れを調整した。冴子は患者の腕を動かぬように包帯で固定する。鼻腔に管を入れて酸素を通す。
「ご苦労さん」
と言いながら奥山医師が額の汗を拭いた。端正な医師の顔が輝いて見えた。
「先生は、今日は朝早いですね」
「うん、僕のクランケ(患者)が悪いという電話があってね」
「先生も大変ですね」
「今日一日は目が離せへんな。ときどき見ていてくれへんか。僕はひとまず大学へ帰るから」
奥山医師に話かけられて冴子の胸が弾んだ。奥山は、京都の大学病院の医師で、アルバイトのパート出勤であるから病院に来る時間は不定期である。
冴子が看護師詰所に戻ると、池原主任と御園看護師が睨みあっていた。四十歳過ぎで独身の主任は、歳を隠すようにいつも厚化粧をしている。
「だから、森定先生の指示だと言ってるでしょ」
化粧のはげかかった唇が細かく震えた。
「でも、もうすこしこちらでケアすれば、地下病棟に落とさなくても済んだのではないの」
主任より五つ年下の御園看護師は二児の母である。仕事はできるが、子供にかまけて時々休むので主任とは折り合いが悪かった。
「誰がケアするの。この人手不足の状態で」
地下病棟という言葉を耳にして、冴子は議論に注目した。噂には聞いていたがまだ行ってみたことはない。
「地下病棟がどうしたの」
冴子は傍にいた先輩看護師に小声で尋ねた。
「男の大部屋の患者のボケ、いや認知症がひどくなったの。ほら、以前に行方がわからなくなって大騒ぎした人」
男の六人部屋の患者が行方不明になって病院中を探し回ったことは知っている。その患者は病院から百メートルほど離れた路上を歩いているところを保護された。酒を買いに出かけて帰り道がわからなくなったらしい。
「それと地下病棟とどんな関係があるの?」
あんた、知らないのとでも言うように看護師は表情を歪めた。
「ボケた患者や寝たきり患者は地下の病棟に移されるの。そこへいくと間もなくこれよ。だから地下病棟は地獄病棟と呼ばれているのよ」
看護師は手を合わせて念仏の真似をした。
新湊病院は老人病院であるから、入院患者の殆どは高齢者である。その当時の医療制度では、一般病院では高齢者の長期入院は難しかった。治療効果のあがらない老人患者はベッドの回転を悪くし、診療報酬も三ヶ月を超えると下げられて定額となる。病院経営にとっても老人患者の長期入院は得策ではなく、三ヶ月ごとに病院を盥回しにされる。しかしこれにも限度があり、入院できなくなった患者は、自宅介護の名の下に家族に犠牲を強いることになる。新湊病院のように、他の病院で見放された患者を長期に受け容れる医療機関は少ない。
森定医師と奥山医師がやってきた。
「森定先生、ゴンさんを地獄に落とすの?」
御園看護師は詰問するように言った。
「それがどうした」
「だって、ボケた、いや認知症といっても、まだそれほどひどくはないでしょ」
「こないだ行方不明になったやんか」
「それはこちらで気をつければ防げるでしょ」
「ゴンさんといえば、以前に肺炎で発熱した患者?」
奥山医師が口を挟んだ。
「そうや。半年前に先生が抗生物質の点滴をして助けた患者や。いらん事をしてくれたおかげでえらい迷惑や」
「肺炎を助けて何がいらんことですか」
奥山医師が口を尖らせた。
たった今も肺炎患者を助けるために抗生物質の点滴をしてきたばかりである。高齢者には嚥下障害が多く、誤嚥性肺炎は命取りになることが多い。
奥山医師が森定医師に向き直った。議論は看護師から医師同士に移行したようだ。皆は固唾を呑んで見守る。
森定医師はゆっくり椅子に腰を落とし、奥山医師にも目で椅子を促した。
「奥山先生は老人病院ちゅうもんがわかってないようやな。ここの患者はみな他の病院から追い出された患者や。中には家族の間を盥回しにされて放り込まれたのも居る。うちのような老人病院がなかったら、この患者はどうなるねん? 家に居るしかないやろ。それでは家族共倒れや。それを拾い集めてるのがここの老人病院や。普通の病院と同じように考えたらあかんで。ここの患者は、いわば人間の屑や。屑なら屑らしく扱うのが当然やろ」
「患者を屑やなんて、それはひどすぎる」
奥山医師の口から泡が飛んだ。
「捨てられたものは屑に違いないやろ。人間でも同じ事や」
「どんな患者にも人権が……、生きる権利があるはずでしょ」
「生きる権利、そりゃあるわさ。犬にも猫にも、ねずみにもある」
「それなら、どうして屑扱いするんですか」
「この病院で、普通の病院並みに患者を扱うたらどうなる? その費用を誰が出す? 患者か? 国か? まともにやったら赤字で経営が成り立たんような制度で、どうしてまともにやっていけるんや」
「そりゃあ、たしかに三ヶ月を過ぎると医療報酬は切り下げられて定額になるけど、だからといって肺炎の患者を助けることが余計なこととは思えない」
「けどな。あんたが使うた高価な抗生物質代は全部赤字になるんやで。老人医療が定額になっていることは知ってるやろ。余計なことをするだけ赤字になる。これは国が余計なことをするな言うてる証拠や」
「それなら、老人はどうなっても良いんですか」
奥山医師の顔色が青ざめてきた。
森定医師は、どうしようもないなという顔をして足を組み替えた。
「理想論はどうでもええ。現実論として、この病院の経営が成り立たなくなれば、屑のような病人の行き場がなくなる。家で家族共倒れになるよりは、ここで屑扱いになるほうがましなんや」
冴子は南蛮人を初めて見た日本人のような目で森定医師を見つめた。かりにも医師たるものが、患者を屑扱いし、患者を助けた奥山医師を非難していることは許せないことだ。
冴子は奥山医師の方に僅かに身を寄せた。そうしたところで奥山医師が優勢になる訳ではない。
「肺炎で死ぬ者は死ぬ。助かる者は助かる。自然の運命に任せたらええんや。あんたらは二口目には人命尊重と言うが、年老いて、苦痛に耐えてまで生きる必要があるんか。みな死ぬときには楽に死にたい思うているんや。ポックリ逝きたいと思うからこそポックリ寺が大繁盛しているんや」
「森定先生がそんな扱いを受けたら、自分自身でどう思いますか」
奥山医師の語気が弱まった。
「おれはこの通り、八十過ぎやで。とうの昔に定年で病院をやめたポンコツ医者や。まあ言えば、賞味期限の切れた医者の屑みたいなもんや。おれを雇うても戦力にはならんけどな。こんなポンコツを安い給料で雇わな経営が成り立たん。これが老人病院の現状や。おれくらいの歳になると、あんまり長生きしたいとは思わん。三十代、四十代の十年と七十過ぎてからの十年はまるで値打ちが違う。若いうちはわからんやろうけどな」
森定医師は立ち上がり、首の骨を鳴らしながら出て行った。
「くそっ、この老いぼれ医者」
御園看護師が悪態をついて、森定医師の後姿に舌を出した。
ハツエの病室でも地下病棟に落とされる患者の噂が話題になった。
「この部屋で地下病棟に落とされるのは誰やろ」
「増田さんや」
木村利子が無遠慮に言った。
「私は嫌やで。あそこは地獄病棟やろ」
増田さつきは慌てて上半身を起こした。
「あんた、ほとんど歩かれへんやろ。トイレも看護婦さんに付いて行って貰わなあかん。そんな手間のかかる患者が先や」
「付き添うたら歩けるんやからええやんか。あんたも隠れ食いばっかりして、そのうち脳卒中で倒れたらすぐ地獄病棟や」
増田さつきが言い返す。
「うちは地獄病棟には行かんからね。そうなったら退院する」
「退院して誰が面倒見てくれるねん。息子から捨てられて入ったんと違うんか」
そこへ冴子が顔を出した。
「また喧嘩して。この部屋はどうして仲が悪いんやろうね」
部屋にはいるなり、冴子は口論をさえぎった。
「増田さんを地獄病棟に降ろすんやろ」
木村利子がさつきを指さした。
「そんなことあらへん。ここからは誰も地下病棟には行きません」
「ほんまやな」
利子が声を荒げた。
「まあ、今のところはね」
冴子の語気が弱くなる。
「それみろ。いずれ歩けんようになったら地獄に落とすんやろ」
利子は勝ち誇ったようにさつきを見た。さつきはハツエを見る。地下病棟の候補はハツエだと主張しているようだった。
地下病棟が地獄病棟と言われている事だけは聞いているが冴子は地下病棟に行ったことはなかった。これは患者でも同じことだ。地下病棟は、認知症や寝たきりになると落とされる恐ろしいところという認識しかない。地下病棟に行くには階段ではなくエレベーターを使う必要があり、その扉を開けるにはパスワードの番号を入力しなければならない。従ってパスワードを知らされていない関係の無い者が勝手に出入りすることは出来ない。
ハツエはベッドから下りて歩いてみせた。トイレには杖を突きながら行けるが、歩行練習を怠ると足の力が無くなって来る。
「あら、花村さん。歩行練習ですか。気をつけてね」
近寄って冴子が手を貸した。
「ちょっと下の売店まで行きたいんやけど」
「何か買い物なら、私が買ってきますよ」
「いや、自分で行く」
ハツエは冴子の手を振り払った。
一歩一歩踏みしめるように、手すりを持って階段に足を乗せる。乗せたつもりの足が外れてよろめいた。心配してついて来た冴子の手が体を支える。
「やっぱり一人では無理やわ。これから下りるときは私に言ってね」
冴子が付き添って売店に行き、ノートとボールペンを買った。
「これに何か書くの?」
「俳句でも書こうかと思ってね」
「俳句を作るんですか。すごいですね」
「女学校のころ、ちょっとやっただけやけどね」
ハツエとこれだけ会話を重ねたのは初めてである。
部屋に戻ると、ハツエはノートを見せびらかすようにめくって見せた。足も頭も大丈夫で、地下病棟落ちではないことの示威をしているようだった。
それからは、毎日冴子の手を借りながら歩行練習をして、歩行は少し上手になった。
「一人で階段を下りては駄目よ。必ず、私に言ってね」
万が一、階段で転んだら大変である。命にかかわるし、また骨折しても寝たきりとなる。
「その後、俳句は作っていますか」
病室を見回ったとき冴子が尋ねてみた。
「ぼつぼつやけどね」
ハツエはノートを開いて冴子に見せながら、他の患者を見回した。どうや、俳句を書くなんてお前らには出来んことやろうと言いたいのだろう。
ある日、冴子は主任に呼ばれた。
「あんた、花村ハツエさんの歩行練習をしているんやてね」
「そうですが」
「なんでそんな余計なことをするの」
冴子は呆然として主任の厚化粧の口元を見つめた。奥山医師の抗生物質使用は経費がかかり、その分が赤字になる。しかし、歩行訓練は経費には関係がない。
「花村さんがもっと歩けるようになったら良いと思ったので」
「歩けるようになってどうするの。旅行でもさせるつもり?」
誰だって歩けないより歩ける方が良いに決まっている。この病院ではその当然の理屈が通らないのか。黙り込んだ冴子に主任はもう一度、余計なことをしないで、と言った。
ハツエの隣の増田さつきが失禁していた。尿意を催してトイレに間に合わなかったのである。さつきは尿が漏れたことを隠していた。やがて悪臭が立ち込めるようになって露見したのである。
報告を受けて池原主任がやってきた。
「とりあえず、紙おむつをしましょうか」
冴子が主任の指示を仰ぐように言った。
「そうしてちょうだい。あとの処置は森定先生と相談するから」
さつきの顔の皺が顔の中心に集まり、縋りつくような眼差しで主任を見上げた。
「これ以上失禁が続くようなら……」
主任の語尾は聞き取れなかった。
冴子はベッドのシーツを取り替え、さつきの尖った尻に紙おむつをつけた。
隣にいた利子も怖いものを見るようにおどおどしていた。離れた部屋に起こったと思っていた現実が、自分達の部屋にも襲いかかろうとしている。
「いつから失禁してたんや」
回診してきた森定医師は隣の利子に尋ねた。
「だいぶ前からや。もう一週間にはなるやろ」
「そんなことない。昨日からや」
慌ててさつきが利子を睨んだが、声は抜けた歯の間から漏れて、言葉としては半分も聞こえなかった。
「もうちょっと様子を見て、失禁が続くようなら」
と森定医師は主任の顔を見た。
「地下病棟ですね」
池原主任の言葉に森定医師は答えず足早に立ち去った。
数日して奥山医師が回診してきた。
「失禁してるんやて?」
「とりあえず、紙おむつをしています」
付いてきた冴子が答える。奥山は顔を曇らせた。ゴンさんのことを思い出したのかもしれない。
「気をつけて。褥瘡ができると困るからな」
奥山医師はハツエの方を向いた。
「どうですか。歩けますか」
打腱槌で膝頭を叩きながら尋ねた。膝がばねのように跳ね上がる。
「歩けます」
ハツエは素直に答えた。
「歩く練習を怠るとすぐに筋力が衰えるからね」
「それが……」
冴子は躊躇した。池上主任に歩行訓練を叱られている。それは患者の前では言えないことだ。
奥山医師は気にもとめず利子に近寄った。
「体重はどうやねん」
カルテを受け取り、あかんと声を高めた。
「また体重が増えてるやんか。六十四キロやったら、前より三キロ増えている。その身長やったら五十キロ以下にせなあかん」
「森定先生は体重のことは何も言いませんけど」
利子は不服そうに言った。
「あんた、糖尿病やろ。あんまり運動ができんのやから、せめて食事療法だけでもしっかりやらなあかん」
「でも、森定先生は」
利子は言葉を切った。
冴子には利子が言いたいことはわかっている。森定医師は、好きなものを好きなだけ食べたらええやんかと日頃から言っているのだ。
「森定先生がどう言おうと、大学では僕は糖尿病の専門家やで」
利子は黙り込んだ。
「君がちゃんと監視しとかなあかんやないか」
奥山医師は振り返って冴子に言った。
冴子は利子に目配せをした。奥山先生の言うことを聞きなさいという意味だった。素直にはいと返事しておけば奥山医師は納得する。
奥山医師と森定医師と言うことが食い違っている。純粋に医学的に考えれば奥山医師が正しいことは明らかである。しかし、医学的に正しいことがすべてだろうかと思う。利子にとっては食べることが唯一の生きる楽しみであろう。森定医師が言うように、その楽しみまで奪って厳重な糖尿病の食事療法をすることが利子の人生にとってどれほどの益があるのだろうか。医療人としてそのように考えるのは間違いかもしれないが、冴子には森定医師の気持ちもわかるような気がした。
「先生、私は地獄病棟ですか」
増田さつきが声をかけた。
奥山医師は振り返った。
「そんなことはない。大丈夫や」
「地獄病棟いうとどんなところですか」
奥山医師と冴子は顔を見合わせた。
「地下にあるだけで普通の地下病棟ですよ」
「そんならどうして地下病棟に落とすんやろうね」
秋が深まると病院の周囲には紅葉が鮮やかな彩を添える。
冴子はハツエを車椅子に乗せて、病院の庭を散歩していた。
「増田さんはどうしているやろ」
ハツエは振り返って尋ねた。
「さあ、どうしているんやろうね」
冴子は言葉を濁した。
増田さつきはあれからしばらくして地下病棟に落とされたのだ。
その日のことを冴子は忘れることはできない。
寝台車に載せて、パスワードのメモを見ながらエレベーターで地下二階に下りると、独特の悪臭が漂ってきた。
廊下では補助婦が待ちうけていた。看護師の資格を持たない、掃除などの雑用をするのが補助婦である。医療行為をする資格は持っていないから、安く雇える。地下病棟では、患者は補助婦が扱っていた。
補助婦が寝台車を押そうとしたとき、さつきが泣きながら冴子の方に手を差し伸べた。助けを求めるようだった。思わず数歩、寝台車に従って歩いた。
病室の窓から何かが飛んできて寝台車を飛び越えて廊下に落ちた。
補助婦が舌打ちをした。見ると大便の塊だった。重症の認知症患者は、手で大便を掴んで投げあうことがある。そのような事の理非を判断する能力を失っているのだ。地獄のような劣悪な環境に身の毛がよだつ感じがした。
こんなところに増田さつきを落とすなんて。それを指示した森定医師や池原主任に、どうしようもない怒りが込み上げてくる。
「あんたはもう帰ってんか」
邪魔だとでも言うように補助婦が寝台車を押す足を速めた。
冴子は足を止めて、地下病棟の奥に去っていくさつきの寝台車を呆然と見つめた。助けを求めるように手を差し伸べている姿がいつまでも目に残った。
「まだ元気にしているやろうか」
ハツエは地下病棟が地獄病棟と呼ばれている悲惨さを知らない。冴子は、さつきが地下病棟に落とされて間もなく死んだと聞かされていた。そこに落とされた患者は、数ヶ月で死ぬと言われているのは本当だと思った。さつきのように、認知症がない患者なら尚更死期が早まるだろう。正常な神経の人間が堪えられるところではない。
ハツエの膝の上に枯れ葉が落ちて止まった。ハツエはその葉を手に持って透かすように眺めた。
「人間はいつか死ぬんやね」
冴子にはまだ死の実感はないが、人間はいつかは年老いて、落ち葉のように命を終わるのだ。すでに枯れ葉になったハツエの年齢では、間もなく木から落ちることを予感しているに違いない。
午後の陽射しがが弱くなってきた。
「冷えるとあかんから帰りましょう」
冴子は車椅子を押す速度を速めた。
「ちょっと待って」
車を止めさせてハツエは降りて歩こうとした。
「気をつけて。転んだら大変やから」
ハツエは車椅子にすがりながら歩き始めた。
「歩けさえしたら地下病棟に落ちることはないんやろ」
息を弾ませながら一歩一歩足を運ぶ。
偏狭と思われていたハツエも、冴子にだけは心を開いているようだった。
「もう車に乗って帰りましょう」
ハツエは素直に従った。
「やっぱり、外は良いねえ」
ハツエは周囲を見回しながら言った。
冴子がハツエを部屋に戻すと、息子の洋三が来ていた。ハツエが入院して初めての事だった。
「実は、遺言書を書いてほしいんやけどな」
洋三は卑屈な笑い顔で言った。
「何の遺言書や」
「お母さん名義の土地と家の名義を俺が相続するという遺言書や」
「わてが死ぬの待ってるんか」
「そんなことやない。いずれお母さんがここを退院したら俺が面倒を見ることになるやろ」
「ふん、面倒見るのが嫌やからここへ入れたくせに。財産だけは独り占めにするつもりか」
「そんなことやない。いま先生に会って話を聞いてきたんや。もうちょっと歩けるようになれば退院ができるかもしれん」
「退院したらわての面倒見るのはほんまやろな」
「ほんまや。俺がちゃんと面倒見るから」
「遺言書って、どないするんや」
「この書類に名前を書いて判を押してくれたらええんや」
ハツエはボールペンで名前を書き、判を押した。
「これでええんや」
洋三は満足そうに紙を眺めてポケットに仕舞った。
「花村さんはええなあ。退院するところがあって」
利子がうらやましそうに言った。
「ふん、どうせ出任せを言うたに決まってる」
ハツエはそっぽを向いた。
冴子が詰め所に帰ると森定医師がいた。
「花村さんは近く退院できるんですか」
「だれがそんなことを言った? おれは知らんで」
「息子さんが先生から聞いたと言っていましたが」
「知らんな。おれは息子とは会うてないで」
洋三がハツエを騙して遺言書を書かせたのだ。
年が明けてハツエにアクシデントが起きた。冴子の居ないときに売店に行こうとして階段で転んだのである。悪いことに足を骨折している。この年で足の骨折は寝たきりを意味する。
「花村さんをどうしますか」
池原主任は地下病棟に落とすつもりだろう。
「しゃあないな」
と森定医師が答えた。
「ちょっと待って下さい。地下病棟に落とさなくても、息子さんが引き取りますよ」
冴子はハツエを地下病棟に落としてはならないと思った。
「息子が引き取る? そんなことは聞いていないな」
「一度連絡して確かめて下さい」
あの時、息子の洋三が確かに言ったのを聞いている。冴子の懸命な訴えで、池原主任が洋三を呼んだ。
森定医師は洋三に椅子を勧めた。
「花村ハツエさんはお気の毒に足を骨折しましてな」
「いま、病室を覗いて見てきました」
「このまま病院に置くか、家に連れて帰るか。どちらにしますかな。病院に居るなら、地下病棟に移って貰いますがね」
「地下病棟に移ったら、花村さんはすぐに死んでしまいますよ。あそこはひどいところです」
冴子は必死だった。洋三がハツエに遺言書を書かせた時に約束している。洋三がハツエを引き取るべきだ。
「こら、変なことを言うな」
森定が叱った。
洋三は白い目を冴子に向けた。
「まあ、お袋も年ですからな。そう長くはないでしょう。病院でよろしくお願いします」
冴子は洋三に詰め寄った。
「花村さんに遺言書を書かせた時に言ったことを覚えているでしょう」
「さあ、べつになにも言っていませんがねえ」
洋三がとぼけた。
「他人の家庭の事情に口出しするな」
森定医師が鋭く叫んだ。
確かに、洋三とハツエの約束は、家庭内の出来事で他人が口出しする事ではない。
冴子は涙ぐんで唇を咬んだ。もはやどうしようもない。
奥山医師が来ていた。
「奥山先生」
冴子が涙声で言った。奥山医師は口を固く結び手を震わせた。
実の母親ではないか。これが実の母親に対する仕打ちなのか。
洋三が去り、詰め所では池原主任と森定医師が打ち合わせをしていた。冴子と奥山医師は立ち去るきっかけを失って立ちつくしていた。
「まあ座れや」
森定医師は奥山医師に空いている椅子を指した。
「世の中にはな。金のために親を殺す者がいる。子供を殺す親もいる。これが今の人情や。おれも、好んで患者を地下病棟に落とす訳やない。地下病棟がどんなところか知っているやろ。地獄病棟や。人件費を節約するために看護師やのうて補助婦だけや。これは医療法に違反してるんや。けど、そうせな、病院の経営が成り立たん。これが今の病院経営の実態や。家に帰しても誰が世話をする? 一家共倒れやで。老人が長生きし過ぎたのがあかんのや」
「そう言っても、死ぬとわかっている地下病棟に落とすのは殺人と同じですよ」
奥山医師が口から泡を飛ばせた。
「君は大学病院の医者やから知らんやろうけどな。治る見込みのない患者を三か月以上入院させていると、入院の保険点数が定額になって大幅に減るんや。それを承知でこの病院は三か月以上でも入院させている。経営的には大きな損失や。そやから他所の病院は三か月毎に患者を盥回しにしている。うちの病院はその点良心的なほうや。それでもそれには限界がある。介護に手間がかかるようになると、コストのかからない地下病棟に落とすか、退院して家族が面倒をみるかの選択しかないんや。退院させて、会社勤めの子供が会社をやめて介護するんか。その家族の生活はどうなるんや。八十歳の年寄りが九十歳の面倒をみるんか。老老介護に疲れ果てて患者を殺して自殺する高齢者が跡を絶たない。これをどう思う? これこそ政府の責任や。うちの地下病棟を非難する権利は政府にも誰にもないはずやろ。国が老人介護の制度を真剣に考えたらこんなことにはならんのや。法律を作っただけで何も実行してないやんか」
確かに、昭和三十八年に老人福祉法が制定されているが、それは法律だけで実効を伴うものではなかった。
「政府がもっと沢山の老人ホームを作って、介護を要する老人の面倒を見る必要があるんや」
森定医師のこれほどの熱弁を聞いたことはなかった。奥山医師はこぶしを握り締めてうつむいた。森定医師は更に続ける。
「おれが若い頃はな。病院から毎日往診に行ってたもんや。年寄りはやぱり自分の家で死にたい思うてるからな。夜通し患者の家に居たことも何度もある。今の病院で夜通し往診してくれるところがどれだけある? 自分の家で家族に見守られながら死ぬのが一番幸せやろ。しかし、若者が減って年寄りばかりになった今はそれを望むのは無理やないか。昔は、年寄りの面倒は子供や孫が見るのが普通やったんや。今の高齢者社会、核家族社会でそれを望むのは無理な話や。理想論を振りかざしても解決せん問題や」
森定医師が立ち上がった。
「おれもいずれは、地獄病棟で死ぬことになるやろ。それでええんや」
森定医師は、首を鳴らしながら冴子を見て笑った。
「奥山先生、森定先生の言うことどう思います?」
森定医師が去ったあと、冴子は奥山医師に尋ねた。
うーんと腕を組んで、奥山医師はしばらく黙ったあとぽつりと言った。
「理屈と現実がこれだけ違うとはね。森定先生を非難しただけでは解決しないやろ。これからもっと老人医療を考えなあかんねえ」
ハツエを地下病棟に移す日、ハツエは一枚の紙を取り出した。
「これを預かって貰えんやろか」
「なに?」
冴子はなにげなく受け取った。
「遺言書や。わてが死んだらこれを公表してほしいんや」
思わず紙面を見た。遺言書と題して、ハツエらしい几帳面な文字が並んでいる。
「遺言書はこの間息子さんに渡したやないの」
「それを書き直したんや」
ハツエ名義の土地、家屋、預貯金はすべて介護老人ホーム設立のための慈善団体に寄贈するというのだ。
「これでは息子さんが困るんではないの」
「洋三はわてを見捨てた。遺産が欲しいばっかりにわてが早よう死ぬことを望んでるんや。わてはもうすぐ死ぬやろ。洋三の思うままになってたまるか。もっと年寄りを大事に扱う、地下病棟のいらん施設を作って欲しいんや」
唇を噛みしめ、吐き捨てるように言うハツエの顔は夜叉の形相だと思った。
ハツエは地下病棟に落ちて間もなく死んだ。
「やあ、お袋がえらくお世話になりまして」
知らせを受けた洋三は、愛想笑いをしながら森定医師に頭を下げた。
森定はそばにいた中年の男を紹介した。
「この人はうちの顧問弁護士や」
「弁護士? 入院費用は全部支払いますが」
弁護士と聞いて洋三が意外そうな顔をした。
「遺言書や。ちゃんと公証人の証明もついている」
「お袋の遺言書なら、持っていますがね」
「遺言書は、一番新しいのだけが有効なんですよ」
弁護士が遺言書を洋三に見せた。
「そんな馬鹿な……」
「相続には遺留分というのがあって、それはもらえますがな。そのほかは全部寄付することになりますよ」
遺言書の文面を見て、洋三が絶句した。
「子は親を捨て、親は子を捨てる。これが今の世の中や」
森定が首を鳴らして笑った。
☆ ☆
新湊病院は、地下病棟という違法行為が問題となり閉院することになった。その跡地の一部に建てられたのが特別養護老人ホームのあかつき荘である。その設立資金にはハツエの寄贈した遺産も使われている。
冴子は自分の生涯を老人介護に捧げようと決心して、このあかつき荘に勤務している。あかつき荘には地下病棟が無いことは勿論である。
山の上クリニックの老医の言葉を聞いて、森定医師と若い奥山医師とのやり取りを思い出したのは、この新湊病院で二十年前の地獄といわれた地下病棟の事件があったからだ。
糖尿病患者が甘いものを隠れ食いしたことで森定医師と奥山医師が言い争ったことを思い出す。その時は、奥山医師の言い分が正しいと思ったが、森定医師の言うことも否定できないと感じたことを思い出す。
いま、あかつき荘に訪問してきた老医が、食塩制限食の高血圧老人が塩せんべいを隠れ食いしていることを咎めないことで、老人の気持ちは老人にしかわからないことを痛感した。
「赤根トキヨさんは同じ部屋の入所者との折り合いが悪いようですね」
担当の看護師が愚痴るように言った。
「諦めずに、気長に接することね」
「私にも反抗的なんですよ」
冴子は昔の花村ハツエを思い出した。顔も似ているような気がする。どんなに気難しい人でも、こちらが誠意を持って接すれば必ず心を開いてくれるようになる。これは冴子がハツエから学んだ教訓であった。年寄りの気難しさは、年寄りになったつもりで考えなければ理解できない。ハツエは俳句を趣味としていたが、トキヨには何か趣味は無いのだろうか。トキヨの心を開くには、趣味を理解することが必要ではなかろうか。
おそらく、トキヨは無口な、もともと無愛想な性格に違いない。だから、誰とでも笑顔で迎合できる性格ではなかろう。でも共通の趣味があれば、その趣味を通じて交わることが出来る。これは長年の間に冴子が経験したことであった。
あるとき尋ねてみた。
「赤根さん、カラオケはお好きですか」
あかつき荘には簡単なカラオケ室がある。時々そこでカラオケを楽しんでいる人が居る。冴子も仲間に入ってカラオケをすることがあった。
「カラオケはめったにしませんが、詩吟なら三十年以上前からやっています」
「詩吟が出来るなら、声を出すことは得意でしょう。皆と一緒にカラオケを楽しみましょうよ」
車椅子の人でもカラオケ室までやってきてカラオケを楽しんでいる人は多くいる。トキヨの同室の入所者にもカラオケが好きな人は居る。カラオケは老化防止の手段になるし、発声することは高齢者に多い嚥下困難を予防することになるので、このホームでは奨励しているのだ。
ある日、冴子はトキヨをカラオケ室に連れ出しカラオケを歌わせてみた。詩吟で鍛えたのだろう。張りのあるよい声だと思った。
次の機会にもカラオケ室に集まったときにトキヨを連れ出した。冴子に勧められてトキヨが昭和時代に流行った演歌を歌った。さすがに高音の張りが素晴らしく、詩吟で鍛えた小節も良く回っている。
「トキヨさん。上手いやないの」
感心するように言ったのはトキヨと同室のカラオケ愛好者だった。
「これからみんなと一緒にカラオケをやりましょう」
同室の他の入所者からも声がかかった。
「カラオケって楽しいですね」
トキヨも褒められて嬉しかったらしく笑顔を見せた。
そして誰よりも喜んだのは冴子だった。カラオケという趣味を通じて、同室の入所者と仲良しになるとすれば、高齢者の生きがいとしてこれほど結構なことは無い。
それ以来、冴子が回っていくと同室の入所者の雰囲気が変わっていた。
ふと、二十年前の新湊病院で、もしこのようなことが出来ていたら、誰も地下病棟に落ちることは無かったのではないかという悔やみが心をよぎった。
春になった頃、施設長が山の上クリニックに挨拶に行くということで、看護師主任として冴子も同行することになった。
市内中心部の住宅街に、四階建ての立派なビルが建っている。その裏手には十数台を収容できる駐車場があった。診療所としては、規模の大きいクリニックで、内科や人間ドック、検診を中心としてこの地域の中核医療機関の役割を果たしている。
応接室で待っていると院長が入ってきた。その顔を見て冴子は思わず立ち上がった。
「奥山先生? 新湊病院に居た奥山先生ではありませんか」
「院長先生を知っているのか」
施設長は怪訝な顔で尋ねた。
院長もしばらく冴子を見つめ、笑顔を見せた。
「片桐冴子さんですね。あかつき荘にいたとは偶然だな」
院長が椅子に腰を下ろしたとき、老医が入ってきた。
「やあ、片桐さん。お久しぶりですな」
「北川先生、片桐さんをご存知でしたか」
奥山院長が不思議そうに尋ねた。
北川老医師は院長の隣に腰を据えた。
「去年の秋、何度かピンチヒッターで狩り出されましたからな」
院長の説明によると、数年ほど前、北川老医師が院長のときに奥山医師が後任の院長として引き抜かれたのだという。北川院長は、老人医療に深い関心を持っている奥山医師に目をつけていたのである。高齢化の時代、老人医療をもっと充実させ、老人の福祉に貢献したいと日頃から考えており、クリニックとして老人医療と訪問医療の分野に進出しようと考えていた。そこで、糖尿病を中心として老人医療にも造詣の深い奥山医師を三顧の礼を以って院長として招聘したと言う。
「何しろ、北川先生は僕の大学の大先輩ですからね。強引に説得されました」
奥山院長は微笑みながら言った。このような次第で、奥山院長になって懸案だった訪問医療が実現したと言う次第であった。
しばらくあかつき荘の現状について話が交わされた。北川医師は所用があるとのことで席をはずした。
「新湊病院に居た頃は、森定先生はひどい医者だと思っていましたがね」
奥山院長は遠くを見るような目で言った。
「私もそう思いました。奥山先生と森定先生は何度も対立していましたね」
と、冴子は頷いた。
「その頃は僕も若かったからね。今では森定先生の気持ちは良くわかりますよ。でもね、あの地下病棟だけは今でも許せないと思っている」
「あれは悲惨でしたね。地獄だと思いましたよ」
「でも、それをしなければ病院経営が成り立たなかったのは、やはり政治の責任だろうかねえ。僕は医療を行うものとして真剣に取り組む必要があると思ったね」
「それで先生は老人医療を専門にされたのですか」
奥山院長は苦笑した。
「糖尿病を専門にしていると、高血圧や脂質異常症のような、高齢者に多い疾患を扱う必要があるからね」
冴子は新湊病院で奥山医師が糖尿病の患者が隠れ食いをしていることを強く禁止していたことを思い出した。
「今の奥山先生なら、高血圧で減塩食の高齢患者が塩せんべいを隠れ食いしていたらどうしますか」
「昔の僕ならすぐに禁止しますがね。今なら大目に見ます。公然と許可するわけには行かないだろうから、そこは看護師の君たちが上手にやって貰いたいですね」
「その頃の森定先生と同じですね。ここの北川先生も全く同じ事を言われました」
二人は声を合わせて笑った。
ふと、テーブルの上に載っている冴子の名詞をとって、
「片桐冴子といえば昔のままですね。結婚はされなかったのですか」
奥山院長が尋ねた。
「一度結婚したけど離婚しました。私はバツイチです」
冴子は笑って答えた。
「そうですか。今はお独りですか。それなら……」
奥山院長は一度言葉を切った。
「実は僕も三年前に妻に死なれて独りなんですわ。男が独りで残されると不便でかないませんね。お暇があれば時々話に来てください。貴方と一緒に老人医療に取り組みたいですね」
仕事の話が途切れたのをきっかけとして施設長が腰を上げた。
冴子は、帰りの車の中で奥山院長の言葉を反芻してみた。冴子が独り身と聞いて、彼は僕も独りと言った。これはどういう意味だろうか。二十年前に奥山医師に対すると胸がときめいたのを思い出した。私の胸は今もときめいているではないか。時々話しにきてくれとは、まさか、と打ち消しては見たのだが……。
それから一ヶ月ほどして、吉岡医師の代わりに奥山院長が来所した。
「片桐冴子さんの顔を見たくてね。今日は吉岡先生に代わってもらいましたよ。これからも時々来たいですね」
奥山院長の笑った顔が若々しく見えた。私だって毎日でも会いたいと冴子は思った。
そしてその先どうなるのか。冴子の口からは言えない。
了
執筆の狙い
地下病棟は実在ではありませんが、若い頃病状の固定した老人患者は地下にある病棟に移すという話を聞いたことを思い出して地獄病棟を作り上げました。